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起床時刻推移グラフ

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08月31日(水)

起床時刻:12時50分

古典的名著を読もう&読み返そうキャンペーンを一人でやっているんだが、その一環として読んだのがこちら。
カトリーヌ・アルレー『藁の女』。
東野圭吾のノワール小説(白夜行だっけ、貧乏だった美人がのしあがっていく話)みたいな感じでよんだ。
面白かったが、読後感は爽快ではない。

それはともかく、この小説では「ドイツ人はセンチメンタルだから」っていうのがしょっちゅう出てくるんだけど(センチメンタルというよりナイーブという感じだ)、ドイツ人でセンチメンタル認定されちゃったら、日本人どうなっちゃうんだよって話だ。まぁもちろん、センチメンタル性を強調するのは、小説の穴というか弱点をカバーするためだろうけどね(普通、もっと用心しない?という疑問に対する答えとして)。

ここでいうセンチメンタルはフランス人みたいに合理的に考えない、疑ってかからない、だまされやすい、純情で純真であるということだろう。

純情さや純真さというのは生きるうえでマイナスにしかならない。
もしマイナスにならない純情さや純真さがあれば、それは見せかけのまがいものである。

「ほかの点では、まったく正常な発育をしているように見える人たちが、案外ごくだまされやすいというのは、不思議なことですね」とコルフは言うが、耳が痛い。本当に私もだまされやすいからな。

コルフには「私は、前から買った女には弱くてね。もちろん、金で買った女のことですよ。女はみんな買われているに違いないが・・・」というせりふもあるが、こっちも耳がいたい。

本質において専業主婦たる私と世の妾や愛人、二号さんとでは何が違うっていうんだろう。どちらも金で買われているに違いないじゃないか。
ま、私のほうは年増で不細工な素人っていう、残念な違いがあるわけだが、それじゃあ、私は妾や愛人、二号よりもはるかに下、である。

だから私は浮気をされても、なんとも思わない。
自分よりいい人は世の中にいっぱいいるからな。合理的に考えれば、妻などという、年々リターンが減り続ける不良資産をかかえるのは、子供という新たな資産(とならない可能性もあるがなwwwニート化したりして不良資産倍増する可能性もあるがなwww)を育成してもらう以外に意味はないじゃん?

そのほうが私の夫にとってはいいんじゃないかと思う。だから私は離婚したってちっとも悲しくないわけだが、金的にはチョー困る!チョー悲しい!わけだ。金以外には何の未練もないってことだ。

まぁこんなことを書くのもまた、センチメンタルのなせる業だな。

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08月30日(火)

起床時刻:08時10分

人間関係って須らくギブ&テイクで成り立っているんだね。

うちの両親は「あなたが存在してくれればそれでいい」っていう思考回路だからいいけれど(それだって彼ら二人で生活が成り立っているからだろう)、世の中の人はこれだけ面倒みてやったんだから、それに見合うリターンを返せっていうのがデフォルトなんだよね。

誰が食わせてやってんだ!(食わせてやってんだから、セックスさせろ!)
誰が育ててやったんだ!(老後の面倒は見てもらいますからね!)
なんて素敵な家族の「絆」。
絆、もしくは無言の圧力ないしは「しがらみ」。

そういや何かの本で読んだんだが、昔の親というのはあんまり子供えこひいきをしなかった。特別に優秀(→金持ち→親の面倒をみてくれる可能性が高い)な子をえこひいきしなかった理由は別に道徳とかは関係なく、単に衛生状態の悪さや医学の未発達から、いつその子が死ぬかわからなかったからだというのだ。

つまり、いくら優秀な子供に全「愛情」をかけたとしても、死んだならば、リターンはゼロ。リスク分散が不可欠だったわけだ。

ところが、今では子供がなかなか死なないから、できのいい子をえこひいきし、教育投資(勝間によると教育投資のリターンは6%であらゆる投資の中で一番投資効率がいいんだそうな)をしたとしても、そうそう死なないから、いいリターンが期待できる。
となると、一番の不良資産家族はもちろん、専業主婦(金持ちである場合を除く)である。

と言うと、「いやいや、金のない老親はどうなる?あっちのほうが不良資産だろ?」という意見が出そうだが、金のない老親は既に償却処理済みだ。
前NHKの無縁社会という番組だったか、独居老人(公団住まいの貧乏人)が死んだときに、息子に連絡がいった。そしたら、息子は葬式費用を出すのもいやらしく、「自治体のほうで、ちょちょいと処理しておいていただけませんかね」とお願いし、遺体をひきとるのを拒んだらしい。

別居している老親だからそんなお願いもできるが、一つ屋根の下に暮らす妻が死んだ場合、自治体かなんかに葬式を任せるわけにはいくまい。言い換えると、貧乏な妻のほうは不良資産として経営を圧迫してくるわけだ。

そういや、さんまが言っていたが、その女にかけた金をセックスの回数で割り、元がとれたかどうか計算するといっていたが、人間関係ってすべて金銭で置き換えられるんですね。

ていうか、人間の価値は全て金に換算できる。

というと、新自由主義に脳髄までやられているんですね、乙!といわれそうだが、昔はもっとひどかった。
昔は障碍児をぽいっと捨てたりしていたのだ。スパルタなんか戦の役にたたない障碍児が生まれたら、崖からぽいっと投げ捨てて殺していたらしい。
『わがふるさとはスラムなりき』という本では、実はいい家のぼっちゃんとおぼしき知恵おくれの男性が、スラム街の顔役にあづけられ最後は暴行を受けて死ぬという話が冒頭に出てくる。こういう例をみると、障碍児は金をくうばかりでリターンをもってこなかったからというプラクティカルな理由だけではなく、障碍児に対して「家の面汚し」的な今以上の差別的感情があったんだろう。

だから今の時代は昔より確実にいい。
今の時代必要なのは「家族の絆」なんかではない。
必要なのは金と、まともな社会的保障や制度だけだ。

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08月29日(月)

起床時刻:13時00分

『文明の生態史観はいま』(梅棹忠夫編 中公叢書 2001年)をつらつらと読む。梅棹忠夫と川勝平太の対談が二篇、そしてそのあとにその対談を読んだ四人の識者によるコメントが収録されている。

その中で「へぇ」と思ったのは「農耕民から略奪する歓び」と題する章で梅棹氏がこのように述べるところだ(P40-41)。

「梅棹:初期の東洋史学では、「遊牧民が飢えたとき、たとえば寒波襲来で家畜が死ぬと、略奪のために出撃してくるんだ」という説が多かった。いまでは、それは逆だという意見に落ち着いていますね。草原の家畜が肥え太って、遊牧民が非常に豊かになったときにドドドッと繰り出してくるんです。
<略>
おそらく新石器時代の後期だと思いますが、略奪産業というものがはじまりました。遊牧と農耕が成立したときに、遊牧民はしばしば農耕地帯を侵略して、略奪する。これはもう、こたえられんわけです。そこで繰り返しやりよる。
<略>
遊牧というものには、家畜を飼うだけではなく、農耕民を略奪するという喜びがあったんですよ」

「略奪する歓び」かぁ、そういうものはない!と私たちは思っているから歴史を見誤るんだろうなぁと思う。

歴史だけじゃない。いろんなものを見誤る。
卑近な例でいうと、カツアゲだって明日飢え死にするから、やむをえずやるというのはむしろ例外的で、濡れ手に粟の面白さからやる人が多いんだろう。
いじめだって、純粋に相手が悲しむ様子を見るのが面白いというのがあるんだろうし(だから「相手の気持ちにたってみなさい」とか「自分も同じことされたらいやでしょう」という説教はまったく無効なのだ)。

人間の中にひそむ邪悪な歓びというものを「抑圧する」ならまだしも(「それは悪魔のささやきですよ」的な説法で)、そもそも「ないものとする」(子供は本来みんな天使ですよ的な)欺瞞は、ただ欺瞞の連鎖を生み、我々の目を曇らせる。平和ボケってそういうことの謂いではなかろうか。

梅棹史観について補足しておくと、ユーラシア大陸の真ん中らへんの大乾燥地帯、そこに中国、インド、ロシア、イスラームという文明国がおこったが(そして大乾燥地帯の端っこに東西ヨーロッパ世界と東南アジアと日本が存在する)、大乾燥地帯に住む遊牧民たちの牧畜革命(オスの去勢とメスの搾乳)がその契機となったという。

この牧畜革命は農耕革命に匹敵する、人類史上の一大革命であり、ある地域でどちらの革命が出てくるかは、気候学的条件に決まる。

牧畜革命で力をつけた遊牧民達は、どどどっと農業国(中国の周とか)に侵攻してくる。これに対抗するために国家というものが生まれた、というのが梅棹史観のまず第一としてあるわけである。

まぁそれにしてもあれやね、関西弁は対談では得やね。
どぎついことも関西弁でやわらかく言われるとそれほどに感じられないからね。

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08月28日

起床時刻:13時00分

新学社の「近代浪漫派文庫」より、北原白秋と吉井勇の巻を読む。

昨日は橘曙覧の「楽しみは」で始まる『独楽吟』(52句もある)についてふれたが、吉井の『天彦』では「寂しければ」と題する歌をやたら歌っている。「寂しければ」と「続寂しければ」で計70首である。
お前、どんだけ寂しいんだよwww

詞書によると、吉井は土佐の山里にひとつの草庵を借りて「渓鬼荘」と名づけて、この庵にこもったんだとさ。
どうせすぐ出てくるくせにイチイチ名前とかつけんなwww

それはともかく、吉井は「渓鬼荘」で、寂しくなっちゃったらしい。

「寂しければ心弱くもなりにけむ空見てあるに涙落ちたり」
などと詠んでいる。

勝手に隠遁して、勝手に泣いてんじゃねーよwww
どんだけ構ってちゃんなんだよwww

こういう吉井勇系「ぼくちゃん、さびしいよ、ぐすんぐすん」より橘曙覧系「酒と煙草がありゃあ人生大満足じゃねぇか」的おっさんのほうに、私はもちろん共感する。
しかし、橘曙覧の独楽吟はそもそも歌とすらいえない三十一文字、ただのちら裏だが、吉井勇はたまに、本当にすばらしい歌をよむんだよねぇ。

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08月27日

起床時刻:10時30分

なんだか疲れがとれない。
昼はカプレーゼ、ポテサラの残り、ハムエッグ、オリーブパン。
夜はピザ+コーラ+ポテトLサイズ。

友人が橘曙覧(たちばなのあけみ)の「独楽吟」について、
「「清貧の思想」はクソだと思いますが、
この人の歌は楽しいと思いました。
「たのしみは妻子むつまじくうちつどい頭ならべて物をくふ時」
とか
「たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつづけて煙草すふとき」
とかです」
とメールに書いてきたが、なんでこいつが清貧になるのかよくわからん。
食い物と酒とタバコとエンターテインメント(本とか交友)とかが好きなただの物質主義者じゃないか。

たのしみは妻子仲良くピザハット週に一度のピザをくふ時
たのしみはネットにむかいてはかなごと眺めつづけて煙草すふとき

と別に、精神的には何にもかわんねーだろ?

だからまあ、よくわかるっちゃあよくわかるが、そこらへんにいるただの俗物じゃんか。

ま、「人生の楽しみとは物質的な享楽が主たる構成分である」と思うから、別にこの歌の「楽しさ」を否定するつもりはないが、この歌(および自分の生活に自足しきっているじいさん)には、なんの精神的な高尚さも感じないね。

清貧っていうけど、この一連の「独楽吟」の「酒」を「シャトーマルゴー」にかえて、「煙草」を「キューバ産葉巻」っていれてごらんなさい。とたんにこやつの本質が見えてくるであろう。

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08月26日(金)

起床時刻:11時15分

疲れた。
一週間、本当に疲れた。
歯医者の定期検診に行ったら、舌が荒れていますね、と言われた。
ビタミンをちゃんと摂っていますか?と聞かれたが、どうだろうか。
疲れがとれない、という感じは非常にするが。
眠気を圧してゲームをするから、コーヒーをがぶ飲みして、どうも胃かすい臓の具合が悪いような気はする。

『文学ときどき酒 丸谷才一対談集』を読む。
「倚松庵日常」と題する対談では、谷崎松子と対談している。
谷崎は松子夫人のことを、自分の原稿や日記に興味を持ったりしないのがえらいと褒めているわけだが、奥さんはこっそり読んでたんだってさ。大笑いである。

大谷崎なんていわれているが、女のことなんざ、何にもわかっちゃいないね。女のことがわかっていると思う男は、それすらも計略の一つであることをわかっちゃいない。
まぁそもそも誰かが誰かをわかるということはないのだが。

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08月25日(木)

起床時刻:08時10分

バイト。
疲労困憊。
家でだらだら本を読んでいると、罵倒される。
ゲームを手伝わない!ってね。

なんていうのか、結婚せずとも生きていけるのであれば、結婚はしないほうがいいね。

人生の墓場たる結婚も仏陀とキリストが結婚するならうまくいくだろうが、ヒットラーとスターリンが結婚してもうまくいくとは思えないだろう。
そして、我々は愛や慈悲をとく神や仏よりも残酷で欲深な独裁者に、ずっと近いのである。つまり何か気に食わないことがあると、常に自分以外の誰かが悪いと責める相手を探すような人間は結婚に向かないのである。

はりねずみとはりねずみの抱擁と同じで、近づいてもお互いを傷つけるだけで、無駄どころか有害ですらある。

これと同様に、国家間の友好関係を強めるためには、お互いのことをよく知らなくちゃいけないと、よく言われるが逆だと思う。

いいイメージを保つためには、お互いのことをよく知らないのが一番である。「自分のことをもっと知ってもらえれば、もっと好きになってもらえるはず」などというやつにろくな人間がいたためしがないのである。

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08月24日(水)

起床時刻:08時15分

昨日の『新書 沖縄読本』の続き。

沖縄は貧しい。まぁブータン的、国民幸福度的なもので計れば日本で一番豊かなのかもしれないが。
下川はP61で「貧困は悪である。貧困を一掃させなければ、次代を担う子どもたちに先送りされる」という。

びっくりである。
沖縄が甲子園で優勝したのをみて沖縄野球が変わったことに(もともと沖縄や八重山などの離島の子は気がやさしくて、リードしているとテーゲーでよかろうと気をぬいて、負けるそうな)センチメンタルな気分になっていた下川である。
貧困という悪を一掃するためには、東京・香港・シンガポール・台北がモデルとなるのだろうが、沖縄人のテーゲー気質(それが優しさ・暖かさ・ゆるさにつながっている)を一掃しなくてはならない。

テーゲーにやって富を得るのは、非常に難しい。
庭に石油がわく、とかそういうのなら別だが。
日本が豊かになったのは、勤勉、責任、誓って学び(私の小学校の校歌の歌詞の一節である)、西洋に追いつけ追い越せ精神で、がんばりにがんばったからである。
その結果疲れ果てた日本人は沖縄に「癒し」を求めたりするのである。

沖縄が貧困を悪として一掃した暁には、どこかの島に「癒し」を求めに出かけたりするのかもしれない。

まぁとはいえ、沖縄が豊かになるためにはやはりなんといっても教育だろうと思う。
テーゲー主義というが、沖縄は本気出せば、甲子園で優勝するくらい気合が入っている土地柄なのである。
本気だせば、学力日本一になってもおかしくない。
しかし、日本と同じ教育ではつまらないと私は思う。

土地柄をいかして、英語・中国語を公用語(レベル)にし、子供から大人までトリリンガルになることを目指す。教育はシンガポールを手本にしたらいいだろう。トップレベルのエリート群を除き、実践的な授業、職業教育を目指す。成績のいい子を表彰する。飛び級を認める。

日本の「みんなで一歩」的な教育とは縁を切り、教育にも競争を導入する。
税制も金持ち優遇の企業優遇にして、税収アップと企業誘致を狙う。

豊かになるにはねじり鉢巻でがんばるしかない。
そして不合理なことに、ねじり鉢巻をしてがんばっても、全く報われない結果に陥ることもよくある。
テーゲーに遊んでのらくらやってる人のほうが幸せそうに見えることもある。
楽して儲けてそうな人が(軍用地主など)ごろごろいる。

しかし、世の中、不公平かつ不合理なもんなのである。
そのことは沖縄人が一番、身にしみてわかっていることであろう。
だから「あなた任せの神任せ」になる気持ちもわかる。
神様に最終責任を負わせることができるから、ウチナーンチュはヤマトンチュにも優しいんだろう。
そうでなかったら、韓国並みの反日感情がおこってもおかしくはない。
そのくらいのことを日本は沖縄にしてきたのだから。

まぁ私たちは沖縄のテーゲー主義を愛しているわけだが、それでは物質的に豊かになれない。金を稼ぐためには、ねじり鉢巻で、赤め吊って、臥薪嘗胆でがんばらなくちゃいけない。

それで幸福なのか?
今までの下川ならノーといったろう。
しかし、年なのかしらんが、現実に気づいたのだろう。
現実では、物質的豊かさはいつだって精神的豊かさを上回る価値を持つのである。

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08月23日(火)

起床時刻:08時10分

『新書 沖縄読本』(下川裕治+仲村清司 著・編/講談社現代新書/2011年2月)を読む。
下川裕治っていうんで、全然期待していなかったんだけど、予想外によかった。

沖縄の抱える深刻な問題-急増する生活習慣病患者と長寿県からの転落、ハンパない貧困、借金苦、自殺の増加、全国トップレベルの学歴の低さ、一方で年収1000万を超える軍用地主が10人に一人、基地問題のアメとムチ政策、アメの補助金付けによる依存体質、公共事業の土建業が経済の屋台骨ですすむ乱開発ーそういったものがパーソナルな語り口で明らかにされる。

また薩摩と日本にフルボッコにされてきた沖縄の歴史は我々も知っているが琉球王国のやってきた壮絶な離島(八重山・宮古)支配(とんでもない高い税率、腐敗した役人たち)もあわせて記載されている目配りがいい。

沖縄人のあたたかくてやさしい性格(司馬遼太郎によると、鉄の伝来が遅かったせいであるそうな)からは想像もつかないことであるが、しかしまぁ、驚くには値しないと思う自分もいる。

というのも、沖縄人だろうが、ニューギニア人だろうが、日本人だろうが、中国人だろうが、アメリカ人だろうが、ヨーロッパ人だろうが、どんな人間も、人間というのは、知性を持ち、感情を持ち、そして欲を持つ。

人類はいろんな点で異なっているが、欲深いという点では未開から文明人にいたるまで、子供から大人にいたるまで、多少の程度は違えど、一律に同じである。

人類皆兄弟という言葉は「欲深い」という共通項にだけあてはまると思われる。

だから沖縄人がクレクレ体質だというのも、別に、沖縄の宗教がどうの(下川は沖縄が極端に神頼みの現世利益体質であることも関連があると見ている)、というわけではなかろう。
「物くいいしどぅ我が主人(うしゅ)」(物くれる人こそ自分の主人である)という沖縄の古い諺を紹介して、「沖縄人はやはり利益というものに過剰に反応する気質を有しているといえるのではないか」というが、よき友の条件として一番最初に「ものくるる友」をあげた吉田兼好はどうなるんだとか、それを言うなら利益というものに過剰に反応するのはむしろ関西人じゃないかとかいえそうである。
(支配ー被支配という関係性ではなく、友達という損得抜きの関係であるべきところに「ものくるる」だとかいうところがハンパないんである)

一ついえるのは、誰しも、ああいう状況になれば、たいていはクレクレになるのが当然である。
そもそもなんでクレクレといってはいけないのか?という問題もある。

話はとぶが、MMOをやっていると、外人プレイヤーは臆面もなく、初対面の人に「クレクレ」とよく言ってくる。日本人は言わない。
この違いはいったい何だろうね。

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08月22日(月)

起床時刻:09時50分

『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作・栗栖継訳/岩波文庫)読了。

面白かった。
メッセージ性(風刺)の強い作品ながらウィットに富み、実にentertainingな小説に仕上がっている。

ディストピアを描いたSF小説だとは思わない。

経済的利益を金科玉条として山椒魚を利用した人間たちの姿は、原発を利用している我々の姿に重なる。

「ぼくは口を酸っぱくして説いた-<略>みんな、そうするわけにはいかない、という至極もっともな経済上・政治上の反対理由を、それこそ、ゴマンと持っていたよ。<略>
おそらく、世界は沈むだろう。海の底になるだろう。だが、少なくともそれは、一般に認められた政治的・経済的理由からだ。少なくとも科学・技術・世論の助けを借り、人類の英知を総動員したあげく、そういうことになるのだ!天災なんてものじゃ、絶対にない。国家・権力政治・経済その他の理由によるにすぎないんだよ」

原発をとめられない。
とめれば経済上・政治上の大きな利益を逸する。
原発をとめることの損害は計算可能だが、原発による未来の損害の可能性は計算できるものではない。予測不可能である。

であるならば、今のこの利益を継続享受し、拡大していくのが得策ではないか。
人間というのは、必ず、このように考えるものなのだ。
その理由の一つ目は、我々は神様ではないから短期的視野しか持てないということ。どうしようもなく無知であるから、選択を間違える。
二つ目は、人間の欲には際限がないということ。
お腹がいっぱいになっても飢餓感が癒されず、ついには他人の食事にまで手をつけ、その結果、胃腸の働きが間に合わず、お腹を下してしまう人を見たら誰もが軽蔑するだろう。
しかし、実際のところ、私たちの欲望は、生理的欲求以外は、たいていこのようなグロテスクな形をしている。

私が漫画やラノベの「世界征服モノ」が嫌いなのは、こういう経済的視点が往々にして欠けているからだ。
「俺様が一番強いのだ。俺様にひざまづけ。ふはーははは」などという、「力を見せ付ける」ために世界を征服するものなどいない。
自分達の思想信条を広めるためでもない。
たいていは経済的理由だ。
金を産出する土地があれば、奪ってやれ。
そこに住んでいる人がどれほど傷つこうが、金のほうが大事である。
金を簡単に産出する機会があればつくってやれ。
それが将来的にどれほど人類に負担をかけようが、金のほうが大事である。

これが人間の行動原理なんだよ。
漫画やゲーム、ラノベの悪役なんて実際には存在しない。
本物の悪役は、悪であることさえ無自覚であり、「人類の繁栄に寄与している」と堂々と思っているもんなのである。

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08月21日

起床時刻:12時50分

ゲーム。
祝・イスゲビントの心臓が75個集まる。
高級そうな焼き鳥屋にて祝うが、近所の焼き鳥屋のほうがうまい。

ポーの短編集を読む。
「黒猫」を今読むと、典型的なDV男の話で、そっちのほうが気になってしまう。

『我輩は猫である』も昔は面白おかしく読んだものだが、今読み返すと、苦沙弥のヤローが仮病をつかって奥さんが楽しみにしていた芝居をふいにしたりするところなどちっとも笑えん。それに金田夫人のでかい鼻に対する攻撃も、今だったら作者ブログが炎上するレベル。確かにいやな成金夫人だが、しかし、だからといって肉体的欠点を、大の大人がよってたかって、あれやこれやとあげつらうことでもなかろう。

最近の笑いは程度が低い、芸人など芸はないなどとしたり顔でいうやつが多いが、なに、漱石の出世作たるユーモア小説も相当程度が低い笑いもまじっているのである。今の芸人、サンドイッチマンやアンタッチャブル、ラバーガール(の傑作なやつ)は、文化として残すべきレベルのものがいっぱいある。

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08月20日

起床時刻:13時30分

会社で購読している「an・an」(実に品下れる雑誌である)をぱらぱらとめくったら、巻頭エッセイが村上春樹である。
あれはキョンキョンとか林真理子とかユーミンとかが書くものだと思っていたからびっくりである。
まぁそれはともかく、いつの号だったか記憶にないが、村上春樹は太宰治が苦手なんだそうな。で、ずーっと苦手だったのだが、オーディオ・テープで聞くと、不思議と抵抗がない。よかったよかった、という話なのだが、なんでそこまでして太宰治を読もうとするのか、よくわからん。苦手なら読まなきゃいいじゃないか。もっと読むべき作家がいるだろうに。

と書いておいてなんだが、私は太宰治が大好きである。
でもまぁ、村上春樹が太宰が苦手なのもなんとなくわかる。

太宰はなんか意味もなく悩んでいるでしょう。
一方、春樹は基本、悩まないでしょう。

太宰はなんかいつも寂しがっている感じでしょう。
一方、春樹はだいたい寂しがっていないでしょう。
(なぜなら、「僕」の周りにはいつも女の子がいるからである。
実際のところ、太宰のほうが春樹よりよほどいい男だし、もてたろうとおもうんだが)。

まぁそういうしみったれたテーマであろうが、文だろうが、太宰の作品には不思議なおかしさが漂っているでしょう。普通に笑える。
一方で春樹のユーモアは(そういうものがあるとして)、本人だけ受けているアメリカン・ジョークみたいなところあるでしょう。

ところで思ったんだけど、日本文学は太宰的悩むタイプと春樹的悩まないタイプの系統があるように思う。

そしてだいたい、悩んだ!悩んだ!と大騒ぎしてバカ正直に書くのが、芸術だと思われている節も昔はあったわけだ。丸谷才一なんか、こういう「悩んでいる俺かっくいい」文学観撲滅にめっちゃ闘志を燃やしてきたわけだが、そのおかげで、そういう文学観とか小説はダサいというのが主流になってきたわけだ。そのことは喜ばしいが、私は結構悩むタイプだから、悩んだ!悩んだ!と大騒ぎしているバカも好きである。

一方、春樹のほうは悩まないからかっこよくて、そこに痺れるあこがれるぅだけど、「この人、演歌とかきかないんだろうな」という隔たり感は感じるわけだ。春樹なんか演歌を聞いても「やれやれ」としかいわなそうだぜ。

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08月19日(金)

起床時刻:12時15分

08月18日(木)

起床時刻:08時00分

08月17日(水)

起床時刻:11時45分

08月16日(火)

起床時刻:08時10分

08月15日(月)

起床時刻:12時15分

プレステ3の、Heavy Rain。
追加ディスクをダウンロードしたっつーんで、久しぶりにやった。
5種類のエンディング、全部見た。

内容、うすっ!!
しかも本篇との関連ゼロ!!

本篇で主人公が何故手に折り紙を持っていたのかーその真相を解明してくれるんだと思っていたら、恐怖の館に入って脱出するだけのミニゲームじゃんかよ!!

本篇が結構楽しめただけに、かなりながっかり砲だ。

というわけで気をとりなおして、シュタゲの続きをやる。
まだ見ていなかったクリスエンドとトゥルーエンド。

結論をいうと、すごく面白い。

小説とはちがったノベルゲーのよさ(幾通りもの分岐があって、それぞれ楽しめる。つまり一粒で二度どころか五度くらいおいしい)が十分味わえるのもそうだが、トゥルーエンドの一本道を小説にしても、かなり面白いものになっただろう。凡百の小説を読むより、このゲームをやることをすすめたい。

もちろん、細かいことを言い出せば色々気になる点はあるのだが、そういう細けぇことを超えて、シュタインズゲートの世界にぐいぐい惹きこんでいく。

いやあ、すごい。
面白い。

「だって俺たち仲間だろ!!」系統のアニメや漫画やゲームが嫌いな私にして、この感想である。
全部プレイし終わった後はちょっとした虚脱感に襲われるくらいである。

そしてダルは本当にいい子だと思った。
めんどくさい岡部(マッドサイエンティストになったり、真面目になったり、泣き出したり。しかも説明はなし)に黙ってついていってあげるダルは本当にいい子である。まゆりもそうだが、まゆりは特別な関係である。一方、ダルはただの友達だ。

岡部は友達でもありラボメンでもあるダルにあんまり相談しない。相談せずに勝手に決める。
勝手にセルンにハッキングすると決め、勝手にやっぱやめるといい、勝手にやっぱやるという。
そんな岡部に振り回されながらも、深く追求することもなく、言うことを素直に聞いているダル君は本当にいい子だ。普通なら自分をないがしろにされたとふてくされて、へそを曲げるぞ。

だからこそ、政治家が一つのことを決めるにも、あちこちにお伺いをたて、あちこちに根回ししているのだよ。誰でも「自分のことを認めてほしい」という気持ちが友達や国家を思う気持ちよりもずっと強いから「あなたのことを認めてますよ」アッピルしないと、すねてしまう人が続出しまう。そういう世の多くの人たちには、友情がこわれようと、国家がガタガタになろうと、関係ない。「なぜ俺に聞かない?!なぜ俺に相談しない?!信用していないのか?!俺達、盟友だろ!!」という小さなプライドが人を支配している。

しかるに、「人不知而不慍、不亦君子乎」を実践しているのがダル君である。ダル君こそが君子である!HENTAIはHENTAIでも変態君子であるよ、ダル君は。

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08月14日

起床時刻:12時30分

日曜の13:00からTBSでやっている、オジサンのオジサンによるオジサンのための番組「噂の東京マガジン」を昼ご飯を食べながら何気なくみてむかつく。
「やってTRY」というコーナーがある。どうせやらせだろうとは思うが、料理ができない若い女性に料理をさせたり、ことわざを聞いたりして、その無知さかげんをあきれつつ嗤うコーナーなのだが、この日は「お習字・ことわざ」編だった。

有名なことわざの一部を空白にして正しい答えをあてさせるというもの。
「○○は身を助く」の「芸」に対しては「浮き輪」と答えた女性がいたり、「○○は口に苦し」の「良薬」に対しては「ゴーヤ」と答えた女性がいたり。
「バカだねぇ、最近の若い子は」と苦笑しつつバカにできて、おやじどもは嬉しくて仕方ないんだろうが、このおやじどものちっちぇ自己満足がきもくて仕方ない。

番組に出演しているおやじども、スタッフどもを集めて、パワポで資料つくらせてみろや。エクセルの関数でも使わせて見ろや。英語でEメールでも書かせてみろや。

こっちが嗤ってやるぜ。

馬齢を重ねたことでつまらん諺を知っていることがそんなにえらいのか?
私がそこにいたなら、逆にスタッフに質問しちゃるぜ。
「○に対して○を弾ず」の○に適切な語を入れよってね。

そう、対牛弾琴、「牛に対して琴を弾ず」=牛に琴を弾いて聴かせる無駄な行為のことつまり、愚かな人に道理や理屈を説いても意味のないという言葉だ。テレビ人のごとき尸位素餐の輩に道理をきかせても無駄なことだとは思うが、ちょいと言ってやりたい。

人を馬鹿にするより先にまず己をかえりみよ。
おっさんが好きそうな言葉でいえば、脚下照顧せよ。

俗諺を知っていたからといって、どれほどのものだというのか?
知らぬ者を見下す心根のほうがいかに恥ずかしく愚かであることか。
自分の無知を知っている者は他人の無知を嗤うこともない。
そうだろう?

とまぁ、自戒をこめて書いておく。

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08月13日

起床時刻:12時30分

「韓流ゴリ押し」問題(という言葉でいいのかわからんが)の言説ついては、もちろん、ほとんど拾えていないのだが、偶然目にした、下のブログの記事が私の気持ちに近い。

http://hirokijourney.blog35.fc2.com/blog-entry-533.html
メモがわりにリンクをはっておく。

*************
私はというと、この一連の騒動を聞いたとき、高永喆(コウ・ヨンチョル 韓国の軍人/北朝鮮情報の専門家)の発言を思い出した。

「高:スパイは「ホワイト」と「ブラック」に大別されます。<略>ホワイトの役割は主に情報収集と任地でのロビー活動です。たとえば相手国の政治家に資金を提供して取り込み、自国に有利な政策を展開させるというような行動を行っています」

2ch脳乙!といいたいところだが、彼は韓国海軍の特殊部隊にて指揮官、士官学校教官などを務めた後、1989年、国防省海外情報部に異動になり、軍事情報収集・情報分析を担当する北朝鮮担当官、日本担当官を務めた人である(1993年、金泳三が大統領になり、この時の政変に巻き込まれた結果、日本のスパイ容疑で逮捕・投獄され除隊する。以上、wikiより)。

(ちなみに上記の発言は『国家情報戦略』(佐藤優・高 永喆/講談社+α新書/2007)P101より。
脱線するけどこの本で、高氏は「高句麗の領土だった中国の東北三省地域である吉林省、黒龍江省、遼寧省には朝鮮族自治州があって、今も朝鮮語と朝鮮民族の伝統文化がそのまま残っています。<略>将来、韓半島が統一された場合、統一韓国は必ず、中国側に領土返還を要求すべきです」だって。まじで?!。中国の東北三省って、韓国にとっての北方領土なわけ?
じゃあさあ、竹島じゃなくてそっち先にやってよぉ、竹島なんか刺身のつまの、そのまたつまじゃんか)

話を戻すと、韓流ブームもホワイトスパイ(こういう言葉で呼ぶから、あやしいのであって、普通に「日韓友好大使」とでもいえば、日本でも拍手で受け入れられるだろう)が活躍して、ブームをしかけたと考えるのが普通だろう。

業界人だって言っているじゃないか。
ブームというのはつくるもの。
そのブームをつくったことで、どこかが得をする。

世の中、やらせに満ちているんだよ。
実力とか真価とか、関係ない。
なぜなら、世の中の大多数は、ものの価値なんて、何にもわかんねぇからだ。具眼の士なんてめったにいないんだ。これが流行していますよ、これが売れていますよ、これが一流なんですよという文句でしか価値を判断できない愚かな民衆。

だから芭蕉もいってる。
「天下の人にかなえる事はやすし、一人二人にかなえる事はかたし」
と。つまり、世の中の一般大衆受けする句をつくるのは簡単だが、一人二人しかいない具眼の士に認められる句をつくるのは難しいとね。

(もちろん、韓流がすべて二流のゴリ押しというわけではない。しかしこれだけの騒動になったのは、判断力ゼロの哀れな日本人でさえ、「これが売れてるって本当?」と気づかせるレベルの韓流も紛れ込んでいたということだ。そして判断力ゼロの哀れな日本人でさえ怪しむレベルのへたくそな押し売りを、金に目がくらんだフジがやったということだろう)

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08月12日(金)

起床時刻:12時44分

昨日もちらっと引用したが、『墨子よみがえる』(半藤一利・平凡社新書)に学校秀才型が国に破滅をもたらす例として「趙括談兵」という言葉が出てくる。

学校秀才型の息子、趙括を将軍にしてはいけないと名将の親父さんが王に訴えるが、お父さんの死後、息子は将軍になり、ぼろくそに負けてしまった話である。『史記』に書かれている親父のセガレ評が的を射ている、と半藤センセイはいう。

「そもそも戦は命がけの戦いの場だ。だが、セガレの兵法は口先だけのもの。万一、総大将にでもなれば、かならずや軍を破滅させてしまうだろう」

そして半藤翁は
「あに史記の趙括のみならんや。太平洋戦争においても、陸軍大学校や海軍大学校を優等卒業のエリート参謀たちにそのままいえる。
<略>
この話なにも戦争ばかりではない。政治でもそのとおり、会社経営でもそのとおり。入社試験を目を見張るほどのいい成績で通過し、これぞ人材中の人材と期待されたものが、まったく使いものにならないヤツであった体験を、わたくしもサラリーマン時代にたびたびした。またそんなのに限ってひどいノイローゼになる」(P65)

私は趙括系の学校秀才タイプは女に多いと書いたが、男も似たり寄ったりであるなぁ。それどころか現代日本において、男は女以下、つまり女は趙括であるが、男はできそこないの趙括であるという説もよく聞く。
カンサンジュン(漢字出ねぇ)が言っていたが、大学でも女性のほうが優秀なんだそうだ。

しかし、私はこの「優秀」ってのが曲者だと思っている。
まぁカンサンジュンはバカだからわからんのか誰かに媚を売っているのかしらんけど。
紙上に兵を談ずることなら、口がまめまめしい女のほうが上かもしれない。兵法を暗記することなら女のほうが上かもしれない。

しかしそんなことは真の優秀さとは関係しない。
点取り競争なんかとは一切関係ない。

陸軍の話でいえば、永田鉄山クラスの天才を優秀というのだ。東條英機クラスの凡才(何しろ、夫人との二人三脚でこつこつ毎日勉強し、三度目の受験でやっと陸大に合格したらしい)だったら、女でも彼より上の人がごろごろいるかもしれない。だけれど、凡才の中の点取り競争などはどうでもいいことだ。そして私が思うに、永田のような傑物は女からはまず出てこないんだよね(私の偏見だったらよいが)。

それはともかく、あっちこっちで、人材がいないの大合唱が聞こえる。
政界などは、特にひどいらしい。
アメリカの雑誌で日本の国会はイラクやアフガン並みと書かれていたそうだ。まともに機能していない、ということだろう。

政界を見渡せば、右も左も凡才ばかり、ただの凡才ならまだしも、自己顕示欲の異常に強い凡才だから、害悪を撒き散らしまくっている、というのがこの国の現状だろう。

しかし、私のパート先にも、ものすごく優秀な人はいる。
問題はそういう人は謙虚で「私が私が」タイプじゃないことだ。

中国古代の聖帝、舜は普通に畑を耕したり陶器をつくったり魚をとったりして暮らしていたのを、名君尭帝が見出して政治をさせてみたのである。
(と墨子に書いてある。それ以外にもそういう例が列挙されている)

「尭帝さ~ん、うちの近くにもすごい人いまっせ~!」
といいたいよ。

はーあ。

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08月11日(木)

起床時刻:08時00分

西川司『連鎖告発』に東大卒の女のキャリア警察官僚が出てくる。
男のほうは私大卒のノンキャリで年齢も場数もふんでおり、現場では青木より有能だが、階級は下だ。

『ぼくらの頭脳の鍛え方』(立花隆・佐藤優)にテストの点数だけで採用すると、企業も外交官も女だらけになる、という話が書いてあった。

「佐藤:女性の外交官って結構、大変なんですよ。入省するときの成績は抜群にいいんです。ところが十年経って、使いものになる人がほとんどいない。
立花:似たような現象は、あらゆる企業で聞きますよ。雇用機会均等法以降、女性総合職を採用するようになった。ところが、就職試験で男女を同じ基準で採点すると女の方がはるかに高い点数を取ってしまう。男にゲタを履かせないと合格させられない。
<略>
だからもし点数だけで採用すると女性ばかりになってしまう。でもそれだとかえってうまくいかないことがあります。試験には反映しない男の能力があって、採用して何年か経つとそれが表に出てくる」(P166)

小倉千加子が読んだら、男女差別の現行犯、タイーホ!ってなるところだろう。

私はそうは思わない。
テストなんか無意味だと思っているからだ。

私自身、国Ⅰや都庁Ⅰ類には受かった。
(国Ⅰは一次合格後の人事院の面接のときに「官公庁から内定をもらってますか?」と聞かれて「もらってません」と素直に答えて落ちたがな。だいたい、試験も通ってないのに、先に官庁訪問で内定とってくるとかフライングじゃねぇか。変な話だよ。まぁしかしこういう現実に臨機応変に対応できないことからして私はダメなんであるが)

私みたいな使えないやつでも、過去問を何回かやるくらいで筆記試験には通るのである。しかし十年後、二十年後に「つかえる人間」ではないことは私が一番よくわかっている。

「そんな使えない女はお前だけだろw」といわれそうだが、さにあらず。私がみたところ、勝ち組女性として進軍ラッパの勝間和代も、私と似たりよったりの学校秀才型で、仕事はできない人間だと推測する。

というのも、上述の本で佐藤優が勝間は「マッキンゼーにいたとき、クライアントと関係がこじれて何度も自殺しようと思ったそうです」と言っているからだ。自殺という、クライアントにとっても、会社にとっても迷惑をかけるだけの最悪の解を導く時点で、どうしようもなく使えない人材なのである。

勝間のようにテストの点数はいいんだけど、実際の仕事となると「おたおた」「あたふた」のタイプが多いのはなぜか(女に多い気がする。私もそうだ)。

勉強は一人で自分のペースですすめられるが、仕事は協調性が必要であり、上司やクライアントの都合を優先させなくちゃいけないことも多々ある。そういうパワーバランスを見極め、自分の仕事をうまく舵取りして、思う方向にもっていくには、すごくタフな精神力が必要だ。
もちろん、ここぞというときには連日の徹夜もいとわないような肉体的なタフさもね。私は大学時代も夜10時には寝る虚弱タイプ(グータラとも言う)だったので、働くこと自体がすごく疲れた。

つまり精神的・肉体的「タフネス」が仕事では一番大事だと私は思っている。

その次に「人間的魅力(控えめにいえば人柄)」。自殺したくなるほどクライアントとの関係がこじれた勝間には、おそらくこれがなかったんだろう。
なぜか営業成績がいい人。なぜか味方が多い人。そういう人はやはり強い。

そして最後に「地頭のよさ」ね。
「地頭のよさ」というのは、例えば、あるプランAを上司も同僚も「いいね、いいねやりましょう」とノリノリになっているときに、その問題点をほかの人の面目をつぶさない形で指摘できる冷静さと頭のよさであり、その対策までやってのけちゃう用意周到さと段取り力だ。

ただの学校秀才というのは、「答(プランA)をきちんと遂行し、上司にほめられること」しか頭にないから、Aの陥穽などには気づかない。もし気づいてもパニックになるだけで、「私のせいじゃない」ということを証明することに労力を使う。

女に多いが、実はたいていの男もこんな感じである。
はっきりいって多くの男は女とたいしてかわらないレベルだが(女のほうが優秀な場合もよくある)、ほんの一握りの男だけが超越し、全体の利益を考えて行動できる。

私はときどき思うのだが、日本に黒船がきて明治の開国をしたときに、維新という形で対応し植民地化を免れたのは、日本に科挙がなかったからではなかろうか。

科挙というのは究極の学校秀才を見出す試験である。いくら知識があっても応用力がなければ新しい現実に対応できない(付け加えておくと、清にも地頭のいい、すばらしく優秀な官僚はいたはずだ。だが、先見の明などこれっぽっちもない、点取り虫の自己保身型官僚につぶされていったのだと思う。太平洋戦争へとつながる前の日本の陸軍のようにね)

見たこともない、聞いたこともない、西洋列強の独善的論理に対峙していくには、地頭で勝負するしかない。

そういえば、坂本龍馬はろくに本を読まなかった。
(「龍馬がおよそ本を読まない男であることは史実をさぐれば一目瞭然である。漢籍の素養はこれっぽっちもない」と半藤一利センセイも『墨子よみがえる』にお書きになっているではないか)

龍馬というのは私の考える仕事のできる人の三要素を満たしている。
・精神的・肉体的「タフさ」
・「人間的魅力(控えめにいえば人柄)」
・「地頭のよさ」
ね?

テストの点数なんかで、測れるものじゃあないんだよ。

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08月10日(水)

起床時刻:11時30分

友人が「読んで感想を聞かせて」と貸してくれた本(『連鎖告発 警視庁機動捜査隊』西川司著・徳間書店)について、友人にメールで感想を知らせる。

私がこの作家にアドバイスするとしたら、食べ物の描写をもっとうまくしたらいいってことだな。
売れる小説っていうのはうまそうな食べ物を書いているんだよ。江國香織しかり、村上春樹しかり、池波正太郎しかり。赤城もさぁせっかく居酒屋に入ったのに、ビールとハイボールしか飲んでねぇ。せめてハイボールの描写でもいれておけばいいものを。
一方で、P170-のファミレスのドリンク・バーの描写はムダになげぇ。そこは三行くらいでいいんだよw。

私は結構赤城(主人公)は好きなんだけど、東大卒のキャリア警察官にして超絶美人の青木がなぁ。全然魅力感じない。女だからですね、わかります。
っていうことで、青木を男にしてくれたらいんだよ。
東大卒のキャリアでツンツン高飛車美人の青木くんと、ノンキャリながら地頭がよくて、どっしりかまえたイケメン先輩赤城。やや横暴。

がぜん、やる気でてきたお!ってやつじゃないか。

お手並み拝見くらいの気持ちで赤城と組んだ青木が、赤城に何度も助けられ、また普段は厳しい赤城の被害者遺族によせる優しい気持ちを見るにつけ、心から尊敬していく。
赤城のほうは最初は青木をけむたがる部分もあったが、青木の警察官としてのまじめさ、熱心さをみとめ、そのうち少しづつ、打ち解けていく。

いいじゃん、いいじゃんw。
べ、別に腐ってなんかないからねっ。

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08月09日(火)

起床時刻:08時30分

シュタゲでやっとまゆりエンディング。
泣きすぎて瞼が腫れてしまった件。

まぁ私だったら、自分が将来、「ありとあらゆる拷問を受けてボロボロになって殺される」α世界線の未来より、クリスが殺されてもβ世界線を選ぶけどな。迷いは一秒もないな(萌郁のところからすぐにDメールしてしまうと、天王寺ナエのネタばれ部分がみられない)。

だって、拷問だよ!蟹工船の小林多喜二以上の拷問だよ!
ありえねぇ。
絶対にやだ。
そしてそんな目にあう可能性は当然岡部一人じゃないだろう。セルンのレジスタンスも見せしめで同じような目にあう可能性はある。
となると、α世界線を選ぶのは人道に対する罪ってことになるじゃん?

まぁ基本的に岡部は「世界」はどうでもよくて(実際にそういっているし)、「仲間」問題にすべてを還元しているから、迷いに迷って苦しむんだけどね。

思うんだけど、日本の漫画っていうのは世界の問題をだいたいなんでも個人の問題に還元するよね。で、だいたい個人の問題が世界の問題よりも優先されるよね。「大きな物語」の完全敗北だよなぁ。田邊元的「歴史的現実」(個人の生命は有限であるが、大義のために死ねば永遠になる)も完全に過去のものだ。
大義のためには誰も死なない。個人のために死ぬ。
クリスはまゆり(ともちろん、岡部のため)に死を選ぶ。セルンの暴走をとめるという大義のためではないだろう。
そもそも、まゆりも岡部もクリスもセルンの悪事をあばき、人類の未来の公正のために尽くそうという意識はまったくない。だからこそ、セルンの秘密をどこに公表するでもなく(そんなことしたら命を狙われて、大切な人を危険にさらすから)、証拠を隠滅する。
未来からきた鈴羽だけが、セルン打倒というイデオロギーのために生きている。

魔法少女まどか・マギカでもまどかは最後、ある意味自分の命を捨てて他人のために生きるのだが、それはワルプルギスの夜をとめるという大義ではなくて、一人ひとりの魔法少女たちのためである。

「大義のために死ぬ」というのは、かくも不人気なのである。そして面白いのは、たいてい悪役というのは大義のために生きているのだ。大義のためには多少の悪事もやむをえないというのが悪役の悪役たるゆえんである。
すぐには思いつかないけどw「大義のためには多少の犠牲は仕方のないことだ」的なせりふは悪役の定番だよね。それに対して「仲間」という個人を優先するのが、善玉なんである。

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08月08日(月)

起床時刻:12時30分

友人と茶をしばく。
ライターさんだというのに、半藤一利を知らない……だと……?!
びびびびっくりだよ。

田辺聖子の杉田久女の生涯を書いた小説、『花衣脱ぐやまつわる…』を読むと、高浜虚子が嫌いになるって言ったら、杉田久女を知らない……だと……?!

なななな、なんだってぇーーー!!!!
「谺して山ほととぎすほしいまゝ」
「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」
「朝顏や濁りそめたる市の空」
とか知ってるでしょお、JK!!!
って言ったら、知らないって。最初の二つは国語の教科書にも出てただろうが。

豊臣秀吉の辞世の句の話になったら、それも知らないという。

さては教育をエチオピアかどこかで受けて、日本の一般レベルの知識がないかわりにエチオピアの歴史に詳しくなったんだよな?

と思うだろうけど、そんなこともない。
普通に語学もできない。
いやぁ、驚く。

彼女は別にゆとり世代ではなくて、私より一つ下の団塊ジュニア世代。
中卒というわけでもなくて、大卒である。

大学なんてねぇ、私もそうだが、本当に金の無駄、時間の無駄だったよ。
今だったら、即やめていたな。

大学時代ネトゲしかしていない、時間の無駄だったと嘆く人がいるけど、安心しろ。たいていの人(特に文系)にとって大学は、ネトゲやってるのと変わらないレベルのただの無駄だから。

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08月07日

起床時刻:12時45分

シュタゲを朝の5:30くらいまでプレイしていた。
一週目は鈴羽エンディングであった。

「一週目でそうなるぅ?」と夫に言われた。
鈴羽も大事、まゆりも大事、というわけでおろおろしていたら、なんだか変なことになってしまったのである。

優柔不断な性格のせいである。

二週目はるかエンディングになった。
るか子がかわいくて好きなので、これまた「るか子も大事、まゆりも大事」とおろおろしていたら、こんなことになってしまったのである。

これまた、優柔不断な性格のせいである。

男だったら私、二股かけるタイプであるとみた。

るかエンディングは「背徳の再生のエンディング」とかいうタイトルだったと思うが、夏目漱石の『門』を思い出したよw。
岡部とるか子は『門』カップルみたいになるんじゃないかと。
あの夫婦も友情よりも恋愛を優先して、後ろ暗くいきてんだよね。
まぁ『門』のほうは親友の奥さんを奪っただけなんで、まゆりを見殺しにして、るかをとったシュタゲの重さには全然かなわないんだけどね。

私、だいたい、あの主人公の男(『門』のほう。岡部じゃない)がなんでそこまでうじうじするか、理解不能なんだよね。オアシズの大久保さんだって、学生時代だったか、相方の光浦が好きだった人とできちゃったらしいけど、あんなにあっけらかんとしているじゃないですか。番組で光浦にばらされて、みんなに「ひっど~~~い」とブーイングあびた大久保さんは「あの頃、性欲が異常に強かったから(はぁと」みたいなことを言っていたが、『門』も「あの頃、僕らは性欲が異常に強かったね(はぁと」でいいじゃんなぁ?
盛りがついていたんだよ。
友情よりも性欲をとっちゃったんだよ。
大久保さんは性欲をしずめるために、めっちゃプールで泳いでいたらしいが、『門』の主人公はプールで泳がずに仏門をたたく(だから『門』というタイトルなんでしょう。大久保さんだったら『プール』というタイトルになったわなぁ)。

ま、『門』のほうは別に性欲をしずめるために座禅をしにいったのではないと思うけどw。

思うんだけど、座禅よりも泳ぐほうがいいんじゃないかねぇ。体も鍛えられて。なんか『門』の主人公の男は虚弱っぽかったし。

とか、全然関係ない話を思い出しつつ、シュタゲのるかエンディングを見ていた。幸せになれるのかなぁと不安になりつつ。最後のスチ絵で「よかったなぁ」となごんだけど(ベイビー誕生)、ちょっと待ったぁ、セルンはどうしたんやぁ!タイムリープ・マシンはどうしたんやぁ!

まゆりが死ぬよりもクリスやダル、岡部がSERNに拉致られるほうが世界史的には重要なことじゃん?つまりまゆりが死ぬことがα世界線において、運命論的に不可避なら、それ以上に岡部らの拉致は不可避じゃん。

結局α世界線からずれられなかったんだから、岡部ら三人がセルンにとらわれることも確定的に明らかじゃん?

これはなんだ、岡部がテロリストになる未来と変わらない(まぁダイバージェンス・メーターがフェイリスのDメール取り消しによって少し変わったから、枝葉末節においては異なるかもしれないが、大筋はかわらん)。ダルが死ぬことも確定的に明らかってやつか。

こりゃあ、『門』より暗くなるぜ!

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08月06日

起床時刻:12時20分

一日中ゲーム。
という書き出しを何度書いたことやらw。

今日やっていたのはFF11ではなく、シュタインズ・ゲート(ノベルゲー)だが。うちの旦那って私が本を読んでいると怒るんだけど、ゲームだったらどれだけやっていたも怒らないんだよね。
まぁシュタゲはそもそも旦那がすすめてきたんだけどさ。

旦那の場合、アニメ見る→面白くて元ネタのゲームに興味が出る→アマゾンで超好評価→購入する→感動して泣くだったらしい。

用語解説が細かいw。
科学用語よりも2ch語の解説のほうが多そうだぜw。

それはともかく、おばさん的にしみじみしたのが、登場人物が全員平成生まれな件。

あと不思議なのは、このゲームにおける父と娘のつながりの強さ(パパ、大好き!)。そしてお母さん空気すぎw。

まず、牧瀬クリスの父親への思慕と葛藤(母親空気)。
フェイリスの父親への強い思慕(母親完全空気。死んだにしても空気すぎる)。
るかの場合は仲良しも父娘(じゃなかった息子だ)で、父親はキャラ絵つきで登場するが、母親は登場しない。
鈴羽も父親探しに現代にきているし、父親の遺志のために行動している(母親空気)。
ミスター・ブラウンにしても溺愛する娘と二人暮らし(母親完全空気)。

ただまゆりの場合、両親共働きで完全空気、おばあちゃんっ子だったという設定。

つまりこのゲームでは娘→父親の結びつきが強い(まゆりだけ、「おばあちゃん」だけど)。
それも「父の娘」タイプが多い。
父と同じ物理学者になり、父を超えていくクリス、地主の父のあとを引き継ぎ、子供から都市計画会議に加わる(笑)フェイリス、父の遺志を引き継ぎ戦士として生き、自らの幸せを二の次にする鈴羽がそうだ。

一方で、「男」のるかと「幼女」の天王寺ナエ(漢字変換できねぇ)は「かわいい娘」タイプだけれど。

いやぁ、男女雇用機会均等法の世界だねぇ。
だいたい父の後を引き継いだり、父と同じ仕事をすると、父親に対する尊敬の念(仕事っつーのは難しいもんだからね。成果をあげた先達に対しては尊敬するだろう)が生まれるのと同時に、同志にも似た結びつきを感じるだろう。もちろん、クリスのように優秀な場合は仕事において父と競合することもあるだろうけれど。
父と未来を語り、仕事を語り、自分の夢を語る。
そして父が倒れたあとは、自分が彼の夢を実現する。
そりゃあお母さん、空気すぎるよなぁ。
ただの小間使いだよなぁ。

面白いのは「かわいい娘」タイプのるかやナエは仕事をしていない(まぁ、るかは箒を持って境内を一日中掃除しているようだし、幼女のナエは家の片付けをしているようだが)。
面白いのは、そういう仕事をしていない娘(るかは男だがw)たち(おとなしくてかわいらしい)は、父親「に」すかれている。
天王寺は娘にめろめろだし、るかの父だってるかをクリスに「可憐な子です」と紹介するくらいだ。

父の娘タイプの場合は、父親「に」好かれているというよりも、父親「を」好いているベクトルのほうが強い(だからクリスは、るか父のるかへの愛情をうらやましく思ったわけで)。まぁフェイリスは「かわいい娘」+「父の娘」のハイブリッドバージョン(最近はやりの顔もかわいい実業家タイプ)だから、少し違うが。

それにしても、母親空気すぎるだろーーーーwww
私はおなかをいためて子供を産んだことなどないが、あまりの母親の忘れられっぷりにちょっとかわいそうになってしまったほどである。

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08月05日(金)

起床時刻:11時00分

今日は、ヘアカット。
都庁にて免許の更新。
デパートをひやかしたのち、近所の焼き鳥屋で焼き鳥を買って帰った。
その焼き鳥屋は肉が小さくて高いのだが、抜群においしい。
デパ地下なんかの焼き鳥とは比較にならんのであります。
というわけで購入したら、試作品をくれた。
(ちなみに私の前に並んでいたおっさんにはあげてなかった)
ジャガイモの味噌煮である。

無類のジャガイモ好きの私、前世はドイツ人ちゃうかっていうくらいのジャガイモマニアの私がよろこばないわけがない。
おいしく頂戴したら、「好きならお土産あげる」といわれてお土産に三個ほど包んでくれた(よほどうれしそうに食べていたんだろう(おなかすいてたし))。

というわけで今は
ちぎったキャベツ(ポン酢+マヨ)、自家製白うりの浅漬け(七味をかけて)、焼き鳥(ハツ、ねぎま、つくね、レバー、皮)、じゃがの味噌煮で一杯(途中で冷奴、アボカドの柚子胡椒醤油も投入)。

今日のお酒は一ノ蔵の「ひめぜんdry」。dryといいつつかなり甘酸っぱくて、アルコール度数も低い(10℃)なので、ガンガンいっちゃうんだよねー↑。一杯どころか一本いっちゃうんだよねー。

日本酒はやっぱり、どうしても、冬に熱燗でおちょこで一杯、というのが私の一番好もしい姿。昔は大吟醸の冷酒が好きだったけど、今は純米派の私(純米酒のほうが安いしね)。純米をぬる燗か常温で飲むのがすき。

しかし、夏はやっぱり冷えたビール。
焼酎やウィスキーのロックかソーダ割り。
それか酸を日本酒より感じるワインを冷やして飲むのがいい。

まぁ夏に日本酒といえば、大吟醸を冷でってのが定番だと思うけど、調子にのってぐいぐい行って、思い出したくもない青春の一ページをつくった人も多いと思う(私だけ?)。だから、外で冷酒をがんがん行くのは避けちゃうんだよね。

まぁなんだかんだで私は家飲み大好きだけど、膵炎にははりたくないから、ときには自重しないとね。

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08月04日(木)

起床時刻:08時00分

バイトから家に帰ってきたときに旦那がいるときの脱力感は異常。
「具合が悪い」ので会社を休んだらしい。
旦那からの「帰りにタバコを買ってきて~」というメールをしていたのに気づかなかったので、買い物袋を家においてまた買いに行く。

私、めっちゃいい人やん。
だいたいさ~、具合悪かったらタバコとか吸いたないやろ。
仮病ちゃうん?

と思ったが、長渕剛のドラマでは、銃で撃たれた後、ぷるぷるしながらタバコを吸い出したわけで、銃で撃たれた後=どう考えても具合が悪い(それもとっても悪い)ときに、タバコを吸うという例もある。

インディアンの大いなる知恵であるタバコは鎮痛剤の役割も果たすってか。

と思ったが、普通に頭痛にはきかないらしく、うちの旦那はセデスを飲んでまたゲームをはじめおった。

もちろん、私もゲーム(am2:00まで)をするはめに。

旦那に

「それね、頭痛ていうか、ただの眼精疲労だから!!」

っていいたかったのは言うまでもない。

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08月03日(水)

起床時刻:09時00分

どうにも疲れがとれない。
毎日、毎日ゲーム。
一年365日ゲーム。
盆も正月もなくゲーム。

しょうがない。
それも込みで旦那に食わせてもらってるんだからな。
ゲームとは私にとって主婦業の一環なんだよ。

『冬眠の謎を解く』(岩波新書・近藤宣昭著)をちら読み。
著者の研究者としての情熱は伝わってくる。
時系列的にかかれており、研究の難しさに対する焦り、新しい発見の喜びなど臨場感はあるのだが、どうにもわかりづらい。

冬眠物質はないと思われていたが、存在する。
それがHPである。
しかしHPがあれば冬眠できるというわけではない。
冬眠できるように体内調節をもっていかなければならない。

冬眠動物は長生きする。
それは代謝が落ちる(=活性酸素が出ない)からという理由だけで説明できるレベルではない。
冬眠によって若返るからではないか。

という理解でOK?

今日は朝は昨日の残りのタコライス。
(ひき肉いため、アボカド、レタス、トマト、チーズがトッピング。旦那は「ご飯の上に生野菜が乗るとか意味わかんねぇ」と不評であった)

昼はこれまた残りの鶏肉のカシューナッツ(とピーマン・パプリカの)いためもの。

あと実家より送られてきた桃。

疲れがとれない割りにはようけくっとるなw

昨日の続き。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論』。
わからん。なんのことやら、さっぱりわからん。

わからんなら、自分でわかるように書いてまえ!という趣旨で昨日『感情妄想論』を書いた。

わたしの浅薄な世界観は↓のようなものである。

-自分が生まれる前もそして自分が死んでからも地球は存在するし、世の中まわっていくが、自分の生まれる前も死んだ後も地球の存在は把握できない。
-主観的には自分が存在してはじめて地球は存在する。
-客観的には自分が存在するまえから地球は存在する(と推論できる)。
しかし、「地球」という事実を認識することはできない。
-「地球」の姿の把握の仕方は想像(推論)による。
-想像(推論)は事実の解釈である。
-構造的な事実の解釈、つながりのある事実の解釈はひとつの絵となる。
-天動説も地動説も地球と宇宙の構造の模写、写し絵だ。
-絵は現実と接するものさしを持つ。
-ものさしの持ち方はものさしを持つ人にはわからない。
目でものを見ているときに目はみえていないように。
-しかし写し絵もひとつの現実だ。
ひとつの現実であるから、絵もまた現実に影響を与える。
地動説が教会にダメージをあたえたように。
-ア・プリオリに正しい絵は存在しないが、正しさをはかるものさしもア・プリオリに正しいものは存在しない。
正しさは推論あるいは想像するしかない。

3.
事実の解釈は想像である。
事実の構造的な解釈、あるいは論理絵は思考とよばれる。

3.001
「ある現象を思考することができる」ということは、その現象について、絵を描いてみせることができる、ということである。
絵ではなく点しか描けない場合は、思考ではなく想像という。

3.01
思考の総体が世界の絵である。

3.02
私たちは非論理的なことを思考することはできないが、想像することはできる。

3.03
ア・プリオリに正しい思考というものはない。
ア・プリオリに共感を呼ぶ想像はある。
宗教は後者に入る。

3.1
思考を命題形式でチェックしたがる人もいる。

3.12
命題は意義の形式は含まれているが、意義の内容は含まれていない。
(論理学の授業を思い出せばよい)
それを厳密と考えるか、無意味と考えるかは個人による。

3.13
思考よりも想像を好む人はいる。実のところ、想像を好む人が圧倒的多数である。

3.14
人は状況を記述することはできるが、名指すことはできない。
(名は点のようなものであり、独断であり、想像である。命題は矢のようなものであり、論理的な構造と意義を持つ)

3.2
思考の対象が命題記号の諸要素に対応するような、命題形式であらわされるものだけを思考とよぶ人もいる。

3.21
誰かというとウィトゲンシュタインである。

3.22
だからこそ、彼はたいていの哲学問題は解決したといったのである。
つまりたいていの哲学的議論は思考ではなく想像の話だからである。
あるいは「名指す行為」だと言ってもいい。
彼は想像するより沈黙をすすめているが、もちろん、沈黙より想像のほうが楽しいことはいうまでもない。

3.23

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08月02日(火)

起床時刻:08時00分

今日はバイト。
そしてゲーム。
バイト終わるでしょ、夕飯の買い物するでしょ、夕飯の準備でしょ、夕飯食べるでしょ、後片付けでしょ、そしたらその後5時間くらいゲーム。
はーあ。

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論』やっぱりよくわからん。
何しろ私は論理的じゃないことにかけては自信があるから論理はわからんし、頭悪いから哲学もわからんw。

つまり、論理哲学論なんか、上からよんでも下からよんでもわかんねぇw。

というわけで、私の得意分野『感情妄想論』で世界をウィトゲンシュタイン風に書くとこんなふうになる。
(ところどころ元のまんま引用しているが、それは私的な世界でも理解できたような気がするからだ。たぶん、ウィトゲンシュタインは「そういうつもりで書いたんじゃねぇw」といいそうだが、創造的発展的誤用であるということにしておこう)

1.
世界とは、その場に存在する人の想像のすべてである。

1.1
想像とは事実の解釈である。

1.12
「太陽は地球のまわりを回っている」というのも「地球は太陽のまわりを回っている」というのも世界=想像=事実の解釈である。
事実とは太陽や地球の存在、年周光行差や年周視差などである。

1.121
事実は認知されてはじめて事実になる。
天動説にも地動説にも関心がなかった縄文時代の日本人にとって、年周光行差は存在しない。従って、存在しない事実に対する解釈もない。縄文時代の日本は天動説でも地動説でもない世界であった。

1.13
世界は諸事実によって規定されているが、諸事実は想像によって把握される。事実の総体はその場に起きるすべてのこと、起きないすべてのことを規定するが、その規定については想像することしかできない。

1.2
世界は想像の寄せ集めである。

1.21
そのうちある想像は現実に起こり、あるいは起こらぬこともある。そしてそれ以外のすべてはもとのままでありうる。

2
その場に起こること、すなわち事実とは、想像と現象が齟齬をきたさないということである。

2.01
現象とは事実の見え方である。

2.012
およそ空間的対象を空間の外で考え、時間的対象を時間の外で考えることはできないように、事実の見え方も見る人の制約の中で成立する。

2.0121
いかなる現象も、可能的現象の、いわば空間のうちにある。この空間なしに現象をみることはできない。

2.0122
空間的現象は、無限な空間のなかに位置づけられねばならない。
視野のうちにある斑点は、もとより赤いとはかぎらないが、ともあれ、なんらかの色をもたねばならない。音は、なんらかの高さを持ち、触覚の対象は、なんらかの硬さをもたねばならない。以下、同様。

2.013
現象は、すべての状況の可能性を含んでいるが、把握された形式をもつ。

2.02
現実の世界からどんなにかけ離れた思考の世界も、現実の世界と何かをーある形式をー共有しなくてはならぬことは明らかである。

2.021
そのような堅固な形成期を成立させるものが、まさに現象なのである。

2.022
現象とは、形式と内容を持つ事実である。

2.023
空間、時間、そして色をもつことは、諸現象の形式である。

2.023
現象なくしては、世界は堅固な形式をもちえないであろう。

2.024
現象は堅固なるもの、成立するものである。しかし、その配列は変転するもの、不安定なものである。

2.0241
例えば昭和天皇は、空間的・時間的に存在し、肉体を持つ存在=目に見える事実=現象であるが、空間的・時間的変容に伴い、戦前の現人神から戦後の人間宣言と変化したように、現象の配列は不安定で変容するものだ。

2.03
諸現象の配列が事態をつくりだす。

2.031
事態のなかで、諸現象は鎖の輪のようにたがいにはめこまれている。
風がふけば桶屋がもうかるようなものだ。

2.04
成立する事態の総体が、世界である。

2.05
成立する事態の総体はどのような事態が成立しないかをも規定する。

2.06
事態の成立と不成立がすなわち現実である。
(諸現象により、明治政府は日本の独立という事態を維持した=現実。日本が列強に破れ、植民地となるという事態は不成立だった)。

2.1
私たちは、私たちのために、世界の絵を描く。

2.12
絵は現実のモデルである。

2.13
絵もまた想像の産物であるが、同時にひとつの事実でもある。

2.14
絵は現実のものさしである。ものさしの部分は現実と接している。

2.15
ものさしとは事実の解釈すなわち想像の基準ということでもある。

2.16
絵のものさしが現実と接しているように、想像も現実と接している。

2.17
絵がある現実のものさしをもっているとき、絵はそのような現実のいずれをも模写することができる。
神の言葉で、あるいはニュートン物理学で地球上のあらゆる現実を模写することができる。

2.18
絵はしかし、自分自身の描写形式の外側に立つことはできない。なぜなら描写しているのは人間だからである。

2.20
絵は、現実と合致するかしないかである。すなわち、正しくないか正しくないかである。真か偽である。

2.21
絵が真であるか、偽であるかを見分けるためには、それを現実と比較してみなくてはならないが、比較する人もまた、絵を比較するためのものさしを持つ。

2.22
模写形式の外に立てないように、絵と現実を比較するものさしの外に人はたてない。
絵だけからは、その真偽を見分けることはできないが、ものさしで比較する行為もまた真偽を見分けることはできない。

2.23
ア・プリオリに真であるような絵は存在しないのと同様、ア・プリオリに正しいものさしも存在しない。

2.24
従って絵の真偽もまた推論でしかない。

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08月01日(月)

起床時刻:11時54分

もう八月かよ、早いなぁ。
ここのところ東京は曇りがちで涼しく、一フリーターとしては過ごしやすいのだが、農産物の出来栄えを思うと喜んでばかりもいられない。

前に図書館から借りた本『インテリジェンス 武器なき戦争』(手嶋龍一・佐藤優の対談本・幻冬舎)を読んだ。

1996年の台湾海峡危機(中国が台湾島を射程にいれる形で四発のミサイルを発射したが当時の李登輝総統はすべてが空砲だと知っており、冷静な対応ができたというインテリジェンス(諜報活動)のもたらした成功例)。中国共産党の内部に台湾の工作員が深く食い込んでいたからこそ、可能だった対応だ。しかし、その工作員は中国公安当局によって、三年後に処刑されたそうだ。

以前雑誌の記事をちら見したのだが、台湾のインテリジェンスレベルはきわめて高いらしい。しかしながら、中国でスパイ容疑でつかまり、命を落とした人も多くいるという。ということは、台湾では自分の身を賭してまで、そして名誉なく無駄死にするリスクをおかしてまで、国に仕える人が多くいるということだ。そこがすごい。

『テンペスト』の読後感にも書いたが、琉球王国の外交手腕と知的能力は現代においては台湾が実現していると思う。

琉球王国は清国と薩摩からの二重支配を受けたが、その中で琉球の王朝を維持した。
台湾は国際社会からはぶられながらも(日本だって国交を結んでいない)、そして大国中国に虎視眈々と狙われながらも独立を維持している。もし日本が台湾の立場だったら、とっくに「日本省」か「日本特別自治区」か何かになっていそうなものである。

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