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起床時刻推移グラフ

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09月30日(金)

起床時刻:13時00分

昨日の夜も「ダーク・ソウル」をプレイ。
もうおおっぴらにwikiを見ながらやることに。
(ドラゴンに何回黒こげにされたことか)
やっと、不死教区教会近くの鍛冶屋のおっさんのとこまで行った。
どんだけ時間かかってんだよ、自分!!!

目が痛くなってきたし、キリがないので寝ることにしたら、爆睡して、朝、粗大ゴミを出すのを忘れていた。

バカバカ、私のバカッ。
って言うのが、ほとんど日課になっている自分がイヤすぎる。

『個人的体験』(大江健三郎)の続き。
昨日の通勤の行き返りでほぼ読み終えた。
昨日の日記に「甘ちゃんの男は女に救われる。しかし男を救う女はいったい誰に救われるのだろう?」と書いたが、女友達だったよ!

火見子ちゃんの大学時代のクラスメイトが出てきた。
ここんとこ、リアルすぎるなぁ。
鳥(バード)は憎々しげにこの大女のクラスメイトを描写するんだけど、ずばり本質を突いてくるような女(つまり男に好かれようとする意志がない)は男は嫌いなんだ。

火見子はあっさり鳥の秘密を女友達にばらす。
それで鳥はむかつくんだけど(あらゆる男はむかつくんだ)、火見子は話すことで救われているんだから仕方ない。女友達は自分のことを女たちの「守護神」だと思っているらしいが、まぁ実際そうなのだ。

火見子はあとで「あの人はかわいそうな人なのよ」と鳥に弁解する。
男もいないし、仕事もさえないし、女たちを男から守るという大義名分にすがるしかない哀れな女、もてないレズのフェミニスト、といったかんじで彼女をけなすのだが、こうやって平気で陰口をたたくところも女であるが、おそらく彼女は鳥の機嫌をとるために、わざと陰口をたたいているんじゃないかと思う。

「いや、私は別にたいして彼女が好きでもないし、勝手に押しかけてくるし迷惑しているんだけど、でも、彼女も哀れなのよ、もてないし」みたいな言い方で、男の不機嫌をあやしているんだと思う。

実際のところ、火見子は女友達しか頼る人はいないのだ。
精神的に救われるのは彼女によってでしかない。

傍目から見れば鳥と火見子の関係は、ただの泥沼の不倫なんですよ。
(しかも火見子だけが泥沼にはまっているというねw)

『個人的体験』を要約すると「妻が障碍児を産んで悩んだ鳥はインポテンツになりかけたが、火見子とのセックスで救われた。一回は見殺しにしようと思ったけど、子供もちゃんと育てるよ。じゃ、妻(義理の父は大学教授)のとこに戻るね、バイバイ!」という話である。

火見子はどうなるんだよ、おいィ?
火見子のお父さんがもし妻の父よりも影響力のある大学教授であれば、鳥は火見子とくっついたかもしれないが、火見子は所詮、どこの馬の骨とも知れない、ちょっと知的な売春婦なのだ。

売春婦でなければ興奮できない男というのは確実にこの世にいて、鳥もそのタイプなのだ。

鳥の無意識の世界をのぞいてみれば、売春婦のくせに妻になりたいだと?うぬぼれるな!といったところであろう。

男を救ったとしても、誰にも救われない売春婦。
売春婦には感情なんてないと思われているのだ。まるで神のように!
(「心療内科医のところに「神」が患者としてやってくる」という小説があったが、実際のところ、誰も神様の気持ちや負担を考慮せず、好き放題、勝手放題、お願いし、感謝し、非難する。神様が精神を病んでも不思議ではない)

火見子はあの女友達に鳥のことを話した。
カウンセラーに相談するように、占い師に相談するように。
救われるために。

二人は麦酒を飲み、煙草を吸いながら、シニカルな調子で話すに違いない。
金井美恵子の小説の登場人物たちのように。

「奇形の子供が生まれたっていうんで、彼、真っ青な顔してウチに来たのよ」
「えぇ?それって無責任じゃないの?」
「ウィスキーを山ほど飲んで吐いてたわ。それで自分を罰しているつもりになっているのね、いい気なものよ」
「うわぁ、究極の自己欺瞞ね」
「フルシチョフの核実験を支持した日本原水協並の自己欺瞞だわ。きっと彼らも世俗的な理由を10も並べて、仕方なかったんだって言い訳するのよ」
「なんでそんな男とつきあうのよ?」
「”自己保存の法則と同じくらい強く、自己破壊の法則がこの世を支配している”とか、そんなようなことをドストエフスキィが小説で言っていたわ。そういうことじゃないかしらね。
ねぇ、たいていの人間がとくに理由もなく、この地球の存続を信じて、また、それを望んでいる一方で、とくに理由もなく、人類の滅亡を信じ、また望んでいるんじゃないかと思うのよ。時々集団自殺をするレミングのように、自己破壊を望むレミング風の人間っているんだと思うわ」
「自己欺瞞的な男たちが、ま、ほとんどの男が自己欺瞞的なんだけれど、あなたにひかれる理由がわかるわ。自分達が隠しもっている自己破壊の願望をあなたは白日のもとにさらし、執行してあげているからよ。
でもそれじゃあ、あなたは太陽神の生贄でしかないわ。生贄の儀式が終われば、彼らは日常という自己欺瞞の巣へ戻っていくのだから」
「わかっているわ。いったん、自己欺瞞の毒におかされた者は容易にそこから抜け出せないんだわ。彼だって離婚なんていう決断はできやしない。離婚するかわりに、一生懸命に自己弁護し、問題点をうやむやにし、結婚生活をたてなおそうとするでしょうよ」
「それがわかって付き合っているなんてね、見てらんないわ」
「だから、いったでしょう?私はレミング的な人間なんだって」
「かわいそうなレミングちゃん。あなた、段々痩せてきてるわよ」
「レミング風ダイエット。あたらしいわね」
「フフフ、あたしが痩せないのはそういうことなのね、自己欺瞞ともレミング的自己破壊衝動とも無縁だから」
「単に男がいないからよ」
「言ってくれるわね。まぁでも、鳥と結婚したいのなら、彼を自己欺瞞の深淵から引きずり出すことね」

とかなんとか、こういう会話が繰り広げられたんじゃないかと想像してみたよ。

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09月29日(木)

起床時刻:08時15分

大江健三郎の『万延元年のフットボール』が面白かったので、『個人的な体験』も読んでみた。まだ半分くらいしか読んでいないが、これは『万延元年のフットボール』に比べると、たいして面白くないな。

「個人的な体験」は「妻が脳ヘルニアの子供(脳みそが頭蓋骨からはみ出してコブみたいのができちゃったそうな)を出産したせいで、いろんなことがイヤになっちゃったよ」というお話だ。

鳥(バードと読む。主人公)は「あー、もう、子供ってだけでもめんどくさいのに、障碍児だなんて、二重にめんどくさいなぁ」と(集約すれば)そういう思いをかかえつつ、昔の女友達のところに行き、ウィスキーをがぶ飲みして吐く。翌日、予備校講師の彼は二日酔いのまま教室に行くが教室で吐く。
「そろそろ赤ちゃんは死んでくれてるかな?」と思って病院に戻ると意外に元気でびっくりする。

本当にどうしようもない男なのだが、女友達の火見子ちゃんは優しくて、体をつかって慰めてあげようとする。大学時代にこの男に半ば無理やりヤラレタというのに、である(鈍感な鳥ですら、この過去の男女の行為を回顧して「強姦事件という風だった」と言うくらいなのだ。火見子は「強姦事件そのものよ」と訂正する(P77))。

そのあとに鳥が言う台詞がひどい。

「しかしきみは本当にほんの少しの快感も見つけなかった?」
だって!

はぁ?強姦中に快感なんか見つけるかよ?お前、頭に蛆でもわいてんじゃねーの?

と私なら言うところだが(まぁ実際には多分、言わないな。内心言うだけだな)、火見子ちゃんは優しく「それは無理よ。わたしにとっては、あれが最初の性交だったんだから」という。

おいおいおい、処女だったんかい。

火見子はねぇ、ものわかりが良すぎるんだよ。
男の気持ちというか男の論理がわかりすぎる。男の気持ちを察しすぎると、男に逆に大切にされないんだよ。甘えられちゃうんだ。

火見子は鳥の大学(東大だろう)の同級生だ。彼の観察によれば数少ない女子学生の文学部のメムバーたちは「卒業後の日常生活について致命的に不適格になった。<略>いったいなぜだろう?ありふれた女子大学を卒業した連中はみないきいきと新生活の場に順応しそこでのリーダーとなってゆくのに鳥の大学の女子学生たちがそのようであるのは?」と不思議がる。

ありふれた女子大を卒業するような普通の子だったら鳥に対して「あたしの処女を奪った責任をとってよ!結婚してくれるわよね!?」となるだろう(強姦するようなクズでも、一応官立大学出のエリートの卵である)。

妻は夫にハッパをかけ続け、夫は出世レールの上を走るだろう。何しろ、最初から妻が有利なのだ。なぜって夫はクズではあるものの、強姦をしたことをなんとも思わないような、ホンモノのクズではない。妻に対して負い目がある。

しかも「処女を奪った責任をとる」ことを迫る行為は、男の奇妙な自負心もくすぐる。貞操観念のしっかりした女性を妻にしたという自負心。自分が妻にとってはじめての男であり、おそらく彼女は一生、自分以外をしらないだろうという安心感。

まぁそういう諸々の要因によって、妻は夫に大事にされ、それこそ「いきいきと新生活の場に順応」していくのだ。

しかるに火見子ちゃんは「処女を奪った責任をとってよ!」と言うかわりに「あの性交がわたしにとってはじめての性交だったということに意味があるとしたら、それはわたしにだけ関わっていて、あなたとは無関係なのだから」と淡々と言うのだ。

まぁ、そうなんですけどね。
しかし、そういってしまうと男も「まぁ、そうですよね」で終わっちゃうだろうが、火見子ちゃん!!

「ぼくは、きみを不感症にしたのかい?」という鳥の問いかけ、自分の痕跡を女の中に見ようとするいやらしい問いかけに対しては、これまたあっさりと「ありきたりのオルガスムなら、たちまち見つけたわ。地面をかきむしったわたしの指の爪に材木置場の泥が残っているうちに同級生の誰かれから援助を受けて」と答え、鳥の幻想を打ち砕くのだ。

まぁね、セロリと同じで、初めて食べたときは不味くても何回か食べているうちに美味しく感じる(こともある)ように、何事も鍛錬というか、探究心も必要なんだろうけどねぇ。

火見子は本当に優しくて、鳥が「女怖い。子宮怖い。妊娠怖い。奇形が生まれるかもしんないんだもん。もうセックスできないかもしれない、どうしよう」とメソメソしてると、私なら「じゃあ、一生セックスすんな!誰も困んねぇよ!」と言ってやるところを、火見子は「じゃあ、お尻の穴でやればいいんじゃない?」と自らのおケツを差し出すのである。

最初は多少ひるんでいた鳥も試行錯誤しているうちに「おれは自分だけの孤独なオルガスムが欲しかったのだ」「おれはいま女をもっとも汚辱にみちたやりかたで蹂躙しているのだ」と考えて興奮してヤった後(火見子の肩に噛み付いちゃったりするのである)、賢者タイム(「化石したような気分」)が訪れる。

なんだかんだで、ナイーブな気持ちになった鳥は、妻もふくめて彼は性交のあと「つねに自己憐憫と嫌悪感の擒になったものだった」と火見子に語る。

この後の火見子の台詞がいい。
「自己憐憫、嫌悪感?鳥、あなたは性的に充分には成熟していなかったのじゃない?あなたと一緒に寝た女たちもまた、自己憐憫と嫌悪感とをもったかもしれないわ。結局、それはすっきりした良い性交じゃなかったのね、鳥」

男だけではなく、女側も自己憐憫と嫌悪感を持つという当たり前の視点が欠けているんだよ、男はね。

しかし鳥はアホだから「性交のあとで自己憐憫におちいるやつは、たいてい、きみのような性のエキスパートに救助されるチャンスがなくて、自信をなくしているんだ」と答える。

甘ちゃんの男は女に救われることや、慰められることを求めているわけだけど、男を救い、慰める女のほうはどうやって自分を救い、慰めるんだろう?売春婦でも主婦でも火見子でも?

「男が女に快楽を与える」あるいは「男によって女を成熟させる」というのは男が好む幻想だ。女は女自身で快楽をみつけ、自分で成熟し、時には自分で救い、自分を慰めるしかない。

火見子の次の台詞が象徴的だ。
「あなたがわたしと、いちばん厭らしい性交をするつもりだとしても、わたしの方では、その性交に、やはりなにかgenuineなものを見つけることができるにちがいないから」(P123)。

ま、私はそんな苦労してgenuineなものなんぞ見つけたくもないがな!

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09月28日(水)

起床時刻:12時10分

習慣って大事だわ、これからは規則正しい生活をしよう!と思った矢先に朝5時過ぎまで「ダーク・ソウル」をプレイしちまったよ。

あああ、バカバカ、私のバカッ。

「ダーク・ソウル」は昨日からオンもつながるようになったらしいんだけど、前作「デモンズ・ソウル」もほぼオフラインでプレイしたから、別にオフラインでいいやって思って、昨日の夜、ちょっとだけプレイしようとしたらこのざまですよ。

しかも、全然進んでいない。まだ「城下不死街」のところ。
私がドヘタクソってのもあるんだけど、このゲーム終わるのか?

4人の槍騎士をぬっころした近くに階段があって、そこを下っていくとピーンとしたウサギ耳のような飾りがついた兜をかぶった黒い騎士がいるんですよ。その奥になんかキラキラ光るアイテムっぽいものも見えるんです(最初は結晶トカゲたんかと思ったけど違うみたいね)。

アイテムを取ろうにも、その前に黒くてでっかくて憎いあやつが立ちふさがっている!!

火炎瓶をなげつけて(40ダメージ)、盾で防御し、じわじわと削る(背中からなぐって12ダメージくらい)んだけど、一度防御がくずれると、もうだめ。すぐ死ぬ。あっさり死ぬ。

死ぬとまたマップの最初から敵を倒していかなくちゃいけないから、時間がかかるわけですよ。

もういいや、アイテムとらなくってもいいや、どうせ「名もなき勇者のソウル」とかどうでもいいもんだよ、さようなら・・・と思ったんだけどwikiを見たらしい夫が「あれを倒すとその奥にいいもんがあるらしいよ。デモンズでいうと、盗賊の指輪みたいなものが」って言うじゃないですか。
「盗賊の指輪(みたいなもの)ですって!!!」と聞いて色めきたち(「デモンズ・ソウル」では盗賊の指輪があるのとないのとでは、難易度が全然違う)、絶対取ったろうやないけ!と決意して、何回も何回もトライして、朝がきちまったよ、Oh・・・。

夜、旦那が「ちょい貸してみ」といって、私の代わりにあっさりと黒騎士をたおしてくれた。その間、私がFFをやっていたのだが、あまりにあっさりで愕然とする。

後ろに下がりながらの火炎瓶投げつけ作戦で、あっさり、勝つるらしい。
火炎瓶が万能すぎるのは私も発見していたんだけど、私は途中でぜーったい、逃げ損なって死ぬんだよ。

あーあ、私が小さいときに母親が「あんたは人が1回でできることが10回かかる。人が10回かかるときは、100回かかる」といったけど、本当である。

そのとーり!!!

だけど、困ったことに、私の人生が人の10倍、100倍長いわけじゃないんだぜ。
私の進化の速度に対して、人生は短すぎるし、老いの訪れも早すぎるんだ。

何か一つでも、得意なことがあればなぁ。
本当に、何をやっても、ダメなんだ。

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09月27日(火)

起床時刻:08時30分

昨日は休みだったので、古本屋に本を売ってきた。
ブックオフで売ったのだが、計1300円そこそこ也。
そんで、1000円分買ってるんだから世話ない(といっても売ったのは31冊、買ったのは2冊だから、本棚のスペース的には問題ない)。

買ったときにもらった、ブックオフの「買い取り価格一覧」を見たら、漫画の「へうげもの」は一冊150円だって。私がさっき売ったときは50円だったのに。一度カバーをつけたまま読んだだけだから、汚いなどの理由で減額されるいわれはない。くっそぉ、100円損したぁと思ったが、まぁ缶ジュース一本以下の値段なのである。なんでこんなに熱くなるんだろうねぇ。ウェディングプランを考えるときなんて10000円でももっと気軽な取り扱いになるというのに。思い出すに、借り物のティアラなんぞに八万円も払ったのだから。へうげもの何冊売った金だよっ。

閑話休題して、別の閑話。
『蝿の王』を読んで極限状況において狂気から身を守る一つの重要な方法は、「習慣や規則を守ることなのではないか」と思った。

魑魅魍魎が跋扈するあの孤独な島で、ラーフという人格的には凡庸であり、精神的に成熟しているわけでもない少年が比較的「まともさ」を維持できたのは、「規律正しさ」を守ろうとしたからではないか。衛生観念(排泄場所を守る、服装や髪を気にする)を捨てなかったからではないか。

そういう単純な、規律や習慣を守ることが、実はすごく大きな力を持っているんじゃないか。

そんな思いをいだきつつ『暮らしが変わる40の習慣』(金子由紀子)を読んだら、こんなことが書いてあった。

「習慣には心を落ち着かせる効果が確かにある。歴代の南極越冬隊員たちが、過酷な厳寒と閉鎖環境に、いかに適応していったかを描いた新聞記事を読んだ。
まったく太陽の出ない極夜の中、屈強の男たちも次々に精神に変調をきたす。それを防ぎ、平常心を保つさまざまな方法の一つが、
「自分なりの生活習慣を守る」
ことだったという」
(pp9-10)

ほらね!
って何がほらね!だよ、てめぇはまともな習慣なんて何にもないじゃねーかYO!とおおいに反省する。

金子さんが言うには、「改める習慣は一度に一つだけにする」といいそうな。私はどう考えても、規則正しい生活だよなぁ。

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09月26日(月)

起床時刻:09時00分

今更ながら名作を読んでみるシリーズ、ゴールディングの『蝿の王』(集英社文庫)が面白かった。

『蝿の王』はジョン・ダイニングの『死の蔵書』(古本ハンターという職業が出てくる)の中で、初版本が高い本の一つとして出てくる。

詳細を忘れたのでぐぐったら、『死の蔵書』の中ではサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の初版本と同じ値段になっている。92年の話だけど。日本だと『ライ麦畑』と『蝿の王』は全然知名度が違うよね。『ライ麦畑』はちゃんと読んだことがないのだけど(全く興味がわかない)、わたしは間違いなく『蝿の王』のほうが好きだと思う。

翻訳者(平井正穂)による解説によれば、『蝿の王』は「人間の内部に永劫の昔からそして終末を迎える時まで未来永久に巣喰っている、そして巣喰うであろう悪の問題をその中核とする小説」である。

「いや、自分にはそんな悪なんてないもん、ピュアないい人だもん、友達もいっぱいいるもん」という向きは、バランタインの『珊瑚島』でも読んでろと翻訳者はいうが、今風にいえば、ジャンプアニメでも見てろってことだ。

友情や思いやりなどの倫理道徳のもろさ、規律正しさ、合理的判断、衛生観念という文明的思考のもろさを作者は寓意的に描き出す。

しっかし、自分が無人島(ただしフルーツや真水がいっぱいあり、人間に危害を加える動物はいないという、テーマパーク的理想的無人島)に流されたら、と考えるとぞっとする。

私の場合、まずメソメソと自己憐憫の涙を流すだろう。しかるのち、「体力を温存しなきゃ!」と思いつき、横になる。つまり寝る。現実逃避する。

想像しただけで、だめすぎる。

登場人物の少年たちの中で、自分が誰に一番近いかと考えると、私はどう考えてもピギーくん(若干頭がよくなったのび太)タイプだな。
まぁ体型はファッティどころかスキニィなのだが(最近、腹が出ているとはいえ)、口だけ達者で要領が悪く、のろまで、怖がりで、弱虫というところが。

思うんだけど、人間というのは、生まれたとたんに、ほとんどある種の類型(タイプ)に決まっているんじゃないか。
人間というのは自由意志によって「何者か」になることはできないのではないか。

人間が生まれながらに、どうしようもなく悪の存在であり、善なるものを志向しても、決して善なる存在にはなりえないように、生れ落ちたときに、いや、胎児のときからひょっとして決まっている人格のタイプから一生抜け出せないかもしれない。

いくら決意しても、ジャイアンがのび太になれないように、のび太がジャイアンになることはできない。

のび太はせいぜい、映画版ののび太(最上級)になることしかできないのだ。

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09月25日

起床時刻:10時30分

今日は幸いなことにうちの旦那は乱獲シャウトに乗ってくれたので、自分の時間が持てた。本棚からあふれかえっていた本やダイレクトメールの類、いらない袋などを整理したり、本を読む時間も持てた。

私に一緒にやるように強制しなければ、好きなだけゲームをやってくれていいんだよ。

しかし実際は、オンライン・ゲームという性質上、二人三脚で何事もすすめるのである。
旦那のレベル上げやアイテム取りに(何時間も!)つきあうはめになるのだが、感謝どころか罵倒の連続。
やれ「ケアルが遅い!」だの「釣りが遅い!」だの「タゲとるな!ヘイト管理しろ!」だのギャアギャア怒られつつ(しかもすべてのせりふの最後に「このバカ!」がつくのである)ゲームをさせられるのが、心底うんざり、本当に大嫌いなのだ。

今日は買い物→図書館コースで帰ってきたら、旦那が「一人で寂しかった。どこに行ってたの?」と言ってきた。

旦那は私と一緒にいたいという。しかし、一緒にいると私を罵倒する。
私は旦那と一緒にいたくはない。しかし、一緒にいても旦那に(罵倒どころか)文句を言うことはない。

いや、そんなことないな。私も「ゲームをやりたくない」と文句を言うことはよくある。それで「お前が嫌々やるから、こっちだって気分悪いんだよ!」ってよく怒られる。

そのせいか知らないが旦那が昨日今日としきりに私のことを「甘やかしすぎているから、これからは厳しくしつけないといけない」と言っていた。

2chによくある「日本の最近の女は甘やかされている。旦那をATMと思っている。もっと厳しくしないといけない」的な意見でも読んだのだろうか。

そういや、うちの旦那がこの前「在日がー」とか何かで言っていて、ちょっとびっくりした。数年前はそんなことなかったように思うのだが。

メディアの影響力というのは思っている以上にずっと強い。
マスメディアだけではなく、2chや口コミもだ。
うちの旦那は生まれてこの方新聞をとったことがない人なので、もっぱら情報源は2chだ。ニュース番組も見ない。本も雑誌も読まない。2chに支配的な意見に近くなっても不思議はない。

「メディアに踊らされてはいけない」とよくいうが、とても難しい。

実際、私がもし戦時中に生まれていたら確実に軍国少女になっていたと思う。「何が本当で、何が本当でないか」は、正直、ほとんどの一般大衆にはわからない。

あの戦争のときに踊らされず、反戦平和を貫けた人はごく少数だった。宗教者、クリスチャンや大本教信者が多かった(鶴見俊輔が引用した「ものみの塔」の戦争拒否者の言葉が印象深かった。彼は戦前も戦後もぶれていないのだ。そんな人が日本全国に何人いる?)。

宗教者がぶれない理由は、例えば熱心なクリスチャンならば、大本営の発表が本当か本当でないかはわからなくとも、二千年前の基準に従って、何が正しいか正しくないかの判断はできたからだ。つまり、マスコミに踊らされないだけの確固たる判断基準が自分の中にあったからだ。

しかし私は宗教をどうしても信じられないので(信じられたらよかったのだが)、自分の中に確固たる判断基準を持つしかない。稚拙で怪しげでいい加減なものでも、巧妙で正統で立派な教義より信じられるのだから仕方がない。

しかし自分が時代に流されやすく、メディアに踊らされやすい人間であることはよくよく認識しておかねばならないだろう。

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09月24日

起床時刻:08時00分

昨日はゲームしよう、ゲームしようという夫に対し、4時間半はつきあったけど、どなりちらすし、ぶーぶー文句はいうし、本気で吐き気がしてきたので「自分は病気である!熱も38度ある!」と体温計をふりまわし、買い物と食事の支度と後片付けをしたあとは(私はメロンだけ食べた)、薬を飲んで早々に布団に入った。

おかげで、今日は早く目がさめた。
さっき体温をはかったら37度ちょい。
夫はいつもどおり、明け方に就寝。
貴重な一人の時間。

結婚というのは誰に強制されているわけでもない。
気力をえいやっと振り絞れば、いつだって離婚ができるはずなのだ。

でも、そうしたらどうやって生活するんだろう?
主婦という寄生虫が、寄生動物から離れていっぱしにやっていけるのだろうか。

サルトルは「実存は本質に先立つ」といった。
それは本当に希望に満ちたあかるい言葉だけど、実際は「かもめはかもめ、孔雀やハトやましてや女にはなれない~♪」(by中島みゆき)ではなかろうか。そして私も「寄生虫以外にはなれない~♪」ではなかろうか。

サルトルはそんなことないという。
モノは本質が実存に先立つが、人間は何者かである前に今ここにいる。
いいかえると、今ここにいる人間は何者にでもなれる。
つまり、かもめはかもめになるしかないが、人間はかもめにでも孔雀にでもハトにでも女にでもなれる。
彼の、「自由の刑に処せられている」とはそういうことだ。

しかし、よく考えてみると、人間はかもめや孔雀にはなれない。種が違う。多くの人にとって「自由な選択枝」は人間がかもめや孔雀になるくらいのハードルがある。

サルトルは選択枝のハードルが低い人だった。だからこそ、規則に人間が従うのではなくて、人間が従うときめたから、規則に従うのだという。つまり、規則に従うも従わないも、個人の自由なのだ。

しかし、サルトルにとっては選択枝のひとつである、「規則に従わない自由」も多くの人にっては、かもめや孔雀になるくらいのハードルの高さだ。

ハードルの高さは人それぞれだ。ホリエモンが規則を守らないのと、自分が規則を守らないのとでは、ハードルの高さが違う。

私など、自殺という選択枝のハードルが低く、いつも心をひかれてしまう。まぁ今は両親の存在と死の恐怖によって、超えられない高さにはなっているんだけれど。

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09月23日(金)

起床時刻:08時00分

前日から風邪気味。微熱もある。
なのに、ゲーム。
「風邪ひいて熱があるんだけど。38度くらいあるんだけど」
といっても「仮病だろ」みたいな感じで。

旦那に食わせてもらっているんだから、食わせてもらっている分だけ、ゲームに貢献しろ、カスってなことである。

うちの旦那は私と常に一緒にゲームをしたいらしいんだけど、そりゃあ、こんなお手軽なドアマットないもんね。

他の人には気をつかうだろうけど、ニョーボーなんてのは、いくらぼこってもヘラヘラついてくる存在。

「でも、女のやるなかでほんとの二流仕事は、男に養われることよね」(『デス博士の島その他の物語』国書刊行会P187)

もっともジェシー@死の島の博士は、夫に(浮気はされるが)愛されている。夫は「ジェシー、わたしは心からきみにあの金を受け取ってほしかったんだ」という。

立派なもんである。
「あの金に見合う世話はしていただきますからね!毎日、朝○時にはここに来てちょうだい!毎日預金通帳も見せてね!あんたが浪費したんじゃないかとひやひやしているの!」というのが(姑口調になってしまったが)、世の普通の人間なのにね。

夫も似たようなもんである。
以前、誰かが書いた文章に「姑がいないと、夫が姑化する」とあって、なるほどなと思ったことがある。

思うのだが、浮気をしないというのはそんなにご立派なことなのだろうか。
私はもちろん、浮気なんぞしないが、しかし「自分は浮気など到底したことがありませんから、どこに恥じることもない、よき夫であり、よき妻であります!」みたいにふんぞりかえっている人をみると、単なる魅力の欠如と感受性の貧弱さを何自慢してんだよ?という気もする。

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09月22日(木)

起床時刻:08時00分

朝は暑かったのに、夕方から急に寒くなり、雨も降り出した。
風邪をひいたみたい。
幸いなことに夫の帰宅が遅かったので、ゲーム地獄に巻き込まれず、休むことができた。

夫が帰宅したとき「帰るのが遅かったから、心配してメールをくれるかと思ったのに。心配じゃないの?自分はいつも心配して早く帰ってきてって言ってるのに!」だって。

彼は私がいれば、あれこれの用事もいいつけられるし、一緒にゲームもできるし、万々歳だろうが、私は彼がいると、風邪でもなんでも、彼の世話やゲームをしないといけない。

わがまま放題の上司やクライアントといつも一緒にいたいか?という問題である。
わがまま放題にできる上司やクライアントは部下や業者といつも一緒にいたいだろうが、こっちは、全く一緒にいたくはないのである。

あー、一人になりたい。

「もし、まわりの人間としょっちゅう顔をつきあわさずにすめば、たいていの病人は病気にならずにすんだろう」(『アイランド博士の死』ジーン・ウルフ)

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09月21日(水)

起床時刻:13時30分

今日は台風が上陸。
ものすごい暴風雨。

私は一日家にいて、両親に長い手紙を書いた。
ま、基本読書感想文みたいなことになったんだけどねw。

よく犯罪者の小学校の卒業文集がさらされるけれど、私は小学校の卒業文集も読書感想文だったからなw。一言も運動会や遠足や将来の夢に触れず、ただ本の感想を書いたからなぁ。さらされたら、マジキチ認定されそうだw。

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09月20日(火)

起床時刻:08時15分

本日バイト。

家に帰ったら、ひたすらネトゲ。
私はこれっぽっちもやる気はしないのだが、拒否権はない。

旦那は毎日、毎日、平日なら5、6時間、週末なら12時間くらいプレイするわけだが、よく飽きないよなぁ。飽きっぽい私にはとうてい無理なので、そこは感心する(しかし考えてみれば、私も強制連動でやりたくもないゲームを毎日毎日同じくらいプレイしているのだったわ)。

実際のところ、FF11に多くの人が飽きてきている。
さすがにサービス開始から7年(だっけ?)で、さびれてきている。

「見渡せばフレもシャウトもなかりけり アルザビ白門秋の夕暮れ」

昔いたフレがほとんどいなくなっていく。

FF11をはじめたときは大学生とかで時間がくさるほどあった人も、今やいっぱしの社会人になって(まぁゲームにはまってニートになる人もいただろうが)、人によっては家庭もでき、子供もできたりしているだろう。

そうなると、タイム・コンシューミングで終わりのないネトゲなどやる気がしなくなるのも無理はない。何しろ、ちょっと前までの最高装備がすぐに陳腐化してしまうんだから。

開発がプレイヤーの前にぶらさげるニンジン(アイテムや装備)を、がむしゃらに追いかける(追いかけるように仕向けられれる)ネトゲ・プレイヤー。

しかも開発のバージョン・アップは「全然プレイしたことないんじゃないか」っていうトンチンカンなものだったりして、私はすごくしらけてしまう。

FF11に対する愛情が感じられない。単なるスクエニの安定的収入源としか思われてないような気がする。

この「嫌な感じ」はサラ金に通じるものがある。
自分は決して利用しないサービスを儲かるからという理由で他人に提供しているという点で。

つまり、武富士の社長は金を借りるとき消費者金融からは金を借りないということだ。

パチンコ屋の御曹司も趣味がパチンコだったりすることはない(といっても「パチンコ屋の御曹司」などという人種は一人しか知らないので偏見かもしれないが。もっとも社員はパチ好きで入った人も多いのかもしれないけど)。

人を単なる金儲けの手段に思っているのが見え見えだから、私はサラ金もパチンコもネトゲもすごく俗悪に感じるときがある。

しかしまぁ、パチンコやネトゲが好きな人はどうしてもやめられない悪癖なんだろう。私も読書というやめられない悪癖があるから、人のことはあまり言えない。

僧侶の慈円(「おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣(そま)に墨染の袖」が百人一首に入ってますな)の場合は、和歌という悪癖がやめられなくて、兄にいさめられた。そのときに返した歌がいい。

「皆人に一つの癖はあるぞとよこれをば許せ敷島の道」
(誰でも一つは悪癖を持つというじゃないですか、和歌の道に励むのも一つの悪癖としてゆるしたってください)

「皆人に一つの癖はあるぞとよこれをば許せパチンコの道」
「皆人に一つの癖はあるぞとよこれをば許せFFの道」
といったところか。

しかし、自分が関心のないパチンコの道やFFの道は実にバカらしく感じるものである。これも人間の身勝手さであろうかねぇ。

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09月19日(月)

起床時刻:13時30分

国書刊行会から出ている『デス博士の島その他の物語』というアンソロジー(国書刊行会の本って装丁がかっこいいよね。欲しくなる)を読んでいて、はっと気づかされることがあった。

ここ数日考えている問題、即ち、なぜ演歌はターゲット・セグメンテーション(高齢者)の最大関心事である「経済問題」と「健康問題」を歌わずに、「男女問題」を歌うのか問題について、こういう解釈もできるんじゃないかと、はっと気づかされたのである。

引用しよう。
「ここではきみたちの大部分が悲しくなったとき、雨が降るんだよ」波がしゃべっている。「なぜなら雨は人間の心理にとって、悲しいものの一つだから。たぶん、それが不幸な人びとに自分達の真美だを連想させるので、その悲しみが憂鬱をやわらげるのだろう」
ダイアンがいった。
「そういえば、雨降りのほうが気分がよくなるときもあるみたい」
「そのことが自分自身を理解する助けになるはずだよ。大半の人間は、環境が自己の感情と一致したときに心がなぐさめられ、一致しないときには不安を感じる」
(「アイランド博士の死」pp70-71)

演歌が必ずしも、自殺原因のツートップである「経済問題」「健康問題」を歌わないのも、こういうことだったんだ。

つまり、悲しみの気分だけ共有できれば、人間はなぐさめられるってことだ。むしろ、借金抱えている人にとっては「借金が苦しい」と歌われるより、「あなたを思って苦しい」と歌われたほうが慰められる。
もし「借金が苦しい」というような直裁な、生々しい歌詞だと、「え?苦しいって、あんたどのくらい借金があるの?え?俺のほうがどうせ多いよ。フン」というねじまがった心が生まれる可能性があるのに対して「あなたを思って泣いてます」というのだと、無害だ。ただ、俺も泣いているよ。という共感が広がり、慰められるのだ。

考えてみれば、私は中島みゆきが好きだが、たとえば「わかれうた」なんて共感できるところが一ミリもないのだ。
彼女は「道にたおれて誰かの名を呼び続けたことがありますか?」と聞くが、まぁそんな人は百人中一人もいないと思うのだが、「ふられた悲しみ」と「執着心の悲しみ」の純化モデル、極限値を出しているんだろう。その純化した「悲しみ」が人の琴線に触れる。

そもそも、私は一度だって異性にふられたことなどないのである。
だから失恋の悲しみなんか味わったことがない。
いつだって「めんどくさいなぁ。察してくれよぉ」と思って振ってきた側なので、しつこいヤツは大嫌いなのだ。道にたおれて私の名をよびつづけたりされたら、大迷惑である。

なのに、なぜ中島みゆきの歌を聞くのか。
やはりそれは気分なんだね。
憂鬱さの気分。
まぁどうしても「ふられたけどあなたを思ってます」みたいな歌より、「歌姫」のような、身すぎ世すぎにすれてツラの皮があつくなった大人の、しかし内心忸怩たる思いを歌った歌のほうがずっと好きだけれども。

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09月18日

起床時刻:13時30分

昨日の日記にも書いたが、私たちを本当に悩ませるもののツートップは「生活(経済)問題」、「健康問題(病気)」だけ、なんですね。自殺の原因としてはこの二つがずば抜けて高い(十代を除く)。
失恋なんぞでは断じてない。

ということはですよ、本来であれば悲しき我々の心をなぐさめる歌(流行歌)は、経済問題と健康問題を歌うものであるはずだ。
つまり我々の根本的な関心事はその二つであるからだ。
本屋で平積みされているものを見るがよい。
「世界同時不況がどうしたこうした」みたいな経済本か、「ぼけないで長生きする方法」みたいな健康や長寿に関する本がいっぱいである。

しかるに、である。
流行歌の分野においては、このテーマは非常にぞんざいに扱われているといわざるをえない。

バブル崩壊嘆き節なんてのも聞かないし、中性脂肪恨み節なんてのもない。
十代・二十代向けのポップスはともかく、演歌でもそういう歌は寡聞にして知らない。演歌でもたいがい「あなた」を恨んでおり、経済事情や健康事情は恨んでいない。

(例外といえば、にしんバブル崩壊を歌った、かの名曲「石狩挽歌」くらいであろうか。浜圭介の曲もいいが、なかにし礼の作詞が実に素晴らしい。「海猫(ごめ)」だとか「赤い筒袖(つっぽ)の やん衆」だとか、方言をたくみにおりまぜた風情、「沖を通るは 笠戸丸~」「オタモイ岬の ニシン御殿も~」などと固有名詞を出して臨場感をもたらしているところ、実にすばらしい。
しかしこの名曲にしたって「あれからにしんはどこへ行ったやら~」だから歌になるのであって、「あれから株価はどこへ行ったやら~」では歌にならんのであります)

話を戻すと、演歌のターゲット・セグメンテーションは高齢者であるからして、恋愛など、とうの昔に卒業しているはずなのに。

ひとつ実践してみよう。
演歌の替え歌をつくってみるのである。
さすれば、この分野の開拓可能性というのも出てくる。
かの阿久悠さんですらなしとげなかったことをできるかもしれないのである。

だれもが知る名曲「北の宿から」(阿久悠さん作詞です)は、つれない人を思う女性の深情け(「着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでます」なんて、ほとんどストーカーレベルのうっとうしさだと思うが)を歌っているが、中高年向けに健康問題アレンジするとこうなる。

「あなた 痛みはないですか
日ごと寒さがつのります
ひざの痛みに サポーター
涙こらえて 巻いてます~」

となる。

なんかCMっぽくなるな。
「ひざの痛みには皇○です」みたいなうさんくささが出てくるな。

男女問題(「離婚に際しての慰謝料をめぐる泥沼の争い」とかではなくて、ピュアな、というか、ただ「体と体のおつきあい」みたいな、そういう恋愛)を演歌がうたうのは、やっぱり悩んでいて楽しいからなんですかねぇ。

あるいは、和歌の伝統からきているんですかねぇ。「老い」は和歌にもよくあるテーマだけど(百人一首にもあるでしょう「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり」とか「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」とか)、「経済問題」と「健康問題」はあまり出てこない。経済問題にいたっては、これまた寡聞にして、山上憶良の「貧窮問答歌」くらいしか思い出せない。もちろん、明治以降になると、啄木を出すまでもなく「貧乏」は「花鳥風月」とならぶテーマになるわけだし、「健康」も子規を出すまでもなく一大テーマとなるわけだ。

しかるに、演歌界はいまだに平安の伝統を生きているのであろうか。

しかしまぁ、アダモ(シャンソンも演歌みたいなもんだ)の「雪が~降る、あなたは来ない~」がもし「金が~ない、あなたは来ない~」だったら、こんな大ヒットはしなかっただろうという気はする。

これはなかなか考えるに足るテーマだと思うんだけどなぁ。

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09月17日

起床時刻:13時14分[いま起きた]ボタンで記録されました。

いささかの濁れる酒といささかの読むものあれば足る心かな(吉井勇)

そうよねぇ、私たちって無欲だから、酒と本さえあれば満足なのよねぇ。
でもまぁ現代においては、
一台のネットつながるパソコンと携帯あれば足る心かな
だわねぇ。

厳密にいうとエアコンも必須だわねぇ。
ま、家電言い出したら、冷蔵庫、洗濯機も必需品だわねぇ。

要するに
いささかのカネありゃ足りる心かな
に要約できるわねぇ。

ついでにいうと、
莫大なカネありゃ買える心かな
だわねぇ。

まぁでもさぁ、酒と書だから詩になるのであって、カネで要約しちゃうとホリエモンになっちゃうのよねぇ。

でも詩的現実とホリエモン的現実のどちらがリアルかっていうと、ホリエモン的現実のほうがリアルなのよねぇ。

恋にやつれて死ぬヤツはまれ カネにやつれて死ぬばかり

これがホンモノの都都逸だわよねぇ。
でもこれじゃ酒がまずくなっちゃうんだわねぇ。

堀口大學の
「夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。」
ではじまる素敵な詩も
(*ただし借金取りに追われているときを除く)
と注をつけなくちゃなんないわねぇ。

とてもきれいな詩だから続きも読んでみましょうか。

「それは季節にかかはらぬ、
 冬なれば暖炉のかたはら、
 夏なれば大樹の木かげ、
 それはいつも神秘に満ち、
 それはいつも人の心を誘ふ、
 それは人の心が、
 ときに、しばしば、
 静寂を愛することを、
 知つてゐるもののやうに、
 小声にささやき、小声にかたる・・・・・・」

小声にささやき、小声にかたる内容って何かしらね。
「連帯保証人になるんじゃない!」
ってなことじゃあ、なさそうね。
だって、これは大声で語るべき重要なことですものね。
たぶん、どうでもいいことを語っているのでしょうね。

そしてまた、この言葉が繰り返されるのね。
 
「夕ぐれの時はよい時。
 かぎりなくやさしいひと時。

 若さににほふ人々の為めには、
 それは愛撫に満ちたひと時、
 それはやさしさに溢れたひと時、
 それは希望でいつぱいなひと時、
 また青春の夢とほく
 失ひはてた人々の為めには、
 それはやさしい思ひ出のひと時、
 それは過ぎ去つた夢の酩酊、
 それは今日の心には痛いけれど
 しかも全く忘れかねた
 その上の日のなつかしい移り香。

 夕ぐれの時はよい時。
 かぎりなくやさしいひと時。

 夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらうか?
 だれもそれを知らぬ!
 (おお! だれが何を知つてゐるものか?)
 それは夜とともに密度を増し、
 人をより強き夢幻へみちびく・・・・・・

 夕ぐれの時はよい時。
 かぎりなくやさしいひと時。

 夕ぐれ時、
 自然は人に安息をすすめるやうだ。
 風は落ち、
 ものの響は絶え、
 人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、
 今まで風にゆられてゐた草の葉も
 たちまち静まりかへり、
 小鳥は翼の間に頭をうづめる・・・・・・

 夕ぐれの時はよい時。
 かぎりなくやさしいひと時。」

こんなのんきなことを書けるのは、カネの苦労もなく、「夕飯の支度しなきゃ」「保育園に子供を迎えに行かなきゃ」ってバタバタすることもなく、ゆったりと安楽椅子に座ってパイプでもふかしつつ、日没へとむかう空の色のグラデーションを書斎の窓から眺めているような、満ち足りた暇人くらいでありましょう。

そういう満ちたりた暇人がふと感じる夕暮れどきの寂しさ、憂鬱心、こんなものは人生の彩りのようなもので、刺身についてくるわさびや冷奴に乗っているおろし生姜みたいなもんでございます。

ホンモノの憂鬱心、自殺をするほどの憂鬱心の原因は明らかになっていて、警察によれば(警察庁「平成15 年中における自殺の概要資料」より「原因・動機別・年齢別自殺者数(遺書ありのみ)(2003年)」)、自殺の原因トップ2は、「経済・生活問題」と「健康問題」なんですね(ただ、20代未満では「学校問題」と「健康問題」がトップ2)。


「夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらうか?
 だれもそれを知らぬ!
 (おお! だれが何を知つてゐるものか?)」

と堀口さんがいうから教えて差し上げましょう。
「夕ぐれのこの憂鬱」がどこから来るかといえば、「暇」と「安寧」からくるのであって、「本物の憂鬱」がどこから来るかといえば、「貧乏」と「病気」からくるんです。

「貧乏」と「病気」が憂鬱のリアルなんだけれど、これまた「詩的憂鬱」を詩人は優先させるのねぇ。
「貧乏」の詩をつくると「お前はアカか!」ってなるし、「病気」の詩をつくると、だいたい俳句になっちゃう(病気の俳人は多いでしょう。だいたい近代俳句の創始者たる正岡子規が大病人だったし。体力ないから十七文字が限界なのかしらねぇ)。難しいわねぇ。

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09月16日(金)

起床時刻:13時05分

憂鬱でなければ仕事じゃない。
というタイトルの本がある。
これは、いいかえると、憂鬱でなければ人生じゃない、ということだ。

なぜなら(大多数の無産階級にとって)「仕事をすること」と「生きること」は不可分であるからだ。

しかし、仕事と人生は違う部分もある。

仕事では勝ち続けることがあるかもしれないが、人生は最終的に必ず敗北する。どんな人間でも、最後は経年劣化して死ぬ。

経年劣化の仕方、最後のスクラップのなり方は違うから、
負け方のよしあしはあるが、必ず負ける。

どんな人生の花を咲かせても、最後は、汚く枯れていく。
紫陽花のように。

紫陽花は、
初夏に瑞々しい可憐な花を披露したあと、
夏の日差しに焼かれて枯れて、
最後は茶色く変色し、無残に立ち枯れていく。

桜のように潔く散ることもできず、
老醜をさらして立ち続ける紫陽花。

花の盛りは、わざわざ見物に来てその美しさをめでた人も
今や「汚らしい」とばかり、目をそらして去っていく。

私たちの人生は、そんな紫陽花に似ている。

「夏の日に焼かれ枯(すが)るる紫陽花は立ち続けたり罰の如くに」

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09月15日(木)

起床時刻:08時00分

日々是ゲーム。
私にとっては(中国人の業者にとってもそうだろうが)、
ゲームとは労働である。

労働とは何ぞや?
命を削って命を養うことなり。

赤子がこの世に生まれるとき
オギャーと泣くのも
「生まれちゃったよ、まじかよ、冗談じゃねぇや」
という意味ならん。

なんとなれば、
働くことも悩みもなかった暗黒の世界から、
働くことも悩みも満載の暗黒の世界へ
引きずりだされたがためなり。

あぁ、いやだねぇ。

閑話休題。
父親が福岡空港で買ってきてくれた薩摩蒸気屋のかるかん饅頭。
私の好物なのだが、菓子箱に入っていたしおりにこんなことが書いてあった。

「薩摩には自慢のモノが山ほどあります。
「桜島」「西郷隆盛」「焼酎」「さつま切子」「縄文杉」」

おいおい、「西郷隆盛」が「桜島」と「縄文杉」とならんでるぞ。
一人だけ人間が混じっているが、もはや「西郷隆盛」は、「世界遺産」扱いなんだろうだな。

この「自慢のモノづくし」を日本バージョンでやるとしたら、
「日本には自慢のモノが山ほどあります。
「富士山」「天皇」「鮨」「輪島塗」「白神山地」」
とかになるんだろうか。

しかし日本人の大多数にとっては、特に左翼ではなくても「天皇」が混じることにやや違和感をおぼえる向きもあるんじゃなかろうか。

しかるにカゴンマの人にとっては、西郷どんが入ることに違和感がないんだろうな。もしこれが西郷じゃなくて大久保利通だったら、違和感があるだろうな。

ちなみに薩摩蒸気屋の自慢の和菓子には「かすたどん」「銅鑼殿」「西郷どん」「島津さま」などがあって、西郷翁と島津公は入るんですな。維新の三傑の一人、大久保利通はがん無視されています。

さて、西郷という人は逆賊になったり、許されて銅像が立てられたり、戦後においては、また逆賊扱い(征韓論、ダメ絶対!)になったりと、なかなかよくわからない人である。

戦後日教組的価値観で育てられた私も、西郷といえば、帝国主義的悪しき近代日本の象徴みたいなもんで、日本の恥くらいな印象があるのだが、ここまでカゴンマ県民の敬愛を一身に受ける人が、そこまで悪人なはずがなかろうと思うんですよね。

今度ちゃんと「西郷南州遺訓」を読まないといけないな。
昨日は紀伊国屋に角川文庫版があったのでちょっと立ち読みしたのだが(立花隆もおすすめ本の中に入れていた)、この人はハンパない人だね。

何がハンパないかっていうと、そうですな、たとえば、聖書に「他人の妻をみだらな思いで見るものは目をくりぬいて捨てておしまいなさい」とかいうイエスの言葉があるんだけど、それをどんなに熱心なキリスト教徒でも実行しようとは思わないでしょう。

西郷はね、もし彼がクリスチャンで自分がそういう思いを抱いたのなら、本当にくりぬいちゃうんじゃないかと思わせる、なんていうか、バカ正直さというか肝っ玉というか忠実さというか、そういうものを感じさせる人なんだねえ。

西郷は国民の上に立つ者は「いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければならない」と言ったんですが、多くの人は口では「いいこといいますねぇ」と言っても、絶対に実践しない。実践できない。

しかし西郷は実践するのだ。それが普通だと思っている。多くの人にとっては絶対に無理なことが西郷にはできる。

征韓論みたいな話(もっとも私たちの知る征韓論とニュアンスが違う)でもそうだ。

夕飯の支度をしなければならないので、急いで立ち読み&斜め読みしたので間違っていたらアレだが、西郷は何よりも礼節を重視している。
彼は、朝鮮に礼節を尽くした非武装の使節をまずおくるべきであるという。そうするとその使節は撲殺されるだろうから、そののちに、武力も含めて交渉すべきである、と。そのときは向こうに非があるのだから、武力をもっても許されるみたいなこと(間違っていたらすんません)をいう。

思うに西郷は全く好戦的ではないが、特に平和主義者というわけでもない。彼は礼節主義者である。だから、礼節にたがうようなことは絶対にしないだろう。パールハーバーの奇襲なぞ、西郷なら絶対に許さないことだと思う。
しかも彼の礼節は儀礼的な空虚なものではなく、真心を伴った礼節なのだと思う。策略や計略は嫌いで、真正面から、真心と真心で相対する。これが西郷の礼節だ。

まぁそれはともかく、撲殺されるとわかっている使節になんか、誰がなるんだよ、ぼけぇ!と私は思うが、たぶん、西郷は自分がなって撲殺されてもいいと思っている人なのよ。

多くの人はね、「自分は嫌だけど世の中のためにはあなた犠牲になってください」みたいなところあるでしょ。
でも西郷はそれがない。自分は世の中のために犠牲にすすんでなる。
みんなもそうでしょ?ね?って思ってる。

んなことあるか、ボケェ!

だからまったく、普通じゃない。常人ではない。
礼儀とか義理とか忠義とか人情といっても、普通の人と違う。口先だけじゃない人なのだね。

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09月14日(水)

起床時刻:08時15分

わたくし、また、やらかしてしまった。
トイレのプラスチック製ペーパーフォルダーを割ってしまったのです。

どうやったらあんなもん割るの?って、私も割るまで思っていたが、それはですね、トイレ掃除で前かがみになるとき、無意識のうちにペーパーフォルダーに手をのっけって寄りかかっていたんですな。
そしたら「ぱりっ」と割れてしまったんですな。

「そんなところに寄りかかるな」というお叱りは重々承知だが、トイレ掃除すら「よっこらしょ」という感じなのですわ。ちなみに太ってはいない(それどころか痩せている。最近腹が出てきたが)。

どうも疲れがとれない。

まだギリギリ三十代なのに、この疲労感。
七十とかなったら、まっすぐ立てないんじゃないか。

よく思うんだけど、私、現代医学で見つかっていない病気なんじゃないか。
「アンタはすぐ疲れる」と小さい頃からよく言われるけれども、これも健康体を想定しているからそういう言葉が出てくるわけで、医学がすすみ、私の病気が見つかったならば、「病身ながら、よくがんばっている!」というお褒めの言葉をむしろいただけるのではないか。

しかしまぁ、単なる寝不足というのもあるかもしれない。
眠いピークが夜の11時、12時くらいにくるのだが、そのときはゲームしているから、寝ることはできない。コーヒーを飲んだりして無理に起きていると、今度は2時、3時に寝ようとしても眠れなくなり、4時、5時まで起きているということになる。

『酒とつまみの科学』(成瀬宇平著・ソフトバンク サイエンス・アイ新書)を読む。たとえ疲れていても、酒とつまみに対する探究心は持ち続ける、キリッ。

これは全篇カラーの、なかなか楽しい読み物である。
たいした知見は書かれていないが、写真が豊富。
酒やつまみの写真だけではなく、「酔った勢いで宴会を盛り上げる!(日本の宴会)」というキャプションとともに、ネクタイをハゲ頭にまいた、サラリーマン風おっさんのどじょう踊りのような写真まで掲載されている。
このおっさんの肖像権はどうなっているんだろう。

このおっさんは「酒はストレス解消にも」というキャプションの写真では、大口あけた笑顔で写っておる(こちらの写真では、先ほどの頭のネクタイはちゃんと首の下におさまっている)。この方、著者だよね?著者じゃなかったら、許されないよね?

とまぁ、余計な心配までしてしまうのだが、日本酒には魚があうんだそうだ。知ってた!といいそうだが、日本酒のアルコール類からできたエステル類が魚の臭みをマスキングしてくれるとのこと。

あと日本の大豆加工品(豆腐やお揚げなど)も日本酒にあうんだそうだ。それも知ってた!であるが、「油揚げは焼くだけで立派なつまみに」というキャプションで載っている写真は「厚揚げ」あるいは「生揚げ」であり、「油揚げ=薄上げ」とは違う気がする。

念のためwikiで「油揚げ」をみたら、「油揚げ(あぶらあげ、あぶらげ)は、薄切りにした豆腐を油で揚げた食品。生揚げとは違い薄切りをした豆腐を使用するので内部まで揚がっている。」と定義されているではないか。やっぱり、油揚げってのは薄いんだよ。

ちなみにこの本ちょくちょく、誤植のようなものがある。
P24の「ほろ酔い期」のビールの単位が間違っているし、P71の記述にも、前後から筋の通らない誤りがある。p137にも落丁あり(オーストラリアがオーストラリになっている)。

ひょっとして飲みながら書いて、飲みながら校正したのか!
う~む、こちらも飲みながら読むしかあるまい。

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09月13日(火)

起床時刻:08時25分

朝方まで眠れなかったせいで、眠い。

お昼は最近、割と気に入っている店でボンゴレ・ロッソを食べたのだが、いまいちであった。貝の風味、旨みが感じられない。自分でつくったほうが美味しいかも。麺の湯で加減や味付けは悪くはないけれど。

先般、そこのお店にヨーロッパ系と思われる青年二人組がいたのだが、実によくしゃべっていた。私が店に入ったとき、既に彼らはコーヒーだったのだが、私が約1時間後、食事を終えて店を出るときも、まだまだしゃべり続けていたのである。

何をそんなにしゃべることがあるのか?

そういや、昔勤めていた会社の同僚が、ものすごく無口で、ランチのときもまず口をきかない女性がいた。もともと無口な人なんだけれど(『日常』のまいちゃんか『ハルヒ』の長門くらいの無口さを想定してもらえればいい)、本当に、一言も話さない。

彼女はアメリカの大学に留学していたんだが、こんな無口でだいじょぶか?と心配になった。欧米では、食事中にちゃんと会話するのがマナーなのである。

日本だと「食事中にペラペラ話すな!」という教育もあるから、黙々と食べても問題はないだろうけど、私の感覚だとどうもあんまり静かな食卓もお通夜のように感じられて、居心地がよくない。

一度、その無口な子(既婚・子なし)に「あなたはずいぶん無口だけれど、旦那さんと食事するときも、一切会話がないの?」と聞いたことがある。
そしたら、毎日10個ずつお互いに話題を持ち寄って話すんだそうな。具体的にはどんな話よ?って聞いたら黙っていたけど、まさか私の悪口じゃねぇだろうな?おい。

しかしまぁ、他人と食事をするのは何かとめんどくせぇので、今の会社のように一人でランチに行くシステムは本当にいいと思う。

昨日、伯母の家で、父・伯母・叔父・私の四人で会ってわいわいと楽しく食事をしたわけだけれど、そのとき叔父(最近、離婚して一人身)が「いやぁ、食事っていうのは皆ですると美味しいねぇ。一人だと味気なくていけない」と言ったのに対して、父も伯母も深く首肯し、父も「やっぱり大勢で食べるのが一番おいしい」と言っていた。

「私は一人で食べるほうが好きだけど」とはさすがに空気を読んで言わなかったが、私は食事は一人でするのが好きだ。

一人で食事をするほうが、料理を味わうことに集中できるし、自分のペースで箸もすすめられるし、余計なことにわずらわされないので、美味しく感じる。お酒も一人で飲むほうが飲みすぎない。

そんなわけで、私は一人でいることがすごく好きなんだけれど、父親は一人が嫌いなんだよな。めちゃくちゃ寂しがり屋なんだろう。
母親にはぜひとも長生きしていただかなければ。うちの旦那と父親はあわないから、一緒に暮らすわけにもいかない。となると寂しく寂しく老後を過ごすことになってしまう。

男ってのは、女よりたいてい寂しがり屋だよね。うちの旦那にしてもそうだ。私と一緒にいたいという気持ちが強い。

それってやっぱり人に気を遣ってないからじゃないの?って思ってしまうよ。夫にあれこれ気を遣っている妻は、夫が死ぬと、やれ目の上のたんこぶがいなくなったとばかりに、のびのび、いきいきするのと反対に、夫は妻に気をつかわないから、妻が死ぬと、ひたすら寂しくなる。

あるいは男というのは本質的に「犬」タイプで、集団や組織に属しているときに一番安心感を得るのかもしれない。

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09月12日(月)

起床時刻:11時45分

伯母の家で食事。
うなぎ、きゅうりの酢の物、なめこと豆腐の味噌汁、トマトとサラダ菜、メロンは伯母が用意した分、父が手羽先とにんにく・唐辛子の煮物、私がエリンギとアスパラの塩炒め、漬物各種を用意。

エリンギとアスパラを塩・コショウでいためただけのもの(酒を少し振り掛ける)が美味しいと叔父に褒められた。

料理を褒められたのはいつぶりであろうか。
あ、前、焼き鯖の南蛮漬けやら白和えやらを叔父に出したとき以来かwww

夫はまずいときは大騒ぎ、口にあうときは無言。
だからまぁ無言のときはほっとするわけだ。

褒められると人間、うれしいものである。
しかしまぁ、たいていの人間の仕事は減点法で採点される。
できて当たり前。
料理は美味しくて当たり前。
だから叱られることはあっても褒められることはない。

話が脱線した。
叔父に「毎日家にいてなにしてんの?」と聞かれたので「だらだらしてる」と答えたら「趣味とかないの?」と重ねて聞くので「本を読むことかなぁ」と言って、ちょうどバッグの中に入っていた宮本常一の『塩の道』を取り出した。

そしたら父がちょうど、友人にすすめられて読んだところだ!と興奮してたw。これが若い男女ならセレンディピティ(笑)とかなるのかもしれんが、親ではなwww。

宮本氏の何がすごいって、ド田舎村の警戒心の強い人たちのところにはいって、あれやこれやのことを聞いてくる(聞けてくる)ことだ。短期間で田舎の人に信頼されるような、人徳があったのだろう。そうでなければ、こういう仕事はできない。そういう有徳の人柄がしのばれるような文章である。

そこのところの機微が、田村善次郎さんの解説にうまく表現されていて、「ああ、なるほどなぁ」と納得した(いい解説だ)。

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09月11日

起床時刻:12時30分

本日、父親が葬儀で上京したので、久しぶりに会う。
旦那も同席したのだが、旦那はものすごく嫌々ながら、である。

やりたいこと=ゲームがあるのに、なんで、説教くさいじいさんなんかと同席しなくちゃいけないわけ?!
時間の無駄じゃん!!!

というのが夫の言い分。

*****************
『マーケティングは消費者に勝てるか? 消費者の「無意識」vs.売り手の「
意識」』(ルディー和子 ダイヤモンド社)をぱらぱら読んでいたら、「理性的で合理的な消費者は、大半の購買行動においては存在しない!」と断言する。

人は、理性的に考えず、言葉で考えず、記憶もあやふやで、そもそも、人間の思考や感情の95%は無意識のうちに行動をとっているし、その行動をなぜとったのかも説明できないからである。消費者調査が無意味であると批判されるのも故なしとしない。

「でたらめ」で「いいかげん」な消費者の特徴は、彼女によれば「単純」で「まわりを意識する」こと。この烏合の衆は消費者同士やマスコミとの相互作用を通して情報カスケードを引き起こし、ハリー・ポッターのような(あるいは『冬のソナタ』などの韓流ブーム)大成功ももたらすし、ニューコーク発売のときのような大失敗をもたらすという。

消費者は
(1)まわりに近寄り過ぎない(コミュニケーション頻度が増えてもあまり親密になるのは避ける)
(2)まわりのスピードに合わせる
(3)まわりの真ん中あたりを方向とする
という単純なルールに従って行動しているそうだ。

なるほど、消費だけではなくて、我々は大半の行動も似た指針の中でとっているのではなかろうか。

第二次世界大戦が起こったのも、フクシマのあの大事故が起こったのも、(1)単純で(「政府が大東亜共栄圏のためといったから」「政府が原発は絶対安全といったから」)、(2)まわりにあわせる(反対したら憲兵につかまる、あるいは村八分にされる)という行動パターンだろう。

その結果、想定外の(悪い)結果になった場合に繰り返されるエクスキューズは「悪い政府にだまされて戦争をしたが、戦犯はともかく一般の日本人は悪くなかった」とか「悪い政府にだまされて原発を誘致したが、行政はともかく一般の福島県民は悪くなかった」とかで、「被害者意識」だけを募らせていく。

要するに、反省しないのだ。

第二次世界大戦において日本は被害者であると同時に加害者でもあるし、福島の双葉町は被害者であると同時に福島県への加害者でもある。

私たちは大半の判断を無意識のうちに行っているという。
だからその判断結果に対して意識的な責任は持てないんだと思う。いいかえると95%の無意識下で行われた行動に関して、我々は反省などできない。

話を戻そう。
無意識の結果「まわりにあわせるが、近寄りすぎない」という行動パターンを我々がとっているということの意味は大きい。
即ち、それが我々にとって一番、「楽ちんな生活様式」であるということなのだ。

人間はほっておけば、楽なほう、楽なほうと流れていく。
無意識かでももちろん、楽なほう、楽なほうに流れていく。

「まわりと適度な距離をとりつつ、まわりにあわせて行動する」
これが一番、人間にとって無理のない行動様式なのだろう。

インターネットが爆発的に広がったのも、「まわりと適度な距離」を自然にとれて、かつ、「まわりのかんがえていること」を知ることができるからだろう。

人間関係が希薄になった、と嘆くお年寄りも多いわけだが、人間は本来、希薄な人間関係を求めているのである。
今までは、それが「家の存続というプレッシャー」やら「公的福祉サービスがゼロ」という社会制度により、阻まれてきた。

みんな他の人間がうっとうしくて仕方なかったのである。
無人島に流されるのはいやだが、他人(家族だって他人である)が家の中をうろちょろされるのも、いやなのだ。

本当はそうなんだけど、こんな意見はメインストリームではない。
「家族の絆」や「家族のふれあい」ほど尊いものはなく、「孫に囲まれて嫁に面倒をみてもらうのが一番幸せな老後である」というような通念が強いから、みなそれを言うのだ。まさに「まわりにあわせている」のだが、「まわりにあわせている」という意識すら持てない場合がほとんどで、「自分が昔から持っている意見」のように錯覚することがほとんどなのだ。

ある社会問題に対してとられる「対策」は本質的に人間の本能=無意識に反するものなのだ。
ほうっておけば、金持ちはもっともっと金持ちになりたいし、貧乏人がのたれ死しようと全く関係ない。どうでもいい。
というのが本能なので、ほうっておくとそうなる。
だから労働政策や福祉政策がとられる。

ほうっておけば、人間、子育てとかめんどくさいし、カネかかるし、産むの痛いし、仕事も忙しいから、子供を産まなくなる。
だから、少子化対策がとられれる。

ほうっておけば、人間、介護とかめんどくさいし、カネかかるし、腰をいためるし、仕事も忙しいから、老親の介護をしなくなる。
だから、高齢者福祉政策や介護サービスなどがとられる。

人間の本質なんてそんなもんなんだ。

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09月10日

起床時刻:12時30分

『万延元年のフットボール』(大江健三郎)は普通に面白かったw。

ところで明日は父親が上京してくる。
旦那にも会いたがっており、どこかで会食しようと言う。
(うちに両親をよんだことはない)

旦那のほうは面倒くさいという。
面倒くさいといい続けて、ここ何年も私の両親とは会っていないのだ。
しかし母親は「次に会うときは葬式ってことになりかねないし、顔も忘れるだろうから、会いなさいよ」と強硬だ。

旦那のほうは、家を買ってくれるような金持ちのじじいなら会ってご機嫌をとってもいいが、なんのプラスにもならんただのじじいに会うのなんか時間の無駄だというわけだ。

何しろ、ゲームをしないといけないからな!

夫における優先順位は
ゲーム>>(超えられない壁)>>妻>>>>>夫の両親>>義理の両親
くらいな感じかなぁ。
なぜ妻である私が夫の両親より上かというと、私はゲームを手伝ってあげているからだ。夫のエンピリアル武器作成に多大なる貢献をしているのが妻たる私である。

仕事はというと、愛情度合いでくと、義理の両親より下だろうが、優先順位は仕方なくゲームと同程度だろう。

旦那の人間関係の定義を想像するに

仕事=カネくれるけど、すごく嫌なやつ
ゲーム=カネくれないけど、ずっと一緒にいたいやつ
妻=維持費に見合うだけの働きをしろ
両親=カネないし関心ない
義理の両親=カネないし関心ない
上司=関心ない、仕事しろ
同僚・部下=関心ない、仕事しろ
友達=関心ない

といったところでしょうかね。

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09月09日(金)

起床時刻:08時45分

ヨハン・シュトラウスとシュトラウス二世のウィンナ・ワルツのCDが前から不調で、ところどころ、飛んだり途切れたりするようになっていたのだが、今日は一段と不調さを増している。
仕方ないので、バッハのブランデンブルク交響曲にした。

コオフィを淹れて大江健三郎の『万延元年のフットボール』を読む。
大江はコーヒーのことをコオフィと書く。メンバーのことをメムバーと書く。もちろん、テレビはテレヴィである。

ま、そんなこたぁどうでもいいが、コーヒーよりコオフィのほうが、何か美味しそうな気がするのは気のせいだろうか。

日本人二人目のノーベル賞作家である、大江の作品は今まで読んだことが一度もなかった。(朝日)新聞で時折見かけた彼のコメントがたいてい退屈で、全く興味がなかったのだ。

しかしまぁ、「せっかく日本語で書かれているのに、世界が認めた(?)大江を読まないなんてもったいないじゃないか」という主婦的「もったいない」精神から『万延元年のフットボール』を全然期待しないで読んだのだが、予想外に面白い(どうでもいい夢の話は全部すっ飛ばしている)。

まだ途中なんだが。
「おいおい、途中で感想を書くなよwww」って感じだけど、この小説は面白くて引き込まれて一気呵成に読むものというよりは、ときどき(しばしば)、ページを繰る手をとめて、ふと思案してしまうタイプのものだ。

これって実にすぐれた「田舎小説」なんだ。

漱石も田舎の悪口を書いていたが、漱石は所詮、都会ッコである。大江のほうは田舎モンだから(それもディープな田舎なんだろう)、田舎の、あるいは農民の、「病的」といってもいいような、ちょっと「ぼっけぇきょうてぇ」な、暗さや嫌らしさ、狡猾さや愚鈍さがよく書けている。

「鬱屈しているようでもあり、のんびりしているようでもある特徴的な鈍さはまさに農民の息子のものである」と大江は星男くんを形容するが、田舎というのは、ある種の鈍さがなければやっていけないようなところがある。もちろん、「さりげなく張りめぐらした悪意のある罠」(P221)に気づくだけの俊敏性は必要だが。

どんな家族、あるいは人にもあるであろう、触れられたくない負の歴史が田舎では語り継がれる。ひそかに口承され、時には大幅にゆがめられて。
ゴシップという貴重な娯楽を彼らは甘露のように、何度も舌の上で転がす。

ま、都会のママ友どうしでも「だれそれのママが不倫しているんですって」のような話は、欣喜雀躍して誰もがとびつきそうな話題であるが、田舎だと「ああ、あのママのお母さんだって、旅役者と浮気したってもっぱらの評判だよ。血は争えないねぇ。なにしろ、下の娘、つまりあのママの妹さんね、彼女のお父さんは実はあの旅役者だっていう話だからね。妹のほうは、あの一族の誰とも似つかないきれいな顔立ちをしているのも、そのせいじゃないかってさ」などという母親の代(下手すると祖母の代)からの話まで引っ張り出されるから、余計にめんどくさいのだ。

田舎といえば、なだらかな山に囲まれた盆地で、さらさら流れる小川にはめだかやゲンゴロウが泳ぎ、春には棚田の水田に朧月がうつり、秋には黄金の稲穂が風にそよぐような、のどかな里山の風景を思うだろう。
農民たちは真面目で穏やかで働き者で、子供たちはかもしかのような足をして、野山をかけまわっている。

しかし、これは広告代理店の描く田舎である。
ま、そういう一面もあるだろうが、実際の田舎はこんなものではない。
それはこの本を読むとよくわかる。

この本ではスーパー・マーケットの経営者(かつて迫害されていた朝鮮人部落の出身者)がこの村の醸造家(主人公の家である大庄屋にならぶこの地区の名家)の土地屋敷を買い取り、土蔵をぶちぬいてつくった、その醜悪な(と私には思える)3S2D(SELF SERVICE DISCOUNT DYNAMIC STORE)を描写する(3S2Dと縫い取った「奇妙に明るい黄色の三角棹」の旗竿を酒蔵にかかげ、「壁を打ち抜いて合成樹脂の合板をはりめぐらした土蔵の軒から下っている真紅の垂れ幕には宣伝文句が緑で染め抜かれている」(P150))。

このような安普請で趣味の悪い新施設は田舎で実によく見かける。

私の田舎も「パチンコの里」という名で売り出したほうがいいんじゃないかというくらい、パチンコ屋がひしめいており、夜はパチンコ屋のけばけばしいネオンが実に目立つ。

この村ではまだパチンコ屋はないようだが(そのうちにこの有能な朝鮮系経営者がパチンコ屋をつくるであろう。そしてパチンコが村人の主たる娯楽になり、パチンコとは唇歯輔車の関係にある高利貸しの消費者ローンの看板があちこちに立つだろう)、村の人たちはツケでスーパー・マーケットの消費生活を楽しんでいる。

結局、この「スーパーマーケットの天皇」(「もしかれがすでに日本に帰化しているとしても、朝鮮系の男に、天皇という呼び名をあたえるのは、この谷間の人間のやることらしく底深い悪意にみちているよ」(P155)とは主人公の言だ)に、いまや経済的にこの朝鮮系の男に支配されている(しかしそれを認めたくないから、その感情が陰にこもって「天皇」と呼ばせる末期症状になっていると地域で唯一の知識人である住職はいう)。

この小説においては「記憶」というものの曖昧性も考えさせられる。
それは「歴史」というものの曖昧性ともつながる。

兄たちは朝鮮人の村落に襲撃をかけ(おそらくは大人の巧みな扇動で)、その結果朝鮮人が一人死んだ。兄が殺したわけではないが、兄が朝鮮人に撲殺された。

それは万延元年の一揆につぐ、一族の引き起こした事件である。

この贖罪の羊たる兄を、主人公は村人にバカにされている「まぬけなぐず」だと記憶しており、弟は予科練の外套を着こなし軍刀をさっそうと持つヒーローだと記憶していた。

万延元年の一揆でも、その伝承はちぐはぐだ。
主人公である兄は、曾祖父は一揆の主犯だった彼の弟を逃がしたという。他の一揆加担者は全員惨殺されたのに(それを慙愧にたえなく思って、彼の兄は贖罪の羊を選んだのではなかろうか?という発想も出てくる)

一方、弟は、曾祖父は弟は殺してその肉を食べたという。曾祖父の弟はヒーローだったというのだ。

更には、実は兄と弟は手を組んでいた(第三者にそそのかされた)という住職の見方も出てくる。

いったいどういうものだったのか。
そういう一種の郷土史ミステリ的な面白さもある。
今のところ、面白い。

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09月08日(木)

起床時刻:08時30分

日本の女子サッカーチームがアジア予選を勝ち抜いて、オリンピック出場が決まったことは慶賀の至りだし、女子スポーツはもっと振興してほしいものだと思っているのだが(ソフトボール忘れてません?)、私はこういう国際大会(オリンピック、ワールドカップ、WBC)に対して、いつも嫌な感じをもってしまうのである。

オリンピックは「平和の祭典」などというが、むしろ国どうしの代理戦争じゃないか。

オリンピックやワールドカップに参加して日・中・韓の友好が深まったかというと、逆で、日本に対する執拗な嫌がらせ、ブーイングなどを中継でみるたびに、むしろ「嫌な感じ」がつのるだろう。

「国家の威信」などというものを、勝手に背負わされ、多大なるプレッシャーをかけられる選手たちには同情する。
オリンピックの精神、「参加することに意義がある」などと、敗軍の将が語ったら、国民から袋叩きにあうだろう。

本当に純粋にスポーツを楽しみたいのなら、選手一人ひとりを抽選でグループ分けして、国籍混合のチームをつくり、最優秀チームを競えばいいのだ。

しかしこういう「日教組」的「ゆとり教育」的発想ではスポンサーが誰もつかない。

みんな代理戦争が観たいのだもの。
自分の所属する国の栄光をたたえたいのだ。
もっというと、自分の所属する国は他の国よりすごいのだ、というのを全世界に知らしめたい、のだろう。

その認められたい願望の熱烈さ、激烈さを、北朝鮮を筆頭に、中国からも韓国からも日本からも感じる。その熱にあてられて、私はうんざりするのだ。

『歴史の話』(網野義彦・鶴見俊輔/朝日新聞社)を読むと、網野も鶴見も国家などというフィクションにしばられてはいけない、という。アジアをまたにかけた活発な交流をおこなった中世の海洋民のごとく、「アジア人」的あるいは「世界人」的アイデンティティをもて、と網野や鶴見はいうわけだが、そちらのほうがよほどフィクションなのだ。

左派的議論が空疎なのは、そこらへんの、一般大衆の、リアルな実感とかけはなれて、机上の空論(もっとも網野は自分のことを日本人だと全く思っていないらしいから、リアルな実感なんだろうが)を理想として押し付けることだ。

「え?網野さんって日本人という意識をまったくもっていないの?本当?」と思うだろう。本当である。
彼は沖縄で「ヤマト人」かと聞かれ、「私は「ヤマト」人である意識は全く持ち合わせていない。あえていえば、私は「甲州人」だ<略>」と答えた。

思うんだけどさ、この人海外生活ないでしょう。
単に甲州から東京に出てきただけでしょう。
そこで言葉の問題でいじめられたとかなんとか言っていたけど、海外で暮らすと、たいていは「自分は日本人であるんだな」という意識を持だされる。

私もロンドンで生活するまでは、この人のような薄ぼんやりした日本人意識しかなかったもの。

この人の舞台が日本だから、日本人であることを意識せずに甲州人であることだけを意識していたんだと思うけれども、単に甲州という、より小さい集団あるいは共同体なら排他性、差別性、帝国主義的性格から免れているとでもいうのだろうか。

集団というのは大きかろうが、小さかろうがみんなダメである。

沖縄だって八重山や宮古に対する支配の排他性、差別性、帝国主義的性格はもっている。

人間というのは本質的に排他的なのだ。
そして他人に認められたいという承認欲求を強く、強く持っている。
「すごいね」って言われたい。
個人で「すごいね」といわれる可能性がなければ、所属する共同体-大学、家柄、親戚、友人、村落、県、そして国など自分につながる何かが「すごいね」といわれてほしい。

小さい集団でもそうなるし、大きい集団でもそうなる。

私は集団というのが、心底大嫌いなんだと思う。
鶴見は「鉄の結束」を「考える力を奪うもの」として徹底的に嫌うが、私もその点は鶴見と100%同じだ。

もっとも彼は心情左派らしく、コミュニタリアニズム的な発想はある。そこがダメなところだ。ありとあらゆる集団がダメなんだという認識が薄い。

例えば鶴見は家庭という共同体に信頼を寄せる。
(「大隈信行が、「家庭というのは、飯を食べてもおカネを払わないで、ありがとうと言えばそこで席を立つことができるところだ」と言ったんですが、家庭の中には貨幣からの自由がありますよ。国法からの自由もある程度あるわけです」)。

「貨幣や国家」から自由になる「共同体という場」が、鶴見の至上命題なのかもしれないが、貨幣や国家から自由になった先には、「思想統制と共同体のおきて」が存在するだけだ。

それにさぁ、家族に貨幣からの自由があるって、まぁ確かにニートを養っている家庭は拝金主義に毒されていないすばらしい家庭なんだろうが(まさに「お金をはらわずにご馳走様といって飯だけ食ってる」w)、だいたいは「いい年こいて、働かずして食うだけの、ニートの子供なんか追い出すべき」という意見のほうがよほど主流だよ。

つまらん幻想をリアルなものだと勘違いする-これが左派のいかんところでもあるね。

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09月07日(水)

起床時刻:08時00分

やっと晴れた。
父手作りのブルーベリージャムがおくられてきたので、ヨーグルトにいれて食す。ごはん、豆腐とみょうがの味噌汁、レンコンの胡麻酢あえ、白瓜の浅漬け、海苔が本日の朝ごはん。

書き出してみると、なんか貧しげな感じであるなw(弁解しておくと、うちの旦那は朝食は食べないから旦那には出していないwさすがに切れられる)。

美味しいご飯、美味しい味噌汁、美味しい漬物(自家製がベスト)があれば、それでいいじゃないか。と書いて思ったが、たんぱく質が全然足りないなw。

昨日の夜はこれ(ご飯+味噌汁+浅漬けセットw)に鶏の照焼、濃い目の味付けのお出汁につけておいたトマト(湯むきしておく)とオクラ(塩茹でしておく)、冷奴(薬味はしょうが、大葉、かつおぶし)とかそんなもんだった(野菜がちょっと少ないね。ゲームで忙しかったから仕方ないと言い訳w)。

それと私だけ晩酌。福岡は若竹酒造の筍(TAKENOKO)。水色のおしゃれなボトルである。香りとコクのある純米酒である。私は夏はワイン派なんだけど、東急に出張販売にきていて、試飲して購入(「福岡といえば紅乙女酒造に見学にいったことがあります、耳納連山の麓の」という話をしたら、「あそこはばーちゃんがやってます」だって。縁故関係なのね)。

私はお酒が好きなわりに弱いので、夏の暑いときなんか割って飲んだりする(蔵元に殴られそうだがw)。昨日は冷で一合くらい。

若竹酒造といえば、田辺聖子さんがこんなエッセイをお書きになってるのね。
http://homepage3.nifty.com/wakatakeya/8tanabeseiko.htm

関西といえば、伏見や灘、伊丹、西宮、池田をはじめとして、名だたる酒どころで日本酒の大手メーカーもひしめくところなのに、ほとんど飲んだことないな。まぁ月桂冠や白鶴、寶酒造の日本酒は普通に飲んだことがあるけれど、圧倒的に東北、北陸のお酒ばっかり飲んでる。

最近飲んだお酒を調べてみると、見事に東北と北陸ばかりだった。

「一ノ蔵 松籟」「一ノ蔵 ひめぜんDry/Sweet」は宮城だし、「伝心」も福井だし、「初孫」も山形だし(←知らなくて調べた。「喝采」が好き)。「あさ開」も岩手。「雪の茅舎」も秋田。だいたい試飲して買ってるw。

そば屋で一度だけしか飲んだことない「十四代」も今調べたら山形らしいし。おいしかったので、後で酒屋で買おうとしたらどこも売ってないんだよね。

基本的に酒屋に売ってあるのしか買わないから(売られていないものは飲みたくても買えないw。といいつつ、思い出した、上高地に旅行に行ったあと、旅館で飲んだ地酒がおいしくってネットで探して買ったわw)

だからまぁ、私の趣味なのか酒屋の趣味なのかよくわかんないけどねw。

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09月06日(火)

起床時刻:08時15分

うおおお、ちゃんと起きて会社にいったら誰もおらず、今日は会社が休みだったお。忘れてたw。仕方ないので帰ってきたのだが、早起きすると時間が増えるね。本でもじっくり読むかと思ってたら、うちの旦那が起きてきて「今日は会社休む」だってさ!

というわけで、一日ゲーム、はい、決定!

しかも旦那がいると昼メシがめんどくさい。
私一人ならニラそうめんでいいんだけどさー。
(刻んだニラをごま油で炒めてしょうゆをたらしたのをいつものそうめんの上にのっけて薬味代わりにして食べてもおいしいし、刻んだニラをスープやお出汁に入れてにゅうめんにしてもいいし、卵とニラを具材にしたソーメンチャンプルー風にしてもいいんだよ)

仕方なくお出汁をまずひき、ご飯をたき、ソイミート(肉がなかったので)を湯がいて戻し、しょうがじょうゆ+お出汁につけて味をしみこませ、ピーマン一袋+しょうが+にんにくを刻んでいため、ソイミートを細かく刻んでいれて、豆板醤+お砂糖+しょうゆ+出汁で調味。オイスターソースでいためるとよりアジアン風に。

ご飯とピーマンの炒め物をお皿にもり、その上に目玉焼きを載せる。あとはわかめの味噌汁と、トマト+クレソル+バージンオリーブオイルの和え物と、浅漬けちょこちょこ(ナスと白瓜)。

旦那にソイミートをはじめて食べさせてみたんだが(私のランチ用に買い置きしてある)、「なんだ、これは!こんなもん、食えるか!!」と怒り出したらどうしようとドキドキしていたが、細かく刻んだせいで(あとしっかり目の甘辛味にしたせいで)、普通に食べることができたようだった。エガッタ、エガッタ。

ソイミートはやっぱりしっかりした味付けに合うようだね。
たぶん、麻婆豆腐・茄子などのひき肉代わりや、ひき肉とナスのカレーのひき肉代わりだと、抵抗なく食べてもらえそう。まぁ別にベジタリアンじゃないから普通の肉でもいいんだがw。

『歴史の話』(朝日新聞社・鶴見俊輔と網野義彦の対談本)の続き。
なんかね、お二人とも若いなぁ、青いなぁ、中学生のようだなぁと思ったね。ま、戦中派のじいさまたちなんだけど「青春とは年齢ではない、心の若さである」っていう言葉を思い出したね。

私の中学校では、同和教育、平和教育の授業が割としっかり行われていて、感想文を書かされたりする。私も「無意識のうちに差別をおこなっていないか、自分自身気をつけていきたい」とか「心のうちに平和の砦をきづかなければならない」とか書いていたわけだけれど、馬齢を重ねると、そういうんじゃないんでないの?という気になってくる。

あなたがた、この世で一番大切なカネのこと忘れてるんでないの?とおばさんは思う。

学生のうちは、全関心が勉強、友情、自分自身に向いている。
私もそうだが、金のことなど、これっぽっちも考えたこともなかった。
だから社会問題も、たいてい「心」か「社会制度」か「歴史」に問題を還元してしまうんだな。

心がゆがんでいるから差別がある。
社会制度がゆがんでいるから差別がある。
ゆがんだ歴史観のせいで差別がある。

その場合、ゆがみをなおせば問題解決です!となるわけだが、そういうんじゃないんだよ。

まず第一に心のゆがみは解脱しないかぎり一生なおらないし(心のゆがみを認識することは大切だと思うが)、第二に社会制度をなおすには心構えよりもカネが必要だし、第三にゆがんだ歴史観を正すという歴史観は右翼であれ左翼であれゆがんでいる。
そもそも人間は神の目をもてないので、本質的に、いつだってゆがんでいるのだ。

ホリエモンがかつて「カネで買えないものはほとんどない」といっていたけど、これは本当であって、カネがあればたいていの社会問題さえ解決するのだ。なぜ王家が支配する封建的なサウジアラビアで革命が起きないか?なぜ人権抑圧の中国で革命が起きないか?前者はオイル・マネーがあるからであり、後者は格差を伴いつつも、急激な経済成長で人々が年々歳々豊かになっているからだ。

逆に言うと、フランス革命やロシア革命が起きたのは、フランスやロシアの一般人民がとても貧乏だったからえある。腹をすかせてぶちぎれたのだ。

カネの難しいところは、カネは諸悪の根源である一方で、ありとあらゆる問題を解決できる万能薬でもあるという二面性なんだよね。

しかるに鶴見は拝金主義を徹底的に嫌う。
カネによって人間は堕落するというのは正しい。しかしこれだけでは学生の発想である。
カネによって人間は救われるという視点がかけては、所詮、中学校の学級会どまりなんだよね。

網野も言ってるじゃない。
「私が『無縁・公界(くがい)・楽』を書いたときには、<略>中沢新一さんに「網野さんのやってることは、結局は資本主義になるね」と言われたんです。確かにそう言われてみると、市場という場はそこに入ったら物も人もいったんは無縁の状態、つまり誰のものでもなくしてしまう」(p59)

拝金主義の世界であれば、金さえもっていれば、人種や民族や思想信条にかかわらず、受け入れられる。朝鮮人の金であろうが、日本人の金であろうが、金は金なのだ。逆にいうと、金がなければ、貴族の末裔も、貧しい移民の子供も扱いは同じ。これが拝金主義の本質である。

金の前では人の上に人はなく、人の下に人はない。というか、金のあるやつが上で、金のないやつが下であり、それ以外の、人種や民族や性別や出自や血統や文化や習慣や宗教や思想は全て不問に帰されるのである。

鶴見だって、アジア人が経済発展でカネを持つようになってきたから、これから日本人は「おいお前」なんていえない、彼らの言うことを聞かなくちゃいけなくなる、だから「結局はカネ信仰といういやなものがバネになって」、「家永裁判は原告側が勝つと思います」といっている(んなこともなかったわけだが)。

鶴見は日本人が戦後「天皇崇拝からカネ崇拝」に切り替えたと憎憎しげに非難しているが、日本だけではなく世界各国、あまねく信仰されている宗教、それがカネ信仰なのである。

世界唯一神なのである。

ま、タリバンとかはカネ信仰の信者ではないのかもしれないが、鶴見はタリバン的思想強制はこの世で一番嫌いだろう。

鶴見の夢想する「地球民」をまとめうるものがあるとしたら、それはカネ(信仰)と共通言語しかない(あるいは「宇宙民」による地球侵略という地球民共通敵の出現くらいですな)。

キリスト教徒もイスラム教徒も仏教徒もヒンズー教徒も新興宗教徒も、マネー神だけは共通に信仰しいているんだ。すごいことじゃないか。

共通言語というのは、連帯をつくる上で不可欠である。網野は日本語の書き言葉(=文字文化)こそが日本人が一つである、あるいは日本国は一つであるという幻想がうむ元となったという。書き言葉は日本どこでも同じだが、話言葉は薩摩と弘前じゃ通じないくらい違う。本来、東国と西国では別の民族たりうるほど違っているのだと網野はいう。それをまとめたのは共通の書き言葉であったのだ。

逆にいうと、共通のくくりという意識を形成するのに必要なものは、共通言語(公用語、といってもいいだろう)なのだ。
個人的にはエスペラントのような言葉が理想だが、プラクティカルには英語だろうけどね。

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09月05日(月)

起床時刻:07時10分

親がおくってくれた梨を食べているのだが、豊水おいしいねぇ。
生産者のところから、一箱(大きな梨6個入り)きたのだが、はずれがない。
今年の九州は夏が暑かったらしいから、果物の甘みが強いのだろうか。
ブドウもおいしいそうな。
うちの親がいうには(どこの産地かは聞かなかったが)、最近買った二十世紀は外れだったらしいが。二十世紀は二十世紀で、私も好きなんだけどね。

朝日新聞社から出された網野義彦と鶴見俊輔による対談『歴史の話』(対談自体は1994年時点のようで初版は2004年)を読んでいる。

「反日」「左翼」出版社から出た「反日」「左翼」の「進歩的知識人」二人による対談ということで、ネトウヨが読んだら発狂しそうな本ではある。

何しろ、日本人はこのままだと日本人以外の人類にフルボッコにされて殺されるかも!そして日本は滅亡してしまうかも!という危機意識を二人は共有しているのである。

なんでかというと、「日本は過去に悪いこと(侵略戦争、虐殺、暴力、差別などなど、ありとあらゆる悪のフルコース)をしただけではなく、現在進行形で悪を行っているからである」という意識が彼らにはあるのだ。こりゃもう、ネトウヨ、憤死!であろう。

だいたいネトウヨは、「自虐史観」を攻撃する。自虐史観とはざっくりいうと、「過去、日本はアジアを侵略をして、多くのアジア人民を虐殺してしまいました、日本が全面的に、絶対的に悪いです」みたいな見方のことだろう。

しかるにこの二人においては「過去、日本はアジアを侵略をして、多くのアジア人民を虐殺してしまいました、日本が全面的に、絶対的に悪いです」というのは当然であり、常識であるが、それだけじゃなくて、現在進行形で日本は罪を重ねているのである!というのだ。それも微罪ではなく、その結果、日本は滅ぼされるかもしれないレベルの罪を重ねていると言うんであるからびっくりである。

「自虐史観」のもう一歩先にいっているのである。
「自虐未来観」であろうか。

「えええ、日本て、何をそんなひどいことしてるっけ?」
とネトウヨならずとも、思う人もいるだろう。
「ODAだっていっぱいやってるし、国連の拠出金だって、日本だけは大金をきちんきちんと納めているじゃないか、金だけじゃない、礼儀正しい日本人って海外でも知られているんじゃないの?」という疑問もあるでしょう。

そこがいかんのです、そこが!!
「へ?どこ?どこ?」
その無自覚さが既に罪なのですっ!!
(と鶴見と網野ならいうでしょう)

「海外で日本人が礼儀正しいと認められている」、という言葉自体が罪なんです。鶴見は「日本人と外国人を区別することは、日本人とその他全人類を区別することであり、突き詰めていくとそのことが「日本人は人間(日本人以外の人間)から叩かれて滅ぼされるかもしれません」(P27)という。

えええ?中国人だって中国人と外国人を区別しているし、朝鮮人だって朝鮮人と外国人を区別しているし、フランス人だってフランス人と外国人を区別しているし、日本人だってやっていいじゃん?と思う人もいるでしょう。
少なくとも私は思った。

しかし網野はそう思わなくて、「それ(日本人が全人類からフルボッコにされる未来)を回避する道を一生懸命考えているんですが」という。

網野がもごもご述べているところをまとめると、こんなことだろう。回避するキモは、日本国や日本人なんて明治期以降につくられた人工的なものであり、一人ひとりが国家に属するという意識をすて、むしろ甲州人であったり、薩摩人であるという自覚を持つことである。そういう現状を日本人が十二分に認識できたときに、「日本人以外はすべて人間で、日本人だけが人間ではないという状態から離れることができるんじゃないか」(P28)という。

「日本列島は日本人だけのものではない」といった、前ルーピー首相の認識がゴールなんですな。2004年に網野さんは亡くなったんで、鳩山さんが首相になったときは知らなかったんだね。お気の毒に。
鳩山さんも政界にでて首相になんかなったから「ルーピー」だの「宇宙人」だのさんざんバカにされたけど、学問の世界だったら「進歩的知識人」という肩書きでいれただろうにね。

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09月04日

起床時刻:10時30分

書いたことが全部消えてもうた。
昨日も朝までゲーム。

先日、録画しておいた『硫黄島からの手紙』を観た。よくできていると思う。
私の考える典型的な日本軍人というのは、擂鉢山が陥落したときに「武士の本懐を遂げよ!」と自決をせまった足立大佐、栗林中将の勧告に従い、自決せずに退却した西郷らを処刑しようとした伊藤海軍大尉、ほとんどやけくそになって自爆みたいな作戦をとった林陸軍少将といった面々である。
逆境になったり、あせったりすると、頭に血が上ってキィ~~~~~~~ッとなっちゃうタイプね。

うちの旦那も才子だから、陸軍大学校にいけば出世するだろうけど、現場にたてば、足立大佐や伊藤海軍大尉や林陸軍少将と同じく「キィ~~~~~~~~ッ」となっちゃうだろうね。
たかだかゲームにおける危機的場面でも、頭に血がのぼって、「キィ~~~~~~~~ッ」て言ってるくらいだからね。
何か失敗があれば、悪いやつ探しして処刑してそうだ。

家で観ているから、足立大佐が自決をせまったときも「お前一人で死にたいなら死ねよ、カス」って思うけど、私あの場にいたら、多分空気読んで死んでたわ。西郷と仲の良かった野崎も、あれ、完全に空気読んで嫌々死んでいたもんね。

まぁねぇ、あの死に戦で、冷静になれっていうほうが無理だけどね。栗林中将や西中佐が冷静だったのは、アメリカ仕込の合理性のおかげで、「頭に血がのぼりやすい」という日本の伝統を相対化できたからかもしれないけどね。

それにしてもあれだよな。
昭和天皇はもっと降伏宣言を早く出して欲しかったよなぁ。
もっとも、あの時点でも降伏することに軍隊は相当反対したらしいけどね。

天皇に戦争責任があるかといえば、そりゃあ、あるだろうと私は思う。
でも、天皇だってきっと色々空気を読んだんだと思う。
戦争したい!戦争したい!って軍隊や政治家や一部の一般大衆がうずうずしているときに(もちろん、日米開戦に反対した冷静な軍人や政治家や庶民もいたわけだが)、空気を読まずに自分の意見を通せるかって問題ね。

まぁ、あなたも私もたぶん、「じゃあ、そこまで言うのなら」って同意しちゃったりするでしょう。
陛下自身は皇太子時代にヨーロッパで第一次世界大戦の激戦地の跡を視察して「二度とこのような悲惨な戦争はあってはならないと思った」的なコメントをしていて、一部の軍人に腰抜けに思われたくらいだから、自ら「戦争、やろうぜ!やろうぜ!」みたいなことはなかったと思う。

最初は行け行けどんどんだが、米国との圧倒的な物量の違いで、当然ながら負けがこんでくる。となると、負けを取り戻さなくちゃという、ばくち打ちの破滅への道をまっすぐ歩むことになる。

私は思うのだけど、天皇も所詮、普通の人間だから、普通の人間と行動パターンはかわらないし、普通の人間と同じくらいの状況把握能力しかない。

だから、戦争責任はあっても、戦争責任を問えないんだと私は思う。
「よくわかんなかった、ごめんなさい」ってもんだろう。

戦争はよくない。これは間違いないが、もっとよくないのは負け戦をすることだ。明治天皇は戦争責任を問われない。なぜなら、明治天皇のときは勝った(あるいは引き分けた)からだ。
パールハーバーの奇襲が汚いというが、アヘン戦争のイギリスも相当汚いことをやっている。でも戦争責任を問われないのは、これまた勝ったからだ。
結局、勝ったときには裁かれない。

勝てば官軍、負ければ賊軍というのは一面の真理ではなくて、全面的な真理だ。
正義なんて所詮、相対的なものなのである。

まぁでも日本人は骨身にしみて、戦争の悲惨さが先の大戦でわかったはずである。あんな散々な目にあってまた戦争をしたいというのは、前線に絶対出ることのない政治家などの権力者か、日本が戦争をすることによっておいしい思いをする武器商人か、戦争に悲惨さに対する想像力が欠落している人たちだけであろう。

だから、日本国が永久に国際紛争解決手段としての戦争を放棄して、恒久の平和を念願するというのは、少なくとも国民の総意であり、別にアメリカの押し付けでもなんでもないと私は思うのである。

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09月03日

起床時刻:15時00分

朝までゲームをしていた(もとい、させられていた)とはいえ、寝すぎ。
↓みたいな嫌な夢を見て起きた。

山の中腹にある、道の駅のような社員食堂で朝ごはんをなぜか食べていた。
新卒時に入社したところの社食という設定のようだ。窓からは杉木立がみえてなかなかいい空間なのだが、私の朝食のトレイだけ、オレンジがなかった(それに気づいたのはトレイを返却するときで、みんなのトレイにはオレンジの皮がのっていたのだ。で、夢の中でも「私ってどんくさいよなぁ」って思うわけだ)。

始業時間、ぎりぎりに食べ終わって、「やばい」と焦る私。でもって、会社に行くには自転車で行くようで、自分の自転車を探しまわっていて、完全に遅刻する。広い駐輪場なので、とめるときにちゃんと迷わないように確認したのに、わかんない。

「どこだっけ、どこだっけ」とパニクってると、同期の男子が来て「もう会社始まってるよ」と「授業はじまってるよ」みたいなノリでいう。
「みんな、怒ってる?」と聞くと「○○さんがね。でも、多分、出向になってイライラしているからだと思う」みたいなことを答えるので、「あああ、会社行きたくないなぁ」と内心思う。怒られたくないもんなぁ。

その男子とぐずぐず話し込んでいると、高校時代の友達が息せき切ってやってきて、「もう、何してるの!探してたんだよ!なのに、そんなところで悠長に話しなんかして!心配したのに!!」って半泣きになりながら怒り出す。

あ~あ、怒られるってめんどくさいなぁ、と思いながらも、「ごめんね、ごめんね」と腕をさすりながら必死になだめる私。
でも、その子はぷんぷん怒って、怒りながら、売店で豆菓子(ソラマメを乾煎りしたみたいなやつ。私結構、好き)を買うんだけど、私のほうを見向きもしないわけ。あー、普通だったら、私がそれ好きだから、くれるのになぁ。やっぱ怒ってるんだなぁ。って思う。

あーあ、もう考えてみたら、人生怒られっぱなしだよ。こんな、怒られてばっかりの人生なんかほんと嫌だ。

って、思ったところで目が覚めた。

夢が別の世界線の私だとしても、まじでロクなもんじゃないな。
あと「心配したんだから!」ってその友達に怒られるのはリアルあった話で、よほど「なんだかな」って思ったんだろうな。

私は誰かを心配して怒ったことなんかないからなぁ。よくテレビとかで「こんな遅くまでどこに行っていたんだ!心配しただろう!」と深夜帰りの娘をどなりつける親父がでてくるが、なんで怒るんだろうって思うくらいだからな。
「あー、心配した、よく帰ってきたね。これからはあんまり心配かけさせないでね。こっちの寿命が縮むから」って言えばいいだけじゃんね。

私は本当に色んな人に怒られてきた人生なわけで、怒る側にはたったことがあまりないんだな。子供ができると怒る側にたつんだろうけど、子供もいないし。

今はもっぱら旦那に怒られているんだけど、私も怒り返すようにしているんだ。怒鳴られたら、こっちも大声で怒鳴り返す。
内心全然、腹もたたないんだが、怒る人には怒りかえさないといけないらしい。怒らないと、「全然、話を聞いていない」って思うみたいなんだね。あるいは「バカにされている」って思うらしいんだよ。

だからドラマで親父に「あんまり親に心配をかけるな!」といわれた娘は「誰が心配してって頼んだのよ!もう大学生なんだから、ほっといてよ!」と逆切れしないといけないわけだ。

「まぁまぁ、お茶の一杯でも飲んで、心を落ち着けてくださいよ」なんていうと、「バカにすんな!」と怒り狂うこと必定。お母さんも味方してくれないだろう。

うちの旦那もそうだが、何かにつけて怒るわけだ。
マナーが悪い、礼儀をしらない、口の利き方がなってない、不真面目だ、ゆとりだ、バカだと私も私以外に対しても、もういろんな人にむかついているわけだ。こういうおっさんよくいるでしょう。

そうそう先般も少し引用した、丸谷才一と谷崎松子夫人の対談で、松子夫人が「とにかく関西ではあまり聞きつけない言葉で、ちょっと異様に感じましたのは、「これは不愉快だ」という言葉。私なんか、まあ鈍いのかもわかりませんけど、こんなことでそんなに不愉快かしらというようなね。
それから熱海に住むようになって、志賀さんと行き来が始まりましたら、志賀さんもよく「不愉快だ、不愉快だ」って(笑)」
っていうのがあったけど、よくわかる。

うちの旦那もアレだな、志賀直哉と谷崎潤一郎の系譜であるな。
丸谷才一は松子夫人の発言を受けて、志賀直哉の若い頃書いたものなんか、一ページごとに「不愉快だ」って書いてあるなんて茶化していたのがおかしかった。
でも丸谷氏は文学者らしく、そのあとに「あの頃の東京の文学者がやたら不愉快だったのは、一つには自己主張が強くないと文学ができないせいだったのではなかろうか、山崎正和さんの「不機嫌の時代」はその不愉快を研究した非常にいい本です」と続けるわけだが、まぁ確かにあの時代に「文学」の道を志すのは、やはりある種のわがままさ(自己主張と丸谷さんは言うが)がなければ無理だったろう。

戦後の話だが、母の兄は某大学の文学部に進んだのだけど、「商人の子供が文学とは何事か!」と父親に怒られ(もともとソリがあわなかったというのもあるが)勘当されてしまい、私は結構最近までその存在すら知らなかったのである。

家を継ぐという何より大切な「使命」のない次男三男ならもう少し文学をやりやすいだろうが、谷崎は長男である。それが文学を志すというのだから、自己主張も強くなくちゃまず無理だろう。志賀のほうは次男だが、いいとこのボンボンだから甘やかされまくり、自己主張が激しくなったということで説明がつくわけである。

まぁそんなわけで「不愉快だ!不愉快だ!」という人間にずっと振り回されるのが、自己主張の弱い人の宿命なのである。
今の老人はこんなやつばっかりである。
老人の主張を聞いてごらんなさい。
一言でいうと「若者は不愉快である」ということだ。
やれ、マナーがなっていない、礼儀を知らない、ものを知らない、勉強してない、覇気がない、モノを買わない、子供産まない、我慢が足りない、とか、なんとかかんとかかまびすしい。

こんなに老人が不愉快になり放題なのも、若い人が忍耐強いからである。昔の学生運動の闘士のように、先手を制して怒り出せば(しかも「よくわかんない理由で激怒する」という不可解さがより効果的である)、相手も黙るのである。
まぁ私はそういうのは嫌なんであるが、不機嫌に対抗するには不機嫌を以ってせよ、というのが私の結論なんである。

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09月02日(金)

起床時刻:12時35分

網野善彦『歴史と出会う』(洋泉社・2000年)の続き。

網野は、「虐げられた者」、「差別されてきた者」に寄添って、実は彼らはすごいんだという。
例えば水呑み百姓っていうけど実は金もってたんだと能登の水呑み百姓時国家の例を出して言う(水呑み百姓っていうのは土地をもっていない農民であり、時国家は廻船経営や廻船商売を出してリッチだったんだが、農地を持っていないから水呑み百姓とカウントされるんだとさ、江戸時代では)。
我々は水呑み百姓=貧農、水しか飲めないめっちゃ貧農なイメージがあるが、そんなことはないと網野は言うわけだけど、時国家は例外だと思うんだよね。
遊女だって文化の担い手であった人もいるだろうし、栄華を極めて花魁もいるかもしれないが、大多数はただただ哀れであったはず。

普通に考えたらそうなると思うんだけど、これも明治政府に毒された、すりこまれた歴史観なんだろうか。

ところで、網野はこの本の中で「ボクは落ちこぼれです」と何度も主張するんだけど(たぶん「ボクは弱者の立場です、だって落ちこぼれだもん」て言いたいんだろう)、高校の先生(派遣じゃない)になって、大学の教授にまでなったくせに、落ちこぼれとか言うなっつーの、むしろいやみだわ。まぁ本人の中では、東大のアカデミズムに残れなかったっていうんで、イジイジしてんだろうけどさ、普通と感覚が違うんだよ。ていうか少なくとも私とは感覚が違う。

いちいち違和感があるんだよね。なんでだろう。
「(所有に対して)無所有の思想も人間の本質につながるものとして、社会の中に存在しているし、いまでも生きている。それをもう一度自覚的に掘り出さないと、たぶん人類は滅びてしまうんじゃないかという気がします」とか言う発言なんかも、ある意味優等生的意見で、誰も反論しないだろうと思うけど、私はひっかかる。「自然はみんなのものであり畏敬の対象である」みたいなアニミズム的無所有観念を「自覚的に発掘」したところで、どうにもならんだろうよ。

だいたい「あの森は鎮守の森である。木材の伐採はまかりならん。森の神様がお怒りなる」みたいな発想をどうやって今にいかすんだよ。森の神様の話なんか誰も聞きやしない。現代人が聞くのは科学者という現代の神様である。「人類の化石燃料の使用がCO2の放出の増加をもたらし、温室効果ガスとなり、地球温暖化を促進している!北極域の平均気温は過去100年間で世界平均の上昇率のほとんど2倍の速さで上昇した。北極の年平均海氷面積は、10年当たり平均2.7%縮小している!!」みたいな言説で「じゃあ、レジ袋やめましょう!」みたいな風潮は生み出されるけれど、「夏が暑くなったのは森の神様のたたりじゃあああ」などという言説はマジキチ扱いされて終わりなんだぜ。

阿部謹也『中世の星の下で』の解説の中で(中世も暗黒時代という見方から最近はあれはあれで結構良かったんちゃう?みたいな見方が支配的になってきているわけだが)、
「本書から学びうるものは、もとよりこれにつきるものではない。学問や文化を築いたのは、一握りの「学者」や「文化人」ではなく、労働し、生業を営むものとしての市民であることをつねに強調し(略)、「私は歴史学を人間の尊厳を確かめてゆく学問のひとつだと考えている」と言い切り(略)、「人間と動物を厳然と区別し、人間のみが世界の主人だ」とする思想を徹底的に拒否する(略)阿部氏のこの著書は全体としてすぐれた現代批判の書であるということもできる。」
と述べいているが、すべて気持ち悪い。

いや、別に、そうだったらいいねと私だって思うが、これほどまでに学問が一般庶民(彼らの好きな言葉でいうと「市民」ね)に開かれた時代はかつて一度もないし、歴史学は人間のクズさを確かめていく学問としかいいようがないし、自然保護の考えはすぐれて現代的なものである。
だから現代批判でもなんでもないような気がするんだが。
ていうか、歴史で現代を批判するのはバカらしい。だって時代精神というものは紆余曲折をえながらも、常に進歩していくものだと思っているからである。
あれ?わたし唯物史観論者なのかwww

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09月01日(木)

起床時刻:07時45分

網野善彦『歴史と出会う』(洋泉社・2000年)をパラパラと読む。

日本の歴史家の「コメ中心史観」(日本では長い間、コメ=金であり、権力の源泉であり、武士と農民が歴史の中心で、それ以外の人たち(漁民、非人、遊女など)はどうでもいいみたいな日本史の見方)を覆そうと文書研究にいそしんだ網野の色んな文章が載っているんだが、どうもひいきのひきたおしっていう感じがしてならない。

確かに歴史の表舞台にあまり登場することのなかった漁民などにスポットをあてることには意義があるし、彼らの活躍と東南アジアを中心とする盛んな交流を描くことにより、明治政府が確立したという「日本は農本国」「日本は海に囲まれた孤島」というイメージを払拭したいという気持ちはわかる。

しかし、「貧しい人たち」「差別された人たち」「しいたげられてきた人たち」に肩入れするあまりに、どうもやりすぎている感じがする。いいかえると、コメ史観を否定するあまり、やりすぎているような感じがする。

例えば網野は「(江戸時代は)これまで農民が人口の八割以上を占めていたとされましたが、実際は、多く見積もっても四割くらいだと思います」(P150)と言っているが、いくらなんでも少なすぎるような気がする。

網野は「農民一色に考えられてきたのはあ、明治政府が戸籍をつくるとき、士農工商で分けて、漁民も林業をしている人も「村」の商人、職人も「百姓」はみな「農」にしちゃったかららしい。

にわかに信じがたいのだが(ていうか村の商人や職人は、たいてい兼業農家だったんじゃ?よく知らんが)そんなに農民が少なかったの?明治政府に洗脳されたままの私にはよくわからん。

それ以外にも、漁民たちが独自のカルチャー、つまり土地=「ニッポン」に縛られない自由な民であると力説するあまり、理想主義的になっているんじゃないかと思われるところもある。

鶴見良行さんとの対談で鶴見さんが言うには、漁民たちが東南アジアに大量に出稼ぎにいったのは「貧しいから出た」というプッシュファクターを中心に見る人が多いけれど、実は向こうにいって一儲けしてやろうというプルファクターもあったのではないか、それはカルチャー的な何かであり、唯物論(金によって物事は決まる)では考えられないのではないかと述べていて、網野も完全同意する。

確かに貧乏になったときに「外に出て行く」という判断にとびつく共同体とそうでない共同体があると思う。例えば日本からのブラジル移民は沖縄人が非常に多かったが、京都人はそんなことない。そこから、沖縄人と京都人のカルチャーの差を知ることができるし、確かにカルチャーの差があったろうとは思うが、しかしなんといっても、貧しさというプッシュ・ファクターが一番でかいだろう、JK。

私はマルクス主義者でも共産主義者でもなんでもないが、下部構造が上部構造を(かなりの部分)決定すると思っている。
沖縄人だって、もし赤貧を洗うがごときでなかったら、あの美しい国、親類縁者も多くいる国から大量移民はしないだろう。漁民だって同じである。

この前の大震災で、三陸海岸や釜石やらあちらのほうの漁港はずたずたのボロボロになった。プッシュファクター(震災によって財産を失った)はできた。
じゃあ、東北の漁民が生来の地に見切りをつけて、一旗あげるために中国なりアジアなり、どこか経済成長著しい海外に移民するかっていうとそんなことはない。彼らは絶対にここに残る!という。めっちゃ土地にしがみついているのである。

この漁民たちのカルチャーの変化はなんなのだろうか?
鶴見や網野なら明治政府に毒されたというのであろうか?

私はその理由は簡単で、震災でボロボロになっても、それでもまだ日本は豊かであるからだと思っている。プル・ファクターなんてのは、実際のところ何もない。いや、プル・ファクターが作動するのは、逆に全てが順風満帆で豊かになりつつあるときだと思う。衣食足りて野望を知るのだ。ハーバードに行く!なんていう気概を持つのも、衣食足りた東京の家の子である。
だいたい腹をすかせてヨロヨロしていたり具合が悪くて寝込んだりしているときに、「いっちょやってやんべ!」という抜山蓋世の気を持つのは無理というもんである。

とはいえ飢え死にするレベルなら、きっと東北を捨ててどこかにいったはずだと思う。絶望というパワーをつかってね。
その行為に過剰な意味(カルチャー)を見出しているのが、網野や鶴見のような気がする。

漁民のカルチャーより、金なんだよ、決め手となるのはね。

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