2005年12月05日(月) <<前日 | 翌日>>
起床時刻: 14時00分
今日の気分(本文)
・ロックにはムードがない
ふつう映画のサントラは何かムードを出せるように胡弓(中国のヴァイオリンみたいな楽器)を使ったりしてムードを出そうとしているけれど、古典的なロックはそういう曲のムードなしで聞かせようとする。例えば女の子を部屋に呼んだときにムードミュージックとして古典的なロックをかける奴はまずいないだろう。たとえ女の子が古典的なロックを好きだったとしてもかける人はあまりいないのではないだろうか。もしかけるたとしたら、二人でじっと音楽を聞くことになると思う。つまり、古典的なロックにはムードがないのである。
・ロックと映画。
そういう音楽は概して映画に持ち込みづらい。「害虫」はナンバーガールに曲を担当してもらっていたけれど、なんか音楽だけが浮いてダメだった記憶があるし(ほとんどうろ覚え)、そもそもロックと映画は相性が悪いのだ。「害虫」の場合意味のありすぎる映像を使ったからダメなのだと思う。ヴェンダースの「さすらい」は成功していたと思う。見渡す限り何もない田舎道をトラックに二人のおっさんが乗っているときに、ラヂオからキンクスの曲が流れて、二人は曲をくちづさむのだけどこれは成功していると思う。なんせ映像自体がもとから大した意味がないのだ。だらだらと運転してるおっさんと助手席の暇なおっさんは歌を歌う。いきなりバックミュージックとしてロックがかかるのではない。たまたまラヂオからかかったロックをおっさんが歌いだすのだ。これは映画である。観客もそうそうロックはこういうふうにして聞くものなのだよなと納得させられる。ロックではないけれど、「ママと娼婦」ではジャンピエールレオーの部屋に彼女と一緒に座っていてラヂオからシャンソンがかかるとレオーが得意げな顔をして歌いだすというシーンがある。これもやはりラヂオから音楽が流れる。この音楽も成功していると思う。「さすらい」も「ママと娼婦」も音楽はムード音楽として使われるわけじゃないのだ。悲しいとか、楽しいとかを音楽で表現したいのではないのだ。ロックはそういうものではなくて乗るもなのなのだ。だから映像と音楽がばらばらにされてしまうと映画にも乗れないし、音楽にも乗れない。そのため映像と音楽はMTVのように音楽のための映像にするか、あるいはハリウッド映画のように映画のための音楽にしなきゃいけない。そこで映画として音楽を映すにはなぜロックがかけられることになったのかを映さなければならない。だから「害虫」の失敗はそこだと思う。どうせならナンバーガールに出演してもらって、工場前でライブでもしてもらえばよかったのだ(もうどんなシーンだったか覚えてくて、すごく無責任な発言ですけど)。
・ゴダールと音楽
ちなみに音楽について思考した映画で「右側に気をつけろ」と(ゴダール)いう映画がある。この映画では主人公が音楽のレコーディング風景が撮られている。まだ完成するまえのバラバラな音の断片として音楽が聞こえてくる。楽器を演奏する演奏者はレコーディングしている人としても見れるし、音楽を演奏している人にも見れる。ここでは「さすらい」のように我々が聞いている音楽ではない、音楽のプロセスを映しているという点で、音楽を映す映画よりもさらに深い、音楽について考えさせる映画を撮っているといえるだろう。
そういえば爆音ナイトでかかったアサイヤスの「デーモンラヴァース」のノイは凄まじかったなといま思い出した(関係ないけど)。あの使い方は「さすらい」とはぜんぜん違うけど、ノイのリズムと映像の編集のリズムが調和してすばらしかったと思う。
ああ、あと、ロックじゃないけど、相米慎二は天才だと思う。なにせ歌謡曲がいきなりかかって突然少年少女たちが踊りだすのだ。「台風クラブ」の学校のプールでの踊りは映画史に残るワンシーンだと思う。
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