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起床時刻推移グラフ

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10月31日(月)

起床時刻:10時30分

ダーク・ソウルのせいで寝坊。
今日は久しぶりにゆっくり読書。
先日トピック的に言及した『人は原始、世界は物理法則で動く』(マーク・ブキャナン著)をやっと読み終わったが、実に面白かった。

人間の自由意志とか理性とか合理的思考とかを信じる人にはイラっとくる本だと思うけど、私はほとんど全部「あたしもそう思ってた!」って言いたくなったね。後だしジャンケンみたいだけど!

私の考えだと、ほとんど全員の人が、子どもから年寄り、金持ちから貧乏人にいたるまで、周囲の人を倣って、考えたり行動したりしてると思うんだよね。この本でいえば、人間は「適応する原子」であり「模倣する原子」だと思うんだよね。

本書の第7章「民族はなぜ憎しみあうのか」も、納得感のある説明だった。
人間は仲間との協調を志向する一方で(協調者の多い集団は生存確率が高まるという適者生存の論理とも矛盾しない理由からである)、その同じ傾向から、よそ者に対する盲目的な敵意を持ちうるのだ。

例えば、識者のような連中が「異質なものを排除する日本社会を変えていかなければいけない」と言うけれど、その主張には異論はないが、異質なものを排除するのが人間の長い歴史の中では適応的な行動だったのだ。

だから、私は移民政策にも反対である。経済学者が「日本の経済発展のためには労働力の供給が不可欠だからより移民に門戸を広げよ」とよく言っているけれど、私はやめたほうがいいと思っている。

人間というのは同質の者(社会的規範を同じくする者)と協調し、そうではない者は排除するようにできているのだ。
もちろん、社会のシステムがうまく機能しているとき(失業が低く、経済も成長して、治安もよい)は、理性が働き問題はあまりなかろうが、ひとたび社会不安が顕在化した「緊急時」においては(必ず緊急事態は必ずやっていくる。大不況や天災といった形で)、人間の本能がむくむくともたげてきて、異質の者を排除しようとする気持ちが強まる。時には暴力的な仕方で排除することもあるだろう。だから、最初っから、明らかに異質な者はいれないほうがいいのだ。その理由は私が異質な者が嫌いだからというより、自分自身や他人を信用できないからである。

本書で紹介されているように、人間社会をシュミレートしたコンピュータ・プログラムでは、人間はほうっておくと、同質なものどうしで固まる傾向にある。いわば偏見が「適応的な行動」になるのだ。「異質なものを受容し、多様性に満ちた社会をつくる」というのは左派の理想だけど、そしてそうだったらいいねとは思うが、そういう性善説というか明らかなフィクションに基づいて政策を決めるべきではないと思うんだよね。

ブショーとメザールによる、富の変化に対する人口社会のシュミレーションもまた、興味深い。格差社会が広がるのは経済成長に伴う必然であり、富を手中にするのは個人の才覚よりも運である、というのは、まぁそうだろうなと思う。金持ち連中は自分の努力や才能を喧伝するが(そういう要素ももちろんあろうが)、まぁ、大方は運なのである。だからこそ、一般人が金持ちになろうとすると、願掛けしたり、風水やパワーストーンに頼ったりするのだ。蓄財は努力や才能のゆえであることが確実であるならば、こういう明らかに無駄なことはしないはずなんだから。

経済格差は確実に広がるのだが(物理的な理由で)、それをほうっておくと、社会の協調性が失われ、集団の優位性が低下する。
だから私は平等主義的な政策は長期的にみればペイすることが多いんじゃないかと思っているんだけど、これまた「社会のやる気をなくさせる!」とかって反対されるんだよなぁ。

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10月30日

起床時刻:13時00分

ダーク・ソウルをやっていたせいで目が疲れた&寝坊した。
夕飯はピザ。またブルックリン・ピザ(Lサイズ)である。
あと、コーラとポップコーンシュリンプとポテトとアップルパイである。
毎週、おなじもん食べているな。サイドメニューはかわるけど。

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10月29日

起床時刻:09時10分

昨日、土井善晴先生の「おかずのクッキング」を見たら、「おぜんざい」だった。田舎しるこってやつだ。
土井先生によれば、今は新豆だから早く小豆が煮えるし(20分から30分くらい)、おぜんざいは手間もいらん、ということだったんで、「あー、ぜんざい食べたいなぁ」と思ってスーパーで小豆を買ってきた(「新豆」のときって絶対「新豆」っていうシールが貼ってあるはずなんだけど、それがなかったから、私が買ってきたのは新豆じゃないんだろうなぁ?)

見ていて思った、土井先生の作り方のポイントは三つ。
一つ目は湯でこぼしは一回。
二つ目は湯でこぼすとき、小豆をざるにとったりせず、蛇口のしたに鍋を持っていき、水を入れて、ゆっくりお湯と水がいれかわるのを待つ。こうすると、急激な温度の低下による豆の皺よりや破れを防げる。

このあと、灰汁をとりつつ、小豆を炊いていって(蓋はしていない。けっこう火が強い印象。豆がポコッポコッと踊るくらいの印象。とろ火ではなく強めの弱火くらいか)、充分やわらかくなったら砂糖を入れて吸い口にととのえる(ちょうどいい甘さにするってことらしい)。

そして三つ目のポイントは塩を入れない。
土井先生は「うちの祖母も母も最期に塩を一つまみ入れてましたけど、入れないほうがあっさりと仕上がる」とのこと。
砂糖の量もわりと控えめだったような。
(メモをとっていないので適当だが、小豆300gに対して砂糖200gくらいだった気がする)

さっそく土井方式でつくってみるが、小豆は2,30分じゃゆだらないよ!
1時間くらいゆでたところで、「早くぜんざい喰わせろ!」モードになり、砂糖を投入。あっさり仕上げたいのでグラニュー糖で。
グラニュー糖の量ははかっていないんだけどw、豆250gに対して180gくらいじゃないかなぁ。砂糖の容器の減り具合から察するに、150~200gを入れたと思われる。

そのあと少し煮込んで食べてみると、うん、めっちゃ小豆小豆しているねってかんじ。ぜんざいというより煮豆である。皮も破れていなくて(皺もよっていない)、煮汁もきれいにすんでいるが、それはこれが赤飯に入れる小豆の硬さであって、ぜんざいの小豆の硬さではないからであろう。

もちろん、小豆にちゃんと火はとおっているんだけど、私の場合、母がつくるぜんざいが、豆がほろっとくずれて、汁もすこし白濁しているようなものだったので、こう煮豆然とされていてはなんか違うものな気がしてならない。

まぁでも、味はあっさりしていておいしい。土井先生がいうように、塩を入れないほうがくどくなくて、美味しいな。飽きが来ない。グラニュー糖をつかったのもさっぱりポイントかもしれない。一晩おくと味がなじんでさらによし。
*********
昨日言及した、件の鴨もも肉、半分残っていたので思案の挙句、鴨味噌をつくることにした。
レシピというほどではないが、覚書を記すと、鴨もも肉は筋を断つように細かく切り、炒めて脂を出したらキッチンペーパーで余分な脂はぬぐいつつ、ネギとしょうがのみじん切りをイン。そしてお酒(料理酒ではなく飲む用の酒で。今回は酒がなかったので白ワインの残りw)+お水も少々で、ことこと煮ること2,30分。鴨が柔らかくなったところで、味噌、みりん、砂糖など適当に味つけ。また少し煮てとろりと味噌がなったところで、柚子胡椒(赤いタイプ)と彩りに刻んだネギの青いとこを入れる。
味噌+しょうが+ネギという、臭みを消す三種の神器をつかったおかげで、そこそこ美味しい。柚子の香りとぴりっとしたトウガラシの風味もいい。
しかも鴨肉が実に柔らかく仕上がった。煮すぎると鴨は硬くてパサパサになるけど、お酒でじっくり煮ると柔らかいんだね。

さっそく、高知の白ナスにあわせてみた。
半月に切った白ナスをじっくり焼いてからちょっと出汁で煮て、鴨味噌を絡める。うん、美味しい。

この鴨味噌、淡白なお野菜によくあいそう。シンプルにあっつあつのご飯にのっけて食べてもおいしそうだが。
まぁ鴨嫌いには無理だろうけど(鯖嫌いが鯖の味噌煮を食べられないように)、鴨味噌は鴨好きなら結構いけてると思われ。

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10月28日(金)

起床時刻:10時30分

肉屋(若鶏専門店)に行ったら、合鴨(埼玉産)のもも肉(350円/g)があったんで200g(700円也)買ってきた(ちなみにロースだと400円/gなんだけど、売り切れ。お昼前に行ったのに)。

お昼は鴨南蛮にしようと思って、まず鴨のがっつりとした脂身(たぶん50gはかるくあった)を包丁で切り取って捨てる。次に、フライパンで皮目から焼いて余計な脂分を落とした。むむむ、獣くさい。それにしてもすごい脂である。脂はキッチンペーパーで丁寧にぬぐいとった。

鴨の荒熱がとれたところで、一口大にカット。中はまだ半生である。
んでもって、出汁、みりん、しょうゆのかけつゆの中に入れて鴨を入れ、ネギ、ブロッコリースプラウト(どうしようもなくあまってたんですわ)もぽいっと入れて、ゆでておいたそばをなじませたら、鴨南蛮の完成。

いっただきま~す!
うっ。鴨の臭みが強くて、まずいんですけどっ。

「そうだそうだ、柚子胡椒を入れてみよう」とにおい消しもかねて柚子胡椒を投入。少しましになるが依然まずい。
これならそば屋に行って鴨南蛮食べてくりゃあよかったよ。
鴨の火の入れ方はちょうどよかったんだけど、鴨の臭いと脂っぽさがたえられん。

しかし、自己責任という名のもとに完食する。
デザートに口直しとしていちじくを二個食す。

はーあ、なんか疲労感。ひしひしと疲労感。疲労というより徒労感。

あああ、これってあれ、そうまるで人生のよう!
一生懸命、汗水たらして、ついて、こねて、まるめて作成したライフ・ワークが(あるいは人生そのものでもいいけど)、出来上がってみたら「クソでした」みたいなオチじゃないか!!

こ、こ、こんなことのために俺はがんばってきたのか?
まるでソラールさん@ダーク・ソウルじゃないかっ!!!

やっぱさぁ、鴨はもも肉じゃなくてロースでなきゃダメなんだね。

夕飯の副菜用に高知の四方竹を使って煮物に。
「新物」というシールが貼ってあって思わず購入したもの。

四方竹(一袋380円也。既に水煮してある)は初めて買ったが、細い筍でやわらかくてシャキシャキしていて食べやすい。
秋が旬なんだってさ。
http://www.sunplaza-kochi.co.jp/07isyoku/0410sihouchiku/0402tema.htm

水煮臭さを抜くためにもう一度お湯でさっと湯がき、一緒に煮る予定の油揚げも一緒に油抜きする。
出汁に薄口醤油、みりんを入れて適当に斜め切りした四方竹と短冊に切った油揚げを入れる。

普通の筍同様、かすかなえぐみがあるので、赤い柚子胡椒を入れてみた(この前読んだ野崎さんの本によれば筍ってえぐみがあるものはおからを入れて下湯でしようが、トウガラシを入れて下湯でしようが、どうしたってえぐみが残るんだってさ。頭が地面から出たのを掘り起こした筍は、もうえぐみがある運命らしい。トウガラシを入れると、えぐみが取れるんじゃなくて、えぐみが味覚的にマスキングされる効果があるっていうようなことが書いてあったような)。

ついでに練り胡麻も入れてコクを出してみた。
油揚げと筍の胡麻煮のできあがり。
(これ、栗原はるみさんの本で、ふきと油揚げの胡麻煮が紹介されていて、美味しかったんで、その応用ですな。この胡麻煮、ふきでもおいしいが、うどでもおいしい。癖のある野菜が美味しくいただけるんですな)

かなり美味しい。すごく美味しい。
味付けも自分でいうのもなんだが、ちょうどいい。
出汁が、そばのかけつゆを作る前にとりわけておいたやつなので、結構おいしくひけているし。筍というと木の芽が定番だが、秋が旬の四方竹ならば、柚子の香りもまたよろし。

鴨南蛮の失態を取り返したようなすがすがしい気分になる。
四方竹売っていたら、また買ってこようかな!

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10月27日(木)

起床時刻:08時00分

「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」
斉藤史(昭和15年『魚歌』より)。
ああ、これが過去だったらいいんだけど、現在進行形だから困る。

日本ってさー、昔っから(少なくとも150年くらい前からは)「てーへんだ、てーへんだ!このまま行くと日本は滅びちまう!」といい続けて、国民をあおってきたんだよねぇ。

今は原発事故で放射能まみれになって、「てーへんだ、てーへんだ!」と言っているわけだけど、そもそも原発をこんなにつくったのはですよ、そうしないと、経済的発展ができなくて、日本がてーへんになるからなんですよ!そう政府が言って、そう行政が言って、そう識者が言って、(一部を除いた)国民が納得したわけです。

何しろ、日本は資源がない。
石油がない、石炭がない、天然ガスがない、国土がない、あまっているのは人(最近は「老」人といったほうがいいだろう)ばかり、というお国柄なんですよ。

だから経済発展のためには、原発という低コストで安定的なエネルギー供給源が必要なわけですよ!

国家のエネルギー政策としてではなくて、原発が生きるために必要な人もいる。原発という就職口がほしい、原発交付金みたいな金がほしい、という人たちだ。

原発によって損なわれるかもしれない豊かな国土とか、自然とか、国民の安全とか、畢竟どうでもいいんですよ。大事なのはカネ=今を生きることなんですから。って、福島の双葉町の人たちだけでなく、多くの人たちはそう思っているんじゃなかろうか。

だって、そうしないと死んじゃうんだもん!ニッポンが、福島が、地方が生き残るためには仕方ないんだもん!

(第二次世界大戦の端緒もイメージ的にはこんな感じだったんじゃなかろうか、と私は思うんですよ。そして戦争に勝てば、あるいは原発が事故を起こさなければ、こういう形で責められることはなかったんですよ。だから戦争や原発が悪いのではなく、負ける戦争をしたことや、事故を起こす原発をつくったことが悪いんだよな。まぁ私は原理主義的だから、戦争や原発がそもそも悪いと思ってしまうんだけど)

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10月26日(水)

起床時刻:08時30分

今日はバイト休み。
本日は早起き生活が全然つながらなかった。
せっかく早起きしたというのに。

何年か前の記事によればここは管理人さん一人で趣味的にはじめたサイトらしい。そりゃ、しょっちゅうサーバー落ちるよなぁ。
問題なのは、「早起き生活」は時間を記録することが売りなのに、それができないってことだよねぇ。それってダイエットのために体重計買ったのに体重が測れないみたいなことになんだよねぇ。

もっとも管理人さんだって私みたいな早起きの意思がゼロの人間にだけは文句言われたくないだろう。

私は、でも、「早起き生活」のシンプルなつくりと気負いなくさらっと文章が書ける「今日の気分」欄(この小さなスペースの割に文字制限の上限が4000字←たしか)が好きだったんだ。

だけどさすがにこれだけ落ちるといらっとするので「はてな」に移行しようと思う。続かないかもしれないけどw

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10月25日(火)

起床時刻:08時00分

0~100までの整数を一つ選んで応募してください。
豪華商品当選者は応募者全員が選んだ数字の平均の三分の二にもっとも近かった人です(該当者が二人以上いる場合は抽選で一人に決める)!

1987年、フィナンシャル・タイムズに載った広告である。
合理的に考えてみよう。
応募者が0から100までの数字をランダムに応募した場合、平均は50前後になるだろうから、50の三分の二である33が妥当だろう。
しかし他の応募者も同じように考えた場合、そのときは全員が33を選ぶから平均は22になる。
これをすすめると、0になる。0の三分の二は0だから、全員が合理的ならば0になるはずなのだ。
(実際の結果はというと、33と22を選んだ人が多く、平均は18.9で当選者は13を選んだ人だったそうな)

これはシカゴ大学のリチャード・セイラーの試みた実験で、まぁ大半は合理的ではないということを示したかったんだろう。フィナンシャル・タイムズのような高い新聞を買える層でもこれなんだから。そして合理的な選択だから儲かるというのは幻想であるということも示しているわけだ。儲けの才能と合理性には連関がない。

次はこんな問題。
バット1本とボール1個の値段を合計すると、1.10ドルで、バットはボールよりも1ドル高い場合、ボールの値段はいくらでしょう。
「簡単じゃん、ボールは0.1ドル、バットは1ドルだよ」という人(私である)、ブブー。
ボールは0.05ドル、バットは1.05ドルが正解。
言われてみりゃあそうだ!

ひっかけ問題にひっかかる粗忽者は私だけではない。
プリンストン大学の50%がひっかかったそうなのである。
日能研の子供のほうが上だな。

これは人間というのは基本的に二つのシステム、直感的な部分と合理的な部分からなっており、基本的には直感に従って動いていることを示している。

お次の問題。
HIV検査で陽性の場合、99.9%の制度で陽性を示す。
アメリカのとおりからランダムにだれかを選び出し、HIVの検査をしたとしよう。ただし、HIVの感染リスクが高いとされる人(麻薬中毒患者や男性の同性愛者)ではなく、低リスク集団(感染確率は0.01%)の中からランダム抽出である。検査結果が陽性を示していたら、その人が本当にHIVに感染している可能性はどのくらいだろうか。

「え?99.9%でしょ?つまりほぼ感染しているでしょ?」と思ったあなた(私である)、ブブー。
正解は50%である。
そもそもランダムに選んだ人物がHIV陽性だとは考えにくいことに思いいたらなければならない。つまり検査した人物がHIVに感染している可能性0.01%と検査ミスの可能性が同じ0.01%であるから、50%が正解なのだ。
これは医師ですら40%も間違えたそうで、「われわれの思考本能に問題があるんだから、間違えたとしても落ち込まなくていい」とマーク・ブキャナンは慰めてくれるが(昨日紹介した本からの引用)、しかし落ち込む。三回連続正解をはずして三振した身としては落ち込む。

ブキャナンはここで、「頭蓋骨はモダンでも中身は石器時代のまま」である我々人間の思考の姿を簡単な設問によって明らかにしているんだけど、私なんか、かなりな旧石器人間であるな。

自分でも感情中心の、合理性ゼロの、旧石器型人間だと思うんだけど、これって女だからなのか?

「男性脳」「女性脳」に関していえば、会社で私の横の席の人(男である)が言っていたんだが、女性の脳と男性の脳に性差はない、例えば論理的思考力や空間把握能力でも実は性差がないんだと言っていた。知能テストによくある多面体の展開図、あれが一番男性と女性の得点結果がわかれるんだそうだけど、あれも女性に「これができる人は共感性の高い人です」という暗示をかけた後で、テストをやると男女差はないんだといっていた。つまり自分で「できない、できない」と暗示をかけているからできないのであって、女性が得意である(あるいは得意であると思われたい)「共感性」を示す分野であるといわれればできるようになるんだから、というわけだ(これはいろんな追試で正しさが認められているんだそうな)。

うそーーーん!

彼が続けて言うには「脳に関する議論なんて信用ならない。例えば戦前、ハワイでは日本からの移民を制限するのに、日本人は論理的ではないから移民を受け入れられないなんて言説がまかりとおっていた。もしそんな理由で、「帰れ」って言われたらどう思う?」。
「ですよねーって言って帰る」と答えた私はとことん、ヘタレなのかもしれない。あるいは、私はとことん独断と偏見にまみれているんだと思う。
女より男のほうが論理的だと思っちゃうの。空間把握能力も上だし(パイロットの数をみよ!ダーク・ソウルの神しばりプレイをしている人を見よ!)、頭いいと思っちゃうの(女のほうが上の部分もあるよ。例えば、食べたことないものを食べようとするチャレンジ精神は女が上かもしれん)。

私、19世紀の人間なのかしらん?いや、旧石器時代の人間だった!!

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10月24日(月)

起床時刻:06時07分

『人は原子、世界は物理法則で動く 社会物理学で読み解く人間行動』(マーク・ブキャナン/白揚社)を読んでいたら、「株価は予測できるか」という章で、「実地調査にもとづく数多くの研究を見れば、投資に関する予測の試みでうまくいったものは事実上一つもなく、例外的にうまくいったとしても、一時的か偶然のおかげだったことがわかっている」(P121)とあるった。

株式市場で儲けることをシンプル化したといってもいい、「マイノリティ・ゲーム(プレイヤーの目標がマイノリティになること、つまり他の大半の人と違う異なる選択をしようとすること)」を研究した張翼成とダミアン・シャレーによれば、参加者が少人数の場合には、集団がもたらす帰結は予想可能なパターンに従うが、十分な人数が参加した場合には、予測可能なパターンは消失して、予測不可能な無秩序の状態になってしまう、らしい。

これを聞いて「やっぱり、株価の予測なんて無理なんだよ」と私は思ったが、ニール・ジョンソンは「ていうことは、時折は予測可能な状態になるってこと?」と思った。

ジョンソンはいくつかの理論を組みあわせて、仮想モデルのエージェント(プレイヤー)たちの頭にわりふった。このモデルをずっと先までランさせれば、実際の市場の動向を予測できるのではないだろうか、と考えたわけだ。その結果、市場を予測するのが比較的容易になる特定の時点を突き止められることを見出した。
「それは人々が市場から退出するか、多数の人々が同じ戦略を使い出したために、機能している戦略の数が事実上減少した時点である。ジョンソンは予測が比較的容易になるこれらの時点を「予測可能ポケット」と呼んだ。」

実際、ドル円のデータを使って行った実証実験では4000にもなる連続した一連の相場から予測に適した90ほどのポケットを突き止めた。「さらに彼らのモデルは、これらのすべてのポケットについて、相場の変動方向をほぼ100%正しく予測し、誤った予測を与えたのはわずかに一回だった。」(N.Gupta, R.Hauser, N.E.Johnson, "Using artificial markets to forecast financial time-series"を参照)

なんかすごい発見のようだが、つまりは①この前の地震の直後のように人々が市場から退出して、極端にプレイヤーが少なくなっているときは値動きが予測しやすい、②相場が安定的なときはトレンドにのればOKっていうヤツじゃないか。

①のケースのときは相場に参加しようにも参加できない人が多い(sinzyさんだって、追証が払えなくて市場から”強制退出”させられたようなもんだ)。
だから有効なのは②のケースだ。
私も移動平均の順バリ戦略というシンプルこの上ないやり方が一番儲かると思っているんだけど、問題は利益確定のタイミングだ。
ずーっと含み益をかかえていてホクホクしていたら、ある日「予想外の」出来事によって(予想外の出来事が必ず起こるんだ)市場が暴落する。あるいは暴騰する。その場合、含み益がぜーんぶふっとんで、売りポジションの場合は、借金まで発生するかもしれない。
つまり、予想ポケットが終了するのがいつかが問題なのだ(多分、発生を見極めるほうが簡単だ)。何しろ専門家に言わせると「予想外」なんだから、いつだって。

というわけで、sinzyさんを思い出し、半年ぶりくらいにメールをしてみた。本当はsinzyさんが昔、8万円くらいで売っていた「株式市場必勝法」って何?って聞きたかったんだけどさwww。さすがにタダで教えろとはいいにくくて、言わなかったけどwww。いや、儲けるつもりじゃなくて(もう投資には懲りてるw、sinzyさんに依頼した以外でも負けまくりだよ)、just out of curiosityで聞きたいんだけどねっ。

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10月23日

起床時刻:13時30分

ダーク・ソウル、旦那はすでにトロフィーコンプで今や二キャラ目での周回プレイに入っているというのに、私はいまだに「センの古城」なんですけどっ。タイム・アタックでは2時間とかでクリアしちゃう人がいるというのに。他人がやっていると簡単そうなのに、自分がやってみるとなんと難しいことか。

ああ、思えば実人生においても他人はなんと簡単そうにすいすいとわたっていることであろう!
子供の頃は親のようになるのは容易いことだと思っていたが、いざ自分が社会人というプレイヤーになってみたら、"YOU DIED"の連続である。ゲーム同様、全然、前にすすまないんだ、この人生。

周りの人に比べてみても、明らかに進みが遅い。私くらいのプレイ時間(=年齢)ならば、もう、「アノール・ロンド」のボスを倒し、「小ロンド遺跡」を攻略しているだろう頃なのに、私はというと、その前の(センの古城)、その前の(病み村)、その前の(最下層)、その前の面(不死街下層)あたりをうろついているんだ。

前も書いたけど、母親にいつも言われていたのは「人が1回でできることが、あんたには10回かかる。人が10回やればできることが、あんたには100回かかる」ということだ。
私の寿命が800才なら、焦る必要もないんだがな!

はーあ、それにしても私って本当に何をやらせても不器用なんだよなぁ。
何の取り柄もない。ただのダメ人間。

というわけで、「アノール・ロンド」にたどりついたところ(AM4:00すぎ)には、リアルに思いを馳せすぎて「これ以上やるとうつ病になる」と思って寝た。

抑うつ気味の私はさておき、うちの旦那が語るには、「ダーク・ソウルは、前回のデモンズ・ソウルに面白さは及ばないものの、及第点はあげられる」との感想であった。前回は難しさのバランスがちょうどよかったが(たぶん、偶然の産物である)今回は、変に難しくしようとして落下死とかが多すぎる、と言うのだ。巨人墓地みたいに真っ暗だったり、結晶洞窟みたいに道がみえなかったり。

私も、デモンズのほうがよかったかなぁと思う。
絵は(特に空とか雲とか)すごくきれいになったけど。

ま、「まだアノール・ロンドをうろついているだけのお前が語るな!」といわれれば「サーセンwww」としかいいようがないけど(「病み村」に長く滞在しすぎた身としては、壮麗な「アノール・ロンド」に来た時はテンションあがったんだけど、ただ部屋がいっぱいあるだけのエリアな気もするな)。

しっかし、私ときたら、ゲームも人生も入り口あたりをうろついているだけなんで、何も語れんなwww。

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10月22日

起床時刻:10時00分

『迷走する家族』(山田昌弘著2005年)を読む。
実にわかりやすく、簡明な記述に好感。

結局、日本の家族問題っていうのは、①戦後家族モデル(夫は外で働き妻は家事と子育てをし、豊かな家族をつくる)の魅力と実現性が低下してしまったこと、②またそれにかわる新たなモデルがつくりだせないことにある。

山田は希望する家族を形成できなかった人々は社会にとって不安定要因になるとし、「人々が生き生きと希望をもって生活するためには、「努力すれば報われる」という見通しが必要である(山田『希望格差社会』)と言う。

「努力すれば報われる」社会のほうが本当は異常事態なんだけどね。
中国の今の「生き生き」感は高度経済成長に裏付けられているけれど、花もいつかは散っていくように、人の盛りもいつか過ぎ行くように、高度経済成長もいつかは必ず終焉がくる。

結局、人の「生き生き感」っていうのが、「相対的な収入の増大」であるとするならば、社会全体のパイが増えているときは、能力のない人の努力も報われる(=能力がなくても真面目にやってりゃ、相対的な収入の増大と豊かさの実感が得られる)けれど、低成長時代に入れば、パイを奪い合うことになり、能力のない人の努力は無駄になるってわけだ。

筆者はコンニチの家族問題への対策として①若者の将来にわたる経済基盤の強化②社会制度から「漏れた」人々への支援プログラム③多元的で誰でも実現できる家族モデルの創造を提言する。

①については「単に生活が保障されるというだけでなく、「努力が報われる」(評価される)システムを構築することが急務である。これは、単に経済基盤だけでなく、若者が希望をもつことが可能になるという意味で、心理基盤の強化につながる」(P254)というが、あのねぇ、「努力すれば報われる」っていうのは、「人間みな平等だ」っていうのと同じくファンタジーなのよ。それは運という神様に属する領域をどうこうするような試みであって、共産主義のような幻想、あるいはユートピア思想なの。同じ10の努力をしても1の結果しか出せない人と10の結果が出せる人がいるっていう当たり前のことを忘れちゃいないかな?1の結果しか出せない人は、結局報われないのよ。「努力に報いる社会」っていうのは、結果の平等ということを言い出しているのと同じよ。

②に関しては、本当に学者先生とかお役所っていうのは「支援プログラム」が好きだけど、「支援プログラム」で仕事ができるようになれば話は簡単だっつーの。支援プログラムなんていうのは役所のエクスキューズなのよ、何か対策とっています!っていう。
だいたいエクセルの表計算ができるようになった、簿記ができるようになった、英語ができるようになった、という理由だけで社会制度から漏れた人々(職歴なしの経験なし)を企業が採用すると思う?エクセルできません、英語もしゃべれませんのCEOがいるのは何で?経験のほうが、学校で習ったあれこれよりもずっと価値があるんだよ。

③については「使い捨てられた」(wasted)弱者があふれる社会が到来するのは間違いない。
そんななかで新しい家族モデルっていうのは、江戸時代みたいな共働きだろう。今も結構そうなっている。「一人ぶちは食えないが、二人ぶちは食える」から所帯を持つっていうやつだ。

おそらく「勝ち組」家族をうらやまないことから始まるんだろうな。分を知るということだ。江戸時代だって、大名や大町人と、長屋暮らしの熊さん八つぁんとでは暮らしが違ったのだ。でもそれを受け入れてきた。
「社会階層をあがる」という希望を持つことをやめ、「あきらめる」ことが幸せにつながるんだろう。前近代のような社会階層に応じた家族モデルが出てくるんだろうね。

まぁいろいろ書いたが、結局、世の中、金だよ金。
金さえあれば問題の八割がたは解決するんですよ。
金がなくなると潜在的な問題が顕在化する。
お父さんがリストラされると離婚につながるというのと同じ。
金がなくなると、個人が、家庭が、社会が不安定化する。

社会の安定をはかるためには、結果の平等を促進するためにある程度金もばらまかないと(再配分しないと)いけない。希望を持てない無能力者が自暴自棄になってテロリストにならないようにするためにね。

よく金持ちが「累進課税を強めると働く意欲が失われて、日本の経済に悪影響を与える」とか「能力のある人間が海外に逃げて日本の経済競争力が失われる」とかいうが、今まで税金を理由に働くのをやめた金持ちなんぞいないんだよ。ま、日本の税金を嫌って海外に住んでいる(ふりをする)人間は武富士の創業者一族からハリー・ポッターの翻訳者まで大勢いるけどな。ま、金持ちの愛国心なんてそんなもんだぜ。

だからまぁ、現代日本の家族がかかえる諸問題に対する処方箋はカネと結果の平等じゃないの?昔の日本は共産主義社会よりも共産主義的だといわれてきたけど(それだけ結果の平等が強い国だったということ)、それが日本社会にもたらしてきた、目に見えない価値(安定性、低犯罪、スラムがないとか)をちゃんと考える必要がある。ローコストだといわれた原発にとんでもないコストがひそんでいたように、効率的だといわれるニュー・エコノミーにもとんでもないコストがひそんでいるんじゃないかねぇ。

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10月21日(金)

起床時刻:11時30分

一日中、旅行の計画を練る。
青森に行くつもりなのだが、2万円前後で泊まれる趣味のいい温泉宿って少ないような気がする。

かなりリーズナブルなホテル(八甲田ホテルのようなクソ高いとこもあるが)は多いんだけどねぇ。ま、今はどこもリーズナブルなホテルだらけかもしれんけど。

温泉はというと、「秘湯の湯」系はいっぱいあるんだけど、どうにもこうにもディープすぎる。湯治に行くならいいけど(でも思うんだけどさ、本当に弱っている人は湯治って無理なんじゃww山奥だから薬局も病院も近くにないし、建物はバリアフリーじゃないっぽいし、宿によってはベッドも椅子もないし(膝が悪い人には苦痛だろう)、おまけに自炊だったりするしww)。

楽天トラベルの口コミ、トリップアドバイザーの口コミ(楽天より厳しめな意見が多いような気がするが、結構参考になる)を見つつ、立地でホテルを決めちゃったんだけど。

昔に比べたら宿選びも変わったよなぁ。口コミって案外バカにできない。楽天の口コミで超高評価の「しおり絵」さん(上高地のほうにある)に以前泊まったら、本当に素晴らしい宿だった(ハードはしょぼいが、ホスピタリティと料理は最高)。

ま、それはともかく、自分が九州人ってこともあり、東北って位置関係がよくわかんなかったんだけど、今回かなり学習したんで、行きたいところが色々できた。うちの親が来年古稀になるので、東北旅行に行ってもいいかもしれんが、山寺とか平泉とか、結構足を使うので父親はまわれないだろう。山寺(立石寺)なんか連れて行った日には「嫌がらせですか」になりかねない。昔の人はユニバーサル・デザインとか完全無視だからな。自分もなるべく早いうちに行った方がいいだろう。

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10月20日(木)

起床時刻:08時15分

『裁判長!桃太郎は「強盗致傷」です!~むかし話を刑法で裁いたら」(小林剛監修/永岡書店)を読んだ。

もちろん架空の人間は法律で裁けないので、単なるお遊びなんだが、面白いし、楽しい。ま、私が日本むかし話や童話の類が好きではなかったので、快哉を叫ぶ(おおげさ)部分もあるだろう。

私が幼い頃好きだった絵本は、『カロリーヌの世界の旅』。
カロリーヌというかわいい少女(今思えばフランス人)が、動物たちと世界をまわる話。オランダの民族衣装やインドのサリーを着てコスプレしたり、チーズを転がしたり象に乗ったりして、愉快な珍道中が描かれている。

一方、日本むかし話はというと、陰気くさく、びんぼくさく、暴力にあふれており、拝金主義・強欲・支配欲といった人間のあさましさに満ちており、かつユーモアのセンスはゼロ。読む気しない。聞く気しない。

日本を代表する昔話、「桃太郎」からして好きじゃない。

桃太郎は「黍だんご」で犬、猿、雉を「お供」にする。
犬、猿、雉は単なる「鬼退治」における「傭兵」であり、桃太郎との間にはなんの感情の交流もない。

一方、カロリーヌと動物たちは友情で結ばれている。動物たちはお供じゃないし、ましてやカロリーヌは金品で彼らを買収したりはしていない。

傭兵を連れた桃太郎軍団はどこへ行くかというと、鬼退治に行く。
鬼退治というが、桃太郎自身は別に何の被害も受けていない。「鬼ヶ島というところに住む鬼が、あちこちの人から宝を奪う悪い奴らしいから倒しにいく」という伝聞推定な理由で行く。イラク戦争のときのアメリカ以上に適当な理由である。せめて、桃太郎が鬼による犯罪行為の遺児であれば、説得力があるんだが。

一方、カロリーヌと動物たちは世界各地を旅行する。カネの心配などせずに楽しく愉快に豪遊する。どこも攻めないし、どこからも攻められない。なんと平和。なんと素晴らしい。

ちなみに、この本では「鬼」というよそ者を勝手に退治した桃太郎の行為が焦点となっている(桃太郎は警察に届けるべきであった)。桃太郎の行為を強盗致傷とみなし、量刑は懲役25年(ただし、正義感が動機で、鬼の宝を独占せずにもとの持ち主に返したような場合には情状から減刑も考慮されるはず)が言い渡されている。

また、「ま~さかり、か~ついだ金太郎~♪」はというと、この本では銃刀法違反に問われている(金太郎は熊を相撲で負かすが、これがもし合意の上の遊びではなく金太郎による一方的な虐待の場合は傷害罪が成立する可能性があるし、金太郎のように猟師ではない人間が動物相手に格闘すると動物愛護法に触れる可能性もある)。

だいたい、「まさかり」かついでウロチョロするなんて野蛮よ、野蛮っ。
どこの不良よっ。

カロリーヌは「まさかり」どころか、銃も持っていないし、動物たちと相撲をとることもない。ましてや動物を負かして、子分にすることもない。

そう、カロリーヌの世界は動物たちと横の関係(おともだち)だが、桃太郎や金太郎は動物たちと縦の関係(主人と家来)なのだ。ていうか、日本むかし話は基本、どの関係も全部、縦の関係なんだよね(「友情」に基づいて行動する人物は一人もいない。どいつもこいつも「退治」か「あだ討ち」か「恩返し」という動機しか持たない。なんてつまんない人たちなんでしょうね、昔の人は)。

「カチカチ山」の残虐な行為(おばあさんの「あだ討ち」として、ウサギは生きたまま狸を燃やそうとするわ、大やけどを負った狸にトウガラシ味噌を塗るわ、泥舟にのせて沈ませ、最後は命乞いする狸に対して櫓で狸をしずめて殺すわ、このウサギはまじで鬼畜でしょう)は目を覆うばかりだし。

最近はこれはあまりにもひどいということで、おばあさんは「ばばあ汁」(すげぇネーミングだなw)にはされず、タヌキも改心したら許してもらえるようになったりしているらしい。桃太郎も「「暴力的な話」だとして、絵本や子供向けの書籍では「鬼退治」ではなく「話し合いで解決した」などと改変されている」らしい。

芥川の「桃太郎」くらいに改変すれば面白いが(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html)、この面白さはパロディの面白さなんで元ネタを知っておかなくちゃつまらない、と言うジレンマがでてくる。ということは、改変などしないほうがいいと思んじゃないか。もとの話がひどけりゃひどいだけ、パロディも面白くなるんだから。

さらには改変をしないことで、むしろ、いくつかの有益な教訓がひきだされる。
それは「人間というのは本来、強欲で、暴力的で、残虐なものである」ということ。そして「モラルも時代精神の反映でしかなく、絶対的に正しいことなどこの世に存在しない」ということ。
(日本昔話だけではなくて、「ジャックと豆の木」なんかも相当ひどい話だ。グローバルに上の原則はあてはまる)

今の若者は「切れやすい」だの「人の気持ちがわからない」だの「コミュニケーション能力が低い」だのといわれるが、昔話に出てくる登場人物に比べれば、格段にましである(たとえば、海幸彦と山幸彦というクズ二人。あ、山幸彦はご皇室のご先祖様らしいのでクズなどといってはお叱りを受けそうだが、まぁ、不注意者のロクデナシである)。
「最近の若者は~」といいたがる人には視点の相対化にも役立つであろう。

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10月19日(水)

起床時刻:08時30分

なんか急に寒くなった。
ミルクティと焼いておいたカレー・チキンとアボカド、キャベツを軽くトーストしたパンにはさんで朝食とする。

タンドリー・チキンといわず、カレー・チキンと言ったのは、インド国民およびインド料理に対する敬意ゆえである。私がテキトーにつくったテキトー鶏料理をタンドリー・チキンなどといってはいかんだろう。

鶏もも肉は下処理(余計な脂を筋を切る)したら、厚みが均等になるように平たく開き、塩を振って表面に出た水分をふき取ったあと、カレー粉、ケチャップ、酒、にんにくやしょうがのすりおろし、各種スパイスをあわせたもの(ヨーグルトをまぜてもやわらかく仕上がる)に漬け込んで焼く。
砂糖やナンプラーを入れると、ベトナム風になる(平松洋子レシピ。鶏もも肉(大二枚)に対して、にんにくみじん切り(2片分)、醤油・ナンプラー(各大2)、砂糖(大1)、カレーパウダー(小1)、ごま油(大2))。

うっかりクローブを多めに入れてしまったので(私のせいではない。S&Bの有機スパイスシリーズの小瓶の形状のせいである)、漢方風味の妙な味になってしまったが。

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10月18日(火)

起床時刻:08時20分

『二流小説家』読了。
邦題がうまいな。
ウディ・アレンの映画のような、冴えない中年(アレンと同じくおそらくユダヤ系)が、ありとあらゆるタイプのゴージャスな女性(知的美人の雑誌編集者兼作家から大金持ちの女子高生や妖艶なストリッパーにいたるまで)にモテてる。もてるだけではなく、生命の危機を救われる。

この冴えない男(「ジャンル作家」と書かれているが、日本でいうところのラノベ作家みたいなもんだろう)がヨレヨレしながら事件に巻き込まれ、真相を解明していく、というお話だ。

この主人公、「シビリン・ロリンド-ゴールド」というマダムなペンネームでソフトSMヴァンパイア小説を書いているのだが、VampireとVampyreの違いって何?
主人公はVampyreという「"i"ではなく、"y"と綴られたその文字を見ているだけで、ぼくは物悲しい気分にさせられた。尽きることなく差別的言語を指摘するフェミニズムを連想させられた」と書いているんだが、ここあたりの機微が英語に疎い私にはよくわからん。

ということでぐぐってみたら(インターネット万歳!)、library thingというとこにこんな風に書いてあった。

「"vampire" has become the standard one in modern times, with "vampyre" being used as an alternative by various groups of people trying to be arcane or stylish or somehow different and ultra-gothickal.」(Vampireが近年一般的な綴りとなったが、vampyreも神秘的あるいはスタイリッシュに見せたい人や、人とはちょっと違う風に見せたいとか超ゴシック風に見せたい人たちに使われている)。

vampyreは「かっこつけ」というかある種「厨二」的なんだろうな。「厨二」な人がちょっと凝った漢字使いをするようなものか。

海外の小説は特にユーモア小説において大事な空気感や細かい風俗がわからない部分も多いから、そこが歯がゆい。

そこへいくと、「聖書男」(AJジェイコブズ、阪田由美子訳)は、膨大な注釈がうれしい(出てくる商品名やアメリカのドラマ等の説明だけではなく、ジェイコブズがさらっとやる聖書の引用も新共同訳聖書(時には同口語訳聖書も)の該当箇所まで示してくれる丁寧さ)。日本生まれの日本育ちにとっては助かる。最後にはきちんと参考文献一覧も載せており、邦訳が出ているものについてはそれもあわせて併記している。阪田さんの丁寧な仕事には頭が下がる。2600円+税のお値段だが、買う価値はある。

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10月17日(月)

起床時刻:08時45分

まーた、パソコンが落ちた。
私が使うようになるまでは、調子よかったパソコンなのに。
どうして私が扱うと物がすぐ壊れるんだろう?
バイト先で私がコーヒーを淹れないのは(いつも男性「役員」が淹れてくれている)、コーヒーミルを、コーヒーメーカーを壊しそうだからだ。ついでにいうと、マグカップもこわしそうだし。

かつてウィーン在住の友達の友達宅に泊めていただいたときに皿洗いを手伝い、高価そうなボヘミアングラスをぱりんと割ってしまったとき以来、なるべく、手伝いはしない、家事も人の家ではしないようにしている。

これって、失敗を恐れて何もしなくなるような、典型的ニート発想だけど、もう私の失敗癖は死んでもなおらない。心構えとか指差し確認とかマニュアルとかそういうレベルじゃないんだよ。

デイヴィッド・ゴードンの『二流小説家』の終わりあたりに「そうとも、どれだけヘマをやらかそうと、ぼくもまたいずれ、次の事件に乗り出すだろう。<略>ただ単に自分で自分をとめられないからだ。いまとなっては手遅れだからだ。ダリアンもぼくも、進むべき道は幼少期から定められていた。それぞれに母親と暮らした、クイーンズの小さな自宅のなかで」とあるが、私も「進むべき道は幼少期から定められて」いるとしか思えない。「三つ子の魂百まで」というが、三つ子の魂(個性といってもいい)道があるのだ。
私は小さい頃から不器用で失敗ばかりだったが、不器用で失敗ばかりするうちに、世をすね、自分を責め、引きこもりの道を歩くように、幼少期から定められていたんだろう(甚だ不本意ではあるが)。

残虐な行為に興奮を覚えるという個性を持っている人もいるだろう。そこで殺人鬼になる人もごく稀にいるかもしれない。
現実逃避のために本を読みふけり(小説を読んでいる間は「ぼくがぼくであことを嘆かずにいられる」)(P190-191)、創造の世界に耽溺し二次元の世界にしか興味を持てなくなる人もいるだろうし、あるいは「ものごとを究めたがる完ぺき主義」のタイプが、ネトゲにはまって仕事や学校をやめ、ネトゲ廃人となるケースもあるだろう。

個性というのは、奨励されて伸びるようなものではない。
奨励されるべきは「規範」である。
人間というのは程度の差こそあれ、そもそも規範からずれた存在なのだから、本来の自分=個性というのは抑圧されるべきものなのだ。というか、抑圧されてもにじみ出るものが個性なのだ。幼少期にしかれてしまったレール、それが個性だといってもいいだろう。

個性に導かれたレールの先にはたいてい破滅という名の運命ががっぽり口をあけて待っている。
もちろん、成功することもある。ダリアンが写真の芸術的才能を持っていたとしたら、個性のレールをひた走ることで賞賛と栄誉の美酒に酔うことができるかもしれない。

しかし、それは、時の運と才能がクロスした一瞬の幸運の上に開花するものであり、たいていは肥大化したエゴをなだめつつ、ルーザーとしての自分をなぐさめつつ(「このようにしか生きられなかった」)、ひっそりと生を閉じるのだ。

だからこそ、多くの人はリスクを回避して、自分のレールではない、「規範」というレールに乗ろうとする。そして「こんなの自分ではない」という思いを抱きつつ、あるべき自分、TPOに応じた自分を演じ、全く興味もわかないままに規範的なレールの上をなんとか走ろうとする。

どう転んだって憂鬱。それが人生というものかもしれない。

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10月16日

起床時刻:09時30分

昨日紹介した、「日本青少年研究所」による「中学・高校生の意識調査」の結果では、日本人学生の不安感や自己否定感がきわめて高かったんだけど、これはバブル崩壊以降の経済不安を反映しているのかなとも思ったので、ぐぐってみたら(1980年代の調査結果がほしい)、「「国際比較・日本の子供と母親-国際児童年記念最終報告書」(昭和56年 総理府青少年対策本部)では、子供たちの自己評価が国際的に見て著しく低いこと、自己評価が他者との相対比較に影響されており、学習して豊かになるという自分を実感できないでいること等が示されている」という一文が見つかった。昔から自己評価は低かったんですね(はぁと)。

ちなみに上述の引用は↓の東京都の資料「自尊感情や自己肯定感に関する研究」っていうペーパーから。
http://www.kyoiku-kensyu.metro.tokyo.jp/information/kenkyuhoukoku_kiyou/houkoku_20_data/jikokoutei_jisonkanjou.pdf

同ペーパーによれば「何より、自尊感情を高める上で、まず子供たちが、「自分の否定的な面を受け止めること」「前向きに取り組むこと」「自分の可能性を信じて努力すること」等、自分の内面を高めていくことが大切である。このことから、学校教育において、幼児・児童・生徒が自分の個性や役割等を理解したり、発揮したりすることを通して、他者とのかかわりを広げ、将来の可能性を信じて行動できるようになるための指導・援助の充実を図ることが重要であるととらえた」とある。

あのさぁ、「自分の否定的な面を受け止めて前向きに取り組め」「自分の個性や役割等を理解したり、発揮したりすることを通して、他者とのかかわりを広げ、将来の可能性を信じて行動できるようになれ」って大人でも出来ねー相談だよ。

子供社会ってのは大人社会の縮図なんだよ。

企業の並べ立てる「求める人材」の条件。
個人レベルの「結婚したい人」の条件。
その長いリストに合致する人などめったにいない。
「一個もあてはまんない!!」てこともあるだろう。

社会から望まれていない不要の人間。
存在が無価値な人間。
そういう思いの中で、前向きに生きるのはなかなか難しい。

もっとも、それ(求職者や結婚相手に求める長いリスト)は他国も同じよね?なのになんで日本人の自尊感情だけが著しく低いんだろう?

それは日本人は幼少時より、周りから「お前はダメだ」「こんなんじゃダメだ」といわれ続け、長じて「ここがダメ」「あそこがダメ」とダメだしばかりされて、「自分はダメ人間なんだ」という確信ができているからじゃなかろうか。

ステレオタイプ的に語れば、企業の求める「あれもこれも出来る人」みたいな求人情報をみて「ああ、ダメだ、自分には到底無理だ」と思うのが日本人で、「あら、それならアタシにだってできるわ!」と思うのが外国人なんじゃなかろうか。そして実際、採用されて、ロクな仕事ができなくても「環境が悪い」「上司が悪い」「タイミングが悪い」と他に原因を発見できるから落ち込まない。「認知療法」を自然に身につけているわけだ。

この研究ペーパーでは心理学者ローゼンバーグの自尊感情の二つの捉え方のうち、自分を「とてもよい(very good)」と考える(人と比べて自分は優れている)タイプの自尊感情ではなく、もう一つは自分を「これでよい( good enough)」(あるがままの自分を受容する)と考えるタイプを重視し、そちらを教育でも推進していこうとする。

というのも、前者は「「○○と比較して自分は優れている」という、他者や社会的な基準を強く意識したものとなる。そして肯定的な評価を受けられないと、自分の優越性を感じることができないために、ますます他者や社会的な基準から自分を評価してしまうようになると考えられる」、だからよくないというのだ。

「大切なことは、単なる優越性ではなく、自他に対する理解ができ、自分の否定的な面も受け入れることであると考える。その意味では、ローゼンバーグのいう「good enough」の考え方と、研究の求める方向性は一致している」という。

しかしまぁ、世の中を見るがいい。
「good enough(これでよい)」と言っている大人なんて一人もいない。どこもかしこも「こんなんじゃ、ダメだ」の大合唱だ。

「こんなんじゃ、正社員として失格だ!」
「こんなんじゃ、とても就職できないわよ!」
「こんなんじゃ、結婚なんて無理よ!」
「こんなんじゃ、老後はとても暮らせない!」
「こんなんじゃ、中国に追い越される!」
「こんなんじゃ、インドに追い越される!」
「こんなんじゃ、日本は第二のギリシャになってしまう!」

個人レベルから国家レベルまで、「ダメだし」が繰り返され、「こんなんじゃダメだ。こんなんじゃダメだ」とうわごとのようにつぶやく国民がひしめく国になっているのだ。

こんな中でどうやって「こんなんでいい」っていえるような子供が育つんだよ?俗世間の中で悟りを開けと言っているようなものじゃない。

うん。悟りという仏教用語で思い出したけど、「good enough」とは「あきらめること」だね。
「これでいいんだ」と受け入れる。
「そういうもんなんだ」とあきらめる。

自分は能力がない。
人にも好かれない。
企業にも採用されない。
結婚もできない。
子供も持てない。
家も車も何も持てない。
老後は生活保護に期待するしかない。
そうでなければホームレス。
日本だってこれからずっと低成長。
借金まみれの三流国。

でも、仕方ない。
そういう星のもとに生またんだから。
そういう能力しかないんだから。
そういう国なんだから。

あきらめる。受け入れる。
その上で自分のやるべきことを淡々とやる。
そういう仏陀的子供をこの研究は求めているんだろうね。

まぁそうなったらそうなったで、「子供らしくない」だの「かわいげがない」だの「覇気がない」だの、大人に「ダメだし」されるんだろうけどなwww。「大人の言うことは無視する」でFAかもしれん。

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10月15日

起床時刻:08時50分

高い水準での「出来て当たり前」の考え方、あるいは「減点方式」で採点する世の中が、日本人や日本人のつくるものやサーヴィスを向上させてきたのだと思うけど、それが同時に日本で生きることを息苦しくさせ、日本人の自信を失わせてもいるというようなことを昨日の日記で書いたのだけど、その根は幼少のころからあると思うのよね。

よくアメリカのテレビドラマで、両親が子供にしょっちゅう「I'm proud of you!」と言っているでしょう。日本人からみれば「出来て当たり前」のレベルのことで。

ここでも何回か書いたような気がするけれど、「日本人の自己に対する自信のなさ、あるいは外国人の自己に対する過信(ポジティブシンキング)の根」は、日本では幼少のころから「出来て当たり前だから、出来ても褒めない。出来なかった叱る」という風潮の反映なんじゃないかしらね。

実際、2008年9~10月に実施された日本青少年研究所の「中学・高校生の生活と意識」という調査(日米中韓の中学・高校生を対象としたアンケート調査)にそれが調査結果として出ているんですよ。
http://www1.odn.ne.jp/youth-study/reserch/index.html

「問20-8.親はよく私をほめたり励ましたりする」に対して、「全くそう」のパーセンテージをみてみると、中学生だと「日18.3 米51.1 中34.8 韓23.1」で、高校生だと「日13.7 米39.6 中14.9 韓17.4」で日本が一番低い。特に中学生の低さが目立つ。

そして、次の「20-9. 親はよく私を叱る」に対しては「全くそう」が中学生では「日24.9 米12.8 中国10.3 韓7.7」、高校生では「日17.0 米13.9 中9.5 韓7.1」となっていて、今度は日本が一番高い。

つまり私の仮説、「褒められないけどよく叱られる」という日本人の学生の姿が浮かび上がってくるんですね。

これはサラリーマンの国際調査をしても似たような結果になると思うわね。

それが自己認識を問う設問、「28-1. 私は将来に不安を感じている」で「とてもそう思う」と答えた割合にもつながる。

中学生では「日22.6 米17.1 中9.5 韓15.0」、高校生では「日32.2 米27.4 中16.5 韓27.7」となっており、中学・高校いずれでも日本人の学生が一番高い。
褒められずに叱られてばっかりじゃ、そりゃ不安にもなるわよねぇ。
これまたサラリーマンで聞いても、同じ結果になりそうよね。

次いで「2. 私は人並みの能力がある」という問いに対しても「とてもそう思う」は中学生で「日13.0 米55.6 中49.4 韓7.6」、高校生で「日8.4 米61.1 中41.0 韓5.6」となっており、韓国に次ぐ低さ。

韓国の学生のネガティブさかげんにびっくりしたが、日本の学生のネガティブの本気を見せ付けたのがこちら。
「28-5. 自分はダメな人間だと思う」の「とてもそう思う」が中学生で「日20.8 米4.7 中3.4 韓7.9」高校生で「日23.1 米7.6 中2.6 韓8.3」と圧勝したのであります。日本の中学生のほぼ五人に一人、高校生の四人に一人弱が「自分はダメな人間」だと思っているって、すごいな。

ネガティブ度を競うオリンピックがあったら、日本は間違いなく優勝するね。それも圧勝(韓国が準優勝か)。ネガティブ・シンキングのエリートすぎる。

こういう結果が出ると「日本人の学生は自信がなさすぎる」とまた怒られるわけだがwww。

まぁしかし、聖書でも言うじゃないですか。
「高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う」
(旧約聖書『箴言』 11編2節から)

もっとも聖書のいう謙遜は「うちの豚児が~」とか「うちの愚妻が~」とかいうのと違いますからぁ~!と言われそうだけど(もっともこの言い方はほぼ絶滅したわね)、「自分はたいしたもんじゃない」という謙遜の気持ちが日本人の控えめさ(「あたしが、あたしが」とでしゃばろうとしない)、真面目さ(目立たない日陰仕事でも「こんなの、あたしみたいな有能な人間がやるべき仕事じゃない!」とふてくされず、黙って丁寧にやる)につながっているかもしれないわね。

それで疲れているのも確かだけどwww

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10月14日(金)

起床時刻:07時30分

ターサイ(静岡県産)の炒め物をつくったんだけど、ターサイがめちゃくちゃ筋ばってた。ザ・食物繊維というか。
昔ヒロシが「ヒロシです。イカを飲み込むタイミングがわからんとです」と言っていたが(そういや最近ヒロシ見ないわね)、「ターサイも飲み込むタイミングがわからんとです」と言いたくなったわね。

品質を信用している店で買ったんだけどねぇ。残念。

スーパーというのも、多くの仕事がそうであるように、多くの人がそうであるように、減点方式で評価されるわよねぇ。

野菜は美味しくて当たり前、筋張ってなくて当たり前、いたんでなくて当たり前。だから、「この野菜は筋張ってなくて、いたんでもいない、素晴らしいね」と褒められることはない。けれど、筋張っていたり、いたんでいたりするとたちまち、お叱りを受ける。

「人さまからお叱りを受けないように」という意識、あるいは「世間に恥ずかしくないように生きる」というモラル意識により、日本は低コストで一定水準以上の人間やモノを生み出してきたわけだけど、同時に、人の心をどこまでも萎縮させ、疲労させていく。

長所と短所は裏表というのは人間だけじゃなくて、社会にだって当てはまるわよね。

日本社会の長所、心地よさというのは、レジ係もウェイトレスも電車も野菜も果物も、他国に比べて高度なレベルの品質を保証していること。確かに消費者としては心地いいんだけど、生産者やサーヴィス提供者の側になると荷が重い。疲れる。

以前テレビで、ふらんす亭などのチェーン店の経営者を紹介する番組で、同社の店長会議をテレビで流していたんだけど、そのとき読まれたクレームの葉書がなんと「店員に覇気がない」という内容。

海外のチェーン店であれば(時に高級店であっても)店員は覇気がないのが普通よね。正確で時間どおりのサービス(これだって海外で望めないことは多い)に加えて「覇気」などという謎の要求までされる、日本のサーヴィス業従事者に同情したわ。

そういや、前ネットで読んだんだけど、日本に観光にきたアメリカ人が日本のことを大好きになって日本に住んで働くようになったら、今度は日本のことが大嫌いになったそう。

そりゃそうよ、お客様という地位でなければ、日本はなかなか厳しい国なんだし、お国じゃ「ワーォ!」と褒められるようなことも「できて当たり前」とかる~くいなされるのがオチなんだものねぇ。

つまんないことでも「ワーォ!」と褒められる人は能力がないくせに自信過剰になり、「こんなこともできないのか!」と叱られる人はひたすら自信を失っていく。

自信過剰がプラスの効果をもたらすこともあれば(立ち直りの早さや、萎縮せずに自分の意見を述べるとか、新しいアイデアをどんどん試していくこととか)、「自分が自分が」のミーイズムに陥ることもある。

自信喪失だって、一概に悪いとはいえない。「こんなんじゃだめだ」と自分を鞭打って、「もっと素晴らしいものを」ひたすら求める努力が向上につながるということもある。一方で、いつまでたっても何者かに追い立てられる毎日で焦りを感じたり、「どうせ俺なんか」というウジウジスパイラルにはまってしまうこともある。ひいては「引きこもり」になったりする。

難しいところよね。

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10月13日(木)

起床時刻:07時30分

『大人にならずに成熟する法』(白幡洋三郎監修/サントリー不易流行研究所)という本を斜め読みした。
五人の「識者」による三回の対談と、対談者各々による短文から構成された本だ。第一回座談会では「人間は本当に成熟したのか」が漫然と語られ、第二回座談会では「社会の進化は成熟か」が散漫に語られ、第三回座談会では「社会と個の良い関係とは」がなんとなく語られる。

いつも思うんだけど、こういう識者連中というのはどうしてこう、都合よく歴史を忘れられるんだろうねぇ?どうして昔も今も人間性は何も変わらないという当たり前の事実を忘れられるんだろうねぇ?
(奥野卓司さんだけは、まともな感性を多少持っているようだったけど)

例えば「今の学校で起こっている「いじめ」のような問題にしても、「たがいによく見知っている者同士でうまくやっていく」ために守らなければならないこととか、そのレベルでの圧力がものすごく強い」(鷲田清一)とか言っている人いるけど、「今の学校」だけじゃない。昔の陸軍でも、江戸時代の農家でもおんなじだよ。もっとずっとひどかったくらいだ。
もっというと、「今の日本」だけではなく、外国でも「異質を排除する」ことはある。海外の現地学校に行った人でいじめにあった人を何人も知っているし。

つまりは異質なものを排除するっていうのは人間の本能なんだよね。
だから、過去を振り返ってもな~~~~~んにも参考にならんのだよ。

「同質性を求めてコミュニティを再構築しようと思っても限界があって、異質さを前提としてコミュニティを再構築する度量がどこかであれば、雰囲気から気配を読み取るとか、そういった能力ももうちょっと醸成できるんじゃないかなと思うんですけどね」(小長谷有紀)なんていうのも、「おまえがいうな」と思ったね(ついでにいうとこの方、「雰囲気から気配を読み取る」能力が減退していることを憂いているようだけど、「空気を読む」と言う言葉が流行語になるくらい、気配察知に過敏な世の中だし、少なくともほぼ全若者がアンタより確実に空気読んでいる=雰囲気から気配を読み取っている、と思うよ)。

この小長谷という女性はフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを重視し、リアルなおつきあいを大事にする方なんだけど、異質なものを受け入れる社会っていうのは、「そういうのぜーんぶ、お断り、うっさいんだよ、おばはん、用があるならメールで連絡して!」っていう人を受け入れるってことなんだよね。わかってんのかな?

そういう異質はダメで、モンゴル文化みたいな異質(この方はモンゴル研究家なんだそうだ)はアリっていう人なんだよね。モンゴルのような、自然と融合しつつの、身体感覚を大切にしつつの、そういう異質は「見習うべき」であるけど、「ネット恋愛」「ひきこもり」「働いたら負け」という異質は、排除してんだよな。
「一番身近な異質を受け入れられないくせに何いってんだ?」と思うわ。

この人はどうも脳内お花畑ちゃんのようで、「今の夫婦は気の合う者どうし、似た者どうしがくっつくから家族の修復機能が低いように思うんですよ。昔は親が勝手に決めた人とか、気に入らないけど我慢しているとかいろいろあって、メンタリティの距離が極端に遠くても維持していくという方向性でやっていくでしょう?その中で家族の修復能力というものは自然に発揮できたんだと思います」だってさ。家庭内暴力、子供への虐待、あるいはネグレクトなんてのも、「気に入らないけど我慢していく」の典型で、家族の修復能力の発揮にはぴったりだね。

この人にとって家庭って修行の場なんだろうね。
まぁ多くの人にとっても家庭って修行の場なんだけどさ。
昔は今よりも、もっと修行度が高かったわけだし。
世界青年意識調査だっけな、中高生の家庭に対する満足度は年々あがってきているんだよ。つまり、昔の「メンタリティの距離の遠いものどうしが我慢して結婚生活を続けていく」というのは基本、不幸だったということじゃないかな?価値観の近い人が結婚し、家庭がほっとひといきつける場になってきたからこそ、幸福度はあがったんじゃないかな?

私は「ほっと一息つける場所」が家庭の理想だと思っているけど、小長谷は「家庭を維持するためには、単にそこが居心地がいいだけでもダメでしょう?そこそこの緊張というものがあってこそ、社会に出て行くための知らず知らずの予備訓練にもなるわけです」と言う。

私はそこが居心地がいいだけで十分だと思う。
確かに生きることは戦いだ。
であるから、家庭も予備訓練の場にするべきというのが小長谷の意見で、だからこそ、休息の場であるべきというのが私の意見。

いったい、小長谷のいうような家庭と社会にあって、人はどこに安らぎを見出すんだろう?
って思ったら、答えは飲み屋だった。
「日本には会社と家庭の間に緩衝材みたいな場として、居酒屋が集積する盛り場がある」(奥野)
「ホステスとホスピスは同じということですね」(小長谷)
しかし今はママのいるバーじゃなくて、キャバクラに行くという話を小長谷が聞いて「若い子がそんなところに行くのは、やっぱり何かリアルな社会の中での人間関係の交渉とか接触とか、そういうのが非常に下手になっているからじゃないのかな」だって。

何言ってんだ、この人。アホなんじゃなかろうか。

あーあ、こういう一面的な印象批評というか、まさに飲み屋でママに聞かせるような話を「座談会」でやって、記録として出版されるなんて、世も末だよなぁ。

こういう小長谷みたいな人、永遠の学級委員みたいな人って強いよなぁ。私の知り合いにもいるけどね。頭は決して良くないんだけど、いや、頭が良くないからこそ、疑いがない。だから強いんだよねぇ。こんな近代批判、若者批判のクリシェを恥ずかしげもなく語れるなんてさぁ、「平凡さを恥じることなく口にすることのできるのは、やはり心貧しき者の美徳なのだろう」という高橋和巳の小説(『堕落』)の一文を思い出したよ。

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10月12日(水)

起床時刻:07時55分

今日はバイトがお休み。
お昼に『素材の味を食べる』(野崎洋光)より「じゃがいもの味噌炒め」を参考にしてつくる。
じゃがいもを皮付きのまま茹でて、(野崎さんはこのあと皮付きのまま調理しているんだけど、私は茹で上がったところでするりと皮をむいた)、適当な大きさに切り(小粒ならそのまま)、油でいため、にんにくのすりおろし+砂糖+味噌を水で延ばしたものをさっとからめ、最後に長ネギのみじん切りを加えるという簡単料理。
今回も調味料の分量は勝手にかえました(砂糖も味噌もにんにくも控えめにしました)。しかも手順まで変えてしまうというね(先にニンニクみそをいためて、香りをたたせてからジャガイモをからめるというやり方にした)。
天下の野崎さんのレシピをこんなに魔改造していいのだろうか。。。

と恐縮しつつも、すっごくおいしかった。にんにく+味噌って間違いないなぁ。にんにく、大好きなんだけど、量を控えめに使ったほうが好き。臭いも強いしね。

器が欲しいなあと思って検索していたら、物欲センサーを刺激される。
「陶房高江洲 高江洲康次さんの線彫掻落」皿。
http://www.hibinoirodori.com/78_477.html

私が持っている皿は全部無地で柄のないものなんだけど、これは「うつわにぐるりと「線彫り掻落し」された「唐草紋様」」がはいっている。

解説によると「「線彫り掻落し」はやちむん伝統の技なんですが、唐草紋様の形は、高江洲康次さん独自の技」でフリーハンドでささっとつくってんだって。色もなんかいいんだよね。「うつわの色合いである黒の様なこげ茶色の様な、マンガン釉独特の色合いにシビれます」と解説者もしびれてます。
しかし、やちむんってなんだ?沖縄の皿のこと、まったく知らない。沖縄には小学校のときと二十代前半に友人とダイビングに行ったくらいだけど、全く、皿の記憶がないw。まぁホテルの食事とかだったからなぁw。

なんていうか、この皿、ギリシアとか、あっちの地中海文明の壺とか思い出す。地中海の風が吹いてるよ。
「ヨーロッパの香り」といえば、昨日、東急をぶらついていたら、「オールチタンの真空二重構造」のSUSgalleryのカップが売っていて、なんかヨーロッパ中世っぽくてかっこいい!エールとか赤ワイン(安いやつ)を入れたら、なんか似合いそう!ちょっと欲しい!!て思ったんだけど、高くて敗退した。
http://susgallery.jp/product-2
↑の約一万四千円のタイプがちょうどいい大きさだった。
あんまりでかいと手に余るからなぁ。

皿に戻ると、この皿にはもう、どんな料理にでもあいそうだな。タイ風春雨サラダとかシンプルに野菜にオリーブオイルをからめたオーブン焼きとか、スパニッシュオムレツとか。和風だったら豚バラと大根の煮物とか、それこそさっきつくったジャガイモの味噌炒めとか、そういう素朴系な料理なら、何でもあいそう。

一番小さいので、2380円か。
買うんなら、今持っている皿のどれかを処分しないとなぁ。
(うちの旦那が独身時代から使っているしょーもないヤツを一番処分したいんだけどなぁ)

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10月11日(火)

起床時刻:07時40分

本日の弁当は、スパイシー・チキン、いんげんの胡麻和え、かぼちゃの南蛮煮、おから(ショウガをいためて香りを出し、鶏ひき、ニンジン、しめじを入れて少し炒めて煮たら、調味料(薄口しょうゆ、みりん、酒、砂糖、塩、水)を入れて火を弱めて煮る。煮あがったら茹でたインゲンの小口切りを彩りに入れて混ぜる)、柿。

夜はカツオを買ってきたが、旦那は生臭いといってカツオを嫌うので、私のみ。旦那にはハンバーグをつくる(チーズをトッピングし、市販のデミグラスソースをかける)。あとニラと豆腐の味噌汁、ほうれん草の胡麻和え、かぼちゃの南蛮煮の残り、おから。
貝殻つきのホタテも買って来たので、焼きホタテにしようと思ったんだけど(「ダーク・ソウル」にホタテのモンスターが出てきて、発火で焼いていた旦那が焼きホタテが食べたいとか言い出したのでwダーク・ソウルのホタテの中身は貝柱ならぬ髑髏なんだがなw)、旦那の帰宅が遅く、お腹もすいていないとのことなので出さなかった(余計なもんを出すと怒るからね)。

いい感じの小鉢が欲しいなぁ。
「おから」とか「菊花の和え物」とか、そういう地味なものを入れても、ちょっと映えるようなもの。旦那はもともとそういうものはほんの少しでいい人だから(あんまり好きじゃない)、今はシンプルな粉引きの四寸皿に入れていて、これはこれでかなり使い勝手はいいんだけれど、ちょっと深めのものがあってもいいかなぁと。かつ美味しそうに見えるのが絶対条件で。

バイトの帰りに東急を覗いてきたんだけど、気に入ったのがなかった。
うちは普通の家よりかなり食器が少なくて、毎回同じようなのを使っているので、飽きがこないのが一番なんだよね。「たまに使うならあってもいいかなぁ」というものは買わない。となると、なかなか悩むんだよねぇ。

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10月10日(月)

起床時刻:10時00分

一昨日の日記で触れた『素材の味を食べる』(野崎洋光/詳伝社)にあった「かぼちゃの南蛮煮」をつくってみた。
「これは、かぼちゃがあまり好きでない人でもピリッとあとを引く辛さに味付けをして」いるらしい。

私はかぼちゃは好きなのだが、甘い煮付けはあまり好きではない。一番好きな食べ方はふかして(チンして)バターをからめてハフハフ食べるというもの。なんといっても簡単。特にホクホクの栗のような芋のようなかぼちゃだと美味。
次に好きなのが「かぼちゃのポタージュ」。
そして「かぼちゃと鶏肉のグラタン」(少しホワイトソースが甘くなって美味しい)も大好き。

今回、レパートリーを増やすべく、「かぼちゃの南蛮煮」をつくってみたところ、なかなか美味。かぼちゃがホックホクでおいしかったというのが大きいけれど。

材料は、
かぼちゃ400g、
調味料A(酒130cc/水100cc/豆板醤小さじ1/砂糖大さじ3)
調味料B(薄口しょうゆ小さじ1と1/2、ごま油小さじ1、みりん小さじ2)

作り方は、
かぼちゃと調味料Aを鍋に入れ落し蓋をして沸騰したら火を弱めて煮る。煮汁が半分になたらBを加え、2~3分煮て火をとめる。

私は半量でつくったんだけど、塩気が少ない。薄口しょうゆは濃口よりも塩がきいてるけど、それでも物足りない。
というわけで、私はしょうゆを足して砂糖をひいたね。それでちょうどよかった。砂糖が大さじ3て甘くない?私が甘いのが嫌いなせいか、使っている砂糖がきび砂糖で、普通の砂糖よりもコクのある甘みを感じるせいかしらんけど。

まぁでもこれ、ごま油と豆板醤でちょっと中華風でもあり、中華メニューの付け合せの一品にもいいかも。

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10月09日

起床時刻:12時30分

うちの旦那さんがはまっている「ダーク・ソウル」。
連休とあって朝の8時、9時までプレイし、その後仮眠をとってまたやるという、熱中ぶり。もうほとんど終盤。竜頭石をとってからは、バグ技利用でソウルや人間性がバカスカたまってたw。「黒い森の庭」の「飛び降り名所」を発見した人もすごいけど、これもすごいなw。

「ダーク・ソウル」をプレイしてて思うんだけど、リアル人生にも攻略wiki必要だよねぇ。
そりゃリアルではいきなり殺されることはまずないし、毒状態になることもないけれど、我々も比喩的な意味では病み村とか腐れ谷(@デモンズソウル)のようなとこを手探りしつつ、弾よけしつつ、不安な気持ちで進んでいるんだよね。これ、攻略ないと確実に失敗するよねぇ。キー・アイテムも逃しまくっていると思うし、イベントフラグもたて損なうよねぇ。選択枝も間違ってそう。

あとさぁ、このゲームは「死にゲー」で、何回も死んで敵の配置や種類、攻撃を覚えて、だんだんうまく対応できるようになるのが、醍醐味なんだけど、人生って一回こっきりだもんね。初見プレイなんだよな。

もっとも世の中には「輪廻転生」という考え方もあって、「スピリチュアル・カウンセラー」の江原なんかに言わせると、「現世は前世でやり残したことや不如意であったことを経験し、学んでいくのが課題であり、そうやって魂のステージをあげていくのが目的である」らしいんだが、でもさ、肝心の前世を覚えてなくちゃ意味なくね?

つまり「死にゲー」で、何回も何回もを死んだとしても、そのたびに完全に記憶が消去されていたら、全く何も学べないじゃん?
『ひぐらしの鳴く頃に』をみていたときも思ったけど、忘れてっから、色々なバリエーションで同じ失敗をするんだよ。
記憶がかすかでも残っているときは、決定的な悲劇は回避されたんだし。

だからさ、輪廻転生とかあるのかないのかしらないけど(私はないと思っているけどね)、もしあるとしても忘れている時点で完全に無意味になっていると思うんだよね。
だから、「高い料金と引き換えに前世を教えてあげる」という商売もなりたつんだろうけど、健康を失ってからでしか健康のありがたみがわからないように、若さを失ってからしか若さのありがたみがわからないように、他人からの「アドバイス」では「骨身にしみてわかる」ということがない。

記憶にないことは存在しないも同然なんだ。
だからこそ、攻略wikiが欲しい。ついでにいうと、飛龍の剣みたいなチートアイテムも欲しものである。

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10月08日

起床時刻:11時00分

うげげ。今日から三連休だよ。

『素材の味を食べる』(野崎洋光・詳伝社)を読んでいたら、この「分とく山」主人の修行時代の話が書いてあった。

この方、もともと吉祥寺の大衆割烹『かに御殿』なるところで働いていたそうな。
「朝は九時に起床し、十時前にはお店に出て、夜中の二時頃まで働きました。就寝時間は四時間。休む暇もない勤務のスケジュールにみんな音をあげました」

うへぇ、『かに御殿』じゃなくて『かに工船』が正しいだろ。

その後、野崎さんは荻窪の『大漁苑』に移ったそう。
そこでは「何かの不手際があると、客席に聞こえるほどの声で僕だけがいつも怒鳴られるので、何度もやめたいと思って」いたそうだけれど、やめようとするタイミングで優しい一言をかけられ、それにほだされ頑張ったそうな。

「僕は人より努力をしないと、みんなには追いつけないというコンプレックスを持っていました。<略>まずはその日の献立を毎日紙に書き写して覚えることにしました。<略>ひとつの献立を、繰り返しながら三度書きました。<略>調理場で書いて、枕元で書いて、休みの日にノートに清書をするという具合です」

まじか。学生時代もこうやって勉強してたんだそうな。
信じられん。

私、理屈やメニューを覚えたりするだけなら、たぶん、野崎さんの三倍は早いだろうと思うけど、基本的に口だけなんだよなぁ。
実際の調理場では何よりも体力がいる。水仕事で手先が荒れない頑丈さ、火や油を使うので細心な注意力、衛生面での気配り、そういったものが必要不可欠で、例えば「利久煮」といったら胡麻を使った煮物で千利休にちなむ、なんてことを知っていても屁のつっぱりにもならんのだ。

野崎さんは不器用らしくて、何度叱られてもうまくできなかったそうなんですね。「いやぁ、それよくわかるよ~、あたしもそうだもん、うんうん」と野崎さんの肩を叩き、「だいたい人間って生まれつき、器用不器用が決まっているんだよねぇ、不公平なもんだよ、世の中ってやつぁねぇ」と愚痴りつつ、さしつさされつ、酒の一杯でも飲もうじゃないかとなるわけだが、野崎さんは「けれども落込んでばかりもいられません。とにかく人より長い時間調理場に立って練習することで上達しようと、開き直りました。
そして次にやったことは朝十時の出社時間を八時にし、ひとりで厨房の掃除をはじめました。仕事はできなくても掃除ならば俺にもできる、と開き直ったのです。人にこの姿を見られるのが嫌だったので、みんなが出社する前にしました」

おいおいおい、すげぇ前向きな開き直りだな!

このとき、野崎さんの心の支えとなっていた歌が水前寺清子の『神様の恋人』なんだって。彼は床にデッキブラシをかけながら自分を励ますかのように大声で歌ったそうです。

「きみが十時に寝るなら、俺は夜中の二時に寝る。
人の倍やれ、五倍やれ、それで勝負は五分と五分。
いまのうちに泣いておけ、泣きながらよじのぼれ。
遠い、遠い、明日のため、青春をよじのぼれ」

ごめん、よじのぼれんかった!!

私もねぇ、人の倍やれ、五倍やれ、どころか十倍やれと言われて育ったんですけど、人の倍やる体力がないから問題なんすよ。

野崎さんはその後も危機的状況になると出社時間を二時間早めて、徹底的に掃除をしたり練習をしたりして、状況を打開していくんですね。

その後、『とく山』料理長となり、一日二十四時間では足りない忙しさで働きづめに働く。

「でもね、僕は思うんです。あなたのお母さんは朝から晩まで働いていたでしょ。田舎の家に嫁いだ僕の母は、誰よりも朝早く起き、夜は一番最後に寝ていました。食事の準備から後片付け、掃除、洗濯、裁縫、田畑の仕事。自分の休み時間、まして休日など母にはなかったはずです。ゴロゴロしている姿など目にしたことがありません。大人になって働くのが大変と思っている人もいるようですが、じゃあ、ゴロンと横になってテレビを見ていて何か良いことがありますか」

あります!
まず、仕事のストレスがない。
ということは、ストレスによる胃痛や消化器系の病気、あるいは鬱やパニック障害といった精神疾患もない。
忙しい生活では思索の時間もなく、自省する時間もない。人類の偉大なる先達の残した芸術に触れる時間もない。
せっかく日本語でトルストイ、ドストエフスキィ、トーマス・マン、ディケンズ、プルースト、ジョイスなどなど、素晴らしい文学を読める環境にありながら、全くその恩恵を受けることがない。
「働きづめの生活」というのは、言ってみれば、家の近くの美しい泉にコンコンとわきでる若清水を一生汲むこともなく味わうこともなく、水道水しか使わないようなものだ。私たちは水道水だけで生きているけれども、汲むのに手間隙もかかる、一見無駄な泉の存在こそが、人生を潤しているのではなかろうか。

野崎さんは「一日中働いても苦じゃない」というけれど、これはもう人によりけりなんですよ。一日中働いても苦じゃない人もいれば、一日中勉強しても苦じゃない人もいる。私や世の中の多くの人は一日中グウタラしていても苦じゃない。

ゴロンと横になってテレビを見る。
素晴らしいじゃないですか。
なんのストレスもない。
なんの人間関係のわずらわしさもない。
肉体的にも精神的にも疲労しない。
(まぁ、テレビ番組の多くは精神的に疲労させるもんですけどね)

私は働くより、よっぽど好きだなぁ。
カネの心配がなけりゃあ、一生働かんよ。

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10月07日(金)

起床時刻:09時55分

本格的なストーリーのイヤな夢をみた。
「うわああああ」と目が覚めて、起きりゃあいいのにしつこく寝たら、三本立てで見ちゃったよ。

全然関係ない人でてくるのね。
オアシズの大久保さんとか。
大久保さんは別に悪夢には関係なかったんだけど。

最初の夢が特にひどかった。
嫌なことがあると判断停止の記憶喪失になる人がいて、そのために彼女は殺人の濡れ衣をきせられる。だけど真実があばかれそうになって、真犯人が濡れ衣をきせた相手を私もろとも殺そうとして「ひえええええ!」となったところで目がさめた。

他人を利用することしか考えていない人というのが出てきて、嫌な夢だったなぁ。しかし、たかが夢なのに、設定がイチイチめんどくさいんだよ。

夢というのは「普段は抑圧されて意識していない願望をあらわす」なんて話も聞くけど、毎回とてつもなく怖い思いをしながら、殺されかけたり追いかけられたりする夢をみるのはなんなのだろうね?実はドMなんですかね?自分の認識では、私はSでもMでもない、普通の人なんですけど。

あるいは夢は「記憶の整理のために見る」というのも聞いたことがあるけれど、私の場合、見たこともないところが舞台になったり知らない人が出てくることも多い。

たぶん私の場合は、私の心配事が夢に出てくるんだろうね。
だって、私の夢のテーマとして繰り返されるのは「殺されること」「追われること」「遅刻すること」「失敗して恥をかくこと("おもらし”とかも含めて)」「火事」なんだけど、「それがあなたの心配事です」といわれたら、そのとおりすぎるくらいそのとおりだもんな。オアシズの大久保さんに関しては友達になりたいという願望の表れだろう。

さって、今日はバイトも休みでいい天気。

昨日の「薬膳」の話の続き。
薬膳といえば体をあたためるためのショウガ、何はなくともまずショウガってことになってっけど、実は生のショウガは体を冷やす作用があるって「ためしてガッテン」で言っていたよね?

「体を冷やす豆腐に体をあたためるショウガのすりおろしを添えるのは、昔からの知恵ですね」なんて言い方を聞いたこともあるけれど、これ、体を更に冷やしているだけですからぁ、ざんねーん!!
なんちゃって漢方切り!!(ふ、古いっ)

「ためしてガッテン」のHPからまるっとコピペすると

「生のしょうがにはジンゲロールという辛み成分が含まれています。ジンゲロールは血液の中を流れ、手先や足先の末しょうで血管を広げる作用があります。血流がよくなり手先や足先がポカポカしてきます。
しかし、これは深部にある熱を末しょうに送り出すことでもあるため、深部体温はやや下がってしまうのです。

一方、しょうがを乾燥させるとジンゲロールの一部がショウガオールという別の成分に変化します。

ショウガオールは胃腸の壁を直接刺激して、血流を高め、深部の熱を作り出す働きがあります。
乾燥しょうがはジンゲロールとショウガオールの両方の働きで全身を温めることができるのです。

実は乾燥しょうがは冷えを改善するため、古くから漢方薬に使われています。中国の薬学書にも乾燥しょうがは「寒冷腹痛を止める」「中を温める」という薬能が記述されています。一方、生のしょうがには「解熱作用がある」と記述されています。同じしょうがでも生と乾燥ではまったくの別物だったのです」

思うんだけどさー、一回、ちゃんと体温を測る機械で、漢方の五性を検証したらいいんじゃないの?
例えばあさり、サフラン、ウコンは「寒」になってっけど、本当なの?イメージで語ってるんじゃないの?
暖かい地方原産や海のものや色が白っぽいもの、水分の多いもの、夏野菜は全部「寒」か「涼」にしとけ、みたいのがあるんじゃないの?
誰か、薬膳(ひいては漢方も)をちゃんと科学的に検証してみてほしいなぁ。

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10月06日(木)

起床時刻:07時30分

今日もバイト。
本日の弁当は、ほぐした焼き塩鮭、焼きしいたけと焼きエノキ(きのこ類は焼き上がりにしょうゆをかけて細かく刻んでおく)を酢飯に混ぜた、なんちゃって鮭寿司。たっぷりの胡麻と刻んだ大葉、すだちを少しかけると美味しい。親手製の甘酢しょうがを添えて。
あと、鶏肉の照焼、パプリカのマリネ(真っ黒に焼いて皮を剥き、クレソル+オリーブオイルでマリネ)、ほうれんそうの胡麻和え、長いもの梅おかか和えといったメニュー。

夜は酒屋で買ってきた「大信州」で一献。
信州の酒はどれもこれも美味しく感じる。
値段も良心的なものが多い。
つまみは家での晩酌ならでは、好きなものをとりあわせる。
この季節ならむかごをフライパンで炒って塩をしたのとか、百合根を蒸して塩をしたのとか、そんなんでおいしい。
でもさ、知らなかったんだけど、むかご(山芋よね)や百合根は体を冷やすのだそう。な、なんだってーーー!でしょ。

『まいにちの薬膳』(北山彩子/アスペクト)という本を読んで、私もびっくりした。
この本によれば、私の体質はどう考えても陽虚(体を温め、活動の原動力となる「陽」が不足した「冷え」体質)なのに、陰虚(体を冷まし潤す元となる「陰」が不足したほてり体質)向きの食材が好きでほとんどそっちを食べてんのね。

陰虚体質(ほてりやすい人)への「おすすめの食材」として、「梨、白菜、山芋、百合根、ごま、牡蠣、ホタテ、ハマグリ、イカ、牛乳、豆腐、豚肉、ヨーグルト、カブ、ニンジン、ほうれん草、スイカ、バナナ、トマト、アスパラガス」とかそういうのがあがってるの。
全部、陽虚体質(冷え性)の私が好んで食べるものじゃない!

そんなら陽虚は何を食えばいいんだよってなるわよね。
「おすすめの食材」を全部書き写してみる。
「ニラ、ショウガ、ニンニク、エビ、羊肉、栗、シナモン、くるみ、クローブ、フェンネル、杜仲茶、鶏肉、らっきょう、長ネギ、とうがらし、山椒、黒砂糖、コショウ、鶏肉(二回でてくるんだけど!)、まぐろなど」
だって。
ていうかさ、おかずになる食材ってニラとエビと羊肉と鶏肉とマグロくらいじゃん?他はスパイスやハーブ(薬味)と木の実とお茶(しかも杜仲茶だけって!どこに売ってんだ)しかはいってねぇwww
どうすんだ、これ。

ここから思いつく料理としては、ニラとエビの中華風スープ(ニンニク、長ネギ、ショウガ多めで)、羊肉のカレー、栗ご飯くらいしかねぇwww。

まぁニラが好きでよかったよ。しかし、ニラを弁当に入れる勇気はないなぁ。

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10月05日(水)

起床時刻:07時30分

今日もバイト。
今日も弁当。
メインのおかずは昨日の残り、牛肉とレンコンのオイスターソース炒め。
牛肉は酒、砂糖、しょうゆ、ごま油、ニンニクのすりおろしで下味をつけておく。
ニンニクのみじん切り+豆板醤を炒めて香りを出したら、レンコン、牛肉をいためて、しょうゆ、オイスターソース、酒で味付け。最後に銀杏を散らすと彩りもよろし。小ネギを刻んだのを散らしてもよい。
昼間っからニンニクくさくってすみません><。

あと、サイコロ状に切った高野豆腐と小松菜を煮て卵でとじたもの。
焼きピーマンの胡麻和え。トマトサラダ。ゆでた栗。
っていうのが本日の弁当の中身。

『怠惰への讃歌』(バートランド・ラッセル/平凡社ライブラリー)を読む。ラッセルはジョージ・オーウェルと並ぶ、私の二大大好きエッセイスト(という肩書きにしたら「阿川佐和子みたいやんけ!」と怒られそうだが、私は何しろラッセルの哲学書もオーウェルの小説も読んだことがない。もっぱら小論集みたいのしか読んでいないのだ。だから私の中ではエッセイストになっている)、「建築と社会問題」については「どうなんだろう?」と思ったね。

彼によれば、街から公共空間がなくなり、誰も彼もが「マッチ箱のような家」ひきこもり、そのことによって夫人は家庭にしばられて毎日イライラしなくちゃいけない。だから、一人一人の台所なんていらない、共同の食堂みたいのを用意し、地域の人が共同で栄養バランスのとれた食事をそこで食べ、子育ても共同に行い、それぞれの専門家による分業体制をしく。子供たちも小さな家でろくに動きもとれないようなとこに閉じ込めておくのではなく、安全な広々とした自然の空間(もちろん地域共同だ)で遊ばせることができる。
その結果、夫人も外に働きに行くことができ、朝から晩までやれ洗濯だの掃除だのに追われる必要もなくイライラしなくなる。さらには、間に合わせの手抜き料理ではなくちゃんとしたものを食べられるから栄養もよくなり、子供も元気になり、バンバンザイである、という話なのだが(はしょっていうと)、昨日の話ではないが、「人間はアトム化をめざす」という私のテーゼに反する。

ラッセルは最大の妨げは「賃金労働者自身の心持にやどるもの」(=自尊心と所有欲を満足させるものとしての家や家庭)であるという。
そのとおりで、これは「妨げ」ではなくて、「本質」なのだ。

大多数の人間にとって、自尊心と所有欲をとりさることはキリストや仏陀になるような試練で、はっきりいって無理なのだ。

「人間が食事をとることが世界の食料問題の根本なのであるから、人間が食事をとらなくすれば解決する」という提案が無意味なのと同様、ラッセルのいう公共生活も無意味なのだ。

もっとも、ゆるやかな公共性あるいはゆるやかな人とのつながりならば望ましいと誰もが思っているわけだが(例えばちょっと子供の面倒をみてほしいときに近くに老親がいるのはありがたいが同居はしたくない的な)、結局、ラッセルの提案はコンビニやクリーニング、家事サービス、外食チェーンによって実現されているのだ。ラッセルはそれをオックスブリッジの「カレッジ」風に美しく実現したいのだろうが、金儲けが得意な人は元来下品にできているので、金儲け主義に任せておくと全てが下品になっていくのである。

あ、「人間はほうっておくとアトム化したがる」の法則と同様、「商業主義はほうっておくと下品な風景をつくりだす」法則も事実であるな。それはそもそも、人間の欲望は下品な形によってもっとも刺激を受けるからなのであるけれど。

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10月04日(火)

起床時刻:07時30分

少々早起き(当社比)をする。

旦那はただいま「ダーク・ソウル」にドはまり中。
ということは、私は旦那につきあってFF11をする必要がない。
ということは、私だけ早く寝ることができる。
よって朝早く起きられる。
こんな簡単な法則なのである。

しかしまぁ、人間は自分の都合で生きているのではない。
他人の都合で生きている存在である。
旦那がダーク・ソウルをクリアし、アイテムやトロフィーをコンプした暁には、FF11に戻ってくるだろう。私もアイテム集めの手伝いやメイジャン試練の手伝いでかりだされ、またもやFF11地獄に陥るはめになる。

廣松渉が『唯物史観と国家論』(講談社学術文庫)のp300の脚注で、サーヴィスやメイヤスーといった人類学者の実証的研究が示した後、「人間は根源的に集団で生きることを強いられている存在である」と述べ、こう続けている。

「人間はそもそものはじめからアトム的実体-かかる人間把握が本稿の立場とは全く相容れぬものであることは明らかであろう―として存在しているわけではなく、ましてや<万人の万人に対する闘争>などという<贅沢>は人間には許されていない―もっとも、社会集団相互の間においては<戦争状態>が或る程度までは恒常的なのであるが―のである」

廣松渉は脚注(やたら長い)だけはすっとはいってくるな。本文は何のことやら訳わからんこと多いけども。

私が思うに人類の歴史というのは、自然の克服であった。
原初、人間は集団であった。
それは安全の要請、福祉の要請、食物確保の要請、まぁそういった理由で集団生活を狩猟採集民でも営んできたわけだ。

自然のもとでは人間はいかにも弱い存在だ。
しかし、人間は自然の猛威を克服してきた。
例えば、結核や梅毒をペニシリンで克服し、天然痘や日本脳炎をワクチン接種で根絶してきた。つまり自然に医学の力で打ち勝ってきた。
あるいは自然の猛威に対する食料確保としては、害虫に強い稲や強風に強い稲を品種改良することによって作り出してきた。
寒ければ衣服を、家を、人工的につくりだし、しまいには電気やらガスやらを使って、寒い日も暖かく快適に過ごせるようにしてきた。

つまり人間はありとあらゆる方面で自然を克服してきたのだ。
集団生活という自然状態における人間の当然のあり方も克服の対象になったろう。

いわば「アトム的実体」というのはユートピア的存在なのだろう。
個人は「集団生活」という自然状態を抜け出したがっている。もっともっとアトム化したがっているのだ。「自立した生活」とは畢竟そういうものなのだ。しかし、古来人間は自然の猛威によって、「自立した生活」は事実上不可能であった。

しかるに、自然の克服がすすむにつれて、個人として「自立した生活」も可能になり、<万人の万人に対する闘争>などという<贅沢>が許されるようになってきたのである。
なぜ経済的に豊かになっていくと、拡大家族は核家族になり、核家族は単身世帯化するのか?なぜ経済的に豊かになっていくと、少子化がすすみ、老人ホームが増えるのか?
これらの答えは上述のとおり、人はアトム化を目指すものだからである。

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10月03日(月)

起床時刻:10時30分

実家より小包、庭になったみかん、栗、父手製のいちじくジャム、甘酢ショウガ、ごまめ、そんなものが入っていた。

最近のとっても甘いみかんと違って、うちの庭になるみかんは酸味が強い(香りもある)。だからまぁ人には食べさせられないのだが、野生の風味を感じて、私は好きだ。

友人が貸してくれた『いつから私は「対象外の女」』(大塚ひかり/講談社)を読もうとするのだが、読むのが苦痛でページをめくれない。
これほど、読むのがつらい本っていつ以来だろう?
目が拒否するレベル。

読んだ範囲の内容を一言でいうと、「とってもすばらしい夫がいて子供の面倒もよくみてくれるんだけど、浮気したい!!だって夫が私のことを女としてみてくれないんだもん!若くてかっこよくて経済的に豊かな、そう光源氏みたいな男と浮気したい、中年の女っていうだけで、結婚してるってだけで、女としてみなされないなんておかしいよ(でもやっすい不倫みたいのはお断り!リッチなイケメンでなくっちゃね!)。古典の世界を見てよ、光源氏を見てよ!平成の平安化がすすむ今、中年になっても恋愛を楽しもう!」みたいなエッセイ。

大塚ひかりは嫌いじゃなかったんだけど、これは「勝手にほざいてろ」としかいいようがないな。

いや、別に結婚していながら色々男遊びを繰り返したり、浮気をしたりされたりっていうのに対して道徳的にどうこう言うつもりはない。

私はそういうことに関心がないだけで。

私も若い頃は男にちやほやされ、賞賛され、親切にされ、いい思いをしたのは事実だし、そういうのに郷愁があるかといえば、ゼロではないが、面倒くさいことのほうが多かったのも事実だ。

ストーカーされたり、いきなり写真をとられたり、しつこくせまられたり、そういう嫌な目にも数々あってきたわけだ。自分に隙があるせいで、こういう嫌な目にあうんだと自分を責めたこともある。

しかし、はっきりいおう、隙とかじゃない。単に若くて独身だったせいである。

今は、年もとり、結婚もしているから、誰も寄ってこない。
自分自身の行動はほとんど変わっていないというのに。

ある意味、透明の存在だ。
親切にもされない、ちやほやもされない、ただのおばさんという透明な存在。私はそっちのほうが好ましい。

だから、大塚ひかりの言うことに対して、まるっきり、ひとっつも、「わかる、わかる」って思えるところがない。

なんていうんだろう、全く興味を持てないので、字面を負うのすら苦痛なのだ。読まずに返しちゃっていいでしょうか、ねぇ。

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10月02日

起床時刻:13時00分

『野菜の力、精進の時代』(棚橋俊夫/河出書房新社)を読む。
著者によれば「精進料理は素晴らしい。広く世に問い、広めていくことがわが使命」と思い、原宿に月心居を開き、「原点であり拠どころの母の料理」「料理屋の料理ではない家庭料理」をたっぷりと提供することをモットーにやってきたそうだ。

しかし、コースの値段が一万二千円って!!!!

それで「広く世に問い、広めていく」ってどうやって?
野菜だけの料理に一万二千円、しかも家庭料理に毛がはえたのに一万二千円、ぽんと払える人が世の中の大多数だとおもってんのかね?

著者は、かたくなで思い込みが激しく、どこまでも独善的で、正直私が一番嫌いなタイプだが(向こうも私のことが一番嫌いなタイプだろう、この「小ざかしい女めが」という感じで)、「説教されたい!私をしかってほしい!」と思う向き(細木数子のファンとかね)にはおすすめたい本である。

もちろん、「なるほどな」「もっともだな」と思われることも書いている。
「規制の美」というところでは、しつけがなっとらん!!!ということを声を大にしていっている。しつけというのは確かに大切なのもので、食事のときは姿勢を正す、左手をお留守にしない、もちろん肘はつかない、音をたてない、飲んでばかり喋ってばかりはだめ(吉田健一はマナーからはずれているな。料亭の立派なお膳を出されても一切手をつけず、ひたすら飲んでいたというんだから。それで料亭側が食事をすすめると「うまいのは見ただけでわかっとる」とかなんとか答えたっつうんだからね、日本で一番のサラブレッドでも「育ちが悪い」ってことになる)、湯気のたっているうちに箸をつける、お箸は正しく持つ、食事の順番としては「まずお椀を右手で取り、左手にのせ、次にまた右手で箸を取り、お椀をのせたまま左手の人差し指と中指の間にはさむように箸を預けて、右手を返して正しく箸を持ちなおす。それではじめてお椀の汁を飲み、身を食べるのが正しい順序なのです。つづいてご飯茶碗も同様に持」つ、こういう規制を守ることが「美しさ」へとつながるのです!!と著者は大喝する。
(私が立派だなと思ったのは、客に対しても時には注意したらしいんですよ、この方は。こうやって注意してくれるのは親以外には普通いないのですから、注意された人は感謝すべきですな)

私も食事の姿勢が悪い人が多すぎるような気がしている。犬食い(といっても韓国ではこちらがマナーなんだそう)をしている人も目につく。
姿勢を正す、左手をお椀に添える、音をたてない。これだけは最低限守るべきだろう(私のお茶のセンセイは、お抹茶を飲むときに、「ず、ず、ず、ずずーっ」と三口半で音をたてて飲んでいたような気がするが(最後はすすり上げるのがマナーっつうか、茶道ではそっちが正解らしい)、こんなのはいくら伝統でもやめたらいいと思うんだ)。

自分もつい楽に流れてしまうので、これは自戒をこめて、一人のときでも、いつも良いマナーで食事をしたいものである。

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10月01日

起床時刻:13時00分

昨日はお友達と楽しく、くっちゃべってきた。
私のつまらん話をこれほどまでに面白そうに聞いてくれる人は、わが母以外では彼女くらいではなかろうか。
ありがてぇ、ありがてぇ。
煙草吸うけど(だから行けるお店も限られるけど)、ありがてぇ。

大江健三郎の『個人的な体験』の新潮文庫版には著者によるあとがきがあって、「ああ、青春だなぁ」って微笑しつつ、この小説を読み返したそうなんだけど、こいつまじでむかつくな。火見子がかわいそうだろうがよぉ!

鳥は大人になって現実逃避をやめ、火見子のこともいい思い出にして、家庭に戻ったわけだが、「いい人でした」って終わりにするわけにはいかないよ、まだ故人じゃないんだからねっ。彼女はどーなるんだよ!

火見子の20年後か30年後かを誰か書いてあげなくちゃいけないんじゃないの?人生の彩りとして消費されていく女の側にも、人生は続いていくんだからさぁ。金井美恵子あたりが痛快かつユーモラスに書いてくれないかなぁ。

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