20070327(火) <<前日 | 翌日>>

起床時刻: 04時00分

今日の気分(本文)

 昨日は午前にこれまでに書いた早起き日記を読み返し、真剣にヨガに取り組もうとしていた日々を思いだし、元気をすこし取り戻す。午後、子どもと妻のコナミスポーツでの体験レッスンを待つ間、書店にて禅関連書2冊、現代仏教書1冊購入。いずれもいまひとつだったが、修行の厳しさ、日々の鍛錬の必要性は伝わってきた。翌日から早起き習慣を復活させるべく、気合いを入れる。午後、牧の原緑地公園を妻と子どもと散歩。夕方、植田のカフェにてはやめの外食。春の陽気のなか、とてもぜいたくなリラックスした時間をすごす。とにかく早寝をこころがけ、子どもを早く風呂にいれ、9時には寝室へ。ゴエンカ氏の本を読み、9時半に就寝。
 なんとか目覚ましどおり4時に起床。日記を読み直すとこの2〜3週間くらいのスランプのようだが、自分のなかではとても久しぶりの早起き。洗面、排便、鼻うがい、ゴエンカ氏の本を少し読み、4時45分から呼吸法(吸8秒、止32秒、吐16秒を左右1ラウンドとして5ラウンド)、瞑想20分。5時20分すぎから本当に久々のフルプライマリ―の実践(今月5回目、通算111回)。いつものチェックポイントに加え、日曜日に瞑想ワークショップで習った、後頭部からからだを観照するような感覚で、また「わたしは肉体ではない」「わたしは感情ではない」「わたしは思考ではない」という意識から見つめる感じでアーサナに取り組む。久々で固いすじもあったが、「わたしは肉体ではない」という意識を保ちつつ、その状態、変化を離れた場所から見つめていった。終盤で子どもが泣き出したが、7時ごろ無事終了。
 本日読み返していたゴエンカ氏の心に響くメッセージ。
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 じっと呼吸に集中している瞬間、心は渇望から自由であり、嫌悪から自由であり、無知から自由である。心が純粋になったときは、たとえそれがほんの一瞬であっても、非常に強力である。その瞬間、心は過去の条件づけに挑戦するからだ。心の奥底に積もり積もった反応(サンカーラ)が掻きまわされ、それがからだや心のさまざまな困難になってあらわれ、気づきを強めようとしている瞑想者の邪魔をするかもしれない。もっといい瞑想ができないだろうかといらだつのは、渇望の一つのあらわれである。また、思うように瞑想ができなくて、怒りや落胆という形で嫌悪が姿をあらわすことがある。ときには無気力におそわれ、瞑想しようと思ってすわったとたん居眠りを始めることもある。心がひどく動揺し、からだをせわしなく動かし、瞑想をやめる口実をさがしたりすることもある。あるいは、先生やその指導法、自分の瞑想能力などに対して不可解な疑いにとりつかれ、瞑想する意志が萎えてしまうこともあるだろう。いきなり、そうした壁にぶつかると、もう瞑想など放り出したくなる。
 そんなときは、呼吸の瞑想がうまくいっており、そのためにいろいろな困難が生じているのだ、ということを理解する必要がある。辛抱づよく瞑想をつづけていれば、そうした困難は消えていく。すると瞑想がずっとらくになる。瞑想の初期の段階であっても、表層の心の条件づけが取り除かれるからである。だから、呼吸の瞑想をするだけでもかなり心が浄化され、解脱へ向かって前進できる。『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』春秋社、pp.104-105
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 最近、すこしヨガに気のりしなかったのは、花粉症、春休みということに加え、修習と離欲のうち、後者に力点を置きすぎたためでもあるかもしれない。ガンガジ、あるいはクリシュナムルティの説く努力、方法の放棄はもっともな点があるが、かなり上級者向けのメッセージのような気がする。私にはしばらくは努力、修練が必要だ。それはそうとして明日も早起きできるだろうか・・・。本日、項目執筆、4月からのいくつかの仕事の準備に専念する予定。

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