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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:09:41

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12月31日

起床時刻:09時40分

あーあ、お煮しめが甘くなりすぎた。どうすんだ、これ。
昨日の昼のチキンソテーも悲惨なものだった。皮はパリっ、中はジューシーで、見かけは美味しそうだったんだけど、味が薄すぎた。

あーもうやんなっちゃうよ。
料理が嫌で仕方ない。ま、掃除も嫌なんだけどさ(エアコンの吹き出し口を丁寧に拭いたら壊れたみたいで、エアコン切っても自動的にしまらなくなっちゃったんですけどっ。なんで私が掃除したあとは破壊されていくわけ?)。

お節も一応用意したけど(黒豆、おなます、田作りは親がつくって送ってきたので、私は今年、お煮しめと数の子、酢蓮のかわりにレンコンのマヨ味サラダぐらいしかつくってないが(きんとんやら昆布巻は買った))、お節って、主婦の自己満足だよね。だいたい誰得なんだよ?

お節が好きなのは根菜や豆や海藻が好きな中高年のオバハンくらいで、子供と男にとっちゃ、「なんでこんなびんぼったらしいまずいもんを正月は食べなきゃいけないわけ?」ってなるんだよね。実際うちの旦那はそういってふてくされてるし、知人(男)も昔はお節が嫌いで、正月はカップラーメン食べてたって言っていたし。

虚心坦懐にみて、お節はテンション下がるものしか入ってない。

煮た根菜(お煮しめ)、酸っぱい根菜(おなます、酢蓮)、煮た豆(黒豆)、炒った小魚(田作り)、根菜の一品料理(たたきごぼう)、海藻(昆布巻)、魚卵(数の子)、魚のすり身(かまぼこ)、芋と栗(きんとん)。

誰のテンションも上がらない。

まぁ実際は、これにお刺身や蟹とお肉料理(ローストビーフ的な)、肉料理の付け合せが並ぶんだと思うけど、それなら前菜的な醤油味と砂糖味の一群(お節)はなくしちゃえばいいじゃん?

いやいや、日本の伝統を大事にしなくてはいかん!という人もいるだろうけど、別にどーでもいいわっていう気がする。
正月に黒豆やら数の子やら食べる伝統に何か意味あるわけ?
「豆はまめまめしく働くように、かぁ。数の子は数多い子供で、子孫繁栄かぁ。なるほど日本人はダジャレ好きだなぁ。正月にやる百人一首の掛詞からしてダジャレだし。デーブのこと寒いとかよくもいえるよなぁ。寒いのは日本の伝統だよなぁ」とそういうことを思うんですかね。
あるいは「昔の日本はこんなのがごちそうだったんだ。。。貧乏って悲しいなぁ。今の普段の食生活が格段によくなったのも、粗末なご飯を食べながら頑張ったご先祖さまの奮闘のおかげだね。ありがたいことだ」っていう感じで、貧しく苦しい生活をしていた先祖をしのぶっていうことなんですかね。

「日本の伝統を大事にしなきゃいけない」っていうけど、本能に任せたら、「日本の伝統ってめんどくさい」って言われて駆逐されるだけですよ。

障子や畳は張替えがめんどくさい、掃除もめんどくさい、ふすまはやぶく、布団は高齢者の寝起きには不向き、和式トイレも痔疾によくない、着物もめんどくさい(着る前に襟を縫わなきゃいけないってどういうことよ)、走ったり運動したりするのに不向きだし。

日本の伝統で未来に残すべきものって何があるんだろうね。グローバルに通用する、これはいい!っていうのって何がある?何もなくね?お節だって「この素晴らしさは海外でも通用する!」とはとても思えないし。あ、お鮨くらいか。あんな生魚を食べるのが海外でも流行るとは私は到底思えなかったからすごくびっくりしたけどね。

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12月30日(金)

起床時刻:10時15分

昨日ミートローフを焼いていたらヒューズが落ちてしまい、旦那が怒って大変だった。うちはIHだから、レンジを使っているときはコンロを使わないとかいうめんどくさい工夫をしているんだけど、今回は同時に使ってたわけじゃないのに落ちてしまった。

エアコン+ヒーター+パソコン三台起動中+炊飯器保温中のせい?
ミートローフの栗原はるみレシピでは230度で30分ってなっていたけど、この温度が高温すぎたのかもしれない(いつもは別のレシピでつくる)。ガスオーブンならともかく、うちのヘルシオ先生にはちょっと負担が大きすぎたのかも(ヘルシオにしてからやたらヒューズが落ちるんだよね)。思うんだけど、200度40分でいけるんじゃない?230度だと表面焦げるんじゃないの。実際ヒューズ落ちたあとは200度で焼いてちょうどよかったし。

うちの旦那は幸いゲーム中じゃなくて、ネットで動画を見ているだけだったので、この前ほどの大騒ぎ(暴力を伴う説教1時間)じゃなくてよかったけど、ヒステリー体質だから困っちゃうよ。確かに私の不注意も悪いけど、逆上しすぎなんだよね。

私の知る限り、女のヒステリーより男のヒステリーのほうが数が多いね。キィィィって頭に血がのぼっちゃうタイプね。同じことに直面しても女だともっと鷹揚で「だいじょぶよ」「なんとかなるわよ」って人多いけど、男はちょっとしたことで「どうすんだ、これ!どうすんだ、これ!責任とってくれるのか、これ!」って大騒ぎするの。落ち着けって言いたいわー。

切腹とかもさー、男社会のヒステリー症状だとしか思えんよ。
失敗した方は「もう腹を切るっ!もう、腹を切るっ!腹を切って死んでやるんだもんっ!!」で、お殿様は「腹を切れっ!腹を切れっ!何してくれてんだっ!」の大騒ぎ。「ごめんなさい」、「これからは気をつけてね」っていう文化的で心優しく素直な対応ができないのが男なんだよ。

年末といえば忠臣蔵だけどさ、あれも浅野内匠頭のヒステリー症状が松の廊下で出ちゃっただけじゃん。「いじめられた!僕ちん、いじめられたんだもん!!だから仕返ししてやるんだもん!!藩がお取り潰しになってみんなが路頭に迷っても、僕ちん知らないんだもん!!」っていう幼児性ヒステリーじゃん。世の中の嫁姑で悩んでいる嫁(あるいは姑)はもっといじめられてたりするんだよ、ボケが。嫁(姑)が男だったら集団ヒステリー起こして、暴動おきてるわ。でも実際は嫁も姑も女だから刃傷沙汰にもならず、「お互いに陰口をいっぱい言う」という文化的に洗練された形で解決しておるわけだ(私も旦那に口ごたえする変わりにここで陰口を書いて溜飲を下げておるのじゃ)。

男の嫌いなとこは、こういうヒステリー体質ね。しかもしばしば暴力を伴うヒステリー症状ね。赤穂浪士の討ち入りも全然同情できない。しつっこい、ねちっこい、いつまでもグチグチ、ネチネチ、「あんとき、こうされた」「こんとき、こうされた」という恨みがましい精神ね。ま、世の中的にはこういう精神を「臥薪嘗胆」といって賞賛しているけど、ねちっこいんじゃ。だいたい男のほうがねちっこい。ストーカーの性別比をみりゃわかる。怨恨による殺人の性別比をみりゃわかる。

とまぁ怒りにまかせて綴ってしまったが(私も私なりにこういう形でヒステリーなわけだ)、もちろん、「男ってヒステリー」には「女って馬鹿だ」というのと同じような暴力性・短絡性・独断と偏見があるわけです。だから本当はこういう十把一絡げをしちゃいけないのですが、まぁでも、学問的厳密さゼロに、占い的適当さで言わせていただければですね、個人差はあるけど、男の中には根源的な暴力性というか暴力的な欲望というのがやっぱりあると思うんだよね。最近は草食男子といわれる洗練された男の子たちも出てきたそうだし、時代とともに多少変化はすると思うけれど。

そういや「科学に佇む心と身体」だったか、「外国人嫌いは外国人の男が嫌いなのであり、外国人の女にはそれほど拒否反応がない」みたいなことが書いてあったけど、たぶん、外国人嫌いな人って、理性とかあとからつくった論理とかの働きが弱くて、脳のプリミティブなとこに素直に反応している人だと思うのね。で、脳のプリミティブなところで男のほうが危険である(暴力的である)ことも知っているから、そういう反応が出るんだと思うんだわ。つまり、男のほうが本質的に、あるいは本能的に危険(暴力的)ってことなんじゃないか。

とかまあ、科学的根拠ゼロの占い的なことを思ったりするんだけど、そこは女ってことで許していただきたく。

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12月29日(木)

起床時刻:09時00分

FF13-2のストーリーとか誰も期待していないのかもしれないけれど(FF信者の旦那だって、FFにストーリーを求めてはいかんと言っていたくらいだから)、まぁ私はストーリーも気になるほうなんですよ。

完全ネタバレでいうと、特殊能力を持つ美少女の巫女さんがいて、その子は特殊能力の代償で10代で若死してしまう運命にある(まぁ死んでも同じ姿格好+特殊能力を持って、なんども転生してくるんだけどね)。
その子には守護者のおっさんがいて、そっちは不死身。彼は全人類の不幸と引き換えに彼女の魂を救うことを決意する。

そのおっさんの悲痛な叫びによれば「彼女はただ死ぬためだけに生まれてくるのだ!」(ね、かわいそうでしょっ!ねっ、ねっ!)ってことらしいんだけど、たいていの人はただ死ぬためだけに生まれてくるんですけど?場合によっちゃあ、ただ苦しむためだけに生まれてくる(ようにみえる)こともあるんですけど?

彼によれば彼女(の魂)を救うためには世界を混沌の渦に巻き込み、むちゃくちゃにするしかない。そうすれば彼女の特殊能力は封印され、その結果、彼女は長生きできる(?)ということなのだ。

一方で、「そんなこと、彼女は望んではいない!」と同じ部族の美少年(ノエル)は反駁する。「彼女は自ら望んで転生してきたんだ!あんたに会うために!」

で、ノエルたちがこのおっさん守護者(カイアス)と戦う(「未来を変える!奇跡を起こす!僕らはみんなを救うんだ!」)というストーリー。最後はなんか続きがありそうな終わり方でしたが。

それはともかく、男二人で、「彼女はこうしてほしいんじゃないか」「いや、こうしてほしいんじゃないか」って話しててもラチがあかないでしょ。だいたいトンチンカンな方向いくんだよ。「女の子はぬいぐるみが大好きだから」といって、巨大なぬいぐるみ(置き場所にも処分にも困る)をプレゼントしてくれちゃったりするような間違った方向にいきがちなんだよ。

ここでも、その巫女自身にどうしてほしいのか、意見を聞いてみればいいじゃんねぇ?あとから、おっさんが「君を救うために全人類を滅ぼしたよ」って巫女に報告したとして、「素敵なプレゼント、ありがとう(はーと」ってなるかね?「なに大変なことしてくれとんねん」てなるでしょうよ。

もっとも巫女さんは彼が何をしようとしているか特殊能力で知っていたんだろうけどね。「そういうの、わたし迷惑だから」ってカイアスに言わなかったのかなあ。でもそれ言ったら、純情なおっさんの純情なハートを傷つけちゃうから、黙ってたのかなぁ。ドリカム構成(おっさん、巫女、美少年)で楽しくやっていきたかったんだろうねぇ。よくわからんけど。

まぁ私たちとしては、「一人の巫女の命>その他全員の命の合計」っていうのはおかしいと思うわけだけれど、巫女を人間、その他全員を犬に置き換えたとしたら、ありえない選択ではないことに気づく。たとえば一人の人間を救うか100匹の犬を救うかどちらかしか選べない場合、ほとんどの人は一人の人間を救うわけで。カイアスの中では、巫女だけが人間でその他全員は犬になっていたのかもしれない。カイアスは極端すぎるが、例えば私と野田総理がともに溺れて一人しか助けられない場合、100%野田総理が救助されるだろう。人の命というのは等しくはないからだ。

人の命は測れないというが、実際のところ、こうやって日々測っているわけだね。いや、測られているといったほうがいいかもしれない。就職活動が疲弊させるのは、自分の命の値段を測られ、その軽さを突きつけられるからだ。生きることとは金を稼ぐことだからね。

確かにあの巫女さんはかわいそうだよ。若くして死ぬのはいつだって心がいたむ。だけど、仮に特殊能力を失って長生きしても、いいことばかりでもないからな。「巫女やってました!」ていうだけじゃ、職務経歴にならんからな。学歴もない、職歴もない、特技もない(封印中)。ユール(巫女)が「生保レディ」になって、「あたし元巫女なんですけど、正直、加持祈祷より保険のほうが断然、おススメなんですよね!ここだけの話、女神エトロって結構適当なんで、アテにならないんですよ。やっぱね、こういう時代だからこそ、安心確実な保険ですよ、いや、正味の話」とか営業トークする図なんて想像つかないじゃん?

となると、生活保護もらって暮らすようになるかもしれんしな。「彼女はただ生活保護をもらうためだけに生まれてきたんだ!」とそのときカイアスはいうかもしれんけどな。そしたら全員「フーン」てなっちゃうからな。誰もかわいそうって言ってくれないからな。働けって言われるだけだからな。そっちのほうが悲劇な気もするが、たぶん気のせいだろう。

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12月28日(水)

起床時刻:08時00分

寒いですね、最近。寒いといえばFF11の開発もウッコとビクスマを弱体させるそうで、ウコンバサラとウルスラグナ持ちの心に寒風を吹き込んでいるようですね。ま、うちの旦那も両方持っていまして、完全にふてくされておりますですよ。

ありがとう、スクエニ、いつもユーザーのやる気をそぐバージョン・アップをしてくれて。これあれだよね、「ゲームなんかただの時間の無駄だからやらないほうがいいよ、ネトゲなんかやってる奴はただの馬鹿だよ」っていうスクエニの教育的指導だよね。スクエニは教育的使命感から、バージョン・アップでユーザーを萎えさせたり、つまらないゲームを開発したりして、ゲームがいかにつまらない娯楽かを世の人に知らしめようとしているのでしょう。私はそのメッセージをしっかり受け取っているよ!

オフゲーの話になると、FF13-2はFF13より面白かったみたい(私はプレイすらしていないけど。横でたまに見てただけ)。
ところどころ、めんどくさいだけの要素は入っていたけど(←そこだけやらされたよw。クイズ問題、時間制限つきの数字ミニゲーム(これは結構好きだったりするw)、ラッキー・コインとか)。

もうシークレット・エンディング(短かっ!!!)まで見ちゃったんだけど、年末年始何をやるんだろうね、やっぱ11なのかっ><。

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12月27日(火)

起床時刻:08時00分

今、はなまるマーケットに寂聴が出てる。
肉を食べなきゃ頭が悪くなります、小説かけません。肉を食べなさい、と里見弴先生も荒畑寒村先生もこそっとおっしゃっていました、とのこと。
そういや、里見弴は朝から肉を食べるほどの肉好きだったというようなことを丸谷才一(この方も肉好き)が書いていたような。
あー、もう遅刻だ。。。

年賀状を書きつつ思うのは、今年一度も交流のなかった親戚に「昨年は大変お世話になりました」とかいう、明白なウソを書かねばならないという世のならいについてである。なんでそのように疎遠にしている人に年賀状を出さなくてはいけないのだろうか。
「昨年はお世話になりませんでしたが、今年はお世話になるかもしれません、そのときはヨロシク」という布石だろうか?
しかし、私はよしやうらぶれて異土の乞食となるとてもお世話になることあるまじや、と思っている。

とはいえ、世の中何が起こるかわからんですからねぇ。
今年は東北の震災があったし、不本意ながらも世話になることだってあるだろう。となると、あちこちに布石うっとこ、という気持ちにもなる。

しかし、田舎の親戚に年賀状を出した(なんだかんだ言っても結局出す)、くらいで布石になるんだろうか。絆という名の布石ができたんだろうか。

話はとぶようだけど、前に伯母がベアテ・シロタ・ゴードンさんの自伝みたいな本を貸してくれた(彼女はウクライナ系ユダヤ人(ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代に日本で育った米国国籍の女性で日本国憲法制定に関わった人物←wikiより)。
それ読むと、ユダヤ人の(と一般化していいのかわからないが)育てられ方というか、どこでも生きてけるような布石の打ち方に驚嘆したんだよね。

かなり前に読んだからうろおぼえだけど、教育の目的がはっきりしている。
それは「どこに住んでも食っていけるように」。彼女はダンスやピアノを習うんだけど、「上手だけれどプロとして食っていくには才能が足りない」みたいなことを母親に評されるんだよね(それでダンスだかピアノだかをやめたような)。
日本だとピアニストやダンサーとして食っていくためにピアノやダンスを習う人ってまずいないでしょう。「教養」とか「趣味」とかそういう「お稽古ごと」の範疇でしょう?

彼ら(というか少なくともベアテさんち)は違う。「お稽古ごと」なんてない。それで金を稼げるか否か、という厳しい目でみてるんだよね。

私なんか全部、アマチュアだからね。金稼げる要素ゼロ。
日本だからなんとか、おこぼれをいただいて生きていけてるけど、例えば中国に、身ひとつで行って来いと言われたら、泣くよ。

何もできないもん。ピアノも習字もお茶も日舞も「英国流フラワーアレンジメント」もなーんも身についてない。英語も身についていないし、二外のフランス語だって日常会話もままならないレベル。
一方、ベアテさんは、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、日本語が少女の頃からできるのですよ!

こういう人だったら、どこに行っても生活できるだろうね。
例えば日本は地震大国だから危ないとなれば、ヨーロッパあたりの地震の少ない国にさくっと移住しても、日常生活にも仕事にも困らないだろう(まぁ不況で困るかもしれないが、私の困り具合とは違うだろう)。

日本には割と私みたいな日本語しかできないし、日本以外では生きていけない、「日本しがみつきフジツボ族」が多い。つまり日本と運命共同体というか一蓮托生の人がいっぱいいる。となると、日本様になんとしても頑張っていただくしかない。

まぁ実際のところ、我々フジツボ族も二言目には「頑張る!」「頑張る!」って言っているわけだが、何を頑張っているかというと、最近はだいたい「片付け」を頑張っておるようであるな。
テレビを見ていると、ときめき片付けやらダンシャリ片付けやらいろんな片付け専門家が出てきておる。確かに私たちができる数少ないいいことのひとつが片付けだから(勉強するより片付けしたほうがいいのである)、片付けはやるにこしたことはないのだ。

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12月26日(月)

起床時刻:09時10分

録画しておいた「借りぐらしのアリエッティ」を見たんだけど、あれだね、「無断で借りて返さない」のは「借り」じゃなくて「盗み」っていうんだけどね。って多くの人が突っ込んだことだろう。

でも考えてみれば人間も、自然から多くのもを借りパクしている。石油にしろ、レアメタルにしろ、水資源にしろ、自然から採ってきて、返すことは決してない。返すとしても環境汚染くらいだろう。

小人のアリエッティから見れば、人間の生活は自然にも等しい大きさだろう。人間が地球に寄生しているように、アリエッティら床下の小人は人間生活に寄生している。

小人たちが可愛らしく守ってあげたくなるもの、あの病気の男の子がいうとおり彼らが「滅びゆく種族」だからだろう。これがもし、彼らがハルさんの想定するようなゴキブリのごとき繁殖力を持っていたとするならば、「駆除」の対象になったに違いない。

一家族か、せいぜい三家族だから床下に住まれて、砂糖やら石鹸やらビスケットやらをもっていかれてもたいした実害はない。糞害もなかろう。
しかしこれが百家族、三百家族が暮らす世界になれば、糞尿だけでも大変なものだ。家中に悪臭が立ち込めることになる。

希少だからこそ、愛される。
滅びゆくものだからこそ、庇護される。

老人なんかもそうであろう。老人が希少価値を持っていた時代はただ生きているだけで有難がられただろうし年金も問題にならなかったろうが、石を投げれば老人にあたる時代には寄りかかられる現役世代の反感は当然強まる。「年金をもらってるんじゃないもん、生活に必要なだけ、借りていっているんだもん!」と老人が言っても、「返すつもりもないのに借りてるとかいうな、アホンダラ」と言われて終わりだろう。

しかも老人は小人と違って可愛くないという大問題もある。アリエッティら小人族だって、地獄絵巻に出てくる醜い餓鬼のような外見だったら、ドールハウスのキッチンセットを与えられることもなかったかもしれない。床下で悪鬼どもがヤンヤ、ヤンヤの大騒ぎ、人間たちは大迷惑の巻という話だったら、ハルさんが英雄になったかもしれない。

いや、そうでなくとも、床下小人族の発見・捕獲という歴史に残る大発見をしたハルさんは、「床下小人族の生態と行動特性」のような論文を発表して、床下小人族研究の第一人者として名を馳せるかもしれない。
マスコミで紹介された小人たちは大人気となり、あの床下は「小人たちの居住遺跡」として観光資源になるかもしれない。それでハルさんは地元の自治体から「”小人の家”観光大使」とかいうものに任命されるかもしれない。自治体は「小人を観光資源として活用すべく、マスコミのみならず、有力ブロガーなどの口コミメディアを通じて広範にPRしていく」とかいう文書を作成してさっそく「ようこそ!小人の町へ!」とかいう立て看板を駅前に立てたりするんだろう。

ハルさんはテレビのインタビューで小人捕獲の困難さを語るかもしれない。多くの子供に夢と希望(「大きくなったらハルさんみたいな大発見をしたいです!」)を与えるかもしれない。

しかし急速に膨れ上がった実を伴わない名声は怨嗟を生むのが必定。週刊誌に「ハルの悪行を暴く!床下小人族、涙の告発!!」とかいうアリエッティのお母さんによる手記が発表され、手術を成功させたシュウもマスコミにでてハルさん批判を繰り返すかもしれない。それからはハルさんバッシングが一大ブームになってハルの家には脅迫状が山のようにやってくる。ハルさん追い詰められてとうとう自殺!みたいな。そうすっと今度は、行き過ぎたバッシングに対するバッシングがはじまる、みたいな。
ま、ジブリの話じゃ全然ないけどね。

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12月25日

起床時刻:11時50分

本日は降誕祭、クリスマスでござりまするな。
昨日、街まで出かけたら、人でごった返していた。街全体がジングーベー、ジングーベー一色だった(と書いたけど、最近、ジングルベルじゃなくて、ほかの曲が多いような気がするね。ていうかジングルベルはもはや聞かないね)。

たまには聖書の教えを守って過ごしてみようではないか。
と書いたが、文字通り教えを守って過ごすと大変なことになるのは、A.J.ジェイコブズの『聖書男~現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記』にあるとおり。

A.Jは、霊的な目覚め(とおそらく原稿のネタ)を求めて聖書的生活を送ろうと決心する。
彼は旧・新約聖書にある決まりごとをリストアップし(パワーブックに打ち込んでいったら、72ページ、700以上!)、それを現代NYで字義通りに実行したのがこの本なわけ。

(AJがその結果どうなったか関心のある向きに書いておくと、彼はもともと宗教に対する関心が低いユダヤ人で、リベラルな不可知論者だったのだが、最後のほうは彼の中の”ヤコブ”(聖書的分身)がかなり優勢になっていた。まさに顕在的行動(=聖書の教えに従った生き方)は内面にも変化をもたらすのである)

守った教えはいろいろ。たとえば、聖書にある変な決まりトップ5のひとつ、「二種の糸で織った衣服を身に着けてはならない」(-レビ記19章19節)を守るために、シャアトネズ(混紡)検査員!を呼んだりしているのはまだいいほうである。

「女性の生理が始まったならば七日間は月経期間でありこの期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている」(-レビ記15章19節)を守るために(ま、彼の場合は元から強迫性障害のばい菌恐怖症なのでかえって好都合で「人口の約半分に触れないいい口実になる」と喜んでいるが)、生理中は妻とも一切の接触を避け、家のカギを手渡すのも念のため15センチ上から落とす。

これを読んでいると、聖書に忠実に生きる人はいいが、聖書に忠実に生きる人を伴侶に持つと苦労することがわかる。

たとえば、夜中に起きて神をたたえよと詩篇にあるため、彼は妻(ジュリー)が眠りについて二時間後の午前11時58分にアラームをセットしているのである。(一週間だけという約束らしいが)

「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり
また地の下の水の中にあるいかなるものの形も造ってはならない」(-出エジプト記20章4節)を忠実に守るために写真を撮るのもやめようとし、ジュリーのお母さんの誕生日に母娘のツーショット写真をとるのも渋る。
(このときはジュリーとの緊迫した話し合いの結果、これが最後ということになったらしいが)

「あなたの家の戸口の柱に書き記しなさい」(-申命記6章9節)を守り、
戸口の柱に十戒の言葉を書く(ジュリーからの厳命で鉛筆書きになったが)。

「酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住むところではどこでも酵母を入れないパンを食べねばならない」(-出エジプト記12章20節)を実行するべく過越祭では手作りの怪しげなパンをつくり(誰もとらなかったそうだが)、子羊の血を柱にぬるかわりにラムの肉汁をドアの柱と上枠に塗る。(あとには茶色っぽい染みが残った)

これを読んで誰に一番感嘆したかというと、彼の妻、ジュリーだ。
多大なる精神的苦痛を負わせたとして、慰謝料もらって離婚できるレベルであるのに、彼女はあたたかく(時には皮肉や嫌味もまじえつつw)AJを許容している。

ジュリーもユダヤ人だから理解がある、というのは大きいかもしれないが
(しかし別に熱心な正統派ユダヤ教徒というわけではない。宗教に対してはポジティブなイメージを持っているようだが)強迫性障害の夫が聖書のお墨つきを得て、わけのわからない決まりを実行するのにつきあい、ユーモアの精神を忘れないジュリーは本当にできた人だと思ったね(夫が稼ぐであろう原稿料のことを考えても忍耐の限度というものがあるだろう)。

Charity begins at homeというが、ジュリーが一番、神の御心にかなっているのではなかろうか。
AJもスープ・キッチンでボランティアをしているが、これは痛みを伴わない善行だ。「いいことをした!」という満足が得られるし、家に帰ってしまえば、もうホームレスたちは関係ない。
一方、夫に対しての「チャリティ」(たとえばラムの肉汁をドアの柱に塗ることを許すこと!そしてそのあとにできた染みを消してあげること!)は「痛み」を伴う善行だし、誰にも感謝されないし、「いいことをした!」という満足ももてない。

しかしそれでも夫を許容しているジュリーは本当にすごい。夫がラムの肉汁をわけのわからん理由のもとに柱に塗りたくるのを許容する精神。これはラムの肉汁を柱に塗りたくるより難しい。しかし、これこそクリスマスに我々が見習うべきものかもしれない。

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12月24日

起床時刻:09時30分

夢で、学校行事で海に行くことになり、水着にならなくちゃいけなくなったんだけど、私は(案の定)水着を忘れてて、焦って更衣室の棚をあさっていたら、水着が一枚あまっていたので、(サイズが違ったんだけど)それに着替えようとしたら、かなり手間取っていつまでたっても着替えられない。スッポンポンになれれば着替えるのも簡単なのだが、ああいうところではバスタオルで体を隠しつつ着替えるというテクニックを要求される。めんどくさいので、トイレで着替えようと思ってトイレにいったら、大行列。
ああ、学生はみんな海辺だし、私が最後だし、どうしたらいいのさー!と切れそうになったところで、目が覚めた。

「あぁ、夢でよかったー」となるわけだが、さて夢と現実を区別するものはなんでしょう?ということをショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』からちょっと考えてみた。

「カントは次のように解決している。「実生活と夢とを区別するのは、因果律に基づいた表象相互の連関があるかないかである」」
これに対してショーペンハウアーは「夢の中だってすべての個物は実生活におけると同じようにいろいろな形態で現れた根拠の原理に従って連関しているのである」と反論する。

そしてこのように述べる。
「夢と現実とを区別する唯一のけじめとなる明確な目じるしは、実際上は、自分はいまは目が醒めているのだという完全に経験的なしるし以外のなにものでもないのである。この、目が醒めているというしるしで、夢の中の出来事と白昼の出来事との間の因果関係に、はっきりと中断が生じるのである」

うーん、夢の世界の連関性というのがわかんない。
現実はさ、寝ておきたら、寝る前の続きじゃん?
でも夢って寝て、起きて、次に寝るときは、前の続きじゃないじゃん?

ショーペンハウアーはこんな比喩で説明をする。

実生活と夢は同じ一冊の本であり、実生活ははじめから順に本のページをめくっていくようなものであり、夢は順序も連関も無視して今日はここ、あすはあそこ、とページを捲るようなもの。

つまり形式(=読み方)こそ違え、同じ一冊の本であるから、現実生活と同じように、夢は夢でまた自らのうちに立派な連関がある(何しろ同じ一冊の本で読み方が違うだけなのだから)。アンダスタン?

じゃあ、夢と実生活の区別って基本的にないんじゃない?
というと、「ないんだよ」とショーペンハウアーはいう。
「夢と実生活というこの二つの本質にはなんら定まった区別は見出されず、人生は長い夢だという詩人たちの言葉を承認しないわけにはいかないだろう」

そうなんですよ、この方、『意志と表象としての世界』の冒頭から、世界は私の表象であり、主観がなければ世界はないっていう話をしているんですよ。つまり夢から覚めたら夢をみている主観がきえるから夢の世界が終わるように、現実における主観がきえたら(死ぬとかで)現実はきえるってことになるわけですよ。

うそーん。

まぁそこらへんはよくわからないし、ひょっとしたら私の本の読み方が間違っているのかもしれないからほうっておくとして、夢の話。

本の話の比喩でいうと、夢の世界は現実生活という一冊の本の外伝、あるいはスピンオフじゃないかなぁと私は思う。
リアルの人生が一冊の本を順に読んでいくものだとして、そこで経験したあれやこれやをもとに別冊(しかも出来の悪い)ものがつくられる。

つまり目が覚めているときに感じた恐怖、心配、危惧、興奮、願望など強い印象を脳あるいは心に残したもの(主題、人、事件)が、夢で下手な物語として(ときには物語すらなく、イメージや感覚といった形で)展開される。個人差はあれ、だいたい夢というのは悪夢が多いが、それはマイナスの事柄、感情、とりわけ心配事が強く心に印象を残すという人間の特性からきている。そう、幸せの青い鳥はなかなか気づかないけど、不幸の黒い鳥はすぐ気づくっていう人間の特性ね。

だから例えば予知夢というのは、本編(=実生活)で感じたことから生まれたスピンオフストーリーが偶然にも、後に本編で再現されたということじゃないかな。夢診断というのが有効性を多少でも持つとしたら(今はなんかガラクタ扱いされてそうだけどw)、「気づかせる」ということくらいじゃないかな。「それは男根の象徴です」みたいなことを言い出すから「うそーん」ってなるけど、夢で自分の心の偏り(どういうことが心に刺さるのかってことね)はわかるんじゃないかな。いいかえると、ああ、本編のここをスピンオフで出してきたってことはこういうのが心にぐっときてるんだな、みたいなことね。
まぁだからといってどうなるというもんでもないし、現実生活と同じ一冊の本ではないにしても、ある意味つながっている(スピンオフだから)のだから、夢だけでいい思いをするとかいうのは難しいのかもしれない。やんなっちゃうなあ。

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12月23日(金)

起床時刻:08時10分

この間ニュースで今年はハタハタが大漁だって言っていたけど、昨日、都内のデパ地下でも大ぶりなハタハタが一山500円と安かったので、思わず買ってしまった。干物ではない生のハタハタを食べるのは初めて。半分煮付けに半分鍋にしたんだが、ブリコといわれる卵が体の三分の一くらいしめているんですけどw。身がすくないw。

煮付け用の甘辛い煮汁を沸騰させてハタハタを入れたら、それこそぶりっと卵が出てきて、きもいったらありゃしない。ハタハタ自体もぬるぬるしているんだけど(鰓のところに鋭いトゲがあるので取り扱い注意)、卵もまたぬるぬるの膜に覆われたしっかりしたもの。一粒一粒がしっかりしていて、見かけは黄色や橙色のとんぶりのようなんだけど、食感はゴムのように硬く、キシキシしている。

あー、私、食べ物の趣味とか変わった気がする。
これ、子供の頃だったら、「きもい」と思わなかったはずなんだよね。「おいしそ~!」ってなったはずなんだよね。食べてもブリコってあんまり好きじゃないかも。

あと、しょっつる鍋(しょっつるが売っていなかったので、「いしるだし」っていうのを買ってきたんだけど、普通に美味しい。ハタハタから出た出汁の力か「いしるだし」の力かわかんないけど)のほうも、魚がまるごとどーんと入っているのをみて、ちょっとひいたもん。なんか、よゐこの濱口が無人島にいったときにこんな料理をしていたなっていう感じのワイルドきわまる感じが出ていて、「ちょっとこれ、やばいんじゃないの」みたいに思っちゃったもんね。

旦那が魚嫌いの鍋嫌い。多分、しょっつる鍋なんか見ただけで、「なんだその気持ち悪いものは!俺の前で食うな!」って怒りそうだから、帰ってくる前にそそくさと食べたけど、正直、私も旦那の食べ物の趣味に似てきているね(旦那用にはトンカツを用意しているのでダイジョブ)。

今は週一ペースでデリバリーのピザ食べてるし、ハンバーガーもよく食べるし、コカ・コーラもよく飲むし。魚があまり好きではなくなったね。生臭く感じるようになってきた。それから子供のころは酢牡蠣が好きだったけど、今は食べられないと思う。
あと味付けが濃くなったね。昨日、某マクロビ風カフェでランチをしたんだけど、味が薄すぎて思わず塩をもらってしまったw。
夫婦は似てくるというけれど一方的に私が似ていってるようなwww。

まぁでも、ハタハタの身はおいしいと思った。癖がなく、やわらかく、とろっとしていてね。

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12月22日(木)

起床時刻:08時35分

今日は会社に行きたくなくて(行くのがめんどくさいから)、ダラダラしてたら、案の定遅刻して(まぁいつも遅刻しているんだけど、いつもは10分以内の許容範囲内(?)の遅刻)、会社の最寄駅についた時点で始業5分過ぎだったから、タクって行ったら、誰も来ていなかった。「えー、損した~」と思いつつ、やることもなかったので、ダラダラとネットサーフィンをしていたら、「研究結果:お人好しほど収入は少なくなる」ていうのがwiredにあった。「あー、やっぱりねぇ、うちの従姉妹が「優しい人ほどソンをする」って言ってたもんねぇ」と思いつつ読んだけど、私別にお人よしじゃないけど、収入少ないんですけど。ひょっとしたら、逆もまた真なりで、私気づいていないけど、収入が少ないからお人よしなのかもしれん。

そういやさ、今月号のビッグ・イシューの「今月の人(販売員(ホームレス系)の紹介)」に出ていた方(50代男性)も「お客さんの中には『よかったら一緒に働くか?』と誘ってくれる人もいます。でも、人の世話になったら迷惑をかけるので、気持ちだけありがたく受け取っています」だって!この控えめさ!この謙虚さ!この律儀さ!

だからホームレスのままなんだよ!って言ったら言い過ぎだけど、東電なんて人に大迷惑をかけても気にしてない。申し訳ないなんて気持ちもない。
東電から私たちは色々と学べる。まずは「想定外」という言葉を覚えなくちゃいけない。面接では「できます!」って言ったけど、環境が「想定外」でした、人間関係が「想定外」でした、その他もろもろが「想定外」でした、前提が変わっている以上、できないのは仕方ありません!って言い切れる度胸ね。心の中のシュミレーションでは完璧に仕事ができていたんだけど、おかしいなぁ?と首でもひねる余裕が必要なんですよ。

無理だけどw。

wiredに話を戻すと
「いわゆる「いい人」は損をしており、少なくとも稼ぎが大幅に少ないことが分かった。Journal of Personality and Social Psychology誌に掲載されたコーネル大学のベス・A・リビングストン、ノートルダム大学のティモシー・A・ジャッジとウェスタンオンタリオ大学のチャーリス・ハーストが行った研究によると、協調性の高さと収入のレベルは反比例するという。

用語の定義から始めよう。「協調性」には6つの要素がある:信頼性、率直さ、従順さ、利他主義、慎み深さ、そして優しさ。性格のいい人はこういった特長をすべて備えていると考えて間違いないだろう。それならなぜ、こういった特長を持っていない人間が職場で競争力を発揮するのだろうか?

性格の良いことは欠点かもしれない。その理由を考えると協調性のない人のことがよく理解できる。ここでいう協調性のない人間とは、<略>例外なくある特性を示している:彼/彼女らは「争いの際に自分のポジションを積極的に主張する」ことをためらわない。協調性のある人はグループの利益のためにすぐに妥協する――争いは決して楽しいことではないからだ――が、協調性のない人は態度を変えることはないし、自分が望むもののために戦うことを厭わない。」
http://wired.jp/2011/12/09/do-nice-guys-finish-last/

あ~、なるほどね、韓国の諺だか「泣く子は餅をひとつ多くもらえる」というのがあって、真理すぎると思って覚えていたんだけど、泣かずに我慢する子っていうのは「ここで、泣き出すと両親に迷惑かけるよな」とか色々おもんぱかるのよね。
あと、ただいい人だから、泣かない、自分の利益のために戦わないというのでもないかもしれない。
嫌われたくない!
ていう強い強い動機があるのかもしれない。
つまり人に好かれたい!だから言いたいことも言わないで我慢する。こういう人多いんじゃないかな。別に全体の利益が云々というよりも、ここで「これはアタシのジョブ・ディスクリプションにはありません!」とかって言い張って嫌われるよりも、まぁ黙ってやっておいたほうが波風はたたないよな的な?嫌われないけど、その代わり給料もあがんない的な?そういうのがイチバン多いんじゃないかなっていう気はする。
もちろん、情けは人のためならず、残業は人のためならず、でめぐりめぐっていつかは自分の役に立つという人もいるだろうし、そういうケースもあるだろうけど、そうではない人やケースもいっぱいあるんだよね。
だから自分のあてはまるケースが絶対的真理だと思っちゃいかんよね。って私のことですな。

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12月21日(水)

起床時刻:08時25分

「人間は二種類に分かれる。遅刻する人と遅刻しない人だ」
って私の提唱している人類分類法なんだけど、遅刻しない人は一種類だけど、遅刻する人はいろいろなタイプがある。
「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」風にいうと、「遅刻しない人はみな似ているが、遅刻する人はそれぞれの理由で遅刻する」と思うんだよね。

まずは「遅刻をなんとも思っていない系(アラーのおぼしめし系)」と「遅刻をしちゃいけないと思っているのに遅刻をしてしまう系」の二つにわかれる。私は後者である。

ちなみに私の両親と妹は一切遅刻をしない。約束の五分前には必ずついている(10分前とかもよくある)。
妹が会社勤めのときなんか、いつもイチバン最初に出社して全員の机を拭いておいたという人である。

その家庭に育ったこの姉(=私)が、必ず五分後に到着する人なのだ。
会社にこそこそと現れてこそこそとコートをかけてこそこそと席につく、というステルスミッションを毎朝繰り返すタイプなのだ。
ときには「ちゃんと始業時間には席についていましたけど、何か?」風の小芝居をうってるときもある。

正直、そういうのめんどくさい。

だから私も遅刻しない人になりたい!!

親や妹からすると、遅刻ばかりする私が不思議で仕方ないみたい。
親や妹による私の観察結果をいくつか紹介したい。

・いわく、昔から朝寝坊やった。
(妹は親に起こされなくても自分から起きるという神業を小学校からやってのけていた。私は社会人になっても母親が電話で起こしていたwww)
・いわく、昔から翌日の準備をせんかった。
(妹は前日にランドセルの中身と翌日着ていくものを準備していた。私は必ず朝にやっていた)
・いわく、時間の逆算ができんのよね。何時までにあれしてこれして、っていう計算ができんのよね。

結論:あほだから。

ていうことみたいだけど、まぁそうなんだよねー。

私ね、それに付け加えると、目算を誤るとこあるね。
あと、何時までに出かけなきゃと思うとむしょうに他のことしたくなることあるね。
つまり出かけなくちゃいけないときは掃除がしたくなるの法則。
試験勉強をしなくちゃいけないときは掃除がしたくなるの法則みたいなもんだ。

朝、ゴミを出して会社に行こうとすると、ゴミ箱の中の汚れが気になったりする。それでちょいちょいと拭いていくと、あら不思議、五分の遅刻!なのよね。
帰ってきてからやればいいじゃん?と妹ならいうだろうけど、帰ってきたら、やる気がなくなってるんだよ。

たぶんね、遅刻をしたくもないのに遅刻してしまう人はね、でかける前にどうでもいいことはじめる傾向にあるよ。5分でできるからと思ってはじめるけど、だいたい10分かかるんだよね。そういうのがつもりつもって、1時間前に起きても遅刻しちゃうんだろうな~。

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12月20日(火)

起床時刻:08時15分

夏目漱石の『行人』では「主人公は、自分の嫁さんと弟が仲がいいのではないかと疑います。そして一家で旅行に行った時、二人が他の者たちと少し離れた場所で泊まるようにわざと計らうのです。なぜ兄がそんなふうに弟を疑うのかというと、自分が学者肌の社交下手で、他人とうまくコミュニケーションできないからです」と以前引用した本で吉本隆明が書いているけど、そうなの?そういう話なんだ。読んだことないんだけどね。

これ読んで思ったけど、やっぱね、お兄ちゃんって社交ベタで不器用なコミュ障系が多いのかもしれん。
大江健三郎の『取り替え子』もね、お兄ちゃんは東大出のコミュ障(大江自身がモデル)なんだけど、弟の忠おじさんは高卒ながら皆に慕われ頼られてるんだよね。そういや、きもいお兄ちゃん(大江)の嫁の千樫さんも忠おじさんが来訪したときは、家にあるイチバンいい食べ物をふるまうとあった。みんなに愛されている弟くんなんだ(大江(この小説では長江)は長男じゃないんだけどお兄ちゃん亡くなってて、長男ポジなんだよね)。

やっぱね、生まれ順によって性格ってかわってくるとこあるね。
もちろん、家庭環境はさまざまだから一概にはいえないんだけどね。
私の印象からすると同性の兄弟の長男はこんなかんじ。

①「総領の甚六」系(大事に育てられてのんびり育った系。親のしいたレールにのっているときはいいが、レールから外れると甘ったれで使いものにならないことが多い)

②親の期待に頑張ってこたえる系(常に親の期待にこたえようとがんばるので学校の成績はいいし、出世することもあるが、常に心の中に莫大なストレスをかかえている。小さい頃から教科書的な正解を導く訓練をつみすぎているため、柔軟性にかける)

③社会不適応系(ひきこもり(『社会的ひきこもり』という本にひきこもりは長男に多いとあった)、ニート、コミュニケーション障害、あるいは反社会的行動に走るなど)

実際にはこれの微妙なブレンドが多いんだろうけど。

「科学に佇む心と体」から「 科学研究の記事倉庫 から、長子(上に兄弟がいない長男・長女、一番目生まれの子)についての記事」を引用してみます。
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1810.html

まずは『きょうだいの暗号 長男長女、次男次女、末っ子、一人っ子の性格・相性・適職』(リンダ・ブレア著)から。

・初の子として、当初は大人ばかりに囲まれた環境で、資源を独占して育つ
・親が初めての子育てで不安なぶん、心配性の気が強めに出る
・大人相手のコミュニケーションに長け、自分の意志をはっきり伝える能力が高め
・大人レベルの基準を見せつけられて育つ関係で、理想が高すぎがちに
・理想が高すぎるがゆえに、良い結果を出せても自己評価低め
・下の子ができて親独占状態を喪失する結果、なんとかして褒めを取り戻したい囚われに
・優等生を目指すことを良しとする。根は、親のような上の者に認められたいがため
・リーダーコースを歩んだり、保守的規範を重んじたり
・規範を守る、理想を追求する、いきおい学術研究分野で伸びやすかったり
・自分一人で抱え込みやすい。頑張り過ぎて燃え尽きることも
・有力者からの批判に弱い。でもって、救いを求める先は権威筋

だって。思うんだが、長男はブック・スマート、次男はストリート・スマートみたいなとこあるね。
先ほどの「科学に佇む心と体」でも、
「2007/07 cnn.co.jp 兄弟の知能指数、上の子の方が高い? 「環境」が影響と」
「2007/06 朝日新聞 「兄や姉の方がIQ高い傾向」 ノルウェーの研究所」
などなどと出ているけど、ま、テストの点数は長男のほうがいいだろうけど、次男はゼロ・ベースの発想ができるようなとこある。
ただ次男というのは良くも悪くも自己中心的だから、興味なかったらやらないとこあるね。だから成績が悪い場合も多い。親が嘆き悲しもうが関係なし。お兄ちゃんは親のために嫌なことでもがんばってやるんだけど(お兄ちゃんストレスかかりまくりや~。私も長女だから、ピアノを妹がやめたあとも仕方なく続けたし)。

坂本龍馬みたいのは典型的次男タイプね。本読まないけど、ゼロベースですごい発想ができる。
西郷どんは長男タイプね。義理堅い、真面目、不器用、理想が高い、自分に厳しい。乃木将軍もまさにそうだから長男じゃないか、と思ってwikiみたら三男だって!でも長男次男が夭逝したため、実質長男扱いだったらしい、ホッ。
こうやって「坂の上の雲」でも見つつ、長男か長男以外か類推してみるのも一興だろう。例えば東郷さんのようなゼロベース発想と柔軟性は長男ではないはず。wikiでチェックしてみると、四男とビンゴ。

運動選手は次男が多い。思うんだけど、次男は変なしがらみ的なストレスが少ない。長男的な「おかあさんにいいとこみせよう」「弟に負けたらかっこわるい」といった邪念が少ない。ただ勝ちたい、みたいな気持ちが強そう。あと普通に体も柔軟そうよね。昔、橋本治が体が柔らかい人は発想も柔軟だといっていたけど(逆だっけ?発想が柔軟な人は体も柔らかいだっけ)、長男のほうがカチンコチンの人多そう。

弟の特徴はというと、何よりも人に好かれる、愛されキャラ。
カインとアベルもあきらかに弟のアベルが神にえこひいきされてる。お兄ちゃんははっきりと嫌われてるといってもいいでしょう。カインがかわいそすぎるw。
聖書みたいな昔の話はわりと原始的な心の機微みたいなもんが出てると思うのよね。だから、まぁ弟って昔からおにいちゃんより好かれたんじゃないかな、一般論的にいって。
あと、これも聖書にあるけど、放蕩息子の話。お兄ちゃんはお父さんとコツコツ一生懸命働いたが、弟は放蕩息子でどっかいってしまった。一文無しになってかえってきたけどお父さんは超絶感激して、大変なもてなしをする。お兄ちゃんはふてくされて文句をいうんだけど、これ、やっぱ、普通にお兄ちゃんより弟がかわいかったんだろうね。

兄弟小説といえば『カラマーゾフの兄弟』だろうけど、これもお兄ちゃん犯罪者、三男天使だもんな。どうかんがえてもお兄ちゃんより三男のほうがかわいいだろう。

そういや昔話には末子成功譚というジャンルがある。古事記もそうだ。末子が活躍する。古事記の時代は末子相続でもあったらしい。

思うに、昔は試験とか学歴とかそういうのなかったから、ストリート・スマート的な末子のほうが活躍したのかもしれない。また天性の愛されキャラを発揮して男にも女にも好かれる。親にも親戚にも好かれる。だからお前が相続しなさいっていうことになったんじゃなかろうか。今でもどっかの遊牧民みたいなとこは末子相続らしい。

長子相続と長男絶対主義は、これ儒教と同じで無理やりあとから(長男たちがw)つくったんじゃなかろうかw。老人がないがしろにされている匈奴的実力社会をみて、「あれは野蛮だ、僕達文明人だからそんなことしないもんね」という対抗意識で意識的につくられたのが儒教的老人尊重だという話を聞いたことがあるけれど、長男尊重も「かわいいからってイチバン下の弟をえこひいきするなんて、野蛮だよね、お兄ちゃんのほうがずっと頑張ってるもんね!お兄ちゃんのほうがえらいんだもんね!」という対抗意識で意識的につくられたのかもしれんな、とか思ったり。

孔子は次男らしいけど、長幼序ありの孟子は長男じゃなかろうか?知らないけど。孟子は典型的な長男なんだよね。まずブック・スマート的、おかあちゃんの期待を一身に背負ってそれにこたえようとけなげにがんばるとことか、権威主義的なとことか。ま、これで次男だったら今までの私の話はなんだったんだになるけどwww。

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12月19日(月)

起床時刻:10時30分

今日みた夢は「学校に行かなきゃ、行かなきゃと思いつつ、ずっとさぼってて、とうとう、校長先生からお叱りの電話がくる」という内容だった。
ひょっとして私、何かをさぼっていて、深層心理で自分をせめている?
うん、心当たりはあるね、大掃除だね!

というわけで、今日は網戸の掃除、窓ガラス拭き、レンジフードの掃除などをした。カーテンレールの上を拭いたり、照明器具をはずして拭いてから戻したり。でも1個やったら疲れてしまい、もう終了!シャンデリアとかどうやって掃除すんだ、ねぇ。

『島田順子スタイル』っていう本がマガジンハウスから出ているんだけど、島田順子さんのパリ郊外フォンテーヌブローの本宅は、まさに大掃除がめんどくさそうな家だ。モノがいっぱいあふれていて、「少ないもので豊かに暮らす」発想とは根本的に無縁そう。ダンシャリみたいなびんぼくさいものとは関係ないんでございます。何しろ欲しいものがあったらすぐ買っちゃうそうだから。

「ずっとポルシェが似合う女になりたかった」((笑)←はついていない)というキャプションの写真は、フランスの歩道の上にポルシェを思いっきり乗り上げて満面の笑みを浮かべている順子さまの写真。歩行者の迷惑とか思わない。さすがである。

あと、さすがなのは、これまた、いまどきやたら毛皮の服を着ていることかな。ミンクが大好きらしい。「彩ねえさん、こっちです!」って言いたくなるような、たっぷりしたファーコート。それに自宅もシマウマの毛皮みたいなのが床の上にしかれている。

またすごいのが「パイソンのパンツ、パイソンのバッグ、スエードのプルオーバー」などという全身皮!みたいなコーデね(似合ってるんだけどね)。パイソンとならんでクロコも好きらしくて、「身につけていると安心、爬虫類レザー」という(謎の)キャプションの写真ではオフタートルのチャコールグレーのプルオーバーにチョコレート色のクロコのスカートをあわせている(靴は黒のルブタン)。

「いやあねぇ、ジェニファー・ロペスじゃあるまいし」と思われるかもしれないけれども、順子さまに似合っててかっこいいんだ。これ、70歳だから許されることだね。ま、私だったら、↑のコーデなら別の靴を合わせるけど、この方、そういうの超越してるのね。茶系なら茶系の靴でいきたくなるけど、そういうのないね。

ご本人がおっしゃるとおり、好きなものを好きなように着ていらっしゃいますね。何しろ、ガーリーなワンピース(膝上丈)を着て、思いっきり膝小僧みせてるからね(もちろん生足)。中年女性のお肉のついた膝出しで顰蹙している世間には、肉どころか皺がよっている老年女性の膝小僧を見せ付けてやりたいですね。

でもかっこいいんですよ、ほんと。何がすごいって、10cmくらいありそうなヒールの靴をはいているとこね(靴はヒールが高いかぺったんこか、どちらかが好きらしい)。このトシ(70です!)になったら、普通、ウォーキングシューズだろ?って思うけどたぶん、E幅の靴とかもってなさそう。だいたいさぁ、トシとると足からダメになってくというか、ハイヒールが履けない体になるよねぇ(私、もうなりつつある。昨日、ヒールの高いスエードのブーツ+スカートで出かけたら腰が痛くなったwww寒さとヒールのせいだと思う)。

ほっておくとどんどん、くすんで地味になっていくから、きれいめな要素、ゴージャスな要素も取り入れていかないといけないんだよね。「若いうちは何もしなくてもきれいよ」ってよくいうけれど、トシをとるとわかる。年をとると何もしないと汚いってことだからなw。

いいかえると、中年、老年はシンプルなだけじゃ寂しくなってくるんだよね。となると、私なんか元が乙女チックだから、とたんにコサージュとかをつけそうで怖いんだけど、やっぱこう、かっこいい方面にいかないとダメだね。だからマニッシュな中にあるフェミニンさ、カジュアルな中にあるエレガントさみたいなものを求めていかないといけないね、みたいな気がしたね。

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12月18日

起床時刻:13時30分

FF13-2、オープニングだけちょっと見て寝たんだけど、13よりは面白そうだったよ。あいかわらず、「奇跡は起こせる!未来は変えられる!僕らは世界を救うんだ!」ってコドモが騒いでる話だったけどな。

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12月17日

起床時刻:11時36分

FF11のレベル95の最終限界突破(最後の試練)、意外とあっさりクリア。
バージョンアップ当日(一昨日)は混み過ぎて、限界突破に必要なアイテムを落とす敵の取り合いだったけど、昨日は既に結構過疎ってたw。どんだけクリアするの早いんですか。
やっぱり敵は強ければ強いほどドロップ率がいいと思う。香味石はボヤの奥、プーク、芋、蟹のいる広場で比較的すんなり調達。
旦那のシーフ回避盾でいったんだけど、短剣は突属性だからプークとは相性よし。サドンランジのスタンはめで、結構あっさり勝てる。シーフのアビ「まどわす」で最初にまどわせといて(w)、不意打ち+エビサレーション。正面からうっても、不意打ちになるというすごいアビ。でシーフがエビサをうってタゲをとったところで、ブルーチェーン+ディセバーメントで闇連携したり。連携するのもディセバをセットするのも久しぶりw。ディセバってやっぱりMP効率いいし、毒のスリップがいい感じだよねぇ。ダメージもかなり出るから、タゲがはりついちゃったりするけど。

その後、グスタフの奥の亀とミミズで化石を調達。こんなとこに亀がいたとはw。青でいったんだけど、スタン(サドンランジもヘッドバットも)入らなかった。亀はノンアクなイメージwだったんだけど、普通にからんできやがります。

限界突破は赤×3、黒×3のマナバーン・パーティで。赤も黒も2アビつかったら、スタンで敵のタルっ子を固まらせたところで、弱体アイテムの漬物wを投入。そしたら【全力で攻撃だ】ですね。
私は黒で行ったんですが、最初印+ブリザド5で1220ダメージ。旦那(ヒュム黒)は1300以上出てた。本当はサンダー5、といきたいところだけど、もってないw。買おうと思ったら150万ギル以上してたから退散したw。

私は全部位エンピリアン装備+2(でも、足は魔攻とか魔命がついている他のもののほうがよかったねw)だったんだけど、+2は頭と胴体に精霊魔法の詠唱時間-12%がついているから(これ大きいよね)、結構、魔力の泉の間に魔法をうてる。もちろん、サポは赤で(と書いたけど、学者の黒のグリモアのほうがいいのだろうか?どっちが早いんだろう。詠唱時間はサポ赤、再詠唱時間はサポ学の黒のグリモア?あと学者には疾風迅雷の章というのがあったから(詠唱時間半分)最初の一発目は唱えておくといいかもしれない。ま、サポ赤が普通だと思うけど)。最初にうったブリザド5は2回うてた(2回目で沈めたw)。

結局、弱体アイテムは2個しか使わなかったけど(最初1個って書いたけど間違い。確か漬物石は切れるまえに重ねがけできるはず)、無事撃破。最初の強化とかがあるから、戦闘時間は3分半くらいだった。
いやあ、よかった、よかった。しらないけどモモモモ召白パーティより楽なんじゃなかろうか。ていうか、竜騎士しかできませんとか暗黒騎士しかできませんとかいう場合、勝てるんだろうか。このいつものジョブしばりやめて欲しいよねぇ。アビセアの箱あけで急いであげた場合、スキル真っ白だから、使い物にならないだろうし。
たとえ弱体アイテム使ったとしても、敵が逃げ回るから近接タイプは戦いにくいんじゃないかなぁ?よくわからないけど。オハンナイトでガチっても、百烈拳の追加ダメージの火で死ねるらしいし。。。

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12月16日(金)

起床時刻:11時30分

会社でネットサーフィンしているときにたまたま見つけたのだけれど、亀井百合子さんがサイゾーウーマンに連載している(更新とまってる?)『亀井百合子の「オシャレな女に憧れて」』って面白いな。「日本女性に容赦ない! 滝川クリステルがパリジェンヌの生き方本を出版」を読んで笑っちゃったよ。亀井百合子さんの芸のある悪口って好きだな。ポストナンシー関になれるんじゃないかw。

それにしても滝クリの日本女性に対する「まわりと一緒になろうとする」という「冷ややか」な批判は、もう耳タコで、「まわりをキョロキョロみまわして自分だけ浮いていないか確認する」という日本人の習性は戦後(どころか戦前も?)ずーっと批判されてきたことなんですよ。
なのに、平成になっても滝クリに言われているようじゃ、こりゃもう、骨の髄まで「キョロキョロ周りを見て周りにあわせる精神」が染み付いちゃっているんじゃなかろうか。

この間ちょっと書いたNHKの教育でやっている「コロンビア白熱教室」のシーナ・アイエンガー教授による「選択」についてのお話。

第2回「選択しているのは本当にあなた自身?」 では「選択」の捉え方に対する文化圏による違いの話だった。「誰が選択を支配しているのか」に対して、「選ぶのは私」と考えるのではなく、「選ぶのは私たち」と考える人もいることが述べられた。

先生は海の絵を(魚、カエル、海草、巻貝などがかかれている)提示して言う。
調査によれば文化圏が異なると、人がみたものが異なるという。
京都大学とミシガン大学で行われた調査によると、「海の絵」をみせたあと、何をみたか質問をすると、その結果、アメリカ人は大きな魚を見ることが多く、大きな魚についてのディテールまで述べる。日本人はまわりの様子、状況についてコメントを述べる。画像全体をみて、大きな魚のディテールについて述べることは少ない、とのことだった。
次に画像を少しかえてみせてみると、大きな魚の変化に気づくのはアメリカ人のほうが高く、海の中の小さなディテールを変化させたときは日本人のほうが高い。

両者は世界の解釈の仕方が違う、と教授は述べる。
誰が支配者かを見抜くことを子どもは親から教えられる。
アメリカでは「環境を変える力を持つのは(力を持った)個人である」と考えるが、他の文化圏では「生態系である」という考え方をする。どちらも正しいが、文化によってフォーカスするところが違うという。

あるいは、オリンピックでメダルを獲得した選手のコメントもアジア人は「チーム全体で勝ち取ったメダルです」といいがちだが、アメリカ人だと「今朝起きたときから自分が勝てそうな気がしていました」と言う(笑)。

面白いね。
我々にとって、大事なのは一個人というよりも全体なんだろう。例えば突出した個人がいてバリバリ何かを推し進めようとしても、全体のコンセンサスを重視しなければ物事はすすまない。
そのことを小さいときからみぬいているから(選択の支配者は個人ではなく全体、あるいは生態系である)、周りをキョロキョロすることが習性になっているわけだ。

滝クリにしてみれば「日本人、ダッサー!」ということなんだろうが(多分、大江もそう思ってるんじゃないか)、これはもう、「和を以て貴しと為す」のダークサイドなんだ。「一人はみんなのために みんなは一人のために」の弊害なんだ。「みんなのために」何かをするというのなら、みんなを見ていないといけないもんね?みんながAといえば、自分はBと思っていてもAといわないといけないよね?そうしないと話がすすまなくて、みんなに迷惑かけちゃうもんね?TPPもそうだもんね?みんなに迷惑かけちゃうから、自分はいやでもみんなにあわせないとね?でも悪いけど、それ推進している人、あんたみたいな雑魚のこと見てませんから、残念!みたいな?(私、ギター侍が好きだったのかな?未だに「残念!」って言っている人、私くらいじゃなかろうか)

まぁでも人間なかなか変われないんだよなぁ。
吉本隆明もこういうておる。
「人間の性格は胎内で人間として身体の器官がそろって働くようになった胎児の頃から一歳未満の乳児の頃までの間に、主に母親との関係で大部分が決まってしまう」(『ひきこもれ』(大和書房 2006。読んでいる本のタイトルに願望が出すぎて我ながら恥ずかしい)。
つまり成長してから、自分の意見を押し通そうとか、周りを気にしないでいこう、とか努力しても、もう今更無理ですから、残念!ってことなんだよね。また使ってしまった。

まぁでも古かろうが寒かろうが、滝クリなら「「残念!」といいたいときは言えばいいじゃん?周りのこと気にしてあわせようとするのが日本人のいけないところじゃん?」ときっと背中を押してくれるだろう。でも背中押されたって、やっぱり私は人前では言わないんだけどねっ。

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12月15日(木)

起床時刻:08時20分

本日バージョンアップ(FF11)。限界突破のためのアイテム取りでAM3:00までゲーム。メインシーフがいるのになかなかドロップせず。

何より敵の取り合いが激しすぎ。何のNMがわくんです?ってかんじ。
ガイジンがI hate SE(スクエニ)!!と叫んでいたが、たぶん、みんな同じ気持ちだろう。そういう意味で心がひとつになったね!スクエニの大好きな言葉でいうと、絆が生まれたね!!

ゲーム地獄の日々再び。もうすぐシジュウだというのに、こんなにゲームばっかりやるようになるとは、全く想像もしていなかったなぁ。かわいいタルタルの中身は中年(初老?)のオバハンです。

私ははっきりいって、ゲームなんか全然好きじゃないんだよ。旦那がゲームに対して真剣すぎてまじ笑えるレベルなんですけどー、とか思っちゃう。「余所見すんな!!真面目にやれ!!挑発おせーんだよ!!」みたいな感じであつくなっちゃって、ほんと大変なんですけど。

旦那がシーフで私は戦士で行ったんですけど、シーフで行かなくてよかったわー。けっこうドロップ率低いのよ。特に「丁度」相手の敵は全然落とさない。「強」や「同強」でも、なかなかドロップしないの。
もし私、シーフで行ってたら、絶対、私のせいにされてたわー。「トレハンレベルちゃんとあげてんのかよ!!」みたいに切れられてたわー。あぶねぇ、あぶねぇ。

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12月14日(水)

起床時刻:08時20分

日々ゲームとパートのお仕事をしているわけだが(両方とも好きじゃない。むしろ積極的に嫌いである)、パートのお仕事をしていて気づいちゃったよ。私の仕事のやり方が間違っていたっていうことにね。遅っ!

私は基本、めんどくさがりのものぐさだから、効率重視の人間で、短時間で8割仕上げるタイプなんだよね。
私のイメージなんだけど、3時間くらいで8割の出来につくることができても、10割の出来にするには5時間くらいかかるんだ。のこりの2割には収穫逓減の法則が働く。
そうでしょ?まっさらな状態からレポートをつくる場合、レポート作成のアウトプット量は大きいけど(8割出来の状態)、作成後の数字のチェックとかグラフのチェックとか(10割出来にするための作業)は時間かかるわりにアウトプットは少ないんだ。

私はもともと、10割の出来にするための5時間は他の8割出来のアウトプットを生み出すための時間に割けばいいじゃん?という発想の人なんだ。

しかしね、人間って2割のミスで全ての信用を失うんだね!「人は完璧な8割ではなくて、駄目なほうの2割に注目する」の法則だね!私の発見した法則だけど!
東電だって、放射能計測のミスをして、世間に「信用ならんな、東電は」って言われてたじゃん?「だいたい、あたってるからいいじゃん、スピードだよ、スピード」なんていう人は世界に一人もいなかったよね?
あれね、早く出すよりも時間が倍、三倍かかっても正しいのを出さないといけないんだね。なんなら半年後くらい後に完璧なものを出せばいいんだよ。「お客さん(東電の場合は日本国民だね)に早く結果を知らせてあげよう」とかいうサービス精神なんか不要のものだということがよくわかったよね。間違っていたら、早く知らせてもらっても怒られるだけだからね。

一個の間違いも許すまじ!!の精神でやらなきゃダメなんだね。slow and steady wins the raceなんだね!

8割出来を3時間でつくるよりも、10割出来を8時間でつくるほうが重要なんだわさ。ていうか、全部やって間違いがたまにあるよりも、半分やって間違いがないほうが正解なんだ。

だから私は仕事のペースを遅くして、ミスがないように、チェックしてチェックしてすすめているんだけど、これ、神経症みたいになるね。手を洗っても洗っても気になる人の気持ちが今までさっぱりわからんかったけど、ちょっとわかる気がするね。
例えばクライアントへの請求書も何回もあっているか確かめるけど、一回封をしたあとに中身が本当にあっているか、また気になってあけてしまう。
レポートも一回照合した数字が本当にあっているか、気になって何回も何回もチェックして前にすすめない。

几帳面な人のほうが仕事は向いているんだろうけど、神経症レベルになると仕事はできないから、まぁ難しいとこだね。
私なんかもとが大雑把のいい加減人間だから、困っちゃうよ。生きててイヤになるレベルだね。

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12月13日(火)

起床時刻:08時20分

夜の仕事はじめました^^。といってもウォーターフロントではなく、カラボスの小石を取るだけの簡単なお仕事なんですけど。

ゲームですよ、ゲーム。やっとられんわ。
もうさぁウコンバサラもウルグラスナもカラドボルグも神無も持ってるじゃん。これ以上エンピリアン武器をつくんなくてもいいじゃん。

エンピ武器は旦那と私の二人でつくったんだけど、レリミシは二人でつくるなんて絶対無理だったことを考えるとすごいよね。
でもオハンはどう考えても無理だと思うんだけど、なんであんなにあちこちにオハンナイトがいるわけ?すごいよ、みんな。信じがたいよ。私はオハンなんか絶対につくれる気がしない(無色の塊ね)。

ま、つくったエンピ武器は全部旦那のもんですけど。「そっちもつくっていいよ~、協力するから」って言われたんだけど。「アルマスとかどう?」って比較的簡単なルートをすすめてきやがったw。
もし、つくるとしたらウコンバサラがいい。ウッコフューリーまじぱねぇす、なんだけど(アビセアの中では。外ではトアクリーバーが強いけど)、またタロンギオンラインがはじまるかと思うと(だいじ集めが死ぬほどめんどくさい)、【いりません】ってなるよなぁ。それに今つかっている両手斧はウィドウメーカーで、かなり強いから別にいらないかなぁって。

やっぱ性格だよね。最高級品を苦労して手にいれるくらいなら、苦労しないで手にはいる品で充分、みたいな。この無欲というかモノグサな性格がゲームにも反映しておる。

はーあ、今から憂鬱だよ。ま、憂鬱でなければ仕事じゃないそうだから、私にとっての仕事であるゲームが憂鬱であったとしてもおかしくないんだけどさ。主婦業でイチバンめんどくさいのがゲームなんだ。

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12月12日(月)

起床時刻:09時45分

夢に雨上がり決死隊と博多華丸大吉が出てきた。大吉さんがマニアックなものまねしてた(見たことないから私が勝手に夢でつくりだしたモノマネだろう)。しかも天神の路上でやってくれよったんよね。また夢に出てきてくれんかいな~。

昨日録画しておいた「コロンビア白熱教室」(NHKの教育で日曜の6時からやってる。シーナ・アイエンガー教授による「選択」についての講義)をみた。面白かったな。先週の放送も面白かったよ。
前回はね、「選択」の捉え方は文化圏によって大きく異なるということを、
4つのポイントにわけて講義してた。
①誰が選択をするのか
②誰が支配しているのか
③選択はどんな違った理解のしかたがあるのか
④意味のある選択をするには何が必要か

「①誰が選択をするのか」で、先生が出した例が面白い。

7~9才までの子ども達(日系アメリカ人、中国系アメリカ人、アングロ系アメリカ人が均等になるようにグループを構成する)を対象にした調査で、

・グループ1は6つの課題から自分で課題を選び、自分で答えを書くペンの色を選ぶ
・グループ2は会ったこともない先生からやるべき課題と使うべきペンを指定される。
・グループ3は「お母さんからの指示」という名目で、やるべき課題と使うべきペンを指定される。

の3グループにわけて成績を調べるの。
で、どのグループの成績が一番よかったか?最もモチベーションが高かったか?というと、アングロ系アメリカ人の場合は、自分で選ぶときがもっとも高く、先生や母親が選ぶケースでは壊滅的。一方、アジア系の場合は母親からの指示が圧倒的に高く、次が自分で選ぶ場合、一番低いのが先生が選ぶ場合となっている。
自分で選ぶケースでは、アングロ系アメリカ人のほうがアジア系よりもわずかに正解数が多く、母親が選ぶケースではアジア系がアングロ系の3倍近く多かった。

(「自分で選ぶ」ケースのとき、アングロサクソン系とアジア系とで有意差はあるんだろうか。グラフから判断すると、かなり小さい差な気がするけれど。母親が選ぶケースにおけるアングロサクソン系とアジア系の差はかなり大きいから、ひょっとしたら、確実にいえることは「母親の指示による課題をさせると、アジア系子供とアングロサクソン系子供とではパフォーマンスに大きな差が出る」ってことだけで、自分で選ばせた場合はどちらも差がないってことになるんじゃないか?だから正確には、「アングロサクソン系の子供には自分で課題を選ばせるべきである」「アジア系の子供は自分で課題を選ばせた場合でもアングロサクソン系の子供とほぼ同様のパフォーマンスを示すが、母親の指示によるほうが、さらに高いパフォーマンスを示す」ということをグラフは意味しているんだろう)

人種っていうか、文化的背景によって結構違うんだね。やれ教育はフィンランド方式がいいだの、シュタイナー教育だの、といわれるけど、アジア系は
「自分で選びなさい」という「主体性重視」の教育よりも、ママによる指導のほうがパフォーマンスはいいわけだ。生まれついてのマザコンどもめ、というわけだ(まぁでもマザコンというから印象が悪いのであって、昔は孝行息子・孝行娘と褒められていたんだと思う)。

当然といえば当然だけど、成長しても同じ傾向なのね。
世界百カ国以上で事業を営むシティバンクで調査したところ、仕事において一日にどれだけの選択をしたかの認知は、アメリカが一番多く、次いでラテンアメリカ、一番低かったのがアジア。

アングロ系アメリカ人では選択肢が多いときに、パフォーマンスが高く、組織への貢献も大きかった。
ラテンアメリカでは自分が信頼されていると感じるとき、上司を信頼しているときにパフォーマンスは高い。
アジア系アメリカ人とアジア人では、選択肢が多いと感じれば感じるほどパフォーマンスが落ちた。アジア系は選択肢が多いと、「上司が仕事をちゃんとわかっているか」疑うそう。仕事の焦点や目標が定まっていればいるほど、パフォーマンスが高い。

多くの選択肢を持つことが、自分の権限が広がったように感じ、張り切る人もいれば、ささいなことにわずらわされて、やる気を失ってしまう人もいるということだ。

オブリビオンみたいな自由度の高いゲームがアメリカで生まれ、バカ受けするのも理由があるんだね。一般論的に言って、日本人は一本道ゲーのほうがいいんだろうね。

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12月11日

起床時刻:13時00分

大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』の第五章は「試みのスッポン」というわけで、立派なスッポンが田舎から送られてきて、ダイドコで奮闘するお話で、この大スッポン、スッポンの王との格闘(出刃包丁と中華包丁による)では、主人公の長江(というか大江)は物理の法則まで持ち出して知略を尽くすが敵もさる者、一筋縄ではいかない。

とうとう、スッポンの頸を水平に切り落とすことをあきらめた大江は「西部劇でいえばピストルで向かいあう代わりに、ショット・ガンを連射する」作戦に切り替える。「甲羅の、頸のすぐ脇を中華包丁でなぐりつけ続け、ついにはそこを血だらけの広い傷口にしてから、もう潜り込みようのなくなった頭を切り落としたのだ!」(P214)
『白鯨』ならともかく『スッポン』でおまえさん、大騒ぎしすぎだよ、と思うが、スッポンなんか送っちゃいかんよね。いくら大江がスッポンを料理できると公言していても。

まぁここのスッポンは国語の試験的にいえば、代理戦争みたいなもんだろう、おくってきた人に対する積年のもやもやを晴らしているんだろう。
大江は苦労して殺したスッポンをさばき、から揚げ用にとりわけたり、丁寧にアクをすくいながらスープをとったりするんだが、結局、全部ゴミ袋に入れて捨てる。スッポンの王はまったくの無駄死、そして、大江の戦いもただの無意味。スッポンとの格闘は重いゴミ袋を寒空に出す、という結末で終わるのだ。まさにむなしさの象徴だ。
「あれほどのスッポンの王に死後の魂がないのなら、おまえの魂にもそれは
ないだろう」

というような、読書感想文のような話はおいといて、スッポンとかね、生ものをおくるってのはよくないね。
アサさんという大江の妹もよくスッポンをおくってくるようだ。妻の千樫が「大変だったら、野川に放してやったらどう?この間もアサさんから届いたのをアカリと一匹ずつ放しに行ったでしょう」という台詞からわかる。

だいたい、東京23区の川にスッポンを放流していいんだろうかね?まぁ特定外来生物じゃないからいいのかもしれないけど、生態系とかのあれやこれやを思うと、ぽいっと放流しちゃいかん気もする。もし許されることだとしても、これはもう、スッポンのお引越し、田舎のスッポンから都会のスッポンになるだけの話で、これ以上の無意味はないと思うんだが。

千樫さんがアサさんにお礼の電話をするときはなんというんだろう?そりゃあ大人だから「川に放してきました」とは言うまい。「おいしくいただきました」と言うだろう。それでアサさんが「ようあんなにいっぱい食べなすったな!よほどお好きなんですな!」と感心してまたおくってくるという悪循環。

だいたいね、何匹も生きたスッポンをおくっちゃいけないんだよね。親切心かもしれないけれどね、というか親切心なんだろうけれど、さばいて下ごしらえしたものをほんの少し贈るのが洗練されたプレゼントっちゅーもんだろうがよ。

水原秋桜子の「栗くれぬ否み難くて手にしたり」という句を思い出したよ。これもまさにアリガタ迷惑の典型なんだよね。人にものをあげるというのはかくも難しいものなのだ。それなのに「あれをあげた」「これもあげた」「なのにお返しがちょびっと」とかもう、ほんと、めんどくさいったらありゃしない。どんだけ、ありがとうって言ってもらいたいんだ。このありがとう乞食めが。
私の友達が、友人のだれとかちゃんに使っていない調理器具をあげたらしいんだけど(「あ、欲しい、使うから~」と言ったそうなの)、その子の家に行ったら、箱から出してもいなかったと言って怒っていたけど、「もらっていただいただけで有難いじゃないの」と思わず言っちゃったよ。

ま、考えてみたら、私基本、もらう方の立場だったわ!ははっ。でも、ほんと、モノとかくれなくていいんだけどねぇ。

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12月10日

起床時刻:10時00分

大江健三郎の『取り替え子 チェンジリング』を通勤電車で読んでいたら、はじまってすぐの12ページ目で「ウワッ!ウワッ!子宮ガ抜ケル!イクゥ!」とかいう台詞が太字ゴシック文字で書かれていて、焦った。
この言葉(野太い女の絶叫する声)は、主人公の長江古義人(こぎと、と読む。こういうのもDQNネームに分類されるのであろうか?大江自身がモデル)の友人にして義理の兄である吾良(ごろう、と読む。伊丹十三がモデル)から送られてきた盗聴テープの中にあった言葉である。

大江健三郎の小説は人前では読めないね、全く。しかし、「子宮ガ抜ケル!」とか叫ぶ人がいるんだろうか?子宮という臓器は、出産や腫瘍や筋腫に絡んで想起されるものであって、快楽的なものとはおよそ無縁の臓器な気がするんだが。

まぁそんなことはどうでもいいんだけど、この本は伊丹十三監督の自殺に絡んでの思い出話(とくくると語弊があるけどw)なんだ。

登場人物は長江古義人(大江がモデル)、妻の千樫(伊丹十三の妹にして大江の妻がモデル)、息子のアカリ(大江光がモデル)、吾良の妻の梅子さん(宮本信子がモデル)、吾良と肉体関係があったとおぼしき女性(豆ハーモニカ顔)の母親(ベルリン在住の日本人で映画関係の仕事をしている様子。豆ハーモニカ顔)とか、そんなかんじ。

実に個人的な話なんだが、大江の長年の読者は大江一家が「寅さん」か「渡鬼」みたいになってんだろうね。光男の成長同様、アカリの成長も感慨ぶかいもんがあるに違いない。私は『個人的体験』の次にこれを読んでいるから、アカリくんがすくすく成長してよかったなぁと思い、コギト(かつてのバード)がトシとったなぁとしみじみする。

もちろん、小説だからドキュメンタリーとは違う。事実は小説として再構築され、フィクションをおりまぜ、新しい世界を形づくり、一個人の特殊な家庭事情や世界が普遍性をもったそれへと飛翔するのであろう。もはや、小説に書かれている世界は現実とはある意味無関係のものだろう。

でも、ベルリン在住の豆ハーモニカ夫人(長江、というか大江はこの人のこと大っ嫌いなんだろうなwだいたい大江って押しの強い女性は嫌いなんだよね。日本人の面従腹背を大江は嫌っているけど、欧米風に正面きってガンガン自分の主義主張をまくしたてられるのも嫌いなんだw)はこんなことを言う。

「よくこんなふうにいうんですよ。これまで私のつきあって来たドイツ人がですね、日本人は過度に個人的なことを話す、作家や映画監督の講演ですらそうだ、と。そういうものかなあ、と不審な思いもあったのですけれど、先生の講義をうかがって納得しました。あなたのような方ですら、話がしばしば個人的ですものね」

まぁ私自身は、個人的なこと、自分のこと以上に自分が興味をもてることなんてあるのかい?と思うから、別にいいじゃん、と思うけど。

まぁでも豆ハーモニカ夫人のいいたいこともわかる。「自分が、自分が」って、自分の個人的な話に全世界が興味もってるとかおもってんじゃねーよな?頭悪いんじゃないの?みたいなことだろう。

確かにね。普遍に通じる特殊というけれど、本人が世界的に高名な作家で、妻の父が日本映画のパイオニアで、妻の兄にして自分の昔からの親友は元俳優で後に映画監督として成功をおさめ、だけどヤクザに襲われて、あれやこれやで「墜落死」して、芸能界は下品な俗物ばかりで信用ならなくて、自分も大新聞の花形記者(本多勝一)に執拗に批判されて、そのせいでプチ鬱状態になったりして、あと息子が脳障害があって、でも作曲の才能があって、だけど、NY在住の作家兼作曲家(坂本龍一)に批判されたりして(「ポリティカル・コレクトネスで知的障害者の音楽を押し通されちゃたまらない」)、そのことをイチイチ教えてくれる(もちろん、親切心ではない)人が回りにいたりして、もーやんなっちゃう!みたいな状況って結構、特殊すぎるよね。

大江は記憶力が抜群なんだろう、言われた悪口をちゃんと覚えていて、「あのときこんなこと言われた」「あんなことも言われた」と書いているんで、大変なんだなぁとは思うけど。そして吾良の世界(芸能界、映画界、週刊誌の世界)も、これまたとても大変で(もっと大変といってもいいかもしれない)、この世の無理解、俗物性、陰険さ、卑屈さ、そういった諸々のいやらしいもの、汚らわしいものの展示会のようになっている。

世に出るって大変なことなんだなぁ、と思う。私はアカリと一緒に引きこもってたいよ。

この小説の中で吾良は輝いているね。才気煥発で、気が利いていて、育ちもよくて、年を経て相当シニックにもなったが、なお性格の根本には子供のような善良さをもっていて、「大変ナイーヴな人だが、剛毅、剛直な面を持っておられた、暴力には屈しないと覚悟をきめた人」であり、長身で、美男(←ここ重要)。

一方、長江は冴えない感じ。もてないだろうねぇという感じ。
でも、マッチャマ時代(4、50年前?)に吾良(伊丹十三)がとった大江の写真がわざわざ一ページ使って挿入されているんだけど、この大江はイケメンだね。「奇跡の一枚」(@ロンハー)だね。フォトショマジックとかじゃないよね?
この写真、相当気に入ってるんだろうね。どこかでも見た気がする。よかったねぇ、こんないい写真をとってもらって!
でもこれがトシとったら、丸めがねの漫画みたいなおっちゃんになるのだものねぇ。どうしてこうなったwwwだよねぇ。

ちなみにチェンジリングというタイトルはセンダックの絵本からきているんだけど、そこあたりの感覚、千樫さんと浦島さんの感覚はよーわからんかったね。「吾良はみんなに愛されている」っていうのはよくわかったけどw。まあ、でも結構、面白かった。

あと大江は日本人の「怨望」(by福沢諭吉)精神について語っているけれど(俳優吾良が日本で軽視され、貶められさえするのは、「怨望」のためだと言い、吾良は大物ジャーナリストによる大江批判も「怨望」によるという)、でも日本人に固有なものなのだろうか?とも思う。これって端的にルサンチマンだよね?ニーチェは別に日本人を観察してそういう結論を導いたわけじゃないから、日本人特有でもないような気がするけれど、どうなんだろうかねぇ。アメリカは確かにニーチェ的な超人思想を実践しているというか、「怨望」によるネチネチした足のひっぱりあいや傷の舐めあいは少ないイメージがあるけれど(「私は成功者にしか興味ありません、ルーザーはあっち行ってください」ときっぱりいえるようなイメージね)。

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12月09日(金)

起床時刻:09時45分

つかだみちこさんの編纂による、シンボルスカ詩集だけど、トシとってからの詩のほうが断然好きだな。
だいたいそうだけど、若いうちは、カッコつけが激しいから、そして晦渋=カッコいいと思っているから、意味ありげで難解そうな、カッコいい台詞を長々と綴る傾向にある。

シンボルスカさんだって、1957年の『雪男への呼びかけ』に入っている
「世界についての考察 
世界についての考察 第二版
第二版 改訂版」は

「このずっとむかしの予感は
即興の林で
とつぜん現実の言葉となる!
フクロウの叙事詩!
針鼠の警句は
なにもない ただ 眠るのみと
我々が確信するときだけ有効となる!」

とか書いてあるけど、よくわからん。
なんか興奮しているのはわかるんだけど、「!」マークも、どこが「!」なん?と思っちゃう。

そこいくと、最新作(2000年以降?)は平明だねぇ。

「老いについての考察」なんて

「だれかがわたしに変わりはないかと訊ねてくれる
 時
わたしは ”元気ですよ ありがとう!”
失礼のないように答える
だけど本当は通風(ママ)持ちで そればかりか
喘息もあるし 心臓もわるいので
脈は途切れ途切れ
ハーハー言いながら話す
それにコレステロールは悪玉ときているし
だけどこの年にしてはまあまあ達者な方だ
 杖なしにはもう歩くことはできないし
 いつも一番楽な道を選んでいるとはいえ
 夜は不眠症に悩まされる
 しかし朝になれば……また元気が戻ってくる
 時々眩暈がするし 物忘れもひどい
 でもこの年にしては達者な方だ!」

と始まる。こっちの「!」はよくわかる「!」だね。
(通風は痛風だろう。つかだみちこさんの訳と解説はすばらしいけど、タイプミスみたいな間違いが多い)

で、
「つまり人生老いと無気力が訪れるようになったら
骨の痛みと共生することが肝心
そしてだれにもじぶんの老衰のことなんかいわないこと
歯をくいしばって自分の運命に甘んじるがいい
このもろもろの病のために退屈する暇などないのだから!」

と教えていただける。
よーくわかる。
わからないところが一箇所もない。
トイレにかけておきたいくらいである。

これで終わりかと思いきやまだアドバイスがあって
「 これから年をとっていくひとへのアドバイスとしては
  歯をくいしばり 人生をあざ笑うがよい!」
ということであった。

ノーベル文学賞受賞者のありがたきアドバイスでありますぞ。
でもさ、なかなか難しいね、歯をくいしばってがんばりつつ、あざ笑うというのはね。
人生をマラソンにたとえるとさ、マラソンをあざ笑いつつ、がんばって完走できるか?という問題ね。やっぱり、あざ笑う人は歯をくいしばらないし、歯をくいしばるひとはあざ笑わないんだもんね。
ま、シンボルスカさん的には「がんばりつつも、がんばりを相対化する客観性が必要」という意味だろうけどね。

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12月08日(木)

起床時刻:08時10分

本って場所とるよね。「高齢者はiPadでなら3倍も速く読める!」らしいから、本当は電子書籍にしたほうが場所とらなくていいんだけどね。まぁ私は高齢者じゃないんだけどさ。
http://wired.jp/2011/10/28/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B5%90%E6%9E%9C%EF%BC%9A%E9%AB%98%E9%BD%A2%E8%80%85%E3%81%AFipad%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%82%893%E5%80%8D%E3%82%82%E9%80%9F%E3%81%8F%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%EF%BC%81/

でも本を並べる楽しみってあるよね。コレクターアイテム的な。

ま、実にどうでもいい話であるけれど。

話は変わって、仕事していて思うのは、間違える人、ミスをする人は最悪だということだね。
私もよくミスをするけれど、世の中、いっぱいそういう人がいるんだよね。
クライアントにもそういう人がいて、そういう人のミスの尻拭いは業者(つまり私ら)がやるんだよね。
「人に迷惑をかけるな」とは子供の頃から言われて育つけど、ミスをすると確実に人に迷惑をかけるからね。周りが残業してフォローすることになる。

教育なんてさー、前も書いたような気がするが、小豆の数を早く正確に数える訓練でもしときゃあいいのよ。だって、小学校卒業生の4割くらいは非正規雇用になるわけでしょ。そういう人に望まれるのは「自分の意見を理路整然と主張すること」でも「ユニークな創造性を発揮すること」でもなく、「言われたことを間違えずに淡々とやること」のただ一点だからね。

世の中には「機械を動かす人」と「機械のように動かされる人」がいる。
みんな「機械を動かす人」を目指す教育を受けるわけだ。
だけれど、能力その他によって、機械を動かす地位につけなければ、機械になるしかない。でも機械たる訓練は受けていないから、ただでさえポンコツの機械なのにさらなるポンコツになって登場するわけだ。

まぁでも、将来は機械たる人たちを動かす人も「ポンコツのコンピューター」になり、基本的に人類みなポンコツになるだろうけどね。

私たちの未来は私たちを必要としていない。
レイ・カーツワイルによれば「2020年には1台のコンピュータがひとりの人間の知性を凌駕する。そして、2045年には人間の知能の10億倍の能力をもった人工知能が登場し、人類とテクノロジーの関係が「特異点(人間の能力が根底から覆り変容するとき)」に達するという」(こどものもうそうblogより)。http://blog.lv99.com/?eid=1022356
そういった優れた人工知能であれば、自らをコントロールし修復し、自らの複製をつくることも可能になり、人間の出る幕はなくなるだろう。
劣化機械と劣化コンピューターである我々老兵は去るのみ、となるであろうか。トンビが鷹を産んだということになるのだろうか。

もしコンピューターの支配が堯舜の治のような鼓腹撃壌状態をもたらすのであれば、私は大歓迎だ。ポンコツ人間に支配されるよりずっとマシだ。そのようなユートピア状態(人によってはディストピアかもしれない。ポンコツであっても人の上にたちたい人は確実にいるからだ)がくるのだろうか。

しかし、そういったスーパー人工知能の産みの親はポンコツの人間(人間の中の最上等ではあるだろうけれど)であるから、やはり、かえるの子はかえる、ということになりはしないだろうか。そういや、『原発のウソ』の中で小出さんは1955年の東京新聞の記事を引用している。それによれば原発は夢の電力で「電気料金は2000分の一になる」と書いてあるんだけど、予想は大はずれだったのは我々が知っている。社会主義や共産主義の世界の大失敗のコンコンチキだったのも我々は知っている。人間が考えた時点で終了なんだろうな。スーパー人工知能が何十世代か進歩して、ポンコツ原人であった産みの親たる人間の痕跡が薄れてくれば、あるいは突然変異をおこして全く新しいものに変われば、うまくいくんだろうか。

って、全然違う話になっちゃったけど。

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12月07日(水)

起床時刻:08時20分

たま~に、ものみの塔の人がぴんぽーんってやってきて、『めざめよ!』をポストに入れていくんだけど(絶対にぴんぽんならすんだよね。あれはなんだろうね。やさしそうなおばさまなんだけどね。うちの旦那寝てるんだけどね)、今回は災害についての話だった。
アドバイスとしては、「災害のおこりそうなところに住むな」というのがイチバン最初に書いてあって、意外とプラクティカルなんだね。むしろ「主の山に備えあり」みたいな感じで、神さまを信じていれば、どこに住んでもオッケーっていうのかなと思っていたんだけどさ。
まぁそれはともかく、「めざめよ!」のアドバイスに従うなら日本に住んじゃダメだよね。日本の歴史は地震の歴史っつーぐらいの地震列島なんだからさ。アメリカの東海岸かフランスとかに移住しなきゃダメだよね。
あと地球温暖化とかの環境破壊がすすんでいることについて、国連の資料を引用して書かれていたんだけど、出典がないのね。聖書の引用については、細かすぎるくらい細かく出典を明記しているのにね。不思議。

『絵本を読んでみる』で、五味太郎が「つくづく絵本はガキにはもったいないと思う。これは理屈なし」と言っていたので、絵本を読んでみることにした。『ルピナスさん』というかわいい絵本。
これね、ルピナスさんという女性が「世界のあちこちを旅行してまわった後に、腰を痛めたので旅行はやめにして、海の見える丘の上の一軒家に住むことにした。腰がよくなって元気になったら「世界を美しくしよう」と思って、花の種をあちこちにまいて、きれいなお花を咲かせましたとさ」というお話なんだけど、ルピナスさんの仕事って「まちの図書館づとめ」なんだよね。ルピナスさんはちなみに独身ね。

図書館で働くのって、すごい時給安いんだよね。官製ワープアの一角を担っていると思うんだけど、この人、世界中を旅してんの。どこにそんな金があるん?まぁかな~り昔の話だから、ドルがむちゃくちゃ強かったんだろうけど、それだけじゃなくて、女だてらに、海のみえる丘の上に家まで建ててるんだよね。家っつっても、「わ~れは海の子し~らなみの~」の海の子んちのような、「煙たなびく苫屋」じゃなくて、煙は煙でも暖炉の煙みたいな、小さいけれどおしゃれな一軒家だ。
よく住宅ローンおりたな。おじいさんの遺産?でも、おじいさんって船の船首にくっついている彫刻をつくる、みたいなマニアックな仕事だったんだよね。あれつくるのって、そんな儲かるのかな?

せっかく童心にかえって絵本を読んでみたのに、俗塵にまみれた大人が読むと、こんなことになる!いかんね!!

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12月06日(火)

起床時刻:08時25分

『Twitter』のつぶやきから気分のパターンを分析すると、世界中の人々の気分がどのように一斉に上下するのかを文明規模で把握できる、という研究成果が発表された。
ゴールダー氏らは、文章中の感情的な内容が書かれた部分の数をカウントできるテキスト分析プログラム『Linguistic Inquiry and Word Count』を使用して、84カ国にまたがる2,400万人が発した過去2年間のつぶやき計5億900万件を分析した。
結果として、世界中で一定の傾向が見られた。例えば、肯定的な感情は朝がピークで、仕事時間中に徐々に低下し、1日の終わりにはまた上昇する。否定的な感情は平日の間に蓄積されるものの、週末にはかなり低下する。
(「Twitterで「世界全体の気分」を分析」wiredより)
http://wired.jp/2011/09/30/twitter%E3%81%A7%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%85%A8%E4%BD%93%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%88%86%E3%80%8D%E3%82%92%E5%88%86%E6%9E%90/

私なんか常に「否定的な感情」ばっかなんすけど。

まぁそれはともかく、「肯定的な感情は朝がピーク」なんだと。
「あったらし~い朝がきた、希望~の朝だ~♪よろこーびに胸をひ~らけ、大空あおげ~♪」(@ラジオ体操)な気分ではじまるわけだ。
(だから朝は、私みたいな人には近寄らんほうがいいと思う。自分でいうのもなんだけど)

時間がたつにつれ、朝の希望がうちくだかれ、よろこびは胸から去り、むしろ悲しみに満ち、大空を仰ぎ見ることもなく、地面をみつめる、ようになるのだな。それが人の一日である。一日の終わりにまた上昇するのは救いではあるな。「さ~、一杯やっべか!熱燗で!(↑↑)」みたいな感じだろうか?

人の一生もこんなものかもしれんね。
希望に満ち満ちていた子供時代、よろこびいっぱいで、ただ空を眺めているのでも飽きなかった子供時代を経て、働くようになり、挫折し、じっと手を見るようになる青年・中年期、そして引退して楽隠居ともなれば「たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食て火にあたる時」の『独楽吟』みたいな、あるいは「小確幸」(小さな、確実なる、幸せ)みたいなものに満たされるみたいな感じなんだろうかね。

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12月05日(月)

起床時刻:09時50分

あー、激しく昼寝をしてしまった。
昼寝というより、もうひとつの睡眠だね。
15分の昼寝は生産性をあげるというけれど、15分の昼寝なんてできた試しがない。全然ゼロか、3時間コースか、どっちかだもん。
この場合、どっちのケースでも生産性はあがんないんだ。私が証明できる。

コーヒーが切れていたのがよくなかった。
毎日、コーヒーを数杯飲む。ブラックだと胃が痛くなるので、牛乳をたっぷり入れるので、コーヒーを4杯飲んでも実質2杯は牛乳である(何のいいわけ)。

ものの本によると、午後三時以降はコーヒーは控えたほうがいい、カフェインのせいで眠りにつきにくくなるとあったけど、午後三時以降に眠くなったときはどうすんじゃい。ていうか、だいたい午後三時以降に眠くなるものじゃないのかね。つまりコーヒーの出番はそこにある。

シンボルスカ詩集(つかだみちこ編・訳/土曜日術社出版販売/1999.12)の中から「履歴書書き」の一部。

「経歴や生きてきた長さには関係なく
履歴書は短くなくてはならない
簡潔さがもとめられ 事実の選択をすべきだ
ただ景色の変化を住所に置き換え
揺れ動く思い出をば 動かぬ日付へと変える
愛の遍歴も結婚で止めを刺し
そして子供も産まれたものだけがそのすべて

重要なことは お前が誰を知っているか ということより
誰がお前を知っているか ということ
旅行はただ外国旅行を記すのみ
何の組織に所属しているか ということ
しかし 何故かという必要はない
何のためか ということ抜きの栄典

自分自身と話し合わなかったように書け
そして絶対に会いたくない自分にはぶつからないようにして

犬 猫 鳥たちのこと
思い出や親友や夢の切れはしは黙って見過ごし

事物の価値というよりは むしろ値段
そして内容よりは題名」

ポーランドじゃあ、履歴書に外国旅行のこと書くの?まじで?
まぁでもそれも、あれだよね、なんか「サバティカルでケンブリッジに」とかそういうことだよね?観光じゃないよね?「マーライオンをみてきました」とかそういうことじゃないよね?

まぁそれはともかく、昨日の「今日の気分」に今日書いたように、人間性以外の全てのものが評価の対象であり、求められているものの全てなんだよね。
人生において、人間性、あるいは「絶対に会いたくない自分」「犬 猫 鳥たちのこと」「思い出や親友や夢の切れはし」などの役にたたないアレやコレやは、ブログにでも書いてろって話なんだよね。知ってた。

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12月04日

起床時刻:13時45分

『絵本をよんでみる』(五味太郎/小野明 平凡社ライブラリー)からしつこく引用。

「頑張れとか我慢しろとか、あるいは忍耐努力なんてことをすぐ口にしてしまう人というのは、人間という生き物そのものが、己も含めて嫌いなんじゃなかろうかと思うよ。つまり耐久力とか、持続力といったものはむしろ、機械道具になじむ言葉であって、生き物という存在は元来そういったものではないんではないかという考えが俺にある。つまり頑張ったり、我慢したりしないのがまさに人間でさ。それを捨てて機械みたいになれって言うわけだろ、頑張れとか我慢しろっていうことは。違うかな」(P342)

違わないと思う。機械のような人間が理想なんだと思う。そもそも世の中がちゃんと動くのは機械化した人間たちのおかげだと思う。少なくとも絵本作家のおかげではない。

世の中の仕事というのは、大半が「間違っちゃいけない」「ミスしてはいけない」仕事なんだよ。間違った情報を描いたとしても(例えばピンク色のワニとか)、「想像力豊かですね」というふうに受け止められる絵本作家のような仕事はこの世にほとんど存在しない。

JR福知山線の事故も「遅れちゃいけない」というプレッシャーがあったそうじゃない。「遅れちゃいけない」「時間どおりに運行しなくちゃいけない」なんていう要請には人間性はかけらもない(遅れるのがむしろ人間性だろう)。
しかし、そんな人間性は全く不要、いらないものなのだ。五味さんだってそうだろう。至急の要件で出かけているときに電車が遅れたらイライラするだろうに。「ああ、人間だなぁ」とのんびり思うだろうか。

人生というのは仕事が大部分で、その大部分では人間性などというのは自分の足をひっぱる不要のものだ。
機械のごとく生きる。
間違えないように生きる。
ミスをしないように生きる。
そんな人生、楽しいわけがない。だから頑張って生きる。歯を食いしばって生きる。
五味さんはそうじゃないから、「何やってんの?ばっかみたい」と思うかもしれないが、五味さんと違って、才能のない人間、能力のない、運のない人間が確実にいる。

そうなんだよな、なんか五味さんと小野さんの対談を読んでいて思うのはマリー・アントワネットが「パンがないならブリオッシュを食べればw」と言ったとか言わなかったとかいう話。特権階級の特権意識の話なんだよね。

例えば五味さんは「読みきかせってすごく嫌いでさ。何が嫌いって、「きかせ」ってとこが嫌いなの」と言っているが、そういう発言にイライラする。いや、わかるんだよ?絵本を読むというのは本来娯楽だから、ただ読むだけでいいのに、教えてやるみたいな指導精神が入っている「押し付けがましさ」が嫌いなんでしょ?意図は全部わかるんだけど、それでも、特権階級がなにいってやがんだ、と思うんだよね。「「読みきかせ」階級がいるからお前はおまんま食えてんだよ」と思うね。

なんていうのかなぁ、五味さん的には「子どもの個性を大事にする」みたいな言い方は嫌いなんだろうけど(陳腐すぎるから)、でもそういうことなんだよね。

「『個』が育ちませんように…とほとんど無意識に願っているやつが、けっこういるね」
「お酒を飲んでも平気な子どももいるんだね。ちょっとのむと、すぐ眠たくなってしまう、ぼくみたいな大人もいる。これ、まさに体質ってやつでさ。『個を認める』なんて抽象的に言うまえに、『個人の体質を認める』と具体的に言ってみたらどうだろう」

そんなん認めたら、世の中ニートだらけ、引きこもりだらけになるで。
「個人の体質」的には世の中あってない人ほとんどだもん。
本質的にみんなどこか適応障害なんだよね。それを頑張って、忍耐して、努力して、「個」を押しつぶして、世の中に適応させているんだよね。

『個人の体質を認める』とどういうことになるかといえば、「この人はパニックになりやすい人だから、無理をさせてはいけません、まずは会社にくる練習からはじめましょう」といわれる人がいる一方で、「アータは大丈夫だから」と横の人の分の仕事も含めた二人分を任される人が出てくるわけだ(しかも給料一人分で)。

私も「個人の体質」というのは確実にあると思うけど、「みんな違って、みんないい」とは思わない。「みんな違って、それぞれに序列がある」と思っている。そして自分の体質を省みず、序列のトップを目指してしのぎを削るのが競争社会であり、自分の体質を優先させて「頑張らない」で、みんなで下のほうでダンゴになってましょうね、というのが「ゆとり社会」だと思う。

しかし、この「ゆとり」を支えているのは競争社会を生きている人たちなのだ。困ったことに体質的に競争社会があっている人は実は少ない。
もし体質にあっていれば、過酷な営業のノルマでも成果主義のディーラー職でも「毎日、刺激を受けて楽しいです」と思えてハッピーなんだけどね。そういう人は他人がゴロゴロ、グータラしていても、軽蔑はするかもしれないが激怒することはない。自分は楽しんでいるからね。

しかし、たいていの人は凡庸な自分の体質にムチうって、無理して頑張っているのだ。忍耐努力で克己勉励しているのだ。
だから「頑張らないもん」「あるがままの自分でいいんだもん」「自分を受けいれて自分を愛しているんだもん」みたいな寝言を聞くと、カチーンとくるのだろう。ずるい!!という感覚ね。
ただのごくつぶしが!!何があるがままの自分がいいだ!!お前なんかただのクズだ、誰が養ってやっているんだ!!とうらみつらみが爆発するんだ。

頑張らなくていい、忍耐しなくていい、努力しなくていい、あるがままの人間性を大事にして生きればいいってなったら、まぁ未だに東北は全く復興していなかったでしょうね。「誰かやってくれるよね」とばかりに、避難所でゴロゴロしていたでしょう(私はそのタイプなんですが)。暑いときは何もしたくないし、寒いときも何もしたくないですもん。
そういう人ばかりの国を五味さんは望んでいるんでしょうかねぇ?私みたいなモノグサばかりの国を。

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12月03日

起床時刻:10時15分

昨日も引用した『絵本を読んでみる』(五味太郎/小野明)いい本だけど、これやっぱりあれだね、男子の好む絵本だね。

『キスなんてだいきらい』(トミー・ウンゲラー)とかね。
解説を読んだけれど、この『キスなんて大嫌い』は主人公の男の子ネコがハード・ボイルドすぎてついていけない。

五味はこの絵本でウンゲラーは「いたずらの総括」をやろうとしているという。「いたずらは思想である」というぐらいの確固たるものを感じるという。

「いたずら」ってすぐれて男子的だよね。しかも基本、何歳になっても「いたずら」が好き。
他愛のない「いたずら」をやって、ゲラゲラ笑っているのはたいてい男ですね。調べたことはないけれど、「ぴんぽんダッシュ」をやる子供ってほぼ男の子なんじゃないか。

私はいたずらに全く興味がない。
優等生ぶっているのではなく、本当に、まったく、興味がない。

それよりも、おままごとや人形で遊ぶのが面白かった。これまた、男子は何が楽しいのかさっぱりわからないことだと思うけれど。

このように男子の好きな絵本と女子な好きな絵本は違うと思う。
(もちろん、共通する本も多いとは思うけれど)

次に『かいじゅうたちのいるところ』(モーリス・センダック)も興味ない。これも乱暴者、粗野な男の子が主人公で、それでよくお母さんに叱られているような男の子にはぐっとくる話しだろうと思うが、私は乱暴で粗野な男の子が大嫌いだから、主人公がもう嫌いなんだよね。

私の人生にあなた(主人公の男の子)は登場しなくていいって思うから、読む気しないんだ。この子のかかえているうっぷんみたいのは、まぁ、大人になればわからんこともないのだけど。

『どんどん どんどん』(片山健)も、確かに迫力のある絵で、美術的にもすばらしいかんじはするけれど、かわいくないのでもうダメ。
眉毛の太いパンツいっちょの男の子(フリーダ・カーロの幼少期のようなw)が表紙なんだけど、全然興味ない。

私はやっぱり「カロリーヌ」シリーズが大好きだな。
これはもう女の子好みの絵本じゃないかなぁって思うんだよね。
かわいい女の子と犬やネコたちがあちこち旅をする。

もっとも「解釈してね」と残されている余白みたいのはあまりないと思うから、通好みじゃないかもしれないけれど、私は絵でも、いかにも「深遠」で「意味ありげ」で「解釈の余地」がいっぱいある風なのは好きじゃない。上村松園のようなきれいな絵が好き。衣装がきれいに丁寧に描いてある絵が好き。やっぱりきれいでかわいいのがイチバンと思いますね。

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12月02日(金)

起床時刻:09時50分

「絵本の魅力を子どもたちに教えたい。絵本は情操教育に欠かせないものだ」などという人に限って、魅力的だったり、情操豊かだったりすることが稀である。

って私が言ったんじゃないよ!
五味太郎だよ!
ひっどいわねぇ、失礼しちゃうわねぇ。
そういうアンタはなんなのよ、といったら、絵本作家、しかも日本絵本界の大重鎮。言わば「豊かな情操」とか「純真な心」とか「子供のころを覚えている数少ない大人」とか「大切なものは目に見えないんだよ」とか「砂漠が美しく見えるのは、そのどこかに井戸を隠しているからなんだよ」とかの総元締めなんだから、ねっ。ひかえおろう。

上は『絵本をよんでみる』(平凡社ライブラリー 五味太郎/小野明)からの引用です。

まぁ私はそもそも絵本なんか好きじゃないんだが、この二人の喋り(五味太郎が基本くっちゃべって、小野明があいの手入れたり、補足を入れたりしてる)は面白い。

さすがは『みんなうんち』という絵本を描く人だけあるな。思うんだけど、『みんなうんち』は『星の王子様』を超えているんじゃないか。「大切なものは目に見えない」かどうかについては異論があると思うが(「40過ぎたら自分の顔に責任を持て」というじゃないか)、みんなうんちをすることについては誰も異論はなかろう。真実って強いんだよね。

話を戻すと「ふたりは、ともだち」(アーノルド・ローベル)についての喋りも面白かったね。

五味さんてば、この「がまくん」と「かえるくん」の友情って単なる「なかよしごっこ」じゃないの?気持ち悪いって言っているんだけど(この絵本自体は褒めています。この話が教科書に載っていることにひいている)、確かにそういう気がする。

「おてがみ」は、一通も手紙がこないのに、ひたすら、郵便受けの前で待っているがまくんと、それを見て気の毒に思った友達のかえるくんが、手紙を書いてがまくんに出してあげるという話(かたつむりに託し、4日のちに配達されることになる)。
ここまではいいんだけど、かえるくんはがまくんちにいって、これこれこういう手紙を君に出したよ、一緒に手紙がくるのをまとうっていうんだけど、ここが意味わかんなすぎるwww。これはなんだろう?同情?それとも「ありがとう」って言われたいの?こんな友情でも彩りとして人生に必要なわけ?いい思い出になるんだろうか?かえるくんにはなりそうだね。いいことをした!っていうね。
がまくん的には(私は100%がまくんタイプだ)、「微妙www」だろう。

この絵本の「読解」では、最後に教科書風に「演習」が書いてある(しゃれっけだろう)。

その五番目に「教室で隣に座っている人に手紙を書いてみましょう」というのがあって、小野さんが「隣の人が嫌いな場合はどうするんですか?」と茶々を入れる。
そしたら五味さん、「『ぼくは君が嫌いです。こっちに寄らないでください』と書けばよいでしょう。それでもおもしろいですね」だって。

おいおいおい、あんた、それマスコミに「トンデモ教師」つって取り上げられるよ。言われた子は傷つくだろうよ。

だいたいさ、制御のない子供が「ぼくは君が嫌いです。こっちに寄らないでください」で終わるとおもってんの?「きたねーんだよ、近寄るな、ばい菌、氏ね」という手紙になるよ、きっと。それでも面白いんかねぇ?

嫌われ者(往々にして苛められっ子)というのは確実に存在するけれど、嫌なやつに対しても礼儀は尽くすべきなんだよ。
仲良くする必要はないと私は思っている。嫌いなやつは嫌いだもんね。
だけれども、どんなに嫌いな相手でも挨拶はしろ、悪口を言うならこそっと陰口をいえ、とかそういうことは守らないといけない。
(陰口って評判悪いけど、「ばい菌、きもい」と面とむかって言われるケースと陰で「ばい菌、きもい」と言われるケースだったら、このようなことを言われがちな子供が、どちらのケースがいいか選択できるとするならば、大多数が後者をより望ましいと思うだろう。だって面と向かって言われたらリアクションとらなきゃいけないし、それがめんどくせーんだよね)

私が小学校の頃、短冊に「〇〇(←クラスで(理不尽に)嫌われていた子)が早く転校していなくなりますように」っていう願い事を書いた人がいて、大問題になったことがあった。「それでもおもしろいですね」と先生は思わなかったわけだ。そりゃあ、そうだ。短冊を書いた人はおもしろいかもしれんが、言われた子は傷つく。面白くない。

だからねぇ、五味さん、わかってないんだよ。
嫌いな人、あるいはキョーミない人とつきあうために、礼儀っつーもんがあるんだよ。
あんたのこと嫌いだし、キョーミないけど、何か書かなきゃっていうときに、「拝啓 皆様におかれてはますますご清祥のこととお慶び申し上げます」みたいなことを書くんだよ。子供だったら、横の席の子が嫌いだったら、季節の話、天気の話、を書いて最後に〆の文章を書くって指導すればいいじゃんよぉ。

五味さんはワープロで「謹啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます」とか書かれた手紙がくると「おい、いったい何やってるんだよ、しっかりしろよ」と思うらしいんだけど、しっかりしろよ、はあんたのほうだよ。

「あんたが嫌いです」と言うかわりに、虚礼をつくす。
これが社会の潤滑油ってやつなんだよ。「あんたが嫌いです」といわれて面白い人はいないでしょうに。

絵本作家と私の感覚はやっぱり違うなぁ。

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12月01日(木)

起床時刻:08時15分

ここ数年、広告宣伝トラックというか広告宣伝カーというか、黒塗りの車体に広告を貼り付けて、大音量で音楽を流しながら道路をぐるぐる回る、という手法がはやっているね。

人が迷惑しようが、辟易しようが「私を見て!私を買って!私を利用して!!」というメッセージを厚顔無恥に発し続けることには、私としては敵意しか感じないのだが。あれで宣伝になるのかなぁ。悪名のほうが無名よりましってやつなのかなぁ。

音楽とノイズの違いって何だろう?勤めている会社から帰る途中、必ず広告宣伝カーと行き違うのだが、ファンにとっては最高の音楽も私にはただのノイズにしか聴こえない。電車の中で名曲を聴いている人のイヤフォンやヘッドフォンからこぼれるシャカシャカ音がノイズでしかないように(そういや最近、イヤフォンが進化したのがシャカシャカ音をあまり聴かないような)。

音楽じゃなくて情報(広告)を大音量で伝えるものもある。
しかし、世の中にあれほどの大音量で繰り返し伝えるほど重要なことっていうのは、それこそ「宇宙人が攻めてきた」とかくらいであって、それ以外には何もないと思うのだが。

ま、「金が一番大事である」というメッセージはしっかり受け取ってますけどね。「他人の迷惑」とか「公共の利益」とか「静かな環境」とか、そういうものは基本どーでもいいんだよ!っていうメッセージね。
私は人間というものは放っておくと、下品で汚らしく自分勝手で図々しい金の亡者になると思っているけれど、広告というのはいい証左だな。

音というのは暴力的なものだ。傍若無人に勝手にずかずか入ってくる。目には瞼があるのに、なんで耳には耳蓋がないんだろうね?

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