201102 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:10:01

起床時刻の記録 ▼新しい順 ▲古い順 RSS

02月28日(月)

起床時刻:不明

かなり今更なんすけど、『対岸の彼女』(角田光代)を読んだ。
泣いた。感動した。
「結局さあ、私たちの世代って、ひとりぼっち恐怖症だと思わない?」
「お友だちがいないと世界が終わる、って感じ、ない?友達が多い子は明るい子、友達のいない子は暗い子、暗い子はいけない子。そんなふうに、だれかに思いこまされてんだよね」(P95)
だれかってたぶん、あれですよ「一年生になったーら、一年生になったーら、友達100人できるかなぁ~♪」の洗脳ソングに思い込まされているんですよ。「100人友達つくんなきゃ」という強迫観念をうえつけられるわけですね。私の友達は「一年生になったら」を「呪いの歌」と言っていた。

ま、冗談はさておき、「最近の若者は一人で浮くのを怖がって、他人の空気に過剰に同調しようとする!」と平成の若者を憂う向きもあるが、そんなの昭和の時代だってそうなんだよ(あ、上で引用したのは35才くらいの女性”あおちん”のセリフね)!

あおちんは「ひとりぼっち恐怖症」(あるいは、”お友達が多ければ多いほどよい”というイデオロギー)は「世代」か「世界の共通概念なのか」、いぶかしがっていたけど、わたしが思うにたぶん、これは「世界の共通概念」ですね。

ものを宣伝するときに「今、爆発的に売れています!」というキャッチコピーはよく使われる。「みんなに売れている、みんなが受け入れている、みんなに好かれている=価値のあるもの」という共通認識があるからでしょう。確かにそういう一面はあるのです。
一つ一つ自分で価値判断していくのにはものすごく時間がかかります。時間というのはコストですから、コストがかかるのです。だから、「みんながいいといっているからいい」というのは、非常に合理的な判断基準なんです。従って、「友達が多い」人というのが「明るい子」というか、「人としての魅力が高い人」と思われるのもやはり合理的なわけ。

でも、別に人に明るいと思われなくても、素敵な人と思われなくてもべつにいいじゃん。「友達少ない=魅力ない」でも別にいいじゃん。そもそもなんで、魅力的でなくっちゃいけないわけ?

まぁ確かに魅力的な人はお金も人もあつまるだろうし、人生、楽しいだろう。勉強ができる人は就職先もみつかるだろうし、人生楽しいだろうと、思われるように。

勉強が苦手なやつも勉強しなくちゃいけないように、人付き合いが苦手なやつも人付き合いの努力をしなくちゃいけないと私は思うんだけど、そうはいっても、もとから向き不向きがあるんだから、いやでいやで仕方なくなるほど、勉強も人付き合いもする必要はないと思ってる。

て書くと「現状肯定の下流」「学ばない下流」「コミュニケーションができない下流」にずばりあてはまって、「所詮下流の考え方ですね」といわれそうだ。ま、ド下流だし別にいいんだけど、私は学校の勉強ができることや、友達が百人できることにそれほど重きをおいていない。もちろん、どちらも努力はしたほうがいいと思うのだが、いくら勉強ができても自分の頭で考えられない人は考えられないし、友達が100人いても「腹心の友」が一人もいない人だっているし、それでも意味はなくはないが、そんなに必死こいてがんばって得るほどのもんじゃないと思うのだ。

いっておくと、この本はひきこもりをすすめているのではなく、その逆で「わたしたちは誰かと出会うために年を重ねている」といっている。「出会い」が一つの重要なテーマなんですね。ま、私は、ひきこもりでも別にいいやと思っているんですけどね。

日別画面へ

02月27日

起床時刻:12時50分

「秋葉原通魔事件」について今更ながら(今更すぎるよ)、犯人が2chに書き込んだ内容を読んでみた。
http://anond.hatelabo.jp/20100625193003

****
「私は、愛が欲しいのでも、愛してほしいのでもない。だれかを愛したいのだ。愛しているという証(あかし)が欲しいだけだ」
「ニートにだって彼女はいる。自分はまじめに仕事をしてきた。だが、彼女はできなかったよ」
「女に生まれたかったよ。女ってだけでちやほやされるから」
「性格とか、考え方が変わったって顔は変わらない」
*****

とか、まぁいろいろ書いていた。
「女に生まれたかったよ。女ってだけでちやほやされるから」って言っているが、加藤のようなブサイクな女はちやほやされない。オバハンがちやほやされないのと同様に。

非モテをなげく男は少なからず「イケメンにばっかりむらがる女が悪い」「金持ちにばっかりむらがる女が悪い」「顔と金しかみない女がバカだ」という論調になりがちのようだ(確かめていないが、たぶん)。

コミュニケーション能力を磨けとか野暮なことはいわない。
内面重視の女だって大勢いるとか非現実的なことはいわない。

現実をみろといいたい。

夏の炎天下、客はアイスがほしいのに、おしるこを売るバカはいないだろう?
「おしるこを買ってくれないなんて、バカな客だ」と怒るほうがおかしいのだ。
「だれかを愛したい」と言う加藤は「愛」という名の「おしるこ」を押し売りしているだけなんだよ。いらねんだよ、そんなもん。

アイスが欲しいという人には、アイスを売れ。
イケメンがもてるというのなら、イケメンになればいい。
非モテを嘆く人のうち何人が整形したのだろうか?
女(の一部)は整形してまで男のニーズにあわせているのだ。
甘えているとしかいいようがない。

あるがままの自分を愛して欲しい?
もし性格の悪いドブスのデブがそんなことを言ったら、お前ら罵倒するだろう?自分の発言を自分と同じレベルの容姿の女がいったとしたらこういうだろう。「だまれ、ブス!」と。

そういわれないように、ブスは努力しているんだ。おまえらの努力ってなんだ?服装?髪型?そんなのより顔だ、スタイルだ。

福山がクラシカルな「おたく」っぽい格好(チェックのシャツにケミカルウォッシュのジーパン、巨大なリュック+同人誌のはいった紙袋のコンボ)をしていてもかっこいいだろう?まずは体を鍛える。加藤の画像をみたが、見るからにひょろひょろで魅力ゼロではないか。筋肉をつけろ!あつい胸板とたくましい上腕二頭筋をを手に入れろ(「男は胸板である」というのがわたしの信条である)!そして顔を整形し(加藤なら目を二重にして、鼻をなおすくらいでいいんじゃないか)、歯を矯正する(デッパぎみでは?)。

話はそれからである。

日別画面へ

02月26日

起床時刻:10時45分

昨日に引き続き、円堂都司昭の『ゼロ年代の論点』。

私は「秋葉原通魔事件」なんかに過剰な物語性を付与しようとするマスコミにうんざりしていたのだが、東浩紀によれば秋葉事件に意味を読み込む行為を批判するのもクリシェに過ぎず、それは結果として「社会的包摂」の機能を衰退させてしまう、のだそうだ。

彼によれば、グローバル化した新自由主義経済と「自己責任」を求める社会のありようが、人生をゲーム的にしか理解できないものにかえている。この現代社会では同じような経歴でそこそこうまくいっている「プレイヤー」の情報が溢れている。「具体的な労働条件の厳しさ」とは別の水準で、現実に冠する「ゲーム的」な感覚が生きづらさを呼んでいるんだとか。

これを私なりいいかえると、封建時代であれば血筋と家柄、高度経済成長期であれば学歴と年功にしたがった予定調和的人生を歩んでいたのが、戦後の民主主義、平成不況以来の成果主義の導入、新自由主義的競争の浸透などによって、同じ家柄・学歴・年齢にもかかわらず、能力と運によって、収入が天と地ほど違う、というシーンに遭遇することが多くなった。

最初から違うと思っている他人との待遇の差異は気にならないが(皇室に文句は言わないように)、本質的に同じであると思っている他人との差異は耐え難いほど苦痛に感じるのが人間である(考えてみれば、階級社会のほうが凡庸な人間は幸福であるかもしれないのだ。厳しい宗教社会に生きる人のほうが主観的幸福度が総じて高いように)。
「ちょっとしたきっかけがあれば俺も上にいけるのに」(「ゲーム的」にいえば、「一発あてれば、上にいけるのに」)という不満をかかえながら、経済的に苦しい毎日を生きている(しかも「自己責任」の名の下に同情もされない)のはそりゃあ嫌でしょう。

杉田俊介が「人生の偶然性やリセット・リプライ感覚を分析している点で、東さんの『ゲーム的リアリズムの誕生』は労働問題の本だ、と僕は勝手に思っているんですけど」とシンポジウムで言ったらしいが、普通の労働問題(あるいは経済問題)を独自用語で語っているにすぎないと私も思うのでそのとおりだと思う。

だけど私は、それをわざわざ「ゲーム的リアル」っていうのが、軽くいらっとくるんだな。「成果報酬型実力主義社会(実力には運も間違いなく含まれる)のリアル」でいいじゃないかって思っちゃうの。

だってさ、だってさ、考えてみ?「ゲーム的リアル」って言って思い浮かぶのは、聞き手によって多種多様じゃない?ある人は「クリムゾンの迷宮」とか「バトル・ロワイヤル」とかそういう世界を思い浮かべるだろうし、ある人はリセット・リプレイ可能な仮想空間を思い浮かべるだろうし(しかし現実はいまだリセットもリプレイもできないのである)、ある人はアバター的な仮面と「中の人」を使い分けるMMORPG的空間を思い浮かべるかもしれない(いくつもの仮面をつけていろんな自分を演じるのは今にはじまったことではない)。

そんないかようにも受け止められるような言葉を使う理由がわからない。もちろんそういう言葉をつかわざるをえない場面もあると思うのだが、例えば全く新しい概念を表すときとか、は、別にいいんだけど、別にそこらにあるフツーの言葉で説明できるようなことを「キャッチーな言葉」でいいかえる意味がわかんないのだ。

『動物化するポストモダン』にしても、他のずっとわかりやすい言葉いくらでもいいかえられるのに。「おいしい生活」みたいな感じだ。東ってコピーライターとか向いてそうだ。

この本で紹介されている人のなかでは、「人文系の思考全般に「ツッコミ」を入れている」という栗原裕一郎氏(はじめて聞いた)に共感した。

栗原は「日本のポストモダン的な言説でいわれる「大きな物語」とは結局のところ、高度成長期に人々が持ちえていた未来への希望というようなものでしかなく、端的に言えば「経済」である」「「景気」に還元されうるほどのシロモノにすぎない」という。
もっとも円堂は「人文系の思考、枠組によってみえてくるものはある」として、軽くいなしてたけど。

あとは荻上チキがネットの祭りについて「人間社会でおこってきたことが形をかえておこっただけ」と言ったのにも共感する。
人間が突然吠えるようになったらそりゃびっくりする。しかし、犬が吠えるのはびっくりしない。犬が拡声器をもったとしたら、吠える声が大声になるかもしれないが、本質的には別にかわっていない。だけどこれをもってして「犬がかわった!凶悪になった!」とかいう人がでてくるんだな。変わったというのは、人間が吠えるようになったときくらいにいってほしい。そして焦点をあてるべき問題は拡声器の取り扱い方だと思うんだよね。

日別画面へ

02月25日(金)

起床時刻:09時50分

『ゼロ年代の論点―ウェブ・郊外・カルチャー―』(円堂都司昭・ソフトバンク新書)を途中まで読む。「現代思想系の議論に詳しくない読者のことを意識して、紹介、要約はわかりやすく簡単であることを心がけた」という著者の試みは成功しているようだ。
『動ポモ』読んで「なんでこの本がこんなに売れるのか、ようわからん」人も、さらにいえば「そもそもこの本はなにを言っているのか、ようわからん」人も、ま、わたしなんだが、この本を読めばなんとなくわかる。ま、この著者が間違っている可能性もあるがねw。

後藤和智のくだりについては、違和感があった。

「ゼロ年代には人文系の批評のあり方と実証主義の方法との間に摩擦がみられた」として、後者の代表に後藤和智があげられているが(私も後藤的な批評の方法を支持する)、筆者は「彼(後藤)は多くから共感を得る論者とはならなかった」という。
しかし、まさにこういう、根拠レスなもの言いが一番、私の(そしてたぶん後藤の)嫌うところなのだ。

ここではただのブログなのでわざわざ売上げを調べることはしないが、アマゾンの書評では、ポスト東の呼び声の高い宇野常寛の著作よりも後藤の『お前が若者論を語るな』のほうが書評数が多いし、評価も上である(2011/2/25現在の話だが)。
なのに「彼(後藤)は多くから共感を得る論者とはならなかった」とはどういうことか?「一般人」にはうけても「学術的な世界」では無視される、茂木センセや内田樹センセみたいなものだといっているのか?しかし彼らについて「多くから共感を得る論者とはならなかった」とは言わないだろう(ま、私はたいして共感していないが)。恣意的といわざるをえない。

もちろん、統計的手法をいくらかさねても、「思想そのもの」がでてくるわけでは、これっぽっちも、ない。「データベース化したキャラに脊髄反応する最近の消費者って動物化しているよなぁ~」みたな思想そのものは、大昔と同様、論者の頭の中と現実との対話・解釈からでてくるものだ。実際そうなのかどうなのか論証する際に実証的態度、特に統計手法をとりいれたほうがいいのではないかということだ。

心理学だって、夢をあれこれ分析して「あなたがエロイ夢ばかりみるのは男になりたかったからです」とかなんとか、意味不明の説明をすることはもはや主流ではない(現代思想とは違って)。心理学の学部生にとって統計学は不可欠な時代だ。経済学でも同じ。はやりの行動経済学なんかも統計的知識は欠かせない。

思想界でも統計的手法をとりいれてみればいいと思う。仮説を調査票にどうおとすかなどは難しそうだけれど、「女はこう思うのだ。なぜなら、自分は女だからだorなぜなら、自分は女をよく知っているからだ!」的論証(女のところは若者にもオタクにもおきかえられるが)はいいかげん、うんざりしている。

日別画面へ

02月24日(木)

起床時刻:07時50分

フェイスブックに関してmacska(小山エミ?)が面白いことを書いていた。

『Facebookの普及に見る米国の社会階層性と、『米国=実名文化論』の間違い』
http://macska.org/article/270

フェイスブックはリア充アピのツールだと私は思っていたが、エスタブリッシュメントアピのツールでもあった。

特にマイ・スペースとの対比がおもろい。
ダナ・ボイド(人気ブロガーでSNS研究者だってさ)からの引用だが、「Facebookが二〇〇五年に高校生の参加を認めて以来の変化に注目しつつ、FacebookとMySpaceのあいだでユーザが階級に沿って分離しはじめていると指摘している」また「米軍内部でも貧しい家庭の出身が多い前線の一般兵士たちの多くがMySpaceを使っており、より恵まれた背景を持つ士官の多くがFacebookを使っていた——軍は二〇〇七年にこれらのサイトの使用を禁止する通達を出した——という点も指摘している」だって。

へーへーへー!

「Facebookは、ハーヴァード学内における排他性と特権性を持つ社交クラブをうまく利用し、また学外に開放する際はその排他性と特権性を保ちつつ徐々に対象を拡大する戦略を取ることで、実名登録にともなう不安をステータス向上の夢で中和させながら、成長してきたのだ」とmacskaは書くけれど、しかしながら、youtubeにおけるガイジンの顔出し率と日本のそれを比べると、どうしてもこの文章だけでは説明がつかない。

例えば、クリキントンfoxのようなギター名手でも日本人はだいたい顔を隠す。外国人はというと、ドヘタクソでも平気で顔をさらす人が多い。なんなんだ??この違いは??
いくつかの仮説は思い浮かぶが(その一つはアカの他人への信頼度の日米間の違いである。ネットにおける階級すみわけもその一つであろう)、今興味のあることの一つである。

さらにいうと、シェアリング・エコノミーなんつー言葉がはやっていて、時代は「フリー」から「シェア」へなんつー風潮だったりもするが、日本では「シェアリングのビジネスモデル」については、節約志向からもちろん伸びているんだけど、喧伝されているほどじゃない。

シェアモとかの閉鎖もあるし、なかなかシェア経済みたいのが、軌道にのっていない気がするんだが、それはネットの匿名主義もからんでいるんじゃないか(と『ユリイカ』の対談で『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略』の翻訳者も言ってた)。

というのも、昨今のソーシャル・ネットワークの発達がシェア経済をテクニカルに支えているわけだけど、その土台にはフェイスブックにみられるような実名主義による信頼があると思うんだよね。つまり、シェアリングモデルが浸透するためには、「お互いがお互いを信頼する」という土台がなくちゃいけない。シェアモがつぶれたのも、ふつーに借り逃げなどの、反社会的行為が多く、参加者が減っていったからだろう。そうなったのは匿名主義=旅の恥はかき捨てがある。もし実名であれば、ネット上の信用はリアル同様大事であるから、そうそう反社会的行為はできない。

日本人はアメリカ人に比べて他人を信用しないという調査結果もある。それがネットにおける匿名主義にも結びつき、ネット上で余計他人を信用しなくなっているという循環もあるのかもしれない。日本人が確か一番ネット上の犯罪を恐れているみたいな調査結果があったような。マイクロソフトのグローバル調査だったんだけど(うろ覚え)。他国と比較してもかなりなネット中毒なんだけどねw。

日別画面へ

02月23日(水)

起床時刻:10時10分

敬愛するcarinaさんが「面白い」とずいぶん昔につぶやいていたので気になっていた上野千鶴子の『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店 (2010/10/6))を読んだ。1500円もするので買うかどうしようか迷ったが、少し立ち読みしたらあまりにも面白くてつい買ってしまった。

上野千鶴子といえば、大学時代に『スカートの下の劇場』に衝撃を受けて色々読んだが、勤めだしてからはベストセラーとなった鼎談の『男流文学論』を読んだくらいで、久しく遠ざかっていた。

それは、大学を卒業し、総合職として金融機関に勤めだした私と、アカデミックな世界で生きる彼女とのズレが原因かもしれない。彼女の生きる現実と、私の生きる現実のズレ、認識のズレ。

今でもそれは感じた。
例えば、本書8ページでは「ミソジニーは男女にとって非対称に働く。<略>これまでの一生で男のうちで、「女でなくてよかった」と胸をなでおろさなかった者はいるだろうか。女のうちで、「女に生まれてソンをした」と一度でも思わなかった者はいるだろうか」と書いているが、「そうよ、女はソンよ!」と諸手をあげて叫べない自分がいるのだ。

むしろ、フェミニズムの奮闘のおかげで「女なら誰でも一度くらいは男でなくてよかったと思うだろうし、男なら誰でも一度くらいは男で損したと思うだろう」といえるような状況も多々あるような気もする。

統計数理研究所による『日本人の国民性調査』をみてみよう。
1998年しか聞いていないが、「今の日本では男と女どちらがトクか」という質問に対して20代では「男40% 女44%」、30代「男38% 女39%」とわずかながら女性が上回っている(もっと40~50代では「男がトク」という回答が多い)。

さらには、「男と女とではどちらが苦労が多いか」という問いに対しては、「男が多い」が「女が多い」を上回る。

この調査結果をみると、上野の考える「女性の実感」と一般的な「女性の実感」とはずれがあるように思えるのだ。

私たち女性はフェミニズムの恩恵を色々受けている。フェミニズムのおかげで、選挙権も獲得し、いろいろな差別もなくなってきたわけだ。
しかしながら、ここにきて、気になる調査結果もある。
女性の20代、30代、40代(子育てと仕事の忙しい時期である)の回答に注目してみると、「女のほうが苦労が多い」という回答は調査開始から年々減ってきていたのだが、途中この質問をしていない時期(1983-1993)を経て、再び女性のほうが「苦労が多い」と感じるひとが増えてきているようだ。
30代女性をみてみると、「女性のほうが苦労が多い」と答えた女性は1978年には23%だったのが1998年には36%、2003年には42%と40年前の1963年よりも多くなっているのだ!
http://www.ism.ac.jp/kokuminsei/table/data/html/ss6/6_2c/6_2c_30.htm

専業主婦が減り、女性も働くのが当たり前になって、家事負担、労働負担が女性にどっかりとのしかかってきたという見方ができるかもしれない(もちろん、女が"文句垂れ"になったという見方もできるかもしれないが)。50代、60代ではめだった変化はなく、70代では一貫して「女が楽」傾向が強まっているのとは対照的である。

フェミニストであれば「男性が育児や家事を手伝わず、女性になんでもかんでもやらせるのが悪い!男性が育児や家事を手伝えば問題は解決する!」と気炎をあげるのかもしれないが、終電でヘトヘトになって帰ってきた夫に「あなたも家事を手伝ってよ!!」といえるかという問題である。
サビ残で安月給の長時間労働、名ばかり管理職で給料はあがらず責任だけを押し付けてくる会社、無理難題をいって下請けを買い叩く顧客ーそういうもろもろに疲れて帰ってくる夫。

生きるってなんだろう?働くことってなんだろう?働くことはワーキング・クラスの呪いだってオスカー・ワイルドが言っていたけど、なんかそんな気がする。←ま、これは私の感想ですがね。

上野千鶴子は「専業主婦は奴隷の幸福」といったそうだが、「幸福な奴隷」をやめた先には「不幸な社畜」くらいしか待っていないではないか?それなら幸福であるだけ、奴隷のほうがマシであると考える人が増えてきてもおかしくはない(これがフェミニズムの失速かもしれない)。

あわてていいそえておくと、よく誤解されているようだが、上野千鶴子は「女が男なみになる」ことを目標としたことは一度もないはずだ。私の記憶では「男が女なみになる」ことをむしろ目標としていた。

女であることのプレッシャーを感じる女がいるように、男でいることのプレッシャーを感じている男はいると思う(ホモとかゲイとかそういうのとは関係なく)。
そんなプレッシャーとは無縁にありたい男や「無理っす」とギブアップしている男も確実に増えている気がする。家族の解体とか少子化とかにつながる「危険思想」という向きもあるかもしれないが、私たちは家名やお墓や先祖供養のために生きているのではないのと同様に、国家やGNPや金融資本主義のために存在しているのではない。

日別画面へ

02月22日(火)

起床時刻:07時50分

山下悦子の『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』(洋泉社)を読んだが、こんなに頭の悪い人が世の中にはいるんだなぁ、と少し驚いた。いや、主張するところには多少、共感する部分もなきにしもあらずなのだが、びっくりするくらい頭が悪い。

「頭が悪い」というときに、「ものを知らない」(知識がない)という意味でつかうときと「ものの道理を知らない」(智慧がない)という意味でつかうときと二通りあるが、この人はどちらの意味でも「頭が悪い」。

まずこのひとは「ものを知らない」。冒頭、上野千鶴子・大沢真理の「批判」(という名の人格攻撃)から始まるのだが、ピントがずれている。あんまりにもずれているので、彼女らの本を読んだことがないんじゃないかと不安になった。

巻末の参考文献をみてみると、上野千鶴子に関しては雑誌に掲載された文章と(『現代思想』「ジェンダーの正義と経済効率は両立するか」2003.1)と対談集を二冊読んだきりである。えええ!!!大沢真理に関しても、2003年1月号の『現代思想』の文章と、彼女が編集したパンフレット二冊しか読んでいない。

対談でこぼれおちた一言半句を繰り返し引用して人格攻撃するまえに、「ちゃんと本を読んでから口を開こうね」としかいいようがない。

もっとも、この方は批判対象の著作を読んでいないだけではなく、絶対的な知識が量・質ともに貧弱である。「ソース:自分と自分のまわり」で全てを語って平然としている。

参考文献や「もっと知りたいあなたのためのブックガイド」なる章をみればわかることだが、ほぼ通俗的な新書やベストセラーしか読んでいない。マンガでマルクスの伝記を読んだから、「資本論」について論じられる!と信じている人のようである。

もっとも世の中には知識がなくても、智慧のあるひとはいる。そういう人は知識がなくても、非常に鋭い洞察をするが、彼女にそのような智慧をのぞむべくもない。

「シングルが増えると世の中、やはり不安的になるのは否めない。男女ともにシングルの生活に慣れてしまった人たちは、基本的に自分のことしか眼中になく、世代を相対化できる視点が育たない」として、女性学者や政治家のなかに「私は美人でもてました」と「まったく美人でもなんでもないのに」「自慢したりするのがいるが」それが私だったら、娘や息子から「みっともない」という批判をあびせられる。だから自分は「世代を相対化」できている、とこうくるのである。

ここは笑うところなんだろうか???

さらにはこのひとは人の肩書きや経歴が大好きなようで、ここまで著作者の生い立ちなどに興味を示している人は小谷野敦くらいしか記憶にはないのだが、たまに面白いことを書く小谷野とちがって、まったく面白い部分が出てこないので(唯一面白かったのは赤川学『子どもが減って何が悪いか!』からまるまる引用した部分である)、「なんなのだろう、このおばさんは」とびっくりしてしまう。

さらには身内の話が脈略もなく出てくるのはいったいなんなのだろうか。
「少子高齢社会のひずみは専業・パート主婦に押し付けられる」という章では、「一部上場企業の管理職である夫は、長野県に単身赴任していて、毎週金曜日の夜に自宅に戻ってくる。「金曜日の夜」は、わが家にとっては、「特別」な日だ。なぜなら家族全員がそろう日だからだ。電話代を節約するために、夫の実家と自宅のコンピューターにそれぞれIP電話を接続させた。IP電話同士の会話はいくら話しても無料だからである。夜遅く、IP電話で話す日々。でもやはり生身の姿をみながら、いっしょにご飯を食べているいろなことを話すほうが楽しいのは当然である。プロ級の腕前の息子のジャズ・ギターを聴きながら、食後のコーヒーを夫婦で楽しむ、そんな金曜日の夜は私とってまさに至福の時である」とかなんとか(まだ続く)書かれているのだが、ここはまるまる削っても別に支障ないと思う。なんでこんなのを読まなきゃいけないんだ?まったく。

日別画面へ

02月21日(月)

起床時刻:10時00分

私の周りでフェイスブックがはやっている。
フェイスブックは実名原理主義だから、匿名大好き日本人(私もその一人である)にはなじまないと思っていた。
ここにきて、それも変わってきているのかもしれない。

現実で空気読んで気をつかって疲れてんだから、匿名空間でホンネ語りたい、というのが私にとってのネット空間の第一義的な意味だった。
ネット空間でも気をつかって「mixi疲れ」していた人はどのようにフェイスブックをつかうんだろうか。mixiで疲れてちゃ、フェイスブックだと過労死すんじゃないのか。

実名をネット上にさらす人が絶対数として増えてきたことについて私なりに要因を3つほどあげてみたいと思う。

①「ホンネ」と「タテマエ」の使い分けをしなくなったので、匿名にこだわる必要がなくなった
②「ホンネ」と「タテマエ」の使い分けがさらに進化した(リア充のタテマエの前にはフェイスブックは不可欠である)
③グローバリゼーションの進展により、匿名主義がきもがられるようになった(外資系の人ってフェイスブックで実名や顔写真をさらすのにあんまり抵抗ない人が多い気がする)

友人とバカリでランチ。蝦夷鹿の生ハム入りのシーザーサラダ+アクアパッツァ(目鯛)。あのかわいい鹿ちゃんがハムになってでてきたよ。シーシェパードならぬマウンテンシェパードがいたとしたら、鹿肉をどう思うのだろうか?まぁあのかわいいカンガルーちゃんをガンガン殺しても全然オッケーなお国柄なわけだから、やっぱり数の問題か。
希少性だからこそ価値がある。
コンニチの老人問題(と端的にいえばいいのに、「少子高齢化」とかいうからワケのわからんことになる)も、数の増えすぎた蝦夷鹿と同じ。年寄りが少ないときは「喜寿」だの「米寿」だの、ちやほやするが、増えすぎると、鹿と同様、「害獣」になる。「生態系」、あるいは「年金システム」を崩すからと、間引かれるべき存在となる。
おそろしや。

日別画面へ

02月20日

起床時刻:11時00分

昨日に引き続き「現代詩手帳」(2010年12月号・特集は「現代詩年間2011」)。

「今年度の収穫」というアンケート(回答者は詩人)を読んでいたら安川奈緒(とダンナの岸田将幸)が現代詩手帳の8月号の「ツィッター連詩」という企画にかみついていたのがウケた。
安川は「「誰と書くか」「どこで終えるか」の問いは一私企業のテクノロジーの偶然にゆだね、どの行を採るか、つまり「構成」の問いは編集者にゆだね、こんなことをしたら詩の書き手としては自殺したも同然であろう」
「あきらかに「詩人」たちを「参加者」としてのマスに、ジャンクに、スクラップにすることを良しとしたこの企画の性質に、どうして書き手が気づかないのか」
と憤る(実際、この企画に「激怒している」と書いている)。

さらには、瀬尾育生の『戦争詩論』をひきながら、1930年代と2000年代の同型性を語る。
「あいまいに傾く国力と、強迫的に示唆された日本語の滅びの可能性を前に、階級的不安にさらされ、「ただもう人からの「反応」がほしい、そして自分の「反応」をみられていたい」大学教師、学生、主婦、サラリーマン、誰もかれもが必死でワールド・ワイド・ウェブにしがみつき、新しいネットワーク技術への「参加」を他に寿ぐものもないから、寿いでいるのだ」とソーシャル・ネットワークの時代そのものを危惧し、怒りまくっている。

「ソーシャル・ネットワーク万歳」の声しか聞こえない中で、貴重なアンチだとは思うが、根本的にずれているとしかいいようがない。

ツイッター連詩なんて、連句の延長線上じゃないかと思うのだ。昔は顔をつきあわせてやっていたのが、今はインターネット回線を通じてやっているだけ。連句の席の「捌き」が「編集者」になっただけ。「ワープロを使って小説を書くとは何事か!」と怒っていた人と同じような滑稽さを感じる。
そういう「座の文芸」が日本には長い歴史としてあり、正岡子規的芸術観によって「近代的じゃない」って否定されたけれど、「そういうのも楽しくっていいじゃん」というノリで広がってきているんじゃないの。「作者」や「単独性」を相対化しなければいけませんねといまだに教唆する」イデオロギーなんて、絶滅危惧種じゃないのかね。

後半の部分。
誰もがネットに「見て見て」と自分の文章を書き散らす様を苦々しく思っているんだろうけれど、「文章を書く」ということを特権的に握っていたいんだろうか、この人は?

確かに、だだもれの自己顕示欲とナルシシズムにはうんざりさせられるだろうが、それは人間が本来自然に持つものなんである。自分の言うことを聞いて欲しい、認めて欲しい。彼女だってそうだろう。そうじゃなければ、チラシの裏にでも書いて自分一人で読んでいればいい話だ。

今までは、自分を表現する機会というのはある特定の人に限られていたものだ。それが今はネットを通じて自由に行える。それだけのことだ。何も本質はかわっていない。

それにしても「強迫的に示唆された日本語の滅びの可能性」ってなに?「英語を社内公用語にする」とか「小学校から英語をならう」とかに代表されるように、日本語に英語がとってかわる可能性ってこと?それが階級的不安につながるというのは、日本語しか話せない正社員がクビきられるかもしれないって焦ってるというような話なわけ?

私自身はテクノロジーによる詩をみてみたい。
つまり、コンピュータがありとあらゆる古今東西の名詩を分析し解析したのちに、新しい詩を生み出したとしたらどんなものができるか見てみたい。
チェスの名人とコンピュータの対決はコンピュータの勝利だった。
詩はどうなるのだろうか?
たとえ、コンピュータのほうが数倍すばらしい詩を生み出したとしても「詩人」が絶えることはないだろう。「人間の」チェスの名手が存在し続けるように。さらにいえば、表現することそのものが快楽だからこそ、ワールド・ワイド・ウェブにはりついて、読まれない詩や文章を垂れ流す人々がいるのだから。彼らを見下すのはくだらぬ特権意識だといっておきたい。

日別画面へ

02月19日

起床時刻:不明

「現代詩手帳」(2010年12月号)、河野聡子は「外国詩と翻訳のツアー」と題するエッセイで西原克政の『アメリカのライト・ヴァース』という本を紹介している。
その中で、西原はアメリカの詩人で評論家のドナルド・ホールが、ウィリアムズの「あかいておしぐるま」"The Red Wheelballow"を「イギリス英語へ翻訳」した結果を紹介しているそうだ。

"so much depends
upon
a red wheel
barrow"
ではじまるウィリアムの詩は
"Such an extraordinary degree of importance
is attached
to a crimzon-hued conveyance
for waste material"
とまぁ、大げさに「イギリス英語」に翻訳されていて、西原は「英語という言語の持つ階級性をこれほどうまくあぶりだしている例は、きわめて稀である」という。

それを受けて河野は「これは同時に、英語という言語全体の圏域がもっている強さのあらわれでもあるともみえる。どのような言語の内部にも、文化と歴史に応じて異なる表現、異なる概念が存在するのは当然だが、それら異なるものを相対化する視点の上で「翻訳」をやってのけるだけの豊かさを、すべての文化や言語圏が持ち合わせているわけではないからだ。
もっとも、そういう意味で豊かであるとは言いがたい日本語を母語とする人間として、私はこのことをもって英語圏をうらやむべきだろうか?そうではないだろう、なぜなら私はまさにこれらのことを日本語で読み、日本語で学んだからである。翻訳文化万歳とは、このようなときに発せられるつぶやきにほかならない」と書く。

確かに私もドナルド・ホールの翻訳には笑ってしまったが、しかし河野は何をノーテンキなことをいっているんだろうかと少々心配になってしまった。日本語が豊かとはいいがたい?それはあなたの日本語の話でしょうと。

日本は漢字文化圏の一員である。そして漢文(中国の文語)はアジアにおけるラテン語のような役割を果たしていた。階級性を豊かだというならば、日本は漢文というフォーマルな男性支配者層の言語と「やまとことば」というプライベートな、女性的な言語があった。「文化と歴史に応じて異なる表現、異なる概念が存在するのは当然だが、それら異なるものを相対化する視点の上で「翻訳」をやってのけるだけの豊かさ」をいうならば、一千年前から日本では漢詩を和歌に「翻訳」してきた。

そのような伝統の最初の転機は、日清戦争である。アジアの覇者たる中国が日本にやぶれ、漢字・漢文はアジア的停滞の象徴となり、捨てるべき過去の遺物となった。さらには、漢字の難しさこそが、アジア的封建支配の特徴であるとして、漢字の改革が各地で起こった。漢字を簡単にすること、文語を廃すこと、これこそがアジアの階級社会打破のために必要なこととされた。中国では国民の6割が漢字(正體字)が読めなかったからこそ、文字改革運動(簡体字の導入)がおこったのだと阿辻氏の著作で読んだ記憶がある。

つまり河野のように、英語のもつ階級性あるいは重層性を「豊かだ」と憧れ、日本語は「豊かではない」というのは、色々ノーテンキすぎるといえる。ベトナムや朝鮮のように歴史的、政治的な理由で、漢字を捨てた国だってある。伝統性の継承という意味では中国も同様かもしれないし、戦後、正體字を捨て、新かなを導入した日本も同様かもしれない(GHQは漢字が難しすぎるから簡略化しなくてはいけないと考えていた)。いまや候文の手紙すら、まともに書ける人はほとんどいない。

さらには翻訳で読めるんだから、英語をうらやむことはないという文章にいたっては、もうなんていうか、この人なんなの??翻訳文化の非対称性なんか、全くスルーしているんだろうな。この鈍感さはある意味すごいな。

日別画面へ