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起床時刻推移グラフ

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06月30日(木)

起床時刻:08時30分

人間はお互いを競争相手とみなしているので、連帯や共生は不可能だ、と以前も書いた。家族というもっとも愛が支配的な場においてさえ、カインとアベルのように、何かを争って(この場合は神の愛だろうが)、死ぬほど憎むってことはよくある。

家族の間柄においても、理解しあい、愛し合うのは容易ではない。ましてや他人と連帯したり共生したりすることは不可能に近い。

というのが私の理解だ。もし対立する二人や二つの集団において、連帯が可能だとしたら、共通の敵に立ち向かうときくらいだろう。たとえば、パレスチナとイスラエルが協調する一番手っ取り早い方法は宇宙人がやってきて両国を無差別攻撃することであろう。

と書いたけれど、楽観的すぎるかもね。日本においては震災・原発事故という未曾有の危機にあって、与党と野党でいがみあっているんだから。
しまいにゃ、与党内でもいがみあっている。

菅が無能だ、無能だといわれるが、無能の人間の足をひっぱって有能になることはない。より無能になるだけである(まぁ無能の極限値に達していないと仮定しての話だが)。

菅首相なんか私だって評価しないが、一年くらいは黙ってまかせればいいと思う。どうせ、批判している側だって所詮は菅と五十歩百歩なんだから(ルーピー鳩山が偉そうなことを言っていたのには恐れ入った)、日本の首相なんてくじ引きで与党の国会議員の中から決めちゃえばいいじゃん?って思うわ。

私が首相だったら、と皆も虚心坦懐に胸に手をあてて考えてみるがいい。
菅よりましになると断言できるだろうか?
私だったら、官僚とか現場の人間に全部お任せするわね。丸投げってやつね。ていうか、めんどくさいから、誰かに総理を交代してもらうだろうね。与党の誰にかわってもらうかな?顔で選んで細野かな?見かけはかなりタイプであります(聞いてない)。ただ、声ががっくり。美声だったらよかったのになぁ。外務大臣は顔で選んでレンホーね。なんだかんだいって、やっぱりきれいだと思う。まぁ菅でも私よりはいいと思う(ルックスではない、政治能力の話である)。しかし、空き缶以下の私って何?資源ごみではないただの生ごみ?

それはともかく、高橋昌一郎の『理性の限界』に紹介されたナイトとネイブのパズルを読んでいて政界を思った。これは「うそつき村の住人」のような論理パズルだ。

ある島には二種類の人間が住んでいるとしよう。ナイト(騎士)と呼ばれる人々は正直であり、彼らの発言はすべて真。ネイブ(ならず者)と呼ばれる人々はうそつきで、彼らの発言はすべてうそ。住民はナイトとネイブのどちらかでる。その場合、皆が「私はナイトである」という発言をすることになる。ナイトも自分をナイトであるというだろうし、ネイブも自分をナイトであるというだろうから。だから、その発言によってナイトかネイブかを見分けることはできない。

政界もそんなようなものだじゃなかろうか。政治家というのは玉石混淆である(=ナイトとネイブの二種類がいる)が、誰もが「玉」(ナイト)だと主張する世界なのだ。

ま、ひょっとしたら全員「石(ネイブ)」である可能性もなきにしもあらずだが。福田和也が歴代総理を採点した『総理の値打ち』によれば、中曽根康弘40点、宮沢喜一37点、海部俊樹36点、宇野宗佑35点、細川護煕31点、森嘉朗30点、小泉純一郎29点、村山富市28点と最近の総理は赤点ばかりだ。30点以下にいたっては、「石」というより「砂」といってもいいだろう。まぁ「福田がネイブなのである!」と小泉29点なら断言するだろうがな。それにしても最近の、あべしんぞーやら鳩山やら何点になるんだろう?5点くらいか?空き缶首相は3点くらいだろうか。

ま、それはともかく、政界の人間は玉だろうが石だろうが砂だろうが、誰もが「自分は玉である」という発言をする(これはゆるぎない事実だ)。政界では「私は石である」という発言は存在しない。誰もが「私は玉である」というから、本当の玉がどれか、わかんないのだ。

政界人は、「自分は玉である」というだけではなく、相手を「石である」と貶めたり(これは実に多い)して「玉」ピーアールをしてくるのだが、そもそも誰が信用できるかわからないので、一般の有権者は判断の下しようがないのだ。

それならいっそ、誰の目にもよくわかる、ルックスで人気投票しちゃえばいいじゃん?不細工な石より美形な石のほうがまだいいじゃん?というわけだ。

そうして、くじ引きでもルックスによる人気投票でもいいから、一回総理になったら一年はどんなに無能でもやらせる。そもそも、どんなに優秀な人でも、三ヶ月であっという成果を出せるということはない。最低一年は必要だろう。評判がよければ再選は可能(ただ権力の腐敗を防ぐため再選は5回まで)。もし変えたければくじ引きをどうぞ、というシステムだ。

ところで、この本(『理性の限界』)の第一章、「選択のパラドックス」はとっても面白かった!実例に即していて実にわくわくする。石原都知事の当選も単記投票方式だから当選したんだろうなぁ。

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06月29日(水)

起床時刻:08時00分

あっついなぁ~、イヤんなるなぁ~。
地球って住みにくいんじゃないのぉ?
インテリジェント・デザインっていうけど、こんなつくりじゃインテリジェントっていえないんじゃないのぉ?
やりなおし!って言われちゃうレベルじゃないのぉ?

とかいうと怒られそうだけど、そういうやつはタクラマカン砂漠にでも放置してくりゃあいいんだ。まぁ「日本一暑い町」熊谷でもいいけどさ(とか書くと熊谷市民にも怒られそうだが)。

沖縄出身の詩人、山之口貘は東京の寒い冬に辟易して「四季じゃなくて三季でいい」とか書いていたが(もちろん、「春夏秋」ね)、私は「二季」(春と秋)でいいよ。

四季折々の風情とかさぁ、腹の足しにもエアコンの替わりにもならんじゃんよぉ。いらないんだよ、冬とか夏とか。夏の存在意義ってスイカがうまいくらいしかおもいつかないよ(夏生まれなんすけどね)。

「不快(貧老病苦)を減らし、快(快適な気候、快適な椅子やソファ、面白い本、インターネット、ゴロゴロ、だらだら、おいしい酒、健康、若さ)を増すこと、それが幸福である」と私は考えているけれど、『サンデルの政治学』の小林先生は、人間の幸福=快(楽)と限定していいのだろうか?と疑問を呈しておられれた。ま、私に関しては限定してもいいのである。

ついでにいうと、小林先生は「合理的な自己」(=他人ではなく自分の利益を考える)という伝統的な英米系の発想に疑問を呈す。「実際の人間は他の人にも関心があるから」貧しい人を助けようと考えるというが、これだって「そんなこたぁないよ」といいたくならないだろうか?私たちが他人に関心があることは完全に同意するけれども、だからといって、他人が貧しいから助けようって思うかね?

(人間の行動は実際のところ非合理であるという行動経済学的な言をまつまでもなく、人間は完全に合理的になれない。完全な知識や情報を持つことはできないし、不完全な情報処理能力にしか持たないからだ。しかし、結果を伴わずとも「自分の利益を考えて行動する」のはごく普通だと思うのだが?利他的行為の多くは、最終的に自己利益を最大化するためじゃなかろうか?たとえばwikiはボランティアで自分の知識をシェアしている利他的行為とみえるが、自分の知識をつづることや人に伝えたりすることが楽しいから、書いているのではなかろうか?)

「そんなことない!私だって、飢えている人や貧しい人、病気の人は純粋に「かわいそう」って思うもん!いっぱい寄付だってしているもん!」という人もいるだろう。

でも、飢えている人や貧しい人や病気の人が自分ちの前に群れをなしていたら、どう思います?ホームレスの集団が自分ちの前にダンボールハウスをつくっていたらどうします?隣近所も同じ目にあっているならともかく、ピンポイントで自分んチだけ。換気をしようと窓を開けたら、年季のいったホームレス特有の悪臭が漂ってきたとして、「かわいそうに」と思えるだろうか?ごみ屋敷だって、精神的にいかれた哀れな老人が住んでいることが多いんだけど、「かわいそう」っていうより、悪臭と虫の大発生でただの大迷惑だよね?

そういう人たちは自分たちの目の届かないところに、どっか隔離してほしいと願うのが普通なんだよ。

「貧しい人たちがおかわいそう。助けてあげたい」ってのはそうだろうけど、よくよく聞いてみりゃあ、貧しくてもけなげでまじめで前向きにがんばっていて、臭くもなくて謙虚な人なら助けたいけど、そうじゃないなら自己責任、どっか行けって話でしょう?

それどころか、積極的に人の不幸を願う部分も我々にはある。人の不幸が自分の幸福を高めるという要素は確実にある。
人の不幸は蜜の味っていうじゃん?
その証拠に東日本の大地震があった翌日だったか、韓国の新聞は「日本沈没」ってうきうきして書いてたじゃん?

もちろん、その韓国からも助けようっていうオファーがあって「ありがたい!ありがたい!」ってマスコミは大騒ぎしていたけど、それはなんつうの、今まで自分をいじめてきた社長が乞食に零落して死に掛けているのを「過去を水に流して救ってあげよう!」て思うようなものであって、別にそれほど感動するほどのことではない(逆に感動するのは、これくらいの善意ですら想定外になるほど、自己中心的で執念深い人間がこの世にあふれかえっているからだろう)。「自分って優しい!善行をつんだ!」ていう自己満足も得られるしね。

だけど、社長が死掛けの乞食から死掛けではない乞食になることは許しても、また社長の座に返り咲くのは絶対に許さないでしょ?

つまり大不幸状態から人を救ってあげたいという意識は我々にはあるけれど、自分以上に「幸せ」に他人がなるのは絶対に許せないという意識もあるのだ。だから足をひっぱるわけ。特に嫌いなやつは、ほどほど不幸であるほうがうれしい(ものすごい不幸だとさすがに、ウキウキできない人のほうが多かろう)というのは韓国をみるまでもなく、よくある話なのだ。

人間ってそんなもんなんだよ。
クズなんだよ。
なのにサンデルは「共通善」とか「美徳型正義」とか言うんだけどさ、寝言は寝て言えだよ(とか書くとまた、叱られそうだけど)。

サンデルはアリストテレス的目的論の立場のようだが、アリストテレスは奴隷制を擁護した。もちろんサンデルは反論する。アリストテレスは奴隷制が正義にかなうためには、社会における必要性と、奴隷にふさわしい人がいる(奴隷としての自然性)という二条件が必要だが、アテネの奴隷は戦争に負けて奴隷になった人だから、生まれながらに奴隷にふさわしい人ではない。つまり、アリストテレス自身の概念で奴隷制を否定しているとして、「目的論は自由を抑圧しない」という。

ていうかさ、そんなもん、「戦争に負けたやつは奴隷にふさわしい」って議論になるに決まってるじゃん?もともと奴隷根性だから、戦争に負けたんだって言い出すやつが絶対いるって。

だいたい「目的」「必要性」「自然性」ってすべて恣意的なものじゃん?サンデルにいわせればフルートはフルートが上手な人のものであり、テニスコートはテニスが上手な人のものである。それが目的にかなうものであり、その人の自然性にもかなうものである(だから大学がマイノリティ枠を設けるようなアファーマティブ・アクションに反対する。大学の目的は学問を究めることであり、学問を究める適性のある人が行くべきであるからだ)というんだけど、誰にどんな適性(自然性)があるかなんて、神様じゃないんだからわかんねぇだろうがよ?

歴史的にいえば、女性は学問に対する適性がないってことにならないか?男女平等の教育機会が与えられてソコソコ時間がたつのに、ノーベル賞を受賞した女性はめっちゃ少ないじゃん?

それなら、女性には勉強ではなくて、家事裁縫女大学を教えたほうがいいんじゃないの?それに女性は妻や母であることのほうが、独身の学者やサラリーマンであることよりも「自然」じゃん?

女の教授候補と男の教授候補がいて、どちらもいままでの業績はほぼ同じで、優劣つけがたかった場合、歴史的に目的論的に考えるなら、男を採用したほうがいいということになる。
というのも、歴史的・実証的にみて、女の研究者と男の研究者を比較すると男の研究者のほうが結果を残しているからである。一部のフェミニストが主張するように「男性支配の世の中だから、女性の研究は抹殺されるからこんな結果になるのだ」というのなら、なおさら、男性をとったほうが、成果を残しやすいから都合いいじゃないか。

ついでにいうと、アジア人と西洋人が同じように最終候補で残った場合は、西洋人をとったほうがいいことになる。歴史的にいって、偉大な発明や理論は西洋人がなしたものであるからだ。

別に女性やアジア人をけなしているわけではなくて、「自然性」(適性)なんつーものはわからないから、実際には恣意的な運用になるよといいたかっただけだ。アファーマティブ・アクションだっていいとは思わないが、目的論だって似たりよったりだ。

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06月28日(火)

起床時刻:08時05分

バイト。憂鬱。激しく憂鬱。
お昼はアボカド豆腐丼なるものとサラダとスープ。

バイトの帰りに『理性の限界』『知性の限界』(高橋昌一郎・講談社現代新書)と『心はプログラムできるか』(ソフトバンク新書・有田隆也)を購入。前者は小飼弾が『新書がベスト』ですすめていたんだけど、いやあ、これ面白いわ。

ケチな私は先に『理性の限界』だけを買って隣接するコーヒーショップで読み出したんだけど面白くて(さっさと家に帰ってメシでもつくれよ、ゴルァ!という指摘はもっともだが、家に帰るとゲームしなくちゃいけないんで本が読めないのだ。ウチは家事はやらなくても怒られないが、ゲームをやらないと怒られるのだ)、コーヒーショップを出た足で『知性の限界』もこうてもうたわけである。

私は以前に「本は借りるな。買うべし。その故は自腹を切らなければ知識が血肉とならないからである」という文筆業者圧力は無視せよ!、本は図書館で借りるほうがダンシャリ的にも一番いいのじゃ、ボケェ!と書いたが、実は私もついつい本を買っちゃうこともある。ダンシャリアン(え?)として申し訳ない。

本屋に入るともうダメだ。
貧乏人ゆえ、なるべく買わないように欲望と闘うのだが、ついつい誘惑に負け、今日みたいに言い訳をして買ってしまう。

今日の言い訳は「わたしさぁ、ずっと死にたいって思ってたじゃん?ていうか、もう、本当に死んじゃうかもしれないじゃん?節約して子孫に美田を残そうにも子孫いないじゃん?老後に備えるっつったって、死んじゃえば自分の老後もなくなるじゃん?その前に地球が滅亡する可能性もあるじゃん?それなら、今を楽しんじゃえばいいじゃない!」というものである。

たかだか新書三冊買うのに、地球滅亡まで出す始末である。sinzyさんの会社が倒産して、小額ながら託していたお金がパァになっちゃったから、その分くらいはためなきゃなぁとがんばっているんである。しかし悲しきバイトの身の上、いつになったらたまることやら(つーか、sinzyさんが復活するほうが早いような気がするんで、むしろ私のかわりにがんばってください。君ならできる、YES, YOU CAN!!←他力本願の本領発揮)。

そういや、知人の知人が出した新書がめっちゃ平積みされていて驚いた。カス本ばかり出す新潮新書であった。
小飼弾は講談社新書はコンセプトが迷走していると書いていたが(それにはちょっと同意するんだけど)、私にいわせれば、一番の駄本の宝庫は新潮新書である。

内容がめちゃくちゃ、スッカスカのみならず、字も大きく、行間も広いから、ぎゅっとまとめたら半分の厚さになるんじゃないか?

年寄り向けなのか、年寄りにありがちな独断的な思い込みが書いてある本が多い。

『バカの壁』
『国家の品格』
『日本辺境論』
『人は見た目が9割』
『いつまでもデブと思うなよ』
ね?

典型的クズ本ばかりでしょ(ま、実際読んだのは上の三冊だけなんだけど)?
コガイも裏づけのないロジックを重ねる「むかつき本」が多いのがこのレーベルの特徴と書いていたけど、一方で彼はクズ本を読むことも有意義で、クズ本に触発されて自分の考えを深められるといっていたが、それは金と書棚のスペースがありあまっている人間のいうことである。

私はだいたい新潮新書は図書館で借りる必要すらなく、立ち読みで十分と思っている。ていうか、立ち読みでも読む必要はないくらいだ。

私は幻冬舎の本は絶対買わないし、新潮新書もまず買わない。そう思って本棚をみたら新潮新書から出ている伏木亨の『コクと旨みの秘密』をうっかり買っていたようだ。でもその横においてある、ちくま新書の『人間は脳で食べている』(同じ著者による)のほうがよかった(気がする。『コクと旨みの秘密』も面白かったが)。

ちなみに私の本棚は単行本・文庫・新書などの版型別で、著者別になっているので、違うレーベルでも同じ著者で同じ版型なら隣どおしになるのだ。最近読んだ本や読みかけは手前にぐちゃぐちゃにおいてあるんだけど(既に本棚のキャパを越えているので、そろそろ古本屋に売るか捨てるかしなきゃなぁ)。

新潮新書嫌いだけど、コガイのすすめる『貝と羊の中国人』(加藤徹・新潮新書)は面白そうなので買おうかなぁ。

ちなみに私は岩波新書も結構はずれが多い気がする。

逆にレーベル買いができそうなのは中公新書とちくま新書かなぁ。
はずれもあるけど。

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06月27日(月)

起床時刻:10時18分

今日の気分。今日の気分は「死にたい」かなぁ。
いや、「死にたい」じゃないなぁ。
「~したい」とか、そういう積極的な気分はないなぁ。
高いところから飛び降りたいとか、そういうのはないなぁ。
面倒くさいよなあ。
「生きていたくはない」が正しいなぁ。

私は基本的に「~したい」というのはないなぁ。
「~したくない」というのしかないなぁ。
一番したくないのは、もちろん仕事だよなぁ。
仕事をしたくない。
そしたら食い扶持がなくなるから、生きてはいけない。
じゃあ、生きていかなくてもいいや。
まぁこんな感じだなぁ。

死ぬのもいやなんだよなぁ。
痛そうだし、苦しそうだし、なんといっても人に迷惑をかけるでしょう。
飛び降り自殺のぐちゃぐちゃ遺体を片付ける人に申し訳ないでしょう。
私、小学校のころ、近くの踏み切りで待っていたら、おばあさんが特急電車にひかれる事故にでくわしたことがある。音がしたと思ったら、肉片と体液が私の自転車にぴちゃっとかかった。それですごく気分が悪くなった。
「突然の事故死でおかわいそうだわ」なんて思わなかった。
同情よりも気分の悪さが先にたった。

ただの肉片なのに、ものすごく気分が悪いんだ。
なんでだろう?
清めの塩みたいな、衛生的に言ってなんの意味もない儀式で、少しは気分がよくなるんだから、不思議だ。
私の中にも原始人がいて、ただの肉片に「穢れが多い」と感じるわけだ。

内田樹が対談本『現代霊性論』(内田の電波っぷりがよくわかる)で、葬式の際の清めの塩をさかしらな論理でやめようとする動きがあるが、そういうのは大嫌いといっていたが、対談相手の浄土真宗の坊さんが実は浄土真宗が清めの塩を反対しているんだと、いいにくそうにいっていた。

私たちの中の原始人は遺体を穢れとして扱う。
死や遺体に近い職業は穢多として忌み嫌われてきた。
しかし、仏教はそもそも穢れを認めない。
仏教は原始人の宗教ではない。
真宗は穢多の側に寄り添う。

とはいえ我々には「葬式が穢れている」と感じる原始的な感情もあるわけだから、塩を用意しておくのを非難するつもりはないけれど、それ(清めの塩を配ること)を正義のように語られても「ハァ?」と思うだけである。

内田ジュはスピリチュアル・カウンセラーの江原によく似ていると思う。
内田が売れているのは知的風味(まやかし的な)をまぶした江原だからだろう。

両者とも直感的な思い込みにしたがって、断定的なものいいをする。
そのものいいが伝統的な規範からはずれることはない。
江原は「前世がみえる」という観点から常識を補強し、内田はつまらん理屈づけで飾り付けてみせる。

たとえば、内田はこんなことを言う(手元に本がないからうろ覚えだが)。
繁華街のある場所は「魔」だか「気」だか「磁場」だかの理由で、人間は住むべきところではない。昔からそういう場所を避けるのが人間の智慧であった。たとえば大阪の梅田がそうだという。

福知山線の大事故はおこったところが、~塚というところで、塚がつくところは昔から墓があったところだ。そういうところは気をつけたほうがいい。

「昔からの智慧、慣習、伝統には意味がある、現代の半可通な知識であれこれ言うべきではない」と内田はいう。

梅田はどうだか知らないが、京都駅の反対っかわ(どっちを反対というのかはあれだが)の開発がずっと遅れていたのは、もともと部落があったからだというのを関西在住の彼なら知っているだろう(京都出身の人は実に細かく、あそこは元部落やったとか、ここは柄が悪いとかいうのを知っている。車で大阪に行くのだって、そういうところを避けて大回りしている人もいるくらいだ。内田先生に言わせれば、そういう場所は伝統的に「魔がさす」悪いところなので、避けるのは賢明であろう)。

部落があった場所は「住むにはふさわしからぬところ」が多い。だから西日本では「部落の近く」には住みたがらない。それは地盤がゆるかったり、川のそばなど洪水で家が水浸しになったりするような悪条件に加えて、道が狭いなどの開発の遅れが理由である(もっとも同和利権で「普通」より潤っているところもあるが。しかしそういう一見「住みやすそう」なところでも、元部落という、歴史的に一般人が避けてきた場所であると知ったならば、内田だったら避けるだろうね)。

ある場所に過剰な意味の読み込み(「良い気・悪い気がある」「磁場がよい・悪い」など)を内田はするが(梅田の場合は住むにはよさそうなところだが、人が住まなかったのは「気」が悪いせいだろうという理論なのだが)、私はそれが嫌いだ。私の中の原始人的感情でいえば理解できる話だけれど、そこにしか住めない人たちがいるのである。昔なら身分であり、今ならお金の事情だ。

穢れを厭うのは、伝統的な、ある意味自然な感情だ。なるべく火葬場は遠くにあってほしい、墓だって遠くにあってほしい、ごみ処理場は遠くにあってほしい、下水処理場も遠くにあってほしい。なるべく穢れから離れたところにいたい、穢れの多い人はこっちくんな。そういう原始人的エゴを丸出しにして擁護しているのが、江原と内田なんだ。
私たちの存在そのものが「穢れ」であり、「ごみ」「排泄物」「遺体」という形で不断に穢れを吐き出しているというのに。

対談相手の坊さんのほうはまともだが(内田を全力でヨイショするのが見苦しいくらいで)、内田は得意げにつまらんことをいろいろ語っている。たとえば、ネガティブなことは予言成就の観点からも語らないほうがいいとかさ。ネガティブさゼロ、いつも前向きなsinzyさんの会社も倒産しましたけどね。

まぁ私のようなネガティブがいいとは思わないが、「言霊」的なことを恐れて、予見できるいやな未来を語らないことは知的怠惰であろう。
政治家は選挙のときに伝統的に地震対策を語ってこなかった。地震を語ると落選するからだ、と聞いたことがある。「いやなことは聞きたくない」というのもあるだろうし、「言葉にすることでいやなことが実現したらどうするんだよう」という言霊信仰もあるだろう。戦争中もきっと、英米が勝つようなシナリオをいうと、「予言成就しちゃうから、そんなこといっちゃいかん!」と内田みたいな非論理的なおっさんが激怒しちゃったりしたんだろう。

内田とか勝間とか(考え方のベクトルはちがえど、知的レベルと人格は似たりよったりだろう。世の中の弱者を完全に無視して半ちくなことを語っておる)、なんでこんなに人気なのかさっぱりわからんわ。まぁ私にとってはリトマス紙だわなぁ。

なんか変な方向に話がいってしまったな。。。

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06月26日

起床時刻:10時56分

昨日はAM4:00過ぎまでゲーム。
疲れた。

今日はPM2:00くらいからAM3:00過ぎくらいまでゲーム。
夕飯はデリバリーのピザ。
疲れた。

週末(と平日の夜)は家にいると強制的にゲームをしなくちゃいけないから、買い物に行ったときにコーヒーショップで本を少し読んだ。でも帰るのが遅いとまた、ぶーぶー文句を言われるので、あんまり読めなかったんだけど。

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06月25日

起床時刻:09時10分

『サンデルの政治哲学 <正義>とは何か』(小林正弥著)の第四講「遺伝子工学による人間増強」反対論-「完成に反対する生命倫理」を読む。

サンデルは「遺伝子操作や薬物投与で、超人になる!」という増強肯定論に反対する立場だ。

彼は生命の本質を「与えられたもの」「天与のもの」(giftedness)とみなす。したがって彼は、テクノロジーによって人並み外れた能力をもとうとすることを反対する。それは傲慢であるというのだ。

また、サンデルは、伝統的に親の子に対する愛の規範は「無条件の愛(unconditional love)」であったという。どんな「ユニーク」な子でも無条件に親として受け入れ、愛するべきであるという規範だ。デザイナー・チルドレンをつくることはそれを否定してかかっている。それは親の子に対する愛情の「変容させる愛」(しつけのようなもの)はあるかもしれないが、「受容する愛」(無条件の愛)を欠いていると、サンデルは言うのだ。

どんな望ましからぬ性質を持って生まれても、天与のものとして受け入れるべきである。天与のものであればこそ、「たまたま」ある家庭にそういう子が生まれた(逆にいうと、自分ちにもそういう子が生まれる可能性がある)という意味で、共感と連帯が生まれる。

遺伝子デザインにより障害児を産まなくできるのであれば、障害児を産むのは自己責任になり、極論すれば「親の子供に対する義務を怠った」として叱られかねない。これは共感や連帯という、サンデルのいうところの「善き生」と真逆であろう。

教科書的にはそのとおりですね。
としかいいようがないが、サンデルの議論は左巻きの人間が陥りがちな、根本的な間違いがある。

それは人間には「共感」や「連帯」は不可能だということだ。
親の子に対する「無条件の愛」なんてただの幻想だということだ。
「無条件の愛」を持てるのは神や仏ぐらいである。

人間の本質をそもそも見誤っている。つまり前提が間違っているのだから、その結論も間違っているのだ。

人間なんてのは、出会った瞬間に自分と相手のどっちが上でどっちが下か、すぐに検討するものなのだ。犬や猫と同じである。
そんな人間に連帯や共生ができるわけないじゃないか。ただの競争相手なんだから。

たとえば私たちは障碍者に対する共感を持つことは可能だろうか?
本人ではないのだから、本当に共感することなんかできない。
「コミュニティによる連帯と共生」とは「助け合い」だと思うが、常に助けられる立場でいることのいたたまれなさだってある。会って御礼を言わなくちゃいけないボランティアの支援を受けるよりも、銀行振り込みのお金を受け取るほうが楽なことだってあるだろう。

人間は誰だって人を助けたいのだ。これは人間の「善き部分」ではない。エゴだ。「いいことした」という満足を得たいのだ。

あるいは相手が障碍者であれば、確実に競争相手にならないとわかって、心からの共感と愛情を感じるかもしれない。でも、仮にその障碍者と同じ仕事に応募して、障碍者であるからという理由で障碍者のほうが採用されたとした場合でも(大企業は一定人数の障碍者を採用しなくてはいけない。補助金なんかも出るんじゃないか?よくしらんけど)、心からの共感と愛情を感じることができるだろうか?

なんであいつが?!
自分より無能なのに?!
アファーマティブ・アクションでもよくこういう問題は出てくるよね。

社会的公平感を得るためには、マイノリティ枠採用者が「無能」でなくなればいい。本当の平等を目指すには、エンハンスメントしかない(ただし、平等をいうなら、金によるテクノロジーへのアクセスを全世界で平等にするということがその前提してある)。

だいたい、私たちは遺伝子操作やドーピングを嫌うけれども、一方で、
「遺伝子操作や薬物投与で、病気を克服する!」
というスローガンであれば、多くの人が賛成するだろう。

「病気」→「普通」に至る過程であればエンハンスメントも容認される。
しかし「普通」→「優秀」に至る過程においてはエンハンスメントは否定される。

しかし「病気」「普通」「優秀」の線引きはそもそも恣意的なものだ。まわりが全員「優秀」になれば「普通」が「病気」になる。

私たちは本質論的には全員エンハンスメント主義者なのだ。
まぁ、神様のお告げかなんかしらんが、輸血を拒否した「ものみの塔」みたいに宗教的マジキチグループだけが、生命を天与のものとして認めているといっていいだろう。

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06月24日(金)

起床時刻:08時00分

今日もバイト。
正確ではない一次データをこねくりまわして、足したり引いたり掛けたりしても、そのアウトプットは正確ではないわけで。

はーあ。疲れた。
そんなどーでもいい資料でも間違えちゃいけないのさ。
どーでもいいどころか、ミスリーディングなのにさ。

私の知ったこっちゃないけどさ。
穴掘って埋めろといわれれば、穴掘って埋めるだけさ。

バイトを終え会社を後にすると、島倉千代子の名曲『人生いろいろ』の替え歌がふと脳裏をよぎった。その名も『人生くたくた』だ。

人生くたくた
男もくたくた
女だーってくーたくた、くたびれてるの~♪

これじゃヒットはしないよなぁ。

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06月23日(木)

起床時刻:07時45分

バイト。
小飼弾の『新書がベスト』には、コラムが二つ載っているのだが、両方とも深く首肯できるものである(ていうか、ハードカバーは自己満足とか、昔より今の若者のほうが活字を読んでいるとか、年々我々は賢くなっているとか、だいたいの彼の主張は深く首肯できるのである)。

そのコラムで英語圏の出版事情について語っている。
「新書のすばらしさ」は日本だけの特殊事情だという。「英語圏のマーケットは日本語よりもはるかに大きい印象がありますが、出版に関してはそれほどではありません」。

母国語、公用語以外も含めると、英語人口は14億人いる。
日本語人口の10倍以上だから、出版市場も10倍以上あってよさそうだが、実は英語の出版市場は日本語の3倍程度にしかすぎない。
比率から言えば、英語圏の読書人口は日本よりもずっと少なく、本棚のない家が普通だという。

その背景として、ブック・クラブの存在をコガイは指摘するが、私が思ったのは、普通に彼ら本読まなくね?ってことだ。

私がかつてロンドンに住んでいたとき、周囲の英国人に「お勧めの本を教えて」と言うと、まず「本なんか読まない」という返答がかえってきた。

私の周りに集まっているのが、そもそも読書とは無縁の衆生であったのだろうか?しかしオックスブリッジ出ではなかったものの、一応、彼らは大卒のホワイトカラーなんである。

通勤電車の中で観察してみても、ロンドンでは本を読んでいる人の数が少ない印象があった。日本だと、本を読んでいる人こそ多くはないが、なんらかの活字を読んでいる人が多い。新聞、雑誌、漫画を読んでいる人は少なからずいる。

ラグビーやサッカーには熱中するが、活字ときくと、青菜に塩のようにしおれてしまう、何かそういうものが英国人大衆の中にはあるのではないかとうすうす思っていたのだ。

新井潤美さん(中公新書からも良書を出している)が『やんごとなき読者』のあとがきで書いていたが、「「知的ではない」ことがイギリスの上流階級の「美徳」のひとつであると、上流階級を手本として、イギリス全体が目指す「美徳」ともみなされるようになる」と書いているように、イギリス人は「知的であること」を美徳で思っていないし、読書にも「キョーミない」んじゃなかろうか(唯一、お勧め本としてニック・ホーンビィをあげた人はユダヤ系であった)。

日本人を含む中国人、韓国人などの東アジア人は活字好きな印象がある。
その理由は三つほど思いつく。
まず一つ目は伝統だ。儒教圏の人間は、教養と人格を磨くためにはまず「四書五経」に通じてなければいけなかった。読書を重んじるのはこの伝統である。

二つ目は後発国であるということだ。
「西洋文明に追いつき、追い越せ」というのがスローガンであるこれらの国々では、刻苦勉励を美徳とした。国の富の蓄積がそもそもないから、無為徒食の輩を養うような、「溜め」は少なかった。

日本では昭憲皇太后御自ら、「金剛石も磨かずば 玉の光は沿わざらん 人も学びて後にこそ 誠の徳はあらわるれ」と勉強と徳を結びつけた歌をお詠みになっているのである。
「読書しないこと、知的ではないこと、勉強しないこと」が美徳となるイギリスは、やはり国(の上流階級が)がそれだけ、とてつもなく豊かで、地位を脅かされることはないと余裕ぶっこいていたのだろう。日本だとかつての支配階級の武士たちも、明治維新以降、幕府の後ろ盾を失い、余裕なんかとても持てなかった。

三つ目は、一つ目、二つ目の理由にも関連するが、学歴大好きな民族性である。中国・韓国は科挙以来のペーパーテスト至上主義だから、子供は勉強をがっつりさせられる。日本は明治維新以来、立身出世のメインツールが学歴になったので、子供への勉強圧力が高まった。(英米の子供に比べて、中国人・韓国人の子供の勉強時間は著しく長いことは調査の結果明らかになっている。日本人の子供は最近は英米に近づいているようである。国が豊かになると余裕ぶっこいて勉強しなくなるのであろうか?)。

勉強をさせられると、自然と文字を読まなくちゃいけないから、活字に対する抵抗が少なくなる。そして教科書や参考書ばかり読まされていると、普通の小説やノンフィクションを読むことが「息抜き」に自然となり読書家を増やすのだ。

いい例が漫画である。英国人は漫画でさえ読まないが、東アジア人の子供は誰もが漫画が大好きだ(漫画といえば、コガイのコラム「文字だけの本とコミックの違い」も、深く頷ける内容だった。だいたい、漫画をよく読む子は漫画をまったく読まない子よりも読書家になる可能性はずっと高い)。

小飼弾は「生き残るために読書せよ」という。
それならば、英米圏に比べて読書量の多い東アジア儒教圏は、21世紀においても生き残る可能性が高いってことになる。

しかし、革新的アイデアがいつも英米からやってくるのはどうしてなんだろう?韓国人の子供の勉強量はハンパないが(世界で一番、死ぬほど勉強している)、ノーベル賞受賞者って今まで一人も出ていなかったような気がする。i-podだって、ハリポタだって、レディー・ガガだって、ビートルズだって、24だって、「ハイ、こちらIT課です!」だって(なんか一個だけマイナーなのを入れてしまったが、このイギリスのドラマちょー笑えたw)英米からやってきた。

なんでだろうね?読書では秀才になれても天才にはなれないってことなんだろうか。それとも非英語圏のハンディキャップなのかなぁ。だってハリポタより面白い漫画とかラノベとか、日本にいっぱいあるもんなぁ。

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06月22日(水)

起床時刻:10時15分

梅雨の貴重な晴れ間。

昨日の日記でも書いたが、小飼弾の『新書がベスト』(昨日の記事は結構気に入っている。自分がなぜ本をよく読むのかわかったような気がするから)。その中に読書の効能としてテレビを見る時間が少なくなると書いてあったが、それは彼が他人(家族)にテレビを見ることを強制されない立場であるからであろう。

夫の趣味で行きたくもないキャンプに行かされたり、夫の付き合いで会いたくもない知人に会わなきゃいけないように、夫のために家族がテレビを見させられることだってある。家族団らんの場で、一人読書をしている奥さんは許されるであろうか?お父さんなら「書斎でお勉強」と称して引きこもることもできるだろうが。

自分の意思のまま、時間をすごせるのは一家の大黒柱の特権である。しかしその大黒柱は、上司に仕え、顧客に仕え、同僚に根回しし、サービス残業に耐え、満員電車に耐え、ノルマにも耐えたからこそ、家ででかいツラができるのである。

まぁそんなわけで、「時間の使い方は自分で決めることができる」、「自分の意思で自分の生活をコントロールできる」と思えるのは周りを犠牲にしてなんとも思わない特権階級(「わがまま」ともいう)であるか、単なる幻想である。
実際のところ、子供は親や先生の言うことを聞かなきゃいけないし、妻は夫や姑の言うことを聞かなきゃいけないし、孫請けは下請けの言うことを聞かなきゃいけないし、下請けはトヨタや東電の言うことを聞かなきゃいけないし、トヨタや東電だって消費者や官僚の言うことを聞かなきゃいけないし、官僚は政治家の言うことを聞かなきゃいけないし、消費者は金がなけりゃごみくずだし、まぁそんなこんなで、自分の自由意思の入る余地など、人生にはほとんどないのだ(もちろん、子供は先生や親に従う必要はない(以下略)という考え方もあるが、そう主張して人に認めさせるのはいろいろめんどくさいんである)。人生、通勤電車で何の本を読むかくらいしか決められないのだ(それだって満員電車でおしくらまんじゅうでは、分厚いハードカバーの本なんぞ読めないだろう)。

前述のコガイの本に書いてあったが、大前研一の『時間とムダの科学』によれば、自分を変える方法は「時間配分を変える」「住む場所を変える」「付き合う人を変える」の三つしかないそうだが(「決意を新たにする」が一番意味がないというのには笑ったが)、それらだって制約線が既にひかれているじゃないか。
今まで自動車の組み立てしかやってこなかった人が、自分を変えようとしても、能力(職歴)がなければ、結局、車の組み立てから冷蔵庫の組み立てに行くしかないじゃないか。
そして低い生産性を長時間労働で補うしかないじゃないか。
そうなると自然と低賃金の長時間労働になる。
土日は疲れているから、家で一人でいる。恋人もできない。
住む場所も予算制約の中で自然と決まってくるだろう。
何が変わるというのだろうか?

*******
これまた孫引きだけど、佐々木俊尚が『ネットがあれば履歴書はいらない』(宝島新書)でいったように「ネット上で行った活動が人を評価する指標となりつつある」そうだ。
確かに「フリー」の次に出てきた「シェア」という考え方の根底もネットにおける信用を担保として成立するものだ。

とはいえ、私は見栄をはるのは履歴書だけで結構だと思う。
いつも書いているように、ネットの匿名空間で素の自分でいたい。そして素の自分を評価する人なんてこの世に一人もいないと思っているから(何しろ戯言泣き言不平不満愚痴しかいっていないから)、ネットの活動でもやはり「書類選考落ち」になるだろう。それが私の本質なのだ。素でない自分も素の自分もくず、かす、ごみ。
死ねばいいのに。
でも死なないのは、現状にそこまで不満がないからであろう。幸せなぬるま湯につかっているからなのだ。「だんだんお湯が冷めてきているなぁ、このままだと風邪ひくなぁ」と思いながらも、お湯からあがると凍え死ぬなぁと思い、しつこく湯船につかっている、そんな状況なのだ。
どこからか死神がやってきて「あなたの寿命はこれまでなんで、お命頂戴いたしやす」といわれるまで、しつこく湯船につかっているのだ。それは今日かもしれない、明日かもしれない、30年後かもしれない。もし1年後に死ぬと決まっていたらどうする?何をする?というよりも、何をすることが許されるのだろうか?

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06月21日(火)

起床時刻:07時31分

またパソコンが落ちたorz
早起き日記は下書きの自動保存機能がないし、記事の公開・非公開を選べないし、写真も載せられないし、不便なことこの上ないのだがいやなのだが、広告がそれほど多くはないという一点だけが気に入っている。まぁそれでも、(こんなクソ機能のくせに)広告が出てきてうっとうしいのだが。他の日記サイトにうつろうかな。

昨日は小飼弾(変換出ねぇ)の『新書がベスト』を読んだ。
いい意味で、さらっと読める。文章がこなれている。きっと著者が今まで何度も言ったり書いたりしてきたことだからだろう。更にいうと、だいたい私が思っていることと同じことを書いているから読みやすいのだろう。自分とまったく違う意見だと読むのも苦労するのだ。

私がアニメを見ながら本(新書)を読んでいたら怒られたと書いたが、この方はすごい。二丁拳銃読みと称して、新書を右手と左手にもって読んでいる。うちのだんなに「ちゃんと本は真剣に読め」とか言われて怒られそうだ。

しかもコガイダンは一冊10分、一日10冊くらい読むそうだ。
私がコガイのこの本を読むのに、バイトの行き帰り+ランチの休憩時間をつかったから、いっても4,50分はかかってる。こんなうっすい本で!

コガイは「生き残るために読書をしろ」と言う。
今の時代、誰もが知的なアウトプットを求められている。
単純作業は機械ができる。人間は機械をつくることやオートメーション化する仕組みをつくることを求められている。
そのような機械にはできない能力を磨くためには読書が一番手っ取り早い。
更には読書の感想を書くことも文章を書く能力向上(さらにはアフィリエイトによる収入)をもたらす、そうな。

だいたいこのテの本を書く人は、自分が本を出しているせいか、図書館で借りるな、身銭をきらないと知識は身につかないって言っているけど(日垣隆もいっておった)、それって義務教育全否定じゃん?
確かに身銭を切れば真剣度は増すだろうが、身銭を切っても身につかないやつは身につかないし、身銭を切らなくても身につくやつは身につく。

むしろ環境が重要なのだ。
インターナショナルスクールに行って英語が話せるようになるのは、その子が身銭を切ったからではない。まわりが英語を話すから自分も話せるのだ。
読書をするのも、まわりに本があるから読書をするようになるのだ。子供に読書をさせたい親は親自身が本を読め、さすれば子供は勝手に本を読むとこの本の中でコガイは言っているが、それはそのとおりである。『やばい経済学』(これはハードカバーだけど買っちゃったな)にも書いてある。

だから、貧乏人たちよ、本を読むには本のある環境に身をおくことが大切だ。金持ちどもの「身銭論」や「自腹論」など無視するがいい。安心して図書館で本を借りるがいい。

ただ、将来読み返したくなる+絶版になりそうな本だけを買っておけばいいのだ。夏目漱石の本なんか、いつでも図書館においてあるから、読みたくなれば図書館にいけばいいんであって、別に家に置くこたぁない。よほど大好きで、何度も読み返したいというなら別だが。

コガイダンもいっているが、本を買うと本を置くスペースが問題になる。広々とした家の金持ちならともかく、狭いウサギ小屋に住む貧乏人は本を置いたら、自分の寝る場所がなくなってしまう。その上でも図書館がベストなのだ。

とここまで書いて気づいたのだが、コガイダンは「生き残るための読書」=「機械にはない生産性を身につけるための読書」をすすめている。それでこそ、コガイのように広々とした素敵な家に住めるわけだ(著者の自宅書棚の写真が最初に出てくる)。

私のように、新書のための書棚をおくどころか、新書一冊が時給に等しい場合、既に機械と競合しているということである。

つまり生き残っていない。

私は、既に死んでいる!!!

最初っから、彼とはフィールドが違うのだ。
コガイは「本を読まなきゃ、機械の部品的な奴隷労働者になるぞ」といっているのだが、私はすでに最初から機械の部品ような奴隷労働者なのだ。

コガイは今の時代、誰もが企画書なり報告書なり、文章を仕事で書く必要が出てくる、例外は特殊な職人くらいである、というようなことを書いているが、おいおいおい、派遣社員(全労働者の三割ぐらいはいるだろう)は、書くことなんて求められていない。意見なんて求められていない。ただ、機械のように間違いなく動くかどうかが求められているのだ。

と思ったのだが、コガイにとっては、その人たちは既に死んでいるので、関係ないのである。死んでいるから目に入ってこないのであろう(公平を期するためにいっておくと、コガイは当然、湯浅誠とか堤未果、門倉貴史などの新書も読んでいるし、いわゆる貧困層や社会の闇的な部分に意識的に目配りもしている。ただ基本的にコガイには関係ない人(死んだ人ですからね、本を買ってくれる読者にもならんでしょう)だから、無視しているのだろう)。

私の読書は「生き残るための読書」ではない。
「生きるための読書」である。

既に死んでいる私にとっては、生産性を高めるために読書をするのではない。生産性は生きている人が言うことだ。
たとえて言うと、既に十分に食物のある人は栄養だとかビタミンだとかを云々するが、餓死しかかっている人にはそれが消化によくてすぐにエネルギーにかわるかどうかが問題になるように、「生き残るための読書」をする人と「生きるための読書」をする人は、当然その読書の方法も異なってくるしそれが当たり前なのだ。
そして感想を書くのだって、「文章を書く技術」の向上やアフィリエイト収入(そんなもんあるわけない)のためじゃない。生きるために書くのだ。心にたまった澱を吐き出す(と書くとかっこいいが、ゲロをはいているだけだ)ためだ。だから実名で文章を書くとかありえない。実名で出せない部分を匿名で吐き出して、また実名の社会に戻っていくのだから。

「週一冊で年間50冊程度」の新書を読むだけでも、かなり違うとコガイはいうが、私のように既に死んでいる人はその何倍も読んでも何も変わらない。

生きることに意味はあるのか?
死んだほうがいいのではないか?

そんな思いをずっと抱えている人間にとっては、読書は何よりも現実逃避である。ノンフィクションでもフィクション同様面白く感じるので、ただの現実逃避だ。

次に読書の効能としては、現実に対する硬直した見方に何らかの風穴を開けてくれることがたまにある、ということだ。フェミニズムにしてもマルキシズムにしても湯浅の「溜め」論にしても行動経済学にしても、あるいは最近この日記で言及した『歎異抄』や『新約聖書』にしても、当然だと思っていた見方を相対化してくれる作用がある(もっとも、宗教関係の人が書いた本はたいてい押し付けがましく、反面教師にしかならないことが多いが)。

極論すると、「私が私であるのは自己責任ではない」ということを誰かに証明してもらいたがっているのであろうか?あるいは「私が私であっても受け入れられる」ということを誰かに納得させてもらいたがっているのだろうか?

そういう意味でいうと、私は無神論の反宗教者であるにもかかわらず、それらを満たすのは「仏」(クリスチャンなら「神」かもしれないが)しか出てこない。

私が今現在、かくあることも仏のせいである。社会の仕組みのせい(たとえば「男性原理」とか「資本主義」とかのせい)だとは思わない。

引きこもりの青年についてひろさちやが書いていた(『仏教ならこう考える 「悪人」だって救われる』春秋社)。

「引きこもりになった青年の責任はほとけさまにあります。ほとけさまが彼をひきこもりにされたのです」
それは罰があたったのではない。「神道の神様はそうかもしれませんが、仏教のほとけさまはそんな安っぽい存在ではありません」
なぜある青年を引きこもりにし、なぜある子供を小児ガンにするのか。
その答えは「わからない」。

私たちにはほとけさまの考えはわからない。
「ほとけさまのお考えは深遠であって、われわれが理解できるものではありません。そのことは『法華経』の「方便品」の中にはっきりと書かれています。
《仏の成就せる所は、第一の希有なる難解の法にして、唯、仏と仏とのみ、乃ち、能く諸法の実相を究め尽くせばなり》」

仏同士しかわからないのだから、仕方ない。
(だからというわけでもないが、私は「カルマ」とか「前世」とかいうやつが大嫌いである。冗談で楽しみに言うならいいが、本気で言うのは、仏をおそれぬ傲慢であると思う。私はそもそも、カルマとか前世とかないと思っているが、仮にあったとしてもおまえなんぞにわかるわけがないではないか?仏にしかわからないのだ)

まぁ、だからあきらめるしかない。
あきらめる(明らめる)ことが仏教であるとひろさちやも言っている。

自分がいまこうあるのは、全部ほとけさまのせいなんだし、しゃーないやん?その上で阿弥陀如来は全員を救ってくださるのだから(死ぬときは安心という救いであって、一冊の新書を買う金をくれるわけでもないが)、それでいいじゃない?

という形でしか、自分を認めることはできない。
まぁでもそもそも仏も何も信じちゃいないんだけどねぇ。

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06月20日(月)

起床時刻:11時48分

昨日、「シュタインズゲート」を旦那とみながら、ちらちらと本を読んでいたら怒られた。図書館行くことを禁止するよ!だって。

まぁ、シュタゲはアニメにしちゃあマァマァ面白いけど、私は基本的に十代のにーちゃん、ねーちゃんがどうこうする話とかキョーミないんだよね。
(そんな中で、「ひぐらしの鳴く頃に」(特に「解」)と「まどかマギカ」は結構、熱中してみることができたからたいしたもんである)

だって、そういうもんじゃん?
十代の少年少女が「老人の性の悩み」とか聞きたいかね?
「主婦の闇」(by小倉千加子)とか知りたいかね?
どーでもいいじゃん?

結局、人間は自分に一番興味あるし、自分に近ければ近いほど共感できるわけよ。
「子供だった頃を覚えている大人は少ない」とかいうけれど、だって体がかわるんだからしゃあないじゃん?
糖尿病とか高脂血症とかハゲのほうが、「友達がいない」とか「女にもてない」とかいう悩みよりも深刻になってくるんだよ。
「俺達は仲間じゃないかっ!」というティーンの心をわしづかみにするメッセージだって、ぜんぜん響いてこないからね。むしろ「うっとうしい」としか思えないんだわ。

これが腐った大人ってやつか!

ちなみにそのとき私がちらちら読んでいた本は『明治天皇を語る』というドナルド・キーンの新書なんだな。
まぁ明治帝と自分の共通点は「日本人であること」くらいしか思いつかないが、なんでそんな本を読んでいたのかというと、ニュースサイトでドナルド・キーン氏が日本に帰化することになったというのを読んだからだ。
なんでも、キーン先生は「日本への感謝の印として、日本に帰化」なさるそうである。帰化することが感謝の印になる方はそうそういない。
たとえば私が「『アバター』をつくってくれたアメリカ人への感謝の印に、アメリカ人に帰化したい」といったら、「こっち来んな、ボケ」って言われるであろう。

まぁそういう人の本をちょっと読んでみるかと思って図書館から借りてきたのである。キーン氏の力作『明治天皇』という上下巻は本屋で昔平積みになっていたが、それを読むのは面倒なので、力作じゃなさそうな薄い新書を読むことにしたわけである。

明治天皇はキーンに言わせれば「明治大帝」である。
いろいろな偉人エピソードが載っている。
「日本人である」という共通点しかないが、自分まで誇らしく感じるのはこれはなんだろう?勘違いですか、そうですか。

明治天皇は天皇史上はじめて、あちこち巡幸なさった(狭くて暑い輿の中で正座しつづけなくちゃいけない上に、目的地についたら、視察やらなんやらがあり、夜寝るのは二時、朝起きるのは五時だったそうだ。ほとんど一種の拷問でちっとも物見遊山ではなかったそうだ)。

その目的をキーンは「天皇の教育のため」だったのではないかという。民衆・大衆の生活を知ること、これが目的だったという。

一方で、本書によれば巡幸の目的は「明治天皇が民を脅かすため、天皇はいつでもあなたがたを見ていますからというメッセージをおくるため」という学者もいるそうだが、キーンは「ヨーロッパの王族の巡幸とはまったく違う」と反論する。
ルイ十四世はあちこちの訪問先に自分の乗馬姿の銅像をたてさせる。しかし明治天皇の銅像はどこもたっていない。
また通貨にもお札にも明治天皇の肖像はつかわれていない。明治帝は自分を人に見せようとかそういう意思はほとんどなかった。ヨーロッパの王様とは対照的であるという。

明治天皇の銅像がないのは確かに不思議だ。
おそれおおいというのもあるかもしれないが、ご真影だっておそれおおいじゃないか。

東京にある銅像といって、すぐに誰もが思い浮かべるのは1位、上野の山の西郷さん、2位、渋谷の忠犬ハチ公であろう。3位は誰だろう?
皇居前広場の楠木正成像、靖国神社の大村益次郎像?
(ぐぐったところ、この二人と西郷さんをあわせて東京の三大銅像というのだそうだ。知らなかった)

しかし、存在感でいうと、東京の銅像といえば西郷さんとハチ公が他を圧倒しているだろう。
西郷さんといえば官軍にはむかったわけで、せんじつめれば反逆者じゃないか。その西郷さんの銅像と、忠義にあついとはいえ、所詮は犬の銅像が、一番存在感ある東京という街はなかなかすごい。

(キーンによれば、明治天皇は自分にはむかった逆賊なのに西郷のことを気に入っていたらしい。西郷の死の翌日には、西郷を題にした歌を皇后につくらせたくらいだ(「薩摩潟しづみし波の浅からぬはじめの違ひ末のあはられさ」というのが求めに応じて皇后がつくった歌)。
キーン自身は外国人として西郷がなぜ日本人にここまで人気があるのかわからないとも言っている。私もわからんなぁ。
ちなみに明治天皇が気に入ったのは、大久保利通・岩倉具視で、とても信頼していたようだ。一方で、陸奥宗光と尾崎行雄はかなり嫌いだったらしい)。

まぁこういういろんな四方山話が書いてあるので、アニメをみながらちらちら読むにはちょうどいい本だったのだ。
そしたら怒られたという次第である。

そのあとはいつものようにゲーム。ずーーーーーーっと。

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06月19日

起床時刻:13時00分

昨日の続き。
E・キューブラー・ロスは言う。

この世に苦しみがあるのは私たちを成長させるためです。
私たちが生まれたきたのは成長するためです。
神様はその人が耐えられる以上の試練は与えたりしません。
先生だってクラスで一番優秀な子に一番難しい問題を与えます。
厳しい試練を与えられたら、それはあなたがそれだけ神様に見込まれているということなのです。

みたいなことを。

しかし年間自殺者三万人という日本において虚心坦懐に眺めれば、神様は平気でその人が絶えられる以上の重荷を負わせているといえよう。見込み違いもいいところなのである。500gでもヒーヒーいう人もいれば、米俵をしょっても平気な人もいる。神様は「箸より重いものはもったことがありません」という軟弱児に米俵をぽいと投げてきて、それを担いで校庭を一周して来いといっているようなものなのだ。

それで生徒がつぶれたら、つぶれたほうが悪いというのである。なんじゃこりゃ?である。神様だから「きっと深い配慮がおありだったのね」てなことになるが、これがリアル先生だったら、PTAや新聞や世間から、非難ごうごうであったろう。

苦痛に意味を見出すのがそもそも間違っているのだ。

そもそもこの世は苦痛に満ちている。空気に意味がないように、苦痛にも意味はない。

人間と家畜の関係をみてみればわかる。
家畜にとっては人間は生殺与奪の権を握る神様みたいなものである。
その人間(=神)が家畜(=人間)に与える苦痛に意味はあるであろうか?

生まれてからすぐに母牛と引き離され、親の愛情も知らず、ただ牛乳を出すために生かされている乳牛の苦痛に意味があるのか?
ケージにぎゅうぎゅうに詰め込まれた鶏たち、鶏インフルエンザがあれば、ごみのように燃やされてしまう鶏たちの苦痛に何か意味があるのか?

その苦痛には何の意味もない。
「この苦痛は乳牛や鶏を成長させるための苦痛である」と、牛や鶏のグルが言い出しても、私達神はそうは考えないだろう。

人間と家畜は違うというが、全知全能の神からみたら人間も家畜も同じだ。
むしろ、家畜より人間のほうが愚劣で下級な動物であるかもしれない。
家畜はホロコーストもしない、環境破壊や原発事故もおこさない、核兵器も持たないという意味で人類よりよほど上ではないか。人間が神に家畜より上に扱われたがるというのは、もはや「ずうずうしい」と言ってもいいくらいではないか?

この世の苦痛に意味はない。
人生の目的は何もない。
成長することが目的?
ケージの中の苦痛を耐えて、精神的に成長した賢者の鶏が増えたとして、それがなんだというのだ?

もちろん、成長したことによってその鶏自身が救われるということはあるかもしれない。悟りを開いた鶏には、ケージに詰め込まれていることも、少しの自由もないことも病気になれば焼かれて殺されることも、動じるに値しないであろう。

あるいは救済宗教を信じ、苦痛を恩寵と感じれば、宗教のアヘン機能によってその鶏が救われることはあるかもしれない。「この苦痛もきっと神様が私への試練として与えたんだ」と考えて、「がんばって卵を産もう!そうしたら天国にいける!」と思えれば、それは卵の生産者も鶏も幸せであろう。

私が思うに、現代の宗教の一番の特徴は、来世を語らなくなったことだ。一昔前であれば鶏たちがいくら神に祈ろうが、現世は狭いケージの中で身動きもままならず、一生をおえることは必定であった。だから来世に希望を託したのだ。
宗教とか祈りなんぞで変えられるような現実は何もなかったのだ。

しかし、今はがんばればケージの外にも出られるようになった。一部の気のきいた鶏は大きな自前のケージをつくって、そこで悠々とくらしているようにみえる。つまり、自分の人生は自分で切り開くという精神が受け入れられるほどに現実が変化したのだ。

しかし、人(鶏)生を切り開こうにも、運不運は当然ある。病気になったり金を騙し取られたりしてうまくいかないこともある。

そこに目をつけたのが今の宗教で、「うまくいかないこと」には意味があり、「失敗は成功の母」であり、「逆境のときに神様を信じて前向きに頑張ったからこそ」「今の(成功した)自分はあるのだ」と自分語りをする鶏を大量に発生させたのだ。もちろん、あの逆境があったからこそ、今の(失敗した)自分がある人も大勢いるが、そういう鶏の発言の場所はどこにもない。ルーザーの話など誰も聞きたくないからだ。

しかし誰にも聞かれなくても誰の目にも見えなくても、そこに存在するのは確かだ。それは神の失敗ではなくて神の与えた課題をこなせなかった人間側の失敗であるのか?
神は常に沈黙で答える。いないからかもしれないし、仮にいても人間とか興味ないからかもしれない。
まったくの偶然はない。といいように解釈しているのが人間であることは常に記憶せらるべきことであろう。

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06月18日

起床時刻:13時30分

6時くらいまでゲーム。

書いたものが消えてしまった。
私はモノを壊す天才のようで、今使っているこのDELLのPCも私が使いはじめてから調子がよくない。急に落ちたりする。

自己嫌悪。

私の自分に対する感情を一言で表すとしたらこの言葉につきるだろう。
それはナルシズムの裏返しでもある。
もともと自分はこの程度のもんなんだと思っていれば、現状を嫌悪することもなかっただろう。

「こんなはずではない」という思い上がりが自己嫌悪の要諦なのだ。

「私だって一生懸命やってるし、優しいって言われるし、私が生きていることには十分意味があるわ。ちょっとドジなところだって、世界でひとつだけの花よ、個性なのよ」

とか、全然おもえねーーーーー!!!!

現実は毎日、毎日、私の存在を否定してかかっているような気がする。
端的にいうと、他人に迷惑をかけまくって、生きているようなかんじなのだ。

自分が何の取り柄もない。
存在することが無駄である。
役立たずの無用な人間、いや、無用というよりは有害でさえある。
(パソコンをつくる人が有用な人間であるとすれば、パソコンを壊す私は有害であろう。バイトでデータ入力をしていても、間違う私は結局、仕事をぐちゃぐちゃにしているので、有害であろう)

生産性の論理で「いのち」に優劣をつけてはならないというけれど、「いのち」って「金」じゃん?金があれば、心臓移植なんていうウルトラCの方法で生き延びられるし、金がなければ聖人君子でも、肺炎なんかで死んだりする。そして金は生産性が高いほど効率的に増やせるでしょ?

だから生産性の高低により命の優劣をつけることはごく当たり前のことだし(裁判でもやっているよね、交通事故で人をひいて殺したときの慰藉料は将来有望な医学部生であるか生活保護のじーさんであるかによって違うじゃん)、この論理に対抗することなんてできない。
ボランティア?寄付?そんなんただの自己欺瞞でしょ。本当に救いたいなら、同情じゃなくて仕組みをかえることだよ。完全なる経済的平等を目指し、完全なる権力の平等を目指さなければ(なぜなら経済的平等が達成されたあとは権力の多寡によって、いのちの優劣はつけられるから)、完全なる命の平等化なんてありえないよ。

それはいやでしょ?私たち誰もが、他人よりちょっとでも上でいたいし、自由(いのちの優劣を金につけさせる自由も含む)でいたいじゃん?

生産性によって命に優劣はつけられている。
金が稼げるかどうかによって命の優劣はつけられている。
それと違う論理=世界にひとつだけの花とかいっても、金がなくちゃ枯れてしぼんでハイおしまいだよっ!
金があれば、クソみたいな雑草だって麗麗しく花壇に咲いちゃったりするんだよ!!

まぁそんなこんなで生きることに希望がもてないので、死ぬことのほうに希望を持っているわけで、自分が今すぐに死んだとしたら、どういう思いが自分の中をかけめぐるだろうか?ってよく考える。

この世への未練?
それともこの世からの解放感?

死とは解放だと思う。
死ねば苦しみも何もなくなるのだから。
ちっぽけな自我もなくなるだろう。

E・キューブラー・ロスの『「死ぬ瞬間」と死後の生』(中公文庫・5つの講演をスウェーデンの医者がまとめたもの)によれば、死ぬときはひとりではないそうで、死んだ人のうちで自分がもっとも愛した人が迎えにくるそうだ。魂は肉体から離れ、ぷかぷか浮かんで自分の肉体世界の現実を見下ろすことになる。
あの世の人たちに導かれていく先は、全体的・無条件の愛・理解・共感につつまれるそうだ。マイナスの感情がひとかけらもない霊的エネルギーの領域なのだそうだ。

そしてその光につつまれて自分の人生はどんなふうになる可能性があったか、全体的な評価をするそうだ。ここでマイナス・エネルギーが爆発するんじゃないか。だって、もし「出世する可能性も50%くらいあった」とか聞いたりすると、「失敗した!!」という思いがまきおこるだろう。

と思ったけれど、出世することであらたな苦痛が生まれるかもしれないし、そのこともあの世においては、コンピュータみたいにさささっと計算してはじき出すのかもしれないから、そういうこともないかもしれない。

あらゆる知識と理解に基づいて自分の人生を総括したあと、次に生まれ変わるまでは、生まれる前と同じ形(「神(あるいは源)」と一体化」)でいるらしい。

ロスは言う。
「さて、私は精神科医として、とても大切なことを一言で申し上げましょう。手遅れになる前に、この世界を癒さなくてはなりません。そして世界を癒すためには、まず自分自身を癒さなくてはならないのです。どうかこのことを胸に刻んでください」

「癒し」とはいったいどういうことなのか。
ロスなら「無条件の愛」というだろう。私なら「承認されたい欲求」が満たされることと言う。一番いいのは、他人から自分(それもありのままの自分)が認められることだが、少なくとも自分で自分を認めることができれば「癒された」と感じるだろう。

自分がこの世にいることには意味がある。
ありのままの自分でいいのだ、それで十分、許される。

しかし、そうはなかなか思えないのだ。
だいたい、他人も自分を認めてくれないし、自分も自分を認められないから皆あがいているのだ。ていうか、他人に認められればたいていの人は自動的に自分を認めるものである(もちろん例外は多くあるだろうが)。

頭悪い。
顔悪い。
金がない。
年よりだ。
才能がない。
つかえない。
社会のゴミである。

こういうスペックの場合、なかなか自分のことを誇らしく思えないわけである。いろいろ悩んだ挙句、「性格がいい」とか「霊的に優れている」とかそういう、検証不可能なところで巻き返しをはかろうとする。

この本の中に知的障害の子供をもったおかあさんの話が出てくる。その子供を産んだことで夫は出て行き、彼女は苦しむが、この苦しみは自分を成長させるギフトであるとお母さんは理解するようになった。

この母親が子供目線で書いた「おかあさん」という詩ではこの知的障碍児は「大学にもいけない。お嫁にもいけない」けれど、「私は誰も傷つけない。私は愛することだけ」しかしないという。

つまり「低スペックだけど天使」という障碍児にありがちな価値補完が行われているのだ。

私は知的障害がムイシュキン公爵たる十分条件であるなら、このような意地悪なことは書かない。しかしおそらく、そうではない。

ロスは「~だから愛する」ということをやめなさいという。
「いい大学にいくから愛する」「運動ができるから愛する」とかそういう条件付の愛はよくないという。だけれども、このお母さんがやっていることは「性格がいいから愛する」ということじゃないかと思えてくるのだ。

「誰のことも傷つけない、天使のようないい子だから愛する」というのは、それは「頭がいい子だから、将来出世しそうだから、愛する」ということと別に同じことじゃん?とロスにいいたいだけで。

(ロスはいい人なんだと思うんだけど、「病院の黒人の清掃係が私の最高の先生でした。彼女がいたから今の私があるのです。あなたの教師は変装してあらわれます。子供の姿で、よぼよぼのおばあちゃんの姿で、または黒人の清掃係の姿であなたの前にやってくるのです」とかいう言説がいろいろ気持ち悪くて仕方ない。この気持ち悪さは説明しなくてもわかる人にはわかるけれど、わからない人にはいくら言葉を尽くしてもわからないのだ)

障碍者についてはmacskaさんがいいことを書いている。
http://macska.org/article/132
「障害者に社会的に押し付けられた役割の内容はいろいろあるけれど、その中心的なものは、他者の善意と愛情を注ぎ込まれる受動的な対象であることなのね。「常に微笑んでいる」という、人間として絶対にありえない在り方まで欲求されてしまうこのメディア的扱いは、わたしはグロテスクだとおもう」

ま。それはともかく、貼り絵の才能もない山下清はどうしたらいいんだよ?ていうことなんだよな。それでもし性格も悪かったら「救いようがない」じゃん?

まぁ私も割りとそのカテゴリーに入るから、そう思うんだけどさ。
もちろん、障碍者よりかはぜんぜんましなんだけど、一般人より下というレベル。この下の人たちはどうやって自分を認めるんだろうねぇ?
まぁ私なんだけどさ。

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06月17日(金)

起床時刻:10時35分

友達のメールでダンシャリについて「部屋掃除ぐらい、屁理屈こねないでやりなさいよ!って感じ」と書いてあって笑った。

天邪鬼は天邪鬼を呼ぶというか、類友というか。流行っているものにナンクセをつけたがる性癖であるようだ。

その子への返事でも書いたのだが、だいたい平成のニッポン人は、バブル期や高度経済成長期のニッポン人から見たら既にみんなダンシャリアンなのである。

その証拠に見よ。
企業のオヤジどもは、「モノが売れない」「若者が車を買わない」「家を買わない」「結婚しない」「子供をつくらない」などと、現代の日本人(特に若者)の「物欲のなさ」や「コミュニケーション欲求の希薄さ」を耳タコレベルで嘆いているではないか。

『デフレの正体ー経済は「人口の波」で動く』(藻谷浩介・角川新書)でも日本が長い長いデフレ状況にある原因として、
①日本の人口が高齢化し、物欲のない老人ばかりになったことによる内需不振(老人は病気やボケに備えて貯金するから、消費に金がまわらないのだ)
②内需型産業(国内雇用の大部分を占める)の不振により、恒常的に供給過剰状態になる→業績は回復しない→若者も恒常的に低賃金状態におかれる
(もともと老人よりも物欲がある若者の所得が低いため、モノが欲しくても買えない)というようなことを喝破したわけですよ。

だからこそその対策として「高齢富裕層から若者へ所得移転を」とか「女性の就労を増やせ」とかいうわけですよ。

つまり、若者や女性がダンシャリして、「今年は下着しか買わない!」とかいってるようでは、日本全体が沈むから、なんとかして内需振興策をとろうとしてるわけですよ。

そもそも、この平成のド不況にあっては、人間は生きるためにダンシャリアンにならざるをえない(つまりモノが買えないのを癒すor正当化する理屈としてダンシャリはほっといても出てくるものなのだ)。

だから、いまどきダンシャリなんぞというのは、一番安易な理屈じゃないかというのが私が彼女に返信したメールである。

まぁそれでも、私はダンシャリのアイデア、つまり
「モノを断て」
「物欲を捨てよ」
「不要な人間関係から離れよ」
というのは共感できるが(実はダンシャリの本は読んだことがないので想像でいっているのだが、こんなもんだろう)、逆に自分が「不要なもの」として切り捨てられることを許容できるのかという問いを発したい。この問いはそれほど的外れではなかろう。ダンシャリはモノと自分との関係だけではなく、ヒトと自分との関係にも拡張していえることであると、提唱者は思っているだろうから(そうではないなら、単なる「片づけ術」とか「整理術」とかいっときゃいいのだ)。

ママ友や義理の両親との「不要で」「不毛で」「疲れる人間関係」を切りたいというのはわかる。そうやって、少ないながら本当に必要なもの・人に囲まれて、シンプルに生きたいというのもわかる。たいていの自己啓発本はそんなことを買いている。

しかし、自分だけがそうしたいというのでは傲慢である。
たとえば夫が「古女房は不要であるからぽいと捨てて、若い愛人と暮らしたい」と考えたときに受け入れられるだろうか。
自分と子供が路頭に迷ったときも「路頭ならモノもたいして持てないから自然とダンシャリアンになれるね、ありがたい」と思えるだろうか。

私が他人を切り捨てるということは、他人が私を切り捨てることを許容することでもある。自分が人を認めないのは、屁でもないが、自分が人から認められないことは、信じられないほどのつらさをもたらす。だからこそ、ふられたくらいであんなにメソメソし、浮気されたといっては怒り狂うのだ。

お前がどれほどのもんだというのだ?

人間の根源的な欲求には「承認欲求」、「私を認めてほしい」という欲があるのだ。この欲を捨てるのは、本当に難しい。だからこそ、孔子は論語の冒頭で「人知らずして搵みず、亦君子ならずや」といったのだ。君子レベルじゃなきゃ無理な話なのだ。

ダンシャリアンになるということは、不要な人間、用済みの人間、そもそも邪魔な人間として切り捨てられても、すねない、ひねない、怒らない君子になるということだ。がんばってほしい。

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06月16日(木)

起床時刻:07時45分

文春新書から佐藤優の『新約聖書』が出ている。
(という言い方は変だな、佐藤優の解説による新共同訳の『新約聖書』が新書版で出版されたというのが正しいな)

初めてちゃんと最初から(途中まで)読んだわけだが、私はキリスト教徒にはなれないな。なんていうか、無理ゲーすぎる。クリア(=天国に行くこと)できる気しない。

だいたい人間に要求することが無茶なんですよ。
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」とか。簡単におっしゃいますけどね、無理でございます。

つくづく思ったんだけれど、本物のキリスト教徒はこの世の人口の1%もいないんじゃなかろうか。

聖書を読んでいると、離婚好きで訴訟好きで拝金主義で戦争好きのアメリカ人が世界有数の「信心深いクリスチャン」という自己認識を何故もてるのか、理解不能である。

私がキリスト教徒なら、同性愛や中絶をどうこう言う前に、離婚をすること、訴訟をすること、拝金主義、戦争を非難する。あ、非難しちゃいけないな、それは裁くことであるからな。だから「私がキリスト者であれば、それらのトピックに対して意見を求められたら、反対であると述べる」という程度にとどめておかないとな。

だって今まで読んだところでは、新約聖書においてキリストが同性愛や中絶はダメとはっきり言われてはいないんだもん。

そのかわり「不法な結婚ではないのに、妻を離縁をする者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる」と離縁にはきっぱり反対しているんだもん。

訴訟に関しては「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」といわれている。だから、つまらんナンクセで企業を訴え、1億ドルをくれという人がいれば2億ドルあげないといけないことになる。さらには「人を裁くな」とも言われている。

そして何より、お金を溜め込むことは一番悪いことのようにみえる。「地上ではなくて天国に富をつめ」とか「金持ちが天国にいくのはラクダが針の穴を通るより難しい」とか「(貧しいやもめが生活費を全部献金したことに対して)金持ちが献金するよりもずっとたくさん入れた」とか、ともかく、地上のお金をためこむのではなくて、キリストのためだけに使えるだけ使うべきであるという発想がみられる。そのためには、神の国アメリカでは累進課税を強化して、金持ちからお金をとりあげ、この世の貧しい人、病める人、悲しむ人のために使うべきではなかろうか(もちろんキリストの教えとセットで)。

イラク戦争も認められないことになる。だって敵を許し、敵のために祈るのがキリスト教徒なんだから。

逆に中絶やら同性愛者を冷たく遇するのは、山上垂訓に反するのではなかろうか。だって、「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」といわれているように、もし憐れみをいだいたらセクシャルマイノリティや中絶する人(当事者は苦しんでいるだろう)をそっとしておくだろうし、無駄な論争を避けるという意味で平和を実現することになるから。
それになにより、最も重要な二つの掟のひとつ、「隣人を自分のように愛しなさい」に反するではないか。自分のように隣人を愛したら、隣人のことも承認することしかできない(たとえ、わけのわからん性的アイデンティティでも)。他人を承認すること、裁かないこと、これが愛の基本だと思う。

私はアメリカの保守陣営は「中絶」や「同性愛」を無理やり論点にして、政争の具にしているように思う。何しろ、中絶や同性愛は「自分は過去も将来もしない」という確信が比較的簡単に持てるから自分を信心深くみせるのに簡単につかえるポイントなのだと思う。一方で「離縁反対」「訴訟反対」「拝金主義反対」「戦争反対」ということは、全員すねに傷を持つ身だからいえないのだ。

キリストの教えとは、常に困難な道を選ばせる教えだ。
二つの道が選択できる場合、より困難なほうを選んだらキリスト教徒的だともいえるだろう。ある意味、リトマス紙のようである。
それくらいイエスの教えは困難さに満ちている。

聖書だけを読むと、カルト宗教のようである。
鋭く強く現世の秩序や常識を破壊するラディカルな力を持つという意味で。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたるために来たのだ」と言われているが、キリストの教えはそれだけ常識破りのラディカルなものであるということであろう。

初心者の私が一人で読んでいるのだから、ことごとく誤読している可能性もあるが、私は「カラスが白い」と神が言われたのなら、白いと信じることが信心だと思っている。「いやいやそれはレトリックでして、当時のパレスチナでは白いというのは、黒いということを意味していたのですよ」的な解釈は聞きたくない。

私は原理主義者なのである。

それはともかく、私たちはみんなファリサイ人だ。「法律に違反しなければいい」と思ってる。法律なんかよりも、ずっと精神(愛や信心)が大事なのに。私が好きなエピソードは「安息日に手の萎えた人をいやす」というものである。安息日に病を癒そうとして「安息日になに働いとんねん」といちゃもんをつけられたキリストは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問いかけて、病をいやすのだ。

「法律だから」「常識だから」「みんながそういってるから」ではなく、自分の心(あるいは神の心)にたずねてそれが善なのか、悪なのか自分で判断することが大事である。しかしそれはとっても困難なことでもある。

キリスト者の道は茨の道であるナ。

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06月15日(水)

起床時刻:10時30分

あーあ。またバイトで入力間違いが見つかった。。。
結局社員が全部入れなおしていたみたい。。。

to err is human, to forgive devineという言葉がある。
まぁこのエラーはsinであり、データの入力間違いのようなmistakeじゃあないだろう。神様だって「お前はデータ入力間違いをしたから、地獄行き」てなことはいわんだろう。

しかし、私のような底辺の人間にとってはsinよりもmistakeのほうが重大だ。いや、底辺でなくてもそうかもしれない。現世では常にsinよりもmistakeを重視する。

医者が看護婦と不倫しようが誰も責めないが(奥さんを除く)、医療ミスで患者を死なせたら、全世間が責めてくるだろう。

日本のラスボスこと夢の高速増殖炉もんじゅさんも実に初歩的なミスから、あんなことになってしまった。もんじゅにかかわっている人は3人くらい自殺しているようだが、一方で、「みだらな思いで他人の妻を見てしまった、姦淫の罪を犯してしまった」と苦しんで自殺する人はいない。
つまり、人はsinではめったに自殺しないが、mistakeでは割と自殺する。

sinよりmistakeを重視するのは現代に限らない。戦国の世の軍師だってそうだ。敵の命を奪うだけ奪うというsinは賞賛されるだろうが、致命的な戦略ミスをおかした場合は、敵に殺されなくとも、その雇用者の武人によって命を奪われるであろう。

つまりsinよりもmistakeが現世では常に問われる。

(「今の日本では「殺人」というsinは罪として問われるではないか?」という人もいるだろうが、それは犯罪の証拠を残したり不用意な発言をしたりというmistakeを犯したために犯罪が警察に露見したから、裁かれることになるのだ(もっとも、裁判の場で責められるのはミスではなくてsinだけれど、ミスを通してでしかsinを責めることはできない。もし完全犯罪をなしとげれば、殺人者として罪を裁かれることはない))

ミスの話に戻ろう。
ミスは本質的にどれも同じだから(我々は「うっかり」医療ミスで人を殺し、「うっかり」居眠りして交通事故を起こし、「うっかり」財布を忘れて買い物にいく)、医療ミスをして患者を死なせた人とうっかり財布を忘れて買い物に行ったサザエさんは同じ罪を負う。

「うっかり」という本質は同じだが、結果の重大さには大きな開きがあるため、その本質すら違うように感じがちだが、質的な違いはない。

「うっかり」ミスというのは、「てへへ」ですまされそうだが、実際は万死に値する。現世においてドジッコは最下層ランクの人間である。もっとも人間というのは多かれ少なかれドジッコではある。

ということは、人間の手が入れば入るほど失敗をする確率は増える。
パソコンは間違わない。
機械は間違わない。
パソコンや機械のほうが人間よりも上かと聞かれれば、YESである。

「なんだとぉ、人間の尊厳はどうなる!このテクノロジー崇拝者めぇ~!!」
と目を三角にして怒る人の姿が目に浮かぶようだが、そういう人だって電車のダイヤが乱れたといっては怒り、買いもののお釣りを少なく渡されたといっては怒り、歯の治療で悪くないほうの歯をひっこぬかれたといっては怒るのだ。

機械はそんなことしましぇ~~~~ん(にくたらしげw)。
人間は機械以下なんだよっ。

(機械をつくったのは人間だから人間のほうが偉いという理屈をいう人もいそうだが、アインシュタインをつくったからアインシュタインの両親のほうがえらいということにはならんのである)

ミスを防ぐためにはオートメーション化しかない。
機械様にたよるしかない。

しかし機械化するには、定型的な作業である必要がある。
毎回、毎回同じことをするのなら、機械はすばやく正確にできるのだが、毎回、毎回、微妙に違うことをするのだったら、機械をそのたびに調整しなくちゃいけないから余計手間がかかるのだ。

私のケースでもそうである。結局、一番やっちゃいけない手作業に頼ることになる。
もちろん、ダブルチェックはしているつもりだ。
それなのに、ここが人間の摩訶不思議なところでありまして、斜め上のところから間違う。「あってる、あってる」と思っていたら、名前の似た違うファイルを参照して入力していたり。いつのまにか、計算式を壊していたり。行列を削除したり挿入したりしているうちに計算式の参照がずれていたり。

なんやねん!!!
なんでこんなことなんねん!!!

私は、機械になりたい。
人間などという「がらくた」でいたくはない。

という発想は突飛ではない。
トランス・ヒューマニズムはそういうことを大真面目に主張する。

2007年3月の文藝春秋で浜田和幸という人がジェームズ・ヒューズの「サイボーグ市民社会」のアイデアについて語っている。彼は「人種差別や個人の能力格差を超越するには、全人類をサイボーグ化するのがベスト」といっているそうである。

これはある意味、昨日書いたうさぎの全女性が整形すれば美の序列化によって女性を偏差値づけするという弊害はなくなるであろうという主張に合致する。

私もサイボーグになりたいし、全員が浜崎あゆみ(あるいは石原さとみでも吉永さゆりでも誰だっていいが)のような美形になれればいいと思うが、問題はここでもマネーである。

テクノロジーはマネーでしか買えない。
マネー=テクノロジーにより人間の身体・知的・精神的機能をエンハンスメントした人は、マネーがない旧タイプを支配するという構造が強まるであろう。
つまり昔(っつーか今)であれば、とんびが鷹を生むということもあり、そのことがメリトクラシー社会においては社会階層の固定化を防いできたわけだが、アメリカ西海岸流のテクノ・ユートピア社会では違う。
金持ちであれば、とんびの親から鷹が生まれるように、遺伝子レベルでデザインし(デザイナーベビー)、かつ生まれてからもテクノロジーによるエンハンスメント(知的ドーピング剤の投与みたいな)をしつづければ、これはもう金持ちが神になるということと同義なのだ。というか今以上に金=神になるであろう。

もっとも、パソコンと同じで、いずれは遺伝子デザインやテクノロジーによるエンハンスメントも安価になってくるだろうが。

それを使うか否かは個人の選択にもちろんよらねばならない。
強制は許されない。
しかし、おそらく、パソコン(やインターネット)がここまで爆発的に広がったように(WWWの知識が「本物ではない」「体験的知ではない」「安易である」などといって拒否する人がほとんどいなかったように)、テクノロジーによるエンハンスメント(寿命をのばすことなども含む)は受け入れられるだろう。

「自然ではない」というのは一番ありがちな非難だが、「人間にとって自然なこと」とは、常に自然から離れようとすることであったような気がする。だからこそ、今のわれわれは洞穴でウホウホ言ったり、吹き矢で獲物をとったりしてはいないのである。本来ならそうしているのが自然であるにもかかわらずである。

まぁそんなわけで私も素敵なチップを脳にくみこんで、間違いとかしない人になりたいわけであるが、そのチップをつくるのも人間であるからして、間違う可能性は絶対にある。その結果、チップをうめるまえよりも、間違いをする人になる可能性だってあるわけだ。
そう考えると、テクノロジーだって信用できないのである。

いつかは、機械が機械を生み出す、作り出すようになるであろう。機械が自律的かつ自発的にそういうことをするのである。
そのときは人間がつくったものと違ってちゃんとしたものができるであろう。
人間が考えてきたつまらん常識や考え、宗教は全部スクラップにされてしまうであろう。新しいアイデアはきっと不完全な人間には理解不能であろう。そして理解不能というのは常に宗教的畏怖をひきおこす。お経も読み下し文でないからありがたがられる。

人間はマネーという全知全能の神様をあがめる次は、人間より一段上の知性というか完全性を持つ機械(ロボット、ニュータイプ、サイボーグ、スーパーマン)の神様をあがめるようになるであろう。そして旧型人間が時々お告げを聞きにいくわけだ。そして旧型人間どもの諍い(「隣の家の駐車場がうちの敷地にまではいって迷惑している」とか「うちのだんなが浮気したから慰謝料が欲しい」とか「隣の家のごみ屋敷から悪臭がひどい」とか)もすべてを一瞬で解決してしまうのだ。その解決法はもとより旧型ポンコツ人間にはわからないが旧人類を滅ぼしてしまうことであろうか?それでは旧神様のハルマゲドンとあんまりかわらないので、きっと新神様はもっといいアイデアを持っていることであろう。

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06月14日(火)

起床時刻:07時35分

途中で読むのをやめた『幸福論』(小倉千加子・中村うさぎの対談)だが(昨日の記事参照)、その中で小倉が「フェミニズムは女性差別の究極の原因は、女性が子供を産む性だからではなく、女性に美を担わせたことだと解明しています」(P178)と言っているのだが、そもそもどうして最初に(ほぼどこの世界でも)、男性側が女性に美を担わせることが可能であったのであろうか?女性側が男性に美を担わせるのではなくて。
そこにすでに強者と弱者の差があるではないか。女性差別の究極の原因というのなら、男性側が見る側で女性側が見られる側になった契機をいうべきではないのか。
小倉によれば男女間の性差はなく、個人差しかないという。それではなぜ、能力差のない集団において、支配―被支配の関係がうまれたのであろうか?それも地球上ではほぼ例外なく男性が女性を支配してきたわけだ。

まぁそれはともかく、おばさん(老婆)になるというのは、美のアウト・カーストの世界で生きることだ。

うさぎが整形しまくっているのは、美のカースト制の内部を駆け上がることではなくて、カースト制を超越することであろう。
全員が巨乳になり、全員が二重の大きな目になり、全員の鼻筋が通ったら(まぁ全員が浜崎あゆみちゃんのような美形になったら)、だれそれより目が少し大きいだの、おっぱいがでかいだの、そういう微妙な差異は意味をなさない。サイボーグ型民主主義によって、ありとあらゆる差別を超克するのである(6/15の記事参照)。
ま、これはうさぎの言うように、全員がやらないと意味がないのだがw。

それに対し、小倉は「『anan』の人気投票みたいなものに、コントロールされない。自分がこの人が好きだというのは、ほんとうに千差万別だと思うんですよ」とまた、凡庸きわまりない退屈なことを言っている(ロックなうさぎと小学校の音楽の先生のような小倉とは話がかみあわんのだよ。うさぎがデスメタルをかなでる横で、小倉は「翼をください」(「この大空に翼を広げ、飛んでいきたーいーよー♪」)をうたっている感じだから、不協和音もはなはだしいんだよなぁ)。

もちろん、好き嫌いはいろいろである。しかしその好悪の感情をおこす決め手のひとつには、「美」があるのはまぎれもない真実である。もし豚ちゃんが猫ちゃんのような外見だったら、食肉として今のように流通したであろうか。知能レベルでは豚のほうが猫より上だと思われているのに。

まぁ世の中には猫ちゃんより豚ちゃんのほうがかわいいから豚ちゃんじゃなくて猫ちゃんをくう!という人もいるかもしれないが、割合からいうとかなり少ないはずである。

この美醜観(猫ちゃんかわいい、豚ちゃんかわいくない)はananだか世間だかにおどらされたせいであろうか?

あるいはオウムの麻原ショーコーやキムジョンイルと福山雅治のどっちが美男ときかれれば、福山のほうが美男であると私が思うことはananにおどらされているせいなのであろうか?

違うであろう。
「美」とは時代・空間的制約を受けつつも、普遍的な何かをどこかで持つのである(一方、好き嫌いはもちろん、別である。北朝鮮でアンケートをとればほぼ全員が福山よりジョンイルのほうが好きであろう。好き嫌いの要素に美醜は入ってくるが、それだけではない)

なんの話をしていたのかすっかりわからなくなったてしまった。
男が美人が好きなのは「他人が欲望するから欲望する」という理由だけなのか?私が美形好きなのは、他人が欲望するから、他人にみせびらかせるから、他人がいいと思うからいいと思うだけなのか?
私がキムジョンイルの第三だか第四だかの夫人になったら、北朝鮮では羨望の的であろう(そうではないかもしれないが)。ルネ・ジラールの欲望の三角形でいうと、第三者が欲するから私もキムジョンイルを欲する、ということになるわけだが、そうなるのであろうか?

なるか、ボケェ!!というのが答えである。

もっとも、私が北朝鮮で生まれ育ったのなら、また話は違ってくるだろう。
喜び組に喜びいさんで入るかもしれない。

結局、価値観の体系から抜け出なくちゃいけないんだけど、中にいる人にはなかなか外が見えないんだよねぇ。

私たちはどうしても中の世界にとらわれる。
中の世界には序列がある。
しかしその世間の向こう側=出世間の世界をみせてくれるのが宗教である。ある意味、この世の序列を相対化したいという思いは、フェミニズムと宗教とでは同じなのに、その口ぶりは激しく違う。
マルクス主義もそうだ。フェミニズムとマルクス主義は良く似ている。人間の本来性を回復したら、差別もなくなり、搾取もなくなり、ハッピハッピーというわけだ。

しかし私はそうは考えない(たぶん、仏教もそうだと思う)。
人間はそもそも汚れた欲得まみれの存在なので、社会主義にしようと、男女共同参画社会にしようと、また別の序列争いが出てくるだけなのである。つまり、差別も搾取もなくならない。なぜなら、人間は差別が好きであり、搾取が好きだからだ。宗教が支配的になろうとも、天国に近い席を争って取り合おうとするだけだ。そのくらい、性根の腐っているのが人間なのだ。宗教で救われるのは社会ではなくて、たった一人の個人だ。

ちょっとまとまらないな。
つまりマルキシズムやフェミニズムがひとつの価値観や序列を否定してもまた別の序列がそこには必ず現れる。マルキシズムやフェミニズムによる価値観や序列の相対化というのは有効だし評価するが、それらが問題を解決するかといえば、また別の問題を引き起こすだけで(それが人間の本来性というものである)、それらを相対化する必要が出てくる。
女性から美の序列化をとりあげたら、金の序列化、地位の序列化、まぁ男性がやっている序列化争いだが、そういうのにいそしむであろう。資本主義社会から私有財産をとりあげ財による序列化をとりあげたら、独裁者や共産党、官僚による序列化がはじまるであろう。

うさぎは家をイルミネーションで飾る主婦も国会の金バッジをみせびらかす議員も本質的にはかわらないといっているが(「国会議員になることがえらくて、家の前を飾り立てて、幸せ主婦アピールをすることが些末だからくだらないとは思わない」)、小倉は違うという(そういう幸せアピの主婦を「男性だけではなくて近所の奥さんも軽蔑していると思う」「飾っても飾っても満たされない闇のことを私は言っているです」「見て、見て、私を見て。男性はそんなことをあまり思わないでしょう。僕を見てって」(うさぎはそれに対して疑問を呈するが)小倉は「男性は社会の中で既に何かであるんです」)。

小倉はいくら地位をのぼりつめても満たされない闇が男性にだってあるとは思わないのであろうか?小倉って男性が充足した自律的存在だと思っているんだなぁ。これってサラリーマン経験がないからではないの?私は総合職としてドメドメ企業で働きもしたし、その後外資やブラック中小企業でも働いて、いろんな男性サラリーマンみてきたからいうけど、男性だって(全員ではないが)、いっぱい心に闇をかかえているし、僕を見て見てアピはよくしてる。
もちろん、「わたしだけど」って電話をかけてきて名乗ることもしないエスタブリッシュメントなおっさんもいるし、会社にきて新聞読んでなんかえらそうなコメント言うだけみたいなおっさんもいるし、そういうおっさんがある程度年のいった小倉の同級生なんだろうけど、私たち氷河期世代は男性も大変なんである。

そういうのを見ているから、多くの女性は社会に出て働き、名刺や肩書きをもつことよりも、庭をかざりたてて幸せ主婦アピすることのほうを選ぶ。そっちのほうが楽しいし、楽だからである。そういう単純なことなんじゃないのかなぁ。小倉だったら「太った豚(主婦)であるよりは痩せたソクラテス(サラリーマン)たれ」というのだろうけど、それは人の好き好きだからねぇ。

ああ、今日はまとまらないな。なんていうのか、支配的な価値観(資本主義、男性社会)を相対化する上ではマルキシズムもフェミニズムも有効だけど、マルキシズムもフェミニズムもまた相対化されなくてはならない。ていうか、自然と相対化されちゃうんである。それが時代の流れっつーもんなのであろうなぁ。

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06月13日(月)

起床時刻:10時15分

前に中村うさぎの名を佐藤優が『私のマルクス』のあとがき(にかえての講演録)で出していたので、『幸福論』(フェミニストの小倉千加子との対談本・岩波書店/2006)を図書館で借りてパラパラと読んでみた。しかしながら、小倉の発言を読むのが苦痛で、途中まで斜め読みして、読むのをやめた。私はうさぎの言っていること、感じていることは9割くらいよくわかるのに対し、小倉千加子のほうは共感できる部分がまったくない。

たとえばここ。
「小倉:『ハッピー・マニア』(注:安野モヨコの漫画)に「ふるえるほどのしあわせってどこにあるんだろう」というセリフがある。つまり、いままで「ふるえるほどのしあわせ」を一度たりとも感じたことがない人なんですね、安野さんは。
うさぎ:え、そりゃそうでしょ。「ふるえるほどのしあわせ」なんてあるんですか。
小倉:ということは、うさぎさんもそういう層なんですね。」

ていうか、うさぎだけじゃなくて私もだよ!逆にあんたに聞きたいわ!
と思ったら、さすがうさぎ、ちゃんと聞いてくれる。

「うさぎ:びっくりした、いま。すぅごいびっくり。わたしは「ないでしょ、普通?」って思いますよね。小倉さんは「あります」と答えられるんですね。
<略>
小倉:時代の宿命みたいなもので、それがほんとうに失われてるんだなということが確認できた。いまどきの学生が、人生に夢中になれることが何もない、それを在学中に見つけたいとたくさん書いたときに、まず私は驚いたわけですよ。「何も夢中にならずに、いままで生きてきたの?」って。
<略>
私は二者関係でもありますけど、仕事をしていても幸福だとずっと思ってやってきましたけどね。授業をするのが楽しみとか。ふるえるぐらいの、というのもありますよ。幸福だと思えなくなったら、辞めるんです」

すっげぇな、まじで!!人間関係でもふるえるほどの幸福を感じ、仕事でも、ときにはふるえるほどの幸福を感じ、幸福じゃなくなったら仕事を辞めるんですって日本で断言できる人って、そうそういないと思うんだけど?

でも彼女には、うさぎや私のような人のほうが不思議な存在らしい。
「仕事でも苦しい、プライベートでもふるえるほど幸福感はないということになると……、でも別に集団自殺をしようかというほど死にたいわけでもないんでしょう?」などと言っている。

それからここ。
うさぎが「自分だっていつ人を裏切るかわからないのだから、他人のことだって信用できない」というのにたいして、
「小倉:自分が「絶対にこの人は裏切らない」と信じられれば、相手も自動的に信じられるじゃないですか。なんで自分を信じられないんですか?
うさぎ:どうして自分を信じられるんですか。
小倉:だってそれは、「決めたこと」なんだもの。「裏切らない」って決めたことなんだから。
うさぎ:決めたって裏切らざるを得ない状況になったり、結果的に「裏切ってしまった」という状況になることはあるじゃないですか。「人を殺さない」とか「盗まない」と違って、「裏切る」「裏切らない」は非情に主観的なことだから、私にそのつもりはなくても、相手が「裏切られた」と感じてれば……。
小倉:相手の受け止め方じゃなくて。
<略>
うさぎ:誠実でありたいと思っても、誠実でありつづけることは不可能だと、自分に対しても思ってますね。誠実であろうと努力はしますよ。努力するのが精一杯で、完璧に誠実であることなんて自信はないです。
小倉:うーん、それはだから、実は自己評価が低いということなんでしょうね。」

私はうさぎの言っていることには100%理解するし共感するが、小倉のほうは100%理解できない。小倉のような自分の善性に対する無条件の信頼を持つ人のほうが不思議である。

小倉にかかれば、親鸞もただ「自己評価が低い」ということになるだろう。
『歎異抄』にいわく、「自分のこころがよいから人を殺さないのではない。また人を殺さないと思っても百人・千人殺すことがある(「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」)」「海や川で網をひいて魚をとる漁師も山で猪を獲る猟師というような殺生を生業とする人たちも、商売人や田畑を耕して生計をたてる農民も同じである。業縁があれば私たちはどんなことでもするのである(「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなりと。さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」)」

私たちが他人を絶対に裏切らないと言い切れるのは、空間的・時間的に恵まれた状況にあるからだ。仮に「フェミニズムを信奉する者は拷問して殺す」というような場所や時代(たとえばキリスト教が禁教だったときの隠れキリシタンのように)に生きていた場合、小倉は自分を、フェミニズムを裏切らないといいきれるのであろうか?

根本にあるのは、うさぎも私も人間(少なくとも自分)は弱い存在であるという認識だ。それが小倉にはない。小倉はプライベートも仕事も幸せで、世の中の不正=女性抑圧社会を解放する志士なのであるから、自分に迷いもなければ、自己評価も高い。

こんなびっくりすることも言う。
小倉:十五年前ぐらい前から私も上野千鶴子さんも、関西で、専業主婦の欠落感というんですか、専業主婦のニヒリズムを相手に講演してきたんですよ。そうしたら、ある主婦が、やっと夫を説得して自分も働きに行くことができるようになった、パートなんですけどね、パートから帰ってきたら夫がやっぱり、少し家事を手伝ってくれるようになって、ほんとうにフェミニズムに出会って幸せですと言ったんです。私がその話をお上野さんにしたときに、上野さんが私に「その程度のことで満たされるニヒリズムなんだ」と言ったんです。
百人を一歩前進させるイデオロギーとして、私は公民館とか行政に、講師として使用されていたわけなんですけど、これは違うなと思います。百人を一歩じゃなくて、二~三人を百歩みたいな仕事をしたいなとずっと思ってきたんですよ。専業主婦の、あえてここで勝ち組という言葉を使うならば、勝ち犬の持っているニヒリズム。一円でも安い大根を買いに隣の町のスーパーまで自転車で、前と後ろに子供を乗せて走って<略>(いるような人)の問題じゃないんですよ、フェミニズムが相手にしているのは。(P81)

うさぎは「そうなんですか。そんな人は相手にされないんですか」と当然の疑問を呈す。小倉はそういうそこらの程度の低い主婦向けのフェミニストもいると指摘した上で「幸福というのはね、「自由」の別名なんですよ。もっと「自由」な世界が拡がっていくという感覚ですね」と言うのだが、うさぎと話をするなら、「自由とは何か」という話からするべきなのだ。

別に私は小倉の発言すべてに反発しているわけではない。小倉は「主婦は夫に精神的にも経済的にも依存している依存症である」と言うが、それはそうだろうと思う。だけれども、小倉は主婦が「女性全体への抑圧社会への依存」しているというのは、違うと思う。ここでも抑圧とは何か?からはじめなければならない。「抑圧」を人間性の十全の発揮を妨げられること、あるいは「ふるえるような幸福」から遠ざけられることとするならば、男性だって抑圧されている。私たちは「女性抑圧社会」ではなく、「人間抑圧社会」に生きているのである。

働くということは人間が抑圧される側面があることを、働くこと=幸福である小倉には理解できないのかもしれない。もちろん、働くことによって金銭報酬をえられ、家から解放されるという選択肢を得ることは、私ももろ手をあげて賛成したい。その選択肢は女性にとっても、男性にとっても必要だと思う(長男でも家を継がずにサラリーマンになる選択肢とか)。

しかしながら、サラリーマンになるということは家の支配から資本の支配に組み入れられることであるだ。いいかえると、家の奴隷から会社や企業の奴隷、賃金労働の奴隷になることでもある。

普通の賃労働者には小倉のように「幸福ではない」と思ったら辞めるなどという選択肢はない。食っていかねばならないから、不幸でもなんでも働くのだ。むしろ、会社に抑圧されるより、家庭の主婦(夫)として、家庭で「抑圧」されたいと思うサラリーマンはいっぱいいるのだ。

小倉や上野クラスのフェミニストは、負け犬主婦など相手にしていないと自分で言ったが、男の世界の負け犬もまた、相手にしていない。勝ち組主婦のニヒリズムというが、何百年も前から、勝ち組の男の間にもニヒリズムはあった。

今回の対談はうさぎから頼んだらしいが、フェミニズムという道具で彼女は「幸福論」に近づきたかったんだと思う。佐藤優の言葉を借りるなら、うさぎは存在論的にモノを考える。一方で小倉は情勢論的にモノを考える。情勢論者は「消費税は5%がいいのか、10%がいいのか」ということを論じるが、存在論者は「そもそも税金は必要なのか」ということから論じる。消費税に対する疑いはない。一方で、存在論者はそこから疑ってかかってくるのだ。
小倉の幸福論は情勢論的で、うさぎの幸福論は存在論的だから、話がかみあわない。小倉は勝間和代あたりと対談したほうがいいのだ。そしてうさぎの対談相手にはもっと適任がいるだろうと思う(同じフェミニストでも、小倉より上野のほうがましだと思われる)。

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06月12日

起床時刻:12時30分

高校三年のときの担任に「君は大学にいって変な宗教に入るんじゃないか心配だ」と言われた。オウム真理教や原理研(統一教会)がはやっていたころである。

みんなが寝るか、内職をする仏教の時間もちゃんと話を聞いていたから、よほど宗教的関心の強い人だと思われたのかもしれない。

ま、幼いラーフラとヤショダラ姫を捨てて出家した仏陀のことを「くそすぎワロタwww」と内心思っていたのだが。

私は何かに入信することがあっても(キリスト教であれイスラム教であれ仏教であれオウム真理教であれ)絶対に宗教団体に属すること(教会や寺などの宗教施設に通うことも含む)はない。

集団で何かをするのが、肌感覚で嫌いなのだ。

「力をあわせてがんばろう」とか「みんなは一人のために 一人はみんなのために」というスローガンが小学校のころから大嫌いだった。

その理由は単純で、私が、本当にダメな子だったから、力をあわせようとするとき必ず足をひっぱる立場であり、みんなが私というダメな落ちこぼれ一人のために、迷惑するというような立場であったからだ。

運動会の行進やダンスでは一人で隊列を乱し、修学旅行の集合時間は遅刻し、給食の時間はいつも最後に食べ終わり、合唱コンクールでは一人音程をはずし、卓球部の地区大会では一人寝坊し(電話がかかってきたので、「私抜きでやっといて」といったら、「pyaaaちゃんがくるまで待ってるから!」とかいういらん熱情で、行きたくもないのに行くことになり)、文化祭にしろ、体育祭にしろ、修学旅行にしろ、「なくなればいいのに」と心のそこからいつも思っていた私だからこそ言えるのである。

うちの親が私を幼稚園に迎えにいくと、必ず一番最後にわたしが出てきたと言っていたが、それくらい、人並みはずれてゆっく~~~~りした人間だった。だから集団で行動するといつも私はせかされてつかれるのである。

好きな人だけでやればいいじゃん?
私抜きでやればいいじゃん?
私は自分の好きなことやりたいもん。

私が文部大臣になってなんでもやっていいといわれたら飛び級制度を実施する。小学校から科目別にそれぞれの程度にあった授業をとるようにするのだ。小学生だって大学生より賢い子はいるし、その逆もしかりである。
自分のレベルにあった授業を受けるのが時間の有効活用というもんである。その中では他人に気をつかって「馬鹿な質問じゃないか」とびくびくすることもないし、つまらんレベルの授業であくびをかみ殺す必要もない。

教師だって生徒が一定のレベルのほうが教えやすいだろう。

それを「みんながわかるまで」とか変なプレッシャーで教師が頑張るほうが、教師も気の毒だし、実力がばらばらのクラスの生徒も気の毒だ。

「みんなのために助け合おう」なんつうのは、大人になって、経済的困窮したときに金をくれればいいのであって、小学生レベルでは特になんにもないだろうと私は思うのである。

そりゃあ子供でも助けてあげたほうは「いいことをしてやった」という気分になるかもしれないけど、落ちこぼれの側から言わせてもらうと「ほっといてほしい」のである。

それは自力でがんばりたいからとかいう立派な理由ではなく、注目されて恥ずかしいからだ。

私はいつもほっといてほしいと教師に対しても思っていた。
小さいころから教師に粘着されやすいたちで(落ちこぼれだからであろうか)、なにかと先生がくっついてくるのだが、うっとうしくてしかたない。
「私も先生のことはほうっておくから、先生も私のこと、ほうっておいてよ」っていつもいいたかった。

まぁそんなわけで集団がともかく大嫌いだし、集団を賛美する風潮も大嫌いなのだ。カルチャーセンターみたいなゆるい集団ならいいんだけど。

集団のルールが強い田舎も嫌いだし、拡大家族も嫌いだし、アットホームな会社とか共同体意識の強い会社も嫌いだ。もちろん軍隊もその最たるもので、私は絶対に絶対に入りたくない。

犀の角のようにただひとり歩め。
仏陀はええこといわはった。

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06月11日

起床時刻:13時15分

浄土真宗は一神教的であり、一神教的な浄土真宗が広まっていたために、日本ではキリスト教が他国ほど根付かなかったのではないか(つまりキリスト教と競合した)と書いたが、親鸞の罪の意識は、西洋のキリスト教的な罪の意識とはかなり異なるように思う。

人間がとことん罪深い存在であることは両者に共通しているが、親鸞はその罪の由来を「宿業」に求めている。そして善行も同じく「宿業」に由来するという。
キリスト教は(よくしらないのでイメージでいうと)、罪はサタン由来、善はキリスト由来なのではないか?
ぬっるい浄土(真)宗に比べて、ありとあらゆる面で厳しいキリスト教にひかれる人たちの気持ちもよくわかる。
湯浅泰雄の『日本人の宗教意識 習俗と信仰の底を流れるもの』(講談社学術文庫)を読んでいたら、フロイスの報告をひいて、昔の日本のキリシタンたちは非常に苦行(ヂシピリナ)を好んだと書いてあった(P258)。「出た!日本民族のドMの血!!」ってところであろうか。彼らは宣教師が驚くほどわが身を鞭で打ち、道が血で赤く染まるほどであったという。マゾにもほどがある。それほど強く罪を罰する気持ちをある人にとっては真宗は師匠から信者まで鞭打ち千回の刑に値するであろう。

話を戻す。
「よきこころのおこるも、宿業のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるうも、悪業のはからふゆえなり」(歎異抄)。

親鸞が弟子にして歎異抄を書いた唯円に「往生できるから千人殺して来いといったら殺してくるか?」と聞いたら唯円は「あひゃあ、一人だって無理っす」と言うのだが、それを聞いた親鸞は「自分の心でなんでもやれるというなら、千人だって殺してくるだろう?でも、一人でも無理というのはお前には殺人にご縁がないということなのだ。いっとくけど、いい人だから殺さないのではない。単にそういう縁がないのだ(人を殺せる器量がないというのもまた、業縁だ)。また人を殺したくなくても百人千人殺すことだってあるのだ」というのだが(超訳)、悪事の理由として「宿業」「業縁」ということばを出してしまえば、とんでもなく無責任である。反省の色ゼロもいいところである。

浄土真宗西本願寺派だった高校の仏教の時間は、一年生は『仏陀』(だったか『釈迦』だったか)という薄い本に基づき、仏陀の生涯を学び、二年では『歎異抄』を読み、三年は何をしたっけな、『教行信証』はよまなかったと思うから、『歎異抄』をだらだらやったのかもしれないな、何しろ内容のうっすい授業だったので、まぁそういうかんじで勉強した。

『歎異抄』は反発と共感を覚える冊子だった。
私は昔から人間の罪には序列があると思っている。世の中の人もそう思っている。だから、死刑になったり、無期懲役になったり、禁固十年になったり、三年になったりする。しかし親鸞はそれを否定する。
そんなのおかしくない?
危険思想じゃない?

そもそも歎異抄は善悪をとかない。
阿弥陀如来におすがりし、念仏を唱えることが、善行を行い、悪行を律することよりずっと大事である、というのである。

ひどい話だと思う一方で、それが本当だ、と思う私もいる。
なぜなら、人間には善悪の区別など本当にはできないとも、どこかで私は思っているからだ。したがって、悪の定量化も(つまりあの人は死刑で、この人は禁固刑などということも。あるいは殺人者より私のほうが善人であるということも)できないとも、どこかで思っているからだ。
そもそも善行を行ったとしても本当に善行かどうかはわからない(悪行のほうは、まぁだいたい悪行になるのだがw)。

何が正しくて、何が正しくないか、私たちのわずかな知では判断できない。だから、「善行をしたから私はいい人間だ」という顔をする人間は、信用できないとも思う。逆にいえばそこは親鸞の信用できるところだ。

校長の仏教講話はほとんど覚えていないのだが、ひとつ印象に残る話があった。
それはサトウサンペイ(彼は金光教徒ではないかと勝手に思っているのだが)の四コマ漫画の引用である。
ある人が釣りをしている。彼は魚を釣るがリリースし、殺生をしなかった自分に自己満足する。しかし最後のコマで魚は海中の病院にいって針で傷ついた口を手当てしてもらう、というものだ。
校長は殺生をしない自分に自己満足をする人の姿を「人間の目」といい、最後のコマで病院にかけこむ魚に寄せる慈悲心を「仏様の目」=智慧といった。

その話がいまだに印象に残っている。
仏の目とは畢竟、他人の痛みを自分の痛みとして完全に感ずる心=慈悲の心、仏心だと思っている。
そうして何が最善であるかを、ありとあらゆることを考慮して見通すことのできる力=智慧だと思っている。
ついでにいうと、資本主義が非情になるのは仏の心=慈悲の心がかけているからであり、社会主義がうまくいかないのは、仏の目=智慧がかけているからだと思っている。私たちしょうもない人間が運営しているのだもの、完璧な社会など創造可能なはずもない。
私たちができるのは、自分達が絶対に正しいと主張することをやめることしかない。正しいことは仏のみぞ知るのである。

話を戻すと私たちは、他人の痛みを自分の痛みとして感ずることなどできない。想像はできるけれど、他人の痛みは所詮他人の痛みでしかない。
他人の大腿骨骨折よりも自分のつき指のほうが痛く感じるのが人間だ。
そして何がよくて何が悪いかすらもわかることはない。
子供のためを思って進学校をお受験させたが、子供は登校拒否で最終学歴小学校なんてこともあるように、何が自分や他人や、あるいは社会全体にとって最善かは絶対に見通せない。

つまり、絶対に仏の目はもてない。
だから、何がよいとか何が悪いとか、絶対に断定はできない。
「いやいや、人を殺すことは悪である。
これは自明だろ?」
といわれるかもしれないが、じゃあ死刑はどうなる?
原爆を落としたことは?
「戦争を終えるために仕方なかった」というのがアメリカの見解だが、ほぼ「死に体」だった当時の日本で、残虐な手段で大量に無辜の民を殺すのも「仕方ない」という理屈で正当化されるのだろうか?

したがって、本当の善悪は仏様以外にはわからない。
私たちは仏様の論理とは別に、この世の論理(「勝てば官軍、負ければ賊軍」)に従うしかない。

とか書いていると、まるで私がめっちゃ阿弥陀如来を信じている信心者のようなかんじだが、私は無神論の無信心者だ。宗教はよいことよりも害悪をもたらすと思っている。反宗教者でもある。尊敬する人は『神は妄想である』を書いたリチャード・ドーキンスなんだから。正直阿弥陀如来の存在自体、信じちゃいない。超越者も神もいない。イエスの復活もなかったし、仏陀がマーヤ夫人の脇から生まれおちていきなり七歩歩み、「天にも地にも、われ一人尊し」とおっしゃったとかいう逸話も、ハクをつけるための作り話だと思っている。

まぁこのように宗教的なたわごとは何も信じてはいないのだが、しかし、一方でこの世の善悪の論理が至上だともまったく思っていない。阿弥陀如来からみれば私たちは蟻の一匹一匹であり、一匹の蟻が他の蟻をさばくのが滑稽ないように、あるいは一匹の蟻には地球の全体像どころか日本の全体像ですら想像もつかないように、私たちが絶対的かつ全体的な智慧(仏のような)を獲得することはできない。

そのせいか、この世界の論理や倫理(法とか道徳とか)にたいしても、どこか敬意を払っていない。もちろん、守らなきゃいけないが、絶対に正しいとは思っていない。ただそのほうが無難だし、省エネだから守っているだけだ。

そしてもちろん、私の小理屈も阿弥陀如来からみたら、みみずのたわごとである。だけれど、みみずをあわれんで、きっとお救い下さるであろう。もしいるとしたらであるが。

先ほどひいた湯浅の著書から、フロイスの報告にある印象的な情景を孫引する。
「神父(パーデレ)ヴィレラが河内の飯盛に布教したとき、キリシタンに改宗した筈の老人が数珠をつまぐって祈っていたので、神父がわけをきくと、彼は腰のロザリオを示しながらこう答えたという。自分は今まで大きな罪を犯してきたので「ひょっとすると私の死に際に私の罪があまりにも多くて、デウス様が私をその御栄光に招じ入れたもうに価しないようなことがあるかもしれません。それで、私はその場合のためにこの数珠を繰って阿弥陀仏に祈り、もしそうなったら極楽といわれる阿弥陀の浄土へ私を導いていただきたいと願っております」(P258/元引用はフロイス、柳谷武夫訳『日本史』平凡社、第二巻一五九頁))。

あさはかな老人と嗤うべき存在かもしれないが、私はこの老人の気持ちがよくわかる。

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06月10日(金)

起床時刻:11時30分

昨日はAM3:00過ぎまでゲーム。
睡魔との闘い。

さっさと寝ればいいじゃないかといわれそうだが、私には拒否権なんぞないのである。何しろ、夫に寄生する寄生虫主婦であるから、宿主が火に飛び込むなら、自然と寄生虫も火にとびこまざるをえないように、ゲームをするならばゲームをしないわけにはいかないのである。

もっとも、宿主を寄生虫が動かすような例も世の中にはあるわけである。『天使の囀り』(貴志祐介)に、梅毒のスピロヘータは宿主の性欲を旺盛にして、感染を広げようとすると書いてあった。自分の子孫繁栄のために、宿主を操るのである。

現代の主婦でもブレイン・ワーム的手法でだんなを操り動かすスーパー寄生虫もいる。アキカンこと菅首相の奥さんは典型的なブレイン・ワーム主婦である。

だからまぁ、ブレイン・ワームを目指す主婦としては菅首相や鳩山前首相のような宿主(スッカラカンな脳みそで操りやすく、金はちゃんと運んでくる)にとりつくのが一番いいのである。

もちろん、私はブレイン・ワーム主婦をディスっているわけではない。歴史上、内助の功がうたわれる賢婦人はたいていブレイン・ワーム主婦である。ボンクラではスーパー寄生虫にはなれないのだ。

私は男の非婚率が増えた理由のひとつに「主婦という寄生虫に寄生されて、生気とか金とかを吸い取られたくない!」という心理が大きいのではないかと推測している。「女性とのコミュニケーションする能力がない男が増えたから」というのは女が好む理由であるが、そんなすっとこどっこいな理由で非婚化するわけないのである。なぜなら、今よりずっと結婚する率の高かった戦前の男女のディスコミュニケーション具合は今よりずっと深刻であったからである。

だからまぁ、宿主の都合にあわせるのがめんどくさい女性が非婚化し、宿主になることを拒否している男性が非婚化し、その結果、シングルの割合が増えているという面が大きいと私は考える。
(もちろん、例外はいっぱいある)

それでも「お前は私の宿主になるんじゃ」と男性を説得するのなら(私だって説得したい。主婦でいたいもん♪)、やはり寄生される側の利点をあげるしかないのだ。
しかしこれまた「そんなもんねーよ、食事はコンビニですむし、家事代行サービスもあるし、クリーニングにワイシャツも出すし」といわれるのが落ちだ。
そうではない。寄生されるということは自由が減るということである。しかし人間は本来的にある程度不自由な状況のほうが生きやすいということもあるのだ。絶対的自由、何でもありの自由のもとでは、人は立ちすくんでしまう。だからこそ、人々は宗教の戒律をつくったりして、主体的に不自由な状況を作り出してきたのだ。
さらにいえば、人間は「自分のために」よりも「誰かのために」のほうが大きなことを成し遂げやすい。誰かのためになら死ねるが、自分のためにはなかなか死ねないのだ。守るものがある人のほうが強いというのも同じ理屈である。

じゃ、お前が宿主になれよといわれたら「無理wwww」なのだが。

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06月09日(木)

起床時刻:07時45分

昨日の日記に石田波郷が好きだと書いた。芭蕉、蕪村、一茶、子規、虚子、数々いる俳人の中でもとりわけ好ましい。

私ははっきりいって、昔の人の俳句はそれほど心をひかれない。
過去は外国だという言葉があるが、江戸時代はもはや異文化の部分が多く、おそらく十分に鑑賞できていないのだと思う。

安藤次男を読むとそれをしみじみ感じる。

『花づとめ』で彼は一茶の「ぼた餅の来べき空なり初時雨」をひいて「この「ぼた餅」は、亥の子のころのぼた餅だろう。亥の子と限ることはないが、初冬に入った農家は、収穫も終わって何かと祝いごとが集中する。そういう農民の生活の智慧を念頭に置かなければこの句はよくわかるまい」と書く。

亥の子って何?レベルのわれわれには、もとよりよくわかるわけがないのだ。
ちなみに亥の子とは、もとは平安時代の宮廷行事だったらしいが、下って農家の刈入れ祝いになり定着し、西日本では亥の子、東日本では十日夜(とおかや)の名称で呼び、旧暦十月十日に祝うそうである。

安東の「亥の子」と題するエッセイは
「子供のころ、旧暦十月の初亥の日になると、小作人たちが餅をつきに来た」
とはじまるのだが、「小作人」が出てきたのにびっくりした(あ、差別とかそういうんじゃないですよ、もちろん)。
小作人って時代劇でしか見たことないし。
餅をうちにつきに来る状況って、絶対ないし。

というわけで、まったく日本伝統の風俗にうとくなっているわれわれには、芭蕉や一茶よりも、現代の外国の詩やなんかのほうがよくわかったりするのであろう。

昨日は結核のリアルな恐ろしさを知らない私たちは、病床俳句の真価を理解しえないかもしれないと書いた。
私の好きな波郷の句でも、時代による断絶はある。
芸術にまで高めれられた普遍的なるものですら、時代による理解の制約はあるのだから、生身のそこらへんの人間たちがジェネレーション・ギャップを感じるのは当たり前だし、理解しあえないのもまた、あたりまえなのだ。

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06月08日(水)

起床時刻:10時15分

昨日はAM2:30くらいまでゲーム。
トリガー取りで死にそうになっている人がいたので、ケアルしてあげてもいい?ってだんなに聞いたら、ダメだ!だってさ。
そしてその人は案の定死んだ。そして、うちらがトリガーNMを横取りする。

よく麻雀やゴルフで人格がわかるというが、ネトゲでもわかるのである。

さて、俳人の中で誰が好きかと聞かれれば、石田波郷が一番すきだ。
「細雪妻に言葉を待たれをり」
「翠菊(えぞぎく)や妻の願はきくばかり」
などという句からは気の強い奥さんと気の弱いだんなさんの図にみえるが、『わが父 波郷』を読むと、どうしてどうして、いい奥さんである。苦しい病身ゆえのわがままか、怒鳴り散らしているのは波郷のほうであり、子供らは父の顔色を伺ってびくびくしているのだ。

酒に強い波郷は飲酒が過ぎることがよくあり、体を気遣う妻が小言をいうと、お菜を載せたままのちゃぶ台を星一徹のごとくひっくり返すこともあり、子供がいないときには火鉢までひっくり返したという。

「妻にのみ憤りをり返り梅雨」
という句は夫というものの本質を看破している(もちろん、例外はいくつもあるだろうが)。外で七人だか八人だかしらんが、おおぜいの敵と戦っている男たちのストレスのはけ口は妻なのだ。外で上司や顧客に愛想笑いをして、内で妻や子供に八つ当たりをするのが夫なるものの習性である。
それどころか、天気が悪いといっては妻を責め、腹がすいたといっては妻を責め、政治の腐敗もおかずのまずいのも何もかもが妻にあたる理由になるのである。
「俳人としての波郷は外面のいい人で、誰にも温和な態度で接したようで、人柄を悪くいう人は少ない。だが、父親あるいは夫しては気むずかしく、短気な面を露わにすることがままあったのである」(P129)

ま、文人の価値はその文学の価値で決まり、人格などは無関係であるが、波郷の性格のよい点も書いておこう。それは世間ずれしていないところ、まっすぐなところだと思う。痩せ我慢の不器用さとでもいおうか。有名な「桔梗(きちこう)や男も汚れてはならず」のテイである。
深川育ちで竹を割ったような性格だったという奥さんも波郷のそういうところは好きだったであろう。外見も悪くない。身長が180センチほどもあり、ハンサムとはいえないが、すっきりとした感じの好男子である(「椎若葉一重瞼を母系とし」なんていう俳句もある)。

妻のあき子さんは
「再び植ゑし朴(ほお)枯れんとす」の詞書のあと
夫(つま)よ病むな朴の広葉は噴かずとも
と夫を思うこころを詠んでいる。
「夫(つま)バイバイあたしゃ年金あればいい」
なんてことは言わないのである。

ときには
「夫遁(のが)れ家遁れ来てくさいちご」(あき子)
なんていう句もつくっている。夫に仕え、家に仕えている人にはよくわかる心情であろう。くさいちご、ということは野っぱらか、公園か、そんなところに一人になるために逃げてきたのだろう。
「夫遁れ家遁れ来て居酒屋へ」なんてわけにいかないのが、女人のつらいところである。とまれ、あき子さんの句には共感できるものが多い。

波郷の句に戻る。彼の句にはまるで、茶色い煮しめ料理が続く中にフレッシュなサラダをみつけた感じがする。あるいは、大量のかんぴょう巻きの中の一個の茶巾ずしとでも言おうか。

煮しめやかんぴょう巻きもいいが、サラダのようなフレッシュさ、みずみずしさ、さわやかさ、茶巾寿司のように人をひきつける魅力が波郷俳句にはある。

サラダタイプとしては

バスを待ち大路の春をうたがはず
プラタナス夜(よ)もみどりなる夏は来ぬ
初蝶やわが三十の袖袂(そでたもと)
泉への道後れゆく安けさよ

茶巾寿司タイプとしては

吹き起こる秋風(しゅうふう)鶴をあゆましむ
寒椿つひに一日(ひとひ)のふところ手
霜柱俳句は切字響きけり
綿虫(わたむし)やそこは屍(かばね)の出(い)でゆく門

戦争に関する句では
「わが兄弟三人悉く戦陣にあり」と詞書のある
一茶忌や父を限りの小百姓
や、有名な
はこべらや焦土のいろの雀ども
など。

有名な「霜の墓抱き起こされしとき見たり」は
「波郷の寝ている部屋の北窓から裏の墓場が一望でき、母が抱き起こしたときに、いやおうなく霜の墓が目に入ったのである。死病と思われていた結核で臥す波郷には、つらい眺めであった」
とある。

『わが父 波郷』は長男の石田修大(のぶお)氏がが書いたものである。死病と恐れられた結核のリアリティが私たちにはないが、治療の過程も含めてよくわかる。結核の恐ろしさを知らなければ、多くの病身の俳人がよんだ病床俳句も本当に理解できないものかもしれない。

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06月07日(火)

起床時刻:07時35分

昨日も結局遅くまでゲーム。
昼間、どうしようもなく眠い。

睡眠の専門家たちは、口をそろえて昼間の短時間(15分以内が目安)をとるのは脳にとって非常によいという。
コーヒーを先に飲んでから(カフェインの作用により爆睡しない)、少し寝ると、スッキリして午後の作業効率があがるという。

しかし枕が替わっただけでも眠れないのに、昼間っから出先でうとうと眠れるか、ボケェという、私のような人もいるだろう。ものすごく眠いんだけど、眠れないというアレ。そういう人は目を閉じるだけでも効果があるという(が効果を感じない)。

私は、朝型でもない夜型でもない昼型人間であるので(要は朝も夜も弱い)、学生時代は、一日平気で10時間とか寝ていたのである。そのおかげで、どんなクソ退屈な授業中でも眠気を感じず、周りの学生がみな机につっぷして寝ていても、自分だけはギンギンに目が覚めている(その結果、周りにノートを貸すはめになる)という偉人だったのだ。

それが働くようになってからは、やれ残業だ、飲み会だ、あれだ、これだで慢性的な睡眠不足に陥るようになってしまうわけだ。
結婚したら、ゲーム中毒の配偶者のせいで、自分も深夜どころか明け方までゲームにつきあうことになる。

大人になるというのは、他人のリズムで生きることだ。
世の中のリズム、会社のリズム、上司のリズム、配偶者のリズム、家族のリズムで生きなくてはならない。

一人でいるときだけ、自分のリズムに戻ることができる。
だから、大人にとっては一人の時間はどんな高価なものよりもずっと貴重な宝物である。

佐藤優『私のマルクス』について二点ほど。
同書にはあとがきにかえて、佐藤が京都で行った講演録がついているのだが、そこから。

佐藤優は中村うさぎさんのことを「今日本で一番真面目にキリスト教について考えている作家」だと書いている。
うさぎといえば、昔テレビを見ていたら、彼女が出てきて「大借金してブランドを買い捲っている」といような話をし、それを聞いた山田まりやが「下品な女」と言い捨てたことがあったが、それを観て、山田まりやのほうがよほど品下れる人間に思えたことを思い出した。

うさぎは借金してブランドを買いあさり税金を滞納するわ、あちこち整形してデリヘルするわ、風呂嫌いで一週間入らないわ、部屋は汚いわ、うんちをもらすわ(しかも割と頻繁にもらしているようである。そういえば先日、あめとーーくを見ていたら森三中の大島も布団のなかでウンコもらしたといっていたから、大人になってもうんちをもらす人は多いのであろうか?私はもらしたことはない。お腹を壊したりして、どんなにやばそうなときでも、いつもセーフである。私にはトイレの守護天使がついているということであろうか?)、人間としてどーなの?ではあるが不思議と高潔な感じのする人なのである。なんていうのか、「自分への厳しさ」を感じるんだよね。ま、「そんなやつはウンコもらさねーよ」といわれれば反論しにくいのだが。

佐藤によればうさぎは厳格なバプテスト系のクリスチャン・ファミリー出身なんだそうだ。
「キリスト教的な軌範が人間存在をほんとうに支えることができるかという存在論的課題に彼女はチャレンジしている。その意味において、キリスト教的なモラルの線がうさぎさんにはものすごく気になっている」とある。
なるほどねぇと少し納得した。
(ちなみに文庫版の解説はうさぎだ。なかなかいい解説だと思う)

もう一点。
「キリスト教が日本で根付かない理由は何か」という質問に対して、佐藤は平田篤胤が国学の中にキリスト教的なドクトリンを相当とりこんだので、日本では近代化するためにキリスト教をとりいれる必要がなかったことと、キリスト教(特にプロテスタント)が日本では反体制色が伝統的に強いことをあげている。これは薩長体制に入れなかった人間がキリスト教を通じて社会的な階層上昇を目指したためである(そのため、日本の教会はきわめて儒教的なリゴリズムがあるそうだ)。

ものを知らない私が漠然と考えていたのは、日本には浄土真宗があるから、である。私は浄土真宗西本願寺派の高校に行ったのだが、浄土真宗はきわめて一神教的だ。

上座部仏教、禅仏教はみずからが仏となることを最終目標とするが、浄土真宗では最初から「そんなの、むり!」とあきらめる。キリスト者だって自分がイエス・キリストになれるなんて、思ったりしないだろう。

人間は弱く、欲まみれで罪深い。
キリスト教のキィ概念のひとつに原罪があるが、悪人正機説の親鸞にも似たものを感じる。
解釈はいろいろあるかもしれないが、私は「たいていの人間は煩悩具足の罪深い在任だ。自分の努力で善をなし、だれそれより自分はいい人だと思う人は傲岸不遜であり、悪人であることを自覚し阿弥陀さまにひたすらおすがりする人より、ずっと救いがたい」と、字義どおり読んでいる。

そもそも「いいことをする」といえば、「人を助ける」がすぐに思い浮かぶであろうが、人を助けることほど難しいことはない。「自分の思ったように、人を助けることは、きわめて稀なことだ(おもふがごとく助けとぐること、きはめてありがたし)」と親鸞はいう。

本当にそうだと思う。
たとえばボランティアで発展途上国で井戸を掘るというのがブームになっているが、実は井戸水にまじった砒素中毒で大変な被害がでている地域もあると聞く。このように善意からやったことが不如意な結果になることが、よくよくこの世ではあるのだ。人間の智慧というのはどうしようもなく狭小であるから、阿弥陀如来におすがりする以上の知恵はないのである。

そんな弱くてヘタレなダメ人間の私たちが自ら仏になるなんて到底無理なのだ。だけど極楽浄土には行きたい。そうだ、素敵にやさしい阿弥陀如来様がいるじゃないか!全人類を救うという誓願をお立てになった阿弥陀如来さまにおすがりすれば、きっと極楽浄土に往生できる!!

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、阿弥陀様に全部お任せします、信じています、よろしくでっす!!と心のそこから念仏を唱えたてまつり、阿弥陀様におすがりすれば、摂取不捨の利益にあづかって、ヒットラーでも極楽浄土にいけるわけである。キリスト教ではヒットラーは天国にいけないのではなかろうか?ホロコーストの大罪もあるが、自殺の罪もある。

(ちょっと長い注釈を入れると、しかしながら浄土の教えの根拠となる大無量寿経(「大」は「大谷崎」の「大」みたいなもんで、無量寿経・ザ・グレイトみたいな尊称。法蔵菩薩が大衆救済のために四十八の誓願を立て、ついに仏となり無量寿仏=阿弥陀仏におなりになったという物語)の一番大事な十八願(=浄土に往生するにはただ念仏を唱えればいい)には、除外規定があって「ただし五逆(父殺し・母殺し・坊さん殺し・寺壊し・仏に危害を加える)と誹謗正法の者(仏法を謗る者)は除く」となっているのである。
しかし、これは親鸞のように物事の本質をみる人にはかなりひっかかる部分であったはずだ。『教行信証』で彼はこの課題に取り組んでいる。親鸞にとってはかなり切実な問題だっただろう。そして最終的には深く深く懺悔して、善智識(=仏の教え)に導かれれば、父王殺しのアジャセが救われたように、五逆と誹謗正法の者ですら、救われるのだという結論にいたっている)

浄土真宗の他力本願はハンパない。
既存宗教のコードをおかした人たち(殺人、盗みなど)、あるいは被差別者(処刑人など)、そして女性でも心から阿弥陀如来の誓願におすがりすれば往生できる(「弥陀の名願によらざれば 百千万劫すぐれども 五つの障り離れねば 女身をいかでか転ずべき(弥陀の名願によらなければ五障のある罪深い存在の女性はいつまでたっても成仏できない)」「弥陀の大悲深ければ 仏智の不思議をあらはして 変成男子の願をたて 女人成仏ちかひたり(阿弥陀様はとても慈悲深いので、成仏できない女性でも、仏の不思議な力で男子に変身させることで成仏させてあげることをお誓いになったのだ)」(by親鸞)、というわけで、普通の仏教では女性は成仏できない)。

親鸞のこういうドラスティックさは、私は大好きなのだが、それに甘えた生臭坊主どもはもちろん大嫌いである。

だからまぁわざわざキリストを信じなくても、阿弥陀如来がいるから別にいいじゃん?ってことで、土着化しなかったのではないかと思うわけだ。

そういや、耶蘇が禁教だった時代、キリスト者を一番迫害したのは浄土真宗だと聞いたことがあるが、同属嫌悪というか、同じセグメンテーションをターゲットとしたマーケティングなんで、先行者利益を享受する真宗側が締め出しを図ったのではなかろうか。禅仏教あたりとはあまり競合しないような気がする。

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06月06日(月)

起床時刻:10時15分

今日はバイトがない。洗濯・掃除・アイロンがけなど。

昨日は一日中ゲーム。4時くらいまでやって、お風呂に入り、寝たのは5時過ぎ。旦那がベタベタ触ってくるのがうっとうしく、居間のソファで寝た。

ゲーム、ゲーム、ゲーム。

現実世界では資本主義国であれ中国のような共産主義国であれ、人は誰しも他の人より金持ちになろうとする競争を続けているわけだが、ヴァナ・ディールの世界では、他の人より強い武器や防具を持つことなどで「最強」になろうとする競争を続けている。

常識人たちはゲームの世界に逃避する人に現実のゲームに戻れというわけだが、どちらの世界も人間の作りだした価値、すなわち金や強さに支配され、金や強さを崇拝するような、かわり映えのしない世界だ。円を追求するか「ギル」(仮想通貨)を追求するかの違いしかない。

むしろスクエニの作りだした架空の世界における「最強」競争は、努力をすれば(すなわち、ゲームに時間を費やせば)どんな下手クソでもある程度の出世の見通しがあるだけ、現実よりも「公平」な世界なのである。さらにいえば、ゲームの世界の実力は、D値やSTR,DEXなどにより「見える化」されているため、現実世界の「実力」(「運」だの「コネ」だの「自己ピーアール能力」だの「根回し力」だのの集大成)といったみえない要素が排除されていることから、より「不公平のない理想社会」といえるのである。

ゲームの世界では、生まれた時点でのキャラの能力(STR, DEX, AGI, INT, MND, CHR, HP, MPなど)は、種族に違いはあれど、同一種族ではまったく一緒である。隣の子より生まれながらにして、不細工で、身体能力も知的能力も著しく劣るうえに、ずっと貧しいなどということはない。スクエニの神(運営)は、現実の神より、ずっと博愛主義的平等主義者なのだ。

私自身はというと、現実のゲームにも架空のゲームにも、本来的にのれないタイプである。なぜなら、グータラだからだ。
コツコツまじめにお金を稼ぐのも経験値を稼ぐのも、ちっとも好きではない。お金も経験値(今はアビセアであっさり稼げるので、価値がなくなってしまったが、まぁエンピリアルのための型紙とか素材とでもしておこう)もどちらも好きだし、欲しいが、そのためにうちの旦那のように粉骨砕身努力するというのはイヤになのだ。

しかしながら、失明するなどの物理的な理由がなければ、私はこのゲーム世界に巻き込まれていくだろう。死ぬなどの物理的理由がなければ、現実世界のゲームにも、いやおうなく巻き込まれるように。

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06月05日

起床時刻:12時31分

4:00くらいまでゲーム。目の奥が痛いので、この日もセデスを飲む。
夕飯はラーメン。

ゲーム、ゲーム、ゲーム。
カラボスの小石を75個集めなくちゃいけない。
キレインのランプを50個集めなくちゃいけない。
イツパパの鱗粉を50個集めなくちゃいけない。
いったい、なんの脅迫観念なんだろう?

現実だってそうだ。
カラボスの小石をお金、キレインのランプを上司やクライアントからの評価、イツパパの燐粉を成功体験に置き換えたようなもので、そういったものを集めて、より「人間的に成長」しようとしているんだ。

ゲームはそれこそ何年かたったら、サービスが終了するだろう。
現実のサービスはなかなか終了しないだろうが(終末論者は別の見解があるだろうが)、どっちにしろ何十年かたったら、死=アカ削除されるんだ。

どうせ死ぬなら、赤目釣ってキリキリ生きるより楽しく生きたほうがよほどいいと思うのは、生来のズボラと恵まれた環境によるのだろう。

もちろん、世の中には小石集めやランプ集めを楽しく思う人も多いだろう。そうではなくて、そのようなものがないと世間に参加できないから仕方なく集めている人もいるだろう(ゲームでも、一昔前なら白虎ない前衛はメリポに来るな、といわれてたし、今だったら「秘」を打てない忍者はパーティに入るなとか言われるわけだ。両方とも、結構ハードル高いと思うんだけど)。

だからこそ、世の中もゲームのサービスも続いていくのであろう。

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06月04日

起床時刻:10時00分

昨日はPM9:00からAM4:00頃まで、ゲーム。
目の奥がずきずき痛むので、セデスを飲んでゲーム。
夕飯はデリバリーのピザ。

私は人生というのはむなしいものだと常々思っている。
多くの人間と虫けらと、どこが違うというのだろうか。
もっといえば、人間とゴキブリと、どこが違うというのだろうか。

どちらも、食べて、排泄し、子孫を残し、死んでいくだけの存在だ。
仮に超越者というような人がいるとして、その人からみた人間は虫けら同様に、つかのまこの世に現れ、去っていくだけの存在だろう。あるいは遺伝子を残していくためだけにこの世に召喚されたかりそめの存在だ。遺伝子を残そうと思わない人も私のように多くいると思うが、ゴキブリ同様、人間は繁殖力が異様にあるから、勝手に増えて地球を食い尽くしていく。

私は、ゲームをしていても時間の無駄だとよく思うのだが(特に作業ゲーは)、存在自体が無駄なのだから何をしたって無駄なのだ。子供を産めよ、増やせよという言説も、より大きな存在が聞けば、ゴキブリが他のゴキブリに「もっと子供を多く産んで育てなきゃだめよ」と説教しているのと同じように聞こえるだろう。人間が都会のカラスを「増えすぎた」として殺すように、大いなる存在は人間を「増えすぎた」として、戦争で時々殺すのであろうか。

友人からフェイスブックの登録のお誘いがきたのだが、実名登録はやはり無理だといって断った。

そもそも、「人間はゴキブリと同じで、超越者はその繁殖に迷惑している」とかそんなこと実名で書けるかよ?
どんびきするだろう。私だってリアルでそんなことは言わない。
神様はいつでも私たちを暖かく見守ってくれています、みたいなことを心のそこから思っている人なら、顔本に実名登録するのもなんの問題もないだろうけどさ。

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06月03日(金)

起床時刻:10時25分

今日はバイトが休みだったので佐藤優の『私のマルクス』(文春文庫)を読み終えた。

佐藤優はそれにしてもよく昔のことを覚えているな。
大学時代の話だけで百ページも二百ページも書けるのだから。
私はまぁせいぜい五ページくらいだろう。

この本の中で、佐藤は多くの恩師について語っている。
私には恩師というほどの人はいないが、ある先生には目をかけていただいたと思う(ゼミの指導教授ではない)。私が書いた大学の試験問題の答案に対して、問題点を指摘した手紙をくれた。手紙には私の答案が唯一、先生の論への批判を含んでいるものだったとあった。
その先生の最初の著作をいただいたが、「真理の前では平等な友へ」と書いてあったように記憶する(まぁでも、その先生、私にいいよってきたんだが。きもい話である)。

さてこの本に戻ると、佐藤は何回か「人間はいちばんはじめに触れた世界観型の思想から抜け出すことができない」と言っているが、必ずではないが多くの場合はそのとおりだと思う。佐藤の場合はそれがカルバン派のプロテスタンティズムであった。私の場合は宗教否定であったように思う。
父は神道系の新宗教の教会の出身で、長男だったため、生まれたときから跡継ぎとして育てられたのだが、結局宗教を捨てた(次男が教会を継いだ)。信心深い祖母は「あの子が信心しないのは、私の信心が足りないせいだ」といって自分を責めていたが、祖母のことが好きな父はさぞやつらかっただろう。
しかし、祖母への思い以上にどんな宗教も一切信じないという強い意志があった。父は大学も宗教とはまったく無縁の理系にすすんだ。母の家は真言宗だが、母もまた宗教が嫌いで、両親の買った墓所の墓石には「風」とだけ刻んである。
一陣の風が吹き抜けるように、この世にやってきて、この世から去っていく、という意だろう。
そういう無宗教というよりも反宗教の家庭で育ったため、隣の家が創価学会であったにもかかわらず、一度も勧誘を受けたことはないし、選挙協力を要請されたこともない(近所づきあいは良好である。私の両親は、子供の私がいうのもなんだが、宗教者以上に人格的に優れたいい人たちなのでナンクセをつけようがないのだ)。

一方で私は、両親のような反宗教ではなく、小さいころから宗教にはこころひかれて、祖母の持ってきた「神様、こんにちは」とかいうようなパンフレットもよく読んでいた。しかし、どうしても信ずる気になれない。人智をこえたものに小さいころからひかれるのだが、納得できない。私からみたら、マルクス主義(マルクスではない)も宗教にみえるので、こころひかれるのであるが、やはり信心する気にはなれない。
これも佐藤のいうように、最初に触れた世界観型によるのかもしれない。何かを盲目的に信じること、知的検討を一切やめて、「えいやっ」と飛び込むことが信心には必要だが、それにどうしても抵抗があるのだ。まず批判的検討から常に入ってしまう。それをやめろという存在は、神であれ、国家であれ、信じる気になれない。これも両親の態度から私が受け継いだものだと思う。

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06月02日(木)

起床時刻:08時30分

佐藤優の『私のマルクス』を読む。
面白い。
同志社の神学部では教授や友人に恵まれたとあるけれど啐啄の機というものがある。
雛が孵化し内側から卵の殻をつつく頃合に、母鳥が外からつつく様に、ぴたりと契機があわなければ、このような出会いは生まれない。

私は師と仰げるような人間にリアルでは一度も出会えなかったが、それはもちろん、雛側の私の問題でもある。一度も卵をつつこうとしなかった、成長のしない雛である私のね。

イエス・キリストと出会ったローマ兵がその奇跡的な出会いにも何の感慨も覚えなかったように、出会うためのアンテナがなければ、決して出会うことはない。

話は変わって、本書に廣松渉の著作からの引用があった。名前しか聞いたことがなかったが、佐藤が紹介した、廣松の疎外論批判に私はまったくそのとおりだと思った。一方で、佐藤は物象化論より疎外論が好きだそうで、廣松の考えには違和感があるという。滝田君(同志社時代のお仲間の一人)がそれを聞いて「マルクス主義の解釈にもキリスト教型と仏教型があり、佐藤はキリスト教型、廣松は仏教型で解釈しているのではないか」と言う(p225)。
廣松が仏教型かどうかはわからないが(日本人の平均的思考だと思うが)、佐藤は根っからキリスト教的思考の人なんだろうと思う。
「現実の過去には本来的なるものなどない。ある主張したとしてもそれは恣意的なものだ」。これが普通の日本人の考え方である。
佐藤はエデンの園みたいな「本来的なるもの」はあると考える。したがって「本来性を回復する」ことはおかしくもなんともない。むしろ、そこから思考を組み立てていく。それは本来的に神がいてこの世をつくったという思考をすんなり受け入れてきた人には不思議でもなんでもないのかもしれない。

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06月01日(水)

起床時刻:07時45分

毎日、毎日ゲームだ。
もう本当にいやになる。
何のために生きているのか。
お金のため、ゲームのため。

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