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起床時刻推移グラフ

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02月29日(水)

起床時刻:08時00分

この日は雪でエライ目にあった。

ポール・ラファルグの『怠ける権利』(幻冬舎かっつーくらいに心を鷲掴みにするタイトルですな)を読んだ。

昔は1つ作るのに10日かかっていたことが、機械の発達のおかげで、今ではたった1日しかかからないようになったんだから、1日働いてあとの9日は働かずに怠けてればいいじゃん?ていうか、1日3時間労働で十分じゃん?というようなことをラファルグは言うんだけど、当時、ヨーロッパでも12時間労働が当たり前だった時代に、3時間労働たぁびっくりされたんじゃなかろうか。

私はもちろん、3時間労働派だが、しかし、夫が3時間労働になって、会社に行ったかと思えばすぐ帰ってくるようになったら、それはそれで恐怖である。なぜなら、今まで夫が会社で過ごしていた5時間くらいを家でゲームして過ごすことになるわけで、私も当然、ゲームに駆り出されるからだ。

思うのだが、多くの人は自由時間に耐えられないのではなかろうか。
私みたいな生粋の暇愛好家(=怠け者)ならともかく、たいていの人は暇であることがつらい。空白の時間というのは人生の過ぎ行く速さを嫌でも思わせる。空白の時間はまた、自分の人生の無意味さをしみじみ感じさせる。

だから、そういうものから目を背けたい。空白の時間をなくしたい。というニーズがあるために、レジャー産業(出版業界とかゲーム業界とかスポーツ業界とか)が栄え、人生に意味を添える人と「つながる」行動に喜びを見出すのだ(SNS業界が栄えるわけだ)。

私の伯母が書道の先生で、伯母のものした「福澤心訓」の額が実家の玄関に掲げられている。「一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です」とか7つくらい訓示をたれているんだが、見るたびにイライラしたものだ。てめーのやってるようなチャラチャラした仕事だけが仕事じゃねぇんだよ。女工となって紡績工場で働いてみろや。蟹工船に乗って底辺労働してみろや。本当は「世の中で一番さびしい事は、金のないことです」だろうがよ。このクズ偽善者が。

と思って福翁が嫌いだったんだけれども(今wikiみたら「「福澤心訓」は作者不明の偽作である」とあった。あららw)、仕事のないのはさびしいことなのかもしれんね。仕事がないと擬似仕事を探し出すという習性を見るにつけ。
まぁ「ほどほどに仕事をやる」ってのが一番いいんだろうけど、「ほどほど」ってのが難しいんだよね。「ほどほどでいい」なんていう経営者は一人もおらんからな。

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02月28日(火)

起床時刻:08時00分

今日は八百屋で愛知の式部草(加賀では金時草、熊本では水前寺菜というらしい)を買ってきた。
よく言えば野趣あふれる味わい、悪くいえば雑草っぽいんだが、さっと茹でるとぬめりが出て、それが好きだ。

私は小さい頃から、ヌルヌル系のぬめっている食べ物が大好きで、なめこ・山芋・長芋・里芋・オクラ・ツルムラサキ・モロヘイヤ・もずくなどなど、全部大好き。子供というのはだいたいがヌメヌメしたものを嫌うのだが、私は幼少より胃弱なもんで(どんな子供だ)、ムチン類を体が欲していたのだろう。

とはいえ、この式部草、ほろ苦く、クセのある味わいなので、好き嫌いが分かれるだろう。
Yomiuri Online「おうちでシェフの味 金時草のお浸し」のポイントにあるように「金時草は苦味があるので、流水でしっかり洗う」のが大事なようだ(更にえぐみを抜くために二度漬けするそうな)。私は洗い方が足りなかったのかもしれない。でもそんなジャブジャブ洗ったら、栄養価が全部流れていってしまうんじゃ?って思っちゃうんだもん。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/cooking/taberu/20100913-OYT8T00610.htm

まぁおひたしだと、「ジャブジャブあらいの二度漬け必須」だろうけど、私は胡麻味噌あえで食べたから大丈夫。焼いたお揚げを短冊に切って入れると、より食べやすい。私は結構好きだ。

しかも『魔女たちの22時』で式部草(+α)を食べてエライ若返ったという報告があるそうな。式部草は紫っぽいのだがポリフェノールが含まれているらしい。
http://diet-choice.jugem.jp/?eid=95

八百屋さんで150円だったし、また買ってくるかな(←影響されやすい)。

今日の夕飯は粕汁(私だけ。旦那は豆腐とニラの味噌汁)、鯛めし(冷凍しておいたのをチンしただけ。旦那には白ご飯)、式部草とお揚げの胡麻和え(私だけ)、薄切りにした赤かぶの漬物(ジップロックで適当に漬けたもの。私だけ)、菜っ葉のお浸し(両方向け)、豚肉の「スタミナ源たれ」炒め(旦那向け)。

出来上がりをみると非常に貧相な食卓なんだが、なぜか無駄に時間がかかっているという。。。要領が悪いんですよ。。。

料理ってほんと、めんどくさい。
まぁでも、自分自身のために料理をするのはさほど嫌いではないが、(家族も含めて)他人のために料理をするのは大嫌いだ。
だって人が何を食べたいかなんて、本人じゃないんだからわからないじゃん?
「何をつくれば正解なのか」を考えるだけで疲弊してしまう。
(子供の頃からの胃弱体質なだけはあって、すぐ疲れるんですわ)

そういえば分けとく山の野崎さんが書いていたけど、女性が男性より長生きするのは、日々のご飯をつくるからじゃないかって。主婦はそのときどきで、体の欲するものを自然とつくる。それが健康につながるってさ。

家族とはいえ、体の欲するものは、男性・女性・大人・子供・老人で変わってくる。だから、本当は人間、一人で生きて、自分のためだけに料理をつくるのが一番健康にいい。余計なストレスもかからない。

私はご飯を食べるのも一人で食べるのが一番好き。ほら、野良犬なんかも、よく骨を自分の巣穴みたいなとこに持って行ってこそっと食べるじゃない?ゆっくり落ち着いて食べるためにさ。私もどっちかっていうとそういう野良犬タイプなんだろうね。

なんでそんな野良犬タイプが結婚生活おくってんだよ!と言われたら、いや実は野良犬じゃありませんでした、寄生虫でした、としかいいようがないんだけどさ。孤独を愛する寄生虫。かっこわるっ。

ところで先ほど書いた「スタミナ源たれ」、最近うちの近所のスーパーで売っている。私にはちと甘いのだが、夫にはちょうどいいみたいで、これで肉を炒めると文句を言わずに食べてくれる(ついつい、キャベツなどの野菜も入れたくなるがそこは我慢)。「スタミナ源たれ」サマサマなのですわ。

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02月27日(月)

起床時刻:10時30分

昨日の続き。『全米No.1ファッションアドバイザーが教える 誰でも美しくなれる10の法則』(ティム・ガン、宝島社)、その中に「スタイルのある本」というコーナーがあるんだけど、実際のところ本を紹介していない。
映画はアレコレ紹介しているというのに!

「推薦すべき本がありすぎてここにあげることができません。どんな本を紹介するか何時間も議論しましたが、100タイトル以上になってしまいました。もしトルストイを入れるなら(もちろんトルストイは必須ですが)、ドストエフスキーだって同様。『地下室の手記』にはオーバーコートの一連の描写があり、語り手のドレッシングガウンも登場するのですから」(P236)

はい?
『地下室の手記』?
「メンヘラ気味の元祖引きこもりネガティブ」の話で、ポジティブ信者のアメリカ人が共感できる部分なんて一ミリもない話だろと思ったら、コートやガウンに共感するんだねぇ。びっくりするわ。『地下室の手記』が「スタイルのある本」になるたぁ、お釈迦様もドストエフスキーも思うめぇ。

あまりにもびっくりしたので、家にある『地下室の手記』(新潮社版)を読み返したのだが、オーバーコートの一連の描写って、ココだよね?

(ざっくり書くと)
ペテルブルグの銀座通りみたいなとこで、人にぶつかりそうになるとついぼくはよけてしまう、今度は絶対によけないぞ!でも、こんなボロコートじゃ、人に見下されてしまう、いや、コートはまぁまぁいいものだけど、コートの襟がアライグマなのがダメだ、アライグマじゃバカにされてしまう!!そうだ、ドイツ製のビーバーにしよう、そうしたら、立派な人だって思われるもん、でもお金ないし、、、仕方ない、借金しよう、ようし、借金して買ったビーバーの襟をぬいつけたぞ、あとは銀座通りで肩をぶつからせるだけだ、絶対に自分からはよけないぞ!!
でも、いざ敢行すると、どうやってみてもぶつからない、あともうちょっとと思ったら、気づくと僕がよけていて、通行人はまるで僕などいなかったように通り過ぎていくんだ。
一度はもう少しのところまでいったが、結局足を踏まれて終わりだった。というのも、「いよいよという土壇場になって、あと数センチというところで、意気がくじけてしまったのだ。彼は落ちつきはらってぼくを踏みこえて行き、ぼくは、それこそまりのように、横っちょにすったんだ」
(ここで大量の「www」を付け加えたいところだ)

しかしまぁ最終的には目をつぶることで、肩をぶつからせることに成功した。「もちろん、よけい痛い目を見たのはぼくのほうだった。彼のほうが力が強いのだから。」
(ここにも大量の「www」を付け加えたいところだ)

「しかし、そんなことは問題じゃなかった。問題は、ぼくが目的を達したこと、品位を落とさず、彼に一歩も道を譲ろうとせず、公衆の面前で社会的に彼と同等の人間だということを見せつけてやった点だ」

思うんだけど、この一連の話をフェイスブックに投稿したとして、何人のアメリカ人が「いいね!」を押してくれるんだろうか?
ティムは「ドイツ製のビーバーの毛皮」に「いいね!」を押すのだろうか?
「典型的な哀れなルーザーだね」と見下すだけじゃなかろうか。

でも、この書き手が「ドストエフスキー」さんであることがわかると、とたんに誰もかれもが「いいね!」を押すんだろうなぁ。

あるいは「オテル・ド・パリ」のカフェ・レストランで、いいとこのぼっちゃんの送別会に行ったときのこととか、フェイスブックに投稿された記事だと思って読むと、黒歴史すぎて「アイタタタタタ」ってなると思う。

基本、この人嫌われ者だから呼ばれてもいないのに(むしろ明らかに迷惑がられているのに)、ノコノコ出かけるのだ(知らない間に勝手に集合時間を変えられて、一人でじーっと皆を待つという屈辱を味わうwww)。

肝心なことは、彼は空気読めないんではなくて、空気を読んで、わざわざ嫌われるようなことをし、嫌われるような状況に自分をおき、それにゾクゾクしているのだ。「嫌われてあることの不安と恍惚、二つ我にあり」ってとこですな。自意識過剰男なんですよ。

さて、ティム的に興味のあるのは服装だろう。
「だが、何より困ったのは、ズボンのちょうど膝の上のところに、ばかでかい黄色いしみができていることだった。このしみひとつだけでも、ぼくの品位の十分の九は吹っとんでしまうことをぼくは予感した」(P107)
ティム的には「ぼくの品位の十分の十」が吹っ飛ぶというだろう。
膝のところのばかでかい黄色いしみ!そしてそれを着て、一流ホテル(たぶんそうだろう)に行くという暴挙!!卒倒するんじゃないか。

しかし、ドストエフスキー(あるいはこの小説の主人公)はティムではないので「だが、そんなふうに考えるのが実に下劣だということも、やはりぼくは承知していた。<略>ぼくはまた同時に、自分がこうした事実をひどく誇張して考えていることも、よく承知していた」という。

そう、人間はズボンの中身であって、ズボンではない。ズボンのしみがどれほどのものか。
襤褸をまといても心は錦というではないか。
しかし、現実には「襤褸をまといても心は錦」と主張する人は狂人と言われるのだがね。

まぁ、この『地下室の手記』はそういうダメでひねくれ者のぼくちんの話だけではなくて、「人間の理性なんてあてにならない、人間というのは利益だけではなくて、破滅をも望むものなんだ、だって非理性的な存在、それが人間なんだもん」というような話を脳内「諸君」(唯物論的進歩主義者とか観念論的理想論者とか)に向けて語るんだけど、つまりは人間の合理性やら理性やらを進歩やらを疑ってかかっているわけで、共産主義の信条だけでなく、そもそも近代の信条に大きな疑問符をつきつけているのだ。
「個々人が自分の利益を最大化しようと行動すれば神の手が働いて、すべてはうまくいきやんす」なんて言説に対しても、自分の利益なんてものを人間が把握できるわけないじゃん?把握できたとして、わざと自分の不利益になるようなことをするかもしれないじゃん?と疑問を呈しているのだ。

前、佐藤優がドストエフスキーが流行る社会は病んでいると言っていたが、確かにそうだ。だけど、私たちは基本、病んでいるからね。ドストエフスキーがピンと来ないほうが健全なんじゃないかって気もする。
フェイスブック的世界に安住していたほうが病まなくていいと私は思うんだわさ。そして、ドストエフスキーの『地下室の手記』よりも安野モヨコの漫画のほうが「スタイルのある本」として推薦するにふさわしいと思うのだが、どうだろう。

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02月26日

起床時刻:14時30分

『全米No.1ファッションアドバイザーが教える 誰でも美しくなれる10の法則』(ティム・ガン、宝島社)という、こっぱずかしいタイトルの本をうっかり買ってしまった。
ティムによれば、スタイルを磨き続けるためには「文化的な幅をどこまでも広げておくこと」が必要だそうで、最後の章では「自分を磨き続けるアイテム」の紹介(「スタイルのある映画」「スタイルのある本」「スタイルのある香り」など)がされている。

この、映画や読書なり、音楽や美術鑑賞なりで「文化的な幅をどこまでも広げる」(”感性を磨く”、といってもいい)ことで、魅力が増加する(=より素晴らしいスタイルやファッション・センスを身につけることができる)という信念はしばしば、ファッション評論家(こういってはなんだが、たいてい低学歴)に見受けられるが、これが大間違いのコンコンチキであることは、図書館のヘビーユーザーや美術館におしかけるジジババの群れを見ればすぐにわかる。

実際のところ、「アメトーーク」の「読書芸人」の回で光浦さんが言っていたが「本を読んでいる女はたいていブス」「読書はすればするほどブスになる」というほうが真実に近いかもしれない(ついでに言うと、読書で感性を磨いても面白い芸人にはならないことを光浦さんが証明しているなw)。

ま、光浦さんは「読書をすると顔のパーツが中心によってブスになる」と言っていたのだが、体を動かさないことによってデブになるという要素もあるかもしれない。

あるいはブスというのはたいてい現実がツマランから(誰もちやほやしてくれない)、美人よりも人生の楽しみが少ない。だから美人より簡単に本にはまる、ということもあるかもしれない。

もちろん、オシャレ読書家女子たちからは大反発されるだろう。
「ポンバドゥール夫人はどうなるのよぉ!!」
そう、フランソワ・ブーシェの描く、ポンパドゥール夫人の肖像(ミュンヘン アルテ・ピナコテーク蔵)を見よ!
輝くばかりに美しいポンパドゥール夫人が、読み込んだ感のあるよれよれの本を手にもち、西洋風横座りとでも言うべき優美な姿勢で流し目をくれているあの肖像画である。
『名画とファッション』(深井晃子著・小学館 1999)の中でもとりわけ、私の好きな絵だ。
「ヨレヨレの本~?どんなんだっけ~?」と思う人もいるかもしれないから、ここからは前掲の深井さんの文章に全面的に依拠して書いていこう。

このポンパドゥール夫人はエメラルドグリーンのタフタの前開きのドレス(ドレスとスカートと胸当てが一揃いになった<ローブ・ア・ラ・フランセーズ>)に、胸元は袖口とおそろいのサーモン・ピンクのリボンの段飾り(エシェル)、そして同じピンク色の薔薇の造花をこれでもかっていうくらいにドレスにつけている(少なくとも百個以上)。そして繊細な手工レース。「当時手仕事でつくるレースは宝石よりも高価で、オシャレのポイントだった」そう。左右のペアのブレスレットは5連の真珠。

「ピンクのリボンの段飾りに薔薇を100個ぉ?そんな頭おかしいのみたことない」と思うかもしれないが、全然ケバケバしくなんかないのだ。
一応検索してきた↓。
http://www.gallery-aoki.com/mu_ponpadoru.html
(今までの説明はなんだったのか)

それで、深井さんが書くには「この本棚と読みかけの本を手にしたポーズにも注目したい。彼女は大変な読書家で、死後の財産目録には莫大な宝石衣装類とともに三千五百二十五冊もの蔵書が記されていた。どの本もよく読んだ跡があり、しかもそれらは詩、哲学、歴史、伝記、文法などで、女性がよく読むような説話本などではなかった。彼女が宮廷を支配するほどの権力を握ったのは、美しさよりもむしろ、豊かな文学的教養と美的センスのためだったといわれている」(P28)

どうじゃ!!

「アメトーーク」の「読書芸人」の回にポンパドゥール夫人がおこしになったら、誰もなんにも言えないだろう(又吉くんは今までに2000冊読んだそうで大変な読書家だが、マダム・ドゥ・ポンパドゥールは3000冊以上だぞい)。

しかしまぁ、読書女子の希望の星であるマダム・ドゥ・ポンパドゥールだが、彼女の外見が光浦であったならば、いくら教養があろうと、いくら美的センスがすぐれようと、宮廷の支配者にはなれないのではなかろうか。
思うに「美人」という大前提があり、その中で、他の美人と違う、「競争優位=読書によって培われた教養」があったのがポンパドゥールさんだ。

言ってみれば、プログラミングの知識がある上で、英語も話せるSEみたいなものであり、これはあっちこっち引っ張りだこかもしれないが、プログラミングの知識がなければ英語が話せたとしてもSEにはなれないように、知識教養があってもブスであったら宮廷の支配者にはなれない。

というわけで、現実って厳しいねっていうお話でした。

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02月25日

起床時刻:14時30分

まったくもー、ゲームばっかりさせられて、イヤになっちゃうよ。
FF11なんですけどね。

かつてタイヤキくんは「毎日、毎日、僕らは鉄板の 上で焼かれてイヤになっちゃうよ♪」と歌っていたが、私も「毎日、毎日、僕らはFFの 中で遊んでイヤになっちゃうよ♪」と言いたいところだ。まぁ鉄板で焼かれるよりかは断然イイが、それでも、イヤになっちゃうんだよ。だってさ、そもそも、僕らはFFの中で遊んでいるわけではないんだもん。

そう、FFは遊びではないッ!
私なんか二言目には「真面目にやれッ!」と言われてんだから。
どんだけ真剣勝負なんだよ。

ところでさ、「メイジャン試練」@FF11の天候待ちをしているときに「Doblog の利用に関するアンケート調査からみたユーザ像」(松村真宏・三浦麻子)というのをたまたま読んだ。
http://www.jaist.ac.jp/jsai2006/program/pdf/100178.pdf

まず「幸せ語リスト」というのと「不幸せ語リスト」というのをつくる。
で、ブログ1 記事中の「幸せ語リスト」語の出現頻度和を幸せ言及度,「不幸せ語リスト」語の出現頻度和を不幸せ言及度として、分析している(アンケート調査により、ブログ記事を書いている人のデモグラフィック特性は把握している)。
それによれば、「男女別幸せイベント・不幸せイベント」では「女性では「恋愛」が幸せと関係している一方で「結婚」が不幸せと関係していることなどが分かる」と身も蓋もないことが書かれていたw。
面白いのは男性(もともと男性は不幸せ・幸せともに言及度が低い)は、幸せイベントの2位に「作業」ってのが入っていることだ。
え?
作業??
「メイジャンの試練」のことでしょうか?
風天候のときにバード100匹倒してこいっていうアレでしょうか?
当然、女性の幸せイベントには「作業」なんてものは入ってこない。

「男といふは働きアリと見つけたり!」と大書したいところだが、4枚くらいの短い記事なんで、それで何か言えるのかどうかわからんけども。
まぁうちの旦那は作業ゲーに勤しんでいるようだ。彼曰く、楽しくはないが、「やらなければならないことだから(キリッ」、粛々と土天候アモルフ類を倒したりしている。

もちろん、これらの作業には意味がある。
ちなみに「意味」は男性の幸せイベントの一位である。
意味のある作業、これこそ男性を幸せにするのかもしれない。
まさに、メイジャン武器(=作業)が完成して「俺さまつえええええ」をやるということ(=意味)ですね。男がゲーム好きなのも、故なしとしない。のかもしれない。

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02月24日(金)

起床時刻:10時30分

「日本の男はあきらめない(キリッ」は「はやぶさ 遥かなる帰還」という渡辺謙主演映画のキャッチコピーだが、うちの夫も日本の男であるが故に、レリック装備@FF11をあきらめられないらしく、今は毎日裏(デュナミス)に通っている。

レリック装備をつくるのはむちゃくちゃ大変だ。
今でこそ、裏がゆとり仕様のお気軽コンテンツになったけれども(だから夫もレリックに手を出そうという気になったわけやね)、昔はレリックをつくるなんてそれこそチョモランマ登頂並みに大変だと私は思っていた。

なのにインすると、レリック装備の人がうろちょろしているのだ。
一体どういうことだろうか。
あっちもレリック、こっちもレリックで、日本の男も外国の男も、場合によっては女も、みんなみんな、あきらめない!!

しかし一番悲惨なのはそんな「あきらめない人」たちに付き合わされる、あきらめきった従者どもではなかろうか。

思うんだが、文明の発展は「あきらめない人」たちによってもたらされてきたのかもしれないが、それと同じくらい悲惨な歴史も彼らによってもたらされてきたのである。

「そんなに戦争やら革命やらしたければ一人でやればぁ?」とあきらめきった人たちは思うんだが、「あきらめない人」は人を巻き込むのが大好きで、チームワークが大好きで、絆が大好きで、「みんなで一緒に頑張ろう!」とか言い出すのである。

「勝手にせい」と言いたいところだが、あきらめている人は大声でものを言えない。だからこそ、あきらめている人はいつのまにか「あきらめない人」の軍団の一兵卒にされてしまうのだ。

話をFF11に戻すと、私も「勝手にせい」とは言えなくて、「貨幣をいっぱい集め隊」の一員に駆り出されているわけだ。

「あきらめない」と聞いて、何を最初に思い出すだろうか。
そうだね、スポーツ根性もの、略してスポコンだね。
私はゲームが嫌いなんだけど、その理由は、根性がないからではないかと思っている。根性がないため、すぐあきらめたくなるのが私なのに、ゲームはすぐあきらめたら、クリアできないし、アイテムもとれない。

「それなら、やらない」っていうのが私なんだが、世の人は「だからこそやる」のだ。うちの夫はその代表格で、スポーツはしないがスポーツ根性は身についている。

「アタックNo.1」という往年のスポコンバレーボールアニメのオープニング風に歌うと、

苦しくったって~ 悲しくったって~
デュナミスの中では 平気なの
貨幣が~うなると~ 胸がはずーむわ~
トゥククに バイン オルデール  
ワン トゥー ワン トゥー レリック
(だけど 涙が出ちゃう 釣り役なんだもん)
涙も汗も 老いたファイトで~
闇空に遠く 叫びたい~
レリック~ レリック~ ナンバーワン
レリック~ レリック~ ナンバーワン

ま、釣り役(おとり役)が涙が出ちゃうのは昔の話だがな。

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02月23日(木)

起床時刻:08時00分

「そうだ、サツマイモを食べよう」(一昨日の記事参照)と思って、スーパーに行った。普段、サツマイモは買わないが(大学芋はたまに買うんだけど)、まぁ2本で198円くらいだろうと見当をつけて行ったら、千葉県産紅あずまが1本258円。意外にたっけぇな!と思い、八百屋さんに行ったら、徳島産鳴門金時が1本298円。ますますたっけぇ。まぁ両方とも立派な風采のサツマイモであったが、結局買わなかったw。

2/23は雨で(これは2/24に書いている)電車も遅れ、そうでなくとも、「微遅刻」だった私は「本格的な遅刻」してしまった。
私が出社するときはほぼ100%遅刻するんだが、だいたい5分程度の「微遅刻」におさめるようにしている。これは誤差の範囲ってやつで、四捨五入すれば遅刻ではないといえるものだ。10分遅れだと「遅刻」、15分遅れだと「本格的な遅刻」って感じで、それ以上の遅れだと「連絡が必要な遅刻」って感じかな。

「なんで遅刻するのか」という問いに対する第一の答えはもちろん、「私がダメ人間だからである」というものだが、第二の答えは、「遅刻しないように頑張るほどのモチベーションを持てない」ということだ。

私だってね、天国への最終バスが発車しますってなときは、息を切らして全力疾走し、なんとか間に合うように頑張るけど、現実は違う。
全力疾走した先に何があるかといえば、どうでもいい仕事だ。5分遅れようが、10分遅れようが、いっそのこと休もうが、全く問題ないような仕事だ。問題があるとすれば、雇い主に不都合が生じるということだけだ。

私は思うんだけど、一番上の仕事(総理大臣とか)と一番下の仕事(皿洗いとか)を除く、中間の仕事ってさ、だいたいがどうでもいい仕事なんじゃない?

私のパートと関連の深いところでいえば、マーケターのお仕事とかね。これ全部いらん仕事やねとよく思う。
新製品の8割は失敗する、とよく言われるが、なんでかというと、新製品の8割はいらんもんだからだ。

だいたいにおいて、新製品開発というのは「いらんもの」をつくる仕事である。
誰も食べない夕飯をせっせとつくるような仕事をなんというか、そう、無駄と呼ぶ。
全部やめちゃえばいいのに、と私は思うね。

そりゃまぁ、新製品の中には、昔であればウォークマンとか今であればiPhoneとかのように、画期的なものがあるかもしれないが、そういうものはマーケティングとかリサーチとかでは絶対に出てこない。画期的な商品というのは、一人の天才の閃きによって出てくるものだ。

一方、凡人のマーケターはそれを模したものや、それを改良したものをローンチすることしか考えられない。だから、売れもしない新製品をつくるのため、プロトタイプPとQとRのうち、どれを一番買いたいですか?その理由はなんですか?などと聞きまくるのだ。
そもそも、PとQとRの違いなんて、一般消費者からみれば実に微々たる差異で、担当者以外はよくよく目を凝らしてみないと違いすらわからないようなものなのだ。西荻窪と荻窪ほどにも違わない。
そしてこういう「どっちでもいい」としかいいようのない問いを延々と繰り返すのがマーケティング・リサーチなわけだ。だから消費者調査なんぞ意味がない。

賭けてもいいが、例のP・Q・Rのうち、Pを買いたいと答えた人の多くが店頭ではQを買ったりするのだ。もちろん、Pを買うこともあるだろうが、それはアンケートで答えたように「品質が信頼できそうだから」ではなく、手にとりやすい位置にたまたま置いてあったからだったり、ちょうど他の人もそれを買っていたので連られて手にとったからだったり、単に安かったからだったり宣伝の印象が残っていたからだったりするのだ。Qを買うのもそういうよくわからん適当な理由だ。

定番商品のリニューアルもマーケターの大事な仕事だが、これも全部いらない仕事だ。彼らは「てこ入れ」のためにしょっちゅうパッケージリニューアルだの、ブランドの訴求を変えるだの、ということをやっているが、そうやって儲けた分がどこに消えるかというと、その仕事を担当する人の賃金となって消えるのだ。「穴掘って穴を埋める」のとどこが違うのかよくわからない。

というわけで、たいていの仕事は無駄であり、家で寝てたほうがまだマシというものである。しかし、我々は生活のために「穴掘って穴を埋める」というような作業をするわけだ。だから「穴掘って穴埋める」ようなことを血相を変えてまでやるようなことでもないと思うんだが、当事者は真剣そのものなんだよなぁ。

真剣である理由はもちろん、新製品あるいはリニューアル品を世に普及させることが人類の福祉の向上につながると信じているからではなく(そうであったら、決死の形相をみても「そりゃそうですね」と私だって納得する。例えば、多くの人を餓死から救うサツマイモのローンチとか)、単に自分の評価を高めたいからである。「あのヒットを飛ばした○○さんか!」と言われたい。「あの商品はもうダメかと思ったけど、○○さんのテコ入れのおかげで蘇ったよ」と褒められたい。

私のいる下請け企業はそういう「仕事を通じて人に認められたい、褒められたい」人たちの私設応援団みたいなもので、日々の仕事は神輿づくりみたいなものなんですね(そして私の仕事は神輿のづくりのために木を切り出すような土方作業である)。まぁ私のパート先の会社は、同業他社(ならぬ応援団)よりは、かなりいい神輿をつくっているように思うが、1分1秒を争うようなことは何もない。
享保の大飢饉のときのサツマイモのローンチならば寝ずに頑張るというのもわかるが、不要不急の新製品なんだから、一週間後どころか一年後にローンチしたって何の問題もないのに(一番いいのはいっそローンチしないことだ)、皆さん、毎日深夜残業(どころか午前様あたりまえ)の世界なのですよ。なんでそこまで頑張れるのか私には意味不明だが、これも「応援団のおかげで勝てました!」という一言のためなんだろうなぁと推察する。理解不能な世界だわい。

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02月22日(水)

起床時刻:12時15分

夫に「バカすぎる、脳みそ腐ってんじゃないのか、病院行ったほうがいい。まじで池沼(知的障害者)だから」って言われたんだけど、何科にかかるんだw。「知的障害があると思うので調べて下さい」と病院を訪れる知的障害者はいるんだろうか。

思うに、もし片方の端に夫のような頭脳明晰で優秀な人を置き、もう片方の端に知的障害者(シール貼りのお仕事が精一杯)を置いたとして、ベル・カーブの分布を描くとしたら、私は確実に知的障害者側にいると思う。

もっとも、障害者手帳をもらえるレベルではない。つまり、「障害者なのに偉いわね」ではなく「健常者なのにダメだわね」のカテゴリーの人だ。

「脳みそが腐っている」とよく言われるのだが、私の母が高齢出産だったために羊水が腐っており、それゆえ胎児である私の脳みそも腐ってしまったという可能性がある。もちろん、高齢になっても羊水や脳は腐りはしない(腐るのは死んでからだ)ので、比喩的表現なんだが。

実際、昔読んだ本でボケ老人になる要因として高齢出産で生まれた子供っていうのが書かれていた(本の名前が思い出せない。ボケかけてるのかもしれん)。

卵子は加齢とともに劣化する。障害児が生まれる可能性も年とともに増大する。
ここまでは常識だが、精子も劣化することを忘れてはならない。
「健康な子どもを授かるという点に関して、男性にも女性と同じように適齢期があることが判明」とWSJが報じている。
40歳以上の男性は、30代以下の男性と比較して、自閉症の子が生まれる確率が6倍高いとのことだ。
http://jp.wsj.com/Life-Style/node_254698

「統合失調症の子が生まれる確率についても、男性の年齢が40歳に達すると倍になり、50歳以上では3倍になるとの研究結果も発表されている。
また、そううつ病やてんかん、前立腺がん、乳がんを子どもが発生する確率も、男性が40歳に近くづくにつれ高くなるという。
1996年に発表された論文によると、アペール症候群(頭や顔、手足の奇形を特徴とする先天性疾患)は、 父親が高齢であることによって圧倒的に引き起こされる遺伝子の突然変異だ」

「女性は100万~200万個の卵子を持って生まれてくるが、そのうち75%は思春期までになくなる。
卵子は日々消滅するが、生き残ったものには 「出生時に創られた本来の遺伝的要素が含まれている。
これに比べ、精子はもっと頼りない。射精のたびに数百万個の新しい精子細胞が再生成されるが、細胞が再生されるたびに、 「遺伝コードにエラーが生じる確率が高まる」。

「それら「新しい」精子には受精能力があったとしても、突然変異が含まれている危険性がある。
04年に刊行された『The Male Biological Clock』(男性の体内時計)の著者、ハリー・フィッシュ氏は、 「男性が年を取るにつれ、受精可能な精子はなくならないとしても、そのDNAの多くは異常である可能性がある。 コピーの回数が多くなれば、印刷物の質が劣ってくるのと同じだ」と話す」

つまり母親の年齢だけではなく、父親の年齢も大事なのだ。

ちなみに夫は両親が22才くらいの子供だ。
私は両親が30才のときの子供だ。
ね、どちらがフレッシュでいい状態の卵子と精子か一目瞭然だ。

ついでにいうと、私の考える高齢出産は25才以上かな。体の老化が始まるのが20才からだとすると、両親ともに20から25の間に子供をつくるのがベストだろう。
20才以下だと、感情のコントロールができなかったり、子育てよりも遊びたい盛りなので、仮に子供がいい状態で生まれたとしても、育児がろくでもないことになりがちだ。

この「親が未熟である」というのが、若いうちの出産の最大の問題であって、実際のところ高齢出産で生まれた子供のほうが、受精卵は微妙でも親が教育熱心だったり、カネがある為いい環境で育てられることから、親が若い家の子供よりも成績はいい。

『やばい経済学』(スティーブン・D・レヴィット、スティーブン・J・ダブナー)という本によれば、アメリカのデータだが、学校の成績と相関している8つの要因の一つに「母親の初産が30歳以上」というのが入っている。他の7つの要因も気になる人がいるかもしれないので、家にあるのをひっぱり出してこよう。

①親の教育水準が高い
②親の社会・経済的地位が高い
③母親は最初の子供を生んだとき30歳以上だった。
④生まれたとき未熟児だった
⑤親は家で英語を話す
⑥養子である
⑦親がPTAの活動をやっている
⑧家に本がたくさんある

実際のところ、8つの間にはやたら相関がある気がするが(親の教育水準が高ければ社会的経済的地位も高くなりがちだし、養子をとるのはそういう人たちだし)、要は教育や環境という要因が、もってうまれたピカピカの受精卵という要因よりも、きいているということだ。

しかし注目したいのは「学校の成績」との相関である、という事実だ。
学校の成績なんぞは、親が手をかけカネをかければ、どんなヨレヨレの受精卵でも、どんなスカタンな受精卵でも、早慶上智レベルくらいまではなんとかなるのだ。

学校の成績と頭のよさは関係しない。
いい大学を出たけれどバカなやつというのは多いが、それは「馬子にも衣装」タイプで、ヨレヨレの受精卵を親がせっせと金ピカの衣装を着せてやって、下駄を履かせてあげたからなのだ。
一方、塾にもいかず、下からずっと公立で東大現役余裕でした、みたいなタイプもいるが、そういう人の親はかなり若かったりする(私の幼馴染の男の子にもそういう子がいたが、若い親だったような気がする)。

生まれた時、両親が高齢であったことが、私の「脳が腐った」原因の一つではないかと思うのだが。
言い換えると、学歴などによってカムフラージュされているからわかりにくいが、両親の年齢があがるにつれて地頭は確実に悪くなる可能性が高い。
最近は運動能力も知能に含めることが多いが、親の年齢が高いと子供の運動能力は低下するような気がするがどうだろう?誰か調べていないかな。
もちろん、例外はあるだろうけど、これ研究すると色々と実際の例が出てくると思うんだ。ま、反感買うんだろうなw。

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02月21日(火)

起床時刻:08時00分

本屋に行ったら『サツマイモと日本人 忘れられた食の足跡』(伊藤章治 PHP新書)という本があったので、昨日の記事でイモの話をしたことだし、ちょっと読んでみっか、と思って買ってきた。

これを読むと、サツマイモさまこそが、日本人を、いや世界の人を飢えから救ってきた、救世主であらせられることがわかる。米が育たない痩せた土地でも、戦争中でも、繁殖力の強いサツマイモさまが我々の命を養ってきたのだ。
ベトナム戦争中、ベトナム人はイモを食べて食をつないだそうだ。そして、沖縄戦という悲劇があった、かの南の島にイモがなければ、戦死者だけでなく、餓死者も大量に出したかもしれないのだ。

我々は田舎くさい人を「イモ」などと呼んでバカにするが、とんでもないことである。おイモさまがなかったら、あなたの祖先も私の祖先も江戸の四大飢饉で餓死し、あなたや私はこの世に生を受けなかったかもしれないのだ(「それはそれで別にいいけど」とか言わないの)。

「人間というやつのいちばんぴったりした定義は、二本足の恩知らずな動物」だと『地下室の手記』(ドストエフスキー)にあるが、まさにそのとおり。恩知らずだからこそ、そして我々の役に立つからこそ、「イモなんて」とバカにするのだ。そして我々の役に金輪際たったことのない、「キャビア」だの「フォアグラ」だのを珍重するのだ。

二本足の恩知らずな動物め!

とはいえ、沖縄人はそれほど恩知らずではないようで、奥武山(おうのやま)公園の一角にある「世持神社」では野國總管(日本(というか沖縄)にサツマイモをもたらした大恩人)と儀間眞常(サツマイモを沖縄にひろめた大恩人)、蔡温(沖縄農業の振興に貢献した大恩人)をまつっている。
さらに野國總管の出身地である野國村(現・嘉手納町)では、大恩人の野國を顕彰する「野國總管祭」が毎年、開かれるし、同町内には「野國總管宮」も建つ。

ちなみに「1597年(慶長2年)に中国から琉球宮古島にサツマイモが入るのが最初」(島津國史)とも言われてきたのだが、これは年代の誤りだそうで1605年(慶長10年)、中国福建省から野國總管が沖縄に持ち帰ったのが最初なんだそうだ。

しかし私はイモといえば甘藷先生の青木昆陽先生しか知らなかったが、イモにまつわる偉人といえば数多くいるんですね。

この井戸平左衛門正明という代官も偉人中の偉人でしょうな。知らなかったけど。この人も神社がたっておる。
江戸の人だが60歳で代官に任命されて、島根は石見銀山あたりにやってくる(誠実な人柄を見込んだ大岡越前守の強い推挙があったとも言われている。青木昆陽の活躍にも大岡越前は絡んでいて、この人もまた偉人中の偉人でありますな)。

彼は享保の飢饉のおり、サツマイモを導入して飢えから領民を救おうと、私財をなげうち奔走したそうで、今でも芋代官と慕われているそうな。
しかし、いくらサツマイモとはいえ、ほいと飢えて明日収穫できるものではない。享保の大飢饉では食料が底をつく。「領民がこのままでは餓死する」と判断した井戸は、一刻一秒を争う中、幕命を待つ時間などないので、自分の判断で代官所の藏にあった年貢米を放出する。その結果、前年比3/4もの年貢米が減少したが、そのおかげで彼の領地の人民は一人の餓死者も出なかった。
しかし、幕命を待たずに勝手な判断をした井戸が許されるはずもない。幕府による処分は諸説ある。左遷、切腹など。
彼の在任は2年に満たないが、彼の顕彰碑や神社が島根を中心に500もあるそうだ。

しかしまぁそうやって日本人を飢えから救ってきたサツマイモなのだが、だいたい薩摩からサツマイモを持ち出すのは「命がけ」と書いてある。薩摩が自分とこで独占しようとしたんだろうねぇ。サツマイモによって多くの他の人の命が救えるのに、実に嫌な感じである。ま、現代でも人の命よりも自分の競争優位性のほうがずっと大事にされているわけだから、昔も今も変わらないっちゃあ変わらないのだが。

薩摩同様、中国だって、李氏朝鮮がいくら頼んでも「やーだね」と言ってサツマイモを渡さなかったらしいのだ。全く、人類皆兄弟でありますな。別にサツマイモは中国発祥ではなく(原産地は南米だそうだ)、1593年ごろ、陳振竜さんがルソン島から持って帰ったというのに。
ま、そんなこんなで、サツマイモは対馬から韓国に渡ったそうだ(朝鮮通信使が持って帰ったのだ)。

ちなみに対馬でサツマイモをひろめた功労者は陶山訥庵先生と原田三郎右衛門。原田が隠密裏に薩摩に忍び込んで、こそっと持って帰ったそうな。
どんだけ薩摩は自分とこで独り占めしようとしてるんだよっ。

というわけで、サツマイモに関する歴史を知ると、自ずから尊敬の気持ちが湧き上がってきて、サツマイモに足を向けて眠れないという気になる。サツマイモをありがたく食べる日も週に一度か月に一度あってもいいんじゃないか。ちなみに沖縄は読谷村(読谷紅イモの一大産地)では毎月16日を芋の日と定める「イモの日宣言」を出しているそうな。
ま、たいていの家ではイモを食卓に出した日にゃ、家族から「イモなんか食えるか!」という大反発をくらうだろうから、主婦のおやつくらいしか食べる機会はないけれども。

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02月20日(月)

起床時刻:09時45分

仏教徒の「いただきます」のフルバージョンは
「我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵により此の美わしき食を受く。
謹しみて食の由来を尋ねて味の濃淡を問わじ。
謹しみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。いただきます」
なのだが(宗派によって多少のバリエーションはあるようだ)、私はこの「味の濃淡を問わじ」と「品の多少を選ばじ」のとこをゴシック太字のアンダーラインで強調したい。

そうだね、夫に「味の濃淡」をまたもや問われたんだね。
言い換えると「なんでこんなまずいもんつくるの?」と言われたんだね。

土曜の昼は「蕪と鶏もも肉のスパゲッティ」と「レタスとトマトのサラダ」だったんだけど、レタスとトマトに関しては私の介入はほぼゼロだから問題ないにしても(市販のドレッシングだし)、スパゲッティはダメだったね。
「は~あ」とため息をつかれながら食べられるのって、なかなかに辛い。
「子供がいなくてよかった」と心から思うのはこういうときね。
夫だけじゃなくて子供からも「は~あ」とため息の合唱されたら、お母さん辛くて死んじゃうぜ。

しかしだねぇ、そりゃカルボナーラ(卵黄と生クリームとベーコンとチーズという夫の好物盛り合わせ)を出してりゃ問題はないが、蕪には色々栄養価が含まれている。パスタに刻んだ蕪の葉っぱも入れたのは生ゴミを少なくするためではなく(石川の蕪で葉っぱも柔らかい。大きすぎる蕪だと筋張って食べれないが)、栄養をとるためですよ。蕪の葉にはビタミンやカロテンが多く含まれているわけですよ。

あーあー、わかってくれとは言わないが
そんなに俺が悪いのか♪

と団塊ジュニア世代丸出しでチェッカーズを歌いたくなるじゃないか。

だいたいさ、食べ物に関してあーだ、こーだ言うのは下品なのよね(出た逆ギレ!)。
日本人の美的センスからいうとそうなる。
百人一首に食べ物の歌がただの一首でもあるだろうか?(いや、ない)

かの有名な三夕の歌のひとつ、
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」
も花と紅葉(日本人の美的センスにかなうツートップ)は出てくるが、食べものは出てこない。
しかしよく考えるとおかしくないか?浦の苫屋だよ?海岸の番屋みたいなトコを詠んでいるんだよね?
常識的に考えて、花や紅葉があるわけない。あるべきものは魚であり、干物であり、網などの魚をとる道具だろう。
本来であれば、
「見渡せば網も魚もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」
という石狩挽歌の世界になるはずなのだ。
しかし当時の王朝人は「魚とか網とかイカの一夜干しとか、下賎な言葉を使いたくない!」っていう気持ちが強いあまり、魚やイカの存在を忘れてしまったのであろう、と推測する。そこまで美意識が徹底していたのだ。

なのに現代人をみよ。
どこそこの魚がうまいだの、一夜干しにする塩はなんとかの塩ではなくちゃいけないだの、恥ずかしげもなく大の大人がくっちゃべっているではないか。

お下品!
定家ならきっとそう言ったであろう。

そしてそして、日本を代表する王朝文学の「源氏物語」だって、あんなに長いけれど食べ物の記述ってなかったような気がする。(ちゃんと読んだわけじゃないがw)
今時の小説といえば、村上春樹を出すまでもなく(デニーズのチキン・サラダにはカリッカリに焼いたトーストが合うんだけど、ちゃんとカリッカリに焼いて出してくれたことないんだよね、これで文明国と言えるのかな?@アフターダーク)、日本の伝統美を忘れて食い物にうつつをぬかしておる。

みよ、源氏の君は極貧の末摘花に反物おくってなかったっけ?普通そこは米一キロだろ?しかし食べ物の存在を無視するあまり、その発想はなかったわ、ということになる。

これが今時の作家が書いた源氏ならオサレなイタリアンにでも末摘花を連れていって、ノウガキをひとくさり垂れるところだ。
レストランにて末摘花の詠める、

「カラスミのパスタ淫らにブルネロディモンタルチーノで口説かれている」

(俵万智『チョコレート革命』より。あの缶チューハイ二本で口説かれていた万智ちゃんが!わけのわからんもので口説かれるようになってしまった!
『チョコレート革命』はザ・不倫という感じの歌集なんだが、ま、源氏だって不倫真っ最中(しかも何股もかけてる)だからなw)

まったく、何がカラスミのパスタじゃ、ブルネロディなんたらじゃ。
だいたい、日本人はずーっと極貧暮らし、「ご飯と漬物、味噌汁、以上」という献立が毎日毎日繰り返されてきた。
日本の食事は基本、貧しく、まずかった。だから、食べ物のことは考えるのをやめようっていう態度が生まれたに違いない(もっとも江戸の俳諧は食べ物のことばっかり考えているようだが、それはやはり豊かな町民文化の反映であって、サムライや貧乏公家は食べ物のことなんか知らんふりするのが当然なのである)。

日本の貧しい貧しい食事の歴史を思えば、魚や肉がつくだけでも、こんな有難いことはないのだ。そんな遠い昔の話ではなく、ごく最近まで極貧だったのだ。

『坊ちゃん』みてみろ。
「見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。<略>昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない」と文句を垂れているが(そして清なら「おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ焼を食わせるんだが」と言うのだが、「蒲鉾のつけ焼」ってなんだ?)、毎日芋が続かないだけでも有難いと思えと私は言いたい。

最近の日本人なら「おかずが芋とか意味わかんねぇよ」と暴動が起きるところだが、先日読んだ海外の小説『恥辱』でもおかずがサツマイモってのが出てきた。
南アフリカのド田舎貧乏村に、田舎暮らしを夢見て移住した白人の娘ルーシーの食卓がやはりメイン芋であったのだ。

「夕食は質素である。スープにパン、サツマイモ。ふだんならサツマイモは遠慮するところだが、ルーシーがレモン・ピールとバターとオール・スパイスで調味したおかげで、食べられる料理になっていた。いや、”食べられる”どころではない」

とまぁ、オシャレなサツマイモになっていた。これ醤油味だったらテンションだだ下がりだろう。
日本食っつーのは、基本的にまずいもんなんだよ。
だからこそ、鯖の味噌煮を出すと、世の夫どもやクソガキどもが「え~、夕飯はハンバーグがいい~」などと言うのだ。
(鯖の味噌煮で大失敗といえば、森鴎外の『雁』である)

その日の夕飯は口直しにまたもやデリバリー・ピザw。やっぱりピザは安心だね。さばの味噌煮やひじきの煮たのと違って嫌いな人がいない。

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02月19日

起床時刻:14時00分

「GREEのソーシャルゲームである『ドリランド』にて不正取引ができてしまうバグが発覚した。このバグは以前から密かに存在すると言う噂が存在していたが、本日その方法が暴露され祭り状態へと発展。次々とレアカードを錬金し、ヤフーオークションに20万円近い金額で転売するユーザも。月々の売り上げも数百万に上る」
http://www.yukawanet.com/archives/4116439.html

「儲かるってことは需要があるわけで、こんなどうでもいいカードに何万も(場合によっては十数万も)払う人がいるなんて私には理解できないね」と一瞬思ったが、いや待てよ、東京都現代美術館はロイ・リキテンスタインの油彩画『ヘア・リボンの少女』を高額(618万ドル、約6億円])で購入したんだし(wiki)、あんなのはそれこそ、「ド・ド・ドリランド♪」のレアカード五枚分くらいの価値しかないような気がするんだが、それもこれも私がレアカードの価値も現代美術の価値もわからないからかもしれない。

その昔バブルの頃、ゴッホの絵がやたら大好きなじーさんがいたが(ドえらい高額で落札して顰蹙を買った上に、死ぬときは一緒に燃やして欲しいとか意味不明なことを言って更に顰蹙を買った人がいたでしょう)、これなんか美術の価値がさっぱりわからない私にとっては、さしずめレアカードの規模大きい版ですわねぇ。

そもそもそんなに大好きな絵なら地震大国ニッポンになぞ置かずに、地震もなく、安全に保管できる外国に置いておけばいいじゃん?って思うわ。

でもそれじゃ他人が持っているレアカード並に無意味なんだろうね。
自分がそれを所有しなければ満足感はゼロなんだ。
ゴッホの絵ような人類共通の文化遺産ですら「死ぬときは一緒に燃やしてほしい」っていうのも、所有欲の一番わかりやすい形で、昔王様が死んだら奴婢も一緒に埋められたように、インドで寡婦殉死が半強制されてきたように、自分の所有物が他人の所有物になるくらいなら、一緒に滅んで欲しいって思うわけやね。

これは別名強欲というのだが、こういうふうに所有欲や執着心のある人間が出世するのも事実(必要条件であって十分条件ではないが)。
夢(レアカードやゴッホを手に入れること)に向かって、僕、頑張るよ!
僕は絶対あきらめない!いつか、夢をこの手に掴むために!!

そんな男に後方から「負けないで!!」とZARD風にエールをおくるのが女なわけだ。

いったい何と戦っているんだか。

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02月18日

起床時刻:11時45分 14時00分

中国語って、やかましいだけの言葉のような気がしていたんだけど(まさか中国人がこれを読んでいるなんてことはないよな?)、クーリエ・ジャポンの3月号にこんなことが載っていた(P34)。
「2004年のある調査によると、ニューヨークのイーストマン音楽学校では14%の学生が絶対音感を持っていることがわかった。一方、北京の中央音楽学院ではその割合は74%にも登った。両者の違いを生んだ最大の要因は言語だと考えられている。
中国語には「四声」という高低アクセントの使い分けがある。そのおかげで中国語を話す人々は、多言語を話す人々よりも絶対音感が身につけやすいのだという」
(以下、「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト(中国)」の記事による)

ほーお。絶対音感を培う言葉、それが中国語(←なかなか素敵なキャッチコピーだね)。よく「フランス語は音楽だ」とか「フランス語は世界で一番美しい言葉だ」と言うけれど、実は中国語こそ「音楽」であり、「世界で一番美しい言葉」だったりするのかしらん。ただその運用者が矢鱈うるさい人たちだから、中国語=やかましいという悪印象をあちこちで植え付けているだけで。

でもこの前、会社の近所のマクロビ・カフェに行ったとき、中国語の一団がいたんだけれど、すごく静かだった。そこの料理は比較的高くて不味いからお通夜状態になっていたのかもしれんがw。あるいは上品な台湾人グループだったのかもしれない。

クーリエ・ジャポンの記事の続き。
「fMRIを使った2006年の調査では、計算問題を解くとき、英語の話者は言語を司る脳の領域を活性化させ、中国語の話者は視覚や空間認識を司る領域を活性化させていることが明らかになった。
また2005年の別の調査では、英語で読書をする人は音声を司る領域を、中国語で読書する人は記憶や空間認識を司る領域をより活発に使っていたことがわかった。
香港大学のタン・リーハイ教授は、これは言語の文字に関係していると分析する。
『漢字は画数が多く、角張った形をしている。そのためアルファベットに比べ、より空間認識力を必要とするのです』
空間認識力の差は、絵画鑑賞のしかたも変える。英語の話者は絵画の主題となる部分を集中的に眺め、中国語の話者はより背景に注目する傾向があるという」

ほーお?
最後の一文、「英語の話者は絵画の主題となる部分を集中的に眺め、中国語の話者はより背景に注目する傾向があるという」っていうのは、中国語の話者じゃなくて日本語の話者の実験でも似たような結果になっていたよね?NHKでやっていた「コロンビア白熱教室」で、アイエンガー教授が紹介していたじゃん?

海の絵を見せるとアメリカ人は大きな魚に注目し、日本人はその背景にも注目するっていう例。あの講義では、絵画の見方の違いは文化の違いで説明されていた。すなわち、環境を変える力を持つのは有力な個人であると考えるアングロサクソン人は大きな魚(主題といってもいいだろう)に注目し、生態系全体にあると考えるアジア人は海藻や巻貝も含めた全体をみる、という説明がなされていた。

なのにここでは「角張って画数の多い漢字を使うこと」(及びそれによる空間認識力の差)が、絵画をみるときの差となってあらわれると説明される。
同じ現象であっても、こうも違う解釈が生まれるとは。つまりは、「なんだってあり」なんじゃないかw。個人の趣味の問題だ。

そして記事はこう結ばれる。
「中国語を話す人々が音楽や数学に秀でているということは、まだ充分に立証されていない。だが、中国語の学習が記憶力の向上につながることは多くの言語学者も認めている。中国語を学ぶということは、数千字の漢字を覚えるということに他ならないからだ。中国語会話の学校に通うのは、ジムに通うよりも意外にいい”エクササイズ”になるかもしれない」

なんだ、このホルホル感は?
このホルホル感はどこかでみたなと思ったら、そうだね、日本人もこの記事の中国語のとこに日本語入れかえたら、似たようなことを言っているね。
まぁ、四声のような高低は日本語にないから、さすがに絶対音感は主張できないと思うが、無から有を見つけ出すのが全世界のホルホル人であるから、断定はできないw。

充分には立証されていないが「中国語を話す人々は音楽や数学に秀でている」という割に、wikiによればフィールズ賞を受賞した東洋系はたったの6人だ。うち3人は日本人(小平邦彦、広中平祐、森重文)、残りは丘成桐(中国系米国人)、テレンス・タオ(陶哲軒、中国(香港)系オーストラリア人)、及びゴ・バオ・チャウ(ベトナム人)。
中国生まれの中国育ちは丘成桐くらいだ。人口に対する割合としてはめちゃくちゃ低い。
というわけで、これは日本人がホルホルしたくてたまらない状況だなw。
むしろ、漢字一択の不便さを克服した日本語の三層構造(つまり漢字、かな、カタカナ)こそが数学力を伸ばすのです、とかホルホルしつつ言い出すわけだ。ま、そうホルホルしつつ主張するお前はただの凡人なわけだがな。

それはともかく「中国語は数千も漢字を覚えなくちゃいけないから、自然と頭がよくなる」っていうけど、それなら、「数千も漢字を覚えなくちゃいけないから、単なる記憶マシーンと化してしまい、むしろクリエイティビティは退化する」っていう見方だってできるわけだ。

数千の漢字を覚えることから始まるアジアの暗記重視の詰め込み教育と「答えは本に書いてある」式の発想、そして儒教に代表される権威主義が、自由でクリエイティブでエポックメイキングな思考をすることを妨げてきたとすら言えるんじゃないか。
中国生まれの中国育ち、中国で教育を受けた人で、ノーベル賞を受賞した人っていないんじゃないっけ?でもアメリカ系中国人は結構バンバンとっているよね?
ていうことは孔子様と漢字という、中国二大文化遺産が「クリエイティブな思考」を妨げるもととなるってことになりかねんじゃないか。

音楽に関してはよくわからんが、アジア全土における「k-popの一人勝ち」状況を推察するに、ハングルが音楽脳を鍛えるのかも知れんなw
fMRIやってみなよ、なにかそれらしいことが出て来るから、絶対w。

といろいろ書いたが、全部ただの冗談である。でも、理屈(冗談みたいなものだ)は、いっくらでもつけられるもんなんだ。
だから学者の言うことなんて(ましてや新聞や雑誌の記事の言うことなんて)、所詮あてにならんのだ。だいたい眉唾で読むくらいでちょうどいいわ。

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02月17日(金)

起床時刻:12時30分

もう明日は週末か。早いなぁ。週末になると朝から晩までゲームコース(あ、間違えた、昼から朝までだ)だから、イヤになるんだよねぇ。あたしゃゲーム嫌いなんだよ。平日だってPM9時くらいから、AM3時くらいまでゲーム(FF11)をやってるのにさぁ。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
ゲーム魂をもち
慾はなく(ロットしません)
決して怒らず(怒られます)
いつも静かに笑っている(笑うしかない)

一日にメイジャンと
少しのアイテム取りをやり
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
(ロットしません)
よく見聞きし分かり
(「敵のWSにスタンですね」)
そして忘れず
(と言いたいところだが、すぐに忘れるのがデクノボー・クオリティ)

東にアビセアの乱獲あれば
行って回復してやり
西にデュナミスあれば
行って貨幣の束を負い
南にヴォイドウォッチあれば
行ってスタンしてもいいといい
北にメイジャンの試練があれば
つまらないからやめろといわず、

ゴミドロップの時は涙を流し
全滅したらおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず(でくのぼーなんだから当然だ)
苦にもされず(苦にはされている、気づけ)
そういうものに
わたしは
なりたい
じゃなくて、既になっている!

もし宮沢賢治がVW主催したりしたら、間違いなく「ゴミ主催」としてネトゲ晒し板でさらされていただろうな。
「あいつのシャウトにだけはマジ乗るな。時間の無駄。ゴミすぎ」
「いい人そうなんだが、戦略とかわかっていない。基本アホ」
とか言われていただろう。

宮沢賢治が愛されるのは宮沢賢治とリアルの関係がないからだ。
リアル接点あったら、存在そのものにイライラするだろう。
性格のいいアホってそういうもんだ。
*****************
ゲームで忙しい中、『ベイツ教授の受難』を読み終わった。
なかなか面白い。

同書では「遺書の文体分析」の博士論文をものそうとしているアメリカ人のアレックス(美人だがトチ狂っている。悪い意味で)が出てくるんだが、彼女によれば遺書に最もよく出てくる非文法語は「愛する」なんだってさ。
これは欧米特有だろうね。日本だったら違うと思う。
日本だったら、もちろん、「ありがとう」だ。

私もためしに遺書を書いてみるとしたら、まず両親への感謝から始まるだろう。

「私を産んでくれてありがとう」と言いたいところだが、産んでくれたことに対しては別に感謝してはいないんで(そもそも生まれてこなければ死ぬこともなかったんだから)、「最大限の愛情と忍耐をもって育ててくれたこと」に対して心の底から感謝の言葉をおくりたい。

次に夫に「養ってくれてありがとう」。

あと妹や親戚には「今までありがとう、両親をよろしく」。

友人には「私のつまらない話を楽しそうに聞いてくれてありがとう」。
こんなとこだ。

ね、「ありがとう」満載だ。

こんなにありがたがってるのに、なんで死ぬんだよwと思うかもしれないが、だいたい、「疲れました」「楽になりたい」って言って死ぬんだよな。
感謝の心だけじゃ疲労はとれないわけだなw。

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02月16日(木)

起床時刻:08時00分

一昨日の記事(比較優位に基づく生産分業によるwin-win関係が成り立つ前提条件についての話)は4000字超えて保存できなかったんで、最後の方をカットしたんだけど(どんだけ駄文を長々と綴っているんだ)、カットしたところをもう一回書くと、TPP反対論に対し池田ノビィみたいに「比較優位でハイ論破~」といわれても、論破できてねぇよ!って思うんだよねぇ。だってさ、そのwin-winルートに入るためのフラグってまずたてられないじゃん?
アフリカ見ても、比較優位に基づいて商業作物に特化した国はことごとく悲惨になっているようにみえるんだけど。確かにね、比較優位による生産分業で世界全体の富の量(例えばコーヒー豆の量)は増えたかもしれないけど、その増加分の恩恵は交渉力を持つ者(=先進国の消費者)だけがこうむるのであり、悲惨なやつは悲惨なまま、むしろますます悲惨になる。

経済学のことはよく知らんから(じゃあ何のことはよく知っているんだ?と聞かれたら、うつむくしかないんだけどさw。うちの旦那はFF11のアイテムのことだったら、生き字引だけどな。私が適当なアイテムを言うと「命中-4 攻+8 ストアTP+5 ヘイスト+3%だね」と答えるわけですよ(さすがに防御の数字は覚えていないが。ちなみにこれ、正解は「エース・レギンス」でした。暗黒の通常殴りのヘイスト装備として使われているから(ていうか私は使ってる)、イージー問題すぎましたかね)、適当なことを言っちゃいけないとは思うけど、経済学者のいう色んな前提が成り立つのってエデンの園くらいじゃん?って思うのよ。リカードの比較優位が成り立つ諸条件だって、例えば「仕事の総量(資源の総量)に上限がないこと」、「それぞれの生産性を互いに知っていること」、「仕事の準備や場所の移動に時間のロスが発生しないこと」とか、もう、どこの夢の国のファンタジーだよ?って思うんだよね。

経済学っていうのはだいたいがエデンの園のおとぎ話なんじゃないかって気がするのよね。よく知らんけど、完全競争だとか合理的個人だとか、まるで「僕たちが天使だったとしよう」みたいな、ありえない前提で話をしているとしか思えないのね。ま、頭の体操にはなるだろうが、「天国ではこうなります!」という結論を、この地上(どちらかというと地獄に近い)にあてはめようとすんなって思うんだわ。「それはオマエが経済学を知らんせいだ」と言われたら「すみません」としか言いようがないんだが。

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02月15日(水)

起床時刻:12時15分

風邪気味なのか胃が痛むのでニラ雑炊を食べた。
ニラは臭いが気になるけど、その臭いは「硫化アリルという成分で、消化酵素の分泌を活発にし、消化促進、食欲増進に役立つと共に、ビタミンB1の吸収を高める重要な役割を持っている」。素晴らしい。でもそれだけではない。
「また、にらに多く含まれるビタミンA(カロチン)は、100gで成人男子の1日の必要量の9割をまかない、皮膚や粘膜を健康に保つ働きや、肌・皮膚がカサカサになるのを防ぎ、潤いを与えてくれる働きがある。 風邪の予防に欠かせないビタミンCも100g中25mgと豊富で、ビタミンB1・B2もバランス良く含んでいる」
「さらににらには、骨や歯を丈夫にし、骨粗しょう症を防ぐ効果があるカルシウムが、ほうれんそう並に含まれ、鉄・カリウムなどのミネラル成分も豊富である」

以上、医学健康情報サイトJ-Medicalより。
実に素晴らしい。そしてニラはいつでも安いし、いつでも売っている。
ますます素晴らしい。

もう一つ、ニラの素晴らしいところは、アクが少ないから、下ゆでなどせずにそのまま使えるところだ。ほうれん草みたいに茹でて水にさらして、という手間がいらない。

おだし(面倒だったら顆粒の鶏がらスープでも)に塩や醤油や酒やなんかで味をつけて沸騰させ、小口切りにしたニラと少なめのご飯(洗うとさらっと仕上がる)をいれてひと煮立ちさせて、最後にとき卵を流しいれる。卵でタンパク質もとれてより栄養バランスアップ。
でもあの臭いが・・・という人は、細かく刻んだモロヘイヤでやってもおいしいよ。ネバネバするけど、ネバネバ系が好きだったらおすすめ。モロヘイヤも栄養の宝庫だしね!

お皿を洗ってお茶をもう一杯入れようとしていたら母から電話があった。
どうやら父も具合が悪いらしく、食道に大きなアフタというか潰瘍ができたそう。「そういうときはニラ雑炊がいいんじゃないか、私も具合が悪くて昼に食べたよ」と言ったら「そんなんじゃ力が出ないじゃん」とのこと。さすが元気な人は言うことが違う。

「NHKスペシャル見た?うつ病治療のことやってたでしょ?」とのこと。うちの母はうつとは無縁のケ・セラ・セラタイプの楽天家。一方の私は無から悩みを生み出す才能の持ち主だがな。
それによると 、脳血流の画像診断装置でうつ病かどうか診断できるようになったそうで、「うつ病」と診断される人の四割が実は「双極性障害」である疑いもあるとのこと。そりゃあよくなるものもよくならないわなぁ。

「だいたい自己申告っていうのが変なのよ、マニュアルにチェック印をつけて、ハイ、あなたはうつ病ですっていうのがおかしいのよ、こういうふうにちゃんと科学的かつ客観的に検査できる機械を県に一つくらいは設置しなくちゃいけないわよねぇ(今はこの診断ができるのは、日本全体で13箇所くらいらしい)」と言ってたが、親子なだけに私もまるっと同じ意見だ。

自殺対策でGKB48とかやってるくらいなら、誤診を減らすようにするべきだと思う。というのも、本当は双極性障害なのに、誤診のためうつの薬をずっと処方されれば、自殺衝動にかられることもあるし(番組内での紹介例)、うつというより、単に二週間継続してひどく落ち込んでいるだけなのに(つまりうつ病ではない)、SSRIを服用しために自殺という深刻な副作用を発症している人もいるのではないかと思うのだ。

SSRIの一つ、ルボックスはアメリカのコロンバイン高校銃乱射事件の主犯者が服用していて、銃乱射の因果関係が裁判で争われた結果、製造会社(ソルベイ社)は2002年にルボックスのアメリカ国内販売をやめたと聞く(日本では普通に売っている)。グラクソスミスクラインのパキシルだっていっぱい訴訟を抱えている。
「精神医療の真実 聞かせてください、あなたの体験」という個人ブログからの引用だが、「パキシルの副作用による自殺約150件の訴訟に対して、GSK社は一人当たり200万ドル(約1億6800万円)の和解金を支払っている。約300件の自殺未遂には、一人当たり30万ドル(約2520万円)。またパキシルが引き起こした依存症に関する3200件の訴訟では、GSK側がそれぞれ5万ドル(約420万円)を支払うことで決着している。(参考文献「暴走するクスリ?」チャールズ・メダワー、アニタ・ハードン)」だそうだ。
http://ameblo.jp/momo-kako/entry-10715852043.html

「精神医学、一刀両断!!」というブログによると「GSK(グラクソスミスクライン)は、向精神薬の新薬開発から、完全撤退を表明し」「最近ではサーバリックスなど "ワクチンビジネス" にシフトして」いるそうな。
http://blog.livedoor.jp/psyichbuster/archives/51494004.html

ちなみに私の自殺した従姉妹も有名な病院に通い、山のように薬を飲んでいたものだ。
ま、公平を期するためにいうと、うつになった私の友達は3年か4年くらい、真面目にきちんと薬を飲んで(複数の向精神薬、睡眠薬、それらの薬によって胃があれるので胃薬、副作用で便秘になるので便秘薬など)、途中一度自殺未遂で病院に担ぎ込まれたけれども、完全によくなって(あれ、「うつ」って完全にはよくはならないんだっけ?)、今ではよき妻であり、二児のよき母であります。うつ病だった気配もない(まぁうつ病のときの彼女に会っても、私のほうがうつ病のような気がしていたんだが)。

だからまぁ、よくなる人はよくなるんですねぇ。といいつつ、私は、大部分は時が解決したんじゃないかと思っているんだけどね(仕事をやめて大きなプレッシャーから解放され、優しい旦那さんと結婚し安定した生活を手にいれて、これ以上何を悩む必要がある?と思うわけよ。ま、私ならそこでも悩みを見出しそうだが、うつ病になるほど悩むこたぁないだろう)。

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02月14日(火)

起床時刻:08時00分

Synodosジャーナルに載っていた「「誰にでも出番がある社会を実現するために」」という安藤至大さんの文を読んだ(2011/11/8の記事を今頃w)。リカードの比較優位の原理を無人島に流れ着いた二人で説明している。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1853697.html
こんな話。

阿部さんが遭難して無人島に辿り着いた。阿部さんにできることは、野菜を作るか魚を釣るかの二つで、働けるのは日中の8時間のみだとする。
このような状況の下で、阿部さんがすべての時間を野菜作りに使うと、一時間あたり3個なので、一日で24個の野菜が取れる。同様に、魚釣りにすべての時間を使ったなら、一時間あたり2匹で、一日で16匹が釣れるとする。阿部さんは、両方の仕事に4時間ずつ使って、一日当たり野菜を12個と魚8匹を食べることにした。

そんなところに今度は伊東さんが遭難してきた。伊東さんも生きていくために野菜作りと魚釣りをするわけだが、彼は阿部さんと比べると、不器用で野菜を一つ作るのに30分、魚を一匹釣るには1時間かかってしまう。つまり彼は8時間すべて野菜作りに費やせば16個を、また魚釣りに費やしたなら8匹を手に入れることができる。両方の仕事に4時間ずつ使うと、一日当たり野菜は8個、魚は4匹手に入る。

阿部さんは伊東さんに比べて絶対優位にある。伊東さんは基本何やってもダメだけど、まだマシなのは野菜作りだったので(伊東さんの比較優位は野菜にある)、野菜づくりに専念する(阿部さんは野菜作りでは伊東さんの1.5倍の能力、魚釣りでは2倍の能力がある)。そうすると伊東さんは一日あたり16個の野菜を収穫する。一方、阿部さんは畑で2時間働き、6時間海で働して、野菜を6個の野菜と12匹の魚を収穫するようにする。そして、伊東さんは自分の16個のうち、野菜を7個あげて、阿部さんからは魚を4匹もらうことを提案する。
すると、阿部さんは自分でつくった6個+7個=野菜13個と魚12-4匹=8匹が手元に残る。つまり阿部さん一人で働くより野菜が一個多くなるわけだ。
一方、伊東さんは野菜16個-7個=9個、魚は4匹手元に残り、阿部さん同様に野菜が一個多く手に入る。

つまり、伊東さんは何をやっても阿部さんにかなわないけど、分業と交換をすることでwin-win関係が成立する、というわけだ。

しかしこんな特殊な状況、そうそうあるわけないやんけ!!!
そもそも、無人島には畑を耕す鍬もなければ種もないし、釣竿も何にもない。となると、島の木になるフルーツを食べるわけだが、量に限りがあるから、阿部さんと伊東さんはフルーツをめぐって殴り合いになり、どちらかが撲殺されて終わりだ。仮に魚や野菜がとれたとしても、資源が有限だったらやっぱり意味がない。日当たりのいい土地をめぐって、あるいは、いい釣り場をめぐって、撲殺エンドというバッド・エンドになる。

そう、この比較優位に基づく生産分業によるwin-win関係という「ベスト・エンド」を見ようと思ったら、難しいフラグを色々とたてまくらないといけない。安藤さんも書いているが、その前提条件とは、一言でいうといっぱいある。

まず(1)仕事の総量に上限がないこと。
「仕事の総量に上限がない」とは、いいかえると資源は有限ではない、ということだ。魚が一日マックス8匹しかとれないとか、野菜が9個までしかとれないとかだったら、取引する意味がない。これだと阿部さん一人で全部とりつくせるし、伊東さんの存在は邪魔なだけだから、やっぱり撲殺エンドになる。つまり、前提条件として、働けばいくらでも魚も野菜もとれるという状況でなくてはならない。

次に(2)仕事の切り分けが容易であること。
畑をたがやすのと釣りをするのは切り分けが簡単だ。しかし遭難したのが岩山みたいな島で、畑を耕すことができず、釣りしか生きる手段がなかったとしたら?釣りの分業はなかなか難しい。阿部さんは魚を釣り上げるのが得意、伊東さんは何をやってもダメだが、えさをつけるのだけはまぁ、まだマシだとしよう。「私、えさをつけますんで、言ってください!」と伊東さんが言っても、阿部さんだって1時間に2匹しか釣れないのだ。阿部さんはずーっと釣竿を握っていないといけないが、伊東さんは1時間に2回、1分ずつくらい動くだけだ。あとは寝っころがっていてOK。
さすがに阿部さん、ぶち切れる。伊藤さんがそばにいても損するだけなので、お互いそれぞれ別の場所で生きていこうなって阿部さんは提案するだろう。その結果、伊東さんは飢えのあまりに阿部さんの寝ている間にこっそり食料を盗むかもしれない。伊東さん泥棒エンドだ。

そして(3)最終的な消費量のみが関心事であること。
つまり、阿部さんは食べ物の量だけに関心があるのではなくて、そもそも魚釣りが嫌いだった場合、野菜が一個増えるより、魚釣りの時間を増やさないことを選ぶだろう。その結果、比較優位なwin-win関係も成立せず、伊東さんはこっそり安倍さんの魚をちょろまかすという泥棒エンドになってしまう。

無理ゲーすぎんだろ、と思ったところで、さらにさらに、「比較優位の原理と生産性の変化」(2012.1.30)の記事では、新しいフラグをつけくわえておられます。http://webronza.asahi.com/synodos/2012013000001.html

(4)それぞれの生産性を互いに知っていること。
阿部さんと伊東さんの生産性(野菜を1時間で何個とれるか、魚を何匹とれるか)が二人は明らかにわかっていた。しかし、普通はわからない。畑づくりや魚釣りにあれほど薀蓄を傾けていた阿部さんなのに、野菜の収穫も釣果もゼロ、ということは現実にはよくある話だ。
あれ?あなた経験者って言ってませんでしたっけ?即戦力を私たちは求めていたんですけれども?特に釣りに関しては、釣りのMBAと3年以上の実務経験があるとお聞きしていましたから、メイン担当になっていただいたのに、一匹も釣れないとはどういうことでしょう?
いいえ、言い訳は聞きたくありません。というわけで、「阿部さん、まさかのリストラ」エンドだ。

(5)仕事の準備や場所の移動に時間のロスが発生しないこと。
そりゃそうだ、阿部さんは釣りと農業をすることになっているが、海から畑に行くのに2時間かかっていたら、阿部さんは実労働は8時間でも、移動の2時間を含めると10時間労働になってしまう(この前提だと実は元から4時間畑、4時間海の労働をしていた二人だが、その間に2時間の移動時間があったということになる)。
伊東の甘言に乗せられたと腹がたった阿部さんは畑に行かず、魚を釣るだけにしたとしよう。つまり一日8時間16匹の魚をつる。そして野菜だけをつくる伊東さんに交換を持ちかけるだろう。
しかし問題は野菜は保存がきくが魚は保存がきかないということだ。だから魚を売る側の立場が弱くなる。
「え?魚を買ってほしいんでしょう?どうしよっかなぁ、腐っちゃうもんねぇ。でも私、今そんなに魚って気分じゃないんだよねぇ。まぁ野菜4個と魚8匹だったら交換してもいいんだけどぉ?野菜はとらないと壊血病で死んじゃうかもしれないけど、魚はたべなくったって死なないしぃ。どうするぅ?」
と伊東さんは言うかもしれない。その結果、阿部さんの手元には魚8匹と野菜4個しか残らない。そして伊東さんの手元には魚8匹と野菜12個が残る(商業作物に特化して生産してきたアフリカの悲劇をちょっと彷彿とさせる)。
阿部さんは愕然とする。あれ?何をやっても伊東さんのほうが不器用で、能力が下のダメ人間じゃなかった?なのに、何で俺、今こんなに立場が弱くなっているんだ?おかしいじゃねぇか!許せねぇ!というわけで革命エンド、あるいはテロエンドとなる。

ベスト・エンドをみるためにはまだ条件がある。
それは(6)時間を通じて生産性が変化しないことだ。
どういうことかというと、魚釣りをやめた伊東さんでもいつでも魚釣りにもどったら、昔と同じ生産性でつれるという仮定だ。もし伊東さんが魚釣りのやり方を忘れてしまったとしよう。
阿部さんは魚釣りを忘れてしまった伊東さんに話しかける(ここからは引用しよう)。
「「これまでわたしが魚を4匹渡す代わりに、伊東さんの野菜を7個受け取ってきました」
「そうですね。いつもありがとう」
「でも明日からはわたしの魚を2匹とあなたの野菜9個を交換することにしましょう!」
「急に何を言い出すんですか!それでは話が違う!!!(怒)」
「でもね、伊東さん。嫌ならいいんですよ。嫌なら。もしわたしの提案を受け入れてくれないなら明日から取引は中止です」
「えっ」
「考えても見てください。あなたはわたしと取引しないなら野菜だけ16個も食べる生活になるわけです。
それよりはわたしの提案に従ったほうがマシですよね。なにしろわたしに野菜を9個くれても手元には7個残るわけですし、
野菜だけ食べるよりは野菜を7個と魚を2匹の方がマシでしょ?まあこれも、あなたのためだから(笑)」」
引用終わり。
これは腹立つだろう。しかし、腹がたっても、伊東さんは既に釣り道具を持っていないし、どうしようもないのだ。伊東さんワープアエンドだね。

このように考えると、比較優位のベスト・エンドは、ただの一つでも分岐を間違えると絶対にみれない仕組みになっているわけですね。無理ゲーでした、以上、だわ。

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02月13日(月)

起床時刻:09時50分

『ベイツ教授の受難』(デイヴィッド・ロッジ、白水社)を半分くらいまで読む。

「受難」と言っているが、まぁたいした受難ではない。そう、私は他人の受難には基本的に冷淡なのだ。
ベイツ教授(早期退職をしたので、元教授というのが正しいのだが)の一番の受難は、割と早い時期から難聴になったことだ。教授はドリフのコントに出てくる、志村けんのおばあちゃんよろしく「え?なんだって?」を繰り返さなくちゃいけなくなる。しかしコントの登場人物になりたくない教授は「あいまいにうなづく」などの処世術でなんとかやり過ごしているわけだ。本書のコミカルな性格もここによるところが大きい。ロッジも「盲目は悲劇的だが、失聴は喜劇的だ」(P19)と書いているが、コントだって盲目じゃ成り立たないだろう(もちろん、ベートーヴェンを出すまでもなく、失聴だって十分悲劇的であるが、異論のある方はロッジに言うように)。

「オイディプスを例にとろう。彼が自分の目をえぐる代わりに鼓膜を破ったとしてみよう。実際にはそのほうが論理的だったろう、なぜなら自分の過去について恐るべきことを知ったのは耳を通してなのだから。けれどもそれでは、盲目になったのと同じようなカタルシス効果はないだろう。おそらく同情心は掻き立てるだろうが、恐怖心は掻き立てないだろう」(P19)

ははは。でも、そもそも教授は失聴ですらない、難聴なのだ。文句をぶーぶーたれて、ちゃんと補聴器をつけないから(つけるときはつけるのだが)、「え?なんだって?誰が”不敵な豚”だって?」「いえいえ、”素敵な歌”ですね、と言ったんです」みたいなことになるんだ。

確かにかわいそうはかわいそうなんだけれど、補聴器の悲劇は入れ歯の悲劇と同じくらいの悲劇に思われる。入れ歯も悲劇というよりは喜劇的だし(もちろん本人的には大悲劇だろうが、悲劇人口が多すぎて「普通のこと」になってしまっている)。
不思議なことに入れ歯はちゃんとつける人でも補聴器はつけたがらないことが多い(ベイツ教授のお父さんだってそうだ)。歯がないと困るが、耳が多少聞こえなくてもそれほど問題はないってことだろうか。話を聞けなくても死なないが、モノを食べれないと死ぬものね。そう考えると総入れ歯のほうがより深刻な受難なような気もしてくる。

うん、やはり、補聴器より入れ歯のほうが大きな受難だろう。補聴器は不快だったら、人前でもはずせるけれど、入れ歯は不快でも人前で外すことはめったにない。
小説の中でイブリン・ウォーがラッパ型の補聴器を外して退屈な話であることを知らしめたというエピソードが出てくるが、出された料理がまずいことを知らしめるために入れ歯を外したというエピソードは古今東西聞いたことがない。

こうやって比較してみると、入れ歯の悲劇性というのがよくわかる。補聴器は公衆の面前でつけられるが、入れ歯をレストランの席でつけはじめたら「ちょっとぉ、そういうのは洗面所で隠れてやってよ」と非難されるだろう。入れ歯はコソコソしなくちゃいけないのだ。補聴器はコソコソしなくてもいいのに。コソコソしなくちゃいけないことはいつだって悲しいことなのだ。

さて、原題はDeaf Sentenceで「死刑宣告 Death Sentence」にかけている(deafとdeathをかけたダジャレなんだわw)。この大げさなwタイトルもコミカルな効果を狙ってのことだと思うが、言葉のわからない外国で暮らし始めるときも、Deaf Sentenceを受けるのだ。読んでいると、今から10年以上前にロンドンに住んでいたときを思い出すシーンがいっぱい出てきた。

ごくたまにイギリス人の同僚複数名と業後に一杯バーにやりにいくことになるが(基本的には避けたいところだ)、何を話しているのか英語が聞き取れないのでさっぱりわからない。とりあえず微笑みつつ(本人的には穏やかに微笑んでいるつもりだが、しばしば不気味なニヤニヤ笑いと受けとめられる)、うなづいて聞くわけだ。そんなとき突然、「で、あなたはどう思うの?」とふられたときのバツの悪さったらない。「え?ごめん、聞いてなかった(正確にいうと、聞いていたんだけど、何言ってるかさっぱりわかんなかった)」と言えるかっていう問題だ。あるいはみんながどっと笑ったときに「え?なんだって?」と横の人に聞く勇気が君にはあるかという問題だ。私だって最初はその勇気を振り絞って「え?なんだって?」をやっていて、最高にうまくいけば時差をおいて笑うことができるけれど、往々にして、同じスピードで同じことを言われて、やはり聞き取れないことになる(そうなると、ドツボにはまることになる。そしてもちろん、聞き取れたとしてもどこが面白いのかさっぱりわからないこともある)。こういう不毛さを何度か体験した後には、これはやり過ごすのが一番いい、という結論になる。

難聴のベイツ教授が観劇に行くと言葉が聞き取れなくてイライラするというエピソードがあるのだが、私も連れられてBlood Brothersっていう劇をみに行ったときは、何を言ってるかさっぱり聞き取れず、すべてを推測する、というホームズ脳を鍛える結果となった。

一緒に行った人(なまりのない英語を話すロンドン人)が「リバプール訛りがひどくて僕も何言っているかわかんなかったよ」と冗談を言って笑わせてくれたが、その冗談すら「え?なんだって?」状態なのだ。もうやんなるわ。

だから言葉のわからない外国で暮らすっていうのは、自らdeaf sentenceを受けにいくのと同じで、社会的自殺行為のような気がする。そりゃあ、漱石だって神経症になるわなぁ。今と違って漱石の時代は、円は紙切れ同然に安いし(カネというのはいつだって孤独な人間を慰めてくれる唯一の心の友である)、日本人は少ないし、人種差別もあからさまだろうし、受難も受難、大受難だろう。

というわけで、ベイツ教授の受難というが、たいした受難ではない。貧乏な留学生よりだいぶましだし、そもそもが合わない入れ歯よりもだいぶましである、と私は思ったが、そのおかげで実に気楽に、面白く読める。ソファに寝っ転がってクスクス笑いつつ読むのにちょうどいい本だ。

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02月12日

起床時刻:13時30分

一日中ゲーム。動きがまずくて夫からお叱りを受ける。
「うるさいなー」と言ったらぶち切れて、「言い訳ばかりしてるから、40にもなろうっていうのに、リアルでもダメ人間のままなんだよ!ちゃんと反省しろ、この馬鹿!」と言われてしまった。

もうすぐ40になるなんて、おっそろしいいいいいいいいい。
10代20代の頃は、40まで生きるなんて思っていなかったよ。
同い年の従姉妹は25で自殺したが、私はそこから15年も長生きしてる!
もし彼女の幽霊にあったとしても、「死なずに長生きしたとしても、何もいいことはなかったと思うよ」と慰めたい。
(もちろん「宝くじが当って左うちわ人生」みたいな可能性もゼロではないけれど、その子の家はそもそも多少の資産はあるんだから、宝くじに当たらなくたって別にいいわけだよ。顔だってそこそこ可愛かったし。なんで死んだのかよくわからん)

そもそも、反省したら、少しはましな人間になれるのだろうか?
8才くらいなら、イエスと言えるかもしれないが、この年じゃ遅かりし由良之助だ(って古い表現だなw)。アスリートをみてもわかるように、いくら反省したって、寄る年波には絶対に勝てない。年とともに悪くなる一方なのだ。下りのスライスラインの加速度を変えるのが関の山で、30を過ぎたら「あるべき理想」からは外れる一方、そして最後には頭脳も身体能力も容姿も健康も(場合によっては性格も)どん底にまで下がって底辺で死ぬ。反省しても加齢はとめられないからね。

だからある程度以上の年齢の人が本当に反省したならば、人生に見切りをつけて死ぬしかないと思うんだよね。
ぽーん、と窓から飛び降りる。

そういや、私が昔勤めていた会社の先代社長が、できない社員に怒り心頭に発し「ここから飛び降りて詫びろ!」と窓を指して言ったら、その社員、本当にぽーんと飛び降りて死んだらしい。それを見ていた今の社長はどんなに怒っても(「幼稚園からやりなおしてこい、どアホが!」「遊びで仕事しとんのか、この給料泥棒が!」(←関西人なんですわ))、「ここから飛び降りろ」とだけは言わないんだ、素敵だろ?って話を役員がしていたことを思い出した。

その窓から飛び降りた人はよくよく反省した結果、腹を切って(というか飛び降りて)お詫びをしたんだろうけど(もっとも、単に「説教がうっとうしくて楽になりたかった」だけのほうが正解な気がするが)、問題は人は死ねばゴミになるってことなんだよね。「死後の恥はかきすて」かもしれんが、掃除をする人に多大な迷惑がかかる。死体処理手当か何かをもらわなくちゃ、飛び降り自殺体の片付けなんかしたくない。

ドロシー・パーカーもあれやこれやの自殺の方法について、痛すぎたり怖すぎたり汚すぎたりすると文句を言って(レジュメっていう詩の話だが)、結局死にもせず、90くらいまで生きてなかったっけ?
私もそのパターンかもしれん。

はーあ、生まれてこないのが一番いいんだよ、ほんと。

夕飯はまたもやピザになりそうな流れだったけれど、焼いたチキン、ブロッコリーとベーコンのペンネ、それにレタスとアボカドのサラダにした。もし、「まずい」と言われたとしても、それからピザを頼んだっていいのだから。
しかしこれだってデリバリーの注文時間には締切がある。遅すぎたら手遅れってことは、何についてもあてはまる法則なんだわね。

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02月11日

起床時刻:14時30分

起きてからAM4:30までゲーム。途中、アニメみながらデリバリーピザ。

ソフトバンクのCMで「努力って楽しい」とか言ってるけど、嘘だね。わたくしネトゲ分野で日々努力しているけどちっとも楽しくないね。努力が楽しいなんつうのは、ドMでないかぎり、自己欺瞞の最たるものだね。

と思ったけど、世の中、努力が楽しい人が多いのかもしれない。私が特殊なのかもしれない。だからこそ、毎日、毎日、ゲームを頑張って、粉骨砕身努力してレリミシエンピとかつくってんだろうね。

ネトゲやってて思うけど、本当に世の中、努力家がとっても多い。信じがたいぐらい、ゲームに真面目に打ち込んでいらっしゃる。真剣に取り組んでいらっしゃる。私なんかすぐ飽きちゃうんだけど(飽き性だから)、延々と何時間も何時間も、否何十時間もゲームというより作業をやっているのだ。本当にすごい。

私が飽きずにできることといったら、ここに愚痴を書くことぐらい。「愚痴って楽しい!」。これじゃ宣伝にならないだろうけど。

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02月10日(金)

起床時刻:10時40分

朝方までゲーム。

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02月09日(木)

起床時刻:08時00分

アンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』を読んだ。
読みながら、村上春樹っぽいなと思ってたんだけど、訳者(沼野恭子さん)も、訳しながら村上春樹にどことなく似ていると「あとがき」で書いておられた。

ソ連崩壊後の1990年代、ウクライナの首都キエフのお話で(モノ不足で政情不安で治安も悪く拝金主義が横行中)、主人公は売れない作家なんだけど、まだ生きている人の「追悼記事」を書くという職をきっかけに、様々なことに巻き込まれていく。マフィアの抗争だか政治的なテロだかわからないが、追悼文を書いた人たち(多少後暗いところのある成功者たち)がどんどん死んでいく。

しかるにこの主人公、ヴィクトルは動じないのである。たとえ多少動じたとしても、たいていのことはコーヒー(コニャックがついていればなお良い)を飲んで心を落ち着けられる人なのだ。
自分のことをも、突き放した感じなのね。この少しさめた、感情の安定している感じが春樹っぽいんだね。ヴィクトルが仮にワタナベくんとかいう名前でも驚かないね。

「「追悼文が書かれるにふさわしい人というのは、たいてい何らかのことを成し遂げた人間だ」自分の考えを先に進めた。「そういう人たちは自分の目的のために闘うわけだから、闘っているうちに清廉、誠実ではいられなくなる。それに、今の世の中、闘うっていったら、物質的な理想を求めてに決まってる。無鉄砲な理想主義者は、階級ごと死滅したんだ。残ったのは、無鉄砲な現実主義者ばかり・・・・・・」(P87)

まったく、「やれやれ」だよね。

クルコフや春樹は、読んでいても胃もたれしない。この小説によく出てくるポテト炒めのように(ウクライナ人はジャガイモをよく食べているようである)シンプルかつうまいってやつだ。

それから、最近読んだ大江健三郎の小説(『取り替え子』『憂い顔の童子』)と違って嫌な人たちがあまり出てこないところも、疲れずに読めるところだ。
大江の小説は「小日本人の博覧会」と言ってもいいくらいだからね。『憂い顔の童子』から引用すると、神職が地元の田舎の人たちを評して(ま、田舎モン=全日本人だから自分は違うと思わないようにw)、「誰もかれもが小心で羽目を外すことがない、小利口に処世して生きるタイプだけ」「好きになれない」と言うが、この神職だって「根本的な欠陥として崩れているところがある(「ああいう大人になってはダメですよ!」)」(ローズさん)だの「人間として脆弱である」(住職)だのと、ダメ出しをくらっている。基本、ダメなやつしか出てこないのだ。
ダメじゃないのは、アメリカ人のローズさんと名誉白人の長江(大江)一族(嫁の実家含む)くらいだろう。

一方、このクルコフの小説では警官のセルゲイがとてもいい人だったりする。こんな爽やかなナイスガイ(基本何も考えてない)が大江の小説に出てきたことあったっけ?

ま、もし長江古義人(『取り替え子』『憂い顔の童子』の主人公)がこの小説の主人公だったら、上へ下への大騒ぎだったろうがなw。コーヒーを飲んで「やれやれ」ですむわけがないw。ほとんどパニック状態のほとばしる激情と、そんなときでも欠かさない辛辣な人間観察とを、時にイェイツを引用しつつ、過剰なほどに書き綴ったであろう(そこが面白いところではあるんだけどね)。

訳者さんのあとがき(なかなか親切)によれば、作者であるクルコフは村上春樹の小説では『羊をめぐる冒険』が好きなんだそう。私も『羊をめぐる冒険』は古書店に売らずにとっている。『羊をめぐる冒険』が好きな人はこの小説もきっと好きだと思う。

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02月08日(水)

起床時刻:10時30分

昨日はさ、FF11をずっとやっていたわけよ。朝の4時くらいまで某アイテム取りのために某所に居座っていたんだけど、そしたら、後から来た奴が敵を横取りしおったんですよ。5分ポップなんだけど、毎回横取りしてくる。ちょっとぉ。私が先にここにいたんですけどぉ!

でもそんなの関係ねぇ!(なつかし)であることは、アイヌを日本人どもが追いやったように、ネイティブアメリカンを白人どもが追いやったように、先住者とか関係ねぇ!そんなルールなんかねぇ!なのです。

にもかかわらず、自分たち(日本人や白人ら)がいつくと、登記だかなんだかして、「ここはうちの土地ですからね!!」と言い出しやがるのだ。

FF11に話を戻すと、先住者たる私もあきらめて、別の場所に移動したんだけど、あとから来た人のサチコメみると「○○(敵の名前)連戦中」って書いてた。登記してた。「だから、お前ら来んな!!」っていうことですね、わかります。

ゲームでも、リアルでも、どんくさいやつは滅びるのみ。
リアルみると、実際にどんくさいやつから滅んでいっているのである。
ドードーみたいなどんくさいやつね。アホウドリも人間を恐れなくって絶滅しかけたんだっけ?人間なんてゴミしかいないのになw馬鹿な鳥だよ。

そういや、地球上に出現した種のうち、9割以上は絶滅したんだっけ?
9割くらいはどんくさかったわけだ。

地球上で未曾有の繁栄を享受しているのは人間である。人間が繁栄したのは、どんくさくなかったからだ。自分たちが後からきたところに、動物たちが住んでようが、ウホウホいってそうな先住民が住んでいようが、自分らよりどんくさいと思ったら、すぐに追い出してしまうから繁栄できたのだ。

そういう、すばしこい人が天下をとる。だから天下をとっているやつは、天下をとっているという理由だけで、信用ならんのだ。どんくさくないかもしれんけど、信用ならんのだ。軒先を貸したら母屋を取るようなやつだから、注意しなくちゃいかんのだ。つまり、成功しているやつは全員、我々どんくさ族の敵なのだっ!!!
家康や秀吉や信長は、絶対に信用できないやつらだと思う。これだけは間違いない。確実に言えるのは、あいつら全員嫌なやつらだってことだ(このデンでいうと、皇室の祖先も公家の祖先も嫌な奴だらけだったろうね)。なんで人間がこんなにも罪深いかっていうと、いい人は全員滅びちゃったからなんだよ。簡単な話だ!

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02月07日(火)

起床時刻:08時00分

オマエの取り柄ってなんなの?
って真顔で聞かれたらなんて答えます?
ないよね、普通?
と思ったけど、うちの旦那曰く、人は誰でも何かしら輝くものが、何かしら取り柄を持つものだ、というわけよ。
だが、私には見当たらない。
ホワイ?
ってなことらしい。

ないものはないんだよ!
日本に石油がないように、ないものはないんだよっ!!
アラブには石油があるように、あるとこにはいっぱいあるんだよっ!!

でもまぁ、日本には天然資源以外の素晴らしい資源がある。
人的資源だ(キリッ。
その人的資源の中に私は入っていないんだけどねっ。
歩く産業廃棄物とは私のことである。
(あ、産業廃棄物みたいな立派なものでもないな、産業に関係した記憶がないもんな、つまりはわたくし、生ゴミだなw)

お仲間を探そうと、「取り柄がない」でぐぐってみた。

武田邦彦という人(中部大学というところの先生のようだ)が、こんなことを書いている。
「男子学生が取り柄がないので就職できない」と嘆くのを聞いて、先生は言う。8割くらいの人は取り柄がなんにもないけど、たとえ取り柄がなくとも、「「生きていること」、「楽しいこと」、「他人に迷惑をかけないこと」の3つが人間の価値」なんだから、気にすんな、と。
http://takedanet.com/2010/09/post_50a4.html

わかってないね、この方。

「取り柄がない→就職できない→無職人生で親に迷惑をかけるor生活保護をもらって国に迷惑をかける→楽しくない」
という図式が成り立つ可能性は高く、取り柄がない人は先生ご自身があげた3つの人間の価値のうち、2つ(「楽しく生きる」「迷惑をかけない」)を失う蓋然性が高い。

先生は取り柄と人生の幸福度には関係ないというが、これまたわかってないね。失業者の幸福度は有意に幸福度(幸福であるという実感)が低い。自己肯定感の低い人は有意に幸福度が低いことは各種調査から明らかなことだ。

かといって、「取り柄がないんです」と言う男子学生になんといえばいいかというと、なんにも言う言葉がないよね。
「ご愁傷様」くらいだよね、あえていえば。
まぁ私も、私自身に対して言える言葉は「ご愁傷様」くらいだよ。

生まれてきて、すみません、じゃない。
生まれてきて、ご愁傷様、が正しい。

どんな人でも(例え迷惑をかけるだけの人でも)生まれてきて謝ることはないだろうと思うのだ(いや、よくわかんないけど)。

前、田辺聖子さんがいいこと言ってた。

ちょっと本とってくると
「三太郎はかねて、子供というものは、クジで当るようなものだと思っている。
いい子に「育てる」のではなく、いい子に「当る」のである。親がいかにいい人間でうまく育てたつもりでも、生まれつきの気質やあらがい難い環境の力によって、どんでもない、じゃじゃ馬が出来上がったりする。
どうにもしかたがない。親の責任、というが、所詮、子供が大きくなれば、親は無力である」(夕ごはんたべた?)

いいこと言わはる。そのとおりやわ。
だから子供が立派でも親があんまりデカイ顔するとみっともないし、たとえ子供が出来損ないでもそんなに自分を責めることもないと思うのだ。
そんなもん、運なんだから。
そして出来損ないの子供だって、運によって、出来損ないで生まれてきちゃったんだから、自分を責めることもない。
ご愁傷様と同病相憐れむくらいしか私にはできませんなぁ。
まぁでも死ぬときに晴れ晴れと死ねるかもしれませんよ?わからんけどな。

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02月06日(月)

起床時刻:10時20分

あー、私って言いたいことをちゃんと言えないんだ。ちゃんと言えないから、趣旨がいつだって伝わらないんだ。
どうしても、話があっちゃこっちゃ行ってしまうんだ。船頭多くして船山に上るというけれど、文章を書いていると私の中の船頭たち(「思いつき」ともいう)が好き勝手に話を引っ張って言っちゃうから、川を下るつもりが山にのぼったりして、「結局、何が言いたいのかさっぱりわからん」と言われてしまうんだ。小論文の採点はいつだって不可になっちゃうんだ。知ってた。

昨日の記事で書きたかったことはというと、『取り替え子』にせよ『憂い顔の童子』にせよ、長江(大江がモデル)は基本的に「身内に甘く、他人に厳しい」ってことなんだ。
長江は芸大卒がベートーヴェンをちんたら弾くことにめまいがするほど激昂する。でも長江の芸大卒以下の息子が作曲しそれを発表することや、芸大卒以下の自分の嫁が絵画を発表することには抵抗がない(褒め称える)。
芸大生らが息子の音楽や嫁の絵画を聴いたり見たりして、激昂する可能性を感じないんだろうか?
(曲がりなりにも芸大出だが)下手くそなくせに、オーナー夫人というご威光をもって、来客に無理やりに曲を聞かせやがる横暴は、(芸大卒ですらないが)下手くそなくせに、大江の家族というご威光をもって、CDを出したり挿絵をのせたりしやがる横暴と同じではないのか?
と私は感じるんだけど、大江はそう感じていない。

なぜならば、彼も彼の家族もスペシャルだからだ。

まぁ確かに特別は特別だよ。
何しろノーベル賞作家とその家族だもんね。私もそれは認める。
でもそうじゃなくて、感性(笑)が特別とか思ってそうだから「なんだかな」って感じなんだよね。
そして自分たちは特別だと思うあまり、長江は普通の人の気持ちが全くわかっていない(ときどき妹のアサさんが思い出させてあげてるけど)。
だから長江(大江)は嫌われるんじゃなかろうか(村の者からは総スカン。村どころか都会の者からも”ほぼ”スカン)、と思うのね。

ここで一昨日の記事をまとめてみると(これも何がいいたいのかよくわからん文章かもしれない)、長江(大江)が嫌われる理由は(フィクションを通して下衆の勘ぐりをいたしまするに)

①勝手にそこらへんの人をモデルにして、しかもボロクソに書いたから嫌われた
②ノーベル賞作家(=一級知識人)だから、二級知識人(=田吾作)と彼らが扇動する大衆に嫉妬されて嫌われた
がある。
しかしそこに「川端康成問題」が出てくる。すなわち、川端康成だって東大出のノーベル賞作家なのに、大江みたいな総スカンは食らっていない。
同じくらい嫉妬され、やっかまれるはずじゃなかろうか?
そこで
③大江は日本と日本人のことをボロクソに書いてるから嫌われた
という①とも関連する理由が出てくる。
つまり大江の小説に登場するそこいらの市井の人(当然日本人である)が全員ろくでもないということだ。いい人は自分の身内だけ(しかも性悪日本人どもに不当に迫害されている)。読者(当然ほとんど全員日本人だろう)がイライラするのは無理もない。

作者も低級日本人の一味であることを自覚した小説ならばこれほどバッシングはされなかっただろうが、「自分は違う」感が半端ないからなぁ。
だから心おきなく、低級日本人ども(作者の身内以外全員)を告発できるわけだ。この能天気さがイラってくるところなんだと思うのね。

つまり嫌われる理由
④自分と自分の身内は特別だと思っている
ってとこね。

それは地元の有力者の思い入れたっぷりのピアノを聞いて怒り狂って席をたつシーンだけではなく、なにげないとこに出てくるのよ。
例えば地元の中学校で講演するときにこんな話をする。

(自分の在校当時の)「中学校の生徒総数は三百五十四人でした。その後の半世紀に、ひとつの村・・・・・・ひとつの町の一地域の子どもたちがこれだけ少なくなるとは、一体どういうことでしょう?恐ろしいことのような気もします」(P214)

というのだけれど、「一体どういうことでしょう?」も何も、自分の胸に手をあてて聞いてみれと私は思うわ。
ご自分だって、この田舎町を離れて自宅は成城、別荘は軽井沢(と小説に書いてある)なのだ。「一体どういうことでしょう?」
しかも、この四国のド田舎村を舞台に物語を書き続けており、メシの種はこの田舎とすら言ってもいいのに、ろくすっぽ立ち寄ることもしなかったわけだ(日本で一番ふるさと納税をしなくちゃいけない人だろう)。
「一体どういうことでしょう?」

自分がイヤなら他人もイヤだとは思わないのかしら?
自分はスペシャルで感受性豊かな賢い子どもだったから、この田舎町を出て行くのはいい。むしろ当然である。
自分のスペシャルで感受性豊かな子どもたちが教育機会に恵まれた東京で暮らすのはいい。
でもそこらの鈍感で頭の悪い一般人はここに住み着いて、彼のノスタルジィを満たしてあげなくちゃいけないのかしら?

長江古義人の大事なお母さんの葬式で、お母さんの面倒をみていた家の子どもが遺体に手荒なことをしたのをみて、血相を変えて飛び出し、楓の木の下でメソメソ泣くシーンがある。
家の人は当然に心配する。彼の(ノーベル賞作家の!)機嫌を損ねてしまったのではないかと。甥のお嫁さんが気にかける様子なので、妹のアサさんが追いかけて様子をみてくるのだった。
このシーン、完全に寅さんだわ。アサさんはさくらだよ。

妹のアサさんがこういうのだ。
「古義人さんは、小さい人がお祖母ちゃんに少し手荒にさわっただけで、顔色を変えて立ってしまったわけですけど・・・・・・それほど母親が大切ならば、どうして東京に引き取らなかったか?そうやって、忙がしい若い人たちの面倒を減らしてあげなかったか?そう思った者はいたと思うわ」
「あなたが、身内が死んでも平気で元気にしている子どもは、笞を使って泣かせる(傍点あり)、などと言い出したとしたら、私は甥のお嫁さんの側に立って抵抗します」(P65)

((キケロは)「悲しみについてね、<略> 家族が死んで身内が悲しみのなかにある時、子供たちが陽気に動きまわったり、話したりしていると、笞を使って無理にでも泣かせる、<略>おれは、この本をギー兄さんに借りて読んだ時、悲しみということについて本当に教わった気がしたもんだ」と古義人が言ったをふまえている。
アサさんは「身内の死に平気な子供の話をしていて、甥の家族のことをチラリとだって思い浮かべたとするわね。そしてこれからのお付き合いに言葉であれ、態度であれ、それを表すことがあれば、私はあの人たちの味方ですからね」ときっぱりと言うのだった。そりゃそうだよ、アサさんの言うとおりだよ)

まぁ言ってみればアサさんが持っているような当たり前の、普通の人に対する想像力というか、想像力以前の思いやりが、長江(大江)にはまるっきりかけているんだ。だから嫌われてるんだよっ。
まぁそんなんでも、面白い小説になるんだからたいしたもんだよねぇ。

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02月05日

起床時刻:10時30分

音楽の力で人と人とをつなげる、なんてよく言うけれど、音楽によって人と人とを分断し、時には激しい憎悪すら引き起こすこともあることを忘れてはいけない。
という例を『憂い顔の童子』からひこう。

長江古義人(大江がモデルの作家・主人公)が温泉リゾートの敷地内に建てられた「森の音楽堂」を訪ねたときのことだ。
案内人でもある温泉リゾートのオーナー夫人(田部コンツェルンの田部夫人)がステージの上にあるピアノの蓋をあけ、いくつかの和音を弾いたあと、矢庭に「「月光ソナタ」を弾き始めた!はじめ古義人はあっけにとられていた(引用者注:あっけに傍点)。そのうち田部夫人のきわめて遅いテンポをこざかしく感じ、演奏の先行きを思いやった。すぐにもあの女が三楽章を・・・・・・プレストアジタートを、ものものしくやりはじめるならば!?そして古義人は目も眩むほどの怒りに襲われた」(P428)

怒りのあまり古義人はホールの外に出る(めまいを覚えつつ、荒い息をしながら)。するとそこに苦手な知人がいたのだが、彼がこう言う。
「なんとか芸大を出たという人物に正面からベートーヴェンをやられてはね」
この言葉は彼と旧交を温め始めて以来、初めて聞いた親身な共感を誘う言葉だった。

ね、芸大出た程度でベートーヴェンを人前で弾いてんじゃねぇぞ!怒りのあまりに呼吸できなくなっちゃう人出てきちゃうからwww。

まだね、軽くさらっと「猫踏んじゃった」だったなら、古義人の逆鱗に触れなかったと思うんだ、あたし。
でも、思い入れたっぷりの「月光ソナタ」で逆鱗に触れちゃったんだと思うんだ。

下手なピアノを聞かされただけで、そこまで激昂するかなぁ、と私は思うが、想像するに、

「ちょっとぉ、あたしは世界的に有名な現代音楽の作曲家、武満徹とマブダチだったんですからねぇ!一流以外受け付けないんだけどぉ?
芸大をやっとこさ出た程度の凡人がいっちょまえに、思い入れだかなんだか知らないけど、ちんたら月光ソナタを弾いちゃってさぁ、勝手にテンポを変えていいのは、グールドクラスからなのよ(第一楽章はアダージョなんですからねっ)!そこらへんの三流がグールドの奇行だけ真似たらただの痛い人になるっていうのがわかんないのかしらっ!ナルシシズムのダダ漏れ感がまじでムカつくんですけどっ!」

っていう気分だったんだろう。

しかしさぁ、それを言うならおたくの息子のアカリたん(大江光がモデル)はどうなるの?
「なんとか芸大を出た」どころか、芸大にすら受からないじゃん(藁。
二言目には絶対音感があるっていうけど、絶対音感を水戸黄門の印籠と一緒にしてもらっちゃ困る。あおいの御紋と違って掃いて捨てるくらい絶対音感の持ち主はいるわけだしねw。それでCDを出しちゃったりして、カーネギーホールだかどっかで演奏会やったりして、芸大生が「目も眩むほどの怒り」を感じないと、よくもまぁ思うわよねーえ?

(『憂い顔の童子』の中のアカリたんは、「ただの音楽好きなニート」みたいな感じなので不当な言いがかりであるかもしれないが、これに先立つ『取り替え子』ではNY在住の作家兼作曲家(坂本龍一)に「ポリティカル・コレクトネスで知的障害者の音楽を押し通されちゃたまらない」と批判されたりしている)

知的障害という高下駄を履かせて音楽を評価することは、音楽に真剣に取り組んでいる才能ある人たちに対する侮辱じゃないかしら?
言い換えると、もし田部夫人が知的障害者だったとしたら、仮にちんたらベートヴェンを弾いたとしても、長江だって「目も眩むほどの怒り」を覚えなかったんじゃないかしら?弾いている途中で血相を変えて外に出るなんて失礼なこともしなかったんじゃないかしら?

(もちろん、知的障害である、ゆえに、ナルシシズムとも無縁である、ゆえに、演奏もピュアで素晴らしいという三段論法によって、知的障害者の音楽は知的障害者であるがゆえに(ここに傍点したい)、一段も二段も健常者より上を行くという結論になる可能性だってあるんだけどさ。
つまり知的障害者「なのに」素晴らしいではなくて、知的障害者「だから」素晴らしいという、「ピュア派」ね。思うんだけどさ、日本の文学史には「白樺派」やら「耽美派」やらいるわけだけど、「ピュア派」(ピュアってめっちゃ素敵やん派)が最大派閥ではなかろうかと思うときがある。白樺派の一部も「ピュア派」と言っていいだろう)

と私はイヤミの一つも言いたくなる。

いや、別に芸大を出てなきゃ駄目ってことは全然ないんだが、そっちが「芸大をなんとか出てた程度でベートーヴェンを正面から弾くな」というからさ。

大江はね、自分と自分の家族だけ特別なんだよね。
(ついでにいうと、奥さんがよく大江の本の挿絵を描いているようだが、あれも上手な小学生レベルだよね。あと私、大江光の音楽をけなしているようだけど、幼稚だとしても私は好きだ(ちなみに私は音楽の才能ゼロ)。「パイドパイパー」というのをyoutubeで聴いただけなんだけど、朝食のBGMにぴったりだねって感じだったよ。むしろ朝食のBGMなら、「月光ソナタ」よりも「パイドパイパー」のほうがよほどいいんじゃないか?ノーテンキな感じが、爽やかな朝にふさわしい。朝っぱらからベートーヴェンとか疲れっからな)

自分と自分の身内ならやってもいいけれど(スペシャルだから)、他の奴がやるとむかつく。目も眩むほどの怒りを覚える。

まぁ確かにね、あなたはスペシャルですよ(大江の家族は「大江の」家族であるという点のみで、もちろんスペシャルだ)。
悔しかったらノーベル賞もらってから言えばァ?お尻ペンペ~ン(ぷぷぷっ。って素直に言えたらわかりやすいんだがなw。

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02月04日

起床時刻:10時30分

『憂い顔の童子』(大江健三郎/講談社/2005)を読み終わった。『取り替え子』に続くお話だ。
主人公の長江(大江がモデル)は故郷の「森」に帰るんだが、地元の人に「総スカン」をくらっているので(妹アサの言)、そのせいでドタバタ劇的な騒動に巻き込まれる。なかなかよくできた面白い小説。私が作者ならば『高名なる小説家・長江古義人(ちょうこうこぎと)によるドン・キホーテ的冒険、あるいは老人性うつ病』とでもタイトルをつけるところである(しょっちゅうプチうつ状態になってるのである)。

それにしても大江は(本では長江なんだけど)、相変わらず人に嫌われてるなぁ。嫌われまくっているといってもいい。

嫌われる理由は本を読んでいるといくつも思いつくけど、一つには、「勝手に小説のモデルにされた」問題があるのじゃないか。
しかも、モデルを褒めていない。ここ重要。

「心優しい上に目をみはるような美人」とか「弱きを助け、強きをくじく男の中の男」なんてのは一人も出てこない。身内以外はたいがいボロクソである。

女性の描写の一例をあげてみよう。
「仲間と連れ立ってこちらを眺めていた五十がらみの女が、乾かしたスルメに赤い点々が浮かんだような顔をこちらに突き出すと」、である。
この五十がらみの女がこの部分を読めば「乾かしたスルメに赤い点々ですってぇ!」といきりたつのも無理はなかろう。
大江は「だから、これはフィクションですってば!作り話をリアルなものと勘違いするなんて、ナイーブすぎますってば!」と弁解するだろうが、作り話が絶妙だから困る。ま、このスルメ夫人は純然たるフィクションかもしれないが、モデルがいる可能性だってある。読む人が読めば、「乾かしたスルメに赤い点々・・・ああ、あの人か!」ってなるかもしれない。陰で「スルメ」と呼ばれるようになってしまうかもしれない。
これは大問題だ。

嫌われるもう一つの理由は、2ch界隈のネットでもよく言われるような「大江は反日、だから嫌い」というものだろう。
ローズさんが森の奥の自宅にまで取材申し込みにくるマスコミの記者らを追い返すときに「こんな野蛮な国の、野蛮な地方に来て、野蛮な記者から自分を守るために、アメリカ人女性が、拳銃を使用しないと信じていますか?」と言うシーンがあるが、これこそ大江が言いたいことだと想像する。
言い換えると「野蛮な日本の、野蛮な田舎の、野蛮な人たちから自分たちは攻撃されている!」という強い被害者意識を大江は持っている。

宮台真司風に言い換えれば、真の知識人を亜知識人(=田吾作)どもが攻撃しているの図、ということだ。宮台なら「完全に想定済み」と言うところだろう。
宮台によればヨーロッパのような「知識人vs大衆」という図に日本はなっていない。ヨーロッパのように知識人が尊敬されるという土壌が日本にはない。その代わりに、知識人の周りの二流・三流の知識人、亜流の知識人どもが(この小説でいえば新聞記者というブン屋風情であったり、地元の大江(長江)研究家であったり、広告屋に勤めながらエッセイ風の文章も発表している大学の同級生の黒野である)、一級知識人(ノーベル賞受賞作家!)をねたみやっかみ、陰湿に攻撃するという構図がある。

『取り替え子』にも出てきたが「怨嗟」という言葉が一つのキーワードであろう。他国では正当と思われるような判断が、「怨嗟」という情緒的反感から大衆に支持されないのがこのニッポン国なのである。
というのも、一つには亜知識人が自らの怨嗟の赴くままに、悪しき方向に大衆を先導している面があるからである。怨嗟という点では彼ら(亜知識人と大衆)の結束は強い。

(ふと思ったんだけど、川端康成も大江みたいに嫌われてたんだっけ?私が生まれたときは死んでたからわかんないんだけど。ま、川端は「繊細な筆致で日本の美を伝道した」功績でB層にも好かれてそうだけどな。となると大江(長江)が嫌われているのは単なる嫉妬というわけでもないかもしれないけどね)

大江(長江のこと。めんどくさいので大江にしとく)は、亜知識人だけでなく大衆(お父さんが指導した右翼の生き残りで学歴ゼロとおぼしき人たち)からも身体的な攻撃を受け、肉体的に多大な苦痛を与えられるのであるが、そちらよりも大江の怒りが爆発するのは亜知識人=田吾作に対してである。

大江の小説を読んでいると、日本は田吾作の集まりであり、「出る杭は片っ端から打ってやれ」とする卑しい根性の集まりであり、知的な成果に対して十分な尊敬を払わず、むしろ足を引っ張ろうとし、野蛮で、権威主義的で、ずるくて卑しくて、一言で言うと「日本人ってまじで最悪」って気になってくるから、「日本を愛する人々」に攻撃される(大江の小説は日本(人)のネガキャン)のであろう。

まぁそんなこんなで大江は嫌われてるから、被害者意識だけはいっぱいある。しかも自己嘲弄癖という形の道化じみた防具も身につけてるから、扱いに困る。もっとも身内(ローズさん含む)は心得て、聞き流しているけどね。

最後のほうで加藤典洋(この人だけ実名のようだ。今まで江藤(淳)は迂藤、武満(徹)は篁さん、みたいに別の名前で出していたのに)の批評(『取り替え子』への)にぶちぎれるところがあるが、私は結構、加藤さんの言うこともわかるんだ。さんざん、「アレ」、「アレ」とひっぱってきて、牛の皮かぶせられただけかよ!と加藤さんが突っ込むんだけど(もちろん、それだけじゃなくて、GIの殺害に関与したかもしれないという恐怖がメインでそれは加藤さんも分かっていると思うんだが)、針小棒大のケが大江というか長江にはある。

小説にしなくちゃいけないからっていうのはあるんだろうけど、だいたいが、過剰反応すぎる。そこも含めてドン・キホーテ的といえばドン・キホーテ的なのかもしれないが、ドン・キホーテと違って、大江というか長江がねちっこいからねぇ、好きになれない。大江(長江)は根に持つタイプなんだよね。ネチネチ、ネチネチ、めんどくせぇ!まぁそうでなくちゃ、あんなに息の長い作家活動はできないのかもしれんけど。

というわけで私も大江というか長江は普通に嫌いなんだが、妹のアサさん(私の一番のお気に入り)がうまくバランスとってくれたからよかったよ。ローズさんもいいんだが、「私は古義人のなかの暴力的なものが恐い、そのせいで作家と研究者の域を超えることがなかったのだと思う」とかちょいちょいお世辞を言うんだよね(言わせるんだよね、作者が)。
違うだろ、ふつーに古義人がブサイクだから男と女の仲にならなかったんだろ、あんな冗談みたいな丸めがねでせまってきたら笑っちゃうからだろ、と思うんだけどな。

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02月03日(金)

起床時刻:09時00分

『老いの歌―新しく生きる時間へ』(小高賢・岩波新書)っていう本を読んだ。元々短歌というのは『一握の砂』にせよ『みだれ髪』にせよ、若者の思いをよんでいるものが多いわけだけれど、それは寿命が短かったせいもある。ところが今や死病と恐れられた結核もなくなり、平均寿命がやたら長くなった。そこで「老いの歌」というニュー・フロンティアが広がってきた、というわけだ。

「老いの短歌」といっても、馬場あき子や岡井隆のように「老いない歌人」もいるのでひと口にくくれないが、一般的な傾向はある。

・自我がほどけてくる(よくいえば、モーロクしてくることで不思議な味わいを醸し出すようになる)
・回想詠が多くなる(類型的になりがち)
・歌としての名歌性よりも「私はこれが言いたいんだ」っていう自己主張が強くでるようになる=わがままになる
などだ。

著者は名歌でなくたっていいじゃないか、それよりも「これだけは言っておきたい」ということを、定型にのせて老人が表現できる場があるということが大事じゃないか、と言う。そして「福祉としての短歌」という視点を出している。

最後のほうに老人にとっての俳句と短歌の比較がある。
坪内稔典が上野千鶴子との対談で
「僕は俳句は向老期にふさわしいおもしろい遊びだと思っています。短歌はだんだん歳を取っていくと息が続かなくなるんですね。耄碌してくると駄目ですから。老年の優れた歌人というのはまったくいない。
<略>
だけど俳句の場合は、無責任で片言的だし、ある意味で意識が耄碌したり文脈がとぎれたときのほうがいい作品ができる可能性がある」
と言っている。まぁ坪内稔典の俳句は若いときでも耄碌レベルだから、ただの自己弁護だろwと言いたくなるが、小高さんはそんなこと言わず、「「息が続かなくなる」老いだから、俳句が向いているという考えは、やや安直のように感じる」と言う。
俳句じゃ短すぎて「老いの現実」や「思い」を詰め込むのには足りないんじゃないの?ってことらしい。俳句には季語も入れなきゃいけないからね。
もっとも季語が入ることによって俳句は作者の感慨にとどまらず、「個の思いを外界に開放する」ことができるわけだが。「生の私に拘泥しない」のが俳句である一方、短歌はとことん「私」にこだわる。

しかし、日本農業新聞で長く選者を勤めている著者は当然、老人の「あれも言いたい、これも言いたい」という老年短歌をみてきたわけで、容器として俳句がふさわしいのかどうか疑問だという。

私が思うにはね、俳句のほうがサマになる。ひとえに季語と切れ字の力で、ボロが出にくい。しかも五七五と短い。後ろに七七が続くと、金メッキが剥がれるが、十七文字(+季語と切れ字)のおかげで「なんかいい感じ」に仕上がっているわけだ。

例えば虚子。晩年の作品をあつめた遺句集から。
「忘るるが故に健康ほととぎす」
これはひどいwww。何の標語だよwww。
虚子とはいえ、これはひどすぎるだろう。
しかし季語の「ほととぎす」でごまかされるんだな。

「とはいへど涙もろしや老いの春」
は「とはいへど」の入り方が憎い。上の健康俳句よりかはだいぶましだが、これだって、五七五だから許される範囲だ。後ろに七七をつけてごらんなさい。
「とはいへど涙もろしや老いの春ラバウル小唄に涙落としつ」
だったら、日本農業新聞の短歌欄に投稿したって落とされそうじゃない。

「数の子に老いの歯茎を鳴らしけり」
老いの歯茎を鳴らすってなんすかね?入れ歯があってないんですかね?
リアルだったらちょっと引きそうなこんなシーンでも「鳴らしけり」なんて切れ字で言われると、なんか句になっちゃうんだからなぁ。
「霜柱俳句は切れ字響きけり」(石田波郷)は名句だが、老いの歯茎も切れ字が響いておりますなぁ。

茂吉の晩年の歌もほとんど蛇足呼ばわりされて、ボロクソに言われるけど、これ、俳句形式になおせばそんなに悪くないわよ。

「欠伸すれば傍らにゐる孫真似す欠伸といふは善なりか悪か」
とか、「どーでもいいよ!」みたいなツイッター短歌を晩年の茂吉先生は詠んでいるわけだが、これなんかも「欠伸すれば孫も真似する春の暮」とでもすりゃあ、ホラ、それなりにそれ風のアレがいっちょあがりでしょ?

清水房雄
「黒パン二枚よりましかと呟きて朝昼晩といなりずし食ひぬ」
とかも、後ろに「なう」でもつけとけよって感じだが、これも「独り身や朝昼晩といなりずし」(いなりずしは夏の季語)でそれ風のアレがいっちょあがる。

あと老人短歌は老人俳句に比べて、老人の主張が激しい。
みんな色々言いたいのよね。

坪野哲久の下の歌なんかは老人の主張が極まっているからいっそ清々しいけどな。
「ばかたれの大ばかたれが怯えなく生きおる国の虚仮をば憎む」
「八十のテロリストということあるやひとつの憤怒やりすごしつつ」
こういうのはなかなか俳句にならない。
ちょっとトライしてみたんだけど、例えば「八十のテロリストかなほととぎす」ってやると、とたんにテロリストっつーより好々爺になっちゃう。「ほととぎす」がいかんのかな。寒々しく「冬ざれや八十すぎのテロリスト」なんつーのはどうかな。ダメだね。0点だね。

しかしまぁ憤怒の内容がわからないのはいいかもしれない。これが五七五七七の次にまた五七五と続く歌だったら、ひとつの憤怒について今度は説明しだすだろう。「電車の中で女子高生が化粧をしていた!」とかね。それだったらもう興ざめしちゃうよね。憤怒の内容がわからないからいんだよね。

要は言葉が少なければ少ないほどボロが出ない。ボロ(地金)を出したくないなら俳句のほうがいいだろうね、と私は思うけど、ボロを出したって、自分の主義主張をしたいんだって気持ちもよーくわかる。それこそ「福祉としての短歌」だよね。

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02月02日(木)

起床時刻:08時00分

先々週のNEWSWEEK(日本版)で「脳力とIQの正しい鍛え方」っていう特集やってて、脳力とIQをめっちゃ鍛えたい私もちょっと見てみた。
特集記事とともに31のメソッドが書かれているんだけど、やっぱ運動がいいらしい。
31の方法のうち私が既に図らずも実践していたことは
5.「スマートフォンを捨てよ」
(捨てるどころか持っていない)
6.「徹底的に眠ろう」
(得意分野)
11.「チョコを食べて記憶力アップ」
14.「暴力的なゲームでリフレッシュ」
(暴力的なゲームの効用を示す研究は数多くあるそう。例えば反応力がアップしたり複数の作業を行うスキルが向上したりとか。暴力的なゲームでリフレッシュした後は嫌な作業にもやる気が出てくるそうな。もっとも私はゲームでリフレッシュなんかしていないがな。私がプレイした中で一番暴力的なのってなんだろう。GOW3かな?クレイトスさんってば、ヘリオスの首を引きちぎって生首をランタンがわりに使いおったからなwいいゲームだとは思うけどw)
16.「ヨーグルトを食べる」
24.「たまには手書きを」
26.「ぼんやりする時間をつくる」
27.「コーヒーを飲む」
(1杯では意味ないらしい。コーヒーを一日4杯以上飲む女性は週1杯に比べてうつ病になる可能性が低いとのこと)
30.「ネットレビューで記事を書く」
(レビューではないが早起き生活で記事を書いている)
あたりか。

読んで思ったかもしれんけど、「あるある大辞典」並じゃねーかYO!ニューズウィークもみのもんたレベルでどうする。

あとね、外国語にチャレンジすることはなんやかんやでめっちゃいいらしいよ。変なところでは「スマイルを封印すべし」なんてのもある。しかめっ面をするだけで批判精神が向上し、分析能力が向上するんだってさ。批判精神が後退し分析能力が低下してもスマイルのほうがいいんじゃないかっていう気もするがな。どうせシワができるなら、笑いじわのほうがいいもんね。

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02月01日(水)

起床時刻:08時00分

寒くてやんなっちゃうんで、新しいコートを買っちゃった。

寒いときによく着ているムートンは、その昔ウィーンに遊びに行ったとき、あまりの寒さに現地のブティックで衝動買いしたやつなんだけど(よくみたらイタリア製だった)、私が年をとったせいか重く感じるようになってきたんだよね。

本当にね、昔に比べてカバンでも何でも重く感じていけないね。筋肉量が減ってきているのかしらね。ヴィトンなんか重くて持てないよ。

そんなわけで表地がポリエステルのつるつるしたダウンコートを買うことにしたんだけど、そのダウンコートに無駄に毛皮がボワボワついているのよね。
今はファーが流行っているから、何にでもファーがついているね。しかもフェイク・ファーじゃなくて、安物でもリアル・ファーなのよね。中国がファーの一大供給地になっているから、リアル・ファーのほうがフェイクよりずっと安いのかもしれん。動物の命のほうが人工のファーをつくるより安いんだろう。

で、私の買ったやつもブルーフォックスがバッチリついていて、それがイヤでずーっと迷っていたんだけど(中国製ですわ)、買ってしまった。試着した中で一番似合ったんだよね、サイズもピッタリだったし。フェイク・ファーだったらいうことなかったんだけどな。
あと問題はやたら毛が抜ける気がすることだw。黒のタートルネックを中に着たら「猫飼ってます」状態になったw(安物だからか、中国製だからかしらんけど。ちなみにノーブランドで10万円がセールで7万)。あとなんか着ていると毛が飛んで喉の奥に何かが絡まっているような気がするw。うーむ。。。

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