20190907 <<前日 | 翌日>>

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今日の気分(本文)

『無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教』読了。個人的には本書の白眉は第四章の「仏教の存在意義-佐々木閑氏に聞く」だと思った。
いやー、こんなにズバズバ言っていいんですか、佐々木先生?

「佐々木 今の日本で仏教教団が何をすべきか。釈迦の仏教が絶望した人を引き受ける受け皿とすれば、日本仏教も同じように絶望した人を救わねばならないということです」
という佐々木さんの意見には日本全国の僧侶が諸手をあげて賛成するだろう。
しかし、具体的に「絶望した人を救う」とはどういうことかを聞けば、挙げた諸手をすぐにおろすだろう。というのも、絶望した人を受け入れて一緒に暮らすことが彼等を救い、ひいては社会の受け皿になることだと言うのだから(SNSで説教垂れ流すだけで絶望した人を救えると思ったら大間違い)。

「日本の寺院が社会の受け皿になれない最大の理由は、寺が家族の私有物になっていることにあるのです」と佐々木氏は言う。
「佐々木 <略>宗教法人法はやはり変える必要があると思います。僧侶が私有財産のような形態で寺を経営している場合には、それ相応の税金をかけたらいいと思います。寺が家族以外の一般の人たちに対してどれくらい門戸を開き、寺の空間を利用させているかという、その度合いによって税率を変えたらいいのです」
「ですから寺は、一般人と同じように普通に税金を払うか、それとも誰に対しても門戸を開くかの二者択一なのです。この場合、門戸を開くというのは、単に檀家さんに寄ってもらってサービスするという意味ではなく、外部の人を寺の住人と受け入れて一緒に暮らすという意味です。「寺は自分たちの固有財産だ」と思うならば税金を普通に払わなければいけない。
一方、「寺は救いを求めてきたあらゆる人が等しく利用できる共有設備だ」というのなら、そして実際、そのように門戸を開いているのなら、税金は免除されるべきでしょう。「個人財産として勝手に所有しながら、税金だけは免れたい」というのは、仏の道にもとる傲慢な考えですね」

これを聴いて「その通り」という坊さんはほとんどいないでしょうね。というのも、銀行と同じく坊さんも「晴れの日に傘を貸す」ような支援(つまりリスクゼロ)しかしたくないのですよ。
実際、絶望して行き場をなくした人を救うのは宗教法人ではなく「行政」の仕事になっており、宗教の方はお墓の代金やら管理料やらお布施やらを払える「お客様」しか相手にしたくないのです。宗教法人でも銀行でもお金がないひとは門前払いが当たり前、「市役所で相談してみてください」と言われるだけ。

あと面白かったのが、科学と教義の間で矛盾や齟齬がある場合、やたら「こころの問題」にしたがる最近の傾向について言及しているところ(佐々木さんは「こころ教」と呼んでいます)。たしかに、「極楽はあなたのこころにあるのです」というような言いまわしはよく聞く。極楽は西方にあるはずなのに。そもそも僧侶が西方に極楽があると信じられていないからなんでもかんでも「こころ」のブラックボックスにぶちこむ。ちなみに「こころ教」の頻出ワードは「こころ」と「いのち」と「生きる」だって。笑ってしまった。

そんな「こころ教」のおためごかしで救われない人は原理主義(「阿弥陀様は本当におられる。外の世界に極楽は必ずあって、そこに今も生きておられる」)の方へ行くだろうと言っています(原理主義とは別に悪い意味ではなく、本来の教団の教えをそのまま信じていく人のこと)。

まぁそうだろうね。しかしなかなかラディカルだなぁ。
著者の鵜飼さんが言うように、今、寺は文化財を盗まれたり、罰当たりな利用者が年々増えているためお寺さんも大変で、浅草の寺の住職さんなど「弁護士なしでやれない」そうで大変なんだけれど、大事な文化財は上野の博物館かどこかで保管してもらって自分のところはレプリカでも置いておけばいいんじゃないかって私は思う。
そもそも仏像すら本当はいらなくて、お釈迦様は亡くなったとき、弟子に「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と教え諭されているのであって、仏像を灯明とせよと言ったわけじゃない。でも仏像を灯明とするほうがいつだって簡単だよね、導く方も、信者の方も。