201107 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:10:32

起床時刻の記録 ▼新しい順 ▲古い順 RSS

07月31日

起床時刻:不明

一日中ゲーム。
もうさぁ、オルトロスの爪75個集めたじゃん?
ウコンバサラのレベルが90になったじゃん?
もう終わりじゃん?

あま~~~い!!

ピラミッドの建設が終わった、ヤレヤレと思ったら、間髪おかず次のピラミッドの建設に駆り出されるエジプトの奴隷よろしく、まーたゲーム漬けですよ。

『フラッシュ・フォワード』みたく、ブラック・アウトして6ヶ月後の未来を見たとしても、当夫婦においては、6ヵ月後もふつーにFF11をやってそう。浮気もなかろう。事故死もなかろう。転職もしてなかろう。
考えうる限りの最高の事件としては、かの超性能の盾ながらつくるのがとんでもなくめんどくさい「オハンを持っていた・・・だと・・・?!」くらいだろう。

それにしてもフラッシュ・フォワード、続きが気になる!!
サイモンがネトゲをやっていたことが判明したしwww
サイモンならネトゲ実況板でDQNとしてさらされてそうだぜwww

日別画面へ

07月30日

起床時刻:不明

一日中ゲーム。

途中、旦那が昼寝というか夕寝でかなりがっつり寝たので、その間に時代小説『結び豆腐 小料理のどか屋 人情帳3』(倉坂鬼一郎・二見時代小説文庫)を読む。

いやぁ、ついね、テンペストの四巻を買うときに買っちゃったのよ。そもそもこのシリーズの一巻も二巻も読んだことないけど、「本書に登場する小料理」という帯に惹かれて買ってしまった。
元武家の料理人が刀を包丁に持ち替えて、いまや、人物も昔以上にできてきた。彼の見世である小料理屋に集う人たちの心によりそう人情もの、といったところであろうか。

時代小説というのはいい酒の肴である。
おいしそうな料理がでてくれば申し分なし(ただし、山海の珍味のような材料が高くつくのはいけない。のどか屋のように豆腐がよく出てくるような、庶民的な料理がいい。酒の肴にこしらえようかという気分になるからね。これ読むとよく料理に山椒をつかっているようだ)。

まぁたいした推理とかは別に何もないのだが、それでも、時代小説らしい安心感というかデジャビュ感で(類型的なキャラたち、お涙頂戴の人情話、予定調和のエンディング)、朦朧した頭にもここちよく文章が入ってくるのだ。

日別画面へ

07月29日(金)

起床時刻:11時20分

文句をいいつつ、『テンペスト』文庫本4巻読了。
ぬぐいがたいB級感、表現の通俗さ、平板なキャラ、プロットのような文章。一言でいうとひどいラノベなのだが、それらを補ってあまりあるエンターテイメント性(まぁ「チャングムの誓い」なんですけどね)。

ベタだなぁと思いつつ、泣いてしまうんだよなぁ。
「雅博殿ぉ!雅博殿ぉ!」と韓流ファンのおばちゃんのようにもだえてしまうわけだ(しかし、「ジャスミンの香り」のする雅博殿ってどういう設定だよ。女は遺伝子的に相性のいい男の体臭は「いい香り」に感じるという実験結果を聞いたことはあるが、ジャスミンの香りを放つ男は知らない。私にとって、男のいい香りというのは、江國香織の小説にあった表現だが、日向の香り、太陽の香りである)

しかし、清と薩摩という大国にはさまれて独自路線を模索してきた琉球は今の台湾の姿に重なる。まさに台湾も才覚ひとつで国の命運が決まる。アメリカの大学の留学生数の割合が、昔クーリエ・ジャポンに載っていた。うろ覚えだが台湾人の留学生は日本と同程度いる(確か中国、インド、韓国、日本か台湾とかそういった順番だったような)。人口比でいえば台湾のほうが圧倒的に多い。

その台湾に対して日本はよき隣人でいるだろうか?

『テンペスト』のようなファンタジーラノベ(あるいは「チャングムの誓い」のようなファンタジー歴史ドラマと言うべきか)は、琉球をエキゾチック風味に使っているだけのような気がするので、まともに琉球を書いた小説が読みたいと思う。

日別画面へ

07月28日(木)

起床時刻:08時11分

『テンペスト』三巻読了。
どんだけ「宮廷女官 チャングムの誓い」なんだよ!

牢屋に入れられたり出されたりの時点でチャングムを思い出したが、二人とも拷問を受け、罪状をでっちあげられて(まぁチャングムは姦計にはまったのだが、寧温は実際に国相を殺したんだから自業自得ではあるw)、流刑にされる(それにしても拷問のときに宦官の寧温が実は女であるとなぜばれなかったのか?気絶して水をかけられたりしたら体の線が出そうなもんだが)。

チャングムは奴隷身分で済州島へ、寧温(真鶴)は身分を剥奪されて八重山へ流刑。しかしチャングム同様、寧温も不死身かつ万能選手。
医術を身につけたチャングムは天然痘の村に入っても全く罹患せず、治療法(!)を発見し、王の子供を治すために宮廷へ戻る。
一方、寧温は不衛生な環境でマラリヤにかかり、感染を恐れた人たちに簀巻きにされ人里はなれた谷底に投げ落とされるのだが、完・全・復・活!!
たぶん寧温はヤクザにコンクリ詰めにされて東京湾に沈められても、何事もなかったように復活すると思う。寧温は断崖絶壁から飛び降りても死ななかったし。寧温を助けようと飛び込んだ浅倉も死ななかったからよかったが、これで死んでいたらどうすんだ?
でもさ、普通、そんな高いところから飛び降りたら、海面が石のようになって衝撃死しそうなもんだよね。ま、寧温なら東尋坊から飛び降りても死なないだろう。

それはともかく、チャングムはスーパードクターとして、宦官寧温は女性の真鶴の姿になり、側室候補として王府に舞い戻るのだ。

それにしてもさぁ、寧温と真鶴が同一人物ってなんで誰も気づかないの?男装した仲間由紀江をみて誰も仲間だと気づかないようなもんじゃない?おかしくない?あ、そうだ、これは漫画だった。

それにしてもこんなご都合主義ラノベに『テンペスト』なんてタイトルをつけるたぁ、いい根性してんなw。
「寧温の誓い」くらいでちょうどいいわい。

日別画面へ

07月27日(水)

起床時刻:11時10分

『テンペスト』二巻を買いに本屋へ。
清国の宦官、徐丁垓が出てきて下品さに拍車がかかってきた二巻。
これはひどい。
下品なラノベになっとる。

この下品で平板でご都合主義ラノベである『テンペスト』を救っているのが、琉歌である。

私はどうも五七五七七に体が慣れているので、琉歌の八八八六にはぬぐいがたい違和感を感じるのだが(しかも言葉わかんねぇし)、ときどきいいのが混じっているようだ。

まぁでも、『テンペスト』はまともな小説を読みなれている人が読むと違和感あるだろうな。漫画的というか、ラノベ的というか、韓流ドラマ的というか、そういう感じの小説だから。

夕飯はしょうが焼き(キャベツの千切り)、なめこの味噌汁、オクラとまいたけの焼き付け、春雨のサラダ、きゅうりの浅漬け。

日別画面へ

07月26日(火)

起床時刻:08時20分

バイト。やる気が全く出なくて困った。
眠くて眠くて仕方ない。
行き帰りの電車でテンペストの一巻を読んだので、最寄駅の書店にて二巻を購入。まんまチャングムだよなぁ、これ。牢獄に出したり入れられたり(チャングム同様、複数回)、女たちに嫉妬され意地悪されたり、男たちに好かれて助けられたり。

幕末の頃の琉球を舞台に、チャングムなみの八面六臂の活躍をする女の子の話なんだが、琉球版『坂の上の雲』や『天璋院篤姫』を期待してはダメ。
そういう文学的香気や実証性は皆無。
司馬文学や宮尾文学は通俗で大衆向けに思われているが、これを読むといかに”文学”かがわかる。

ラノベの、しかもそのあらすじを読んでいるような、そういうかんじ。
まぁラノベでもこれより文学的なものはいくらでもあるなぁ。
文章が平板、表現が陳腐、人物造詣が類型的、すべてが浅いんだよね。
まぁでもこの薄さをジェットコースターのようなストーリーのエンターテインメント性で補っている。

それはともかく、寧温がいくら優秀だろうが、龍の子だろうが、沖縄は日本に併合されて最後は沖縄戦でずたぼろにされるんだけどな。どうすんだ、最後。

夕飯はハンバーグ(にんじん+ほうれんそうのつけ合わせ)、なめこの味噌汁、昨日の肉豆腐の残り(牛肉+まいたけ+たまねぎ)、キャベツのシソ昆布和え、トマト、ポテトサラダ。デザートはハニーアイス。

日別画面へ

07月25日(月)

起床時刻:11時20分

エアコン取り付けのため夫休み→一日中ゲーム。
録画しておいた『アリアドネの弾丸』をみた。

そういや、フジテレビはバチスタシリーズのドラマ以外では一切みないな。

ドラマの中で初めて見たけど、宇佐美役の福士誠治はいいなぁ。
まぁ私の考える美形は清原信一役の石黒英雄になるので(ギリシャ彫刻のような目鼻立ちの整った顔立ちが好きだ)、福士誠治は外れるんだけど、それでも魅力的だった。

ぐぐってみたら、舞台の『テンペスト』で福士誠治は孫嗣勇だったそうな。意外。

意外といえば、NHKBSのドラマのテンペスト、役者陣がふけすぎじゃないか?だいたい、主人公の真鶴(寧温)が科試に受かったのが13才で、朝薫も15才。役者もせいぜいハタチそこそこをそろえるべきだろう。

ま、別に役者陣が嫌いなわけではなくて、ちょっと違和感があっただけなんだけどね。

日別画面へ

07月24日

起床時刻:10時00分

伯母に誘われて、従姉妹も一緒にランチ。
そのあと、鰻をお土産にいただく。

ブックファーストで『テンペスト』を立ち読み。
池上永一の『レキオス』は途中で投げたのだが、これはいい通俗小説になっている。昔は下手なラノベだなぁと思ったが、これはうまいラノベだろう。ていうか『チャングムの誓い』沖縄版といったところか。牢獄マニアのチャングム同様、寧温も牢獄にいれられるし。
というわけで一巻を購入。
ま、家に帰れば本を読む時間なんて一分もないんだけどね。ゲームのせいで。

夕飯はいただいた鰻でどんぶり、きゅうりの浅漬けしょうが風味、トマト、キャベツのしそ昆布和え、モロヘイヤのスープ、デザートはシャーベットとさっぱり系に。

日別画面へ

07月23日

起床時刻:13時00分

昼に再放送されているたNHK大河ドラマ「お江 姫たちの戦国」をちらっとみたけれど、本当にひどかった。

歴史好きの従姉妹は、お江同伴の伊賀超えに卒倒していたが、明智光秀(じーさん)に説教するお江(9ちゃい)もありえない。まぁすべてがありえんのだけど。

私がみたのは「秀勝の遺言」という回で、朝鮮の地より秀勝から江に遺言の手紙が届くシーン。
病を得て毎日空をみながら、朝鮮の子供達と遊ぶ秀勝。

えええ?
敵国の武将と侵攻を受けた国の子供たちが遊ぶ?
ベトナム戦争時、アメリカ軍人(高官)とベトナムの子供が遊ぶようなものなんですけど?
イラク戦争時、アメリカ軍人(高官)とイラクの子供が遊ぶようなものなんですけど?

実はNHKは「朝鮮出兵時、朝鮮の支配体制は腐りまくっていて、民衆は虐げられており、日本からの軍隊は「朝鮮の民衆解放軍」として受け入れられた」ってことを言いたいのかしら?

それなら筋が通るけど。
もちろん、秀勝は哀れな朝鮮人民を救い、真の統治者は日本であることを朝鮮人に諭すのよね?

てなことが、このスイーツ(笑)脚本家とNHKがいうわけないだろうがっ!!

手紙の続きには「この戦は間違っている」だのなんだの書いているんですよ。ていうことはただの侵略者であるって知っているわけですよ。ていうことは、ただの侵略者と子供が戯れるのはありえないってことになんで脚本家は気づかないのかねぇ。歴史云々ではなくて、普通に矛盾してんだよ。

だいたいさ、21世紀の日本の小学生の作文じゃあるまいし、「平和が一番」みたいなことを戦国の武将が手紙に書くわけがないんだよ。美学にそもそも反している。感覚がおかしいんだよ。

お江は「戦はいやでございます」と何かっつーと主張しているけれど、当時の武家の女であれば、そんなことはひっそりと心のうちにとどめておくべきものであって、あちこちに面と向かって主張できるようなことじゃないんだよ。

マイホーム戦国ドラマっていうけど、ほんとにもう、「お江 姫たちの戦国」の武将や姫はお受験とでも戦うくらいが似合ってるよ。

結局、脚本家の薄っぺらな価値観を、戦国時代のコスプレした人たちに語らせているだけだから、本当につまらない。しかも、目にあまる主人公補正により、お江が歴史の転機に何かと絡んでくるから、うっとうしくてしかたない。

女の人にスポットライトをあてたいんだろうけど、無理を通しすぎて、道理がひっこみ、わけのわからんスイーツ(笑)大河のできあがりだ。本当にひどい。

これを挽回するには、明智光秀を大河の主人公にするくらいじゃないとな。本当に面白い歴史ドラマをみせてほしいもんだ。

日別画面へ

07月22日(金)

起床時刻:13時00分

若松園義正の凍らせた水小豆がおいしすぎて、とまらない!!
一人で一箱食べちゃう勢いだよ><。

日別画面へ

07月21日(木)

起床時刻:07時45分

バイトなり。
姑よりシャーベット詰め合わせをいただく。美味。
私は息子によく尽くしてくれている云々とお褒めの言葉を賜る。

親というものは、子供がどんな子であれ、かわいいと思うものだ。
出来がよければ言うに及ばず、不出来でもバカな子ほどかわいいというように、愛情がそがれるものではない。

その不条理が親というものなのだ。
たとえ息子が嫁を殺したとしても、息子を犯罪者におとしめた嫁のほうが悪いと考えたがるのが親というものだ。

このような不条理な感情というのは理性でどうこうできるものではない。恋愛と同じ。しかしその盲目さは、恋愛以上であろう。
親の期待という名で子供をがんじがらめにし、時には不幸に陥れる。
しかし親にしてみれば純然たる愛情の発露であり、現実の不幸は目に入らない。

こういう人間の性を一歩ひいてみるのが、知性というものだ。俯瞰することは難しい。人間は所詮鳥の目はもてない。しかしそのことを認識するのもまた知性である。

そういう意味で私の姑は知的な人であると思う。
情にあつく、やさしくて、自己犠牲的な人というだけではない、知性を感じる。彼女にしてみれば私など、息子にふさわしくない嫁で、不満だらけだろう。それを言わずに、誕生日にはプレゼントをくれ、私に理解を示してくれる。

私は今まで二回ほどつきあった相手の母親にあったことがあるが、二人とも息子が奪われることに対する恐怖がハンパなかった。
まぁ名門国立大出の自慢の息子で、母親たちに対する愛情も優しい人だからこそ、母側も手放したくなかったのであろう。
だから(というわけでもないが)、彼らの母にのしをつけてお返しした。女同士争ってまで、手に入れたいようなものでもなかったからだ。

女の一生というのは修行の連続であるが、よき姑になるのも最後の試練ではなかろうか。手塩にかけて育てた息子をどこの馬の骨ともしれぬ女に奪われる悲しみというのは大きかろう。
しかし、断言できるのだが、よき姑になれる人はよき妻にも、よき母にもなれる。この逆は真ならずで、よき妻、よき母だからといって、よき姑になれるとは限らない。「愛情深さ」の一点張りでも、よき妻やよき母にはなれる。しかし、知性がなければ、そして謙虚さがなければよき姑にはなれないからである。

どんな人でも受け入れるというおばさんのいいところを出しつつも、自分を厳しく律することは忘れたくないものである。

日別画面へ

07月20日(水)

起床時刻:12時10分

今日は動画で杉山清貴&オメガトライブめぐり。
(あとヒャダインも。日常のOPもEDも大好きだ。才能あるなぁ、この人)

やっぱ杉山さん歌うまいわー。
youtubeに速水けんたろう氏の「二人の夏物語」のカバーもあがっているんだけど、それを聴くとしみじみ思ってしまう。

まぁ年とるとどうしても、ルックスも声も劣化するから(どうして脳が劣化しないといえるであろうか?脳も劣化するだろう、JK)、若いころの杉山さんの動画と比べるのはアンフェアだけど。

杉山さんは喉を保っている方だけど、それでも高音の伸びやクリアさ、声量はなくなってるからなぁ。

話はかわって。
昨日はバイト先で購読している雑誌の処分・整理をしたんだけど、AERAに載っていた内田ジュと養老の震災後の対談をちら見してしまった。なんかね、内田がブログで「疎開のすすめ」を書いたら「そんなことしたら日本の経済がまわらなくなる」っていう批判がいっぱいきたんだってさ。そんで内田が「私が命の話をしているときに、お金の話をしてくるんです。おかしいでしょう」みたいなことを(うろ覚えだが)言うわけ。

はぁ?
命イコール金なんだよ!

金がない貧しい国では、先進国の医療を受ければ簡単に直るような病気で人がばたばた死んでいる一方で、金のある国では心臓移植のような極端に金のかかる方法で人が生き延びる。命=金なんだよ。

極端な例ではない。
そもそも震災後の日本でも、金のあるおえらいさん(あるいは帰る場所のある外国人)、仕事のない主婦(=避難費用は働きアリの夫もち))、余暇と金のある高齢者が主に避難していたじゃん。

と、ここまで書いて一応、内田の原文(「疎開のすすめ」)を念のために読んでみたら、「放射性物質への耐性の脆弱(ぜいじゃく)な妊婦や幼児を第一とし、次に春休み中の児童生徒学生で、被災地や支援拠点にとどまる喫緊の必要がないものへ西への移動を組織的にすすめる」って書いている。

これってさ、その妊婦と幼児の疎開費用は国が出すんだよな?それとも自主的避難?それならやっぱり金持ちの妊婦と金持ちの子供しか移動できないじゃん?
そして最後の「喫緊の必要がないもの」ってじーさん・ばーさんじゃん?そんで働き盛りの人たち(道路工事などの建設業従事者、バスや電車の運転手、スーパーのレジ打ち、看護師、医者などなど現場の人間)が人柱になるってわけですね、わかります。

人はそれぞれ取り巻く環境が違う。「避難すること」の重みは仕事をもたない主婦と仕事を持つシングル・マザーでは違う。
裁量労働ができる立場の人と、できない下っ端の人とでは違う。
農業や畜産業と事務仕事でも違う。
海外から出稼ぎにきた人が母国に帰るのと、その母国の人が帰ったあとの仕事もカバーする日本人とでは避難の困難さが違う。

疎開をせずに残るのは、責任感の強い人、現場を動かす人、この国を支える人である。

祖母が先の大戦では「勇気のある人、優秀な人から死んでいった」としみじみ言っていたが、そりゃあそうだろう。内田みたいなやつが最後まで生き残るんだよ。

日別画面へ

07月19日(火)

起床時刻:08時00分

今日はバイト。
やれやれ、連休が終わったぜ。

今でさえ、週末がめんどくさいっていうのに、定年退職したおっさん(もとい旦那様ね)に家をうろつかれたら、まじでめんどくせぇ。

奴の趣味につきあわなくちゃいけない。
自分の時間がなくなる。
とか書くと、「おいおい、社長だって、自分の時間を作り出しているんだぜ?主婦のお前が何いってんだよ?」って言われるだろう。
それは社長だから自分の時間を作り出せるのである。
社長なら飲み会を拒否することもできるが、部下には社長との飲み会を拒否する権利はないのである。
同様に、家で「団欒」をしているときに、家長なら書斎にひきこもって読書でも勉強でもできるが、主婦はそんな権利はないのである。
食後のお茶やフルーツを出したり、洗った食器を拭いてしまったりして、用事がすんでもまだ「ねー、おかーさん、おかーさん、ねー、おかーさん、聞いてよぅ」とまとわりついてくる一群(旦那と子供)がいるのである。
これに年寄りがいた日にゃあ、どうでもいい繰言を一日中聞かされるのである。テレビを見てれば「昔はねぇ、~だったのよ」っつー話を聴かされるんだよね。ブログにでも書いてろよっていいたいわ。

何が言いたいかっていうと、人との交わりめんどくせぇってことなんだけどね。

友人とランチをしたときに、その子にフェイスブックやってる?って聴いたら「やってないよ。別に人とつながりたくなんかないもん」って言っていたけど、類友やなぁと。
基本的に面白いコンテンツを持っている人ってほとんどいない(たいていの人の中身なんてクソ本以下なわけよ)ってのは同意だけど、でも、私は彼女よりも人との交流が好きな気がする。やっぱりライブ感が面白いんだよね。双方向でのやりとり。

本ってのは「そうそう、わかる!」とか思っても相手は何も返してくれないわけだから。「そうだよね!」「あ、わかる!」「そうなのかなぁ?」「私はむしろこう思うな」みたいな双方向のライブ感はないわけよ。逆にいうとそれだけでもっているのが人との交流なんだよね。

でももちろん、だからこそ「人に気を使う」っていう局面もあるわけで。ていうか、それが多いわけで。本だったら「飽きた」つって、途中で打ち捨てても誰も文句いわないけど、人だったらそんなこといえないわけだし。こっちだってそう言われたら傷つくから、保険かけるよね。

日別画面へ

07月18日(月)

起床時刻:12時30分

今日は休みである。ガーン。
またゲームである。
(これを書いているのは7/20)

杉山清貴&オメガトライブの歌を聴いていると、だいたい、サビまではなんか単調で、サビになると英語(「ホーミタイ」とか「ラーヴィンユー」とか)をまじえて歌い上げる、という構造になっとるな。どれもおんなじような曲に感じる。凡庸な演歌と同じ。だいたい、メロディが想像できるんだよねぇ。

やっぱビートルズは偉大であった。

レンタルDVDで『ナルニア国物語 第3章:アスラン王と魔法の島』を観る。

なんなんだ、このぬっるい話はよぉ?
原作がいけないのかなぁ?
従兄弟のユースチス役の子はうまかったが。
カスピアン王子は相変わらず美形だった。
私の考えるハンサムを具現化したような美形であった。

日別画面へ

07月17日

起床時刻:12時21分[いま起きた]ボタンで記録されました。

ふとしたことがきっかけで、杉山清貴&オメガトライブの「二人の夏物語」にはまっている。
私が子供の頃にはやった、バブル丸出しの曲なんだけど、杉山清貴の透き通った本物の美声(イケメンボイスとはこういうものを言うのである)もいいし、曲も大好きだ。

やべぇ、こうやって懐古厨になるのか。。。
と思いつつ、動画めぐりをしていると(ありがてぇ、ありがてぇ)、杉山さんのあまりの変遷っぷりに腰が抜けかけた。

若い頃(二十代前半)のニコニコ動画の映像には「杉山さんに抱かれたい」「きれいな顔だよねー」などというコメントも書かれているのに(私の見るところ、彼は韓流風のエアイケメン、似非イケメンであるが、それでも彼が到達しうる限りのイケメンの極限値に達していた)、直近の公園ライブをなさっている姿(不動産屋のおじさん風)は、若かりし頃の面影が微塵もなかった(声はよかった)。まぁ誰でも年をとると崩れてくるけど、例えば沢田研二とか(彼も声はいまだにいい)、でも見ればすぐ「ああ、ジュリーね」ってわかるもん。

そこいくと、杉山清貴は違う。別人になっとる。八の字眉に往年の面影を少し感じるが(あと歯並びのかんじ)、ほかはもう骨格から違ってんじゃないの?っていう感じだもん。CIAすら欺くレベル。
何か病気(太るほうの。甲状腺とか)やったのかしら。もしそうだったらごめんなさいね。

youtubeの映像だけはっていくと

なんちゃって韓流スター時代↓
「杉山清貴&オメガトライブ - ふたりの夏物語」
(これが一番イケメンにみえる)
http://www.youtube.com/watch?v=-tKev-DNgvk&feature=related
「杉山清貴&オメガトライブ - ふたりの夏物語 1985 」
http://www.youtube.com/watch?v=4UL4alDNjlM


堀内孝雄時代↓
「杉山清貴&オメガトライブ ふたりの夏物語 -NEVER ENDING SUMMER- 」
http://www.youtube.com/watch?v=pZfC7vOfrnU
(サバンナの八木に似ているとか堺マチャアキに似ているなどというコメントもあるが、自分は堀内孝雄だと思う)

中村梅雀時代↓
「ふたりの夏物語 杉山清貴」
http://www.youtube.com/watch?v=ek2N0PBY29U
「相変わらずいい声ですね!
でも、顔が中村梅雀に似てきてる。。。。」
というコメントより。

衝撃の公園ライブ↓
「杉山清貴「最後のHoly Night」第4回 鷹の台Bossa ~ハーベスト~ 」
http://www.youtube.com/watch?v=xSurIUQhc4U
「三宅裕二になっとるやんけ!」というのが私の最初の感想である。まぁでも、何度も見ていると、最初に感じた衝撃が和らいできて(ブスと老化は三日でなれるのか)、トークも昔よりずっとうまくなって、いい味出してるっちゃあ、出している。ハワイに住んでゆる~くなっとるなw。この服とかもう、おかしいだろw。
でもさぁ、もうちょっと、舘ひろし風になれたんじゃないかと思うんだけどなぁ。それにしても、色んなおっちゃんの老化をみていると、舘ひろしって頑張っているんだなぁって思うよ。
しかしこの環境でここまで聴かせるとは、本当に腕のあるおっさんや。

ま、そんなこんなで私にも少し危機意識がめばえた。
「時の流れに身をま~かせ~」ではいけないという危機意識だ。
時の流れに逆らえ!鮭の川登りのように、満身創痍になりながらも、無理やり時を逆さに上るのじゃ!若返らなければならない。それが無理なら常にマイナス十歳くらいでいつづけなければならない。とりあえず、スタイルをキープしなければ。

日別画面へ

07月16日

起床時刻:09時30分

誕生日である。

友人と恵比寿のフレンチでランチ。
ご馳走してもらった。
誕生日プレゼントは素敵なピアス、ゼリー三種(わかっているねぇ。夏は私はゼリーとかしか入らないのよ。友人はゼリー嫌いで、夏でもがっつり系のケーキを食べられる人。さすが夏痩せしないだけある)、ジャム二種類。

飲み物はグラスのシャンパン(ランソンかな)+赤ワイン(なんだっけな、銘柄。メインにあわせて選んでもらった割としっかりしたかんじの)

アミューズ(アジのたたきみたいのが出てきた。うまし。あとピクルスみたいなの)、前菜(私は鮮魚のクリュ(←生という意味)。イシダイのカルパッチョみたいのであった。なんとバニラビーンズ風味。魚は常温でねっとり。バニラの香りはあうのかあわないのかわからなかったけど、うまかったからあったんだろう。友人は赤座海老と水茄子をくみあわせたなんかさっぱり系のやつ。おいしそうだったけど、+1000円だったからやめたw)、メインは私は子羊(羊好き)、友人はなんだっけな、スズキの蒸したようなやつを頼んでいた。

あとなんかさっぱり系のジュレっぽいデザート。うまし。

夏で食欲減退中のため、一番少量のコースを頼んだけれどちょうどよかった。
コスパも最高。知らなかったけどミシュランで星とったのかな?なんかお店にミシュランが置いてあったよ(載っていなかったらそんな見えるとこにおかないよね)。

このまえ、食べログなんかでも絶賛されているお店にいって、あまりにも私にはささらなくて???だったことがあったんだけど(ていうか、胃もたれして帰ってきた。寄る年波の問題かもしれんが)、いやー、おいしかった。夕飯はいらないって気分になったけど。

前菜がうまかったな。
本当にメインとかいらないから、前菜二種とワイン(じゃなくても酒なら可)だけ選べるとこないかな。

昔この友人とフランスに行ったとき、ふらっと入ったレストランで、そういうの目撃したんだよね。フランス人はまだ夕飯食べないような早目の時間帯(イギリス人もそうだけど、夕飯の時間が遅いよね。7時とか日本人しかいなかったりする)、地元の常連ぽいフランス人のおっさんがふらっと一人でやってきて、前菜だけ二品頼んで、あとワインを飲んでふらっと出て行ったことがあって、「あれがいい!」と思ったんだよね。

つまみ感覚。
なら居酒屋いけってか。そうだよな。私基本居酒屋が向いている人間な気がする。好きなものを少しだけがいいんだよっ。

日別画面へ

07月15日(金)

起床時刻:13時20分

昨日はAM3:30までゲーム。
目の奥がズキズキしながらゲーム。

社会人になり、会社勤めをし、結婚もして、つくづく思うのは、生きるって命を削って命を養うことだわねぇってこと。
最後は肺病で死んでしまう炭鉱夫みたいなものよ。
働く過程で粉塵を吸い込むことは避けられないでしょ。
つまり肺の健康を損なって(命を削って)金をもらう(=命を養う)システム、これが仕事であり生きるってことなのよね。

人生っていやなことAといやなことBとの選択の繰り返し、せめぎあいね。突き詰めれば、いやなことA=生きる、いやなことB=死ぬのどちらかしか選べないんだから。

「生きるがいや死それもいや青葉木菟」(鈴木真砂女)
ひどい句だが、端的に人生を要約しているには違いない。そのせいか、何かにつけ思い出される。何かにつけ思い出すのならば、私の座右の銘といってもいいのだろうが、座右の銘にしちゃあ、なんだかあまりにも通俗な気がするが、でも考えてみれば、高尚な名句などというのは何かにつけ脳裏をよぎったり、胸に去来するものではない。

「五月雨や大河を前に家二軒」なんてのは私の好きな名句だが、東京の町でこの句を思い出すことはまずない。大河もなけりゃあ、家二軒なんてシチュエーションはまずない(「五月雨や(神田)川の前には家密集」てのがリアルなところだ)。まぁそもそも、叙景句というのは座右の銘になりにくいだろうが、じゃあ「桔梗や男も汚れてはならず」(石田波郷)みたいのはどうかというと、そんな思いになる場面はあんまないなぁ。女だからかなぁ。
歌でいうと「ただ一人われをよく知る人しあらば 千々のそしりは土塊(つちくれ)ぞかし」(大隈言道)はいいね。たった一人の理解者がいれば、百千万人にののしられようと、もうそれで十分なのだ。男だったら座右の銘にしたいような歌だが、女であるから、
「人生きて残すは悔や簾捲く」(鈴木真砂女)
「世の常の浮き沈みとや蜆汁」(〃)
のほうがぴたっとくる。俗なんだけど、そこがいい。

今日の昼はそうめんと昨日の夜の残りのアスパラと豚肉の味噌炒め。
今頃、アスパラ?!というかもしれないが、秋田産のアスパラ、筋っぽくなくておいしかった。斜め切りしたアスパラをゆでずにそのまま油でいためる。それと白瓜の浅漬け、フルーツトマト。こんなんばっかりやな。

さて、『ぼくらの頭脳の鍛え方ー必読の教養書400冊』(立花隆・佐藤優)におけるウィトゲンシュタインについての佐藤優の発言が?だったので、わざわざ『論理哲学論』(中公クラシックス・山元一郎訳)を借りてきた。
自慢じゃないが、私はウィトゲンシュタインの原本を読んだことはない。日本人の大学の先生による解説本でしかしらない。だからまぁ、私のウィトゲンシュタイン理解はその先生の理解を私が理解したところのものである。

立花は「論理哲学論考」の英独対訳本を大学で読んだらしい(邦訳はまだなかった)。日本に取り寄せるのに何ヶ月もかかるので、本を読む前に、プリントによる記号論理学の講義があったそうだ。それに対して佐藤優が「じゃ、「うさぎーあひる」の絵にみんなが驚いていた頃ですね」というと、立花が「ええ。うさぎにもあひるにも見えるという不思議な絵でした」と答えているように(P219)、ウィトゲンシュタインといえば、「うさぎーあひる」の絵なのである!

というわけで、「うさぎーあひる」の絵はどこかにゃ?とウキウキしてめくってみると(意外に薄い本である)、「うさぎーあひる」の絵がない……だと……?!

どこよ?あの絵はどこよ??
ぐぐってみたら、どうやらあれは「哲学探究」っつー本にあるんだってさ。

まぁでも、『論理哲学論』(私が借りたのは「~論考」ではなくて「~論」っていう邦題だった)にも「うさぎーあひるの絵」の意味するところに近いものがある。5.5423の立方体の絵がそれ。

「複合的なものを知覚するということは、その成立要素が、しかじかのかかわりあいをもつことを知覚する、ということである」と言って紹介している。だまし絵じゃないけど、立方体は見方によっては飛び出してみえる平面が異なることを示している。

そりゃあそうよね、何でもそうよね、一回思い込むとなかなか別の見方できないわよね、探し物なんかもさぁ、見えてても見えないの。しかじかのかかわりあいの網にとらわれちゃうのね。何にも知らない人がさくっと見つけることができるでしょう、先入観がないからね。

ま、でもこういうところはねぇ、なんとなくわかるような気がするけれど、この本はねぇ、真理関数とか言い出すからね、

「6. 真理関数の一般形式は次のとおりである。
[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)
これは命題の一般形式でもある」(P189)

とかねぇ。もはや〔〕の中をどうやって読めばいいのかすらわからん。

「5.6 私の言語の境界が私の世界の境界を意味する」風にいうと、これもう、完全に私の言語の境界越えちゃってますからね。私の世界には、ウィトゲンシュタインの命題の一般形式はない、といえるんじゃなかろうか。

まぁ一言でいうと、この本の半分くらいは意味不明(数式が読めないなどの理由)で、半分くらいは想像力を駆使すれば理解できるような気がする感じである。理解というより曲解かなぁ。

そう、何しろ短い(そしてかっこいい)フレーズ(命題っていうべきか)の羅列だから、理解できているのか、曲解しているのかよくわからないんだよね。

『論理哲学論考』について佐藤氏は「『語り得ぬことについては沈黙しなくてはならない』というウィトゲンシュタインの立場に評者も賛成する」と書いているけれど、これって、理解されていないかっこいいせりふのひとつだと思うんだよね。

中公クラシックスに入っていた「名著の言葉」という栞には「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」をひいて、「『論理哲学論』の掉尾を飾る一句である。本書の目的は、語りうることを語り尽くすことによって、語りえぬこととの間に境界線を引くことにあった。境界線を引き終えた哲学者は、世界、言語、論理の外部について、もはや語るべき言葉を持たない。この「沈黙」は世界の重量と正確に釣り合っているのである」って書いていて、「かかかかっこいい!!」とは思うものの、「『沈黙』は世界の重量である」なんてのは、ただのポエム、ただの無意味、沈黙しなくちゃいけない言葉じゃないの?ポエム、美、倫理、哲学なんかは事実という要素命題に還元できない戯言であるんだから、「だまっとれ!」とウィトゲンシュタイン先生に叱られるんじゃないか?(まぁでもおそらく、ウィトゲンシュタイン先生もそういう無意味なあれこれを「語ってはいないもん、示してるんだもん」というやり方でしゃべってはおるんだろうな)。

ラッセルの序文が役立つとはいえ(ラッセルっていい人だよなぁ)、この原本だけで理解できる人はあんまりいないんじゃないか。読んで「ああ、なるほど」って思えないんじゃないか。だから、解説本も一緒に推薦するのが親切なのに、そういう親切が『ぼくらの頭脳の鍛え方』ではかけてるよねぇ。

日別画面へ

07月14日(木)

起床時刻:08時22分

バイトだったが遅刻。
暑さでだるいのと寝不足なのとゲームのやりすぎ(昨日はAM2:30で限界にきた)で目の奥が痛いのとで、コーヒーを飲んだりセデスを飲んだりしてしのぐ。ゲームより楽で面白い仕事でよかった。

『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』(立花隆・佐藤優/文春新書)。面白かった。自分の本の趣味(考え方も)は立花隆に近いかなぁ。

ちょっと脱線するけど、佐藤優の本の読み方って癖があるよね。誤読なのか「うがちすぎ」なのかよくわからんことを時々(しばしば)言う。「そう読む??」ってこと多いんだよなぁ。

あと推薦している本とかその評価の仕方をみて思ったけれど、佐藤優ってねぇ、えらそうな古典とミーハーな通俗本を両方推薦するんだよね。で、ミーハーな通俗をえらそうな哲学用語で解説するわけ。藤原正彦『国家の品格』をウィトゲンシュタインとかライプニッツのモナドロジーとか出して説明するようにね。これってね、win-win関係なんですよ。
『国家の品格』の例でいうと、まず書いた著者(藤原さん)がうれしい。アホみたいな内容なのに、ウィトゲンシュタイン(!!!)まで持ち出されて評価されてうれしくないわけがない。
次に読んでいる読者がうれしい。アホみたいな内容の本しか読めない頭脳の読者に「いや、これは基本的に『論理哲学考』ですよ」なんていわれて舞い上がらないわけがない。読者としては「ややや、これが面白いと思った自分は具眼の士であったな」と思わないわけがない。
そして評者(=佐藤優)は、「よくぞ見抜いてくださった!」著者の藤原さんと読者のどちらからも好感を持たれるわけだ。これこそ、うがちすぎ?

それから佐藤は勝間和代の『断る力』なんつー本のことも褒めている。
「彼女は寄付もするし、捨て猫も拾うから新自由主義者じゃない。新自由主義者は自分に損になるようなことはしません」っていうけれど、こういう言説が出てくることからもわかるように、彼女の利他的行為(を吹聴すること)は、所詮はプラスの評価をつくる利己的行為なのだ。
だいたいさぁ、「善行を行うには右手のしていることを左の手にしられないようにしなさい」って聖書だって言っているじゃないか。寄付をしただの、捨て猫を拾っただのマスメディアに吹聴することを、利他的で立派だと褒める佐藤がクリスチャンとして変である(最近ずっとほかの人の早起き日記を読んでいないが、ベジママさんは震災直後の「被災地のためにいいことやる」ブームみたいなときに、善行っつーのはこそっとやるからいいんだよ!みたいな意味のことをやさしく丁寧に戒めていたような気がする。これでこそクリスチャンっていうものではなかろうか)。

佐藤優の本ばかり読んでいるようだけれど『野蛮人のテーブルマナー「諜報的生活」の技術』も読んだ。

この中で佐藤は言う。
「筆者自身は右翼・保守陣営に所属していると考える。筆者の理解では、人間の理性を信頼し、合理的な計画で理想的社会を構築できると信じるものが左翼・市民主義陣営をつくっている。これに対して、人間の理性や知恵は、しょせん限界のあるものなので、合理的な計画でつくった社会などろくなものではないと諦め、人知を超えた伝統や文化、さらに神様や仏様を尊重するのが、筆者が理解するところの右翼・保守陣営である」

私も人間の知恵はしょせん限界のあるものなので、合理的な計画でつくった理想的社会が構築できるとは考えない。合理的な計画でつくった社会はろくでもないとする立場なのでこの点は佐藤と同じだが、伝統や文化、さらに神様や仏様も昔の人間がつくったものであり、こちらだってろくなものではないと考える(言い添えておくと、私だってイエス・キリストや仏陀のことは尊敬している。問題は虎の威を借る狐どもであり、自分らの身の丈にあわせて虎の教えを狐サイズにしてしまう連中である)。したがって保守でも右翼でもない。

じゃあ、なんなのだ?ということだけれど、私はやはり左翼・市民主義陣営に属するのだと思う。それは人類は行きつ戻りつしながらも、少しづつはよくなっているはずだという思いがあるからである。理想には程遠いが(理想にはたどりつけないだろうし)、昔に比べりゃましであるという認識だ。

もちろん、こう言うと終末史観の人が反論したくなる気持ちもわかる。
「何おめでたいこといってんだよ!地球環境は年々悪化するし、近代の戦争の凶悪さは昔とは比べ物にならないよ!核兵器に原発を見よ!人類が進化するどころか、絶滅へひたはしっているようにしかみえないじゃん!」とね。

しかし、人類の進化は一本道の平坦な道を行くのではない。蛇行し、行きつ戻りつし、進む。

デジタル生命アヴィーダ(『心はプログラムできるか 人工生命で探る人類最後の謎』有田隆也・サイエンス・アイ新書←むちゃくちゃ面白い本)では、進化による適応度地形上の山登りの(突然変異の総数)111歩のうち、45歩はのぼり、48歩は平坦、18歩は下りだったという。こういう発見をすぐに関係ないものにもあてはめたがるのが文系の悪い癖だが、適応度を下げる突然変異が18個もあるのであるのだから、より複雑な歴史が形成される過程においても、時には逆行現象といわれるものがおきるのは当然なのではなかろうか?

問題は科学の発展により歴史の「逆行現象(私が考える「適応的な進化」というのは「人類の幸せ(快を増やし不快を減らすという功利主義的な幸せ)と生き残り確率の増大」である)」がおきるとき、その影響範囲が格段に大きくなったということである。

昔の不注意な人間が余所見して歩いて人にぶつかっても、たんこぶをつくるくらいですむが、車であればぶつかられた歩行者は死亡する。したがって科学の進歩に伴って、それを操る人間側も向上(ここの例でいえば、不注意でなくなること)しなくちゃいけないのだが、この部分は昔とほとんどかわらない。
むしろ、昔よりも反射神経が落ちている可能性だってある。注意力だって落ちている可能性が高い。前にも書いたように、人類の進歩とはは社会的(後天的)身体機能を拡張しながら、肉体的(生来的)身体機能を縮小していく過程であるといえるからだ。
目覚ましでおきるのが当たり前だと自然に目がぱっと覚めないように、ちょっとそこまでお使いに行くのも車で行っていると足が弱るように、本来的な人間の機能は落ちているといえるだろう。

これらの点があわさって、人類滅亡、地球滅亡になる可能性だってなくはない。それでも私は昔よりも今のほうがよくなっていると思う。蟹工船ブームだというが、日本のどんなブラック企業でも蟹工船よりひどいところはそうそうないだろう(世界的にみたらいまだに蟹工船なところもいっぱいあるだろうが)。体質的には別に蟹工船時代から立派になったわけではないが(すきあらば蟹工船時代に戻りたがっている経営者もいっぱいいるだろう)、社会の仕組みでなんとかましになっているのだ。

人間というのはいつまでたってもろくでもないが、そのろくでもなさを抑えるような仕組みをつくっていかなくちゃいけないんだと思う。

日別画面へ

07月13日(水)

起床時刻:09時05分

また風邪がぶり返した。
昨日は風邪をおしてゲーム、ゲーム。
お昼は水茄子の浅漬け+白瓜の味噌漬け(塩もみした後、味噌+砂糖+青唐辛子の小口切りをまぜた甘辛味噌に漬けた)+白菜とわかめのおすまし。漬物と汁物とご飯だけでいいってどこの老人だよ!

水茄子(大阪泉州産ではなく山形産)は昨日八百屋で5個280円で購入。洗ってへたを落として割いたあと(売り物の漬物も割いたような断面になっている)、あくぬきもかねて塩水(昆布や唐辛子の輪切りや大葉の千切りを加えるとおいしい)に漬ける。ちょっとあくが残っていたけれど(古かったのかしら)、ジューシーで皮もやわらかく、おいしい。

通勤電車&ランチタイムの読書がくつろげる一時である。

『名歌で読む日本の歴史』(松崎哲久・文春新書)。
260Pくらいの本なんだが、時間配分のできない歴史の先生同様、近現代が薄い。私が習った歴史の授業って最初のほうはものすごい丁寧にみっちりやるけど、最後は時間なくなって、明治以降は超駆け足だったんだよね。

この本も、半分の132pでまだ源平時代なんだよね(平忠度(さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな))。残るところ60P程度になった202pにおいてもまだ豊臣秀吉なんだよね。

私の学校もそうだった。「まだ戦国時代なんすけど、終わるんですか?!」って先生に問い詰めたくなるようなペース配分で授業をすすめておった。

この本の一番最後は戊辰戦争で自決した会津家老の妻の辞世だ(「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」西郷千恵子)。聞くも涙、語るも涙である。

一言でいうとこの本の最大の欠点は近現代が薄いことだ。
平安時代にそんなに情熱を傾けなくてもいいよって私は学校の先生にいいたかったが、この著者にもいいたい。

著者のことはよくしらないけど、文書のはしばしから右っぽい雰囲気がするのだが、なんで明治天皇の御製がのっていないの?昭憲皇太后の御製もない。
「名歌を読む」というタイトルなら、別にはいっていなくてもぜんぜんかまわないが、『名歌「で」読む日本の歴史』というタイトルなんだから(つまり名歌はツールであり目的は日本の歴史を読むことなんだから)、入れておかなくちゃいけないだろう。

それはともかく、これを読んでますます秀吉が嫌いになった。
秀吉に惨殺された(といっていいだろう)一の台(秀次の正室)の辞世がせつない。
「心にもあらぬ恨みはぬれぎぬの つまゆゑかかる身となりにけり」も巧みに(「つま」は夫だが。「褄」とかけて「きぬ」の縁語となっている)わが身の無実と無念を詠んだ歌だが、こちらの歌がいい。
「ながらへてありつるほどの浮世とぞ 思へばのこる言の葉もなし」
松崎が「狂気に満ちた秀吉晩年の治政に対する無言の、しかし強烈な批判となっていることがわかる。秀次は正室一の台という、よき理解者を得ていたのである」というのは全く同意である。

権勢を誇るひひじじぃの秀吉を袖にして年寄の柴田勝家に嫁いだのがお市の方だが、この2人の辞世をみると、お市の方は非業の最期だが、勝家を選んでよかったのではないかと思う。

「さらぬだに打ぬるほども夏の夜の 別れを誘ふほととぎすかな」
(そうでなくても、少し寝たら朝がきてしまうほどの夏の短夜に、今生の別れを誘うほととぎすが聞こえてきましたね。それでは、いっしょにあの世に参りましょう、あなた。みたいなかんじの歌ですかね)

勝家の和した辞世はこちら。
「夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山ほととぎす」
(夏の短夜のはかない夢のような人生であり、お市との結婚生活であったなぁ。(誇り高く生きた)わたしたちの名を雲の上まであげておくれ、山ほととぎすよ)

上杉謙信のこの歌も武将らしくさわやかでいい。
「もののふの鎧の袖をかたしきて 枕にちかき初雁の声」

そこへいくと、秀吉の人口に膾炙した辞世などまるでド演歌、浪花節ではないか。その上で文法を間違っているのだから大笑いである。「秀吉自筆の短冊には「消へ」「なにわ」とあり表記が誤っているが、無学を嗤うよりは正しい表記に直して紹介すべきであろう」と著者は優しく云っているが、恥ずかしい間違いである。「消ゆ」の連用形なんだから「消え」にきまってんだろうが。「消へ」だったら終止形は「消ふ」になっちゃうじゃん。

ま、私はとことん、秀吉が大嫌いなのだ。まぁ信長も家康も嫌いだけれど、秀吉が一番嫌いである。明智光秀だって、秀吉にはめられたんじゃないかと勝手に思っている。その理由は細川ガラシャ夫人みたいな人のお父さんが悪人なわけないような気がするからである。

ガラシャの辞世は「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」が有名で(老醜をさらした秀吉にこそ言ってやりたい)、武家の女性らしい意志の強さが伺えるものだが、「露をなどあだなるものと思ひけん わが身も草に置かぬばかりを」も辞世として伝わっているそうな。こちらは彼女の繊細さが伝わってくる歌である。

日別画面へ

07月12日(火)

起床時刻:07時50分

小飼弾がジュニア新書を読むことをすすめていたので、図書館で『いま、この研究がおもしろい』(岩波ジュニア新書)を借りて読んだ。

「新しい脳の科学とロボットを生み出す」(伊福部達)は、福祉工学の紹介だ。障碍機能を機械によってアシストするテクノロジーだが、広義のエンハンスメント研究だろう。動物の優れた機能を真似してそのエッセンスを人工的にとりこむという「生体工学」の手法が面白い。

巷間、「バイオミミクリー」あるいは「バイオミメティックス」という言葉でいわれるところのものだが(有名なところではロータス効果といわれるハスの葉をまねた汚れ防止の繊維であるとか、サメ肌をまねて水の抵抗を少なくしたスピード水着とか、カタツムリの殻をまねて汚れのつきにくいタイルとか)「コウモリが暗闇の中でも超音波を遣って障害物やエサを見つける「こだま定位」という能力をヒントにした、視覚障害者が障害物を避けて歩くのを助ける、「超音波メガネ」という研究」の難しさなど(障碍者は独自に「気配」という名の「超音波メガネ」を代償機能を発達させており、それを妨げる形のメガネはむしろ不要である)。あるいは「九官鳥」の物まね声の謎解きから、「人口声帯」の製品化に結びつけたり。

私としてはぜひ、熊の冬眠の仕組みを人間にも応用する研究をしていただきたい。こうクソ暑くては、冬眠でもしなきゃやってらんない(あ、冬眠じゃないね。夏眠だね)。節電にもなってちょうどいいじゃん?

「不思議な状態<<超臨界流体研究>>」(西川恵子)というのもなかなか興味深い。面白いけど、こんなもん研究してなんになるねん?と思ってたら、抽出溶媒としての超臨界抽出の実用化は目をみはるものがあるそうだ。抽出したい物質を高密度側の超臨界溶媒に取り込み、同じ温度のまま、その流体を別の場所で低密度に戻すと、溶け込んでいた物質が析出してくることになる。

で、何を析出すんの?と思うが、もっとも早く実用化したものとしてカフェインレス・コーヒーがあるそうだ。
確かにどうやって、コーヒーの味や香りをそのままにカフェインだけとりだしてんの?と思っていたが、そういうことなんですなぁ。超臨界流体としてのオススメは二酸化炭素らしい。臨界温度が31.1度なので、熱変性を受けやすい天然物への分離技術として威力を発揮するそうな(しかも、二酸化炭素は安い!扱いやすい!無害!といいことだらけ)。

文化財保存学とか(やっぱり桐のたんすがいいんですな)とか、植物遺伝子学(DNAの抽出はめんどくさいんですな)とか、色々興味深い研究がある一方で、「暴力の連鎖を止める鍵をもとめて<<暴力の政治的ダイナミズム研究>>」「平和を築くための教育とは<<国際教育開発学>>」は、実につまらないと感じてしまった。

文系の研究はどれもつまらない感じだが、「自分と近所と世界を知るために<<イラク地域研究>>」の筆者はたいして能力もないのに研究者になってしまった人の悲哀を赤裸々に書いているところが好感が持てる(こういうケースはよくある)。

研究者じゃなくても、あまり能力の高くない日本人ビジネスマンが国際会議に出席したときに感じる悲哀でもある。なんか気の利いたことを言わなくちゃと思うのだが、英語を聞き取るので精一杯という情けない事態ね。向こうはこちらのインサイトを知りたがっているというのに、出てくる言葉は「アー、ウー」というがっかり感ね。

酒井さんは英語もアラビア語も下手で「イラク研究」では国際的な学界に貢献できない悲哀を書く。優秀な海外の研究者がいっぱいいるのに、なんで自分がノコノコ出ていってるんだ?という素朴な疑問。むしろ優秀な研究を翻訳するだけのほうが、よほど知的貢献ができるんじゃないかという思い。

あー、わかるわかる。
いや、別に私は「ナントカ研究」には全く無縁だが(最初から自分の能力を見切っておる)、ビジネスの世界でも感じたもんね。私みたい能力のないやつがプレイヤーとしてノコノコ出しゃばるよりも、優秀な人の資料づくりやファイリング、あるいはお茶出しでもして、ビジネス環境を整えてあげたほうがよほどためになるんじゃないかって。

あとよく、本当の国際人になるには日本のことをよく知っていなくちゃいけない!って言われるでしょう。これって結局は「日本」を絡めないと人に話を聞いてもらえないっていうだけの話なんだよね。「いかに帝国主義時代を生き抜いたか」とか「いかに戦後復興をなしとげたか」とかそういう「日本と○○」目線じゃないと存在価値がないというね。

「イラク研究者」のこの方はイラクで「日本の農村構造と経済発展の関係」や「日本の政治文化」を聞かれるわけだけれど、それは「イラク研究者」としてみるべきものがないからでしょう。

例えば、ドナルド・キーンが来日したときに「アメリカの農村構造と経済発展の関係」や「アメリカの近代政治史」を聞いたりしないでしょう。普通は相手の研究フィールドについて聞くと思うんだよね。もちろん、アメリカと日本との比較文化論的なことは聞かれるだろうけど、あくまで専門は日本文学なんだからね。専門として聞くべきものがないときに、そういう質問は出てくるわけだから。
イラク人は日本の体験を聞きたがっているとこのイラク研究者の方はおっしゃるけれど、そういうのは日本の社会学かなんかの専門家に聞くべきことだろうと思う。

そういう優秀でないことの悲哀を知ることがおとなになるということでもあるんだけれどね。

日別画面へ

07月11日(月)

起床時刻:11時00分

毎日ゲーム。平日は21:00か22:00くらいからはじめて2:00すぎまで。翌日私のバイトがない場合は3:00や4:00も普通。
休みの日はお昼を食べた後、14:00くらいからはじめて4:00すぎまでやったりする。

私はゲームなんかちっともやりたくない。
だけど、夫がゲームにはまるのもわかるんだ。

実人生はさびしく、むなしく、スッカスカだもんね。
何の目標もなく、ただ、生きているだけ。

もちろん、生きるにはお金が必要だ。
だから人生のほとんどの時間は、仕事をすることになる。
憂鬱でなければ仕事じゃない。
っていうくらいだから、仕事というのは憂鬱なもんだ。

生きるために憂鬱な時間を生きている。
っていうのが、私たちなんだ。

まるで、真っ暗な海の底の深海魚みたいだね。
太陽の光の届かない暗い海の底を、乏しい餌を得るために、大きな口をあけて泳いでいる深海魚。

深海魚の人生(魚生か)って何だろう?
餌をとり続けること。
自分の子孫を残すこと。
そして最後は死ぬ。

人間の人生もそうだ。
餌をとり続けること。
自分の子孫を残すこと。
そして最後は死ぬ。

だけれど、人間はそれだけでは耐えられないようにできている。
「餌をとり続けて、子孫を残して、最後は死ぬ」だけの人生なんて、自分が魚と同じように思えて、プライドが傷つく。

けれども、実際のところ、餌とりと子育て以外に、何もすることがないんだよ。

本当にむなしい。

ゲームは、そんなむなしい深海魚たちのむなしさを忘れさせてくれるものだ。
ただ「餌をとるだけに泳ぎまわる」だけの人生ではなく、別の人生「もっと強くなるために生きる」人生をみせてくれるのがネトゲである。

パラメータで表示される強さの数値を確実にあげていくという、流行の言葉でいうと「見える」化された努力目標をくれるわけ。

はまらないほうがおかしい。

むなしく、つらくて、憂鬱でスッカスカの人生と、目標があり、努力すれば確実に報われ、自分の成長が可視化されている世界。

そりゃあ、後者の世界にずーーーーーっと行っていたいよねぇ。

私も夫同様、むなしくて、つらくて、憂鬱でスッカスカの人生だからわかる。
でも、私の場合、ゲームの世界で努力するのもまた、むなしくて、つらくて、憂鬱でスッカスカに感じるんだけどね。

日別画面へ

07月10日

起床時刻:12時30分

今週はむちゃくちゃ忙しいから、休日出勤すると週初から宣言していた旦那が、当然のように休日出勤をとりやめる(暑いから。休日出勤以前に月曜も金曜も休んでいるんだけど?よく仕事の帳尻あうよな)。

そして一日中、ゲーム。
昼はそうめん、夜はデリバリーのピザ。
うち、週一でデリバリーのピザを注文しているんだけど。

伯母からのお誘いの断りメールをおくったつもりが痛恨の送信ミスでおくれていなかった!(伯母は、うちの旦那に気をつかって電話してこないのよね)

あーもう、私日常レベルでダメ人間なのよ。仕事以前の問題なの。よく今まで火事を起こしていないなって、ちょっとした奇跡レベルよ(IH以外の家に住めないですわ)。

もうなんでこうなのーーーー!!!
何やってもダメなのよねぇ。
もう、首つって死にたいわ。
でも痛いのはやだし。ブスコバン飲んで首つれば痛くないかしら?

そんなこんなで激しく落ち込む。うちの旦那がめずらしくAM2時くらいには寝たので、その後、本を読んだりしてこちらは朝の4:00すぎまで起きていたけど。

日別画面へ

07月09日

起床時刻:13時00分

一日中ゲーム。
アビセアタロンギは獲物の取り合いでチョーぎすぎす。
おかげで旦那もチョーぎすぎす。

やってられん。

伯母よりメールがあって、急だけれど明日、伯母宅の近くのフレンチ・レストランにランチに行かないか?とのこと。
行きたいけれど、暑いし、軽く生理痛だし、明日は旦那が休日出勤で家にいない予定なので(やったー!)、貴重な一人の自由時間を大切にしたいし、という理由で断りのメールを送る。

この時は明日になってうちの旦那が休日出勤をとりやめることを知らなかった。
そして断りのメールを送信したつもりが送信できていないことを知らなかったのであった。。。

日別画面へ

07月08日(金)

起床時刻:12時00分

朝、久しぶりに激しく生理痛。
セデスを3錠飲んだけど効かなくてのたうちまわっていたら、旦那が起きてきたので、胃痛のときに処方してもらったブスコバンをとってきてもらおうとしたのだが、なかなか、薬のある場所が旦那に伝わらなくて、困ったw。

薬箱とは別の私専用の薬などを入れているかごがあって、「タオルの(入っている引き出しの)上」と言ったつもりが、旦那には「カールの上」と聞こえたらしくて、おやつのある場所を探したらしい。それで「カールなんてないよっ!!」と切れたわけw。

普通だったら自分で取りにいくが、脂汗がだらだら出るような強い痛み(胃痙攣のような感じ)と吐き気(手まで震えてきた)でどうにも立ち上がれない。なんとか旦那が取ってきてくれ、ブスコバンを2錠飲んでやっと落ち着いた。

いやぁ、あってよかったブスコバン!!!
江戸時代に生まれなくて本当によかった!!!
人類って確実に進歩しているよな!!!

と、私が西洋医学に心からの感謝をしていると(まぁ薬を取ってきてくれた旦那にも多少の感謝はしたが)、旦那が「妻の看病のために休みます!」とか会社に電話してんの。いや、別に君はいらないから、ブスコバンあれば大丈夫だから、むしろいてほしくないから。

しょうがないので、急遽2人分のお昼ごはん(冷凍パスタ+白瓜とわかめの和え物+フルーツトマト)を用意し、それを片付けたら「グラヴォイドの殻を取りに行こう!!」だって。

しねよ。
って軽く思ったね。

お前看病するんじゃなかったんかよ?
結局、13:30くらいから、朝の4:00くらいまでゲームだよ。

(夕飯の買い物に一緒に行ったら、うちの旦那はとんこつラーメン+揚げ物二種類+クッキーを選んでたよ。野菜はいらないってさ。うちの旦那が主夫だとしたら、毎日の食事がそら恐ろしいぜ)

「今週は忙しい。日曜も会社に行かなくちゃいけない」とかいいつつ、おまえ、月曜も休んで金曜も休んでいるじゃねーかよ?
おかげで私の休みは今週は水曜だけだよ!!!

希望は日曜に旦那が会社に行ってくれることだけど。
ま、この希望も「暑いから行かね」ってことで打ち砕かれることをこのときの私はまだ知らないのであった(これを書いているのは7/11 月曜日)。

日別画面へ

07月07日(木)

起床時刻:07時50分

昨日白瓜について書いたせいか、今日は白瓜二本(250円也)を購入して浅漬けにした。すりおろしたしょうがを少々、薬味にまぜた。これとわかめとあえて、しょうゆをたらせば、小鉢が一品できあがりである。

なんだか知らないが、松本大臣が生意気だっていうんで、ブーイングを受けて辞任したそうだ。
ニュースをここんとこ(というか、ここ数年スパンで)、見ていないから知らなかったんだが、ポータルサイトに記事がいろいろ載っていたので読んでみた。

どうやら、松本のおっさんは復興大臣とかいうのになって、仙台にいったら、仙台知事(宮城県知事だね、仙台知事じゃないね)が出迎えにこなかっていうんで、礼儀知らずな野郎だぜって切れたらしい(しかも切れて文句をぶちまけたことを記事にしたらコロス的なやくざ丸出しだったらしい)。

読んだところ、「こんなおっさんよくいるじゃん?」という感想だったのだが、被災者の逆鱗にふれたらしい。

私の感想は宋文洲そのまんまだった。
はじめて、他人のツイートにリプライ(っていう言い方で正しいのかしらんが)しちまったくらいだ。

「松本さんくらいの態度でびっくりしたり、怒ったりしている人は、殆ど日本社会の深部に入れていない人だろう。権力や富や地位に近付こうとするならば、こんなおじさんがゴロゴロして毎日平常心で礼儀を尽くしてパスするものだ。前進のみだ」

ま、自分は日本社会の深部なんぞは何もしらんが、こういうおっさんはよくいるではないか。ていうか、お茶の間の人気者の島田紳助、ダウンタウン、みのもんた、あっこさんも似たりよったりではないか。

礼儀のルールは人によって、育ったバックグラウンドによって、地域によって、変化するのである。タメ口はダメというレベルから玄関にまでお出迎えしなくてはいけないというレベルまでいろいろある。

だいたいさ、松本クラスの人間がエラソーにするから怒るのであって、もしこれがアラブの王族で、莫大な支援金を持ってきたという人だったとしよう。知事が彼を出迎えなくて怒らせたとしたら、日本人は「日本の恥!礼儀知らず!」と知事を責めるだろう。

人によって態度をころころ変えることはおかしなことに思う。でも、アラブの王族に対するときと牛丼屋の店員に対するときは、態度を変えるのが当然だと思っている。アラブの王族が待ち合わせに遅れても誰も文句を言わないが(そういう文化ですよね、で終わる)、吉野家の店員が牛丼を出すのに20分かかると大騒ぎする。

誰に対してもアラブの王族に接するように接すればいいんである。吉野家のアルバイトだってアラブの王族が日本文化を学ぶために働いていると思えば、もし敬語が下手であろうと、サービスが悪かろうと、腹もたつまい。

まぁでも礼儀って相手の扱いに差をつけるってことなのよね。
人間って自分を重んじられたい、って思うし、重んじられてる!って感じるためには、他人が軽んじられてる!っていうのが、絶対なのよね。

だから本質的に絶対評価って絶対ありえないのよ。人間ってね、相対評価でしかものをみられないのよ。礼儀にしても敬語にしてもそういうことだからね。

日別画面へ

07月06日(水)

起床時刻:12時10分

AM3:30までゲーム。
母から誕生祝い+小包。

今日の昼はそうめんとセロリの浅漬け。
そうめんのツユに小梅のしょうゆ漬け(父の手作り)のしょうゆを入れるのがさっぱりして好きだ。

セロリのほうは塩とレモン、砂糖を少々いれてつくった。砂糖は意外かもしれないが、砂糖を少々いれたほうが味に深みが出て、あとまぁ市販品しか食べなれていない人の口にもあう。
市販の漬物の原材料や「浅漬けの素」(個人的にはまずいと思うのだが)なるものをみると、たいてい甘味が入っている。今、エバラの浅漬けの素をぐぐったら、「原材料名/還元水あめ、食塩、砂糖、果糖ぶどう糖液糖、醸造酢、醤油、調味料(アミノ酸等)、塩化マグネシウム含有物、香辛料抽出物」ということであった。三種類も甘味が入っているのである。ちなみに原材料名は多い順に記載しないといけないので、この素は食塩よりも水あめのほうが多く入っているのである。
こういう市販のべっとりとした甘さより自分でつくったほうがよほどおいしい浅漬けがつくれると個人的には思う。

塩+砂糖(あくまで少々。隠し味程度)+好みで酢を少々(すだちやレモンでも)+スパイス(赤唐辛子、にんにく、しょうがなど)or ハーブ類(大葉、みょうがなど)を入れると、おいしい浅漬けになる。うまみのために、だし昆布をはさみで切って入れるのも鉄板だが、なくてもおいしい。

白瓜はそのままでは不味いが、塩で浅漬けにするとおいしい。ピーラーで皮を剥き、半分に切り、中のわたをスプーンでとって適当に小口に切る。そしてざるにおき、塩をまぶしてしばらく放置。しんなりしたら水気を切ってジップロックに投入。適当に調味料をいれ、千切りにした大葉を入れて少し置く。食べるときにゴマをふってもいいし、塩加減を少なめにつくりオリーブオイルをかけると、サラダ風になる。ラー油やごま油をかけて中華風の小鉢にしてもいい。

あと夏に好きなのが焼きピーマンのおかか和え(しょうゆ+オリーブオイルでもおいしい)。網でやいたピーマンの香ばしさがいい。
茄子のしぎ焼き。うちの実家だと苦瓜がこれに入っていた。甘味噌としその香りがなんともいえない。
茄子の煮浸し。干しえびの出汁とぴりりとした赤唐辛子がいい。
あとは真っ黒に焼いたパプリカの皮をむいて、塩とオリーブオイルでマリネしたやつ(好みでにんにくのすりおろしをほんの少々いれても)。なんていうんだっけ、これ。大好きでつくるとすぐになくなる。しかもパプリカは安い輸入物でも一個200円くらいするから、パプリカを4つ使ったらそれだけで800円になってしまうという、ね。牛丼より高くつくという、ね。牛丼よりずっと好きなので別にいんだけど。
あとニラのチヂミ(あくまでチヂミ「風」ね。本場は知らないから。私は小麦粉(米粉でもおいしい)+卵+水+塩でといたものにニラの小口切りを入れて焼いて、酢醤油+ラー油で食べる)も好き。この前テレビでプロの作り方をみたら、団子粉を小麦粉の一割入れて、さらに顆粒の和風だしを入れていた。私はだしは削り節でとるので、顆粒だしというのが家にはない。なんでも顆粒の和風だしを入れる必要はないと思う。かつおの風味が素材の味を損なうことだってある。

でもニラは小口切りにしたやつを味噌汁に入れるのが一番好きかな。食欲ないときに助かる。
それとしらす丼、白瓜の浅漬け、冷奴でもあればもう私は十分なんだけど、ピザ好きな現代っ子には「食べるものがない!!」って怒られそうで困る。

日別画面へ

07月05日(火)

起床時刻:08時00分

バイト。昨日まで便秘してたくせに、なんでバイトに行ったら二回も便意を催すんだよ?意味わかんねーぜ。

眠くて眠くて仕方ないので、コーヒーをがぶ飲みして胃を壊す。

それにしてもあれだよな、私、福田和也の『人間の器量』を読んで罵倒もしないなんて、やはり寄る年波にモーロクして右翼になったのかな?って、一瞬思っちゃうよね。

もちろん、むかつくところは多いにむかついておる。将来、モーロクして福田のようなことを言うようにならないとも限らないので、戒めのために一応書いておこう。

福田によれば海軍兵学校で在学中死亡するものが多かったが(おそらくは戸塚ヨットスクールみたいな理由で)、それについてこう述べる。
「平気で生徒を殺せる教育。
もちろん、教師たるもの、学生を死なせて平気であるわけがありません。
しかし、その厳しさがなければ、極東の小国はなりたっていかない。
だからやむを得ず厳しくせざるを得ない。
それは、教える側にも強烈な負担と気構えを迫るものであることは間違いありません」(P55)
(やたら改行が多いのもクズ本レーベル「新潮新書」の特徴であろうか?)

こいつはね、自分の息子は厳しい教育もすすんでうけた、学校主催の3kmの遠泳(自由参加である)に参加したと実にみっともない親バカ丸出しで書いているのだが、寝言は寝て言えである。民主主義の時代の民主的な学校の3kmの遠泳と軍隊のしごきはまったく違うんだよ。軍隊もただしごくのであれば問題ない。相撲部屋も戸塚ヨットスクールもただしごくのであれば問題ない。

問題があるのは、そこに「悪意」つまり「いじめ」が公然と入ってくることなんだよ!

福田の息子のつまらん例をひいていえば、軍隊のしごきというのは、波の安定した日に3kmの遠泳をやらせることではない。それは民主的なトレーニングである。

軍隊のしごきというのは、福田の息子だけを「おまえは気合が足りないから倍泳げ」と命令するようなものである。波の高い日を選んで「敵はこういうときに攻めてくる」といって、準備体操もしていない福田の息子を海に突き落とすようなことである(敵は準備体操も待ってくれないからな)。
それで、福田の息子が死亡しても、同じことがいえれば少しは見直してやっていいがな!
そのときは「昔のしごきには倫理があった」などと、愚にもつかない理屈をこねるんだろうよ、どうせ。

福田はさらに、丸山真男が軍隊生活を激しく憎悪したのは、ノブレス・オブリージュがわかってないからだと書き、丸山を「高貴さのなんたるかをわきまえない人物」というが、誰か福田をアフガンゲリラの中に突き落としてきてくれないかなぁ?と思うわ。酒飲んでつまらんことを書き散らすより(まぁ福田によれば彼は大酒のみだが、飲むとかけないそうである。飲まないでこんな冗談みたいなことを書いているのだとしたら、飲んだほうがまだよかろう)、一回アフガンゲリラに鍛えなおしてもらったほうがいいと思うわ。

丸山が怒っていたのは、命を差し出して国を守るという義務ではないよ。訓練の名をかりたいじめや暴力だよ。
私の軍隊観は奥泉光の『軍艦橿原』に近い。福田が軍人だったら、間違いなく太田黒タイプだね。大笑いだぜ。

軍人でも立派な人物はいたと思う。
それは間違いない。
しかしろくでもないやつが大多数だと思う。
これは反軍隊ではない。
文民だろうが、左翼だろうが右翼だろうが、政治家だろうが一般大衆だろうが、ろくでもないやつが大多数であるという事実をあてはめただけのことだ。

福田の「もちろん、教師たるもの、学生を死なせて平気であるわけがありません」「教える側にも強烈な負担と気構えを迫るものであることは間違いありません」という甘っちょろいある意味、左翼的な人間観・教師観を出しているところが興味深い。今村均みたいな立派な人はめったにいないんだよ。みんなだいたいクズなんだよ。
リアルに軍隊を知らない人間だから、「しごき」の名をかりた「いじめ」を教師だろうが上官だろうが、平然とやることをしらないんだろう。平和ボケというのは福田に送りたい言葉である。

日別画面へ

07月04日(月)

起床時刻:09時30分

日曜は一日中ゲームだったので、今日は自分の時間を持てるぞー!とウキウキしてたら、奴が昼過ぎに起きてきて「具合悪いから会社休む」だってさ。具合が悪いならベッドで寝てりゃあいいものを、「ゲームするぞ!」。

結局PM二時くらいから初めてAM二時過ぎまでゲーム。夕飯はデリバリーのピザを頼んでずっとゲーム。ドミノピザのブルックリンピザ(Lサイズ)+ポテトの大+カスタードパイ+コカ・コーラ(1ℓ)がうちのデフォ。

グラヴォイドの殻を50個集めなくちゃいけないんだよおおおお!!!
しかしグラヴォイドをわかすには「大事なもの」取りからしなくちゃいけないんですよ。乱獲やって金箱からのだいじ取りっつーのが一番時間がかかるんだよねぇ。しかもアビセアタロンギは混みあっていていつも敵の取り合いだから、色をつけるのすら大変なんだよ。だいたい深夜0時~4時、5時あたりで活動するのが一番効率がいいんだそうな。

そりゃ、普通の人は寝てるからな!!!

「人生とは何か。
それは50個のグラヴォイドの殻を集めることである」

この言葉を未来を担う子供達にささげたい。
無意味といえばこれ以上なく無意味なものが人生であるが、多くの人はそう思っていない。
「グラヴォイドの殻集め」に「人間の成長」を見出している。
だから「人生の目的は成長することである」などという言説が大手をふってあるいているのである。こんな戯言に頷く連中には素敵なポエムをおくってやろう。

「グラヴォイドの詩(「うた」と読んでいただきたい)」

ひとつひとつの戦いを通じて、皆、成長しているのがわかった。
ひとつひとつの戦いを通じて、お互いの信頼が強まった。
何も云わなくても、それぞれが自分の責任を果たし、役割を遂行する。
そんな当たり前のことの大切さを学んだ。

グラヴォイドの殻を50個集めて、今しみじみと思う。
仲間を信頼すること、自分への信頼を取り戻すこと、その大切さを教えるために神が遣わしたもの、それがグラヴォイドだったのかもしれない、と。

日別画面へ

07月03日

起床時刻:10時30分

昨日は朝の5時近くまでゲーム。
風邪気味で喉が昨日から痛い。

『社会的な身体(からだ)振る舞い・運動・お笑い・ゲーム』(荻上チキ・講談社現代新書・2009/6)。読みやすい。わかりやすい。

第一章ではニューメディア登場とそれに付随しておこるニューメディアバッシングの歴史的パターンを考察。
ソクラテスの文字批判(プラトン『パイドロス』)によれば、文字で書かれたものは、記憶ではなく想起であり、真実の知恵ではなくの知恵の外見である、という。二つ目の指摘は文字というのは理解力の劣るものの目にもあまねく触れるから、場合によっては悪影響を及ぼすというのだ。

つまり文字というニューメディアによる記憶(=脳)の拡張(社会的身体の変化)とそれによる知の平等性の促進(知が特権階級のものではなく、文字を通じて万人に開かれたということ)をソクラテスは批判している。まるでインターネット批判である。

筆者は、小説批判→紙芝居批判→テレビ批判というようなニューメディア批判の系譜をおっていく。小説は青少年、婦女子を堕落させるものと批判されていたのが、テレビ批判の文脈では「小説を読め」というようにオールドメディアとしてニューメディアを批判する権威になっていく。紙芝居は今では郷愁をもって語られるが、子供が紙芝居見たさに金を使うわ、道路をふさぐわ、当時としては社会問題であった。しかし「教育的内容」な紙芝居が登場することによって、社会的に許容されていく。

ニューメディアに対する批判は①メディアによって広められるコンテンツ批判と②メディアに触れる行為そのもの(あるいはその行為から生まれる新しい生活様式)批判にわけられ、②→①へ向かうという。

メディアは社会的身体を変える。「見慣れた社会的身体」を持ったもの(ニューメディアを積極的に取り入れるのは子供や若者であろう)に対して、「特定の社会的身体の優位性」(大人や老人たちのそれ)を主張し、自らの身体がレトロニムと化していくことへの反発から、「排除行動のインセンティブが高まるままに導かれた集合的なリアリティ」が、メディア亡国論の類だと著者は切って捨てる。

一言でいうと、「時代についていけなくなったジジババの僻みをもっともらしくいったもの」がニューメディア批判である。そしてニューメディアを身につけた「最近の若者」批判である。いいかえると、いつまでも権威を保ちたい、人に尊敬されたい、現役でいたいという老人の醜い欲望、まさに老醜である。そういえば、老醜という言葉はあるが、若醜という言葉はない。老害という言葉はあるが、若害という言葉はない(でも韓国には「老害」という言葉はないって韓国人の子が言っていた。さすが長幼序ありの儒教の国ってわけなの?日本は儒教のふりして実は儒教じゃないってことなの(ってたまに思うんだよね)?だから明治維新で生き残れたの?)

とはいえ、ニューメディア批判をするのを時代遅れの哀れなやつと切り捨てるだけではやはりアレだろう(アレにふさわしい言葉が思いつかないw片手落ちってことなんだけど差別用語なんだっけ)。

思うに「人間のあるべき姿」に対する価値観の違いっていうのもあるんじゃなかろうか?人間は道具によって身体機能を拡大してきたわけだが(メディアも道具のひとつ)、人間自体の身体機能は年々歳々劣ってきているという見方もできる。いや、もちろん、100メートル走の記録は昔より早くなっているし、体だって大きくなっている。栄養バランスがよくなるにつれ、身体や筋肉の増強はすすんでいる。

だけれど、棒をつかって木の実を落とすことを覚えると、木登りする能力は衰える。あるいは、文字を使うことを覚えると、稗田阿礼的な記憶力は衰える(携帯の普及で電話番号を覚えなくなったのとも似ている)。江戸と比べても昔の人は何十里も忍耐強く歩く力があったが、現代人は車で移動するので、ちょっと歩くとすぐ音を上げる。
棒や文字や車のほうが木登りや丸暗記や徒歩よりも効率いいんだし、進化しているじゃん?と我々は思うが、レトロニウム側のほうが何も装備していない場合の素の機能は高い。

したがって、私たちは常に道具やメディアによって、社会的身体機能を拡張し続けてきたが、同時に肉体的身体機能を縮小させてきたのだ。寝たきりの人が歩けなくなるように、体は省エネ思考なので使わなければ衰える。いわば、座ったままどこにでも高速移動できる椅子を発明したら、足が萎えていく。「足が萎えようが、結果的に早くかつ平等に(女子供も男性と同じ速さで移動できる)んだから、別にいいじゃん?」という見方もあれば、それは「人間の本来性や尊厳を損なうものである」という見方もあるだろう。

思えば道具というのは身体的不平等をなくしたが(車が運転できればじーさんも若者も同じスピードで移動できる)、操作性の不平等(車が運転できない人と運転できる人の移動距離には大変な差が生じる)をうんだわけだ。

メディアもそうだ。
テレビによって、娯楽が大衆に開かれた。例えば、昔ならば足の不自由な人が旅に行きたくとも外出もままならなかったもしれない。しかし、テレビの登場で、居間にいながらいろんな旅番組を通じて世界各国を知ることができる。
もちろん、これは旅の疑似体験であり、しょせんは偽者であり、質が劣るものであるという批判は執拗になされるだろう。しかし、「旅によって見聞を広める」という目的は、むしろ観光地ツアーにいくよりも(だいたいガイド以外の現地の人とふれあうことなどないのである)旅番組をみたほうが達成されることだってある。しかし私たちは自分の「足で歩くこと」「触れること」「目で見ること」「空気を嗅ぐこと」といった、身体ベースの経験を高く評価しがちなのだ。

新しく身につけた社会的身体批判が繰り返し登場し、それなりに説得力を持つのはこういう側面を持つからなのだ。そしてそれはエンハンスメントの議論ともかかわっていくことなのだということも考慮にいれておいたほうがいいと思った。

日別画面へ

07月02日

起床時刻:13時00分

伯母より「ロセンド氏の蜂蜜」セットを頂く。ローズマリーとピレネー。今まで色んな蜂蜜をもらってきたが、一口で蜂蜜といっても、産地や採取した花によってずいぶん違うものだ。今日は台湾の養蜂家、張耀文氏のライチの蜂蜜を使い終わったのだが、華やかな香りが邪魔をしてコーヒーや紅茶の甘味にはあわないにように思う(ヨーグルトによくあう)。

ローズマリーの蜂蜜は大好きで、ハニーバタートーストにするときにぴったり。まぁ今は三浦屋で購入した愛媛県産「れもんはーと」なるレモンジャム(と商品ラベルには記載されているが、要はレモンカードである。レモン果汁とバターと砂糖を混ぜ合わせたものである)をトーストのおともに愛用している。

このレモンカード(れもんはーと)はクレープを焼いたときなんかも重宝する。クレープといえば、有元葉子の『うちの食卓 ふだんの暮らし』(集英社)で紹介されている有元さんの「エスプレッソで決めたい イタリア風クレープ」はオリーブオイルでクレープ生地を焼き、砂糖を振るだけという手軽さだ(オリーブオイルってどうなの?ってちょっと思ったが)。日本だとカスタードクリームやら生クリームやらバナナやら用意するところを、欧米では砂糖を振っておしまい系なのはよくある感じがする。

私がロンドンの高級フラットに住んでいたとき、隣人のユダヤ系の未亡人にお茶によばれたことがあった。(そのとき間取りの「ツアー」をしてくれたのだが、全部の部屋に名前がつけられていた。ちなみにテレビが置いてある部屋は「モダン・ルーム」だってさ。寝室は天蓋つきのベッドに白のレースのベッドリネンであった(ばあさんが寝てどうすんねんと内心思ったが))。

ティータイムにしましょうといって出てきたのが、レーズントーストを四つ切にしてトーストし、バターを塗って砂糖を振っただけという、手抜きなものであった。こんなんでいいんですねぇと妙に関心した覚えがある(別の機会にこの方の焼いたケーキを食べさせられたことがある。「あなたはスキニー(がりがり)だから、太らなきゃダメ!」といわれて押し付けられたが、私はどちらかというと左党で素人の焼いたケーキなんぞたいして好きじゃないので困るのである。ていうかイギリスのケーキはプロが焼いたものでも、なんか大味な気がしてあまり好きではない。ケーキは日本が世界一(といっても西ヨーロッパとウィーンしか知らないのだが)おいしいと思う)。

話がずれまくったが、クレープを焼いたとき、どうやって食べるかというと、私はクリームチーズ+はちみつが定番なのだが、レモンカードを塗って折りたたみ、上から粉糖を茶漉しでふりかけると、おもてなしにも出せるようなデザートになる(ような気がする)。まぁでも、そもそも友達いないんで、誰かをもてなすことなんぞ、過去にも未来にもない、という話ではあるが。

さて、伯母にお礼兼暑中見舞いでも出さなきゃな。

日別画面へ

07月01日(金)

起床時刻:09時00分

『理性の限界』に続いて読んだ『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』(高橋昌一郎・講談社現代新書)もすっごく面白かったなぁ。

福田和也『人間の器量』(クズ本量産レーベル新潮新書である。図書館で借りた)を読む。
今の人間の器量が小さくなったのは①人物を育てようとしなかった(薩摩や鍋島藩の超スパルタ教育みたいのがなくなった)②戦死に対する覚悟がいらなくなった③貧苦と病苦にたいする怯えがなくなったからだという。

先達の器量に学ぶという章では「西郷隆盛は誰もが認める器の大きい人間でしょう」として、西郷を最初に取り上げている。『明治天皇を語る』(ドナルド・キーン。これも新潮新書だよ!ひょっとして私、新潮新書好きなのか?)を読んだら、「外国人であるゆえか、日本人の西郷好きが理解できない」とあり、私もわからないと書いたが、この本のおかげで少しわかったような気がした。

うちの父は、今は宮崎だがもともとは薩摩藩だった地の出身である。そこでは、西郷さんは本当に誰からも慕われているんんだよね。辛淑玉は「西郷バカ盛」と揶揄していたけれど(そりゃまぁ征韓論を言われた側からみればそうだろうねぇ)、地元での西郷人気というのは根強くて、大久保利通なんか足元にも及ばない感じだったなぁ。幼いころ父方の親戚に連れられて、田原坂に観光(といっていいのだろうか、巡礼であろうか)に行ったことがあるのだが、今でも敬愛されているんだなぁと思ったね。

この本を読むとあそこまで慕われるのには訳があるんですねぇというのがわかる。

しかし、この本を読んでもやっぱり尊敬されるいわれがわからないのは伊藤博文である。
実際のところ、西郷とは逆に、彼って萩ではたいして尊敬されていないのではなかろうか?萩に行ったときにそう思った。刑死した吉田松陰は松蔭神社なんてのもあり(なんと東京にもある)、今でもめちゃくちゃ尊敬されているんだけど(ヨシダショーインなんて呼び捨てにしてはいけない雰囲気である)。萩では高杉の生家も残されていて、観光スポットになっているんだけど、伊藤の影はめちゃ薄かった。ていうかこれって(西郷人気、松蔭人気、高杉人気って)単なる日本人の判官びいきなのかしらん?

福田は伊藤を高く評価していて、『総理の値打ち』でも最高点を伊藤に与えていたけれど、私はちっとも好きじゃない。伊藤のことをゼロの身分から天下人になった太閤秀吉になぞらえたジャーナリストがいるけれども、秀吉も大嫌いだから。

原敬を暗殺したやつには敵意を覚えるけど、安重根に対しては(英雄とは思わないが)特になんとも思わないくらい、伊藤は嫌いである。

今村均大将は立派だね。こういう人のことをちゃんと授業で教えたほうがいい。それがバランスというものだ。

私は軍隊というのは嫌いだし、私や福田のような口先ばかりの文弱が仮に軍隊に入ったらトコトン苛めぬかれるのがオチだと思うんだけど、それでも身を挺して国を守ろうとするのは尊敬に値する。自分には到底できないよ。

さて、器量を大きくするには5つの道があると福田は言う。
1.修行をする
2.山っ気をもつ
3.ゆっくり進む
4.何ももたない
5.身をささげる

まぁ私は、本当に器の小さい人間だし、いまさら改良の余地はあんまりなさそうだが(もっとも福田は大隈重信候の例を挙げて、50からでも人間はかわれるというが)、器の小さい人間の大事なことは器の大きい人間の邪魔立てをしないよう、謙虚に生きるということだと思う。

しかし器の大きい人間の器量というのは器の小さい人間にはわからぬものである。それも肝に銘じておかねばならんでありましょう。

福田は石原都知事について「器の大きさを感じさせる」と書いていたが、私はそんなことまったく思わないわけだが、これがいい例で、私のような器の小さい人間には到底知れぬことだろう。私がここで嫌いだと騒いでも都政にはなんの影響も与えないのだから、むしろ幸いとせねばならんでしょう。これが人に影響の与える立場であったら、軽々しいことは言えなくなるわけだものねぇ。

著者は「大物だといはれる人は純粋でない。純粋な人は粒が小さくて、大きな舞台には立たされぬ」(森銃(金偏に先)三)の言葉をひいているが、私は異論はあるかもしれないが、純粋だと自分では思っている。そして小粒である(こちらは異論もなかろう)。
「清濁併せ呑む」とか「腹芸」なんて絶対にできない。まぁ女性はこういう純粋で小粒な人が多いかもしれないが、小粒でもいいと思う。要は小粒は小粒なりに身の程をわきまえて、純粋に生きればいいと思うんだ。不純な小粒ほど汚らわしいものはないのだから。

日別画面へ