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起床時刻推移グラフ

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11月30日(水)

起床時刻:08時15分

FF11「レトリビューション」をやっと覚えた。
久しぶりにイフ釜に行った。
95でも絡まれるのねw

相変わらず道がわからん。
氷の塊をトレードしてすすみ、下に落ちて進んで洞窟みたいなとこの???なんだけど、NMをわかす???の奥にも別の???があって私はそっちがNMの???だと思い込んでしまい、何回さわっても「卵を食い散らかした後がある……」とかいうメッセージしか出てこなくて、まさに私が???になってしまった。

本当にアホすぎる。
自分がダメすぎる。

まず注意力散漫。
視野の狭さ。
独断的な思い込み。
いまだにイフ釜で迷う=空間認知能力に著しい欠陥。
wikiを読んだくせに迷う=文章読解能力に著しい欠陥。

もうどうしようもない。
といういつもの感想を持つ。

話は変わって、朝、「スッキリ」だったか、テレビ番組で『ツレがうつになりまして』とかいう漫画の紹介をしていた。うつの人は「自分には何の価値もない」と思うらしいけど、それふつーじゃないの?
私も元うつの友人がいて、彼女は自殺未遂をして救急車で搬送された本格派のうつなんだけど、その人と話していても、「うつ」とは思わなかったな。普通の認識だと思うんだけどな。

「死ぬしかない」
「出口はない」
「生きていても嫌なことしかない」
みたいなことを言われても「だよね」としか言いようがないけども、私はそれよりも死ぬのが怖いから、自殺とか絶対に無理。痛そう!怖そう!注射が我慢の限界なのに、血管を切るとか首を吊るとか高いところから飛び降りるとか(高所恐怖症だし)、絶対に無理、無理。

「とりあえず、様子見しとこw」という結論に私は必ずたどりつくけど、本格的なうつになった人を見ると、意志力が強い。体力もあるし、真面目だし、がんばりやさん。こういう人って様子見しないんだよね。「とりあえず寝て、明日考えよう」(で、明日も同じことを繰り返して永遠に先延ばしにする)ってならない。

私とうつの人は基本的な認識は同じだけれど、私がうつにならないのは意志力が弱くて体力がなくて不真面目でがんばらないからだろうなぁ。悩むのって結構体力いるよね。

出口がないならここにうずくまっていよう、そしてしばらく寝ていようというタイプだから。「果報は寝て待ち、課題は寝て無視」、それでいいじゃん?って思っちゃう。

本当に、寝ていられるんなら、一生そうやって、ごまかし、ごまかし寝ながら生きるのがいいと思う。ダメ人間がダメなところをよくよく考えて、がっぷり四つに取り組んだら、だいたいさらに悪くなるんだ。
Plan Do Seeというけれど、これやっちゃいけないんだ。死にたくなると思う。あんまり高い目標だと(「働いてお金を稼ぐ」とか)、無理すぎてやる気なくすし(生きる気力もなくすだろう)、フィージブルな目標だと(「起きたらカーテンを開ける」とか)、自分が情けなくてやっぱり悲しくなるだろう。

問題はなかなか寝ていられないということなんだよね。具体的には生きていくには働かなくちゃいけないから、寝ていられないんだよねぇ。
自殺というのは「寝かせてくれないのなら、起こされても起きないように強制的に寝てしまおう」という意思表示な気もする。

まぁ人間、最後はどうせ死ぬんだけど、私、死ななくていいなら、死にたくないね。
一番は年をとりたくないね。
不老不死になりたいね。

基本的に二十歳以降は、年をとるということ自体が不幸だから、毎年毎年人間は不幸になっているわけで。

年をとるという自然の不幸を上回るには金が増えるという人工の幸福しかないから、年収が右肩上がりの年功序列社会は人間には優しかったんだと思う。だって、若いというのはそれだけで価値があるから、貧乏という悲惨を若さという輝きが打ち消してプラマイゼロじゃない?
しかし年寄りの貧乏は、年寄りという悲惨の上に、貧乏という悲惨が重なって、もう悲惨の上塗りである。それに不健康がだいたい重なるから、三重苦なんだよね。

まぁでも、日本の経済成長力が衰えているから、年とっても貧乏なままどころか年をとるにつれて、毎年貧乏になっていくってことになるのが普通になりそうだよね。そうなると、昔ながらの解決法、心で解決しかないんだよね。

ドーナッツの穴じゃなくてドーナッツを見よう!という精神論。
「もうあたしゃあ、なんにも欲しいものなどありゃしませんが」という境地。毎日、ご飯とおしんこと味噌汁で幸せ、という境地。めざしの一本でもつけばめっけもん、という境地。そして、「ああ、今日もお日様が照っている。ありがたい」「ああ、空気がおいしい。ありがたい」という感謝の気持ち。

意識改革という名の負け犬正当化理論によって、幸せ力を増すしかないんだな。私も結構、この方向にすすんでいて(人間って心にも免疫力があるから、自然と自分に都合のいい思考法になってくるのよね)、「ああ、ありがたい。ありがたい」と思って暮らしているわけですわ。

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11月29日(火)

起床時刻:08時15分

『はしごを外せ―蹴落とされる発展途上国』(ハジュン・チャン/日本評論社 (2009/10))をパラパラ読んだ。
「あー、やっぱりね。そうなんじゃないかと思ってたんだよねぇ」という納得感があった。

この本の内容を一言でいうとですね、「現在の先進国のほぼ全て(スイスとかオランダ以外)が、発展途上では幼稚産業の保護育成(高い関税や政府による保護・投資など)をしてきた。しかし、先進国に仲間入りしたとたん、自由貿易と自由市場がイチバンだから、お前らもそうせよと言い出した。自分達の成長手段(自国の産業保護)を成長途中にある国に使うなというのはおかしいよね?先進国は「自由貿易を推進せよ」とか「著作権を保護せよ」とか言ってるけど、お前らさんざん、保護貿易やってきたし、産業スパイみたいなこともやってきたよね?何、集団記憶喪失になってんの?マジうけるんですけど。あと、発展途上国のやつらも、こいつらの言うことをうのみにすんなw」というようなことですね。

なんで「そういうことなんじゃないか」と思っていたのかというと、以前、川勝平太の本を読んでいたら、その昔、インドの手製の綿織物はイギリスの綿織物よりずっと質がよくて、イギリスはインドに対して大赤字だったんだというような話があって(うろ覚えだが)、ははーん、これはアレだな、関税を高くしてイギリスの綿織物をインドから保護し、国策で紡績産業を振興させ、機械で綿織物を安定して安く大量生産できるようになってから、「自由貿易でっせ」という方針を前面に打ち出しインドに売り込みにかけたんやろうなぁみたいに思ってたんだよね。何しろ関税自主権なんて植民地にはないだろうしね。

そこいくと、日本は不平等条約の中でよくがんばった!
P26の「発展初期の主要先進国における工業製品の平均関税率」の表によれば、1875年の日本の関税率は5%なのに対し、アメリカは40-50%でっせ!フランスは12-15%、ロシアは15-20%、イギリスはゼロだけど、1820年代は45-55%なんだよね。
チャンは韓国人だから日本は自分とこも不平等条約で苦しんでいたくせに、韓国には不平等条約を結ばせたと恨み節を書いているけど、そりゃあ、そうだろう、日本人もイギリス人もかわりないんだから。日本人だけが立派だと思ってはいかん。ていうか、世の中、立派な人も立派な国もない。自分の利益と自国の利益しか考えていない。

それが普通じゃない?

このハジュン・チャンって人、裏表紙によると「世界銀行・アジア開発銀行・欧州投資銀行・国連のさまざまな機関、およびブラジル・カナダ・日本・南アフリカ・イギリス・ベネズエラ政府のコンサルタント」らしいんだけど(韓国人なのに韓国のコンサルタントにはなっていないんだね)、これって、トヨタと日産とマツダとスズキのコンサルやってますってことにならんのかね。節操がないという意味なんだけど。

この人、日本に対してはどのようなコンサルティングをしているのか知りたいね。それを本にしたら売れるんじゃない?ポストリチャード・クーみたいな感じでさw。

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11月28日(月)

起床時刻:10時00分

『同和と銀行 三菱東京UFJ”汚れ役”の黒い回顧録』(森功/講談社/2009.9)をパラパラと。三菱東京UFJっていうか、三和ね。
大阪の同和のドン(かつ暴力団員)で部落開放同盟飛鳥支部長だった小西邦彦の担当をしていた三和の岡野氏(ノンキャリながらもやり手銀行マン)の回想がベースになっている。

小西氏について詳しくは「飛鳥会事件(あすかかいじけん)」(2006年、部落解放同盟の支部長を兼任する財団法人飛鳥会理事長が業務上横領と詐欺で大阪府警に逮捕された事件)(wiki)を参照あれ。

あまりにも私には刺激が強いので、拾い読みするにとどめた。2割くらいしか読んでないw。

なかなかリアルである。
「ワシやけどな。シモちゃんに1000マン、しといて」という電話が小西から三和の淡路支店に入ってくる。
早口でまくしたて、一方的にきるらしい。
意味不明すぎるけど、しかし本人に聞き返すのはご法度。
そういうときは、小西担当のトリチョウ(取引先課長)のポケベルを鳴らして意味を聞くんだって。
上の言葉は「地元の下村建設に1000万円を振り込む」が正解らしい。
まぁこういうおっさんいてるよねぇ。
他にも、小西さん用に呼んだタクシーが巡査にとめられて来るのが遅くなったら、小西さんのおつきの人が「どこのポリや!」というなり、走っていって、当の警官を見つけ、逆にどなりつけてたらしい。
この警官は「業務上必要なことなので」とか言っちゃいけない。ひたすら平身低頭、誤ることが大切だ。そうしないと逆鱗に触れてしまう。

私も過去、こういう理不尽な関西人のおっさんに接触したことがある。
で、逆鱗に触れたわたくしwww。
落とし穴があれば、絶対落ちるのが私なんだ。

私の先輩が電話でまず平謝りに謝ったんだけど許してくれなくて、社長からのお詫びの電話+詫び状でも許してくれないの。

このクレイマー関西人は私らの業務の発注元(私らからみたらクライアント)の詫び状をもってこい!っていうのよ。
オマエとこみたいな名前もしらんとこからスミマセン言われても、なんの価値ない!ありがたくもなんともない!
というわけよ。

それで社長がクライアントに事情を説明して、クライアントの関西支社の担当者が手土産と詫び状もってお宅を謝罪訪問したらしい。
(私はここらへんからノータッチ。存在自体がガソリン並みに危険である私を関与させないようにした社長の配慮である)

私、なーんにも悪いことしてないのに。
反省も後悔もしてねーアルよ。あ、後悔はしたかなぁ。
仕事なんかするんじゃなかったっていう後悔ね。
「仕事は下層階級にかけられた呪いだ」(Work is the curse of the drinking classes)ってワイルドの言葉らしいけど、本当ねって思ったね。労働という呪いから解放されるには死ぬしかないんだ(年金あてになんないし)。やんなっちゃうね。

さて私の話はともかく、本書に戻すと、読みながら(小西って実は「老人と子供にやさしかった」みたいな「いい話」もあんのよ)、なんか松本龍氏を思い出したな。松本氏もそういういいとこあんじゃない?
情にあつい、みたいな。でも横暴みたいな。
私、こういう和田アキコみたいな人、本当に苦手。

部落問題にゆかりのある松本龍元復興相兼防災相はヤクザ丸出しが原因でやめたけど、思うに、あれ、フツーなんだよね。ばれちゃって「運が悪かった」だけで。上に行けば行くほど、権力の中枢に近ければ近いほど、金持ちになればなるほど、ああいうヤクザまがいの("まがい"じゃなくて本物の場合もあるだろう)おっさんがいるんだわ。

宋文洲さんがあの騒動のとき、twitterで
「松本さん発言の中身を見ると、私も不愉快だ。しかし、60代の上司おじさんは皆そんな感じだよ。戦略や方針などよりも、まず礼儀作法に拘る。それだけなのだ。」
「松本さんくらいの態度でびっくりしたり、怒ったりしている人は、殆ど日本社会の深部に入れていない人だろう。権力や富や地位に近付こうとするならば、こんなおじさんがゴロゴロして毎日平常心で礼儀を尽くしてパスするものだ。前進のみだ。」
って言ってるけど、その通りだよねぇ。
で、わたしが、学校みたいなきれいごとで生きていられていられるのも、ただのパートのおばさんだからこそであり、本当によかったわぁって思う。

この本によれば小西邦彦は、税務当局にも強くて、国税当局と部落解放同盟の間には「7項目の確立事項」という密約があり、この密約では、「同和事業については課税対象としない」と明記されている。
(それで小西の淡路支店の口座の利子は非課税だったんだってさ)
この密約を取り交わした大阪国税局長は、のちに大蔵事務次官にまでのぼりつめた高木文雄である。

小西氏は大蔵大臣だったミッチーこと渡辺美智雄センセイ、村田吉隆(元国家公安委員長)センセイとも仲良かったらしい。
そういう太いパイプのおかげで大企連(部落解放大阪府企業連合会)の加入業者たちは、格段に税金が安く(無税もある)、しかも形ばかりの確定申告を、大阪国税局職員チームが解放会館に来てやってくれるらしい。

実際のところ、同和のドンのご機嫌をうまくとって、揉め事を処理してもらいたい大阪市や警察、税務署などの行政と、ヤクザ(まがい)なやり方で、問題をドンドン解決していくスーパー小西くんの間のなれあいがものすごい。

高卒ながら支店長にまでのぼりつめた三和の岡野氏もすごそう。
彼は経済回復のためにはMOF検を一時やめたらええ、なんて言っている。
銀行員なんて公務員みたいな事なかれ主義サラリーマンばかりだから、リスクをとるわけない。MOF検でバッテンつけられて支店の評価を落とすくらいなら(出世にかかわる)、融資しないってなるのはよくわかる。
「晴れた日にしか傘を貸さない」融資姿勢になるわけだ。
岡野みたいな、高卒ながらやる気あって度胸も据わっている人の活躍できる場が都銀の中で小さくなっていってるんじゃないかなぁ。
ま、そんな度胸ある人なんてめったにいないから、いいように銀行に使われたんだろう(でも「自分が銀行に利用されたのなら本望や」みたいなことを岡野はいうておった。自殺したエリート元取引先課長(岡野の四代後だったか)より肝が据わってるんだよねぇ)

この岡野氏、太鼓持ちテクもハンパなさそう(ていうか、バブル時代の銀行員に一番必要な能力って太鼓持ちテク(金持ちのジジころがし)だけのような。あ、あとゴルフもうまくないと駄目だな、なんてったって、小西が仕切った賭けゴルフで、岡野氏は掛け金150万円(自腹)のゴルフをプレイしたそうだよ。しかも岡野がかなり不利な条件で。「あれほど緊張したパーはなかった」と述回しておった)。

それにしても、誰もが、同和問題に関する不正を目撃しても「みなかったことにしよう^^;」って結論にしてたんだろうな。
私もそれよくやる。
幸い犯罪を目撃したことはないけど、私も基本的に「臭いものには蓋」だからな。
まぁ、あなたもわたしもほぼ全国民が臭いものには蓋タイプだと思うけど。
平松元大阪市長もたぶん、そういうタイプやと思いますね。

そのほうがいいんですよ。だって、わざわざ臭いものをぶちまけたって誰にも感謝されないもん。
何年かたって(願わくば自分の死後に)臭いものがとんでもなく増殖しているのが発見されても、もうあの世ですから責任のとりようがございません。

橋下現大阪市長は違うんじゃないかな、臭いものにも突進していくんだと思う。部下にも「お前らも突撃せい!」って言うだろう。
しかし、臭いものに蓋タイプ(公務員とか目指す人はほぼ100%そう)は、抵抗するに違いない。
「そんなの、前例がありません!」って言うだろう。
「そんなの、文書にも通達にもありません!」って言うだろう。
まぁ公務員だからそうやって抵抗できるけど(首切られないからね)、普通の企業だったら、「社長さまの言うとおり」ってなるよなぁ。
大王製紙の元会長だか社長だかもそうやっていくらでも金を借りたわけで。

「民主的」に動けば、臭いものに蓋をすることになる(なぜならば民衆は弱いから臭いものに蓋をしたがるんである)。
臭いものを暴くためには「独裁的」にならざるをえない。橋下氏はそういいたかったんだろう、想像するに。

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11月27日

起床時刻:12時55分

友人とランチに行ったのだが、割と狭い店内で隣の席の話が丸聞こえだった。隣のママ友とおぼしき二人組はずーーーっと受験の話でもちきり。

いっとくけど私の盗み聞きじゃない。
だって、この二人組が帰ったあと、二人組みをはさんで向こう側の席にいた客が、「すーーーっごいお受験おばさんだったねぇ」(まじ引くわー)みたいなニュアンスで、言っていたから、みんな聞きたくなくても聞こえちゃってたんだと思う。

お受験への熱意というのはたいしたものである。
実に幸せといってもいいだろう。
だいたい人間、他人のことに興味を持っているときは幸せなんだから。

ヨン様のおっかけをしている人しかり、わが子のおっかけをしている人しかり、みんな幸せそうだなぁと思う。

それに「自分のため」に何かをやるより「他人のため」に何かをやるほうがパワー出るね。
自分の受験のとき、これほど熱くなれただろうか?
ヨンさまの顔を見つめる熱意と同じ熱意で自分の顔を見れるだろうか?

しかも、自分に関心を向けるとだんだん気分が落ち込んでくるだろう。

私みたいに自分のことにしか関心がない人というのは、どっちかっていうと、うつ病患者っぽくなるわけだ。

近くのスーパーのレジ横の棚に「PHPのびのび子育て増刊 「ストレス」に強くなる育て方」とかいう雑誌があって、私は子どもはいないが、自分がストレスに弱いんで、参考までに「正しい育ち方」とはどんなもんかみてみようと思ってパラパラめくってみた。

まずチャート式のテストで子どものタイプがわかるようになっている。
私は「慎重派」かと思いきや、「楽天派」だった。
「トラブルに巻き込まれてもトラブルに思わない楽天的な子なので、気づくと大トラブルになっていたり、トラブル・メーカーになってたりするから、気をつけろ」というようなことが書いてあった。

次に「自分で乗り越えられる子」になる5つのスキルというのが書いてあった。立ち読みしただけで手元にないのでアレだが、ケース・スタディでの教育指導があった。
どれも子どもならありがちなシチュエーション。
「自分のやりかけのゲームを友達が持っていったと言って、子どもが泣いている場合どうするか?」とか。

どうすんだ?
私が子どもだったら、もうその子とは遊ばないと選択肢しかないな。
しかも大人でも、もうその子とは遊ばないという選択肢しかない!

自分の子どもに対してであったら、「嫌なことは嫌とちゃんと伝えましょうね」とか言いそうだがな。しかし、それができるんだったら、苦労はしねぇよ、とも思う。

「嫌なことは嫌」って言ったら、清武みたいに解任されちゃうんだよなぁ。
子どもの世界なら、ぼっちになるとかそういうことだね。
しかも清武は記者会見できる地位だからいいよ?
イチ子どもはどこに怒りをもってけばいいんだよ?先生?ちくりじゃねーか。

など考えると、嫌なやつがいるところからは逃げるしかないと思うんだよね。
このケースでいうと、その友達は二度と家によばない。避ける。
別の友達(まともそうな)と仲良くする。
まともそうな子どもがいない場合、一人でいるほうがまし。
友達とか一人もいなくても大人になったら何にも困んないし。
子供の場合、修学旅行とか困りそうだけどな。
大人になることの利点の一つが友達いなくても問題ないってことだなあ。

というように子育て的には不正解しか出せないのであった。
ま、育ち方間違ったんだね、知ってたけど。

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11月26日

起床時刻:09時25分

隣のご夫婦が引越した。
この6年だか8年だかの間、ご挨拶したのは一度だけ。うちは普通の家より、生活時間がだいたい3時間ぐらい(「早起き生活」コミュニティの人たちより6時間くらい)後ズレしているから、まぁ、会わないのは普通なんだけど。うちは普通に深夜3時とか4時とかまでゲームしてたりテレビみてたりするから、うるさかったかなぁと心配になったんだけど、引越しの際に手紙が郵便受けに入っていて「入居中はおかげさまで大変快適に過ごすことができました。ありがとうございました」とのことだった。
「よかった~~」と安心すると同時にうれしかったんで、自分も引っ越すときは隣に手紙を入れていこう。それならピンポン押して、玄関口でちゃんと挨拶してこいよって感じだけど、それはイヤw

うちと隣の人、そういう空気感はすごく似ていたと思う。
うちと同じ引きこもりオーラを発していたw。来客全然なかったし、子供がいないせいか、静かだったし。
隣の部屋、もう次の入居の人が決まっているみたい。また似たタイプだったらいいな。やっぱり、似たタイプ同士のほうがうまくいくんだよ。サークル活動も夫婦生活も隣近所も。そう思うな。

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11月25日(金)

起床時刻:09時10分

フリーライダー(活動に必要なコストを負担せず利益だけを受ける人、ただ乗りする人)が目の前にいたら、どうします?

メイジャンの試練(@FF11)なんですけどね。
敵を100匹たおしてこい、という課題があったとしますね。
で、1人でやるよりも6人でやるほうが少ない時間で多くの敵がたおせるから、パーティを組みますね(6人でひとつのチームをつくる)。
そして1人か2人、全く動かない人が出てくるとしますね。
(だいたい外国人なんですが、日本人もたまにいます)
ずっと席を外しているわけです。テレビをみてるか漫画を読んでいるか知らないけれど。

しかし、残りの人が敵を狩ることで、彼らも敵をたおしたというふうにカウントされ、課題をクリアすることになるわけです。

フリーライダーでしょう?

私の観察の結果、日本人は「仕方ないね、外人だから」とあきらめる。
寝落ちとかなら確かに仕方ない。
でもパーティにはいって5分くらいで席をはずし、その後1時間、2時間席を外す人もいる(課題がNMなら1時間2時間雑魚狩りするからね)。
その間、日本人だけが奴隷労働をする。

図々しいヤツが得をする。
正直者が損をする。
「でも、仕方ないよね、だって誰かがやらなくちゃいけないんだもん」と日本人どうしで慰めあう。

私、こういう図を何回も何回も見てるんですけど。
「もしafkを続けるならキックする、俺はフリーライドは嫌いだ」とガイジンに言った人は一人しかいない(そしたら、「いや、今ちょっとあれでこれで席を外していただけで、これからはちゃんとやる」って言い訳して狩に参加してたけど)。

だから英語はちゃんと勉強しなくちゃダメだ。
正しく、文句を言うために。
ちゃんと、自己主張をするために。

何も言わなければ、「なんとも思ってないんだな」としか考えないのがフリーライダークォリティなのです。相手の気持ちを忖度することなんか、ないんです(だからフリーライダーなんです)。

でも日本人ってば英語ができるようになっても、多分、文句言わないんだよなぁ。だって日本人でさぼっている人にだって、文句を言っている人がいないんだもん。雰囲気を悪くするのが嫌なんだろう。
ひたすら、我慢。
やっぱり「はっきり言えない」んだよね。
「いやなことをされても、いやだ」と言えない。

そこんとこわかってるから、あたしたち、気をつかったり、空気読んだりして、はっきり言えないけど、言いたいところをつかんでいるんだよね。

だけど違う文化圏の人は何も言われないのをいいことに、やりたい放題、し放題だからねぇ。それで最後に切れてこっちが「うぉりゃああ」と暴力行為を働いたら、10-0でこっちが有罪だからなぁ(そのガス抜きが2chさらし板なのかもしれんな)。

どうしたら面と向かって「いやだ」っていえるんだろう。
「お前はずるい」っていえるんだろう。
ほんと、難しい。勇気がいる。波風をたてたくないけど、波風をたてずに自分の主張を通すことなんかできないもんね。しかし波風をたてるくらいなら自分の主張なんか通さなくてもいいやって思う気持ちも、よーくわかるんだよね。

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11月24日(木)

起床時刻:08時00分

「動物愛護管理法」が来年、改正される見通しだそうで、ペットのインターネット販売や夜間販売の規制強化や生後一定期間の販売を禁止されるようになるとか。よかった、よかった。

ペットといえば、この間の大震災の映像を見て、あらたにペットを飼うことを躊躇する人も多くなったのではなかろうか。

あのときに、突きつけられた現実は「ペットはアニマル・コンパニオンでもなければ、家族の一員でもない。モノ同然のただの動物である」ということだった。
(まぁそもそもモノでなければ、売り買いなどしないだろう)

避難所に人間は入居できるが、犬は入居できない。
原発周辺の町では人は避難させられたが、犬は放置。
(住民の意思ではないようだが)

「だって仕方ないもの。悲しいけれど」
でも、そう言って家族を捨てることなど、できないはずなのに。

日本は地震列島だ。
いつ東京に大地震が起きても不思議じゃない。
そのとき、東京にいる多くの犬はどうなるのだろうか。

知人は飼っている犬と一緒に避難所に入れないのなら、避難所には行かず、犬と野宿するといっていたけれど。

私自身は動物を飼っていない。

実家では犬を飼っていた。
公園に雑種の犬(最近はミックス犬というらしいね)が捨てられていて、それを幼稚園生くらいの私が拾ってきたのだった。

私が捨て犬に出会ったのは、この一度きりなので、その後犬を飼うこともないわけだけれど。

もちろん、世の中には今も保健所で殺処分されようとしている犬がいっぱいいる。
しかし目の前に存在しないならば、存在しないのも同然だ。
想像力の貧困さは、生きることを容易にしてくれる。
目の前で死ななければ心も痛まない。
だから、人はペットをこの手で殺さずに捨てるのだろう。

若山牧水の短歌に「君捨てよいな君こそと童二人犬の子捨つるゆづりあひをる」とかいうのがあって、牧水の家で生まれた子犬だろう、牧水の子らが「お前が捨ててこいよ」「いや、お前が」と兄弟でゆずりあっているという歌があるのだが、それの解説に「ほほえましい」と書いてある本があって、私は仰天したことがある。

ほほえましい?
これが「犬の子」ではなく「おばーちゃん」を姥捨て山に捨てる話だったら、ほほえましくはないだろう。どっちがおばあちゃんを背負って、山に放置してくる?っていう話だったらさぁ。

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11月23日(水)

起床時刻:08時00分

11/22の話の続き。
誰かつっこむかなと思ったが、内田センセイは「あるいは貿易収支上のバランスを考えて割高でも外国製品を買う」のが成熟した消費者であるとも言っている。従って、韓国の対日貿易赤字ということでいえば、韓国はずっと日本に対して貿易赤字国なので貿易収支上のバランスを考えて韓流ブームにのってやるのは、逆に成熟した消費者である、という反論もあるだろう。

しかし、それを言うならばアメリカはいまだに対日赤字が続いているから、
当然、アメリカのものを買うべきであるという結論にいたるだろう。
では、成熟した日本の消費者はアメリカの米を買うべきなのか?

文脈から想像するに、内田氏はTPP締結による農産物のことを見据えて「1円でも安いものを買おうとするのは未成熟な消費者」といっていることから、アメリカ産の米を買うことを推奨しているわけではあるまい。

であるならば、アメリカ車を買うべきなのか?
しかし、言うまでもなく日本の雇用は農業によって生み出されているわけではなく、(空洞化しているとはいえ)製造業やサービス業である。
「雇用のことも考えて振舞う」のが成熟した消費者というセンセイの説に従うならば、われわれは、アメリカ産の米を買い、日本産の車を売るべきである、という結論にいたるだろう。

何が言いたいのかというと、内田氏がいうような「成熟した消費者」とか「未成熟な消費者」とかいうのは、ただの幻想にすぎないということだ。
経済学でいうところの「合理的個人」が幻想にすぎないように。

TPPの議論をみてもわかるように、経済学者の数だけ学説があるというとおり、「国民経済的」見地から、雇用を確保」し、「貿易収支のバランスをとる」べく考えた結論が、A氏とB氏とでは真逆になることは予想にかたくない。

日本の消費者がやるべきことは燃費が悪くても貿易収支を考えてアメリカの車を買うことなのか?
それが成熟した消費者なのか?

ちなみに内田氏の車の買い方はこんなかんじである。

「大学に忘れ物をして取りに行った帰りに芦屋のHattori Motors の前を通ったので、思い立って車を止めてショールームを訪ねる。
何台か車を見せて頂いて、営業マンにスペックのご説明を受ける。
ふんふんなるほど、525はちょっとでかすぎるな…じゃこの320iのMスポーツ・パッケージつうのがいいな、2200六気筒で、おまけにシャコタンじゃん。
「じゃ、これ下さい」というと営業マンが訝しげな顔をする。
「は?」
だから、「これください」って言ってるんですけど。
「あの…お買いになるんですか?」
八百屋に行って「キャベツください」って言ったときに「あの…お買いになるんですか?」と訊かれることはない。
どうして車屋さんはびっくりするのであろう。
だって、ここうちから一番近いBMWのディーラーさんでしょ。
今のインプレッサを買うときも、いちばん近いスバルのディーラーに行って、「あのー、インプレッサWRXワゴンください」と言ったらやはり怪訝な顔をされた。」
(2004年12月20日「車は天下のまわりもの」)

こんな買い方をしているやつが、「成熟した消費者」とか、わかったような口をたたくな!ボケが!

というのが私の結論である。

昨日の記事もただの内田樹批判というよりも(批判されるほど内容があることは書かないのが内田氏の処世術かもしれん)、内田氏をおちょくっただけだ。

内田氏に関して「すごい」と思う点は、根拠もない「思いつき」を、自信満々かつ断定的に語る、その独善性だ。
まぁ私もそういうとこあるけど、内田氏には負ける。
それにしても内田センセイの知的風味をまぶした薄っぺらな浅知恵に対して「難しいこともわかりやすく教えてくれて有難うございます!」とか言ってる人が多いこと。理解不能だ。

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11月22日(火)

起床時刻:08時00分

「韓流ごり押し」に反対なさっている皆様に朗報ですわね、あの内田ジュ先生のお墨付きをいただいたんですもの。

内田先生によれば、「同じクオリティの商品であっても、「国民経済的観点」から「雇用拡大に資する」とか「業界を下支えできる」と思えば、割高でも国産品を買う。あるいは貿易収支上のバランスを考えて割高でも外国製品を買う」
「そういう複雑な消費行動をとるのが「成熟した消費者」である」そうですわ。
http://blog.tatsuru.com/2011/10/31_0943.php

内田先生によればアメリカ人は未成熟な消費者(=1円でも安いものを買う)だったから、アメリカの自動車産業をつぶしたんですって。「「国内産業が滅びても、安いものを買う」アメリカ型の消費者像」に警鐘をならしていらっしゃいますわ。引用いたしましょう。

「アメリカの消費者はそうやって(=安い日本車を買って<引用者注>)ビッグ3をつぶしたのである。だが、それについての深刻な反省の弁を私はアメリカ市民たちからも、ホワイトハウス要路の人々からも聞いた覚えがない。 日本の車がダンピングをしているというタイプの非難はあったし、自動車メーカーにコスト意識が足りないとか、労働組合が既得権益にしがみついたという指摘はあった。だが、「アメリカの消費者はアメリカの車を選好することで国内産業を保護すべきだった」という国民経済的な視点からの反省の弁だけは聞いた覚えがない。
ビッグ3の売る車の品質に問題があろうと、燃費が悪かろうと、割高であろうと、それが彼ら自身の雇用を支えている以上、国民経済的には「つぶしてはならない。だから、泣いてキャデラックに乗る」という選択を「成熟したアメリカ市民」はしてよかったはずである」

アメリカ人を日本人に置き換え、自動車産業をコンテンツ産業に置き換えればこれって日本の韓流ブームへの警鐘ですわねぇ!

コンテンツ産業は経済的な波及効果が大きいことから、どこの国でもコンテンツ産業振興に力を入れていることはご存知ですわよね。
日本のコンテンツ産業の市場規模は大きいんですけれど、伸び悩み傾向にあるから、輸出に力を入れないといけないんですの。「クール・ジャパン」なんて経産省が音頭とりをしているのはご存知でしょう?
そしてもちろん、韓国が国をあげてコンテンツ産業振興策に力を入れているのは皆様ご存知ですわよね。

「韓国KOCCA(Korea Criative Contents Agency)によれば、2008年度の韓国放送番組の輸出額は1億7100万ドル(1ドル=80円として、864億円)である。コレに対し、日本の地上波キー局の海外番組販売収入は、TBSが2009年度3月期で11億7000万円、日本テレビは6億7000万円だ」そうですから(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4858)、日韓のコンテンツ産業における競争力の差は桁違いということがお分かりになりますでしょうか。

このままいくと、日本のコンテンツ産業はアメリカの自動車産業のようにつぶされてしまう。
そしてコンテンツ産業従事者(ドラマ関連だけではなく、アニメやゲームにいたるまで)の雇用が失われてしまう。
安けりゃいい(韓国のドラマ制作費は日本より安い)と韓流ブームに乗るのは間違いだ、ということを内田先生はおっしゃっているんですわねぇ。

「「成熟した消費者」とは、その消費行動によって、ある国の産業構造が崩れたり、通貨の信用が下落したり高騰したり、株価が乱高下したり「しないように」ふるまうもののことである」と内田先生はおっしゃいます。

フジTV前でデモを行った人たちは、日本のコンテンツ産業の崩壊を防ぐのを目的とした「成熟した消費者」なんですわねぇ。気づきませんでしたわ。

と、ここまで読んで韓国ドラマが日本のドラマと「同じクォリティ」ではなくて、韓国ドラマのほうが「高いクォリティ」だから、韓国ドラマを見るんだ、という反論をなさる方もいると思いますの。

内田先生によれば、国内の雇用を守るためなら、「品質が悪くても国産を買う」のが成熟した消費者だそうですので、反論自体が無効だとおもいますけれど、一応付言しておきますと、内田先生ご自身は韓国ドラマは日本のドラマよりクォリティが低いと思っていらっしゃいますのよ。

内田先生によれば(2005年01月06日「韓流ドラマの作り方」というタイトルで)、「高橋源一郎さん風に言えば、韓流ドラマは『野菊の墓』で、日本のドラマは『それから』や『こゝろ』だということである」とおっしゃっていますの。

もちろん、『野菊の墓』より『それから』や『こゝろ』のほうがクォリティは上ですわよね?

ということは、日本の韓流コンテンツ消費者は
「「同じクオリティ」と思えば、割高でも国産品を買う」
のではなくて、
「下のクォリティの商品であっても、安いという理由で、あるいはよく宣伝されているという理由で、あるいは友達もみんな買っているからという理由で、外国産を買う」
ような人たちですわね。

韓流ファンは「情弱の上に、ものの価値がわかる知性も感性もない、豚に真珠の豚である」ということを先生はおっしゃりたいんですね(でも豚に真珠の豚ばかりだから先生のご本が売れたのかもしれませんわね、なんて冗談ですけれど)。

わたくし、韓流ごり押し反対デモの方に提案なんですけれど、プラカードやビラには
「「国民経済的観点」から「雇用拡大に資する」とか「業界を下支えできる」と思えば、割高でも国産品を買うのが「成熟した消費者」だ(内田樹)」
「「成熟した消費者」とは、その消費行動によって、ある国の産業構造が崩れたり「しないように」ふるまうもののことである(内田樹)」
と入れるといいと思うんですの。

だって正直申し上げて、韓流ごり押し反対デモってテーノーな右翼みたいな悪いイメージをもたれている面がありますでしょう?
だから「日本の知性」を代表する内田先生のお墨付きを引用することで、きっと情弱な国民も納得し、目を覚ますと思うんですわ。

それにデモの会の名前も(今、なんという名前の会かは存じませんけれど)、「成熟した消費者を目指す市民の会」にしたらいいんじゃないかしら。市民好きの朝日や岩波あたりからも好感がもたれそうじゃございませんこと?

以上、引用した内田先生の文章は「さよならアメリカ、さよなら中国」というタイトルですけれど、「さよなら韓国、こんにちは日本」と付け加えてもよさそうですわね。

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11月21日(月)

起床時刻:09時30分

『シューマンの指』(奥泉光/講談社/2010年の永嶺修人の誕生日に第1刷は出ているんだが、私が持っているのは第11刷。どんだけ売れているんだw)を読んだ。

シューマンへの思い入れはわかった。

「シューマン 幻想曲ハ長調Op.17の第一楽章」の演奏を聴いたときの主人公の感想はこんな感じ。
「渓谷を渡る気流を想わせるアルペジオに運ばれる滑空する第一主題の旋律
-その核になるAからDまで下降する5つの音は、<略>「クララの動機」とも呼ばれるこの楽句が、調性をぼやかしたまま進み行く姿は、さながら夢の霞が凝ってできた瑞雲から飛び出した一羽の鳥のようである」(P151)

ワイン愛好家のワインの表現と同じく、なんのことやらさっぱりわからん。
でも私もそんなこと言ってみたい~~。

「続く展開部、低音が銅鑼のように深々と鳴ると、それはまるで
いままでとは違う楽器で弾かれたかのようであり、高温が一瞬、眩く閃いた直後、冒頭の主題が短く帰還して、木質の肌理の感触が懐かしく闇に残される」(P155)

とか言ってみたい~~。

しかし、私は音楽の才能ゼロ、ピアノの才能ゼロである。
ピアノによって私のinferiority complex(←奥泉風原語書き)の
3割くらいは培われたのではなかろうか。

と書くと、「おまえは全方面で才能ないだろうが!」といわれそうだが、
そんなことはない。たとえば、絵画であれば、賞をとって表彰されたこともある。漫画はクラスでも、上位3位に入るうまさであったと思う。
(あ、ただのオタクっすか、そうっすか)
ま、小学校くらいまでは。

しかるに、である。
ピアノは本当に下手であった。

私がピアノがど下手くそであるという話は何回か書いたと思うけど、もうほんっとにね、どのくらい下手かというと、アメトークの「運動神経悪い芸人」ってあったでしょ、あのピアノ版だと思ってくれればいい。
「わざとやってるでしょ?」ってレベルで下手くそ。

この前。特番で、「運動神経悪い芸人」チームが小学生と野球対決してたけど、私も確実にピアノは小学生以下。幼稚園生以下かもしれん。

「ほんのちょびっとしかやってなかったから」っていうならまだいいよ。
私、幼稚園前から中学2年くらいまでやってたんだから!!
それで幼稚園生レベルってどういうことや!!!
どんだけ足踏みしてたんや!!!

私はだいたい不器用だから、ハーモニカを習得するのすら、人の10倍くらいの労力がかかったのである。
妹なんか私の特訓を横でみてるだけで何でもできるようになる、というのにである。

私が親に
「あんたは人が1回でできることが10回かかる、
人が10回でできることは100回かかる」
と呪文のように言われだしたのはこのころではなかったろうか。

ピアノもそうで、私は近所の誰よりも早くはじめて、全員に抜かれ、一番どんじりを周回遅れでヨタヨタ、歩いてたんだ。

「ウサギと亀」という話があるが、現実ではウサギは絶対に休まないんだよ!
むしろ、亀がウサギとの差に絶望して棄権すんだよ!

発表会という「さらしの場」ではまったく、ただの苦痛であった。
プログラムを見ると、小学校高学年の私と小学校低学年のガキがおんなじレベルだったりする(先生がさすがに気の毒に思って同じ曲は避けてくれたが、同じ楽曲集に入っているやつだった)。

その小学校低学年の子とその子の親はいいよね、
「あらぁ、私(うちの子)、才能あるんだわぁ」みたいに思えるだろうけどさ。

あああ、心の闇が全開してしまった。
ぜんぜん奥泉光の小説とは関係ない話になってきた。

私は、弾くほうも駄目だったが、音楽のセンスもない。
たとえば、私はシューマンよりもショパンのほうが断然好き。
でも、この本(『シューマンの指』)ではショパンよりも断然シューマン押しで、「シューマンよりもショパンのほうが断然上」とかいうヤツは「音楽的俗物」よばわりされている。
チャイコフスキーにいたっては「凡庸な音楽」とまで言われている。
なんで?チャイコフスキー、超いいじゃん~。
ひょっとしたら「チャイコフスキーが好き」とかいうと、クラシック界では馬鹿にされるんかいな?「あいだみつをが好き」と詩人サークルで言うようなもんなんかいな?

私が知っているシューマンの曲は「トロイメライ」「楽しき農夫」「飛翔」「アラベスク」くらいしかしらない。
弾いたことあるのは前二曲。後者の二曲は友達が学校の音楽室で弾いていた。おかしいだろ、同学年で、片方は「楽しき農夫」、片方は「飛翔」ってさ~(だけど全音ピアノピースによると「トロイメライ」は難易度Dで「飛翔」と一緒なんだ。だから「ねぇねぇ、Pyaaaちゃんもなんか弾いてよ~」みたいに追い詰められたときは(「お前は私の心の”デス・ノート”リストに載った」と内心つぶやきつつ)、「トロイメライ」を弾くようにしてたな)。

まぁでも、「楽しき農夫」なら私も好きだが、『シューマンの指』では「楽しき農夫」なんか言及もされない「トロイメライ」については多少言及があって、「華やかな舞踏会、笑いさざめく人々のなかに、青白い顔の幽鬼が一人、うっそりと佇んでいる」ように主人公は感じている。
私の「トロイメライ」の感想は「短いところがいい」という感想だな。
「楽しき農夫」も短いが。

だいたい、私はシューマンのソナタやらなんやらを聴いているとすぐに飽きちゃうんだよね。長いんだよ。
音楽を聴く耳も、私、幼稚園生レベルなんだよね。

あと演奏を聴いても「あれはいい」「これは下手」っていうのはないんだよね。少なくとも音大生くらいが弾いたのを聴いて、どっちがよくてどっちが悪いとかは全くわからん。「上手だなぁ」としか思わない。あと「よく暗譜したなぁ」くらいかなぁ。

そんなこんなで音楽はたいして好きではないのだが(一年間、全く音楽を聴かなくてもまったく何の問題もない)、私のことはともかく、この本はですね、「シューマン好き」や「お耽美な美少年好き(永嶺修人くんという、「天才少年ピアニスト」が色白でまつげが長くて赤い唇をした美少年と強調されている。クールで孤独で気まぐれで、というベタな設定)」の人にはお勧めできます。

最後のほうに謎の展開があります。
人によっては最終章は蛇足だと思う人もいるかもしれないけれど、これってシューマンの遺作(<<天使の主題による変奏曲>>)へのオマージュ?
「単調な主題が合計六回、わずかに変化をつけて繰り返されるだけの印象は否めず、最後の第五変奏では、左手に奇怪な不協和音が現れる」とこの遺作を評しているけど、『シューマンの指』の最後も、シューマンの最後の曲と同様に単調な主題を数回、わずかに変化をつけて繰り返し、最後に奇怪な不協和音を響かせて終わる-そういう意図なのかしらん(もし違っていたら、えらい失礼な言い草ですなw)。
この小説自体というか奥泉の小説自体、シューマン的というか、「不穏な意味を帯びた平明な夢」のようなトコあるよね。
(「シューマン的」といっても私がシューマンを理解しているわけではなくて、この本で書かれたところの「シューマンらしさ」ね)

でもこの本が売れたのは、ちょっとショパン風にベタな要素入れたからかもしれんなw

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11月20日

起床時刻:08時15分

11/17(木)の「あさイチ」(NHK)だったか、勝沼の長い歴史のあるお寺が紹介されていたのだが、そこの住職はワインづくりもやっているんだそうで、なんと昼間っから一升瓶のワインを出して、山本太郎(訪問者)と一杯やりだしていた。

おいおいおいおい、全国放送で坊主が五戒を破っていいんかね?

この寺のHPをみると

「拝観とご一緒にお飲み物はいかがですか」
グラスワイン拝観 1人 800円 拝観券+グラスワイン(赤か白)

なんつーことまで書いてある。
シナゴーグでトンカツ売るようなもんである。

五戒というのは在家信者が守るべき最低限の決まりである。
念のために書いておくと、
・不殺生戒
・不偸盗戒
・不淫戒
・不妄語戒
・不飲酒戒
の5つである。

在家なら努力目標だが、出家者ならば絶対に守らなくちゃいけない決まりである。ていうか、出家者が守るのは「律」であり、wikiによると

律とは、僧侶が僧団で守るべき集団規則である。戒を破っても罰は受けないが、律を破ると罪の内容によって様々な罰を受ける必要がある。
<略>
上座部仏教では227戒、大乗仏教では用いる律によってその数が異なるが、四分律の場合、比丘は250戒、比丘尼は350戒の戒がある。

とある。

当然五戒は律の中にも含まれる。
基本中の基本のはずだ。

なんで平気で破れるのか、私は未だになぞである。

ま、私としても、「戒律破ったら石打の刑な」みたいなおそろしい世界よりも、日本のような、ナァナァ、テケトー、欲望丸出しの世界のほうが一万倍くらい好きだが、ぼーさんが「これでいいのだぁ~、これでいいのだぁ~」と無反省であるのはどうかと思う。
(もっともストイックな僧侶のほうが多いんだろうが、私のまわりにはいないねw)
ま、私も行動はナァナァ、テケトー、欲望丸出しなんで、「お前には言われたくない」って僧侶の側も思うかもしれないが、それは私の意志力と体力が著しく欠如しているからであって、ココロはいつでも原理主義的なのだ。

だいたい、何でも、「決まり」や「型」っていうのは大事なのである。
顕在的行動は人の内面にも確実に影響を与えるから。
さらに言うと、「形」から入ること、これは日本の「道」系統の習得における伝統でもある。

お茶を習えば誰しも、茶杓ふきーの、棗ふきーの、水差しの蓋ふきーの、茶碗ふきーの、あっちゃこっちゃ袱紗や茶巾で拭きまくる作業をさせられるが、

「自己目的化したお手前は茶道の本意ではない」
「複雑なお手前が、人々を茶道から離れさせていく」
「人間の内心にはおもてなしのココロが宿っているのだから、お手前えの手順を守らなくても、茶道の本質は悟ることが出来る」
「和敬清寂という茶のココロを表現するための手段としてお手前がある。お手前の手順を守る為におもてなしが疎かになるならそれは目的と手段が逆転している」

などと理由をつけて全部やめちゃったらどう思う?

と、書いてて思ったが、私ってこういうこと、めっちゃ言いそうだな(「形式主義とか意味ないじゃん?ハートよハート、大事なのは」みたいな)。
しかし坊さんが言うとイラッとくる。なんでだろう?
単に坊さんが嫌いなんだろうか。

ま、お茶の場合は家元が京都で生きとるから、そんなことは恐れ多くて誰も言わないが(破門されちゃうもんね)、仏教の場合は家元が死んで跡取りはいないし、何しろ本家本元はインドというめっちゃ遠いところなんで、言いたい放題、やりたい放題なんだ。

これがもし、シッダールタ家第百代当主が存命だったら、こう好き勝手はできないだろう。

さて話を戻すと、戒律については「真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺」のHPが詳しい。
http://www.horakuji.hello-net.info/index.htm

出典を明記して引用させていただこう。
(興味ある方は原典(というか原HP)をご覧あれ))

「なぜ酒を飲んではいけないのか(序)沙門 覺應 (horakuji@live.jp)
http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/silavibhatti/alcohol/index.htm

飲酒戒とは、在家信者の保つべき「五戒」「八斎戒」などのうちの一項目、
あるいは出家修行者の律の一条項で、穀物種であれ果実酒であれどのような酒類でも、これを飲むことを戒めたものです。
ちなみに、出家修行者の場合は、戒められているのではなく、禁止されています。
仏教徒であれば、酒は飲むべきものではなく、僧侶であれば、決して飲んではならないものです。
<略>
さて、まれに、いや往往にして、「不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し、悪を行うことを戒めているのだ。よって多少ならば良い」という者があります。が、これは詭弁です。
たしかに、飲酒という行為自体が悪である、酒という存在が罪である、などということはありません。」
<略>
「人は飲酒せずとも、軽重問わず多くの「あやまち」を犯すものです。
飲酒することによって、意図的にその要因を増やすのは愚かなことである、というのが仏教の見解です」

そのとおりだと思う。

このお寺さん(真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺)はこんな厳しいことも書いている。

「仏教徒とは何か? 2.非僧非俗?」
(沙門 覺應 (horakuji@live.jp))
http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/buddhist/index.htm

「(非僧非俗を主張した←引用者注)親鸞は出家者・僧侶などではなく、一介の在家信者にすぎません。しかし、これは彼独自の宗教的信条によるものといいますが、彼は僧侶の姿を捨てることはなく、そこで主張したのが「非僧非俗」という立場だったようです。非僧非俗とは、つまるところ「形は僧侶に似たもので、生活は俗人と同一」という、現代で言えば仏教コスプレ愛好者とすら言えるようなものです」

「もっとも、現代において、自身をして「非僧非俗」であると主張する人々は、これは真宗に限ったことではなく、ほとんど全ての宗派の僧職者に見られるようになりました。しかし、これは出家者として人々から寄進や布施は妨げなく受けるけれども、その生活はまったくの俗人である。つまり、「僧侶としての特権・利権は享受するが、僧侶本来の義務や規制は一向に履行・遵守しない」ということを、恥じずに公称しているのと変わりない輩ばかりとなった、と言えるでしょう」

ま、私は浄土真宗本願寺派の学校の卒業生なんだけどね!
だからというわけでもないが擁護すると、親鸞聖人の教え、他力の宗旨で救われた人もとても多くいただろうと思う。

南無阿弥陀仏というのはスイッチで、それを唱えれば極楽行きのリフトが下りてくるというシステムだ。
今までは極楽に行くには、命綱つけてのアルパン・クライミングの世界でほぼ全員が挫折していたのだが、「南無阿弥陀仏」という易行、裏口入学で、すっと極楽にいけるようになったのはありがたいことである。
しかしリフトで上にあがるにせよ、やはり山について学び、体を鍛え、努力し、挑戦し、格闘し、挫折し、その上でスイッチを押すべきであると思う(親鸞聖人はそうだっただろう)。リフトがあるからいいもんね、とばかりにゴロンと横になってテレビをみながらポテチをくらうようなカウチポテト状態で、リフトのボタンをポチっと押しているような後続者たちは、間違っているような気がするんだわ。

ま、私は信心ゼロの無宗教者なんで酒を飲もうが肴をつまもうが問題ないんだけどね。

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11月19日

起床時刻:08時10分

パソコンがフリーズしてしまったので書いた記事が消えた。
まぁいつものことなんですけどねっ。

で、書き直すとなんか間抜けな感じがする。
夢の話だったんだけどね。
ま、夢の中でまーた馬鹿なことやらかしたっていう話。
しかも馬鹿の上に馬鹿を重ねて、「馬鹿のサグラダ・ファミリアやァ!」と彦磨呂なら言ったかもしれんね、っていう話。

夢の中で、一人で旅行に行くことになる。羽田に出発予定時刻の2時間前に着いたんで、いったん家に引き返して時間をつぶそうと思いつく。で、家に帰ってダラダラしていたら、気がつくと、出発予定の10分前になっている。家にいるのに。どーすんの!
「タクシーだったらギリギリいけるか、いや無理か」とか焦って悩むんだけど(夢の中では羽田の近くに住んでいる)、よく考えてみたら、アメリカに行く予定なので、羽田じゃなくて成田やん!最初から成田に行ったら、ちょうどいい時間になったのね!私ったら何やってんの!というオチ。

それで「私って馬鹿、馬鹿!夢の中でも馬鹿!」と落込む話なんだけど、今また書くとかなり冷静になってしまうな。「なるほど」と軽く頷く程度の感慨しか覚えんな。

どこにも行く予定がないって幸せなことだ。
だって遅刻する可能性がないんだもん!

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11月18日(金)

起床時刻:10時00分

「幸福は、ひとを出し抜く行為を必要としている」(byジグムント・バウマン『幸福論』。以下引用は同書による)。ご丁寧にバウマンは「ひとを出し抜く行為」の箇所を強調している。

まぁそうだねぇ、考えてみりゃあ、受けた人全員が東大に受かるなら、合格が幸福に思えるかねぇ?誰でも例えば商事や物産から内定がもらえるなら、内定をもらえたことが幸福に思えるかねぇ?
答えはNOだろう。
「なんであいつが?」
「俺はあんなに努力したのに?」
「不公平だ!」
という不満にとって変わるでしょう。

私たちは、自分が他人よりも上であることを社会や共同体によって承認されることで、幸せを感じるわけです。

だから、「金持ち1、ミドルクラス5、貧乏人4」割の世界と、「金持ち0、ミドルクラス10、貧乏人0」割の世界では、確実に前者のほうが幸福度は上回るはず(もしアンケートをとったならば)。全員が同じくらいに裕福なら金があることの幸せすら感じられないんですよ。

幸福の本質が人を出し抜く行為であれば「愛」は不可能になるのではないか?バウマンは疑問を呈する。

だって幸福になるためには他人を蹴落とすことが必須なんでしょ?
私の自己実現(あるいは幸福の追求)の障害になるなら、排除すべきじゃない?あるいは将来的に私の幸福(の追求)の負担になるんじゃない?
妻がいなければ、夫がいなければもっといい人生がおくられたんじゃない?

「あなたのために私が犠牲になることの見返りは何?」
「おまえを養うことによる俺の見返りは何?」
その無限のダイアローグこそ結婚を難しいものにしている。
(逆にいうと、見返りがあると相互に思えれば一秒でまとまるような関係でもあるんだ、夫婦って。「見返りがありますよ!」というメッセージこそがコンカツの肝だと私は思う。芋づる式に、ゴロゴロ男でも女でもひっかかるであろう)

「献身的な文化は死んだ」というジル・リポヴェツキーの言葉をバウマンは引用している。「わたしたちは、自分たち以外の何かのために生きる、なんらかの義務のもとにあると認めることをやめてしまった」(P80)

その結果、むしろ、「利己的に自分に言い及ぶことの劇的な増大は、逆説的にも人間の苦難に対する感受性の高まりと手をとりあって進んでいる」
「だがリポヴェツキーが正しくみてとったように、そうした道徳的な影響力と寛大な行為の頻発は、「痛みのない道徳」、義務や実効的な制裁を剥ぎ取られた道徳、「身勝手な優先によく適合した」道徳のあかしにほかならない。「自分自身以外の何かのために」活動するとき、自我の情念、安寧、そして身体的健康は、予備的要件であると同時に本源的要件でもある。それらはまた、他者を助けにいくために準備しておくべきわたしたちの覚悟の限界を定めてもいる」(PP80-81)

確かに、東日本大震災の後にみられた広範な同情とボランティア活動は日本史上みられたことのないものだったと思う。しかしながら、私たちの同情はしょせん「痛みのない道徳」「痛みのない同情」なのだ。いわば、ア・ラ・カルト方式の道徳行為であって、通りすがりにちょっと同情をふりまくには適しているが(お酒をひっかけて帰るように)、家までノコノコついてこられるとハタメイワクもいいところっていうタイプのものだ。

昔だったら、と考えてみる。
『続・東北-異境と原境のあいだ』(河西英通・中公新書)では七戸のある食堂での会話の一節が引用されている。
「なァー、おかみさん、わしも一人の息子を満州の兵隊へ出しているだが、こないだも手紙で言ってやっただ、国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死をしろ、とな。そうすりゃ、なァおかみさん、なんぼか一時金が下って、わしらの一家もこの冬ぐらいが生きのびるだからな」
著者は「不況時の娘の身売りはよく知られているが、息子の身売りはこうした出征や、北海道への人夫・炭坑夫という形をとった」と述べる。

結局、不況あるいは凶作や自然災害を生き抜くためには、息子や娘が犠牲になったわけだ。自分の幸せを願うよりも両親や(場合によっては国の)幸せを願う子供たちは、今の私たちよりも幸せだっただろうか?幸せのためのプランAもプランBもなく、身売りしかなかった時代のほうがよかったのだろうか?

私は一分の迷いもなくNOだと思う。
おそらくバウマンもNOだろう。
しかし、今の私達は結局その代替モデルは出せず、未来へと後ずさりしているだけだといわれれば、首肯するしかないが。

昔は自己犠牲の精神のもと、家族で支えあうことが有効だったわけだ。
今はそうではない。「それは家族の問題でしょ」とみなされることもなく、見ず知らずの人がボランティアとして助けるし、寄付も多く集まる。

しかし、その優しさも当然ながら、身を切るような、自己犠牲を伴うようなものではない。
「大変ですね、じゃあ、原発をうちの横に建てましょう」という人は一人もいない。それどころか、福島の薪を使うのすら、大騒ぎになる。

自分への痛みが波及しない限り、もっとはっきりというと、相手が自分の幸福への道筋の障害物とならない限りで同情し、援助もするのが私たちなのだ。もちろん、それは当然だ。誰だって、損はしたくない。

そう、自分の行為に対するリターンの計算、即ち「私が損している」「あなたがもうけてる(ずるい)」という費用便益分析によって導かれる感情が私達の全てなのであり(もちろん人間関係も)、私たちの問題を解決する一番手っ取り早い方法であると同時に、かつ問題の根源でもあるのだ(ほぼ全ての家族問題は「損得感情」で説明されるだろう)。
しかしこの利己心で全てを語るのは昔よりはマシ(義務の網の目の中に個人を償却する)ではあるものの、完璧には程遠い。

完璧には程遠いとしても、バウマンだって、何もカウンタープランを出せていないのだ。結局、セネカとかマルクス・アウレリウスを引っ張り出してくるようなことになりかねないのだ(自制と節制と協調と謙虚さ!)。彼らがマジョリティになったことはない-新自由主義者の1/100程度の勢いにすら、なったことはない。これからは違うというのだろうか?草食男子とかそういう形で理想に近づいていくのだろうか?

よくわからんけれど、私の場合、酒が飲めているうちは幸せであるのは間違いないw。もっとも、バウマンからは快楽に耽溺し、現実(人間はいつかは死ぬという真実)から逃避しているだけの、だめ人間と怒られそうだけどね。もちろん、一生、しらふにならずにすむのなら、一生逃げ続けていられるなら幸せなんだろうけど、なかなかそうはいかんのだよね。

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11月17日(木)

起床時刻:08時00分

さっき日テレの「ケンミンSHOW」をみてたら(なんか一日中テレビをみとるような感じだなw)、宮崎では綱引きの掛け声が「エイエイエイサー」なんだという話をしていた。
ちなみに全国的には「オーエス」なんだって。

私(福岡出身)は「あれ?エイエイエイサーではなかった気がするけど、オーエスでもなかった気がするな?なんだっけな?忘れちゃったよ!!」と自分の記憶力の悪さに愕然としていたら、博多華丸大吉が「福岡は無言です。まわりが『頑張れ』というくらいで」って言ってて(「だから運動会というより労働に近いですね」by大吉www)、「あ、そうか!無言だったんか!だから思い出せなかったんだ!」と得心がいった。

いやあ、「ひょっとしたらオーエスだったっけ?」とありもしない過去を捏造するとこだったよ。でも「そーれ!」「そーれ!」くらい言っていたような気もするんだけど(今なら言えるが「オーエス」は確実にない)。全く思い出せない……。

*********
朝、「とくダネ!」観たら、ブータン王妃が銀ブラしているシーンが出てきたのだが、そのときに「とくダネ!」の記者が「what did you buy?」みたいなことを聞いていたのだが(王妃は気さくに「souvenir」って答えていらしたが)、これって失礼なんじゃなかろうか?いきなり英語で質問するのも失礼だし、丁寧な英語でもない。
よーわからんが、Your Royal Highnessとかそういう敬称をつけないと、日本語でいうところのため口なんじゃなかろうか?

雅子妃殿下がSPつれて買い物しているときに、「何買ったんすか?」って聞くかっつーと誰も聞かないだろう。

自分とこの皇室にはかしこまった日本語でお話しもうしあげるくせに(しかもアレ質問しちゃダメ、コレ質問しちゃダメという制約を尊重しているくせに)、他国の皇室には平気でそこらの芸能人扱いというのはどういうもんかね。ダイアナ妃のときも思ったがねぇ。

*今ぐぐったら、「国王の配偶者である「王妃(Queen)」の敬称は「殿下(Your/Her Royal Highness)」ではなく「陛下(Your/Her Majesty)」です」だってさ。さっそくワタクシ間違えておったw。英語もセレブリティも疎いもんでw。

↑は「西ブログブルク公国」というブログからの引用なんだけど(プロフィール欄に「好きな言葉は「ノブレス・オブリージュ」」と書いておられた)、まったく未知の世界であったわい。

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11月16日(水)

起床時刻:08時00分

『幸福論 "生きづらい"時代の社会学』(ジグムント・バウマン、2009、作品社)を読了。
校正ミスかしらんが、日本語のてにをはの間違いが複数個所あるし、漢字の変換ミスがあるんだけど、私って自分のミスには気づかないのに、人のミスはすぐ気づくの!
私って「嫌味な無能」なのよね。
なんかさ、無能な人って、『白痴』のムイシュキン公爵みたいにさ、白痴だけど天使みたいなキャラ設定されてるじゃん(「白痴」といったのはドストエフスキィであって私ではないので、不適切な用語の文句はそっちにいうように)。
もしムイシュキンあるいは裸の大将みたいな天然ボケの人が(私の中で「天然」と形容できる人は「裸の大将」みたいな人であって、断じてそこらのアイドルではない)、実に嫌味な性格だったらどうなるんだろう?
「とりえなし」になっちゃうよね?
ま、ほぼ私なんだけどさ。

話しを戻して、小姑根性で言わせてもらうとさぁ、翻訳が大学入試の答案みたいなんだよねぇ。

「驚いたことにそれは、ある特定の人にとって、そうなのである。またそれはおそらく、その他の人にとって、そうであることが予想される」とかさぁ~。それがこれでそうだったみたいな、代名詞が多すぎるんだよ、この訳者さん。

「だがもうしそうした人がいればだが、ごくわずかな読者は、ある日、わたしたちを幸せにしたものごとが、自分達を楽しませつづけ、永遠に楽しみをもたらすように望むかもしれない」という文章も、すっと入ってこない。
「自分を幸せにした事柄がこれからもずっと続いて、永遠に自分を楽しませてくれるだろうと思うような人も、ごくわずかながらいるかもしれない(もしいるとしたら、だが)」みたいな意味なんだがな(つまり、いまどき、幸せの永続性を想定する人なんかいないだろって文章)。

まぁバウマンだって「起承転結はっきりと!はじめに結論ちゃんと書く!」みたいな、大学とかの小論文試験の王道にのっとって書いてるわけじゃないから(むしろ牛のよだれ方式に、己の欲するところに従いて書き綴った感がある。世界的巨匠のじーさんの特権である)、訳するのも大変だろうし、とっつきにくい部分はある。

ちなみにこの本、『幸福論』とかいうタイトルだけど(原題はthe art of life「人生の技法」)、「幸福のどこが問題なのだろうか?」って話からはじまるかんね。

言い換えると、「ポジティブに生きることのどこが問題なのか?」みたいな話だからね。
ていうかポジティブに生きる(あるいは人生のアーティストとして能動的に生きる)ことを普通は「やったね!白紙のキャンバスにいろんな可能性がかけるね、あたしたち!」と喜ぶじゃない?
彼は違うのね。
「そういう風にあたしら強制されてんだよね、実は。しかもキャンバスの絵って永遠に完成することないしさぁ。だって、できたそばから陳腐化しちゃうじゃん?時代は流動的なんだしさぁ(それがリキッド・モダンってやつよ)。
しかもさぁ、一生懸命絵の技法を勉強してきたとしても、ある日突然、時代遅れになっちゃうかもしれないんだしさぁ、うわ、いまどき、印象派だって、だっせぇ!みたいになっちゃうかもしれないじゃん?そんなときに現代美術の、みみずがのたくったような絵が何百万ドルもの価値がついたりするじゃん?「なんじゃそれ?」じゃん?やってらんねぇじゃん?長期的視野とか将来に向けての努力とかそういうのが無効になったのが今の世の中じゃん?
ていうかさぁ、何が正しい絵の書き方かって、結局わからないんだよね。すんげぇ努力したあげく、大駄作が出来上がりましたってことあるわけだしさぁ。だからあたしたちいつだって不安だし、完璧な絵を描こうとすればするほど、完璧な絵って遠ざかっていくんだよねぇ、はーあ」みたいな話なんすよ!
人によっちゃあ「なんだこいつ、ネガティブすぎる!」かもしれないが、私は割と「ですよねー」だったな。特にネガティブとも思わんな、だって「知ってた!」もん(←チョー後だしジャンケン)。

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11月15日(火)

起床時刻:08時00分

シャチョーからメールがきて、時給をちょびっと(100円)あげといたから、とのこと。
頼んでもないのに自主的にあげてくれるとはありがてぇ。
ようし、仕事がんばるぞ!と思った先から遅刻するのが私クォリティ。

話は変わるが、なんか無意識のうちによく変換間違えていることがある。
あと、歌詞を勝手につくって補っていることとかね。

美空ひばりさんの「蘇州夜曲」をyoutubeで聞いたら、「夢の船唄 鳥の唄」のところを
「夢の船唄 恋の唄」と「鳥」を「恋」に変換して(間違えて)歌っていた。(一応検索したけど、もう消されているみたいだ)
まぁ演歌だと、まず鳥じゃなくて恋だもんな。
「鳥の唄?はぁ?日本野鳥の会のロマンスですか?」てなもんだろう。
(個人的には恋の唄より鳥の唄という歌詞のほうがいいと思うが)

私もよくやる。ひばりの「哀愁波止場」、
「よ~ぉるの波止場にゃ~~だ~~れもい~ない~」
で始まるんだけど、
「よ~ぉるの墓場にゃ~~だ~~れもい~ない~」
と無意識のうちに歌ってしまい、はっとして、
「そりゃ夜の墓場にゃ誰もいないわな!」と自分でつっこんどいた。

私的には夜とくりゃ、波止場じゃなくて墓場だったんだな。

「だろう運転」っていうんだな、こういうの。
私よくやる。ありとあらゆる方面で。
脳の省エネ機能が発達してるんだ。
そんで事故るんだ。わかってんだ。

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11月14日(月)

起床時刻:09時10分

youtubeで「有吉ゼミナール」を見て笑ってしまった。有吉もすごいが、むしろダチョウ倶楽部に感心した。
「豚の死骸」→上島、「絞りカス」→肥後、「短足天狗」→ジモン、って先輩のことを言えるのは、それだけダチョウの懐が大きいんだろう。

シンスケあたりを「腐ったキュウリ」とでも言ったら、ヤクザにしめられそうじゃない?
ま、ダチョウはシンスケと違って売れていないから、いじってもらえるだけでもありがたいという芸人根性もあるんだろうけど。

芸人や芸能人は商売だからいいけれど、一般人はあだ名つけられてもおいしくもなんともないからな。
なのに勘違いしてそうな自称面白い一般人があだ名つけてそうで怖いけど。

しかもさ、「これは笑いですよ」っていうプレッシャーが半端ないじゃない、そういう自称面白い人って。
まじめに受け取っちゃだめですよ、「ギャグ」ですよ、みたいな。
怒るとこっちが「シャレの通じない人」みたいなレッテルが貼られるというね。
芸人と違って、どう転んでもおいしくもなんともない。

結構さぁ、あだ名ってじわじわくるんだよね。
傷つくというのもあるんだけど、その人自身を規定しまう部分がある。
蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘るっていうけどさ、人はあだ名にあわせてキャラが確立されるみたいなとこあんのよ。
回りの人もあだ名によって、人の集団の中における地位というものを理解する。
あだ名がかっこいい(まとも)な人は集団における地位も高く、あだ名がおちゃらけ系・中傷系である場合は地位も低い。集団における力関係が転入生にだってすぐにわかってしまう。
「こいつはバカにしてもいいんだな」「こいつには下手に出たほうがいいんだな」っていう関係性の指標があだ名なわけで、逆に言うと、へんなあだ名つけられた時点で、一生下っ端のパシリが確定したも同然なんだよね。

だからあだ名ってすごく暴力的(たいていはマイナス方向の一方的なレッテル貼り)なんだけど、日本は『坊ちゃん』が教科書に載るくらい、あだ名が伝統芸能になっとるからな。

『坊ちゃん』のあだ名は

「赤シャツ」(教頭)←赤いシャツを着ているから
「野だいこ」(吉川・画学)←赤シャツ(教頭)の腰ぎんちゃくの太鼓もちだから
「うらなり」(英語・古賀)←蒼くふくれているから
「山嵐」(数学・堀田)←逞ましい毬栗坊主で、叡山の悪僧みたいだから

こんなかんじで、基本ルックスからの連想が主だね(例外は野だいこくらいだろう)。

これが有吉風になると
「赤シャツ」(教頭)→「悪趣味の塊」
「野だいこ」(吉川・画学)→「ごますりクソ野郎」
「うらなり」(英語・古賀)→「水死体」
「山嵐」(数学・堀田)→「筋肉バカ」

とかまぁこんな感じかな(個人的には「うらなり」の「水死体」が一番いいな)。

坊ちゃん自身にも私があだ名をつけてやると、「社会不適応者」「乳母コンプレックス(マザコンの乳母バージョン)」とかそんな感じかな。「ハタメイワク」「熟女マニア」でも可。

しかし、『坊ちゃん』のタイトルが『乳母コン』だったら、松山の「坊ちゃん列車」が「乳母コン列車」になるのかな。
なりませんね、そうですね。

(松山は何かにつけて「坊ちゃんナントカ」とネーミングしているようだが、結構ぼろくそな言われようなんだけどなwまぁ一番の被害者は延岡かもしれんが(「日向の延岡とは何の事だ。延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの云うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿と人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君(←延岡に転任)だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇(ものずき)だ」ってひでぇwww))。

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11月13日

起床時刻:13時31分

「子孫に美田を残さず」というが、「子孫に放射能まみれの汚田を残す」たぁ、ドSですね、私たち。

『原発のウソ』を今更ながら読んでみた。
読みながら頭がクラクラしてきた。
日本の原子力技術は世界一とかなんとか聞くが、この本によれば日本は「原子力後進国」らしい(周回遅れで)。
だろうね。福島原発の事故で、ヘリコプターが上空からバケツで水をかけるというアクロバチックかつアナクロ戦法をみた時点で「なんという技術立国www」と皆思ったんじゃなかろうか。いつだって悲惨な目にあうのは現場の人、それも真面目で責任感のある人からなんだよね。

割にあわない。それが善人の人生ってもんなんだ。
第二次世界大戦でも勇気のある人や優秀な人から死んでいった。
(と、祖母が言っていた)
一方、戦争を起こした張本人たちは、戦後も生き残った。

今後、再び大きな原発事故が起こったとしても原発推進派の大元締めは何の被害にもあわないだろう。良心の呵責というのもないだろうね。
「想定外のできごと」
「管理の不徹底」
「現場が不慣れだった」
そういうことで片付ける。
自分は常に他人を責める側にいるのだから、こんなに幸せなことはないだろう。

幸せに生きるってことが金科玉条の世の中だけど、幸せに生きるコツって自己責任の名のもとに他人に責任を転嫁して生きること、なんだよね。

「やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう」
(「夕焼け」(吉野弘)から抜粋)

親は子供に「優しい子に育ってほしい」「思いやりのある子に育ってほしい」というが、それは不幸への第一歩なんだ。
ま、利他的な性格は個人にとってはマイナスだけれども集団にとってはプラスであるから、集団への忠誠心から言っているのかもしれんけど。

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11月12日

起床時刻:09時15分

久しぶりにsinzyさんの日記にコメントしたついでに、vegy-mamaさんの日記を見ようとしたらプライベートモードに設定されているだと…?!
ちょっとさびしいね。といいつつ、自分もプライベート・モードだったんだけど。。。

まぁプライベート・モードのほうが書きたいことは書きやすいよね。「こんなこと言ったら、他人様の気分を害すかな」っていう危惧(そもそも他人様の気分を害すようなことばかり思いつくという私の人間性が一番の問題なんだろうがw)はリアル生活だけでいい。

といいつつ、再び公開モードに。なんとなく。

『「鉄学」概論 車窓から眺める日本近現代史』(原武史著・新潮社版)を読む。
「第四章 西の阪急、東の東急」「第五章私鉄沿線に現れた住宅」を読むと、筆者的には阪急(小林十三)>東急(五島慶太)>西武(堤康次郎)なんだろうなw。

不羈独立、「民」主体、独創とアイデアで勝負の阪急の小林に対し、東急の五島は官依存でアイデアも小林の借り物だし、西武線の堤は「学園都市」づくりにそもそも失敗した(玉川学園駅や成城学園駅まわりの都市を高級住宅地にした東急とは大違い。ただ、西武線ではなく中央線の国立のイメージを上げるのに貢献したと書かれている。ちなみに筆者は西武線の団地出身なんだそうだ)。
堤は「小林一三や五島慶太が阪急や東急の沿線に住んだのに対して、堤康次郎が西武沿線に住んだことは一度もなかった。代わりに首都圏や軽井沢で執着したのは、皇族がもっていた土地や別邸の買収である」(P154)。

サラ金業者がカネを借りるときはサラ金から借りないように、パチンコ屋の社長の趣味がパチンコでないように、西武の帝王は西武線に住まないんだなw。そしておそらくスクエニの社長は自社のゲームをプレイしていないだろうw。
「だからダメなんだよ、日本のゲームは」って話をアンチャーテッドのプレイ感想を書いたときにも書いたから、めっちゃだぶってるんすけど(今回のアンチャのストーリーは薄くて10時間前後でプレイできると思うけれど、やっぱり完成度高い。マンネリ感は免れないが、寅さんのように偉大なるマンネリというのもある。ストーリーとは別に、ミニ・ミッションとかで色々遊べる。そこではラザレビッチとかナツカシスなキャラも。昨日もちまちま遊んでた)。

小林と五島の美術品収集の話が面白い。
小林は創業する前の二十代から美術品を買い集め、逸翁美術館は収蔵品約5000点のうち、国宝は一点もなく、重要文化財も15点にすぎない。
一方、五島は経営者になってから収集をはじめ、五島美術館は収蔵品数は4000点と逸翁美術館より少ないが、国宝が五点、重文は五十点もある。五島は「あくまでも、高価なもの、権威あるものを中心に集めた感は否めない」。

まぁしかし、今の我々の眼からすると、阪急のタカラヅカ歌劇団なんかも官僚主義の権化のようにみえるときありますけどね。組織や運営の話であって、出し物のことではないんですけれど。昔は革新的だった組織も時間がたつと自然に官僚組織化するんだろうかねぇ。

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11月11日(金)

起床時刻:09時30分

枡野浩一短歌集『てのりくじら』(実業之日本社・1997年初版、2004年第四版)をぱらぱらと読む。というかぱらぱらとめくると終わりなんだがなw。

感想は「あるあるw」という感じであった。
つぶやきシローが五・七・五でつぶやいた、という感じであった。

「前向きになれと言われて前向きになれるのならば悩みはしない」
とか。

「気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで」
とか。

「画家の絵だからすばらしい 値段を知るとなおすばらしい」
とか。

ね、「あるある短歌」でしょう。

いやあ、なんつうの、谷崎がすいすい短歌を詠んでいたときに「小便をたれるように歌ができる」と言っていたらしいんだけど、まさに「小便をたれるように」というとなんかアレだけど、咳唾珠を成すというと褒めすぎだナ、難しいんだけど、つぶやきがそのまま歌になっているよね。

「立てば五字 座れば七字 歩いたら 五七五が後ろにできる」
とでもいいたいようなスラスラぶりだよね。

逆にいうと、こんなんで短歌ですって言っていいんだ!っていう驚きもある。

花鳥風月なんかどこにもない。
短歌というよりtwitterだな。
私もこういうtwitter短歌ならいくでも詠める気がする。
以下自作。

「人がもし人に会わずにすむのなら悩みの多くはなくなるだろう」
「大人とはあるべき未来が一つずつ消えゆく過程 淋しいはずだ」
「沈黙が金であるのは金だから 石や砂なら沈黙は無だ」
「平和ボケ「信じられぬと嘆くより信じて泣け」というおメデタサ」

なんか全部ネガティブトーンですけどっwww。

ま、つくろうと思えばポジティブ系もいくらでも出てきますよ。

「新しい手帳のページは真っ白で無限に広がる未来の自分」
「まず一歩、はじめの一歩の勇気こそ光降り敷く道の礎」
「『世の中は捨てたもんじゃあないんだ』と笑った人の手のあたたかさ」

われながらクソすぎるなwww。

まぁしかし世の中を見渡せばアホとトンマをこきまぜて都ぞ春の頭なりけるって風情だから、こういう低脳系ポジティブ短歌もありそうで怖いなw。カレンダーとかに一日一首で載ってそうじゃない。

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11月10日(木)

起床時刻:08時15分

会社でニュースをみていたら、「「及び腰」日本を尻目に進む原発政策」というタイトルを発見(産経2011.11.10 05:00編集委員 宮野弘之)。
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/111110/mcb1111100502002-n1.htm

「「アジアで日本を除いて原発建設をやめた国はない」-。

 今月はじめ、シンガポールで開かれた電力に関する円卓会議で、講演したフランスの原子力大手、アレバのセレナ・ン東南アジア太平洋地域部長はこう述べ、福島第1原発の事故後も、東南アジアで脱原発を鮮明にした国はひとつもないことを指摘し、アジア市場への強い関心をにじませた。
 日本が足踏みしているのを好機とばかり、フランスやカナダなど欧米諸国だけでなく、韓国や中国が原発輸出に意欲をみせる。さらに、注目されるのがシンガポールの動きだ」

「ビジネスチャンスに乗り遅れるな!!急げ!!抜かれるな!!」という警鐘なんだろう。

「泉への道遅れゆくやすけさよ」(石田波郷)なんて、誰も共感してくれないのがこの世のジョーシキなんだ。

何しろ、人より早く泉についた人は「私有地」の看板をたてられる。
整理券が配られて、後から来た人は泉の水を飲むのに、一回100円払うシステムになる。これが世の中なんだ。

しかもである。原発の場合、泉どころか地獄の旅の一里塚なんだが、それすら先陣を切って進みたいんだ。「地獄の開発をするなら、わが社にお任せを!」ってわけだ。自分がやらなくても誰か地獄開発をやる、それなら、うちがやってもいいじゃない?お金をもらってもいいじゃない?

そもそも、地獄へと急ぐ人たちは行き先が地獄だと思っちゃいない。
カネの湧き出る泉に向かっていると思っている。

実際、カネは湧きでいているのかもしれないが、原発はトイレのないマンションにもたとえられるように(原発から出る廃棄物の処理のめどがついていないから)、泉のすぐそばでウ〇コ垂れ流しているようなもんだ。

ま、ウ〇コも放射線も「ただちに健康に影響はない」かもしれないがな。
影響が出てきた頃には責任者たちは皆退職金もらって悠々自適な老後暮らしか寿命がきて死んじゃっているので、誰も責任を追及されない。バイバイキーン♪てなもんだ。いい商売だね。

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11月09日(水)

起床時刻:08時15分

『福島原発の真実』(佐藤栄佐久・平凡社新書・2011.6.22)を途中まで読む。

この方は左寄りのイデオロギストでもいわゆる市民派でもない。もともと、反原発ですらなかった人だ。
ただ、210万の福島県民の命を預かる立場から、原発政策の不透明さ、いい加減さ、ずさんさ、勝手さ(データの捏造や改ざん、事故の隠蔽当たり前、知事といえども原発政策のかやの外)に不審を抱き、これでは福島県民の安全を守れない、という理由で敢然と国・官僚・東電に立ち向かった方だ。

私からみると、彼の主張は無理難題でもなんでもない。
原発の安全が確保されてから運転しろ、廃棄物の処理先の目処をつけてから運転しろという常識的な意見なのだが、それすらも通らない。はぐらかされ、だまされ、翻弄される。

これを読んでいくと、原発のリスク管理は原発反対派のせいでずさんになったというネットによくみられる主張は的外れもいいところであることがわかる。
東電や国の論理は、私たちがしばしば、したり顔で非難する中国のようだ。すなわち、「ばれなければ何をやってもいい」「利益のためには安全など二の次」という精神。まぁこういうのをみると、人類皆兄弟だと思いますけどね。

佐藤栄佐久知事は一時期話題になった官官接待の不正支出の裁定もきちんと行っている(原発には関係ないが(結構関係ない話も出てくるんだw)、この後の文章を引用しよう)。

「このときの私の胸にあったのは、「晏子春秋」の中にある、中国の斉の宰相である晏嬰(あんえい)の言葉だ。
「善悪分かたざるを患う」
つまり、「為政者は善悪の区別がつかないのが一番悪いことである」という意味だ。それぞれの職員には子弟があり、ローンも抱え、生活設計がある。しかし、悪いものは悪い」

本当に善悪の区別がつく人はほんの、ほんの一握りだ。
私達は平気で、自分は善悪の区別がつくとうぬぼれている。
「人を殺してはいけません」
「ものを盗んではいけません」
「人を差別してはいけません」
こんな当たり前のようなことも、一瞬でゆらいでしまう。
それが私たちなのだ。

自分の感覚で「おかしい」と思っても、えらい学者が言ったから、通産官僚が言ったから、国がお上が言ったから、という理由で平気で宗旨替えしてしまう。

そのときに私達の脳におこっていることは(ブキャナンの著作によれば)、認知部分が動いているのだそうな。つまり、「ここでノーというと軋轢を生むな」という感情の部分ではなく、「やっぱり自分が間違っているのかもしれない。これは四角だと思ったが、三角なのかもしれない。よく図形をみてみよう」という方向に向かう。

その結果、「その図形は四角ではなかった、三角だった」と認めた人は、自分が迎合したという記憶さえ忘れてしまう。

それにお上や官僚やえらい学者に逆らって自分の義や真実をつらぬき通しても、得るものは何もない。むしろ、失うものばかりだ。

だから、大多数の人は「善悪分かたざる」。それが適応行動なのだから。
世の中、ごくごくまれに、善悪を分かつことができる人が出てくる。
しかしそういう人は不幸な目にあってしまう。

杉原千畝も今では名誉が回復しているが、外務省の論理に逆らったため、きわめて不遇な目にあった。佐藤栄佐久知事も、「賄賂がゼロ円」という前代未聞の認定で収賄罪で有罪になっている(この汚職事件の一部の取り調べでは、郵便不正事件で証拠のフロッピーディスクの日付を改竄した前田恒彦検事も担当していたそうで、怪しさ満載です)。

善悪なんかわからないほうが(そして多くの人-上は首相や事務次官、学者先生から下は無学なサラリーマンや主婦にいたるまで-はわかろうと思ってもわからないのだけれど)幸せなのです。
だけどごくごく少数の人だけが、善悪をわかつことができる。
私たちにできることはそういう人たちの足をひっぱらないことくらいではなかろうか、と思う。

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11月08日(火)

起床時刻:07時45分

『アンチャーテッド 砂漠に眠るアトランティス』を中級でクリア。
いいね、アンチャーテッド。死んでもすぐ前のセーブポイントから始まるし、ヒント機能をオンにしておけば(デフォルトはオンだと思う)、ヒントを教えてくれるんで、攻略とか見ずにサクサクすすめる。宝物はけっこう取り逃しちゃうんだけどね。

既視感がハンパないし、「んなわけねーだろ!」なとこもあるんですが、面白い。爽快。

本当に日本のゲームはアメリカに抜かれているなぁと思う。Microsoftの343 Industriesでディレクターを務めたライアン・ペイトン氏による講演内容にいちいち頷いてしまう。
http://gigazine.net/news/20110909_foreign_game_cedec2011/

彼によれば、「コナミで働いてから初めてアメリカへ行ったとき、「MGS4」の後光があったので、日本で仕事をしたというだけで「すごいね」と言われたんです。「日本で仕事をしてたんだよね。このアイデアはどう思う?」という風に言われました。しかし、時がたつにつれてアメリカ人は日本のゲームに対してだんだんと興味を持たなくなってきています。最近だと「日本から来たんだよね。君のアイデアは古くなってるんじゃないの?」とまで言われるようになってきました。そのアメリカ人の認識が間違っているわけではないと思います。というのも、最近の日本のゲームには深刻なデザイン上の問題があると思いますから」とのこと。

この方の日本のゲームに対する苦言はそのとおりだと思いますね。

「一つは、「プレイ体験がかなり荒削りである」ということ。多くのアメリカ人がこれに対して苦情を言います。「テストプレイをしていないのでは」と。たとえば、「キャサリン」が良い例だと思うんです。スタジオでちゃんとテストプレイをしたけれど、内部の人間がやっただけという話を聞きました。だから難易度が適切でないと思います。「キャサリン」の場合は改善したという話を聞きましたが、普通は一度リリースしたらもう変えられません」

FF14もそうだったよね?
ダーク・ソウルもそうだったよね?
本当にプレイしたの?というひどいバグ。
製品化して出すレベルじゃないのに、早々にリリースする。
ダーク・ソウルも今、パッチやなんかで大分オンラインもよくなったと効きます。FF14も課金レベルになってきたらしいし。

『ダーク・ソウル』も評価がボロボロだけど、今の状態で出せば、こんなフルボッコにはならなかったと思う。

そこいくとアンチャーテッドは安定している。製品レベルでちゃんと出している。

日本のゲーム、特にスクエニの出すゲームは愛情が感じられない。
ちゃんとプレイしたの?といいたいレベル。
(プレイしてあれならセンスがない)

金儲けの道具でしかないんだろうね。
そこが見え見えで嫌になる。
前も書いたけど、消費者金融の社長は消費者金融から金を借りない。
パチンコ屋の社長はパチンコをしない。
西武の帝王(堤)は西武線に住まない。
私はそういうもの(消費者金融、パチンコ、西武線)を好まない。
愛情が感じられないからだ。

そして日本のゲームもそのひとつに入ってくるんじゃないかと思われる。

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11月07日(月)

起床時刻:12時30分

昨日も触れた『昭和の短歌を詠む』(島田修二・岩波書店・1998)は、昭和の時代を代表する短歌を一作者一首で100首紹介しているのだが、現代短歌の流れを概観するのにも役立つ。
気に入ったのものをいくつか。

河野裕子
「たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」

うまいねぇ。まさにプロの歌だね。

この前、近くの紀伊國屋書店に行ったら、短歌コーナーは河野裕子の歌集が平積みされていて、河野裕子一色に染まっていた。乳がんで亡くなったんだね。

この方の旦那さん(永田和宏)の歌も選ばれています。

「なにげなきことばなりしがよみがえりあかつき暗き吃水を越ゆ」

「何気ない一言を夜明けにふと思い出して、まじでむかついてきた」みたいなシチュエーション?違ったらサーセンだが、「吃水を越ゆ」という表現がいいね。かっこいいね。

釈迢空
「山びとの言ひ行くことのかそけさよ。きその夜、鹿の、峰をわたりし」

解説によると「昨日の夜、鹿が峰をわたっていった、それを山びとが伝えたという、その気分を伝え得る歌」とのこと。

ビミョーにわかりづらいけど、なんか雰囲気がいいね。
「木曽の山びとが『夜、鹿が峰を渡った』と言って去っていった、それがかすかに聞こえた」
ってことかなぁ?

でもこれ「木曽の山 鹿が峰をば渡りしと 夜に言ひ行く人のかそけさ」だとダメなんだねぇ。そっちのほうがわかりやすいんだけど。

上田三四二
「ちる花は数かぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも」
これは理屈抜きにわかりやすい。

島田修二さんによれば「上田さんにはもっといい歌がありますけれども、一応上田三四二の代表作というふうに言っていいと思います」とのこと。
これは吉野山に花に少し遅れた頃に滞在して詠んだ歌だそうです。

まぁこんなかっこいいのは到底よめませんが、旅先で歌などをつくるのは例えどんな腰折れでも旅の興趣をましてくれるものかと思います。

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11月06日

起床時刻:06時00分

本日、東京に帰京。
帰りの新幹線で『昭和の短歌を詠む』(島田修二・岩波書店・1998)を読む。宿でも暇なときにはパラパラとめくっていたんだけどね。昨日の腰折れはその影響である(旅先に持っていくのに一番いい本は詩集・句集・歌集だと私は思っている。ハンパ時間にすっと詠めるし、頭も疲れない)。

ちなみに十和田を有名にした大恩人に歌人の大町桂月先生がいて、路線バスに乗るとひなびたお宿の蔦温泉にも停車するのだが、「極楽に越ゆる峠のひと休み,蔦のいで湯に身をば清めて」なる歌を残したのだと、バスのアナウンスで言っておった。

桂月は私設・十和田観光大使みたいな人で、焼山にある奥入瀬渓流観光センターみたいなとこでは大町桂月の「住まば日本(ひのもと)遊ばば十和田歩きゃ奥入瀬三里半」という歌も紹介されている。

歩きゃ奥入瀬三里半、などと簡単にいうが、昔の人は健脚であった。
昔の人は旅に病んで夢は枯野を駆け巡ったわけだが、今は旅に病んでも車で移動、足腰が弱いんで、駆け巡るのも四畳半がせいぜい、といった風情である。

「健脚の昔の人を偲ぶかな はるかに続くせせらぎの道」
駄作だが、まぁ大町桂月先生を偲ぶ歌ということで(桂月の歌につりあった出来なんじゃ?というと、殴られそうだが)。

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11月05日

起床時刻:06時00分

奥入瀬渓流を歩く。
普通は名所(阿修羅の流れや雲居の滝など)が多くなる石ケ戸(いしげど)から歩くのだが、焼山から歩きはじめてしまった。おかげで石ケ戸につくまでに二時間近く経過していた。

紅葉もほぼ終わり。
女性の容色でたとえれば、60くらいのばーさんといった風情だが、ところどころ、美しいばーさんも混じっているという感じであろうか。
しかしまぁそのおかげで、焼山から石ケ戸まではほとんど人に会わなかった。

一首詠める、
「紅葉も盛りを過ぎれば人もなし 落ち葉舞い散る音のかそけさ」

そのくらい静かだったといいたいところだが、車道の近くでは車の音がかまびすしい。車の流れがとまると川のせせらぎが聞こえてくるという感じ。

銚子大滝のまわりはまだ紅葉もみられて美しく、絵葉書のようであった。
そのぶん、観光客もいっぱいいたわけだが。

昨日の日記では「自分は汚くても美しい景色に囲まれていたい、それが人間のエゴだ」と書いたが、絵葉書の写真だって、人間は外されて写されている。なぜなら人間は存在そのものが汚らしいものだからだ。
まぁ生物界でいえば、人間はゴキブリやカラスに近い存在であろう。
たとえば絵葉書の写真でもオオルリやヤマセミといった鳥が写真に写るのは、誰でもうれしいだろう。クワガタなんかの昆虫もいいだろう。しかし、人間やカラスやゴキブリが写真に写ると「撮りなおし」になる。見苦しいからだ。

人間存在の根本的な醜さ。水仙が群生していても美しさが募るだけだが、人間が集団でいると醜悪さが強調される。団体ツアー客が観光地に乱入するときの「嫌な感じ」は集団によって人間存在の醜悪さが強調されるからに他ならないだろう。

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11月04日(金)

起床時刻:07時30分

とうほぐに行く。

八甲田に向かう道はブナやダケカンバという白樺に似た木々に囲まれており、明るい林に心がはずむ。八木重吉のあの有名な詩はこういう林にふさわしい。

紅葉は終わりかけだったのが残念だが、それでも「残照」という言葉を思い出すような美しさだ。

八甲田山は完全に落葉。
枯れ木も山の賑わいというが、そういう意味では賑わっていた。
ロープウェイからは落葉したダケカンバをあたり一面見渡せる。ダケカンバの白い樹と、赤くもやがかってみえる細い小枝のコントラストがなかなかきれいであった。

白樺は旅人の目を楽しませるものだが、地元の人には嫌われていると北海道旅行のときに聞いた。ダケカンバも白樺みたいなもんだから、杉やひのきといったカネになる木に比べたら、クズみたいなもんかもしれん。

カネをとるか、美をとるかと聞かれたら、私たちはいつだってカネをとるのであるが、他人には美を強制するのだ。自分は汚くても美しい景色に囲まれていたい、それが人間のエゴだ。

頂上は6度。積雪はまだ。
散策すると青森椴松(トドマツ)が生い茂っていた。
降雪量がハンパないこの地では、松の背丈も高くならない。自然の盆栽といった風情でかわいらしい。まぁかわいらしいと観るか、雪に覆われて卑屈でねじまがったと観るかは人によるだろうが。

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11月03日(木)

起床時刻:13時30分

11月02日(水)

起床時刻:07時50分

『アンチャーテッド 砂漠に眠るアトランティス』が到着。
急いで『ダーク・ソウル』をクリア。
正直、アンチャーテッドのほうが楽しみなんだよね。
『ダーク・ソウル』は呪術が圧倒的に強くて使い勝手がよかったね。
レベル上げずに強化できたし。
雷の武器も強くてびびったけど。

最後のグウィンは火属性っぽいから、呪術はきかないだろうなって思っていたら、雷武器よりも大発火のほうがダメージ多かったという(呪術は最大強化)。スタミナも減らないし、発動早いし、下手な人救済措置だな。ま、これはこれで有だと思うな。

しかし、最後グウィンを倒すことになったけど、これってアレだよな?娘にお父さんがリストラされたんだよな?最近うちのお父さん、ジジイになってパワー不足だから、あなた引導を渡してやって、という話だよな?なんかちょっとかわいそうな気がしたね。

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11月01日(火)

起床時刻:08時20分

sinzyさんにメールしてから一週間以上たつが返信こないなw
早起き日記って鍵コメできないんだよねぇ。
ま、別に緊急でも重要でもないメールなんで、別にいいんだけどね。

週末東北に行くこともあり、『続・東北-異境と原境のあいだ』(河西英通・中公新書2007)を読んでみた。
この本では戦前(1910年代から1945年)の東北イメージの変化(ざっくりいうと「日本のアフリカ大陸」から「日本の原風景」への変化)を丁寧に文献を拾って辿られる。
昔の文献からの引用が多いのもいいね。当時の空気感をつたえる一番手っ取り早い方法だもの。

戦前、東北、特に北東北は一言でいうと「貧しく、文化はなく、悲惨なとこ」というイメージであった。

それに対して、東北(や外国人)からは「そんなことないもん!東北は日本のスコットランドだもん!」という見方もされた。

クリストファー・ノッスというアメリカ人の宣教師による『東北-日本のスコットランド』(船田喜一郎訳)と題する本の末尾が本書に引用されているが、実に美しい。孫引きしましょう。

「我等の美しき東北、空高く輝きそびえる山々、サファイヤのように青く澄む湖、水晶の流れるような河川、岸辺に打ち寄せる磯波。エメラルドの濃い緑に包まれ、黄金色にきらめく谷間の渓谷、褐色の畑、農家で働く男女の日焼けした顔、喜々としてたわむれる子供たち-神が善しと見たもうならば、この東北の地は、スコットランドが欧州における、もっとも純粋な、もっとも忠実な、キリスト教の根拠地であったように、アジアに於けるスコットランドになるであろう」

ま、ならなかったんだけどねw

しかしまぁアレですよ、風景ではおまんまは食えんのですよ、観光収入がないかぎり。
1914年の東北凶作救済会の発起にあたって、趣意書に「抑(そもそも)東北ノ地タル元来天恵ノ薄キニ加フルニ頻年ノ災害ヲ以テシ」とあるように、東北っていうのは、災害は多いわ、稲作には適していないわ、ロクなとこじゃないという認識なんですね。1913年の記録的凶作(まあ実際は人災というか農政の失政である部分が大きいようだが)ではアフガニスタン皇帝をはじめとする海外からの義捐金もいただいているんです。

「おかわいそう」な東北人が意気軒昂タル様子をみせたのは対中国戦争のときでしょうかね。兵士さんが子供にあてた手紙では「東北健児」は寒さ知らず、八甲田の風で鍛えた腕前で御国の威光を輝かせてきます!というような文章がある(フォーマット化されていたようだがw)。南のヘナヘナ日本兵士やヘナヘナ中国人とは違うんだ!みたいな気分に満ちています。

戦時中は、南の贅沢日本人、文句たれ日本人よりも、東北人のような元から質素でつつましく忍耐強い人間が役立つのです、というわけで元気になっている。

しかるに戦後、また東北ダメダメ論が出てくるわけだけど。1945年の東奥日報によれば、「本県(青森)は日本中で一番貧乏で、従って一番文化の遅れてゐる地」「体(てい)のいい植民地みたいな地方」という自己認識を復活させています。

しかしまぁ、こういう本を読むと、100年くらい同じ問題を東北はかかえているような気がするな。平成20年の厚生労働省「賃金構造基本統計調査」によると、都道府県別平均年収(単位:万円)の43位:山形 363.2、44位:岩手 361.2、45位:秋田 358.6,46位:青森 352.4万円、47位:沖縄 324.5となっていて、相変わらず収入が低いのだが(東京は599.7万円)、これはもう東北がどうこうというより、農業というものの本質が抱える問題なんじゃないかなぁっていう気がする。

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