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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:05:00 平均起床時刻:06:08

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04月29日(水)

起床時刻:05時20分

04月28日(火)

起床時刻:07時30分

04月27日(月)

起床時刻:04時56分

04月25日

起床時刻:08時20分

NHK 100分de名著 スピノザ「エチカ」第四章読了

17世紀は,思想的なインフラを整備した時代

実に,光が光自身と闇とを顕わすように,真理は真理自身と虚偽との規範である(第二部定理四三備考)

デカルトの真理観の特徴は,真理を,公的に人を説得するものとして位置付けているところ。スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっている。

何事かを認識することは,その何事かだけでなく,自らの認識する力を認識することでもある。
自分を知ることは自分に何らかの変化をもたらす。つまり,何かを認識すること,真理を獲得することは,認識する主体そのものに変化をもたらす。

フーコーは『主体の解釈学』という講義録の中で,かつて真理は体験の対象であり,それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘している。ある真理に到達するためには,主体が変容を遂げ,いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。
この考え方が決定的に変わったのが17世紀であり,フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいる。デカルト以降,真理は主体の変容を必要としない,単なる認識の対象になってしまったという。フーコーはしかし,17世紀には1人例外がいて,それがスピノザだと言っている。スピノザには真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけだ。これは実に鋭い指摘だ。

AIについて,私(國分さん)はすこし別のところに器具を抱いている。それはAIが人間に近づくことではなく,人間がAIに近くこと。人間そのものがアルゴリズムのように扱われている。そこでは労働を経ながら,労働者の主体がすこしずつ変容するというプロセスは無視されてしまう。「熟練」という言葉は死語になりつつある。

社会が人間に「アルゴリズムになりなさい」と命じているような状態がある。

ドゥルーズは,哲学とは概念を創造する営みだと行った。哲学者はある問題に直面し,それを何とかしようとして概念を創造する。そうした概念の連なりが哲学の歴史。

哲学を学ぶ際に一番重要なのは,哲学者が作り出した概念を体得し,それをうまく使いこなせるようになること。たとえば,組み合わせとしての善悪の概念を使って物事を判断できるようになる。必然性としての自由の概念から教育について考えてみる。

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04月24日(金)

起床時刻:07時40分

二度寝してしまった。やはり,夜まで起きてたら,朝なかなか起きれないなぁ。夜潔く寝ることが必要なのかも。

忙しくなると,なんだか色々乱れて,自分を取り乱す感じ。すべてのリズムがそこに持ってかれて,乱れてしまう。これ,どうにかならないかなぁ。

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04月23日(木)

起床時刻:05時07分

04月22日(水)

起床時刻:05時57分

04月21日(火)

起床時刻:06時34分

また起きるとき変な感じだなぁ。色々なモヤモヤやつまんなさが出てくる感じ。

NHK 100分de名著 スピノザ「エチカ」第4回3

人生において何より有益なのは
知性ないし理性をできるだけ
完成することであり,
そしてこの点にのみ
人間の最高の幸福すなわち至福は存在する。
(第4部付録 第4項)

人間にとって人間ほど有益なものはない


個人と社会
個人の本性を抑圧して押しつぶすようなことを国家がする限り
周りに対して慮る気持ちを人は持てなくなって社会はダメになる

個人主義という言葉の意味を捉え直す

身体は何をなしうるかを我々は知らない 知るためには実験をするしかない
実験をするには時間がかかる コナトゥスを使いこなすための時間
ゆとりが大切 自分の身体に何ができるかを実験する時間が今の日本にはない
そのゆとりを持つことが大切

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04月20日(月)

起床時刻:06時34分

NHK 100分de名著 スピノザ「エチカ」第4回
スピノザは,正しさ,真理を僕らとは違う形で認識している
真理を獲得する,何かを正しく認識する,とはどういうことか
持っている認識そのものがその正しさを教えてくれるような感覚
「観念は画板の上に書かれた無言の絵ではない」
納得感を得られるような。

真理の基準を真理の外側に立てられない。
真理の基準は真理の中にしかない。

主体の変容が真理への道
変化すればするほど,受け取れるものの質や量が変わってくるから,アクセスできる真理も変わってくる

自分が主体として変容するからこそ,初めて到達できる水準がある。初めて受け取れるようになるものがあるというのがスピノザの真理観。

水泳も,泳げるようになった瞬間がある。そのとき,何らかの真理を獲得している。それは人々と公に共有できない。こうやって泳ぐんですよ,と説明はできるけど,自分で獲得しないとできるようにならない。真理は自分で体得 体験するしかない 体験しないとわからない 

スピノザは物を認識するときには,自分が物を認識する能力も認識すると言っている。

世界を知ることは自分を知ることにもつながっている

幸せに至る道は物事を認識することをベースになっている

スピノザの真理は,正しさを検証できない
ここが,僕らと考え方のOSが違うと言ったところ

他者の説得をするのがデカルトの真理:公に共有するという真理の考え方
スピノザは真理をそう捉えなかった
スピノザにとっては,「私にとって真理がどう語りかけてくるか」を問題にした:真理と私の関係を問う考え方

西洋の近代は,デカルトの考え方を採用した。しかし,実はこれが採用される範囲は狭い。

フーコーは,17世紀くらいに真理の捉え方が少し変わったと言っている。これを「デカルト契機」と呼んだ。それまでは,真理とは,自分が変わった,RPGでレベルアップしたときに,「こういうことだったのか」と思うような,自分でわかるものだった。でもデカルト以降,真理は誰かに教えてもらって,認識するだけの対象になってしまった。しかし17世紀に1人例外がいる。それはスピノザだ。スピノザの場合は,ものを何か認識するときには,自分も変わらないといけない,レベルアップしないといけない,と言っている。

スピノザは心も体も変化することに注目している。かよわく,外からの影響を受けやすい子ども時代は,認識をする力はまだ少ない。成長し,大人になるにつれ,世界を見る目を養っていく。この変化にこそ,真理への道がある,と考えた。

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04月19日

起床時刻:07時15分


NHK 100分de名著 スピノザ「エチカ」第4回
スピノザは,正しさ,真理を僕らとは違う形で認識している
真理を獲得する,何かを正しく認識する,とはどういうことか
持っている認識そのものがその正しさを教えてくれるような感覚
「観念は画板の上に書かれた無言の絵ではない」

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04月18日

起床時刻:04時57分

100分de名著 スピノザ「エチカ」第3章

与えられている条件のもとで,その条件にしたがって,自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。

ここでもまた,実験の考え方が大切になります。というのも,その人の身体や精神の必然性は本人にもあらかじめ分かっているわけではないからです(第2部定理24)。誰もがそれを少しずつ,実験しながら学んでいく必要があります。ですから,人は生まれながらにして自由であるわけではありません。人は自由になる,あるいは自らを自由にするのです。

私たちは「身体が何をなしうるか」を知らないからです。

強制は本質が踏みにじられている状態といえます。あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。

自由であるとは,自分が原因になることでしょう。では,自分が原因になるとはどういうことか。スピノザはこれを「能動actio」という言葉で説明しています。

私が自分の行為の原因になるとはどういうことでしょうか。

ふつう原因と結果は,前者が後者をひき起こす関係にあるものだと考えられています。ところが,『エチカ』の哲学体系においては,原因と結果の関係はそこに留まりません。原因は,結果の中で自らの力を表現するものとして理解されているのです。

スピノザは,私が行為の原因になっている時--つまり,私の外や私の内で,私を原因にする何ごとかが起こる時--私は能動なのだと言いました。

私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に,私の行為が私ではなく,他人の力をより多く表現している時,私は受動である。

行為における力の表現に注目するスピノザの定義

自由であるとは能動的になることであり,能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり,そのような行為とは,自らの力が表現されている行為を言います。ですから,どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが,自由であるために一番大切なことになります。
 もちろんそれを考えるためには,これまでも強調してきた実験が必要です。実験をしながら,自分がどのような性質のコナトゥ酢を持っているかを知らなければなりません。その際,自分がどんな歴史を生きてきて,どんな場所,どんな環境の中にいるのかを知ること,すなわちエソロジー的なエチカの発想も大切になるでしょう。

ただ,完全に能動にはなれない私たちも,受動の部分を減らして,能動の部分を増やすことはできます。スピノザはいつも度合いで考えるのです。

何か完全な自由を実現しようとするのではなくて,1人1人がすこしずつ自由になっていくことをこの哲学は求めているのです。

したがって,スピノザの自由とは自発性のことではありません。自発的であるとは,何ものからも影響も命令も受けずに,自分が純粋な出発点となって何ごとかをなすことを言います。

意識は結果だけを受け取るようにできているからです。

私たちはそのような意志を自分たちの中に感じ取るけれども,それは自由ではない,自発的ではないということです。つまり意志もまた何らかの原因によって決定されている。

意志が一元的に行為を決定していると信じられているからこそ,その抵抗は強いものになるのです。

現代社会はある意味で,「意志教」のようなものを信仰しているのではないでしょうか。

私はこの意志という概念に現代社会が取り憑かれているという気がしてなりません。

現代社会では,意志がほとんど信仰のように強く信じられていることは分かっておいていただきたいと思います。その信仰を解除すれば,私たちはもうすこしだけ自由になれるのではないか。

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04月17日(金)

起床時刻:07時07分

2度寝というか,眠かった。早く寝ないと,朝も起きれないなぁ。

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04月16日(木)

起床時刻:04時56分

前日バランスター4粒飲んだ。すっきりと起きれた。

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04月15日(水)

起床時刻:06時34分

生理3日目,やはりすっきり朝起きれない。頭にモヤがかかっているみたいで,スッキリしない。生理中はPMSでそうなるから,いつもより早く就寝,バランスターを多めに飲む,という対策をしてみよう。

人間は欲望の原因を意識できない。欲望の結果のみを意識する。
行為するときに,自分の意志だけで行為すると思い込んでいる。無意識や他人の影響など,色々な要素が絡み合って,人間の行為は成立する。しかし,我々は,意志というものが一元的に行為を決定していると思いがち。

自由について考えるとき,すぐに意志の自由,自由な意志というものを考えてしまう。それを一回考えてみてほしい。

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04月14日(火)

起床時刻:06時32分

04月13日(月)

起床時刻:06時43分

生理になったせいか,とにかく眠い。PMSなので,起きられないのはしょうがないと思うことにする。

100分de名著 スピノザ「エチカ」第2章

スピノザの考えるコナトゥスは自分の存在に固執する力です(注:コナトゥスとは,自分の存在を維持しようとする力,自分の恒常性を維持しようとする傾向を持った力,恒常性ホメオスタシスの原理に近いものだそうです)。するとこんな疑問を抱く人もいるのではないでしょうか。自分の存在に固執する力が人間の本質ならば,それは社会と矛盾することもあるのではないかという疑問です。順を追って考えていきましょう。
 スピノザは善悪を組み合わせで考えました。コナトゥスがうまく働いて活動能力が増大するのは,組み合わせがうまくいく時です。社会であれば,人と人とがうまく関係を築いている時です。ですから,コナトゥスという原理は確かに自らの存在に固執する力ではありますが,それは決して他人を犠牲にして自らを維持するということではありません。たとえばコミュニティがうまく機能している時,人々はうまく組み合って互いの力を高めることになるはずです。それはスピノザ的に言って善いことに他なりません。
 『エチカ』では次のように言われています。人はコナトゥスがうまく働いて生きている時,自由である。そのように自由な人たちは,互いに感謝し合い(第4部定理71),偽りの行動を避け常に信義をもって行動し(同定理72),国家の共通の法律を守ることを欲する(同定理73証明)。一人一人が自由に生きられることこそ,社会が安定するために一番必要なことです。ですから,コナトゥスは自分本位の原理だと考えるのではなく,人々が共同で安定して暮らしていくためには一人一人のコナトゥスを大切にすることが必要だと考えなければならないのです。
(中略)スピノザは社会契約的な発想を持っており,『神学・政治論』ではそれが論じられています。
ただスピノザの社会契約説は,いわゆる契約説とは少し異なっています。
(中略)
 スピノザは確かに契約説の立場を取っていますが,一度きりの契約という考え方をしません。毎日,他人に害を及ぼすことがないよう,他人の権利を尊重しながら生活すること,それこそが契約だというのです。いつかどこかで一度契約した内容に従うのではなく,一つの国家の中で互いに尊重し合って生活していく。それによって契約はいわば,毎時,毎日,更新され,確認されている。私はいわゆる契約説が一回性の契約説であるとしたら,スピノザのそれは反復的契約説であろうと論じたことがあります。
 確かに集団の中で生きていくことで,自分の権利が制約を受けるという面はあるでしょう。スピノザもそれを認めます。ただ,だからといって集団で生きることを完全に否定はできない。人間は1人では生きられないし,集団で存在して互いに組み合うことで高められる力があるからです。
(中略)1人1人がうまく自らのコナトゥスに従って生きていければこそ,集団は長続きする。なぜならばその時に人は自由であるからというわけです。
(國分功一郎『NHK 100分de名著 スピノザ エチカ』NHK出版,pp.63-65より)

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04月12日

起床時刻:04時56分

100分de名著 スピノザ「エチカ」第2回視聴

スピノザは力を重視した。
自分の存在を維持しようとする力(コナトゥス) これが人間の本質である

日本ではコナトゥスは努力と訳される。一生懸命何かをするというよりは,傾向,方向性をもった力という意味。今存在している状態でありつづけようとする力。ホメオスタシスとよく似ている。

本質は力である,と考えたのがスピノザ。農耕馬と競走馬のもつ力は違う。本質は形と考えるなら,馬は同じということになるが,農耕馬は農耕牛の方と似ている。本質は形ではなく力と考えたのは革命的なこと。

前回の善悪のことと重ねると,農耕馬にとっての善と競争馬にとっての善は違う。力のあり方が違うから。

男だからこう,女だからこうではなく,個別具体的にその人の力がどんなののかを考えて,どんなものとうまく組み合うかを考えて力を伸ばしていく

欲望も本質
(たとえば,体から水分がなくなってきたときに,水を飲みたいと感じる衝動)
何かをしたい,何かをさせようとする力
自分を維持するための衝動 欲望
コナトゥスのあらわれが欲望

欲望とは,人間の本質が与えられたそのおのおのの変状によって
あることをなすように決定される限りにおいて,人間の本質そのものである
第3部諸感情の定理

変状:あるものがある形やある性質を帯びることを「変状」という

欲望の捉え方は転換点となった。それまでは,哲学のなかで,欲望は否定的に取られていた。理性対欲望のような感じで。  スピノザは欲望を否定しない。中立的にみていた。

同じ刺激を受けても,人によって変状の仕方は違う。欲望の仕方も違う。それを無視して,社会の制度設計をしたり教育をしたりしてもダメ。

人間の感情を認める。
感情とは,我々の身体の活動能力を増大し あるいは減少し,
促進し あるいは 阻害する身体の変状 また同時にそうした変状の観念であると解する。

感情とは,ある刺激によって我々の身体にあらわれる状態。

活動能力↑ 完全性↑ =喜び
活動能力↓ 完全性↓ =悲しみ

喜び,悲しみ,欲望 この三つが人間の基本的な感情。その他の諸感情はこの三つから生じるもの。

人間は受動という感情にとらわれる限り,相互に対立的である。

受動的な感情を我々がよく理解する,理解することによって感情を少し突き放してみることができる。それがスピノザが感情に与えた処方箋。完全にはできないが,分析すると,自分たちを捉えているネガティブな力が手を離してくれる。

度合いで考えている。完全な能動,完全な受動ではない。少し喜びが減った,少し悲しみが減った,というところがスピノザのプラクティカルなところ。

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04月11日

起床時刻:05時05分

100分de名著 スピノザ「エチカ」第1章

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04月10日(金)

起床時刻:05時05分

100分de名著 スピノザ「エチカ」第1回視聴

エチカ(Ethica)の語源はethos(エートス)というギリシャ語。この言葉の語源は,住処,動物の巣。人がずっとどこかに住み続けると,そこに習慣が生まれる。自然と繰り返されるルール,パターン。住処に基づいて出てくるルール,基準をエチカと呼ぶようになった。この語源は示唆的。スピノザの倫理学は,頭ごなしに「こうしなさい」と言うようなものではない。あなたはどういうところに住んでいて,どんな性質をもっていて,その人1人1人のエートスを考えて,その人にとってのエチカはどういうものだろうというのを考えるのがエチカ。

幾何学的方法でスピノザが明らかにしようとしたことが,この世界や人間の性質。その出発点に考えたのが神。神は「唯一絶対の確かな存在,この世はすべて神の現れ」・・・「神とは絶対に無限な実有」と言う。神は宇宙に近い。「神即自然」。ユダヤキリスト教の神は人格神。それに対して,スピノザは無神論に思われた。

エチカは最初から読むと挫折する。第4部「人間の隷属および感情の力について」がおすすめ。

第4部は善悪が定義されている箇所。善いは「やりなさい」,悪いは「やっちゃダメ」というように,善い悪いは命令と結びついている。スピノザは,命令で善悪を決めていいのかと考える。命令とは違う発想で善悪を考える。

第4部でまず考えたのは,人が「完全」「不完全」という言葉をどういう意味で使っているか,ということ。「家とはこんなもの」「橋とはこんなもの」「塔とはこんなもの」と人が思い描くものを,一般的観念と呼んだ。その一般的観念と合致するものは「完全」,そうでないものは「不完全」と呼ぶ。

スピノザは善悪についても,同じように考えを進める。

善および悪に関して言えば,(中略)思惟の様態,すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念,にほかならない。
なぜなら,同一事物が同時に,善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。
例えば,音楽は憂鬱な人には善く,悲傷の人には悪しく,聾者には善くも悪しくもない。

・・善悪は比較でしか存在しない。それ自体で善いもの悪いものは存在しない。組み合わせの問題。トリカブトは毒をもっているから悪と思われているが,自然界には完全なものとして存在しているだけ。人間との組み合わせが悪いから,結果だけが取り出されて悪とされる。

組み合わせがよいということはどういうことか。
我々の活動能力を増大し,あるいは減少し,促進し,あるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。(第4部定理8証明)

善悪は活動能力の増減だ。うまく組み合ったというのはどういうことかというと,活動能力が高まること。
=胃腸の調子が悪いときに,脂っこいものを食べると活動能力が弱まる。それは「悪い」ということになる。

その人がどういう風に善く生きられるか=あなたの活動能力がどうやったらうまく高まるかを考えること。
「実験する」:どれとどれがうまく組み合うかはわからないから,それを実験していくのがスピノザ的実践。

活動能力が高まっているときは楽しい。善および悪の認識は,我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。(第4部定理8)

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04月09日(木)

起床時刻:05時05分

100分de名著「ブッダ 真理の言葉」読了

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04月08日(水)

起床時刻:04時56分

100分de名著「ブッダ 真理の言葉」第4回視聴
「集中した精神は特別な力をもっている。」
全体的に、説教くさく感じ、深奥までは響かなかった。ブッダの思想がそうなのか、解説者がそうなのか。

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04月07日(火)

起床時刻:06時10分

04月06日(月)

起床時刻:06時33分

04月05日

起床時刻:05時33分

NHKオンデマンド 100分de名著 ブッダ第3回視聴
自分の方向を決めることで、意思作用が生じ、そちらへ行く
私が行きたいのはどちらの方向だろう。
ヨガを定期的にやれたらよいのだけど。

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04月04日

起床時刻:06時26分

04月03日(金)

起床時刻:06時33分

04月02日(木)

起床時刻:07時00分 07時20分

5時に目覚ましを止めてから、エッジを超えずに、橋の手前で戻ってきている感じ。

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