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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:10:34

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01月31日(火)

起床時刻:不明

ロングからショートに髪型を変えた。これでドライヤーの時間と電気代を節約できる。頭が軽いなー。でもオバチャン感が半端ないんですけど。

今までの髪型だと「一見若そうだが、よく見たらオバチャンだった」んだけど、今の髪型だと「一見してすぐわかるオバチャン、遠くからみてもすぐわかるオバチャン」、ザ・オバチャンの髪型になった。

会社に行ったら隣りの席のおっちゃんが心優しく褒めてくれたが、石鹸で髪を洗っているような無頼派に言われても嬉しくはない。と書いたけど、それは嘘で、やっぱり嬉しい。髪型を変えたときは不安になるもんだからな。とりわけ、あからさまに髪型が変わっているのに、みんなが何も触れないととてつもなく不安になるからな。

隣の席のおっちゃんは一個いいことをしたから、地獄におちても蜘蛛の糸ならぬ髪の糸がきっと天国から降りてくるだろう。

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01月30日(月)

起床時刻:不明

この日は確か早起き生活につながりにくかったような。
あさイチごはんに橋本さんっていう日本料理店のご主人が出て「大根と鶏の吉野煮」を紹介していたんだけど、これつくったらすっごく美味しい。
材料はとってもシンプル。

大根をまず米のとぎ汁で煮て、ゆで汁につけたままさます(あんまり煮すぎちゃだめ。また煮るから)。ここまでは通常やることだけど、さめたら、水で洗って、今度は水から煮る。これがプロのひと手間やね。

作り方はこちらで。
http://www.nhk.or.jp/asaichi/2012/01/30/03.html
私は菜の花じゃなくてゆでたほうれん草をあわせたけどおいしかったー。
鶏もも肉は小さめに切った。薄くなるように開いて筋切りしておく。塩は少々きつめにふってもいいかもしれない。片栗粉のおかげでやわらか~い。お汁のとろみもちょうどいい感じ。
またすぐに同じのつくって出したら嫌がられるかなぁ。

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01月29日

起床時刻:12時00分

昨日は12時間ぐらいゲーム。

昨日の「今日の気分」で触れた『アフターダーク』(村上春樹)のハワイの三兄弟の神話の教訓二つ目について。

ちなみに内容を完全に忘れていたのでほんの数ページだけ読みかえしてみたけど、スカシ具合にサブいぼがたってしまった。

お前はノンスタ井上かっ(ちなみにノンスタの漫才は大好きです)。

「ここではチキンサラダしか食べない。決まってるんだ。僕に言わせてもらえれば、デニーズで食べる価値があるのはチキンサラダくらいだよ。
メニューにあるものはおおかた試してみたけどさ。君はここでチキンサラダ食べたことある?」
マリは首を振る。
「悪くないよ。チキンサラダと、かりかりに焼いたトースト。デニーズではそれしか食べない」(P12)

文の最後に「(キリッ」てつけざるをえないな、このいきり具合。

マリが外食産業のチキンは抗生物質やらホルモン剤やらを投与され、工場で首を折られ機械で羽をむしられるから食べないというと、「「わお!」と彼は言う。そして微笑む。微笑むと目尻のしわが深くなる。「ジョージ・オーウェル風チキン・サラダ」」

石田くーん、なにかきっつい一言をこのチキンサラダ男(おそらく外見は中の下)に言ってやって!

いやぁすごいな。
ストーリーも登場人物も、きれいさっぱり完全に、全部を忘れているんだけど(援助交際の話だっけ?)、身悶えして読めないよ。
昔は村上春樹が大好きだったんだけどな。その割に話はなんにも覚えてないがw。

話がずれたけど、ハワイの三兄弟の神話の教訓二つ目、「知的好奇心を満たすにはそれ相応の代償を支払わなければならない」というのは、なかなか興味深いテーマだ。ナンパの口実としては「勝手にやってろ!」だけどさ。

ハワイの神話でいえば、もしこれで長男に妻子がいたらどうなるのだろう?
長男の知的好奇心を満たすために妻子も山の頂上に向かうことになり、飢えて疲れて、ヨタヨタのヘロヘロになってしまったとする。
「お父さん、もうここらへんでいいじゃないですか」と妻が言っても夫は「いやいや!まだまだ!てっぺんを目指すぞぉ!」と張り切る。
しまいには、子どもともども栄養失調になる。
お母さんの臨終の言葉は「次男か三男と結婚しとけばよかった」であろう。
知的好奇心を満たすために他人を犠牲にすることは許されるのか?

神話の世界から現実の世界に目を転じてみれば、例えば「東電OL殺人事件」に関するジャーナリズムやルポ、それをモデルにした小説群は、知的好奇心を満たすものだろうけれど、被害者の心の闇(知的好奇心を満たすような「秘密」はたいてい人に隠しておきたいものであろう)を暴くことで、遺族や友人たちはすごく傷つくのではなかろうか?
知的好奇心を満たすために人を傷つけることは許されるのだろうか?

あるいは悪。真実といってもいいかもしれない。
人間は残酷で極悪非道で、私たちは暴力に満ちた世界に生きているのだが、それを描写することが果たしていいこと(善)なのだろうか。
たとえネガティブな気分になるとしても、真実は知らなければならないという。
しかし、ネガティブな気分になることで、何か善なるものがもたらされることがあるのだろうか?
それにそもそも、わざわざ色々と暴き立てなくても、悪はこの世のありとあらゆるところにあまねく存在する。

これは『エリザベス・コステロ』(J.M.クッツェー)の「悪の問題」に通じることだ。
ポール・ウェストの『シュタウフェンベルク伯爵』(ヒトラー暗殺を企てた人たちがいかに残虐非道に処刑されたかを書いている)のストーリーテリングは霊鬼(ジン)の入った瓶に似ているという。「作家がその瓶を開けたとたん、ジンがこの世に放たれ、また押し戻すにはとんでもない思いをすることになる。
ではここで彼女はどういう立場をとるか。修正を重ねた立場、人生の黄昏における立場であるが、それはジンはたいがい瓶から出さずにおくべし、というものだ」
(誰がうまいこと言えとw。この本の面白さはなんといっても意地悪ばーさんのユーモアセンスなのだ)

もちろん、こんな保守反動的というか権威主義的というか、言論弾圧といってもいいほどの乱暴な議論については反論は予想できるし、むしろ反論のほうが理性では100%正しいと私も思う。
でも66才のコステロばーさんの言うこともよくわかる。この世界的に有名な老作家は「物語を書くか善行をなすかと選択をせまられたら、後者を選ぶだろう」という。私は作家ではないので、こうなるだろう。「知的好奇心を満たすか善行をなすかと選択をせまられたら、後者を選ぶだろう」

人を傷つけても自分の知的好奇心を満たす―こういう言い方が嫌いならば「知的に誠実に生きる」と言ってもいいが、人は結局人それぞれだから(一つ目の教訓!)、そういう人がいてもいいし、いるのは当然だ。一方で知的好奇心なんてどうでもいいと思っている人もいるし(そうは言わないだろうけれど)、世の中の善行というのは、もしかしたらそういう人たちがもたらしているのかもしれない。

とかそんなこと思ったね。

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01月28日

起床時刻:11時00分

気づいちゃった。寿命が2倍になったらさ、2倍じゃ足りなくなって、4倍必要って言い出すよね、私。

8月31日に夏休みの宿題をヒィヒィやるとき、あと1ヶ月夏休みだったらなぁって思ったけど、あと1ヶ月夏休みだったら、9月30日にヒィヒィいいながら宿題やるだけでさ、締切先延ばしにするだけだもん。

思うんだけど、30才までに何の成果も出していない人はその3倍生きてもなんの成果も出せないね。
滝廉太郎は23才で死んだ。石川啄木は26才で死んだ。シューベルトは享年31、モーツァルトは35、ゴッホやラファエロは37。

『ゾウの時間、ネズミの時間』の著者が人間は体のサイズからすると生物学的には40才ぐらいが寿命というようなことを書いていたけど、(体のサイズが大きければ大きいほど寿命は長くなる)、人間のピークは20才くらいなのかもしれない。

つまりピークの時点(=20)で何らかの形で才能を現していない人は、もうあと4倍の時間を生きたとしてもペンペン草もはえてこないね、乙!ってことになる可能性が高いんじゃないか。

「人体は20歳から、脳は40歳から老化が始まるといわれています。
脳は40歳を境に10年で5%ずつ減っていくといわれています。脳細胞の数は約1000億個ですから、10年で約50億個。1日に換算すると約136万個減ってしまうのです」
だってさ。

http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/proron/0838/proron_0838.html

老化を遅らせるには運動がいいんだって。
「週に2~3回、30分以上の運動」がいいそうな。
うつ病にも運動がいいらしいね。癌を防ぐにも運動がいいらしいね。
「運動は万病に効く」と言っていいんじゃないか。でも、運動やらないんだよねぇ。下手だからイライラしちゃうんだよねぇ。ピアノと一緒だわなぁ。

村上春樹の『羊をめぐる冒険』だっけな、こんなセリフなかった?
ギターがうまくなるにはいい耳を持ってなくちゃいけないけれど、いい耳を持っていると、自分のギターに耐えられない、みたいな。うろ覚えだけど。
村上春樹の小説で唯一記憶に残っているセリフがこれってどうなの?って思うけど。もっともハルキの小説は「ねじまき鳥」までしか読んでなくて、それ以降は読んでいないけどな。『アフターダーク』はその後だっけ?あれはひどかったな。ハワイの三兄弟の神話が心に残っているだけで。
家に本があるので、ちょっと確認してこよう。うん、内容、忘れてたw。

真ん中に高い山のある島に流れ着いた三兄弟の夢の中に神様が出てきて三人の兄弟に次のようなことを告げる。
大きな丸い岩をお前たちはみつけるだろう。岩を転がし終えたとこがお前らの住むところである。高い場所に行けば行くほど世界を遠くまで見渡すことができる。どこに行くかはお前たちの自由だ、と。
で、三男が最初に岩転がしにネをあげた。結構岩は重いし坂道を転がすのは疲れるのだ。彼はここは海のそばだから魚もとれるし、ここでいいやっていう。
次に次男がネをあげた。山の中腹だから果物もとれるから、ここでいいやっていう。
で長男が、飲まず食わずで、頑張りに頑張って山の頂上まで行った。食べ物も飲み物もなく荒涼たる山のてっぺん。だけど世界を遠くまで見渡すことができる。だから後悔しなかった。そして今でも山の頂上に岩がポツンとある、という神話。

私の感想はこうだ。私の理解では一般的に言ってアドベンチャー精神は次男以降のほうが高い(長男のほうが保守的)。だから、遠くまで冒険するのは本来なら弟たちのほうがふさわしいと思われる。
でも長男は親の期待にこたえようとする傾向にあるから、ここでは神様の期待にこたえようと頑張ったのかもしれない。
あと山を登っている途中で、ここから先は食べ物とかなさそうだと気づくはずなのに、ひたすら山を登ってしまったっていうのも、要領が悪い長男的なのかもしれない。

この神話の正しい解釈について、本(『アフターダーク』)を引用しよう。

(この話に)「教訓はたぶんふたつある。ひとつは」と彼は指を一本立てる。「人はそれぞれに違うということ。たとえ兄弟であってもね。もうひとつは」と二本目の指を立てる。「何かを本当に知りたいと思ったら、人はそれに応じた代価を支払わなくてはならないということ」

だってさ。兄弟であっても性格が違うっていうのは神話を持ち出さずとも「三匹の子豚」を読んだってわかることだが、私は生まれ順という特定の環境が性格形成に与える影響に興味がある。世界各地の神話やおとぎ話や童話の中で一定の傾向や規則性があるならば、経験則的な知見を物語製作者が持っていたのではないかと思うからだ。

この話でいえば、例えば人間の性格における「持続力」と「新奇性追求」について、生まれ順がどの程度影響するのか、という点で関心を持ったんだね。もっとも、この二つは遺伝子の影響が大きいらしいから生まれ順という環境面はそれほど大きくないのかもしれないけど(つまり今まで私が書いてきたことすべてが無意味かもしれないけどw)。
言い換えると、遺伝子が決める要素が大きければ兄が大きな代価を支払っても「何かを知ろう」としたのは、単に「新奇性追求」の遺伝子を強く持っていたってだけかもしれないし、「持続力」についての「お兄ちゃんは親の期待にこたえるべくコツコツ頑張る」っていう印象も「たまたま」そういう遺伝子を持っていたというのが正しくなってしまう。

性格や行動様式を形成する上で、バース・オーダーによる環境要因はあるのか、それとも遺伝や何か他のことで決まってしまうのか、とかそういうことに興味があるんだよね。

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親が自家製きゅうりのピクルスを送ってきたので、それをひよこ豆のサラダにいれた。
ひよこ豆は乾燥豆を一晩(今回うっかり12時間くらい水にひたしてたけど、特に問題はなしwww)かけて戻して、1時間くらい弱火でゆでる。
一応、他の豆同様、戻した水は捨てて新しい水で茹で、一度茹でこぼしもしたんだけど、そんなことしなくていいのかな?
ようわからんけど、豆はやっぱり水煮缶や水煮パックより乾燥豆を戻してゆでたほうが美味しく感じる。

ゆでたひよこ豆、きゅうりのピクルス+人参(ひよこ豆大の角切り)、あと、ツナもたっぷりいれて、マヨ+粒マスタードであえるだけの簡単サラダ。レッドオニオンを入れても絶対に美味しいと思う。

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01月27日(金)

起床時刻:09時00分

「来るべきではなかった。会議とは、意見交換の場だ。少なくとも、会議というものの背景にはそういう前提がある。自分が何を考えているのかもわからないのに、意見の交換などできるわけがない」
(『エリザベス・コステロ』P153)
ははは、ごもっとも(この本、めちゃくちゃ面白い)。

でも世の中は自分の意見を持つというのが大事であるということになっている。欧米式の「考える教育」とか「議論する技術」とかが大事だというのも、「○○だから××である」式の意見を言えるやつがグローバルに立派ということになっているからだ。

わきあがる疑問をみえないところに押しやりつつ、プラクティカルな方法、例えばプロとコンとを数え上げるという心の中の多数決で意見なるものを決することに何か意味でもあるんだろうか。

もちろん、意味はある。意見を決することができなければ、選択することができない(あるいは選択しないという消極的選択しか選択できない)。

その結果、時の流れに身を任せ~♪、あなたの色に染められ~♪るならまだしも、染めようとする人がまわりにいない可能性も高いわけで(未婚率を見よ)、放っておけば時の川をどんぶらこ、どんぶらこと快調に下っていき、あっという間に大海(あの世)に出る。

それもまた良しと言える人は悟りを開いているといえるだろう。私はやっぱりそれはそれでイヤな気がする。
「生まれた、流された、死んだ」みたいな三行で人生まとめられるのはどうなんだろう、みたいな。その結果、「生まれた、もがいた、死んだ」みたいなことになるんだろうけどもw。

思うんだけどやっぱり時間が足りない気がするね。時がたつのが早すぎるから、わけのわからんうちに人生終わっちゃうし、意見も決められないし、選択もできないわけだ。人生160年くらいでちょうどいいかもしれん。

無駄とり専門家の方が講演で「あなたがたは何歳まで生きるつもりですか。みなさんを見ているとまるで160才まで生きるかのように行動している」と言われたそうだけど「そのとおり!」と膝を打ったね(いやホントには打ってないけど)。私、160才くらいのタイム・スパンで生きようとしている気がするね。

160才で死ぬなら、私はちょうどいいペースで人生の川下りをしているかもしれんしね。80才で死ぬと思っているからもうすでにいろんなことがtoo lateになっているわけでね。「あれもしたかった」「これもしたかった」と思っても、「はい、そこ通り過ぎました。来世でチャレンジしてください」みたいな無情なことになっているわけですよ。私が悪いんじゃなくて寿命が短すぎるのが問題なんだ。

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01月26日(木)

起床時刻:08時00分

筋肉をつくる「スポーツ遺伝子」ってのがあって、それをチェックしてくれるビジネスまである。「スポーツ遺伝子」ってのは「ACTN3」とよばれるもので、速筋の動きが安定するRと持久的な体の動きを強くするXがある。RR型はパワー・スプリントタイプ、XX型は持久力型、RX型はその中間。
http://www.nikkei.com/tech/business/article/g=96958A9C93819499E3EAE2E2948DE3EAE3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;df=2;p=9694E3EAE3E0E0E2E2EBE0E4E2E2

まぁこの妥当性や正確性はともかくとしてよ、何にむいているとか何にむいていないとか最初からわかるようになれば人生効率化できるのではないか。効率化という言い方が反感を招くなら、可能性をオプティマイズできる。

この前、行動遺伝学者の本を読んでいたら遺伝子とは素材であると書いてあった。
食材と考えるとわかりやすい。例えばフォワグラとかトリュフとか持っていたとしても、環境(教育)によって、料理の仕方を指導されなければその素材を使いこなすことは一生ない。
逆に素材に「昆布と豆腐しかありませんでした」でも、適切な指導を受ければおいしい湯豆腐ができるわけだ。
それぞれが個性であり、フレンチがいいだの精進料理がいいだのと羨ましがるのは間違っている、とこの先生はおっしゃっていた。

それはそうなんだが、問題は昆布と湯豆腐しかないのにハンバーグをつくるように強制されることだ。というのもハンバーグがみんな好きだからだし、つくるのもそんなに難しくないと思われているからだ。
たいていの人はひき肉もってるよな?卵もってるよな?パン粉あるよな?玉ねぎあるよな?じゃあ、ハンバーグ、つくれ!ってなことになってる。

湯豆腐タイプが「先生、できません!」っていうと「さぼってんじゃねぇ!」と怒られるわけだ。

だから湯豆腐タイプはいじけて一生を過ごすわけだ。

そういうことを考えると、もっともっと高度になった遺伝子による適性判断キットとか出るようになれば、湯豆腐の材料でハンバーグをつくろうとか無謀なことしなくてよくなるじゃないかって思ったのね。

ま、世の中、湯豆腐よりハンバーグのほうが人気なわけだから、湯豆腐がつくれますって言ってもなかなか採用してもらえないかもしれないけどもね。

しかしなんで世の中遺伝的多様性というものがあるんだろうね。つまりなんで湯豆腐しかつくれないような人間が出てくるんだろうね。「湯豆腐とかおかずにもならんし、栄養もないし、まじでいらねーよ」みたいな中で、湯豆腐として生まれてくる意味っていうのも、なんかあるんだろうけどさ。

あるいは凶暴遺伝子みたいのがあって、連続殺人犯にはその遺伝子持っているとかいうのが発見されたら(もちろん、持っていても何も起こさない人が大多数なんだけど)、それどうしたらいいんだろうね?それも個性よ、ということになるんだろうか。

出来上がったのがサルモネラ菌入りのハンバーグでした、でもアリなんだろうか。サルモネラ菌を殺すような処置(暴力遺伝子の働きを抑制するような処置)をするべきなのだろうか。それとも、本人の自由なんだろうか。

わからんね。世の中難しいことが多くて困る。

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01月25日(水)

起床時刻:08時00分

何が無駄で何が無駄ではないのか、ということに日々関心を寄せているので、西成活裕の『無駄学』(新潮選書)を読んでみた。

(「どんな経験も無駄ではないのだ」と堂々と言えるほど私は功なり名を遂げていないし、面の皮もあつくない)

トヨタの生産方式や5S(整理、整頓、清掃、清潔、しつけ)の紹介。
主婦たるものこうでなくてなりません、と思われる内容。
思うんだが、花嫁修行はトヨタのライン工になったほうが、料理教室やらお茶やお花よりよほど効果があるんじゃなかろうか。

工場では非常に動線を大事にする。
無駄を省くために余計なステップを踏まなくちゃいけないことは全部カイゼンするのだ。
動線をわからずに片付けするから維持できなくて散らかってくるのだ。食事をつくるのだって、動線を考慮した台所用品の配置であれば早くつくれるだろう。

作りすぎの無駄を省くための工夫。
例えば材料を使いまわせる献立を前もって考えるとか、かな。これは外段取りでもありますね。

在庫スペースを減らすための工夫。在庫は少なければ少ないほどいい。収納スペースあればあるほどいいというのではない。また空きスペースがあるとつめこみたくなるのが人間だ。だからゴミを減らすにはゴミ箱を小さくしたり、数を少なくしたりするのがいい。

業務を平準化すること。大掃除より夏と冬に大掃除をばらし平準化すべきだろう。

それ以外にも5Sといわれるもの、すなわち「整理・整頓・清掃・清潔・しつけ」なんてまるまる主婦の心得そのものだ。

大野耐一(トヨタ生産方式をあみだした人)の奥さんはインタビューで「もしかしたら私が購読していた『婦人之友』という雑誌が夫のトヨタ生産方式の発案のヒントになったのではないか」と述べているけど、確かに婦人之友チックだね。

ところで世界的有名な某デザイン・コンサルティング会社の本(顧客にはアップルやらサムスンやら(サムスンの業績を急上昇させたことでも知られる)、PG、ペプシとかそうそうたる顔ぶれがある)を読んでいたら、イノベーションのバリアとなるものに「整頓」が挙げられていた。

机を片付けろとか私物を置くなとか厳しいことを要求してくる規則は要注意だってさ。柔軟な発想を妨げるんだって。

その本では、その会社のオフィススペースも紹介されていたけど(グーグル社みたいのを想像してほしい)、まぁ自由な感じで、オシャレに散らかってるっていうの?おもちゃみたいのをおいてたりしてね。5S運動とかガン無視している感じよ。

そんなとこで働ければ楽しいのかもしれんね。
そういや、調査でも「現在働いている理由」を聞いたところ、「生きがいのため」と答えた日本人は、アメリカ人75%(男性のみでは76.3%)に対して24.6%(男性のみでは22.7%)。その差50%ってどんだけさ。
ちなみに日本人は、アメリカ人より低いだけではなく、7カ国中一番低い。ドイツやスウェーデン、イギリスだけではなく、韓国よりも、フィリピンよりも低い。韓国って長時間労働の社畜仲間のはずなんだけど「生きがいを得るため」が41%もある。世界のスウェット工場って中国じゃなくて日本な気がしてきたよ。

「働きたくないでござる!絶対に働きたくないでござる!」っていう日本男児の心の叫びが聞こえてくるようだよねぇ。だから働いていない奴をみると、「自分だけズルをして!」ってキーっとなっちゃうのねぇ。そりゃあ、姑みたいな上司と昔の嫁みたいな奴隷労働じゃ、生きがいとかなんにも感じないわなぁ。知ってたよ。

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01月23日(月)

起床時刻:11時15分

まぁそもそも何がいけないかっていうと仕事がクソつまらんというのが問題なんだよね。クソつまらんだけならまだしも、とっても心の負担になる、重荷になる、ひいてはうつ病になるっていうものだから、仕事なんか誰もやりたくないわけですよ。

男女共同参画社会的のフェミニストたちは「女だって働きたいのに、男女差別や性別役割分業規範のせいで働けない」と嘆くけど、そんなに働きたいもんかね?っていうのはあるよね。
結局はどこに寄生するかの話だわね。夫に寄生するか会社に寄生するか。

企業や組織において「2対6対2の法則」っていうのがあるじゃない?つまり2割の働きアリはちゃんと働き、6割の働きアリはふつうに働き、2割の働きアリはサボる。そしてこのトップ2割の人が企業の利益の8割を稼ぎ、残りの8割の人が残り2割の利益を稼ぐということから、「8対2の法則」とも言われるんだけど、そう言う意味で、働いている方々も大方は2割の利益にしか貢献しない8割の雑魚、つまりトップ2割に寄生する寄生虫なんですよ。

もちろん私はどこに寄生するかは自由に選べる社会であるべきだと思うし、老若男女にかかわらず同一労働同一賃金だったらいいなぁとは思うけどさ。ま、無理なんだけどね。

どっちに寄生するがいいかっていうと、男の人はよくこういいますね。
「女はいいよな~」「主婦は三食昼寝つきで羨ましいよな~」と。

なんといっても主婦はmark to marketされないですからね。私なんか本来ならば、不良資産でとっくに償却されてなくちゃいけないとこですよ。
だけど、妻には手厚い保護があるおかげで(つまり離婚理由として「妻が不良資産化したから」というのは認められない)、家でぬくぬくしてられるわけですよ。
もっとも同棲なら派遣社員と同じで「契約更新ないです」といって首切られることもあるだろうけど。

あと、主婦は芸人のとこでも書いたけど、十年一日、同じスキルで食っていけるんですよ!これは素晴らしい。そうそう洗濯の仕方や料理の仕方は進歩しませんからね。洗濯を自動的にやるようにマクロを組むとかそういうのないですから。

これが会社づとめだったら、「即戦力として使える人材」とかいうのをいつでも求めているので、ロートルは去るのみなわけですよ。

あからさまに肩叩きされなくても、それとなく「○○さんって、使えないわよね」「そうそう、エクセルできますって言ってるけど、sum関数だけじゃんみたいなwww」「あれで年収○○円ですってよぉ」「うっそぉ~、信じられな~い」とかいう若い子の非難が聞こえてきて、いたたまれなくなるわけですわ。

最近は減ったけど、会社の付き合いっていうのも面倒くさいもんですな。面白くもない上司と飲みに行ったり、面白くもない顧客を接待したりして、業務時間外に太鼓持ち業務をさせられたりしてね。
妻もまぁ夫の接待みたいなのはあるけど、だいぶ気は抜いている。「手酌でやっといて」みたいなぞんざいな感じでも出禁になることもない。

とかまぁ色々考えると妻のほうがそりゃあいいわなぁって思うねぇ。
まぁその分カネはないという悲惨な部分はあるけどなw。

男が本気で主夫の座を狙いにこないのも、お金がないっていうのは大きいだろうねぇ。男はやっぱりお金とか権力とか好きだからね。

「女っていいよね」ていう人をみても、本気で主夫狙ってないなって思うこと多いのよ。まず、見かけがブサイクだったりして、そんなブサイクなので選ばれると本気で思ってるのかしら?と私は不思議に思ったりするのよね。「本気で女が羨ましいなら整形してこい、話はそれからだ」って思っちゃうのよね。せめて韓流スターぐらいには整えてこいって話ですよ。

ちなみに会社で私の横の席の男の人は肌のきれいさが自慢で「女だったらよかった」っていうんだけど、あなた肌はきれいかもしれないけど、ブスですから!残念!って思のよね。男でブスなら女になっても肌がきれいなただのブスにしかならいなわよ、それってただの山田花子じゃないの?みたいな。さすがに言わないけどなw。

とか書きつつ、私も腹が出てきたり、尻がたれたりして、見苦しいことなってるから、なんとかしないとなw。

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01月22日

起床時刻:11時45分

ゲームした。疲れた。まじで疲れた。

ほら、よく○○さんちのレシピ系の本って「大皿に盛って各自取り分けるのが我が家流」とかって書いてあるじゃん?そのデンでいえば、うちは「パソコンの前で各自ゲームしながら食べるのが我が家流」なんだよね。これじゃ、売れないわねぇ。むしろ注意されるわねぇ。

というわけで、うちは平日も週末もそれぞれ別のテーブルでご飯食べてるわけよ。ピザとったときだけ、一緒に食べるけどね。

わたしはゲームが好きではないので、ゲームをやるとすごく疲れるんだけど、私の知っている人で、うつ病だかなんだかで仕事はできないんだけど、ゲームはできるっていう人がいるわけ。それも何時間もゲームしてんのよ。それって本当にすごいなぁって思うんだよね。その気力があれば仕事もできそうなのに、仕事はできない。私はうつ病じゃないけど、そんなゲームする気力なんかないですよ。

その気力はどこから湧いてくるんだろうね?
仕事は嫌いだからやりたくないけど、自分の好きなことなら何時間でもできるんだねぇ。やっぱり好きなことをするときは人間強いんだねぇ。パワーある。

だからうつ病って言ってもパワーある人はいっぱいいる。むしろそのパワーの強さでうつっちゃうのかもしれない。ほんとはそのパワーを仕事に向けられればいいんだけど、「仕事内容がつまらん」とか「人間関係がつらい」とか「端的にむいていない」とかで仕事にはパワーを注入できないんだよね。
だからもったいないっちゃあ、もったいないんだよね。ゲームしながら発電できるとか、社会貢献できるとか、なんかできればいいんだけどね。

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01月21日

起床時刻:11時00分

金曜日は雪だった。ほんと雪とか迷惑だ。もっとも、私は仕事もなく、夕飯の材料は前日に買ってきておいたから、外に出ることもなかったんだけど。
夕飯はロールキャベツ(3時間くらい煮込んでキャベツはとろっとろ)。ここんとこ洋食多いな。昨日はハヤシライス。一昨日は牡蠣フライ。
副菜はコーンチャウダーとツナサラダ。

んでもって大量につくったロールキャベツが余ったので、土曜の昼もしつこく出すw。むかーし、某有名ロールキャベツ専門店で食べたロールキャベツより、私がつくったやつのほうが美味しいというのは言い過ぎかしらん。

土曜日は一日動画サイトを見ていた。お笑い系みてたんだけど。

All aboutの「お笑い・バラエティ番組」ガイドの広川さんによれば、「私は「お笑い芸人」という仕事が世の中で2番目に大変な職業だと思ってます」「ちなみに私が世の中で1番大変な職業だと思っているのは「お母さん」です」とのことだが、芸人以上の厳しい仕事がお母さんならそりゃ少子化するのも無理ないわなぁ。たらいを頭に落とされたり、熱湯ブロにつかるよりも大変な仕事ってそうそうないものなぁ。
http://allabout.co.jp/gm/gc/202169/2/

ていうのは冗談で、そりゃ、子どもが多くて、義理の両親と同居で、お金もなければ時間もないお母さんがたは、めちゃくちゃ大変だと思うし、確かに芸人よりも大変だろう。だからこそ、田舎の農家は嫁の来手がいないのだ。

でも、世の中、多くの人がお母さんになりたがるのは(田舎の農家のお母さんではなく、都会のサラリーマンのお母さんだが)、お母さんという仕事がそこまで過酷じゃないからではなかろうか?

広川さんは「世の中で1番大変な職業だと思っているのは「お母さん」です」と、きれいにまとめたつもりだろうけど、これは芸人に対して失礼ではなかろうか。

お母さん(都会のサラリーマンのお母さんで姑とは同居していない)と売れない芸人を比べてみよう。

まずネタづくりと献立づくりなら、絶対に献立づくりのほうが簡単だ。だって、献立づくりはマンネリでいいんだもの。むしろ男はマンネリ料理、定番料理が好きだしね。しかもネタ帳的に料理本まで出ているから、そこで簡単に人のネタ(=レシピ)をぱくれるわけだ。
でもお笑いのネタの場合、定番ネタはNGだし、いつでも新鮮味のあるネタを提供していかないといけない。つくりまわしはダメなんだ(まぁある程度大御所になると、定番ネタになるけど、だからつまらない)し、他人のをパクったら大変なことになる。

仮にお母さんがだだ滑り的にまずい料理をつくったとしても、「クソまずいんだよ!」と旦那と子どもに切れられるかもしれないが、そのあと2chにアンチスレがたつこともない。夫や子どもに罵倒されるにしても「目障り」「消えろ」とかまでは言われることもないわけで。

競争の激しさというのも忘れちゃいけない。
芸人はいつでも若い世代の突き上げをくらっている。お母さんも旦那が外で若い子に誘惑されやしないか、ドキドキしている人もいるかもしれないが、しかしお母さんの地位は法律で保障されている。旦那が若い子に鞍替えした暁には、法律上は養育費や慰謝料をとれることになっている。
一方、芸人は若い子に番組をとられても養育費や慰謝料はどこにも請求できない。それどころか「君のお笑いって、今の時代にあっていないんだよねぇ。なんていうのか、古いんだよねぇ」みたいに傷に塩をもみこむようなことをされて追い出される。

芸人はもっと大変なことがある。それは芸人は求められるスキルが変わってくるということだ。
①ネタみせ時代(←クリエイティビティや演じる力が重要)

②ひな壇時代(←空気読む力と頭の回転のよさが必要)

③MC時代(←進行をまわす段取り力とまとめ力が必要)
みたいな感じでね。

だから①のネタづくりではバツグンのセンスを見せる人がひな壇だと周囲に埋もれてしまったり、とかまぁ色々あるわけだ。

一方お母さんは、新婚のうちに培ったスキル(料理・掃除・洗濯)で一生食べていける。新しい能力は何も身につけなくていい。

ね、広川さんの言っていることは的外れすぎて、よくもまぁガイドやってるよなぁって思えてくるでしょ。私は芸人はこの世で一番大変な仕事のような気がする。

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01月20日(金)

起床時刻:08時45分

誰に頼まれたわけでもないのに、メアリ(『リスクに背を向ける日本人』のメアリー・C・ブリントン)の間違いについて長々と糾弾してきた。
なぜだろうか。
まぁムカついたからである。

何にムカついたかというと、メアリの思い込みに基づいた一面的なものの見方である。

たとえばメアリは「どうして日本人はちゃんと自分の意見を持っていないんでしょう?」と疑問を呈する。
その根拠に日本人は調査において「どちらでもない」とか「わからない」という回答をしがちだという点をあげる。
例として世界価値観調査(2005~2008年実施)の中で、「仕事が少ない場合、男性のほうが女性より先に仕事につけるようにすべきだ」という意見に「賛成」か「反対」かそれとも「どちらでもない」かをたずねたところ、「どちらでもない」という答えを選んだ人の比率は日本が55%とずば抜けて高く<略>欧米の国ではほとんど10%以下です」と言っている(P96。ちなみにアメリカは「どちらでもない」が27%なんだが、欧米に米国は入っていないのかね)。

これは私でも「どちらでもない」と回答する。

まず、その仕事は男性と女性との間に適性の差がない仕事であるかどうかが問題になる。
たとえば力仕事なら男がやったほうがいいかもしれないし、女子トイレの清掃なら女がやったほうがいいかもしれない。
男性の応募者と女性の応募者の適性あるいは能力の差が全くないとした場合は、より仕事(=金)が必要な人が優先的に仕事につけるようにすべきであり、男女は関係ない。
母子家庭で子どもを食わせていかなければならない家庭であれば、女性が優先的に仕事につくべきだし、妻子を食わせていかなければならない家庭であれば、男性が優先的に仕事につくべきだろう。

つまり正しい答えは「状況による」だと思う。
これが55%の日本人の多くが頭の中で考えたことであり、別に「ちゃんと自分の意見をもてない」からではないのだ。
「調査票が悪いんじゃ、ボケ」と私はメアリに言いたい。
いかにも誘導的でつまらない質問を入れおってからに。

それをメアリは「そうした回答の仕方に違いがあると、私のように研究のためにいろんな国の質問紙調査をする人は困ってしまいますね。こうした調査研究では「わからない」とか「どちらでもない」という回答が多すぎる質問は質の悪い質問だということで、分析からはずすようにします。<略>ともかく、こうした質問紙調査に対する回答にも、社会的なリスクを回避しようとする日本人のデフォルト戦略が表れているといえるんでしょうね」(P99-100)と言う。
いや、普通に質の悪い質問ですよね?反省すれば?って思うんだけど。

他にも例えば彼女は、日本人女性は「働くか子育てするか」という二者択一を迫られる「社会制度と規範の柔軟さが欠け」た「とても残念な状態」になっており、「女性だけではなくて、男性も含む社会全体にとって、こうした柔軟性の欠如はマイナスに働いているんです」と言う(P242)。

メアリの理解では、日本の子育て中の専業主婦は「本当は」仕事をしたいのに、社会制度や規範のせいで「泣く泣く」育児に専念していることになるんだろう。

もちろん、そういう人もいるだろうが、WSJの記事によれば育児関連の理由で仕事をやめるのはアメリカ人女性74%、ドイツ人女性82%に対し、日本女性ではたったの32%だ。
http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2011/11/14/japanese-women-quit-unrewarding-careers/

私の見聞では子どもすらいないのに、自らすすんで「柔軟性の欠如した」前世紀の遺物的専業主婦やパート労働者になりたがる人も少なくないのである。

メアリにとってはマイナスの価値でしかないことも、他の人にとってはプラスの価値でありうることが、メアリが偉すぎるために理解できないのだろうか?
ていうか、メアリのようにテニュア持ちの大学教授が中国からの養子をとるみたいなケースのほうが特殊な気がするんだけど。
「あたしに続け!」とメアリは声を大にして言っているんだろうが、誰もついてこないと思う。
その場合に、ついてこないほうを「リスク回避志向である」「内向きである」「残念である」と断定するのは、一方的ではなかろうか?

もちろん、専業主婦の存在は日本の経済的損失につながっているということはあるだろう。ゴールドマンサックスは「女性経済学3.0、すぐに動き出せ」というレポートで日本女性が働き出せばGDPを15%も押し上げるという試算を発表した。つまり、国の経済成長のために働け!この寄生虫どもめが!というのならまだ理解はできる。
しかし、メアリはそうは言っていない。専業主婦的な生き方は国の経済ではなく、社会にとってマイナスになると言っている。
性別役割分業は封建制の名残であり、現代にはそぐわない未開かつ野蛮な考えであるといいたいのだろうか?

しかしこれはおかしくないだろうか?
こう考えてみたらどうだろう?

アメリカ人は熱心なキリスト教信者と自己規定している人が多く、神を信じている人も多いが、宗教は男尊女卑と同じくらいかそれ以上に、数々の悲劇が引き起こされたことを思えば、宗教こそ暗黒の中世思想の名残の思想であり、未開かつ野蛮な考えであるとして「こうした宗教意識は社会全体にとってマイナスに働いているんです」とメアリに言ったとして、彼女は「ハイそうですね」と納得するだろうか。

ちなみに無神論の割合が占める国トップテンに男女同権の先進国、進歩的知識人の理想郷たる北欧は多くランクインしている。
ていうかトップがスウェーデン(人口の85%が神を信じない)、3位 デンマーク、4位ノルウェイ、7位フィンランドとなっている。
(日本は5位)
http://native.way-nifty.com/native_heart/2007/08/post_0d34.html

だからアメリカはダメなんだ、未だに未開の野蛮国家なんだといって、アメリカの悪い点をリストアップし、北欧を見習えと結論づけることは簡単だが、果たして、そのような批評は正当だろうか?

価値観の押し付けであると反発されるのではないだろうか?

私自身は無神論者だが、他人がキリスト教を信じることに対して「目を覚ませ」とお説教しようとは思わない。
それと同様に、女性の生き方に対してもお説教しようとは思わない。
(もちろん、信仰や生き方を強制された場合は別だ)

私としてはそれぞれの生き方や考え方を尊重したいし、それぞれの考え方や生き方を尊重しあうことこそが一番大事だと思っている(従って私にとって一番反発を覚えるのは「これが正しいんです!」と生き方や考え方を強制されることだ)。

もちろん、日本には日本の問題点がある。
メアリはロストジェネレーションと呼ばれる世代や今の格差社会といわれる日本をみていると「ハッピーじゃない人が多い」という。

他人からみて「あなたハッピーじゃないでしょう!絶対そうよ!」と決めつけられるのはごめんだが、本人がハッピーになりたいのにハッピーでないのならそれは残念なことだ(もちろん、アンハッピーでいる自由だってあると思うし、どこまで個人のハッピーに介入するのかという問題はある)。

私が思うに、ハッピーではない理由は心構えというよりも端的に「①お金がない②時間がない③嫌なこと(=仕事)に縛られる時間が長い」ということじゃないかと睨んでいるけれど、それを書くと長くなるのでやめておく。

とにかく、メアリのような硬直的な見方、自国中心主義にとらわれていると、問題を正しく捉えることも、分析することもできないと思う。って、エライ先生にこんな上から目線で言っちゃいかんのかもしれんけどね。

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01月19日(木)

起床時刻:08時15分

引き続き『リスクに背を向ける日本人』「第八章 女性の能力を生かすには」の話。

昨日は「男性の家事・育児時間と出生率の関係」を示したグラフ(出典:内閣府資料2001/猪口邦子公式サイト)に基づいたメアリの間違いを指摘した。
すなわち
①夫の家事分担と合計特殊出生率には関連がない
②男性の家事分担とジェンダー・イデオロギー(儒教とか)は関連がない
ということだ。

しかし、(たった12カ国のデータで統計的に有意なことが言えるんですかねというもっともな指摘はおいておき)グラフでは確かに家事分担率と出生率に関連があるようにみえる。
これは単なる見かけの、意味のない関連なのだろうか?

メアリは「家事や子育ては女性の責任だという伝統的な家族や性別役割についての考え方を維持している国では、出生率が極端に低くなっているんですね。日本や韓国、台湾、シンガポールなどの儒教の伝統が強い国々がそうだと思います。南ヨーロッパや東ヨーロッパなどにも、同じような傾向が見られます」(P164)と述べているが、思いつきでいいなら、こんなふうにも言えるだろう。

「2005-2010年の合計特殊出生率をみますと、日本や韓国、台湾、シンガポールなどの人口密度が高い国々が極端に低くなっているんですね。南ヨーロッパも同じ傾向がみられます。人間は過密空間におかれると無意識的に出産を抑制して人口密度を減らそうとするのではないでしょうか」

もちろん冗談で言っているんだが、メアリの理屈よりも説得力があるかもしれない。
何しろ国連開発計画が発表するジェンダー・エンパワメント指数(2008年)では108カ国中、シンガポールは15位でアメリカの18位、フランスの17位より上にくる。従って、メアリの理屈、「儒教的価値観に縛られている→夫の家事分担が低い→女性が子どもをうまなくなる」は成り立たない。

基本に立ち返ってみよう。
結婚しているとしてなぜ子どもが欲しくないのか(あるいは一人で十分だと思うのか)。
(もちろん出生率に一番影響を与える要素は非婚と晩婚であるがそれはおいておいて、既婚者に限っていえば)最大の理由は時間とカネがないからであり、今後の生活の見通しが安定的ではないからである。

だから合計特殊出生率を説明する変数は生殖年齢(40才以下)の
①労働時間の長さ
②一人あたりGDP(あるいは年収の中央値)
であり、心理的には
③まわりが子どもを産んでいるかどうか
だと思う(出産ブームや結婚ラッシュという言葉に象徴されるように、人間は周りの人の行動にいともあっさり影響を受ける存在なのである)。

②については『リスクに背を向ける日本人』でも山岸先生がちゃんと一人当たりGDPと出生率のグラフを出して説明しているけれど(山岸さんがいなくてメアリだけが書いた本だったら到底読むに耐えないものだっただろう)。
①についていうと、実はメアリが出している家事分担と出生率のグラフは、労働時間と出生率を持ってきても同じように説明できることなのだ。

すなわち、私の仮説によれば、(男女とも)労働時間が長ければ生出率は下がる。
メアリや山岸さんは、女性も男性と同様に働き、男性は男性でしっかり家事や育児を分担をすれば、子育てコストは下がるから(女性の時間も増え世帯収入も増える)、子どもは増えるというが、家事を押し付けようにも、旦那はフラフラの過労死寸前だったりするのだ。終電で帰ってきた夫に「皿洗っとけ」と言えるかという問題ね。

メアリは日本の男は「何もせずにテレビの前に座って「おい、お茶」とか言っているの図」を想像していると思うが、そんなの絶滅危惧種ですから。男も死ぬほど会社に尽くしていて、家に帰ってきたときにはダシガラみたいになってるんだから(実際、過労死するのはたいてい男だ)。

日本の現状では、家事分担しようにも、分担させる相手が疲労困憊しているというのが問題なのだ。

ついでにいうと、メアリがイデオロギー仮説で説明しようとした南ヨーロッパの国々、ああみえて実は労働時間が長い。
BLOGOSで沢氏が書いているが「米国労働省が発表している各国の勤労者一人当たりの年間労働時間の比較」によれば「2010年にイタリア人は年間1,778時間働いた。これはドイツ人の1,419時間より25%も長く、フランス人の1,439時間より23%も長い。スペイン人の労働時間は1,590時間とイタリア人よりはかなり短いがそれでもドイツ人よりは12%も長く働いている。」とある。
http://blogos.com/article/26915/

そしてついでにいうと、一人当たりGDPはイタリアやスペインよりドイツやフランスのほうが高い。
カネはないのに長時間労働じゃ子どもは育てられないよなぁってなるんではなかろうか?

韓国も同じだ。
日本よりも長時間労働で、日本よりも一人当たりGDPは低い。そして日本より出生率も低い。

アメリカの場合はちょっと特殊で長時間労働なのに出生率は高い。アメリカを「外れ値」として除外してしまえば(実際、色々特殊なのだ)、はっきりすると思う。

フランス、ノルウェー、イタリア、イギリス、デンマーク、フィンランド、オーストラリア、オランダ、ドイツ、日本、カナダ、韓国、スペインの2005-2010年の合計特殊出生率と経済協力開発機構(OECD)が29カ国を対象に行った調査による労働時間との相関をみると労働時間が長いほど、合計特殊出生率は下がるという逆相関の関係がはっきりわかるはずだ(アメリカは除く。恣意的だというかもしれないが、恣意的なのはお互いさまである)。

2005-2010年の合計特殊出生率はwikiより。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%90%88%E8%A8%88%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%87%BA%E7%94%9F%E7%8E%87%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88
労働時間についてこちらのtotal wolk hoursを使用。
http://blog.tribehr.com/bid/90228/HR-Environmental-Scan-Work-hours-around-the-world-infographic
ちなみに日本のpaid work(&study)をみると一日6.3時間なんですけど!そんなわけあるかい?20代、30代男性にベースを絞ってみれば、もっともっと働いている結果になると思う。

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01月18日(水)

起床時刻:08時15分

『リスクに背を向ける日本人』(山岸俊男+メアリー・C・ブリントン 講談社現代新書2010)には間違いがある。

アマゾンの書評を念のため見たけれど誰も指摘していないので書いておこう。

「第八章 女性の能力を生かすには」の「男性の家事・育児時間と出生率の関係」を示したグラフ(出典:内閣府資料2001/猪口邦子公式サイト)を示して、男性の家事・育児の分担率が高い国では、出生率が高いということを述べたあと、「産業化が進み収入が増えたのに、子どもを産んで育てるためにはちゃんと結婚していないといけないとか、家事や子育ては女性の責任だという伝統的な家族や性別役割についての考え方を維持している国では、出生率が極端に低くなっているんですね。日本や韓国、台湾、シンガポールなどの儒教の伝統が強い国々がそうだと思います。南ヨーロッパや東ヨーロッパなどにも、同じような傾向が見られます」(P164)と述べている部分。

メアリは「これ(伝統的家族観の国のほうが合計特殊出生率は低い)は常識的な考えとは逆ですが、実際のデータをみるとそうなんです」というが、20年前ならともかく、今の日本においては、極めて常識的かつスタンダードな考え方であり、今更新しい視点風に言われても、って感じなのだが、それは置いておいて、これは二重に間違っている。

まず、男性の家事・育児時間と出生率に相関がないことは赤川学が『子どもが減って何が悪いか!』(2004年 ちくま新書)で既に言っていることだ。

第三章「夫の家事分担は子供を増やせるか」から引用しよう。
「社会学者の池周一郎によれば、SSM調査におけるコーホート別子ども数の平均は、有配偶出生率、つまり結婚している女性が生む平均子ども数と解釈することができる(出典略。1995年のデータを使っている)。有配偶女性に関していえば、男性家事分担度は夫の家事分担の相対的な多寡を示している。そこで有同居配偶者女性の子ども数と夫の家事分担度の関連性をみるために相関係数を算出すると-0.086となる。」

つまり夫の家事分担が多い世帯と子どもの数は関係ない(うっすら逆相関ですらある)、ハイ論破~と言ってもこれは赤川さんが論破したのであって(ていうか、池周一郎が論破したのかしらん?)私が論破したわけじゃないんだが。

次に、二番目の間違いをみてみよう。それは「性別役割分業意識が強い国において(日本、韓国、台湾、シンガポール、南ヨーロッパ、東ヨーロッパ)男性の家事分担が少ない(育児に非協力的)」というメアリの言い分である。これこそ常識の罠というやつだと思う。

「男女共同参画社会局」が平成14年度に行なった「男女共同参画社会に関する国際比較調査」では「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という問いがある(問17 B)これに対して賛成の人は伝統的な性別分業意識にとらわれている儒教人間ということになる。

では、アメリカ人20代の男性と韓国人20代の男性を比較して、どちらが賛成(賛成+どちらかといえば賛成の合計)が多かったと思います?
メアリなら圧倒的大差で韓国人と答えるだろう(私もそう思っていた)。

しかし、結果はアメリカ人男性20代は23.3%が賛成で、韓国人男性はわずかに12.4%だったのだ!
ついでにいうと、アメリカ人女性20代で性別役割分業を賛成する人は17.3%、韓国人女性20代は5.3%である。
ちなみにドイツ人女性20代では10.0%となっている。

アメリカとドイツってば、韓国に「男女共同参画意識」で負けてんじゃねーかよwwwどっちが儒教の国なんだっつーのwww
レポートでもわざわざ「韓国は日本と似た儒教文化を持つ国であるが、性別役割分担意識を問う質問については、いずれも日本ほど高くない」とコメントしている。

何が言いたいかというと、韓国は儒教圏であるが若者(生殖年齢)中心に、アメリカ男性よりも(メアリの観点からすれば)「進んでいる」ということ。ドイツ人女性よりも韓国人女性のほうが「進んでいる」ということ。

でも、韓国人男性の家事分担率は日本同様、かなり低い。
「建前と本音ですね、わかります」という前に、家事分担率は何が規定するのか、ちゃんと確認するべきだ。

ここからは「近年における父親の家事・育児参加の水準と規定要因の変化」(松田茂樹(第一生命経済研究所ライフデザイン研究本部副主任研究員))のレポートに全面的に依拠して書いていこう。
http://www.kakeiken.or.jp/jp/journal/jjrhe/pdf/71/071_05.pdf

まず家事・育児分担の規定要因に関する主な仮説には次のようなものがあることが知られている。

①家事・育児の量仮説(乳幼児のいる家庭では家事や育児の絶対的な量が増えるから男も参加せざるをえないよねって説)
②時間的余裕仮説(手があいているほう、時間があるほうが家事やるよね説)
③相対的資源仮説(夫のほうが妻より資源(学歴、職歴等)があって稼ぎがいいなら、家事育児をするより外で稼いでこいってなるよね説)
④ジェンダー・イデオロギー説(「家のことは女がやるもんだ」説や「男は外で働き、女は家を守るもんだ」説)

このレポートではそれらの仮説がどれだけ有効かをデータを用いて実証する。利用しているデータは、

「日本家族社会学会全国家族調査委員会が1999年と2004年に実施した全国家族調査(NFRJ98、NFRJ03)の個票データである。このうち6歳以下の子どもがいる有配偶(配偶者同居)の男性で、かつ60歳未満の正社員を分析対象にした。子夫婦と同居している者は対象から除外し、1日の労働時間が17時間以上と極端に長い者も対象から除外した。サンプル数は、NFRJ98が298人、NFRJ03が247人である。」

で、ジェンダー・イデオロギーはどうやって測るのかというと「男性は外で働き、女性は家庭を守るべきである」という考え方について「そう思う」から「そう思わない」までの回答にそれぞれ4~1点を与え、得点が高くなるほど性別役割分業意識が高い価値観を表す尺度として利用している。

つまり、ここでいうジェンダー・イデオロギー説の中身は「男は外で働き、女は家を守るもんだ」ということになる。

当然、保守的な男性(得点の高い男性)は家事を手伝わないと予想できるだろう。

多変量解析の結果を引用しよう。

「家事参加の規定要因についてみると、家事・育児の量、時間的余裕、相対的資源、ジェンダー・イデオロギーの4つの仮説の分析からは次の結果が得られた。
NFRJ98(1994年データ)では、家事・育児の量(末子年齢、祖母同居)、時間的余裕(父親労働時間、母親労働時間)、相対的資源(母親収入割合)の仮説が支持され、ジェンダー・イデオロギー仮説は支持されなかった。
NFRJ03(2004年データ)では、時間的余裕(母親労働時間)と相対的資源(母親収入割合)が支持され、それ以外の仮説は支持されなかった。」

常識にもこれは合致している。
私が前に書いたように、家計負担も多く、労働時間も長い夫に家事や育児を頼めるかというシンプルな話なのだ。
逆にいうと、妻の家計負担が多くなり、夫よりも長い労働時間となれば、家事分担をする男も増えるという話なのだ。

メアリの間違いを整理しておこう。
①夫の家事分担と合計特殊出生率には関連がない
②男性の家事分担とジェンダー・イデオロギー(性別役割分業意識とか)は関連がない
(もっともこれはアフリカや中東なんかの「未開」地域にはあてはまらないだろう。この地域を統計に含めれば、合計特殊出生率は妻の就業率が低く、学歴が低く、女性の地位が低ければ低いほど上昇するという結論になる)

メアリは社会学者というより、伝道師な気がして仕方ない。

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01月17日(火)

起床時刻:08時15分

朝、近所のアパートのゴミの集積所に割と立派な風采の中高年男性がゴミを出していたので、この人もここの住人なのかと思ってたら、その人斜め向かいの大きな家に入っていったんですけど。なんでテメェんちのゴミを人んちのゴミ集積所に出すかな?ゴミ収集日ならまだしも(どっちにしろ回収されるんだから)、ゴミ収集日でもないんですけど。

そういうときに注意ができるかというと、私は100%注意ができない。

だから私はダメなんだよ!
ということが、『リスクに背を向ける日本人』(山岸俊男+メアリー・C・ブリントン、講談社現代新書、2010)を読むとよくわかる。

メアリー先生(ハーバードの教授であらせられるぞ)はこう言う。
日本人は親しい人との関係を育む「感情」に重きをおいたコミュニケーションを重視しすぎるきらいがあるが、「それだけではなく、言葉を使って自分の言いたいことを相手に伝えるという意味でのコミュニケーションの「スキル」、つまり、自分の意図を正確に、また有効に伝える力をつちかっていかないと、仕事を得ることも、仕事をしていくことも難しくなるでしょう」(P40)。
ハイ、仕事を得ることも仕事をしていくことも難しいですっ。

日本人というのは基本「嫌われたくない」だから「黙ってよう」とする傾向にあると山岸先生もいう。嫌われたくないから、ゲームのプレイヤーにならない、責任を取りたくないからあなた任せになる。

私のことすぎる。
もうね、ここに書いてあるダメな日本人が当てはまりすぎて恐ろしいよ。

(もっとも山岸先生はこの本は「アメリカ(社会、人)がよくて日本(社会、人)がダメ、だからアメリカを見習え」という単純なアメリカ礼賛本ではなく、「日本人はガチガチに日本の社会の考え方にとらわれているけれど、視野を広げれば別の生き方もあるんだよ」というメッセージを発している本である、と周到に書いていらっしゃるが、どう読んでもこれ、日本ダメでしょう。
いや、確かに「日本文化(山岸先生の言葉でいえば、日本人の生き方のストラテジーの束)は高度経済成長期には適合的なシステムだったけれども、今の日本においては時代遅れである」という意味では、日本がダメということではないだろうけどね(つまり別の場所、別の時間においては、日本的集団主義、リスク回避主義、空気読む主義が適合的な戦略でありうる)。
しかし、今の時代においては「和魂洋才」ならぬ「洋魂洋才」が必要なんだと私は理解したがね)

はー、これ読むと落ち込むよー。
山岸センセは引きこもりは究極の日本人である(究極のリスク回避型)というけど、私もそうだからなー。もちろん、山岸センセはフェアだから、個人の責任というよりも、リスクテイカー的な生き方が結果として損になることが多いという日本の社会的背景があるから(中年の夢見るバンドマン兼フリーターに対する冷たい目線を見よ)、彼あるいは彼女なりの文化適合戦略として引きこもりがあるとは認識しているんだけど(たぶん)。

メアリーさんが言うような言葉を使って自分の言いたいことを相手に伝えるという意味でのコミュニケーションの「スキル」って私ゼロだもんな。簡単な注意もできない。
夫が帰ってきて「おかえり」と言っても無言なことがあるんだけど、昨日もそうで、聞こえていないのかと思って、もう一回「おかえり」と言ってみたんだけど、無言だった。
メアリーさんだったら「あなた、なぜ挨拶をしないのです?挨拶をしたら挨拶を返すのが社会のルールであり、それを守らないのは、明らかに敵意があるということになりますけれど。もしあなたが私に敵意があるとしたら、それはどういう理由からですか?説明してくれませんか」とか、とうとうと論じ立てたにちがいないが、私は黙ってた。
そんなことを言っても「うるせー、疲れてるんだよ」と言われるのがオチだ。でもメアリさんたちアメリケンはめげないんだろう。
「それそれ、それが日本人の男性のよくないところです。妻とコミュニケーションする努力をしない。しかし妻といっても他人ですから、言語化して意志疎通を図る必要がありますし、親しき仲にも礼儀ありで挨拶をする必要はあると思います」と反論するんだろうか。まぁ無視されるだろうがね。
そしたらメアリーさんが妻なら雑誌に「日本人男性のコミュニケーションスキルの低さこそが、グローバル経済時代における日本の国際競争力低下の遠因となっている」とか書くのだろうか。

とか色々考えた結果、私は「黙る」という選択肢をいつも取るんだけどね。ま、ここで書き散らして、ストレスを発散しているけど、なぜ、メアリさん及びメアリさんの紹介するところのアメリカ人がああも対人関係でポジティブになれる(=お互い理解しあえるし、お互いもっと向上できる)んだろうか?理解不能だわ。

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01月16日(月)

起床時刻:11時45分

いや~な夢を見た。次々と仲間が殺されていき、私が最後の一人になったのだが、私も結局事故を装い殺されるという夢。しかも悲惨な形で。「殺すなら楽に死なせてくれ」って犯人グループのリーダーにお願いしたんだけど、リーダーは「そんなことするかよ、ケケケッ」と嗤って、私の嘆願を無視し、当初の予定通りの残酷な殺され方をする。
夢の中でも理性が働いたのか、そこで巻き戻しとなり、結局、犯人グループの身近にいた人を巻き込んで飛び降り自殺した。
というのが夢の全容。

そこで目がさめて「あー、ヤダヤダ」となり、口なおしならぬ夢なおしにまた寝てしまい、今度は激しく寝坊してしまった。いかん、とってもいかん。
本日のいかんことは他にもあって、「痩せる!」と決意したそばから、大量の大学芋を食べてしまった。いかん、いかん。

『世界で生きる力 自分を本当にグローバル化する4つのステップ』(マーク・ガーゾン 英治出版 2010)(原題は"Global Citizens How our vision of the world is outdated, and what we can do about it" Mark Gerzon)を読んだ。

"グローバル人材"となるのに必要な4つのことってなんだと思います?
英語?ネット環境?
ブッブー。
答えは
①直視する力
②学ぶ力
③連帯する力
④助け合う力
だって。

今の世界には5種類の市民がいます。
これを5段階の「シビック・ソフトウェア」に見立てて彼はこういう。
もっとも基礎的なレベルの「シティズン1.0」。
彼らは自らの関心事にしか注意を向けない。
次に「シティズン2.0」。
このレベルでは関心は個人からグループ(地域、コミュニティ)のアイデンティティへ移る。
次に「シティズン3.0」。
これは個人やグループの枠を超えて、社会または国家全体に共感できる市民だ。
ま、いってみればここまでが「昭和」である。
次にくるのが「シティズン4.0」。
ナショナリズムの枠組みから飛び出した市民であるため、より幅広い市民の意識を表している。文化的交配とでもいうべき人たちで、複数の文化を経験し、複数のアイデンティティを持つ人たちだ(例えばタイーアフリカーチェロキー系アメリカ人と自らを形容したタイガー・ウッズのような。あるいはオバマ大統領のように色んな血がまじり、色んな文化的背景を持つ人)。
今、この勢力が急速に拡大している。
そして最後に「シティズン5.0」。
彼らは多文化の世界観を超越し、人類のみならずすべての生命を視野にいれている。シティズン5.0はマルチナショナル(多国籍)ではなく、トランスナショナル(超国籍)なのだ。彼らは人類という次元にとらわれず、人間を含むすべての生命の基礎が自然そのものだと認識している。「あなたはどちらの出身で?」と聞かれて「地球です」と答えるレベルですな。

もちろん、私はバージョン1.0だ。
もっとも自然に暮らしていればバージョン3.0までは自然とアップデイトされるから、私にも愛国心はある。
けれども、私がハッピーであれば(もちろん、私のハッピーさは不幸な他人が存在することによって減少するから、世の不幸な人は私と同程度にはハッピーになってほしいと思うが、私よりずっとハッピーになられると、それはそれでむかつくのでそんなことは望まない)、他のこと(地域や国のこと)には関心がない。

ま、私はともかく、グローバル市民は地球規模の問題を解決するために、国や宗教の違いを超えて連帯しようとする。

連帯?無理無理。と私は思うが、マークさんは相互理解と連帯が可能になった事例をいくつも取り上げている。

例えばテロリストに誘拐された人質を釈放してもらうために、国連外交官のピッコ氏が交渉に行った時の話だ。
目隠しをされて連れていかれた先にはがっしりとしたアラブ人男性がいた。
「何が知りたい?」マスク姿のリーダーが尋ねる。

マークはここで読者にも想像してみるように促す。
人質の命(もちろん自分の命も)がかかっているのだ。

ピッコは本能的に共通点を探すことから始めた。
お互い子供がいて、子供によりよい世界を残したいと願う父親であることがわかった。男は好奇心を示し、そして二人は連帯したそうな。

まじですか?
この話を読んで思ったのは、何語で話たのかな?ってこと。その過激派テロリストがドメドメの日本人だったら、ピッコ外交官が英語で「Do you have kids?」と聞いたとしても「ノー、ノー、イングリッシュ、ノー!!」って言われるだけだもんね。
やっぱピッコさんはこの場合、アラビア語で話たんだろうね?ま、アラブのテロリストは語学が堪能だから英語かもしれんけど。となるとやっぱり語学(アラビア語なり英語なり)がつながるための基礎としてあり、連対力はその次に来るものなんじゃなかろうか。
(ちなみにマークさんも複数言語を身につけることをグローバル市民に推奨している)

他の例は全く意見対立する二つのグループの会合でのこと。
ソロスのような世界的金持ちとそういうのに対立するグループの会合があり、お互いを疑心暗鬼の目で見て、一触即発のいやーな空気のとき(実際この前の会合では喧嘩別れも同然だった)、あなたが司会者だったらどうします?

マークはまず、「彼らを物理的に同じ場所に集め、両方の組織が心から案じている具体的な国際問題を解決するためにはどうしたらいいか、ともに学ぶところから始めた。」(詳しくは『対立を乗り越える』leading through conflictsで述べているそうな)。
そしたらうまくいったらしい。

次にアメリカの環境保護を推進するグループと環境よりも経済発展を優先するグループの会合でも、深刻な対立が起こった。
そのときは一分間瞑想して「何のためにここに集まったのか、目的を思い出しましょう」と指導して、すばらしくうまくいったらしい。

思うんだけど、日本政府はこの方に北方領土交渉や尖閣諸島の交渉をやってもらったらいいんじゃないの?一緒に学ぶことや一分間の瞑想でうまくいくなら、これほど有難いことはない。
まぁでも、彼の場合「まずは相手の主張を受け入れることです」とかいって、全部領土をあげてきましたってことになるかもしれないけれど(宇宙船地球号の乗組員としては、どちらの領土でも全く問題がないのだから。むしろ地球号にとって問題となるのは、人間が豊富な資源を漁や開発といった形で荒らしていくことだから、人間と名のつくものはすべて締め出してしまうというのがベストな領土問題の解決方法かもしれないのだ)

私は人間の連帯可能性よりもコミュニケーションの不可能性を信じているので、誰かを説得することなんかできないと思っている(でもマークみたいな人を尊敬してはいる)。だから領土問題なんかは解決がつかないのだ。

マークは「正しく世界を見ること」(=直視する力)が大事だというが、そんなことは不可能だ。何が正しく、何が正しくないかは我々にはわからない。せいぜい「自分は正しく世界をみている」というバイアスを感じることが関の山だと思う。ま、そう私が思うのも私がバージョン1.0にとどまっているからかもしれないけれど。

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01月15日

起床時刻:11時20分

差異を認め、差別を排除すること。
異質なものを受容し共生すること。
現代日本においてこれは広く受け入れられている(あるいは受け入れるべきだと思われている)規範ではなかろうか。
私ももちろん、受け入れている。

しかし、現実はむずかしい。

例えば多動性障害の子供がクラスにいて授業の邪魔をするとしよう。
その子供だって授業を受ける権利はある。しかし他の子供だって授業を受ける権利(妨害されない権利)はある。この場合、障害を持つ子供を受容することとは、別の子供の権利を阻害することではないのだろうか。

あるいは夫婦共働きの家があって、両方とも同程度くたびれて仕事から帰ってきたとしよう。この家は夫婦同じ勤労時間ながら夫のほうが稼ぎがよく、生活費分担の夫と妻の割合はそれぞれ8:2になっている。従って夫が「妻は8割の家事をする責任がある」と主張したら、それは認められるのだろうか。男女共同参画社会的発想からすれば、夫婦がそれぞれ半分ずつ家事を分担するべきとなるだろうが、それでは夫は生活費を多く負担した上に、家事まで負担することになり、結果として夫の負担が多くなる(夫が差別されている)ことにならないだろうか。

最後にこんなケース。ある宗教を熱心に信仰している会社員がいて、彼は宗教上の要請から一日5回、計3時間のお祈りタイムをとっている。その間彼は席を外しているため、同僚が彼のデスクの電話をとり、場合によっては彼の仕事の補助をすることになる。上司が彼を信仰(のお祈りによる不在)を理由に解雇したら、宗教差別だとして訴えられたとしよう。この場合、どちらが悪いのだろうか。

実際のところは、異質性の受容の問題、あるいはどうすれば「共生社会」という規範にかなうのかについては、結局、誰かが我慢するという解決策がいつもとられているように思う。それも心優しき人、あるいは口下手や内弁慶な性格で反論できない人が我慢することになる。

(二番目の例はここにそぐわないようだが、「統計的にいって女性のほうが稼ぎが悪い」(つまり生産性からみると低スペック)という「異質さ」を問題にしている。もちろん、フェミニストであれば男女の生物学的性差はあるが、頭の出来のような生産性スペックには男女の差はなく、現在、結果として差があるとしたら、それは男女差別に由来する、ということになる。
上述のケース2では、女性が男性より給料が少ないのは男女差別によるものだから、男が多く家計費用を分担するのは女性の無能のためではなく、抑圧的な社会のためである。従って、家計費用分担と家事分担は話が別、家事は半分ずつやるのが正解である、という結論に至るであろう(と想像する))

誰かの権利が別の誰かの権利(あるいは既得権益)を阻害することなしに成立することはあまりない。だから「闘争」という形、あるいは「論争」という形をとる。

問題は論争で相手をコテンパンに打ち負かして、当方の権利を100%認めさせても、それで相手が「目からウロコが落ちました!ありがとう!」と感謝してくる可能性はゼロということだ。
たいていは、ただただ、怨嗟の感情が渦巻くだけだ。こっちはすっきりして気持ちいいかもしれないが、表立って反論できないだけに、プライベートなことや低レベルな悪口をスパムメール的にあるいはゲリラ的に攻撃してくるようになる。

言語による説得が無理なら、我慢するしかない。こっちが我慢すれば八方丸く収まるんだから、というのが典型的日本人(というか私)の考え方に思うが、その場合「顔で笑って心で怨嗟が沸き起こっている」のだ。あとで匿名ブログや2chで異質なるもの(上の例でいえば、精神障害児であり、男女共同参画社会であり、宗教信者である)をせっせと攻撃することになる。
「あいつらのせいで、私たちが損をしている!」
「あいつらは「権利」を主張することで、得をしている!ずるい!」
という切実な被害者感情(損をしているのには違いない)を持って。

人間の損得勘定(感情)はかなり根源的なもので、たいていの社会問題はこれに起因するんじゃないかと思うときがある。
だから人を説得する一番簡単な方法は「これはあなたにも得になるんですよ」というやり方だ。異質なものを受け入れることであなたも「多様な価値観を身につけることができますよ」的な説得はしかし、たいして意味がない。もちろん、私たちにとって一番大事でかつ説得力があるものはカネなのだから(例えば上述の三番目の例で言えば、かの信者が宗教的インスピレーションを受けiPodを発明して会社が多いに儲けた、そして同僚の給料もあがったというのなら、喜んで受容されるだろう)。

斎藤環は『関係する女 所有する男』(講談社現代新書 2009)の、「すべての結婚はなぜ不幸なのか」と題する章の末尾でベクトルの異なった原理をもつ男女が平和に共存するためにはいずれか一方が、一方的に抑圧に甘んじるような社会的規範が存在しなければ難しいという(もちろん、男尊女卑は主流派にはなりえないから「従来とは異なった価値観で結婚制度を見直す必要があるかもしれない」と付け加えているが)。

これは男女だけではなく、ありとあらゆる異質な原理を持つものに言えることじゃないのか。彼らと平和に共存するためには抑圧的な社会規範(=ローマに入りてはローマ人に従え)を押し付けなければいけないのではないのか。それに取って代わる価値観(従来とは異なった価値観)など、私たちはまだ見つけ出してはいないのではないのか。あるとしたら、カネ、すなわちあらゆる異質性をクリーニングする万能薬、くらいだろう。

つまりカネを持つ異質な者なら、異質だろうが同質だろうが問答無用で受け入れるという価値観だ。そして世の中、一番説得力があるのはいつだってカネなのだから。拝金主義が世界の新しい原理になるのか?ていうか既になっているけど、そこには拝金主義の陥穽がある。その陥穽にはまった人たちがバックラッシュという形で穴から這い出そうとするのかもしれない。

よくわからんけど。

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01月14日

起床時刻:10時50分

もともとヨタヨタだったパソコンが更に悲惨になっていたのはKingsoftのアンチウィルスソフト(フリーソフト)のせいみたいだった。広告のポップがメチャクチャうざいだけならまだしも、まともに起動しなくなった(立ち上げても画面が5分くらい真っ暗とか)。
ソフトをアンインストールしたら、PCが「死にかけ」から「体調不良」のレベルに戻ってくれた。よかった、よかった。AVGのフリーソフトのときはこんなことなかったのになぁ。

基本的にネットに一切つながなければ何の問題も起きないんだけどね。
外に出かけるからインフルエンザになるのと同様、家に引きこもってりゃ一番安全なのだよ。

「任天堂はなぜソーシャルゲームをやらないのか(下)」(石島照代・ダイヤモンド・オンライン)を読んだ。任天堂の動向はともかく、ソーシャルゲームやMMORPGのマネタイズについての分析が面白い。

思うにゲームの面白さというのはピアノと同じく、
①操作をすることの面白さ(「鍵盤を叩いたら音が出た!」「マウスを動かしたらキャラクターが動いた!」)
がはじめにある。
次に
②操作効力を実感することの面白さ(=自己効力感。「鍵盤を叩いたら、曲になった!」「ソロでノーダメ余裕でした^^」)
がある。
その次に
③自分の操作能力によって他人を魅了することの面白さ(=上の記事でいうところの「自尊感情補完」。あるいは承認欲求の充足。「曲を弾いてみたら、人に褒められた!」「ナイトきた、これで勝つる!」)
がある。

オフゲーは①と②は満たしてくれるが③が弱い(だからこそ最近のゲームはオンライン要素を絡めてくる。プレイ動画を動画サイトに投稿して「神きた!」と褒められることはあるだろうが)。
一方、SNSブームはほぼ③で成り立っているといっていいだろう。「つながりたい」っつーより、「認められたい」、「話を聞いてもらいたい」んだろうと思う。
孫社長や総理大臣ならともかく、そこらの雑魚はリアルでは人に話を聞いてもらえないからな。だからフォローしあったりフレンド登録(よく知らんが)にしあってりして、半強制的に話を聞きあう。
「話を聞いてもらえる」というのは「承認されること」とイコールだ。だからこそ、愛情表現の第一歩は「話を聞くこと=承認してあげること」だと私は思う。

人に褒められること、感謝されること、認められること。
これはものすごいモチベーションになる。人に「承認される」というベネフィットを持つビジネス(自尊感情補完ビジネス)は強い(石島さんによればブランド物を買うこともそれにあたる)。

脱線したけど、私がゲームにはまらないのは(ピアノにもスポーツにもはまらないが)、①は感じるものの(こうみえてピアノをただ弾いたり、スポーツをただするのは嫌いではない)、②で挫折するからだ。
自己効力感をどの分野でも感じたことがない(キリッなのだ。
つまり何をやってもモノにならない、上達しない、従って褒められない、むしろみんなに迷惑をかける、という現実があるから、別にはまりもしないのだ。

もちろん、世の中のMMORPGのプレイヤーだって神ばかりではなく雑魚もいっぱいいる(というか雑魚ばかり)だが、そんな雑魚でもはまったりするのは、「承認される」ことには「すごいね」だけではなく「ありがとう」も含まれるからだ。

道に迷っていた初心者を案内してすごく感謝された。
とか。
操作の基本を教えてあげてすごく感謝された。
とか。
ミッションやクエストをお手伝いしてすごく感謝された。
とか。
(ソーシャルゲームはどんなものかさっぱりしらないけど)

普通の人生ではめったに感謝されないので、これはすごく嬉しいものなのだ。私も感謝されるとすごく嬉しいので、この気持ちはわかる。でもお手伝いにいって、足を引っ張ったりしたこともあるので(道迷ったり敵に絡まれたりしてなw)、だんだん、自己嫌悪に陥るわけだがw。

私自身はゲームにははまらないが、ゲームにはまる理由はよくわかる。
リアル人生というのは褒められもせず、感謝もされず、「目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、人の心を見つめ続け」て自分は損ばかりというがデフォなので、やんなっちゃうわけですよね。

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01月13日(金)

起床時刻:08時15分

いよいよパソコンが末期症状。。。

一昨日の「ためしてガッテン」で「不眠ストレス緊張撃退 1日15分!脳の簡単トレ」ってやってて、どんなのかっていうと、

「①軽く目を閉じます。
②小川が流れている情景を思い浮かべます。
③次に、その小川に葉っぱが流れている情景を思い浮かべます。
④この情景が思い浮かんだら、次に自分の心に目を向けます。
感情や物といったいろいろな思考が湧き起こるでしょう。その湧き上がってきた思考をすっと葉っぱに乗せて川に流してしまいます」

これをやると不安感が肥大化しなくなるんだってさ。
寝るときに一昨日と昨日とやったんだけど、15分やるつもりが3分くらいですぐ寝ちゃったよ。
詳しくはHP参照。

番組をみながら最初やったときは、「小川を葉っぱが流れる」情景といったら、虚子の「大根の葉が流れていく」とかなんとかっていう句を思い出したんだけど、ぼけているせいか、ちゃんと思い出せない。なんだっけな、「大根の葉のながれゆく早さかな」、みたいなやつなんだけどな。
という思いを葉っぱにのっけては流し、
なんだっけな、大根の葉が流れてってんだよな、
という思いを葉っぱにのっけては流し、
17文字すら覚えられないとか、私はバカだ、ダメ人間だ、
という思いを葉っぱにのっけて流したりした。

ちなみに正解は「流れゆく大根の葉の早さかな」であった。
ありがとう、グーグル先生。

パソコンがへたってネットが使えなくなると、こうやって疑問点をちゃちゃっと調べられなくなるんだね、やっぱりネット環境ってありがたい。
そういやフィンランドじゃ、「ブロードバンドに接続できる」ってのが国民の権利として認められているんだってね。
私みたいな、ネット音痴かつ機械音痴のアナログ人間(戦後まもないレベル)の人はフィンランドにはいないのかな。

はっきり言って、わたくしは世の中についていけないんですよ。
むずかしすぎるんだよ、いろいろ。

あと、新しいことに出会っても「面白い!」って思わなくなった。
「めんどくさ!」って思うようになった。
まぁ虚心坦懐に振り返れば昔から「面白い」って思うことはあんまりなかったな。「めんどくさい」って思うことが9割だったな。

基本的に好奇心が欠落しているんだと思う。
私は自分のことにしか関心がないからなぁ。どんだけナルシストなんだろうね。自分のことばっかり考えて自分のことばっかり話しているんだもんな。
場合によっちゃあ、自分の話の、しかも同じことを何回も話したりする。
If you've heard this story before, don't stop me, because I'd like to hear it again.とはグルーチョ・マルクスの言葉だが、「その話は聞いた!」と言われることの多い私としてはこれほど心強い言葉はない。

今日は鈴木登紀子先生レシピできんぴらごぼうをつくったが(ごぼうの量も含めてちゃんと計量した)、ちと甘くて味が濃すぎやしないかね。まぁ私が味音痴なんだろう。
夕飯は鶏のから揚げ(買ってきた)、サラダ(レタス、ブロッコリー、トマト、ゆで卵)、なめこと油揚げのお味噌汁、きんぴらごぼう、白菜漬でございます。

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01月12日(木)

起床時刻:08時15分

昨日の『SPA!』の続きで今日もダメ嫁として反省しているんだけどさ。
今朝も朝ごはんつくったりお弁当用意したりしてたら、「うるさい!!」って怒鳴られた。うち、台所の流しが寝室のベッドの裏っつー謎な構造なのよね。

昨日は「ブレーカー落とした件」により夫による私の評価は5点くらい、今日は「朝から騒がしい件」により私の評価は3点くらいだと思う(ちなみに10点満点じゃなくて100点満点ね)。

こんなんでいいのか!いや、よくない!!

私は夫に甘えているのではないのか?
夫だと思うから、「縦のものを横にもしない」と思うけれど、夫じゃなくてクライアントだと思えばそれも当然だろう?
クライアントではなく夫だと思って甘えているからこそ、味付け失敗した煮物(正月の話ね)を出すわけだ(ちなみにこの煮物、野菜嫌いの夫がパクパク食べていたから「これ甘すぎない?」って聞いたら(出しておいて何を言うか)、「おいしい」ってさ。さすがコーラを飲みつつ年越しそばを食べる人は違うね)。本来であればですよ、味付け失敗したのを客には出さない。もったいなくても潔く捨てるはずなんだ。それを出すのは甘えているんだ。

自分は民宿を経営していて夫が客だと思えばいいのだ。
客がくるなら、家も掃除を行き届いていなくちゃいけないし、料理もちゃんとしたのを出さないといけないし、洋服を脱ぎ散らかしてあったらハンガーにかけ、ブラシの一つもかけてやり、朝出かけるときに靴を磨いておいてやる、という「おもてなし」の心も必要だろう。
家事を手伝わない、子育てを手伝わない(いや~子供がいなくてホントよかったわ。一人で育てるのとか無理だもん)と文句を言うのは夫に甘えているのであって、客だと思えば、家事を手伝わせたり子供の面倒を見させるほうがおかしいのだ。

自分は民宿の女将兼仲居兼掃除係兼板前兼芸者(すげー漢字の羅列になってしまったw)であると思うことが大事だ。夫はお客なんだから、「おもてなし」をしないといけないのだ。ただ掃除係であれば身なりに気をつけなくてもいいが、女将も兼ねているから、それなりに小奇麗にしとかないといけない(らしい。「SPA!」による男の妻に対する不満で最初に出ていたのが、「妻がデブになった」とか「ムダ毛が生えている」とかだった。
と、不安になったので、ここで久しぶり(ちょー久しぶり)に体重計にのったら、46.2kgだった!!太ったっ!!!私、人生で45kg超えたことないんですけどっ!!!どういうこと!!!体脂肪率も27.5%だって!!!やばい、私、「メンヘラ引きこもりメシマズ」主婦だけじゃなくて、デブ主婦にも該当しつつあるのか?まぁ身長160cmあるので、デブではないが。体年齢は27才だった。まぁ実年齢はそれより10才以上上だからよしとしよう(でも昔は18才とかもあったのにっ)。オムロンの優しさってやつか)。

あー、太っちまったよ。
そして今日の夕飯はハムとほうれん草のマカロニグラタン(バターたっぷり)とブロッコリーとゆで卵のサラダ(マヨたっぷり)、白菜のスープ、それに成城石井のホットビスケット。デブまっしぐらじゃねーか!!!

思い当たる節はありすぎる。ピザ、ハンバーガー、ラーメンを食べる頻度が多過ぎる。会社の近くのハンバーガーショップのポイントカードも持ってるもんなw。あと、コカ・コーラをよく飲むようになったし。運動はゼロ。そして間食はいっぱいする。

ほんとに心入れ替えよう。そしてしばらく体重計に毎日乗ろう、、、。

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01月11日(水)

起床時刻:08時15分

まーたブレーカーが落ちた。アンペア確認したら、40A。
夫と二人暮らしなら妥当なとこだよね?
寝室でエアコンをつけてドライヤーで髪を乾かしてたら落ちた。
居間のエアコンもつけてて、あとパソコン2台で旦那がゲームしてて、ヒーターがついてた。なんで?エアコンのフィルターはそこそこ掃除しているんだけど(二週に一回くらい)。

怒りまくっていたから殴られるかと思ったけど、先手必勝でひたすら謝ったら、プルプルしつつもこらえてた。

ところでさ、会社で「SPA!」購読してんだけど、今週号「嫁にすると必ず暴走する女の共通点」という特集やってんのね。
「体型激変、料理激マズ、セックスレス、上から目線、浮気、ひきこもり、メンヘラ、豪遊」とかまぁそういうことね。
100人の既婚男性に「『この嫁と結婚するんじゃなかった』と思ったことがあるか」というアンケートを取ってみたところ、59.0%の男性が「思う」と回答したらしい。
私はあれだな、料理激マズ、セックスレス、ひきこもり、メンヘラに該当するかな。
これはいかんと反省し、昨日の夕飯は「栗原はるみのごちそうさまが、聞きたくて」を見て「春雨とひき肉の煮物」を、計量カップと計量スプーンできっちり測ってつくったんだけど(ただ豆板醤は小さじ1/2に減量した。小さじ1杯じゃ辛くて私が食べれない)、「嫌いかもしれない」と思い(色合いが地味でまずそうだから)、「鶏もも肉の照り焼き」(鉄板メニュー)も出すことにした。それに昨日茹でておいたほうれん草でバターソテーを添えて、あと、煮物(高野豆腐、里芋、人参、こんにゃくの含め煮)が余っていたから出して、それと鈴木登紀子先生レシピのかぶのレモン漬け、それとかぶと油揚げのお味噌汁、五穀米を出した。

まず第一声「多い」、第二声「このご飯嫌いなんだけど」と言われてしまった。五穀米とか玄米とかそういうの男の人嫌いよね。うちの旦那は体にいいと言われるものはまず嫌い。豆とか海藻とか芋とかね(ポテトサラダとフレンチフライは除く)。
だから若いのに中性脂肪も悪玉コレステロールも基準値超えてんだよ、と思うが、しかし、私の役割は「美味しいものを出すこと」であって、看護婦じゃないんだからな。

昨日反省して心を入れ替えて頑張ろうと思った矢先に失敗してしまった。
私の自己採点じゃ、まぁ50点ぐらいの嫁(既に不可)だと思うんだけど、うちの旦那からすりゃ、5点だろうなー。

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01月10日(火)

起床時刻:08時15分

『住まいとこころの健康 環境心理学からみた住み方の工夫』(小俣譲二編著、天野寛/河野和明著 ブレーン出版1997)を図書館で借りたんだけど、ちょっと古いなw。
昭和57年の事件を出してきて「記憶に新しいところです」とか書いているけど、いや、全然新しくないですからw。仕方ないんだけど引用事例も古い。

この本によると「住まいの過密はストレスをうむ」とのこと。「そりゃそうだろうね、六畳一間に親子四人じゃあイライラもするだろう」と思ったら、「インマンとシンの行なった調査では、バスルームが一つの家庭と二つ以上の家庭を比較すると、明らかに前者の家庭のほうが強いストレスを感じていることが示されています」(P148)だって。ちなみに1984年の調査ね。
おいおい、バスルームが一つで過密っていってたら、日本の家はどうなっちゃうんだw(でも調査によるとアジア系はそれ以外より過密でもストレスを感じないんだってさ。それに女性は男性より過密でもストレスを感じないそうな。古い調査だったけど。上の調査でも妻にはストレスはみられなかったそう)。

あと高所に住むと色々よくないということが書いてあった。
「結論からいえば、高層階に住むことは決して勧められるものではない」(P111)ときっぱりはっきり書いてあった。
まず高所は誰でもこわいから神経症的になる、外あそびをしないから子供が内向的になり自立できなくなる、人付きあいなくなる、さみしくなる、従って心身の健康によくないとのこと。いい点は窓からの景色が良いことくらい。「個人の自由を尊重する都会派」には「快適に暮らせそう」とのこと。

フーンだね。
もうちょっと面白い調査があるといいなあと思ったなぁ(上の調査だと過密が悪いのか、貧乏が悪いのかよくわからないからねぇ)。

まぁでも人間にとって他の人間の過剰な存在は間違いなくストレスになるだろう。最近何かでみたけど、夫婦一緒に寝るより別々のベッドで寝たほうが夫婦仲はいいとかなんとか。
あと「オーストリアの大学教授による実験で、男女が一緒に寝た場合と別々に寝た場合とを比較したところ、男性はパートナーと一緒に寝た方が熟睡できたと感じたものの、実際には深い眠りが妨害され、知力テストの成績も悪くなったのだとか。一方女性は、一人で寝た方が熟睡できたと感じたものの、実際には一緒に寝た方がより深く眠っていたことが明らかになったとのこと」。
http://kwsearch.goo.ne.jp/love/927.html

私はもちろん別々に寝たい派だ。

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01月09日(月)

起床時刻:15時15分

去年の春くらいに録画していたテレビドラマの「仁」を今更ながら見たのだけど、刀傷とかいたそうだな。
「神様は乗り越えられる試練しかお与えになりません!」とよく登場人物が力説しているけど、私は口内炎の痛さが限界なのでそれ以上の試練は与えてほしくない。
ちょっとネタバレを書くと、麻酔なしで帝王切開をするシーンが出てきて(「女子は子を守るためならどんな痛みにでも耐えられます!」)恐ろしすぎる。
私の友人は体質の都合で麻酔なしで中絶をしたらしいが、相当痛かったんだとか。恐ろしい。

私は痛みに極端に弱くて、トゲが刺さったりしただけでも大騒ぎな人なんだ。幸い、そこまで深刻な怪我とか病気とかになったことないから(出産もないし)、有難い。昔の人は切腹したりするんだから、もう恐ろしすぎる。その痛みたるや、セデスやバファリンなんかじゃ効かないだろう。しかもセデスもバファリンもないのだ。

私の一番の願い、夢、希望は「痛い目にあいませんように!!」だな。今、口内炎と肩こりで結構つらいんだけど、これ以上無理ですからねと神様に念押ししたい。

私と妹は体質のせいか、よく口内炎ができる。口内炎がちゃちゃっと治る薬って未だにないよねぇ。アフタゾロンもケナログも持っているけど効かないし。前NHKの「ためしてガッテン」で口内炎には「うがい」がいいみたいなこと言っていたけど。今思い出した。
ぐぐったら「口内炎を根本から治すためには、口の中の細菌の繁殖を抑える必要があります。そのためには、殺菌成分入りのうがい薬や洗口液(せんこうえき)を使ったブクブクうがいが効果的です。実験によると、20秒のブクブクうがいを3回行った場合、口の中の細菌を10分の1程度に減らすことができました。しかも、その効果は3時間以上持続したのです」とのこと。「うがい」してこよう。

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01月08日

起床時刻:15時30分

前からパソコンの調子がよくない。
私が触ると壊れるの法則が発動していて、「モノの扱いが雑だからすぐなんでも壊すんだ」と夫にも叱られているのだが、私は本当にモノを壊す天才だと思う。まぁそんな方面に天賦の才があっても、迷惑千万なのだが。

だいたい最近のものはなんでも壊れやすいのがいかん。
と書いたけど、昔はパソコンはなかったし、携帯もなかったし、液晶テレビもなかったから比較はできないけど、私は別にパソコンがなくても携帯がなくても液晶テレビがなくても全然困らない(白物家電はないと困るけど)。

そもそも私は携帯をめったに使わない。「遅れます」という連絡くらいしか使わない。それ以外だと、乗り換え検索くらい。

パソコンはゲームで使うのが主だけど、別にゲームしなくたって困らないし。

あとはここで日記みたいのを書いているけど、ノートに書けばいいことだし(ただ漢字をよく忘れているから、字引をひかなきゃいけないのはめんどくさいね)。

まぁそんなこんなでパソコンからノートに戻ろうかなぁという気もしている。壊れるようなものはなるべく扱いたくないしねぇ。

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01月07日

起床時刻:11時00分

『今世紀で人類は終わる?』(マーティン・リース/草思社)
私が読んでいるからといってオカルト本ではないw
マヤ暦の予言とか出てきませんw
お偉いイギリス人が書いた本ですw

人類(ほぼ)絶滅のいろんな可能性が書かれています。

全く知らなかったことは「科学実験が宇宙を破壊する可能性」です。
科学実験といっても原爆とか水爆とかじゃないですよ。粒子加速器です。
「かつてないほどの高エネルギーで原子同士を衝突させるという実験によりストレンジットが生じ、エライことになる可能性が、ほぼゼロだけどゼロではないというのだ(ブルックヘブン国立研究所とCERNはこの実験を10年続けた場合の第惨事の発生率を五千万分の一以下としているが、ゼロではない)。

ストレンジットとは何かというと、複数のクォークが途方もなく圧縮された粒子で、触れたものを片っ端から新種のストレンジな物質に変えていくらしい。なんじゃそりゃ?
カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』に出てくる「アイス・ナイン」(常温で固体の新種の氷)と同じで、ストレンジットの場合は凍結ではなく、「地球を直径100メートルほどしかない超高密度の不活発な天体に一変させるおそれがある」そうなんですよ。

あまりに想像がつかなくて「フーン」としか言えませんね。

一方、リアルにこわいのがバイオテロの危険性。
リース先生もこっちはかなり気合いれて書いてます。
何しろ、wiredの未来予測をめぐって長期的な賭けをする「ロング・ベッツ」で「2020年までに、100万人規模の死者を出すようなバイオエラーやバイオテロが起きる」に1000ドル賭けてるんですから。
(そのあとで「もちろん、賭けに負けることを切望しているが、正直いって負けるとは思っていない」と言い訳と強気の発言をしている)

http://wired.jp/wv/archives/2002/04/08/%E9%95%B7%E6%9C%9F%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E4%BA%88%E6%B8%AC%E3%81%A7%E8%B3%AD%E3%81%91%E3%82%92%E8%A1%8C%E3%81%AA%E3%81%86%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%80%8E/

今こわいのは、例えば致死率の高い危険なウィルスのDNA配列情報をインターネットからダウンロードしこのDNA情報からウイルスを合成し、さらに強力なウイルスを改造する技術を持った科学者が世界に少なからずいるということ。
バイオテロは発覚しにくいし、核施設みたいな高額かつ大規模な開発所もいらないし、市井のキチガイが手にしたらえらいことなんですわ。

バイオテロ関係ではオウム真理教の地下鉄サリンテロの事例もめっちゃ登場していて、知らなかったんだけど、エボラの自然ウィルスを採取に南アフリカまでオウムのメンバーが行ってたんだってね(幸い、ざらにあるものじゃないので、みつからなかったらしいが)。
でも今やそんなことしなくても、もっと凶悪なウィルス(デザイナー・ウィルス)がつくれるかもしれない(もっともエボラは感染したらすぐに死亡するらしいので(←恐ろしすぎる)、蔓延はしないんだってさ。エイズみたいにゆっくりと発症すると感染して広がるらしい)

ニッポン(人)が登場したかと思ったら、オウムかよ!
と思ったら、環境問題のとこでも(「第八章 人間の活動は地球に何を引き起こすか」)、東京が登場。引用しましょう、

「東京にある「カプセル・ホテル」のようなせまいアパートに全員が住み、米中心の菜食をとりながら、お互いにネットで結ばれて移動はほとんどなし。気晴らしや欲望の充足はもっぱらバーチャル・リアリティで得ることにし、浪費社会の欧米で今日好まれる消費主義や旅行三昧に終止符を打つ。こうしたライフスタイルなら、エネルギーや天然資源を節約でき、それでいて文化や技術の進歩は妨げられない」(PP133-134)
という。

ねらーが究極のLOHASだったとは知らんかったぜ。

いやあ、日本の若者は「買わない、飲まない、出かけない」とおっさんたちに叩かれているんですけど、「エコロジカル・ライフスタイル」といってくれよぉ、ですね。

あと面白いのは、レイ・カーツワイル風の人工知能の話。
人工知能が自分で複製をしだしたら、どんどん進化していって、人間とか用済みになっちゃうかもね、って話。
並行宇宙とか多次元とかよくわかんないことも、人工知能がぜーんぶ解明しちゃったりしてね。
で、書店には「サルでもわかる物理学」じゃなくて、「人間でもわかる物理学」なんていう本が出たりして(著者は人工知能)。

もちろん、その前にナノチップを頭に埋め込んで、脳を増強できるかも。
よく人間は能力の10%だか5%だかしか使っていないっていうけど、その潜在能力を顕在化するために、脳に注射を打って文字通り「脳みそ活性化」させたりとか、色々ありそうだね。サイボーグ的な発達が。
でもそれには金がかかるから、文字通り、金持ちと貧乏人の能力の差が開く。それを見て頭に来た貧乏人がバイオテロを起こす。
サイボーグ的新型人間vsナチュラルなままの旧型人間の戦い。
どう考えてもサイボーグには勝てないだろうと思ったところで、サイボーグの脳みその中のナノチップが暴走し、サイボーグは気が狂って自滅。
「や、やった!なんかよくわからんけど、やった!」とナチュラル軍が勝つ。ていうのはもちろん、この本には書いていなくてこれは文系の妄想。

でもさー、もし将来頭にチップ埋め込めたり、なんか究極の精神薬でパフォーマンスが向上するようになってみんな「すごい人」になったらどうなるんだろうね?例えばホリエモンみたいな発想を普通の人ができるようになったら、ホリエモンのメルマガをお金を払って購読する意味がないよね?「知ってた」ってなるだけだもんね?そういう世界でどうやって金儲けるんだろうね。

もちろん、障害や事故や病気で言語障害や運動障害がある人、あるいはアルツハイマー病の人の脳の機能を回復させるためにナノチップを埋め込むなり、素敵な薬を投与することに反対する人はいないと思う。
と書いたけど、「それも個性」と言って反対する人もいるだろうな。まぁマジョリティではないだろう。
でも、そうやってチップを埋め込まれた人が普通以上になって戻ってきたらどうなるんだろうね。例えば特殊学級の子が普通クラスに入るのはいいけど、学年トップになったとしたら、そして「え?こんなのもわかんないの?」的にかつての健常児が馬鹿にされたとしたら、きっとどす黒い何かが心に沸くに違いない。

そういやネットでは芸能人に対して「あの人は整形した」というレッテル貼りというか、そういう情報が多く飛び交い、価値を持つというのは、「脳をチップを埋め込んで学年で一番になった」みたいな感じの「ズルをしている」という感覚があるからだろう。
だからきっと、「山に三年こもって一重まぶたを二重にして戻ってきました(雪舟の達磨大師の絵をみていて「座禅は目力を鍛える!」とひらめいたんです、ええ)」みたいな人は叩かれないだろう。
苦痛を伴う努力をしたときは認められるけど、裏口入学的な苦痛を伴わずに成果を出したことは認められない。苦痛を伴う努力をしても成果が出ない場合と苦痛を伴わないチートで成果が出る場合は、当然前者のほうがエライ。でも報酬はゼロ。頑張っても成果がなければ、その過程の努力は自己満足しかえられないのだ。過程の努力を評価してくれるのはお母さんくらいだろう。しかし世の中の人はお母さんではない。だから報酬ゼロで頑張ってきた人は、頑張らずに報酬だけ持っていく人を叩くのだ。ま、気持ちはわかるけどね。

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01月06日(金)

起床時刻:11時30分

ランボーの「稲妻」という詩は
「人間の労働!爆発が時おり俺の深淵を照らし出す」
と始まるのだが、そのあとの4行ほどのわけのわからない部分をいきなり省略すれば非常に共感できることを言っている。

「―俺にどうすることができよう?俺は労働を知っている。そして科学はあまりにものろすぎる」

そうなんだよね。
私もね、「―あたしにどうすることができよう?あたしは労働を知っている。そして科学はあまりにものろすぎる」と思っているんです、奇遇ですね、どうも、なのよ。

このひとつ前の詩「不可能」の
「俺の精神よ、気をつけろ。救済の暴力的な解決策などない。自分を鍛えろ!―ああ!科学は俺たちにとって十分早くは進まない!」
を引用して敷衍すると、
「気をつけろ、革命のような「救済の暴力的解決策」は結局、労働の問題を解決できない。
自分の精神を鍛えて心頭滅却すれば、火もまた涼しで心身の悩みは解決されるが(ヤッタネ)、そんなの無理!
科学によって、めんどくさいこと全部やってもらえればいいのに!
例のクソアニメ「フラクタル」の世界みたいにさ、科学がチョー発達して、あくせく働かなくても生きていけたらいいのに。
ああ、でも科学は俺たちにとって十分早くは進まないんだ!だから働かなくちゃいけないんだ!働きたくないタルー!」

ってランボーくんは嘆いているんだよね?あたしもそう!って違うかな?

違うかもしれないな。そのあとに

「俺の生は擦り切れている。さあ!本心を偽って、のらくら生きてやろう、おお、惨めなことだ!そして俺たちは暇をつぶし、化け物じみた愛と幻想的な宇宙を夢見て、ぶつぶつ文句を言い、世界の仮象にけちをつけながら生きていくだろう、軽業師や、乞食や、芸術家や、追いはぎ―それに司祭そっくりだ!」

と言っているように、彼はのらくらは嫌なんだもんな。
そう、彼は超活動的な人だった。
本の最後に年譜があるんだけど、もう活動的すぎて、びっくりする。
例えば三十代では「ショアのミネリク王との武器取引のための隊商を編成し、ひとりで隊商をひきいてタジューラに出発、首都アンコベールへ苦難の旅をする」とか書いてあって、固有名詞が一個もわからないんだが(誰?どこ?)、ランボーが活動的なのはよくわかる。
もちろん、三十代はこれだけじゃない、これは31と32のとき。33のときはメネリク王に買い叩かれて大損したと書かれてるwww。

しかしまぁ、この冒険主義的な精神は長男じゃないな、次男(長男以外)だな、と思ったらやっぱり次男であった。
私は冒険家精神ゼロ、ちいちゃく、小市民的に、祖国にへばりついて生きていたい保守的な長子だから、
「俺の生は擦り切れている。さあ!本心どおり、のらくら生きてやろう!おお、素敵なことだ!そして俺たちは暇をつぶし、もちろん、化け物じみた愛や幻想的な宇宙は夢見ず(危ない、危ない。せいぜい二次元の嫁どまりだ)、時には匿名ブログでぶつぶつ文句を言い、世界の仮象にけちをつけながら生きていくだろう、憧れの職業、公務員そっくりに!」
ってことになるだろう。

でもさ、ランボーもさ、やりたいことは「隊商を組んでアフリカだか中東だかに行って異国の王と渡り合い、エキゾチックな美女と浮名を流す」みたいなハリウッド映画的なことであって、コツコツ、まじめに、アリさんの引越しサービスの引越し作業員になりたいわけじゃないのだ。

そんな労働、ノーサンキューなんだ。

「労働は俺の自尊心にとってあまりに軽すぎる。世界に対する俺の裏切りはあまりに短すぎる責め苦だろう。最後の瞬間には、俺は右に左に襲いかかってやるだろう...それなら、―おお!―親愛なる哀れな魂よ、俺たちにとって永遠は無駄になってしまうのではないのか!」

そ、労働は俺の自尊心にとってあまりに軽すぎるのだ。
俺様はピザのデリバリーなんかしないのだ。コンビニの店員なんかやってられないのだ。
そんなことするくらいなら、ノラクラしてやるんだってタイプなのね。

(最初の一文以外は意味わからんけどな。
「世界に対する俺の裏切り」ってなんだろう?働かないもん!ってこと?それ、「世界に対する裏切り」っていうより「お母さんに対する裏切り」なような気もする。
「最後の瞬間には、俺は右に左に襲いかかってやるだろう」っていうけど、むしろ襲いかかられるんじゃ?金返せ的な意味で。
「それなら、―おお!―親愛なる哀れな魂よ、俺たちにとって永遠は無駄になってしまうのではないのか!」の「それなら」の「それ」が「どれ」かわからない。「永遠は無駄になってしまうのではないのか!」ってどういうこと?よくわかんないけど、「まぁ、多分無駄になってしまうんじゃないかな」とは言えるな。だいたいなんでも無駄になってしまうからな)

この次の詩、「朝」これはよくわかる出だしだよ。

「かつて俺には、黄金の紙の上に書かれるべき、愛すべき、英雄的な、想像を絶する青春があったのではないか、―チャンスはありすぎた!いかなる罪によって、いかなる錯誤によって、俺は現在のわが衰弱に値するだけの者に成り果てたのか?」

こういう人、2chにもいそうだ(「昔神童()今ニート」みたいな)。そして「負組乙」「妄想乙」と言われてそうだ。

「獣は悲しみの嗚咽をもらし、病人は絶望し、死者は悪い夢を見ると言い張るおまえたちよ、ひとつ俺の失墜と俺の眠りの話をしてみてくれ。俺はといえば、ながながと「パーテル」と「アヴェ・マリア」を唱え続ける乞食ほどにも自分を説明できない。もはや俺には語ることができないのだ!(傍点つき)」(語っとるがな!というツッコミはおいといて)

ここからがかっこいい。

「それでも、今日、俺は自分の地獄の報告を終えたのだと思う。それはまさに地獄だった、昔ながらの地獄、人の子がその扉を開けた地獄だった。同じ砂漠から同じ夜へ、いつも俺の疲れた目は銀の星の光で目覚める、いつもだ、心、魂、精神という生の「王」たち、あの三博士(マージュ)が心を動かされることもなく。いつ俺たちは行くのだろうか。砂浜と山々を超えて、新しい労働の誕生を、新しい叡智を、暴君と悪魔どもの退散を、迷信の終焉を讃えに、地上への「降誕」を―最初の者たちとして!―崇めに!
天空の歌、人民の歩み!奴隷たちよ、人生を呪うまい。」

と述べた次の詩でまた、「俺!あらゆる道徳を免除され、自分を道士(マージュ)か天使かと思ったこの俺が、求むべき義務と、そして抱きしめるべきざらついた現実とともに土に返されるのだ!百姓だ!」(「訣別」)と呪っているので、なかなか悟りは開けませんな、ということなんだけど。
アレント的な「労働/仕事/活動」の区分でいえば、「労働は僕のやりたいことじゃない!」ってランボーは思ってるんだね。
しかし、労働(人間の生存に必要な労働、家事労働や肉体労働、単純労働)こそが奴隷のやるべきことなのだ。
一方、仕事は人工的世界を作り出す営み、例えば芸術や建築なんだけど、これならランボー様もやってくれるかというと、ランボーは「軽業師や、乞食や、芸術家や、追いはぎ―それに司祭」といった仕事人(乞食はどうかわかんないけどw)は惨めだと言い放つ。

ランボーがやりたいことは「活動」である。パブリックな空間で対話や討論を行うことがアレント的な意味での活動(ギリシアのポリスでアゴラに集まってクダを巻く的な)だろうけど、ランボーはもちろん「対話」なんかじゃなくて「活躍」がしたいんだろうなw。「活動」じゃなくて「活躍」。
現代日本に生まれたら商社マンとして世界を駆け回っているか、ニートかプレカリアート化して恨みつらみをブログに綴っているか、まぁどっちかだろうなw。

それにしても、ランボーも遠くなりにけり、なところ、あるよなあ。
21世紀では「新しい労働も新しい叡智も暴君と悪魔どもの退散」も既にありえないことと分かっているから、それを崇めに行くこと(夢見る=妄想する)ことすら難しいもん。
新しい労働には新しい隷属が、新しい叡智には思想統制が、暴君と悪魔どもを退散したあとには人間は一人も残らないだろうってことをもう知っちゃっているんだよね。

引用は『ランボー全詩集(A・ランボー、鈴木創士訳 河出文庫 2010.2.20)』より。

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01月05日(木)

起床時刻:10時06分

いやぁびっくり、ポジティブ原理主義のアメリカで私以上に堂々とネガティブな絵本があった。これはもう、ネガティブ中のネガティブ、キング・オブ・ネガティブである(ネガティブというより、ディプレッシブというべきかな)。

記事をまるごとコピペしよう。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/51366889.html

「エドワード・ゴーリー(2000年4月15日没、75歳)というアメリカの絵本作家が描いた絵本『ギャシュリークラムのちびっ子たち―または遠出のあとで(The Gashlycrumb Tinies)』は、お名前の順(アルファベット順)で子どもたちが一人ずつ、悲惨な死をとげていくという不条理でシュールな物語なんだ。そんなダークな内容が多いエドワード・ゴーリーの描く絵本は、子どもたちよりも大人たちに人気があるんだけれども、その絵本がアニメーションとして動画で公開されていたので、まだ見たことのないおともだちは見てみることにしようそうしよう。

Aはエイミー かいだんおちた
Bはベイジル くまにやられた
Cはクララ やつれおとろえ
Dはデズモンド そりからなげられ
Eはアーネスト モモでちっそく
Fはファニー ヒルがきゅうけつ
Gはジョージ じゅうたんのしたじき

Hはヘクター ごろつきのえじき
Iはアイダ おぼれてふびん
Jはジェイムズ アルカリごいん(誤飲)
Kはケイト まさかりぐさり
Lはリーオ がびょうをごくり
Mはモード もくずときえて
Nはネビル のぞみもうせて
Oはオリーブ キリがつきぬけ
Pはプルー けんかのまきぞえ

Qはクェンティン おちたのはぬま
Rはローダ あわれひだるま
Sはスーザン ひくつりえいみん

Tはタイタス どかん!こなみじん
Uはウーナ げすいにらっかし
Vはヴィクター せんろであっし(圧死)

Wはウィニー さむいさむいこおりのなか
Xはザクシーズ いたいいたいねずみのは(歯)は
Yはヨリック のうてんわられ
Zはジラー ジンをふかざけ

この訳は、翻訳家の柴田元幸さんによって訳されたものだそうで、韻を踏むエドワード・ゴーリーの詩にあわせて、リズミカルな日本語に意訳されているみたいだよ」。(ひくつりえいみんってなんだろうと思ったらの原文はperished of fits、てんかんで死亡といったとこだろう)
(原画はこちら)
http://manitame.blog115.fc2.com/blog-entry-3891.html

これ 図書館協会選定図書らしいんだけどなんで?
どっからどうみても、「読んじゃいけません!見ちゃいけません!ネガティブ菌がうつります!」って話だろうに。それともアメリカ的にいって、どんなものでも売れたらネガティブ度が薄まるのかな?お金という消毒液の作用で。

「こんな絵本を子供にみせるな」みたいにもっと罵倒されてるのかなと思ったら意外と好意的なコメントが多い。中には「真実は時に嫌悪されるもの。それでも敢えて伝えなければならないもの」ていうのがあったんだけど、真実は違うな。

この絵本のように死ぬのが全員子供なら、多くが不慮の事故(か病気)になるわけだけど(上ではなぜかジンで深酒しとる子供がまじっとるが)、日本人の成人でリアルにつくるなら、三分の一がガンで死ぬってことになるわなぁ。

Aはエイミー 胃がんで死んだ
Bはベイジル 大腸がんで死んだ
Cはクララ 子宮がんで死んだ
Dはデズモンド 喉頭がんで死んだ
Eはアーネスト 肺がんで死んだ
Fはファニー  舌癌で死んだ
Gはジョージ 肝臓がんで死んだ
Hはヘクター 十二指腸がんで死んだ
Iはアイダ 乳がんで死んだ

みたいな感じになるのが真実だな。
その次は心臓麻痺とか脳溢血とか肺炎、不慮の事故が続いて老衰はたったの3%。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai08/kekka3.html

だからまぁほぼ全員病気で死ぬわけなんで「大丈夫よ、ケイト!あなたはまさかりでは死なないわ!たぶん、ガンで死ぬわよ!」といわれて「わぁい」ってなるかっつーとならないんだけどね。

同じ作者の別の絵本、エドワード・ゴーリー作「不幸な子供」もネガティブすぎる。

http://blog.livedoor.jp/bad_story/archives/263948.html

救いのない小公女セーラだわ。
てか、リアルの小公女セーラはこんなエンディングだったかもしれん。

この絵本の主人公シャーロットのおとうさまは死亡(原住民の謀反が起きて大佐であったおとうさまが殺される)。入れられた寄宿学校でいじめ抜かれて家出。悪人に連れ去れれて虐待&内職の日々。

「そうこうするうちに、実は生きていたお父さまが 帰国なさいました。
お父さまは毎日 シャーロットを探して 車で街をまわりました。
とうとう ごろつきが発狂しました。
もうほとんど目が見えなくなっていたシャーロット・ソフィアは、表に飛び出しました。
そしてたちまち 車に轢かれてしまいました。
お父さまは車を降りて 瀕死の子供を目にしました。
あまりの変わりように、お父さまはそれが自分の娘とはわかりませんでした。
おしまい 」

これはすごい。これはネガティブだ。
神様に祈ったり、「私はできる!私はやれる!」とかいうポジティブな自己暗示をかけたら、成功が向こうから転がりこんでくるっていうのが、アメリカの哲学(自己啓発)じゃないのかね?

アメリカ精神を体現した正しい童話というのは、シャーロットが悩んでいたら、「大事なことは成功したときのイメージを持つことなの、シャーロット。それも具体的にね」とかアドバイスしてくれるメンタル・トレイナーだかアファーマティブ・アクション・コーチだかが登場するというものだろう。

成功したシャーロットは(最初にいれられた寄宿学校を訴えて莫大な慰謝料を得たおかげで、コーチングの料金を支払うことができたのである)、『私はいかにして不幸な子供から脱却できたのかーたったひとつのシンプルな法則』とかいう本を出して、がっぽり儲ける。

童話の最後は「車にひかれて死亡、いいことなんか何もなかった人生でした、おしまい」なんかではなくて、「自分のことを信じて。これが私にいえること。いつでもポジティブに、自信を持って行動すれば、きっと神様はあなたを助けてくれるわ。だって私がそうだったんですもの!」とかいうメッセージを発するのが正しいアメリカの童話だろうに。

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01月04日(水)

起床時刻:13時00分

年末年始はやっぱりゲームだった(アビセア乱獲、メイジャンの試練)。
あと映画をみたり、録画していたテレビ番組をみたり。

実家からの年賀状、今年も「今年こそ里帰りを!」って書いてあった。

私は自分の両親に対して120%の敬意と愛情を抱いているのだが、それでも特に会いたいとは思わない、ということに気づいて愕然とする。
ていうか、誰に対しても特に会いたいとは思わないんだけどね。
昔はもうちょっと人付きあいがよかったんだけど、一回めんどくさくなると、とことんめんどくさくなる。

年をとることの数少ない利点のひとつが人付き合いをしなくてもよくなることだね。

若いうちは「”友達がいない””人気がない(むしろ嫌われている)”ということを人に悟られるのが死ぬほど恥ずかしい」的な強迫観念があるし、プラクティカルにも色々不都合なことがある(修学旅行の班分けとか、ランチのときとか、体育の「二人一組つくって」のときとか。だからそういうときにハブられないようにするためだけの友達づきあいっていうのもあるわけだ)。

年をとるとそういうのなくなるから(ゼロではないにしてもかなりの程度なくせる)。年とると「人気者」より「金持ち」のほうが羨ましがられる。友達より金の時代が来るわけだ。

ま、私みたいに「友達も金もない」という場合でも、それが原因でいじめられるとかそういうことはない。
だいたい強制的な人付き合いの場(=学級)がないから、いじめる人がいない。逆にいえば、強制的な人づきあいの場がある人、例えば、子供がいてママ友づきあいがあるとか、田舎で地域共同体が根強くある場合はまた話が別だろう。

人付き合いというのは、人に期待される仮面をかぶってその役割を演じなくちゃいけない側面がある。
今時の言葉でいうなら、キャラをつくるってやつだ。
家族の中でももちろんある。「お調子者の弟」、「天然ボケのお母さん」とか、そういうキャラ設定(もちろん無からつくるのではなく、もともとそういう面を持っているわけだけれども)に応じてNHK的予定調和の世界で「家族団らん」するわけだ。

「こう言ったら、こうつっこむ」、「こう出たら、こう返す」みたいなお定まりのセオリーが人付き合いの中にはあって(それが空気を読むってことだろう)、それってコミュニケーションの省エネ化だと思うんだけど(だから(テレビでみるところの)一般大阪人の定番の”お笑い”が極めて陳腐なのも、お笑いではなくて挨拶ないしはメッセージだからだろう(「私は無害な大阪のおっちゃん、おばちゃんですよ」的な))、それはそもそも人付き合いが極めて疲れるものだから発達したんだと思う。

だけどその省エネ化のセオリーに従わなくちゃいけないという圧力(=空気を読めという圧力)もまた、ものすごく疲れるもので、しかもそれが実に不毛な条件反射の応酬にすぎないことを参加者はわかっている。

人付き合いとは疲れるもの(虚しければなおさら)なのに、人付き合いから抜け出せない(どころか、ソーシャル・ネットワークの発達によって二十四時間人付き合いしなくちゃいけないことにもなっている)。

じゃあ空気を読まずに剥き出しの自分でいくか、といえば、それはそれで普通に嫌われる。
昔、今井美樹が「ど~してもっと自分に 素直に生き~れないの~?」と歌っていたが、素直に生きたら嫌われるからだよっ。
だからまぁ
①嫌われないようにキャラを演じる
②素でいって嫌われる
③すべての人付き合いを避ける
の三択しかないような気がするんだよね。
ま、多くの人は①=フェイスブック、②=2chみたいに使い分けてるんだと思うけど、それができない不器用な人とめんどくさがり屋がひきこもり化するんだろうな。ま、私なんだけど。

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01月03日(火)

起床時刻:11時45分

いきなりだけど、どこまでが自己責任でどこからが自己責任じゃないんだろうね?

自己啓発本的にいえば、不幸の原因はネガティブにあるんだから、不幸な人はネガティブな性質を持つ自分自身に責任がある、ってことになる。
「そんなことないもん、社会が悪いんだもん!」と言い返すと「はい、出た、ネガティブ発言!」とイエローカードを出されるんだから、何も言えなくなっちゃうよね。

ま、それはともかく、この前の大震災で大事な人や財産を失った人はどうなるのだろう?これはまぎれもない不幸だが、さすがに「ポジティブな心で災害をコントロールできる」と主張する人はいないだろう。

と思ったら、石原都知事や韓国の牧師など、比較的色々な人が「罰があたった!罰があたった!」と言っていたから、「災害にあう人=天罰を受ける人=本人に問題がある人」という自己責任論を展開する人もいてびっくりしたんだけど。

しかしまぁ普通は地震で家が潰れたり死んだりしたことを「自己責任」とは思わないだろう。

だけれども、例えば一回地震や津波ですべて壊されたところに、もう一回、同じ家を立てて、また地震や津波で壊された場合は、どうなるのだろうか?それは津波警報が出ているときに海岸に近づくのと同じで自己責任になるのだろうか。

「ちょっとあんた、また、そこに建てるの!地震と津波でつぶれたばっかりじゃないの!」と思う可能性もあるのじゃないか。

しかしまぁ考えてみたら、「津波で流された海辺に家を建てるなんておかしい」と思っている人も平気で日本に家を建てているわけで、外国人からみれば海岸に家を建てるのと、日本に家を建てるのとでは、たいして違いがないかもしれない。外国人からみれば、「東北の海辺の町と東京の違い」は「荻窪と西荻窪の違い」くらいしかないのかもしれない。

となると、東京に住んで地震にあって家や財産を全部失うのも自己責任ということになりかねない。
「地震の危険性は知っていましたよね?その上でそこに住んだのですよね?じゃああなたの責任です」ってことになりかねない。

しかし東北の海辺の町にまた家を建てる人も東京の町にしつこく住み続ける人もいうだろう、「だって他に行くとこがないんだもん」と。

山田昌弘の『なぜ若者は保守化するのか』をパラパラとめくっていたら、「先日スペインのテレビ曲の取材を受けたときも、ディレクターは「もし最低賃金が日本並に低ければ働ける若者たちはスペインから出て行って賃金がもっと高い国に行ってしまうだろう」と言われた、という話が書いてあったんだけど、最低賃金が低い上に、いつ地震がきてもおかしくないところ(しかも最低賃金層は木造モルタルアパートみたいな地震に弱いところに住んでいる可能性が高い)に住み続けてるっていうのは、どういうことなんだろうね?

よく老人が住み慣れたところを離れたくない、といって、災害跡地みたいなとこに困難な状況の中でしがみつくのをみて、「なんで老人はああなんだろうなぁ?」と思うことがあるけれど、日本人が日本にしがみつくのをみて、外国人は「なんで日本人はああなんだろうなぁ?」って思ったりするのだろうか。

言い換えると、若者の目から見れば、行動や選択の自由がいっぱいあるのに、老人にとっては実質上ひとつしかない、ここに住み続けるしかない!って結論になり、他の行動や選択をとらなかったがために不幸になったとしたら、それは老人の自己責任になるのだろうか。

外国人の目から見れば、行動や選択の自由がいっぱいあるのに、日本人にとっては実質上ひとつしかない、日本に住み続けるしかない!って結論になり、他の行動や選択をとらなかったがために不幸になったとしたら、それはその日本人の自己責任になるのだろうか。

実際のところ、選択肢はどれほどあるのだろうか。
自己啓発本ならいうだろう、「見えない鎖に縛られているだけだ」と。サーカスのゾウの例を出すかもしれない。

しかし、サーカスのゾウが逃げ出した先には何があるというのだろうか。
間違いなく、アフリカやインドには帰れないだろう。
よくても連れ戻され、悪ければ射殺されるだけじゃなかろうか。

どう転んでも不幸なら、今いるところにじっとしているというのが一番望ましい(疲れない)ということになるんだろう。

それはそれで、「今いるところにじっとしている」という選択を主体的にしたのだから、あなたが責任を取りなさいね、ってことになるのだろうか。

もちろん、サーカスのゾウの場合はどこかから誘拐されてきたのだろうから、ゾウの不幸はゾウには責任はないが、人間の場合はブラック企業に就職したり、最低賃金で超切り詰めて生活したり、災害多発地帯(津波で流されたとことか、あるいは日本全土とか)に住み災害にあうのは、全部、そのひとの責任ってことになるんだろうか。なぜなら、別の選択肢が他の人には開けているのに、それを選び取らず、今ある状況を本人が選択したからだ。

まとまっていないけれど、なんとなく言えることは、自己責任にするほうが、自己責任にしないことより、簡単だということだ。
「他の人できる→お前できない→はい、アウト!」っていう簡単な論理だからね。

そして自己責任にできることは無限だということだ。
「勉強できないのは自分のせい」や「就職できないのは自分のせい」はまだしも多くの人が納得するだろうが、「災害にあうこと」だって「自分のせい」にできるのだ。なぜなら災害にあわない地域に住める可能性もあるのにすまなかったのだから。
あるいは災害対策を十分講じない政府をそのまま放置したのも自分のせいだし、原発が自分とこの隣り村にできたのも自分のせいにできる。
不幸な人は基本的にその人が悪いのだ。そう思うほうが誰の心も痛まない(不幸な当人の心以外は)。とは、まぁ、普通は思わない(が思う人も予想以上に多いだろう)。

だからどこまでが自己責任でどこからが自己責任じゃないのか、よくわかんないなぁ、とか考えたりするのだ。まとまってないけど。

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01月02日(月)

起床時刻:12時45分

あー、また記事が消えてしまった。どうでもいいこと書いてたんだけど。
知人に「いいことが次々と起こる魔法の言葉(仮題)」的な本をいただいたので、パラパラと5分くらいで読んだのだが、実にひどいなって話。

一言でいうと「悪い行いは必ずその報いを受けます。ネガティブな言動は不幸を呼び込みます。良い行いとポジティブな言動をすれば次々といいことが起こり、100%幸せになれるでしょう」という内容。

おいおい、日本人を拉致誘拐した犯罪者のキム・ジョンイルは刑務所に入ることもなく、罰を受けることもなく、国民を飢えさせて自分はデブのまま、北朝鮮国民から崇拝されつつ死んでいったけど、悪因悪果じゃないのかい?「天網恢恢疎にして漏らさず」じゃないのかい?

ま、確かにポジティブなことは相当ポジティブだったけどな。毎回、「わが国の完全勝利」宣言してたからな。
日本も「歴史的な円高は日本経済の完全勝利であり、日本の国力が世界を圧倒しているのでありますスミダ」的な誇大妄想発言をすれば、好景気が向こうから舞い込むっつーのかね。「然り!」と自己啓発カウンセラーみたいな連中はいうだろう。何しろ「予言の自己成就」って言葉が座右の銘だからな。

それから「情は人のためならず」というのもこの本は力説している。人に情をかければめぐりめぐって自分に返ってくる、場合によっては倍返しで返ってくる、という「わらしべ長者」発想もみえて、実に乞食くさくていやだ。
人類の無償の愛を注いだイエスなんか市中引きづり回しの上、磔獄門だぞ。どんなお返しだよ。

「愛してもらいたければ、まず愛しなさい」というけど、イエスは愛されてないから(少なくともイエスを罰した人たちからは)、愛が足りなかったっていう結論になるんじゃないかな。
ていうか、自己啓発本的に考えれば、ネガティブだったからあんな目にあったのかな。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度、私のことを、知らないと言うだろう」とかいうのも、予言の自己成就の観点からしてよくないよね。もし自己啓発業者がそこにいたら、「常にポジティブなことだけを口にしないといけませんよ!」と言霊の力とか暗示の力とかを言いつつ、諌めていたことだろう。

ま、自己啓発信者が自己啓発を広めるのはいい。自己啓発の神様という勧善懲悪のポジティブ神を信じるのは別にいい。

私が一番いらっとするのは、宗教の簑をかぶって、「神様はポジティブな人が好きですよ」「ブッダのことばを実行すれば運がよくなりますよ」という人のふんどし(宗教)で自己啓発相撲をとることだ。

確かに主観的幸福は信心と関係があると私は思うが、客観的あるいは世俗的幸福と信心は関係ないと思っている。だから信心と世俗的幸福を結びつける宗教はまがいもんだと思っている。そういうまがいものにキリスト教や仏教をするな、と私はいいたい。

といいつつ、私はくれた人に「小さいことにも感謝しつつ、もっと明るく、肯定的に生きていこうと決意を新たにしました。新年にふさわしい本をいただき、心から感謝します」とかっていうお礼の手紙を出すんだろうなぁ。
そしてこの本によると、こういうお礼行動が「次々とプレゼントをもらう方法」なんだそうな。この本のようなゴミばかりもらっても仕方ないんだが、この著者の乞食根性は半端ないから、なんでももらいたがるんだろうな。

まぁでも、この本をくれた人は「とても感動したから是非に」と買い求めてくださったそうなのだ。本をくださった気持ちだけは有難いことは有難い。それは嘘ではなくそう思う。でも、お気持ちだけでいいんですけどね。

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01月01日

起床時刻:13時00分

正月から地震があった。「天災は忘れた頃にやってくる」というが、実は統計データをみると、「天災は一度起こると立て続け」というほうが正しいようだ。
私たちは一般的に「そろそろ東海地震がくる」という言い方をする。かつて周期的に起こってきたことは規則性をもってまた同じ周期で起こるはずだ、という確信があるからだ。何しろ海洋プレートや活断層という地質学的条件は何も変わっていないのだから、地震が起きないほうがおかしいと思う。

しかしマーク・ブキャナンのとっても面白い本『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』によれば、「地震というのは遅れているバスと同じで、一時間待ったら三台立て続けにやってきたりするんだよ」という(この人は例えや引用がセンスいいんだよなぁ)。

「ところがありのままの統計データは実はまったく逆を示している。地震の間隔を統計的に詳しく調べたところ、ある地域では地震の発生しなかった期間が長いほど、近い将来にそこで地震が発生する可能性は低くなるということが見出されたのだ(注1)。ロンドンの人々は一九番のバスを一時間も待った挙句、一度に三台もやってきた、とよく不満を垂れる。地震もそうなのだ。地震はまとまって起きるのである。現在地震を予知する最良の方法は、一度地震が起きるのを待ち、そして直ちに別の地震が起きるという予知を出すという方法だろう(注2)」(P67)

注1:P.M.Davis,D.D>Jackson and Y.Y.Kagan, The longer it's been since the last earthquake, the longer the expected time till the next? Bull.Seismol.Soc.Am. 1989;79:1439-56.
注2:R.Geller, Earthquake prediction:a critical review. Geophys.J.Int.1997;131:425-50

地震の間隔はその待ち時間が短いほど頻度は上がり、それが通常のべき乗則に従っているらしい。
オラミ=フェダー=クリステンセンのゲームモデルの変種を使って神戸大学の伊東が行なったシュミレーションによれば、地震の起きなかった時間が長いほど、その先も地震の起きない時間は長いだろうという結論が導かれた。
ゲームモデルにおいても地震の間隔は通常のべき乗則に従う。待ち時間が二週間の地震は一週間の自身の2.8分の1の頻度で起こる(二ヶ月と一ヶ月、二年と一年も同じ。現実世界では、2.6分の1の頻度で起こっているそう)。

そして地震の規模がどのくらいになるのか、誰にもわからないそうなのだ。「あ、これは小幅で終わるな」とか「お、これはやばいぞ」とか予想できないんだそう。その理由は砂山ゲームを使って説明される。地殻は砂山ゲームと同じく、時間とともに「臨海状態」へと組織化されていき、あらゆる大きさの不安定性という見えざる手によって穴だらけにされている。また「スケールに依存しないという「べき乗則」の性質によって、大規模な出来事は小規模な出来事を単に拡大したものにすぎず、それらは同じ原因で発生する」(P150)からなのだ。つまり大きい地震も小さい地震も始まりは一緒で、たまたま大きくなったり小さかったりするってことなわけ。

「コロンビア大学の地震の専門家クリストファー・ショルツは次のような独創的な言葉を残した。「地震は、起こりはじめたときには、自分がどれほど大きくなっていくか知らない。地震に分からないのなら、我々にも分からないだろう」(p.117)

そしてこれは金融市場にもあてはまる。いつ大暴落が起こるかわからない(しかし、それは地震や種の絶滅と同じく必ず起こる)。株価の下落が小幅な調整局面か大暴落の前触れかはわからないんだそうだ。

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