201903 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:07:53

起床時刻の記録 ▼新しい順 ▲古い順 RSS

03月03日

起床時刻:09時30分

昨日はお友達と日本橋の懐石料理でランチ。

まずはよもぎを練り込んだ胡麻豆腐の上に花の形にくりぬかれたゆり根がひとひら。その上には山葵。
次は刻んだ浅利のむき身をあわせた真薯に、筍、それにうるいだったか何か春らしい菜っ葉をあしらったお椀。お椀の蓋の裏側には内裏雛の絵柄が。
お刺身は鯛、シマアジ、しめ鯖。貝の形の器で。
それから八寸は9種類の酒のつまみ的なものがちょこちょこ。ホタテのぬたが美味。
焼物は照り焼きっぽい下味のついたサクラマスにメレンゲと酒粕とあと桜の花の塩漬けだろうかをのせてオーブンで焼いた、春らしい一品。
煮物は山芋、水菜だったか?青菜と、油揚げ、パプリカ、身欠きニシンの炊き合わせ。
締めはハマグリをつかった飯蒸し。飯蒸し大好き。
デザートは和風のティラミス(ココアのかわりに抹茶で。チーズは使っていないのでさっぱり)をチョイス。
最後は桜餅と御抹茶。梅酒のソーダ割を1杯頼んで、〆て11,500円くらいだったか。
「食欲ない」と言っていたのはなんだったのかっていうくらいペロリとたいらげた。
上巳の節句らしさをちりばめた季節感あふれるコースだった。
味だけではなく、器と盛り付けで目も喜び、和食の文化と大将の蘊蓄(笑)で脳も喜ぶ。新しい発見や新しい知識を得ることは、何にも勝る喜びの一つだ。

ただ今年のボーナスは20万ちょいしか出なかったから(半期ではない、1年のボーナスである)、今年は節約するぞと決めた矢先(一昨日決意したのである)にこんな豪遊をしていていいのだろうかと不安になったけれども、私の、このむなしく、さびしく、失意に満ちた灰色の人生においては、気分をあげることにお金を使って楽しく生きた方が鬱病の予防にもなるのだからいいんだと思い直した。立ち直り早ッ。

「もっと喜び楽しむことを学ぶこと、それこそ他人を苦しめたり、苦しめようと考えたりすることを忘れさせる最善の方法である」(『ツァラトゥストラかく語りき』)
ニーチェの言葉のこの「他人」にはおそらく自分自身も入るのではないか。
喜びや楽しみを学ばずにいれば、それは他人だけではなく、自分自身のことも苦しめるのである。

日別画面へ

03月02日

起床時刻:08時40分

昨日は歯が痛くて3時に目が覚めたのでロキソニンを飲み、その後1時間くらいしてまた寝た。
疲れがとれなくて、うつらうつら、寝たり起きたりして、結局ベッドから出たのは8時40分。
朝起きて、体重を測ったら42.2キロ(当方身長は160.5センチ)、体脂肪率26%。
朝ごはんは、鶏ダンゴのスープ(今回はキャベツ、牛蒡、ニンジン、玉ねぎ、生姜、鶏むね挽肉)、アーモンドとクルミのパン2切れと、バナナとヨーグルト、青汁1杯とミルクティー。
もう少し、自分の体型が違ったら・・・・・・、上半身はガリガリなのに下腹部はポコっと出ているようなみっともない体型ではなかったら、もっと人生楽しめたのに・・・・・・、それに体の柔軟性としっかりした筋肉を持っていたらヨガのポーズもきれいにできたのに・・・・・・。

私は常に「自分はかくありたい」という理想があるのだけれど、その理想に到達したことはない。
今年の初詣では「ヨガのアーサナ(ポーズ)ができるようになりますように」と霊験あらたかなことで有名なパワスポでお祈りしたが、できるようになる気配はない。
たとえば鳩のポーズなんかは、何度か生まれ変わらないとできるようにならないだろう。
ヨガに限らず私は常に、理想と現実のギャップの中で苦しみ、不満を抱え、自信を喪失し、「どうせ私なんか何をやってもできない」という言葉をマントラのごとく唱えて生きてきたのである。
もし私が人生で何ごとか目標をクリアし、理想に到達したことがあったとしたら、自己肯定感も持てただろう。

そこで考えられるのは「目標設定の誤り」である。いきなりでかい目標を設定するのではなく、最終目標を細かく、細かく砕いて、低レベルから設定していくべし、というアレである。
例えばいきなり英検1級に受かることを目標とせず、まずは英検3級から始めるのである。
しかし、英検を受けたことがある人はわかるだろうが、準1級と1級の間には超えられない壁があって、私は準1級は高校のときに受かったけれど、1級の2次試験には何度も落ちているのだ。それどころか最終的には1級の1次試験にも落ちるようになってしまった!昔できたことができなくなることほど自信喪失することはない。人間には老化現象というおそろしいものがあるため、ほっとくと現状維持どころか退化していくのだ。その結果、永遠に現状に不満を抱えたままになるし、「どうせ私なんか」ループに戻ってしまうのだ。
要するに、小さい、雑魚な目標(英検準1級合格)設定をクリアしても達成感も自己肯定感もないし、目標を小分けにしたって本来の目標を達成する可能性は低いということだ。ピアノなんかもそうで、最終目標の前には超えられない壁があり、バイエルがいくら弾けても達成感はない。

そういうわけで発想の転換をする必要がある。人間は誰しも老化現象で退化していき、最終的にはヨガのシャンティヴィラバドラーサナ(リバースウォーリア・平和な戦士のポーズ)どころか、NHKのテレビ体操の座ってやる方ですら精いっぱいになってしまうのだ。
つまり人生の後半にさしかかり、何をやっても成長しない、それどころか昔できたことすらできなくなるという、精神の危機状態(「どうせもうトシだから」ループの危機!)にさらされる我々としては、「目標達成」という結果ではなく、「努力する過程」にこそ価値がある、というふうに思わねばならない。

仕事では「結果がすべて」だが、人生は仕事ではない。
褒められなくてもいい。結果に納得できなくてもいい。頑張っていること、もがいていること、それに価値があるのだ。
そう思わなきゃやってらんない!!!

日別画面へ

03月01日(金)

起床時刻:05時30分

「ターケルが一九七四年にまとめた『Working』というインタビュー集のなかで、「ブルーカラーとホワイトカラー」はロボットのような労働環境について不平を漏らしているが、彼らは奪われた仕事について不満を述べているのではなく、従事している仕事について不満を述べている点に注目してもらいたい。
このように仕事が人々を消耗させる「ロボットのような」作業になるのは、たいていその仕事を自動化する技術が誕生するよりもはるか前である。したがって、悪いのは資本家であって、技術による圧力ではないはずだ。仕事をこのように「機械的」にしたのなら、しばらく経ってから、その仕事を本当に機械に(やがてはAIに)奪われたとしても、それはきわめて当たり前の成り行きに思えるし、その意味では救済と言えるかもしれない。この一連の過程のなかで、厄介で悲劇的なのは前半―「人間」の仕事が「機械的」な作業になること―であって、後半はそれほど厄介でも悲劇的でもないように僕には思える。したがってAIのことを怖がるのは的外れなのではないだろうか。
マイクロマネジメント、「改善」のない組み立てライン、厄介な手順や手続きの過度な標準化……これらの問題はまったく同一のものであって、これらによってもたらされる危険もまったく同じであり、そしてAIも同じ問題と危険をもたらす。ここに挙げたすべての例で、いずれもロボットが人間の仕事をするようになる。唯一の違いは、AIを除く三つの問題では、「ロボット」になるのが実際には「人間」であるという点だ」(P119-120)

『機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる(“The Most Human Human: What talking with computers teaches us about what it means to be alive”)』(草思社、2012年、ブライアン・クリスチャン)

日別画面へ