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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:11:10

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03月30日(金)

起床時刻:12時15分

03月29日(木)

起床時刻:08時15分

今日は珍しく褒められた。ゴミ当番の働きについて大家に褒められた。
ゴミ当番というのは、資源ゴミ用のケース出しやゴミ集積所まわりの清掃なんかをやるんだが、こういうやりがいゼロの仕事でも、このように褒めていただけるのは嬉しい。

一般化してはいけないけれど、女性というのは単純なもので、賃金ゼロの仕事(ていうか、仕事とすらみなされない)でも、「感謝された」とか「喜ばれた」とか、そういう理由で「頑張ろう」って思ったりするんだよな。

逆に言うと、いくら高給でも、人に感謝されないような仕事や、ひたすらロジックを積み上げていくような仕事(モノ相手の仕事など)、あるいはテストステロンが多ければ多いほど成功するような職場(典型的にはトレーダー)だと、女性はやる気をなくすんだな。

「これは私のやりたいことじゃない」とか言って、新卒で入った有名企業を辞めたりするんだな。自分探しの旅に出ちゃったりするんだな。

ローレンス・サマーズ前ハーバード学部長は科学や工学の分野で優秀な研究者が少ない理由を聞かれて、第一にハードな仕事であること(「二十代半ばの若い女性が週に八十時間、仕事のことを考えなければならない職に就きたいと思うだろうか?」)、第二に男性にみられる個人差の大きさ(すなわち男性のほうが個人差が大きく、女性は小さい(女性には凶悪犯もいなければ天才もいない)。となると優秀なほうのはずれ値の中では男性のほうが女性より多くなる)、そして第三に社会的なさまざまな要因があることを仮説として説明した。
この発言は「女性差別的である」と大顰蹙をかって、彼は失脚したんだけど(少なくとも失脚の要因の一つになったんだけど)、私は経験的にはサマーズに同意するんだけどなぁ。

もっとずっと低レベルな話になっちゃうが、金融機関の総合職も女子のやめる率は男子よりずっと高い。その理由の一つに体力がついていかない、というのがあるんじゃないか。
週に八十時間、仕事のことを考えるには何よりも体力が必要だ。もちろん、女性だって、子育てや夕飯の献立だったら、頼まれなくても一日中考えていられるんだが、オプション取引だの、クレジットデフォルトスワップだのについては、30分くらい考えると頭が痛くなるわ、飽きてくるわで、「辞めます」ってなりがちなんだ。
興味深いことに男性は一日中、金融工学だの、リスクモデルだのをいじくりまわして飽きないんだねぇ。

もちろん、そういうのが嫌いな男性も多いが(だからこそ多額の給料がもらえるのである)、そういうのが好きな男性の数はそういうのが女性の数より確実に多いと私は思うんだけど。

とか書くと差別的になっちゃうのかしらん。。。もちろん人それぞれで、一般的傾向から「あなたはだからこうなんだ」とは言えないんだけどさ。

昨日の夜は私はキャベツと鶏肉のトマトソース煮込み、キャベツとセロリのサラダ、チーズ、くるみとりんごのパン、白ワイン。
夫はトマト煮込みが苦手なので、アスパラチーズ巻カツ(買ってきた)、アスパラガスとグリーンリーフのサラダ、高野豆腐の煮込み、わかめと豆腐の味噌汁。
今日の夜はステーキなんだけど、私は胃が痛くて食欲ないので、くるみパンとチーズ、ゆで卵、みかん(愛媛の春柑橘、ひめのつき)。

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03月28日(水)

起床時刻:12時45分

篠田節子の『仮想儀礼』(上・下、新潮社、2008)を一気に読む。

ゲームのシナリオライターとして一旗あげようとした元都庁総務局勤務の鈴木正彦(管理職試験「A」に受かった優秀な職員)がなんだかんだで一文無しになり、自殺を考えるほど追い詰められたところで、編集者だった矢口に出会う。
矢口もまた一文無しになっており、二人は未発表に終わった鈴木渾身の大作『グゲ王国の秘法』(4千枚)をもとに、「癒しとヒーリングを提供する」新興宗教をビジネスとして立ち上げる。
そこに集まってくるのは「生きづらい系の若者」(元カルト信者、いじめられっ子、風俗嬢たち)と、現世利益を求める孤独な経営者や悩みをかかえた主婦たちだった。

前者はこの世の常識を否定し、常識を超えた宗教(既存の宗教にはない)という法に救いを求める。
後者は常識を補強しつつ、宗教を通じて現世内での問題が解決されることを望む。

つまり前者と後者とは気が合わないのだが、これこそ宗教に求められる二つの要素といってもいいだろう。およそ宗教と言われるものは常識と相反するような教義を持つ。現世的な序列からこぼれた人たちはそこに救いを見出す。しかしそれだけ(=反常識)ではカルトになってしまう。
既存の、制度化された大宗教は常識との折り合いをつけ、現世的な序列をむしろ強化するような作用も持つ。そこに予定調和的な「安心」を見出す「良識派」「常識人」も多いのだが、それでは救われない人は救われないのだ。

うまいことに、良識もあり、バランス感覚にすぐれた教祖(鈴木正彦あらため桐生慧海)は後者(「常識人」)と相性が良く、女にだらしないが共感力だけは半端ない矢口は前者(「度し難き衆生」)と相性がいい。

彼らがやることはひたすら話を忍耐強く聞くことだ。元都庁職員の正彦なら常識的なアドバイスもし(宗教施設にくるより行政に相談したほうがいいケースも多々ある)、矢口ならただ相手を受け止める。彼らの話を親身に聞いてくれる人など、占い師や宗教家を除いて、誰もいないのだ。もちろん、家族ですら。むしろ家族が悩みの種になっている。

著者はうさんくさい新興宗教を一方的に攻撃するのではなく、むしろ、うさんくさい宗教にすがらずにはおれない人の心に焦点をあてている。
宗教人・非宗教人、どちらもあまりに業が深いので、読みながらこちらが息苦しくなるほどだ(詐欺師であるはずの正彦や矢口が一番まともに見えるから不思議だ)。

*****

生きていれば、誰でも多かれ少なかれ、自分の無力さというのを思い知る。
神様の中で生かされていると思うか、縁の中で生かされていると思うかは、宗教的バックグラウンドの違いによるけれども、生きていれば、どうにもならない、圧倒的な外部の力を感じることはあるだろう。

地震や洪水、株式相場の暴落といった大きなものから、病気、家庭内の不和、職場の軋轢など小さなものまで、自分の力でどうにもならないことは多々ある。
誰もが認める善人が病気になる。人の何倍も頑張っている人が報われない。
神様は少なくとも勧善懲悪ではない。天網恢恢、疎にして漏らさずというが、漏らしているケースを補足できてないだけだ。

この荒涼たる現実に人は耐えられない。なんとかして、偶然や気まぐれや無意味さの中に意味を見つけようとする。信仰するとは、まさにそういうことだ。偶然性という暴力の中で、因果律を見つけることは、荒れ馬に手綱をつけることにも似て、大きな安心を人の心に与える。

あなたの受けている苦難は仏様だか神様だかがくれた試練ですよ、というメッセージ。
あるいは、これはあなたのカルマですよ、前世の因縁ですよ、あるいは天罰ですよ、というメッセージ
そして、「カルマを断ち切るために、慈悲心、隣人愛で他人に接することが大事ですよ」という神様・仏様からのあなたへのメッセージですよという理解。(正彦は良心からこのような脅しめいたことは言わないが)

でもさ、それって要するに不幸は自己責任ってことっすよね?
違うから。不幸なのは、水子がついてるからでも、信仰不足だからなのでもなく、タマタマなんだから!と私は言いたい。
誤解ないように言っておくと、現世的な努力が無意味だと言っているのでもない。局所的には努力と結果の因果関係は成立するけど、大局的には成り立たないからねと言っているのだ。
だからお勉強を頑張って大学に受かるとか、メタボにならないようにして成人病を予防するとか、隣近所に挨拶して良い印象をもたれるとか、そういうレベル、努力をすれば結果が出るレベルなら努力はしたほうがいいのだ。
でもいくら、前向きに明るく頑張ったって、難病にかかるときはかかるし、人に嫌われるときは嫌われるし、株式市場のあおりをくらって会社がつぶれるときはつぶれるのだ。
それはもう、タマタマである。そしてタマタマ不運な目にあうのを防ぐ方法なんてないのだ。ま、金があれば、不運な目にあっても気分は多少よくなるだろうけど(金があれば病気になってもいい病室に入れるっていう意味で)。

と私はいいたいが、これじゃ信者は一人も来ないだろうなぁ。

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03月27日(火)

起床時刻:08時15分

この日は筍を買うてきた。「えぐみなんて全然ないよ」という言葉に踊らされて買ってきた。若竹煮をつくったが、えぐいじゃんかよ~。一緒に煮たワカメのほうが数倍美味しいんだが。1200円もする筍なのに。

筍には毎回騙される。

あと豆腐の蟹あんかけ(ズワイガニ+しょうが+カイワレ)、豆腐とワカメの味噌汁、親子丼(刻みのりと青ネギをトッピング)というメニュー。豆腐とワカメが使い回されているが、気にすんなw。旦那にも少しだけ若竹煮を出したが、何も言わずに食べていた(「どう?」って聞いたら「今、忙しいから」だって。何が忙しいかというとネットを見るのに忙しいんだが)。
この日はAM4時くらいまでゲーム。旦那がキィィィィってなってたので、疲れた。

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03月26日(月)

起床時刻:12時30分

神社の境内の、満開の梅が美しい。

梅はきれいで香りもよいが、にもかかわらず、「『花に例えるなら梅』と言われたときの複雑感」は間違いなくある。
なんでだろう。梅というのは、なんかダサいということになっているような気がする。さくらと比べるとわかる。

まず、さくらを歌ったJポップはいっぱいあるし、すぐに色々思いつくが、梅を歌ったJポップはすぐに思いつかない。梅の歌、といわれると、「東風吹かば」まで遡っちゃうんだが。
女子名前界でも同じことがいえる。「さくら」という名前が大人気なのに対し、梅(梅子)は惨敗している。梅だけではなく、日本の「めでたい植物」御三家、松竹梅(松子・竹子・梅子)、全て惨敗している(デラックスのつくマツコだけは目立っているが)。

梅は梅干という実利性もあるのに(ついでに言うと、梅干を歌った歌もない。リンゴを歌った歌はあるのに)、どういうこっちゃねん。

と、適当に書いて不安になったので、一応、明治安田生命の生まれ年別人気の名前ベスト10(女子の部)を調べてみた。
すると、平成22年の人気の名前のトップが「さくら」である。平成21年では6位、平成20年では4位、平成19年では2位にランクインしている。平成20年には8位に美桜(みざくら?と思ったが、ひょっとして、みおうか?!だよね、「みざくら」だったら、ほとんど日本酒だもんな)もランクインしていて、「さくら」という名が大人気であることが確認できた。
http://www.meijiyasuda.co.jp/profile/etc/ranking/year_women/

さくらはパッと咲いてパッと散るイメージから、あまりメデタイ感じはしないので名前には不向きな気もするが、そういうのはもはや、老人発想なのかもしれんですな。ノマド時代に「千代に八千代に」的な永続性(めでたさの基本)もへったくれもないのだ。

それよりもやはり「さくら」という言葉の優しげかつ軽やかな語感を重視するんだろうね。
あと「さくら」は「さ」と「ら」と二つ、母音がアなんだよね。昔から名前に「ア」母音は人気だけど、ここ数十年はほんとに人気が高いなってランキングみて思うね。昭和58年以降、平成10年の「萌」を除いて、トップの名前には必ず「母音がア」が含まれるのだ。

昔は例えば千代子や静子が強い時代があったんだけど(大正時代だが)「千代子」っていうと、どうも発音からしておちょぼ口になるよね。それよりも「ア音」のアハハハと大口あけて笑っている感じが今はいいんじゃなかろうか(おちょぼ口の夢二風からアンジェリーナ・ジョリー風大口全盛時代へ)。それとラ行がくっつくことによるハイカラ感ね。

というわけで、語感からして「さくら」は「梅」に圧勝なのだ。
森山直太朗の「さくら、さくら、今、咲き誇る~」の「さくら」を「梅」に変えると、何か違うでしょう。その「何か違う」感じが梅なのです。

*********
夕飯はハンバーグ、ベイクドポテト、アスパラの茹でたの、エリンギと油揚げを焼いてポン酢醤油とネギをかけたの、コンソメスープ。
昨日は、ナスと豚バラの甘味噌いため、野菜スープ、高野豆腐の煮物(人参、絹さや)、キャベツの塩もみ+昆布。
美容院、眼科。FF11バージョンアップ。

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03月25日

起床時刻:13時30分

友人がブログで書いていたんだけど、最近の幼稚園のお遊戯会では、男の子が全員王子様で、女の子が全員シンデレラだったりするそうな(ほんとに?ソースは「マツコ&有吉の怒り新党」だそう)。「それって変ですよね?」っていう投稿だったそうだが、「変ですよね」と言っている人は間違いなく、いじわるな継母役に抜擢されなかった人であろう。

ちなみにわたくしは幼稚園のお遊戯会(演物は「白雪姫」)で、白雪姫に毒りんごを手渡す魔法使いのばーさん役に抜擢されたことがある。
幼稚園という人生の最初期に女子社会における自分のポジションを認識させられ(美的最下層)、その後着実に卑屈な人生を歩んでいったゆえに、わたくしは「全員がシンデレラなんておかしい」という正論をはけないのである。

うちの母親は変わった人だから、「白雪姫より魔法使いの老婆のほうが演技力いるのよ」的にはしゃいで、それらしき衣装まで用意してくれた。母にのせられて私もそれなりに熱演したのだが、私の演技力が災いして、その後男子全員にずっと「ババア」呼ばわりされることになったのである(小学校にあがっても「ババア」であった。「ババア」と呼ばれる小学一年生ってそうそういないだろう)。

そう、ガキ(と頭の悪い大人)は、演じている役柄と演じている人の区別がつかなくなりがちだ。悪役を演じているとあたかも悪人のように思われてしまうことがままある(それはもう、子供は馬鹿だから仕方ないんですけどね。大人でもこういう馬鹿はいますからね)。

私はそれ以来演劇というものを忌避してきた。
しかし、もし私にプリンセスの役柄が与えられていたならば、魔法使いの老婆役でみせた私の役者魂から想像するに、今頃私は大女優になって、日本のメリル・ストリープと呼ばれていたかもしれないのだ(ないない)。

それにしてもシンデレラなんてつまらん話じゃないか。
元苛められっ子がイケメンセレブを捕まえて苛めてたやつらを見返すっていう話だろ?「悔しかったら、セレブと結婚してみなさいよ、おーほっほっほ」って話だろ?

でも、私たちはそこが一番楽しいんだよね。もし継母も継姉もみーんないい人で、「王子様と結婚できておめでとう!シンデレラ!」と祝福される話だったとしたら、ちっとも面白くないんだ。

シンデレラがやり返すとこ、見返すとこがこの話の一番の盛り上がりなんだからな(だから「シンデレラ願望」というより「ざまぁみろ願望」を満たすところがこのお話の肝なんだよ)。

もちろん、魔法使いにドレスやらかぼちゃの馬車やら用意してもらえるところも、私たちの「濡れ手に粟」願望、「他力本願」願望を満たしてくれて楽しいんだけれども、それでさっそうと駆けつけたところが王子様に無視されたんじゃちっとも面白くないんだな。

もちろん、普通に考えたらどこの馬の骨とも知れないシンデレラと王子が結婚するなんてことはなく、せいぜいが愛人にとどまるんだろうが、愛人じゃでかい顔できないから、ダメなんだよな。「あたくしが欲しいのはお金でも愛情でもありません、それプラス、地位なんですっ!正妻の座、王妃の座なんですッ!」という心の叫びが聞こえてきそうだよ。
そもそも苛めれっ子の地位逆転、というところにカタルシスを感じるんだ。行き着く先が愛人じゃ、カタルシスは感じられない。

人生の最初期にババアになってしまった私は、シンデレラなんかつまらん話だと思うけど、大多数の人にとってはつまらん話じゃないんだろう、だから十年一日、あんなのやってんだよ。

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03月24日

起床時刻:13時30分

『まさかジープで来るとは』(昨日の記事参照)に触発された、今日のつぶやき。

川柳と見せかけた説教

昔はハロウィンなんてなかった

週二のパートで志望動機を聞かれても
(ブロ友の実話wめっちゃウケたw)

落ち込んだ日は何にでも「力」をつけてみる―寝坊力、二度寝力、昼寝力

カレーライス型の次男とウドの酢味噌あえ型の長男

そういう個性ならいらない

余ったサンドイッチの具材
(金曜のお昼はアボカド・レタス・スモークモモハム・新玉ねぎをフォカッチャに挟んだもの。サンドイッチの付け合せがサンドイッチの中身のサラダという妙なことにw)

夫が夕方に帰ってきて焦る

**********
昨日、とうとうイージスの盾(FF11)が完成。3ヶ月かかっていないんじゃないの。昔は1年かけても完成しなかった逸品だ。つくるには億単位のギルがかかる。よく見るとイージスはなかなか不気味な盾だ。おっさんの顔がひっついている。
そのあとむちゃくちゃ眠かったんだけど、アパデマクの角取りに駆り出されて、寝たのはAM6時くらいか。

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03月23日(金)

起床時刻:10時30分

『まさかジープで来るとは』(せきしろ×又吉直樹、2010年12月、幻冬舎)を読んだ。幻冬舎の本は買わない主義なので図書館で借りたんだけど「まさか図書館にあるとは」だよ。

せきしろと又吉が交互に自由律俳句?をつぶやいていて、ところどころに写真と散文が入る、という構成。
とうとう、つぶやきシローに時代が追いついたな(違っ。

従来の「分け入つても分け入つても青い山」とか「咳をしても一人」とかと違って、又吉君は芸人風自由律俳句(ちょっと笑える)なところが新しい。

「急に番地が飛んだぞ」とか。

新しい。

「贔屓目に見ても圧倒的に負けている」とか。

他にいくつか又吉くんの作をご紹介。

「自分の分は無いだろう土産に怯える」

「よく焼けと教わった椎茸をもう薦められている」

「恐竜の話はもういい」

「空調を褒めるくらいしか無い」

「喩えなくても解っている」

「店長に期待されている者にろくな奴はいない」

「確実に唾が溜まっている笛の音だ」

なんか自分でもつくれそうな気がする。
というわけでつくってみた。

見るからに胃弱

リゾットと雑炊の地位の差

夢の中でも端役

昨日みた夢の話は本人以外面白くない(格言)

だいぶ前から本気出してた

「ピンと来ない」と言えるほどのセンス力

土産物を買うテンション

寅さんの衣替えが気になる
(冬物のコートをどこにしまっているのか)

いくらでもできるが駄作

以上、おあとがよろしいようで。

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03月22日(木)

起床時刻:08時00分

人間の因果関係発見力は異常。

例えば「晴れ」と「テルテル坊主」の因果関係を発見するとか、まず猿には無理である。しかも人間は「てるてる坊主 てる坊主~、あーした天気にしておくれ♪」と因果律の調整まで、布製の簡易人形に頼むのである。

テルテル坊主の荷が重すぎる。

晴れたら報酬がもらえるが(「金の鈴あげよ」「あまいお酒をたんと飲ましょ」)で、 雨の場合は殺される(「そなたの首をチョンと切るぞ」 )。

割に合わねええええ。

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03月21日(水)

起床時刻:12時15分

最近読んだ『男の凶暴性はどこからきたか』(リチャード・ランガム&デイル・ピーターソン、三田出版会、1998)はとっても面白かった。古い本だから、事実関係や学説など今では覆っている部分も多々あるかもしれないが。

殺人、暴行、レイプなどは、人間特有のものであると長い間私たちは思ってきた。しかし、類人猿のオスたちは、人間のオス同様、全般的に暴力的な性質を持つ。もっとも、それぞれの類人猿社会に応じて暴力のパターンは違うけれど。
本書はオスの凶暴性の根源を、「原罪」や「家父長制」や「西洋文明」に探るのではなく、類人猿(特に人間と一番近いチンパンジー)の世界を考察することで、見出そうとする。

オランウータンの場合、大部分のメスが繰り返しレイプを体験するが(全交尾の1/3から1/2以上が「力づく」という報告もある)子殺しにはあわない。
ゴリラの母親の場合、シルバーバックの保護のもとにあるので、オスに暴行を受けることはない。ただシルバーバックが交代すると前の旦那との間の子供は殺されるので、ゴリラの母親は平均して一生に一度以上、子供を殺されると推察される。
チンパンジーのメスの場合、すべてがオスからの暴行を受け、一部がレイプされ、少数が子殺しの被害にあう。
(上の例はオス→メスの暴力だが、オス同士の残虐な暴行だってもちろん多々ある)

人間社会をサルどもの社会と一緒にするな!とお叱りを受けそうだけれども、私は『恥辱』(J.M.クッツェー)を読んだときに、あの南アフリカの野蛮な農村こそ「人類の原風景だなぁ」って思ったんだよね。法律や良識が機能しないときは人間社会もチンパンジー的状況になるんだなぁ。

南アフリカの農村に単独で生きるルーシーは、単独行動のオランウータンのメス同様、暴行され強盗され大変な目にあう。
ルーシーがそんな目にあったのは、レイピストの持つチンパンジー的衝動からであろう。
チンパンジーのオスは青年期になると、群れのすべてのメスに暴行を加えて痛めつけ(ただしメスの加勢をしそうなおとなのオスのチンパンジーのいないときをみはからって)、自分の地位のほうが高いことを知らしめる儀式を行うんですね。
子供のオスもおとなのメスをからかうが、まだおとなのメスのほうが体が大きいので撃退される。しかし大人になると、はっきりとした体格差が出てくるので、からかい以上の暴行をメスに加えて、自分の優位性を認めさせる。

翻って南アフリカの農村に戻ると、男を必要としないルーシーは「生意気」だったからこそ、繰り返し制裁が加えられたのだろう。欲望も処理でき、あわよくば子孫だって残せるわけで一石三鳥というわけだ(彼らは暴力に興奮し、悦びを覚えている)。

チンパンジーのオスの攻撃を撃退するために、ルーシーはシルバーバックのおっさんの保護のもとに入ることにした。このシルバーバックは裏で暴力ざたを画策していた可能性が高い。しかし、ファラオの後宮のミニミニ版に第三夫人としてルーシーは入ることを選ぶ。
メスにとって一番安全な道は、最も強いオスと結びつくことなのですね(年老いて弱った父親はその時点でゴミクズになってしまうんですね。これが類人猿社会の法則ですなぁ)。

言ってみれば、ルーシーはチンパンジー的状況よりもゴリラ的状況を選んだわけです。

とはいえ、人間はゴリラよりもチンパンジーのほうに種としては近い。なんと、チンパンジーはゴリラよりも人間に近いのだ。

人間とチンパンジーは450~600万年前(本書では500万年前としている)に分岐した。
人間のほうは急速に進化したが、チンパンジーは種の進化という点では保守的だ。だから、我々の祖先を考えるにはチンパンジー社会をみるのがいい、ということになる。

チンパンジー社会というのは、
①オスは自分が生まれた集団で一生を過ごす
②メスは青年期に近隣の集団に移籍する
③父系の血縁でつながったオスの集団は自らのテリトリーを防衛するだけではなく、時には他集団のテリトリーに侵入し、他集団のオス(顔見知りどころか元友人の場合もある)に死に至るほどの残虐な暴行を加え、テリトリーを拡張する。
(本書の冒頭に紹介される二つのチンパンジー集団の「仁義なき戦い」にはぞっとするが、人間のギャング集団と変わらない)
という特徴があるらしいんだが、こういう社会をもつのは4000種の哺乳類のなかで、チンパンジーと人間だけなんだそうだ。

「チンパンジーと人間は外見はちがうが、二つの系統にはおなじ進化の力が作用しつづけており、集団感の敵意や個人の暴力のシステムをずっと保ち続け、今もさらに磨きをかけて」おり、「その進化の力とはどのような力なのか?」、というのが本書の核心である(p48)。

答えは本書を読んでいただきたく。

ここからは私の戯言であるが、言っておくと、「男って凶暴でいやぁね」と言ったからとて、別に女(メス)が平和主義者ですばらしい人格者である、ということではない。普通に周りを見渡せばそれはわかる。

ただ、人間でもチンパンジーでも、個人差はあるがメスのほうが確実に暴力性は低い。例えば姑が嫁をいびるとき(その逆もまたしかり)、殴る蹴るの暴行を加えることはまれである。子供が親に反抗するときも、娘より息子のほうが、親に暴力をふるう確率が高いだろう。
女というのは力に訴えるよりも、言葉でネチネチ、影口でネチネチ、無視してネチネチ、物を隠してネチネチ、いじめるほうが主流である。

思うに、人間の世界ではハイエナ的メス(ハイエナの群れのリーダーはメスで、やたらめったら攻撃的)が、オスに好かれなかったために、「反抗手段はネチネチ」というタイプのメスが生き残ったのかもしれん。獲物をぶんどってくるハイエナ的メスとは違い、人間のメスはナヨナヨ系従順派であればあるほど好ましい。だって後宮にアマゾネスみたいのがいたら、王様はいつ寝首をかかれるかわからないもんね。

女だって単性生殖をして増えたのではなく、暴力的な夫の血を受け継いでいるのである。そして暴力的な男を排除するのではなく、そちらにぴたっとくっつくようにして進化してきたのだ。処世術としてね。

人類皆兄弟、というが、本書を読むと、類人猿皆兄弟な気がしてくる。人が人を殺すのは、「我々がカインの末裔だから」という説明よりも、「チンパンジーと共通の祖先をもつから」という説明のほうが私はしっくりくるが、これはまぁ、人それぞれ、個人のすきずきで、趣味ってものだろう。

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03月20日(火)

起床時刻:13時30分

月曜は友人と会ったんだけど春先は洋服に困る。日中は暖かいけれど日が落ちると急に冷えるし。
極端な寒がりの私は思いっきり冬のコートで行ったんだけど、弁解がましく「この季節って何を着ていいかわからないよね」って言うと、友人が「春はね、まだ意外に寒いから、冬の格好でいいって大草直子さんが本の中で書いてたよ。寒いのが一番いけないって」と(ほんとかどうかしらんが)言うので、大いに勇気づけられ、「そうだよね、春を先取りした薄着で風邪でもひいたらバカらしいよね」と深く首肯する。
「春先は冬の格好でよい」は代々伝えていきたい教えだね。春先はただでさえ悩みが多いというに、着るものなんぞで悩んでいる暇はねーんだよっ。

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03月19日(月)

起床時刻:10時15分

親から電話。ソフトバンクと何かの契約したらしいんだけど、本人確認で電話がかかってきたんだってさ。そのとき、契約者(父)が出たら、父以外でって言われて、母が出たら「70才以上の人は確認者になれません」と言われたらしく、たまたま妹がいたので契約確認ができたんだって。
「老人になると未成年扱いになるのねぇ」って親が言っていたけど、biscさんが書いていた(早起き生活サイトを通じて)「自分を成長させる」ってどういうことなんだろうねぇって思っちゃったなぁ。

私たちは確実に退化する。壮年期に知的な高みに到達していても関係ない、例えばアイリス・マードックだってボケちゃったんだたし。私たちは壮年期を過ぎたら、今度はまた未成年に退化し、場合によっては(認知症などになって)赤ちゃんがえりする。だからといって努力をしないことの言い訳にはならないんだけど、どうしようもなく虚しい気分の今日一日。

さって、出かけてくるかな。

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03月18日

起床時刻:13時30分

03月17日

起床時刻:13時15分

お手伝いで神威(@FF11)に行ってきた。レベル99だと楽勝(けど、それなりに強い)。
私は75キャップ時代に適当構成で行ったんだけど、フルアラでもまさに「死闘を繰り広げる」という感じだったね。
あとちょっと、というところで、ほぼ全滅しかけたんだけど、最後かろうじて生き残っていた獣使いのカニがポコッと殴ってギリギリ勝ったんだ。
「カニwwwGJwww」って感じだったけど。

神威は曲(FF11 Fighters of the Crystal クリスタルの戦士)がかっこいいんだけど自分が初めて行ったときは「あわわわわ、あわわわわ」で聴く余裕がなかったけど、今回は余裕だったので堪能できた。

ん、今日はなかなか日記っぽいな。書いているの月曜だけどなw。

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03月16日(金)

起床時刻:11時30分

今日のお昼は、スライスしたスモークモモハム、コールスローサラダ、きのこのスープ、くるみパン1/4個、デコポン1個。
本当は夕飯の残りの酢豚を食べなきゃいけないんだけど、私はあまり酢豚が好きじゃない。夫は好きなんだけどね。

母親から電話があって、まーた1時間半くらい喋っていたのだが、暇だから別にいいんだけど、年金生活者に「暇でしょ?」と言われるようになっちゃあ、お終いである。
内容は相変わらずくだらなくて↓な感じ。

私「やっぱ肩書きって大事だよね。私もただの主婦とかただのパートじゃなくてっさ、鳩山幸みたいに新しい肩書き(彼女の場合は「ライフ・コンポーザー」)を発明すればいいんじゃないかな?「お仕事は?」って聞かれたら「ライフ・コンポーザーです」って堂々と言って、名前の横に「一級ライフ・コンポーザー」とか書いてある名刺をすっと差し出したいよ」
(母親「恥ずかしいっ、何それ、絶対無理っ」)

「名刺の裏側には「ライフ・コンポーザー・ドットコム」のアドレスが書いてあって「ライフ・コンポーザー三級講座が今なら5万円オフ!」とか宣伝まで入ってるの。まぁでも、「一級ライフ・コンポーザー」は鳩山幸だから、私は「シニア・ライフ・アナリスト」にしようかなぁ。どう思う?」
(母親「言い出したもん勝ちだからね、トレンドの先端をいけばいいのよ」)

「いやいや、私ってトレンドのどん尻を行く人だから、私が何か始めたら、それはブームの終わりってことなんだよね。だから、「トレンド終了フォーキャスター」っていう仕事はどうだろうか。「あ、フェイスブックですか?私がアカウントつくったんで、もう終わりですね」みたいな感じで企業のマーケターに講演するの、どうかなあ」
(母親「あはは、需要ないよ」)

通信費用と時間の無駄遣いである。

さーて夕飯、何にしよっかなぁ~。思いつかないなぁ~。
ふと思ったけど、私が人生で一番多く発した問いって間違いなく「夕飯、何にしよっかなぁ~」だね。
私一人だったら楽なんだけど、夫の好きなものを考えると頭が痛い。でも世の中の主婦は、夫だけじゃなくて子供の趣味、スーパー主婦になると姑の趣味まで考慮して献立考えるんだよねぇ。すごいよなぁ。

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03月15日(木)

起床時刻:08時00分

「は~るが来た~♪、は~るが来た~♪、脳に来た~♪」ってなわけで、春というのは精神が不安定になりやすいときですからね、気をつけないといけません。ま、私のことなんですがね。

昔は「は~るよ来い♪は~やく来い♪」と待ち焦がれていた春も、今や花粉症の季節となってしまい、くしゃみ鼻水鼻づまりの季節となってしまいました。ああ、春のこの没落をいったい誰が予想できたでありましょう?

現代の古今和歌集においては、
「春来ぬと目にはさやかに見えねども鼻水垂れておどろかれぬる」
で春の部が始まるのです(嘘です、始まりません)。

と言いつつですね、私は花粉症じゃないんですのよ、オーッホッホッ。
だから春は私の輝く季節であります。

会社の鼻をズルズルいわせている人に「花粉症ですか?」と聞くと、「そうなんですよぉ、花粉症じゃないんですか?」と聞かれるので、「ええ、そうなんです、花粉症じゃないんです、アレルギーもなんにもないんです」と聞かれてもないことまで答えたりして、オードリーの春日くん並みに胸を張れるんだ。

「でも明日発症するかもしれませんよ」って結構色んな人に言われるんだけど><。私の数少ない人に威張れるものがなくなるなんてイヤだなぁ(さりげなく「数少ない」人に威張れるものって書いたけど、花粉症じゃないことの他に何があるっけ?昔は「いくら食べても太らない」が威張れるものとしてあったんだけど、今は着実に腹が成長してそれもなくなっちゃったしなぁ)。

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03月14日(水)

起床時刻:11時45分

今日のお昼は庄内のプチ・ヴェールとIBIZAのスモークモモハムのパスタ。IBIZAといっても地中海にあるイビサ島ではなく、福岡は浮羽郡にあるハム工房&スペイン料理のレストランのことです。

私も一回行ったことあるんだけど、ものすごい山の中にある。結構不安になるレベル。食べログの地図みたら吹くと思う。
http://r.tabelog.com/fukuoka/A4008/A400803/40006048/dtlmap/
(今食べログの住所みて知ったけど、浮羽郡って今、「うきは市」っていうんだね。この合併してひらがなの名前の市になるのは、何のブームなんすかね)

私は味オンチだから料理についてのコメントはしないけど、自然に囲まれていて素敵なところです。

私が「旦那はハムやウィンナーが好きだ」と言ったら、うちの親がしょっちゅうここのスモークモモハムを送ってくるんだけど(めっちゃ胡椒がついている)、夫はこういうのは好きじゃないんだな。普通の、スーパーで売ってるようなのが好きなんだな。
というわけでなくならないので、私がせっせと食べているんだけど。

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03月13日(火)

起床時刻:08時00分

miki.lucyさんの日記を読もうとしたら、プライベートモードに変更なさっていた。あらら。
ふと「お気に入られ」の欄をみると、dragokuuさんもどうやら退会されているようです。

そして早起き村の「顔」ともいえるbiscさんも卒業する、とのことでありました。私はゲームが忙しいので他の人の記事はほぼ読んでいないのだけれど、dragokuuさんまわりで何かあったっぽいね。
biscさんの記事を引用させていただきますと(不都合あればご連絡くださいませ)http://www.hayaoki-seikatsu.com/users/bisc/daily/20120311
「こちらのサイトは、早起きをすることによって時間を有効に使い、生産性を高め、自己の成長を図る、また、ネットを通じて多くの人々とコミュニケーションをして、情報交換をしてお互いに高めあう、つながっていく楽しい場所のはず」。

耳が痛いです。
耳が、チョー痛いです。
思えばわたくし、生産性も高めず、自己の成長も図らず、コミュニケーションもせず、お互いに高めあわない住人でありました。

「ところが、一部に、人をバカにして、けんかをふっかける輩が跋扈し始めたので、楽しい場所ではなくなってしまった」
耳がッ!耳がッ!
ここの住人は良識ある大人の方々が多くて、ちゃんとスルーしてくれているのをいいことに、私もたいがい人をバカにしているようなこと書いていてるからねぇ、実際書きながら思うのよ、ああ、人を不愉快にさせるようなこと書いているなぁって。
ネガティブだしねぇ。
朝から読むほうはうんざりするだろうなぁって。

もっとポジティブになれるようなことを書けばいいんだといつも思うんだけどねぇ。
それができないので、時にはプライベート・モードにしたりもしたんだけど、わざわざ汚部屋をアップする人のように、ネガティブを溜め込んだゴミ屋敷を公開しちゃうんだよなぁ。

ゴミ屋敷の主人同様、ゴミを溜め込みたいというわがままで頭のいかれた衝動と、ご近所大迷惑という集団におけるルールとのせめぎあいだね。
まぁでも、ネットのネガティブゴミ屋敷とリアルのゴミ屋敷とでは、とても大きな違いがある。
それはネットのゴミ屋敷は近寄らないことが可能なことだ。うっかり足を踏み入れてもスルーすることができる。リアルだと接触は避けられない。だからリアルは嫌なんだよ。

とはいえ、ネットでもたまに、人んちにまでゴミを投げ入れて、ゴミ屋敷っぷりをアピールする人もいるわけだが、それはよろしくない。

本人はゴミを投げ入れたのではなくて、建設的な議論を投げ入れたんだ、というかもしれないが、建設的な議論なんて、ツチノコみたいなもので、どこかに存在するのかもしれないが、見たことない。

今日は最後にポジティブ風にいい言葉でも書いておこう。
(早起き村の人は、名言を聞いて「勇気をもらいました!」とか報告するのが好きそうであるからな)

デール・カーネギーによる、人に自分の考え方を受け入れさせる12の方法の一つだ。

The only way to get the best of an argument is to avoid it.
(議論から最上のものを得る唯一の方法は、それを避けることだ)

あ、あんま「勇気もらえる」感じの言葉ではなかったなw

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03月12日(月)

起床時刻:11時45分

土日にゲームしすぎたせいか、目の奥が痛い。
風邪っぽいのもある。

母親から電話がかかってきて1時間半くらい話していた。何をそんなに話すのかというと、まぁここに書いてあるようなくだらん話である。
最近こんな本読んだよとかテレビでこんなこと言ってたよとか。

私の最近の関心事を反映してさっそく「討議を通じて合意を目指すようなコミュニケーションなんて不可能なんじゃないか」って言ったら、「そりゃそうよ、国会中継みてごらんなさいよ。討論どころか対話にもなってないじゃない。だから途中で見ていられなくなっちゃうもの」だってさ。うちの母親もなかなかのテレビッ子になっているようである。

他には桑原武夫の第二芸術論の話に絡んで私が「やっぱりさ、まず宗匠としてブランド化しなくちゃダメなんだよね、エルメスやグッチとかみたいにさ、ブランド化するためには物語が必要なんだよね、でもそれが難しいんだよね」というと、母が「誰が言ったかが大事なのよね。なんかよーわからんような句でも、あの人が詠んだんだってなると、何か深い意味があるかもしれないってなるもんね。特に俳句は解釈を読者に任せるようなとこあるから」とか言うので、「所詮17文字しかないから、言い尽くせないしね。そのうち5文字か7文字は季語になるんだから、実質、12文字以下だもんね」と言うと、「でも芭蕉なんかの本当にいい句はいいわよ、いつまでも残るわよ」と答える、みたいなどーでもいい話。
あと夕飯は何にするかとか、父の腰の具合とか。

ジンメルによれば(ていうか『コミュニケーションの社会学』(有斐閣アルマ)第2章のジンメル紹介(奥村隆)によれば)、ジンメルは他者を絶対的に知るようなコミュニケーションは不可能だし、望ましくもないという。
「関係とは「一定の無知」と「相互の隠蔽」を前提とし、無知、隠蔽、秘密がコミュニケーションを支えるのではないだろうか」。
ではコミュニケーションの歓びはどこにあるのだろう。ジンメルは「社交」にあるという。社交とは目的から解放された相互作用のための相互作用、つまり「社会的遊戯」である。
「この遊戯としてのコミュニケーションには、各人の内容も入り込んではならない。<略>社交においてはわかりあうべき「内面」などすべて捨てて、「純粋な人間性」つまりただの人にならなければならず、ただの人同士として「すべての人間」が平等であるかのように行う遊戯が展開される」。

ジンメルのいうような「遊戯としてのコミュニケーション」を体現しているのは演歌「居酒屋」の世界だろう。
「名前~聞くほど~野暮じゃない~、まして身の上話など~」
「そうよ~たまたま居酒屋で~横に座っただけだもの~」
これが純粋社交ですな。
これこそ究極の「仮面舞踏会」ですよ。

しかしまぁ世の中の人は野暮だから、居酒屋から一歩踏み出したくなるのだ。特に女の人は身の上話が大好きだ。

世の中、完全に身分や肩書きやその他エトセトラを不問とし、「純粋な人間性」だけでもって「すべての人が完全に平等であるかのように」ふるまえて、その上で、身の上話ができる空間ってのは今までなかった。だけど、インターネットの世界、ウェブの世界で可能になったような気がする。

だから私がFBのアカウントをつくらないのはそういうことでもある。せっかくの匿名性の社交的遊戯の世界で遊んでいるのに、なんでリアルの背景を持ち込まなくちゃいけないのか。

父親はFBの勧誘(?)が友人のH君からきたそうで、私の方も「FBのことわかってます」風に答えたのだが、実際、全然わかってないw。やってないしやる気もない。だけど父には「いいんじゃない?」とすすめておいたけどw。

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03月11日

起床時刻:12時30分

一日中ゲーム。朝4時くらいまでプレイして、お風呂入って、上がって、岡井隆の歌集(『ヴォツェック/海と陸』)をパラパラとめくる。
岡井隆ってセンスの塊だな、というかセンスだけで勝負しているような。
さすが「短歌界のおぎやはぎ」である(って誰もそう呼んではいない?)

「まつすぐに物を見るなどしたまふな見ぬ幸福は黒糖の蜜」

まつすぐに物を見るなら気づくはず拒絶という名の灰色の海。
さはあれど物見る癖は変えられず人それぞれの因業と知れ。
(下の二首は自作の腰折)

グローバル・スタンダードが嫌なのは、その因業を押し付けてくるからなんだよ。ただの癖を。疑いもせず。めんどくせぇ。

コメント返しして寝る。

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03月10日

起床時刻:12時30分

『コミュニケーション的行為の理論』を書いたハーバーマス(元祖学級会脳)の議論を考えてみよう。

と偉そうに書いたが、アンチョコ(『コミュニケーションの社会学』長谷正人・奥村隆編、有斐閣アルマ2009の第2章)に全面的に依拠して書くんだけどw

アンチョコによれば、ハーバーマス曰く、人の行為には、「成果」志向に基づく行為と「了解(=わかる)」志向に基づく行為がある。
「成果」志向に基づく行為は、例えばモノを生産しようとする行為(「道具的行為」)やモノをつくるために他人と協働しようとする行為(「戦略的行為」)がある。
一方、「了解」志向の行為には「コミュニケーション的行為」がある。

「成果」志向に基づく行為において大切なことは「目的合理性」である。
一方、コミュニケーション的行為では「コミュニケーション的合理性」が大切だ。
これは「究極的に強制をともなわず、議論におって一致でき、合意を作り出せる重要な経験に基づき、これによって各人は最初の主観的な考え方を克服して、相互主観性が保障されるという合理性である」

この時点で学級会脳臭がプンプンするが、もうちょっと読んでみる。
さて、発語行為にはメッセージを伝えるだけではなく、何かを喚起するような作用(発語媒介行為を生むような作用)がある。
例えばお母さんに「お腹すいた」といえば、空腹のメッセージを伝えるだけでなく「じゃあ何かつくろうか?」という行為を引き起こす力があるということだ。

しかしこの「じゃあ何かつくろうか?」を引き起こすには、3つの「妥当性要求」を満たさなければならない、という。
「真理性」「正当性」「誠実性」である。
まぁそうだ、空腹でもないのに腹減ったと言ったり(真理ではない)、お母さんじゃなくて通行人に言ったり(正当ではない)、ただ単にお母さんにかまってほしくてお腹すいたと言った(誠実ではない)場合には、ご飯をつくってもらえない。
この妥当性の三要求を満たさないのに「メシつくれ!」というのは権力的要求という。

「コミュニケーション」というのはこの「妥当性要求」を満たし、強制のない「了解」によって「合意」に達しなくてはならない。
私たちの「生活世界」は「了解」と「合意」によって行為の調整を行うようにするが、「市場」や「国家」は違う。
「市場」では貨幣価値により、国家では集中された暴力により行為は調整され、わかりあうことは必要とされない。
「生活世界」が了解を志向するのに対し、市場=交換関係や国家=権力関係は「成果志向」である。
前者を「社会統合」、後者を「システム統合」と区別してみれば、今の世の中、「システム統合」が「社会統合」の世界を侵犯しているのではないか。
「言語による合意形成が貨幣や権力にとってかわられて、システムが物象化したり文化が貧困化したりする「生活世界の植民地化」が生じているのではないだろうか」

私たちはそれを防ぐために「討議(Diskurs)」しないといけない。その際、誰もが討議に参加できること、外的な圧力を受けないこと、が大事だ。
このルールにより、討議を強制や抑圧や不平等(つまりは権力)から守り、ちゃんとした合意に達することが可能になる。

とまぁ、まとめるとこんな話だ。
後ろの参考文献によると、こんなどうでもいいことを上下二冊にわけて書いたらしい。

まず第一に、そもそも、生活世界においても、「了解」志向に基づく、コミュニケーション行為なんてあるわけがない。
たとえば家族がいい例だろう。家族というのは「了解」志向、すなわちわかりあうことを目的とした関係であるとハーバーマスは思うかもしれないが、
親が子どもに発するメッセージの大部分は「勉強しろ」「就職しろ」「結婚しろ」といった「成果」志向に基づくコミュニケーションだ。
つまり、子どもが勉強する、就職する、結婚するという成果を目指した発話行為が主たるコミュニケーションとなるのだ。

もちろん、これらは「妥当性要求」を満たしていない「権力要求」であり、コミュニケーションとはいえない、と彼は反論するかもしれない。
しかし、この「妥当性要求」というのがクセモノで、誰もが認めるような「真理」や「正しさ」や「誠実さ」なんてないのだ。
親は三要求を満たしていると思っているが、子どもは満たしているとは思っていない。そして子どもの主張は子どもからすれば三要求を満たしているのだが、親はそう思わない。
つまり「了解」志向に基づくコミュニケーションというのは、おとぎ話にすぎない。

もっと言うと、歴史上、了解志向に基づくコミュニケーション的行為による合意形成世界などというのは家族にもコミュニティにも出現したことはない(おそらく)。
だからハーバーマスが言うような「生活世界の植民地化」などというのは、幻想にすぎない。そんなエデンの園は歴史上存在しない。

貨幣や国家権力とは無縁な世界、人類学者のリチャード・リーが比較的男女平等な世界と述べたクン族において、女性側の聞き取りをした本によれば、初潮のときに年上の夫から求められた娘が嫌がって断ったら、夫に首をへし折られた(故意ではなく事故らしいが)そうだ。
で、首長は解決策としてヤギ5頭を慰謝料として遺族に渡すように命じたんだって(『男の凶暴性はどこからきたか』リチャード・ランガム&デイル・ピーターソン、三田出版会、1998。めちゃくちゃ面白い本。なんで面白いかっていうと、私が考えてきたことに近いから)

資本主義の害悪も国家権力もなーんにもない、まっさらな世界では、この腐った資本主義の現代世界以上に、「了解」志向に基づくコミュニケーションなんてものは存在しない。

そもそも、「了解」志向なんてものがこの世にあるだろうか?
「拒絶」志向が世の中を席巻しているのではないか?
「わかりあう」ということなど不可能ではないか?
ていうか、わかりあおうとすれば自分を拒絶するしかない。
なぜなら、他人から発せられる究極のメッセージは「お前は消えろ」なのだから。

昨日引用した夫婦喧嘩においても、あるいは炎上するブログにしても、2chの祭りにしても、そこにみえるのは「拒絶」であり、「拒絶」志向こそが、一般的な人間関係のあり方ではなかろうか?

慌てて言い添えておくと、私たちは「絆」も大好きだ。
「だって俺達友達だろ!」というのが少年漫画の決め台詞として頻出する。
でもそこにだって拒絶がある。「敵」の拒絶が。俺達味方、お前達敵、というコミュニケーション。

だから「敵」になったとたんにどんなコミュニケーションも不可能だし、実は「味方」内でもコミュニケーションは不可能なのだ。なぜなら、誰かが思う「味方とはこうあるべき」に常に私たちはあわせないといけないのだから。そしてそれを拒絶したら(「拒絶」志向!)、もはや敵になってしまうのだから。

討議?
究極の目的は「相手を拒絶すること」なのに、何を討議するわけ?

昨日引用した夫婦喧嘩は意図的に誤読した。
それは「夫は妻に死んで欲しい」と思っているのではない(たぶん)。
夫は妻を拒絶したいし、その意思をより鮮明に示すために(それこそ「売り言葉に買い言葉」で)、「死ね」といったのであろう。
妻の側はそんな夫を拒絶したいから、殴ったのだ。

「了解」志向なんてこの世にない。
あるのは「拒絶」志向だけだ。私がコミュニケーションが不可能だというのは、コミュニケーションにより合意に達するということは、どちらかが拒絶を受け入れることだからなのだ。

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03月09日(金)

起床時刻:11時45分

『なぜあの人とは話が通じないのか?非・論理コミュニケーション』(中西雅之・光文社新書2005)を読んだ。

コミュニケーション・マスターになるに必要なものをエピローグで語っておられます。以下まとめてみましょう。

①しなやかな知覚(ステレオタイプや思い込みを捨て、問題を解決するにはなにが必要なのかを正しく認識する)
②しなやかな感情(感情を上手にコントロールする、あるいは感情表現を効果的につかいこなす)
③文化の違いに対応できるしなやかさ(文化相対主義の考え方が望ましい)
④環境の変化に対応できるしなやかさ(「遠慮・察し」モードと「創造性」モードを上手に使い分ける)
⑤しなやかな知性(理屈だけで対応しない)
⑥しなやかな表現力(言語、非言語コミュニケーションを組み合わせて、「表現の壁」をうちやぶる)

コミュニケーション学とかやっているのはアホだけだというのがよくわかるね。そんな「しなやかマジック」なんか、リアルの世界にゃねぇんだよ。
少年ジャンプか何かの読みすぎなんじゃねぇの?

「学級会脳」と私は呼んでいるんだが(「無意味なきれいごと」を恥ずかしげもなく論じる性向のこと)、書いていて「意味ねぇな」と思わないのか、私には不思議である。

たとえば第三章「トラブル発生」も役にたたないこと必至である。
人間関係のトラブル―コンフリクトが発生するのは不可避である。
しかし「コンフリクトは悪いものではない。<略>人は一人ひとり皆違う、だから相違点があって当然である。そうした違いをお互いが問題視することから、コンフリクトの状況が生まれるのだ。<略>次々に起きるコンフリクトに柔軟かつ、創造的アプローチで大書していくことによって、お互いにとってより満足度の高い人間関係を築いていくことが望ましい。」(P65)と言いつつだよ、「信念や価値観など、個人のアイデンティティーの核心を形作るものは、そう簡単には変えられない。もしその違いをどうしても受け入れられない場合には、その人との人間関係を解消するか、関わりをもたないようにするしかないだろう」(P47)と言っている。

あのさ、世の中たいていの深刻なコンフリクトは個人のアイデンティティーの核心の差から生じるものなんだよ。
「その違いを受け入れられない場合は、人間関係を解消するか関わりを持たないようにしたほうがいい」とコミュニケーションの放棄をすすめているくせに、「お互いの文化への積極的適応を試みるというアプローチで、違いに心を閉ざすのではなく、オープンな態度で「異文化」や「多様性」を柔軟に対処するコミュニケーションを身につければ、世代間・男女間のコミュニケーション・ギャップを上手に乗り越え、話が通じる関係を築くことができるだろう」(P189)って、なんで言えるの?
さっき「無理ぽ」ってコミュニケーション、諦めてなかったっけ?
こうやって平然ときれいごとが言えるのも学級会脳なんだろうな。
そんな「オープンな態度で」「柔軟に対処する」人たちが住まうお花畑ってどこにあんの?え?言ってみろよ?

コミュニケーションについてはね、こういう脳内ユートピアでお手手つないでランランランなんて話は、鼻くそほどの価値もないのですよ。
というわけでリアルな教材を持ってくることにする。

婚活ニュースとかいうサイトにリアルな夫婦喧嘩のテキストが載っていたので転載してみよう。高嶋政伸と美元らしいんだが、真偽のほどはわからん。
http://www.kon-katsu-news.com/news_aIcgYM4Ov4.html

男性:馬鹿女が。死じまえ、てめえなんか
女性:(音声不明瞭)に不満なんかないよ
男性:だから、死んじまえ早く、てめえなんか生きている価値もねぇよ、本当に。そういう、人のね、やさしさとか、そんなもんをぜんぶ全部すっとばしてなぁ、自分のやりたいように全部やろうなんてな、馬鹿がやることだよ、本当に。白痴がやることだよ
女性:あたしはあーちゃんとの結婚生活を続けるために自分の貯金を使ってきたよ
男性:って結婚生活を続けたくないんだよ、もう何度も言っているように。頼むよ本当に
女性:でも、あたし、死んじまえって言われるようなことしたかなぁ?
男性:知らないねぇ
女子:あたしの親の前で同じこと言える?
男性:売り言葉に買い言葉ってところありますからねぇ、男はみんな1回くらい言ってるよ、「てめえなんか死んじまえ」って。まぁそう、もう寝かせて。(音声不明瞭)なんかに関わってる時間・・・
女性:いいかげんにしなさいよ!言っていいことと悪いことがあるんだよ!
男性:ちょっと待て!おい、ぶつなっ!おい、待てブス!
女性:女に手をあげる男がいる?
男性:おめえが最初に手をあげたんだろ、コラ、やってみろ、叩いてみろ!
女性:自分の奥さんに死んじまえって言う男がいる?
男性:叩いてみろ、てめえが先に叩いたんだからよ、こうやってよ
女性:女を叩く男がいる?
男性:てめえが先に叩いたんだろうがよ。ふざけんな、このやろう。俺はあさって芝居やんなきゃいけねぇんだ。てめえが叩くから叩いてんだよ!

はい、このコンフリクト、どうおさめたらいいでしょうか?コミュニケーションの先生教えてください。

難しいね。
夫は妻に対して、できれば死んでほしいと思っている。
妻は夫に対して、できれば愛してほしいと思っている。

この着地点どこよ?
離婚?でも妻は「離婚」は絶対にイヤだと思っている。

この本に書いてあるリスニングのテク、プロービング(「探り針」のように問題の確信にせまる的確な質問等)を用いたとしても、
妻「そっか、私に死んでほしいんだねぇ、でもどうしてそう思うのかな?」
夫「ブスだからだよ、白痴だからだよ」
妻「そうかぁ、ブスをなおすにはどうしたらいいのかな?整形かなぁ?」
夫「整形しても心のブスはなおせねぇよ」
妻「なるほどねぇ、心のブスかぁ。じゃあ、私はどうしたらいいんだろう?」
夫「死んだらいいんじゃない?」
ということになって、何の役にもたたないわけだ。

思うにね、納豆が嫌いな奴にとっての納豆みたいのに、美元はなっているんだよ。納豆嫌いな奴に納豆食わせるのが、コミュニケーションの核心なんだが、それはどうすれば可能なんだろうか?「納豆じゃありませんよ」ふうに偽装する?人参嫌いの子供に人参食べさせるテクみたいな感じで。
しかし、そもそもそこまでして納豆を食う必要があるのだろうか?引きこもりが増えたり、独身が増えたり、子供をつくらない人が多いのは、そういう根本的な疑問があるからじゃなかろうか?

なんでそこまで苦労して好きでもない納豆を食わねばならんのだ?
親世代は「いいよ~、納豆は。うまいよ~、納豆は」と言っているが、そんなにいいものだろうか?実際、しょっちゅう納豆をめぐって喧嘩しているではないか?

「コミュニケーションは不可能である。わかるやつは何も言わなくてもわかるし、わからない奴は百万言をついやしてもわからない」というのが私の仮説だけれども、どうなんだろうね。

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03月08日(木)

起床時刻:07時45分

「1万時間の法則」(10000-hour rule)をご存知だろうか。
「どんな才能や技量も、一万時間練習を続ければ“本物”になる「一万時間の法則」」(翻訳者の勝間和代の言をアマゾンより引用)というのをアメ人のマルコム・グラッドウェルというライターが唱えているんですね。

ちなみに私のFF11累積プレイ時間は365日を突破している。
1万時間には届かないが、実はこれは2キャラ目だけの累積プレイ時間であって、1キャラ目を含めるとたぶん1万時間プレイしているんじゃないかな。

そして、未だにプレイスキルゼロ!!ということはだよ、1万時間の法則なぞ、大嘘つきのコンコンチキなんではなかろうか!ソースは私ってやつだけど。
もちろん、私だって多少の進歩はしているが、ダメな奴は10万時間プレイしようが、一生プレイしようが”FFのプロ”にはなれない。

国際フリージャーナリストの大野和基さんが「一万時間の法則の嘘」というコラムでこう書いている。
http://www.globe-walkers.com/ohno/school/column058.html
「換言すれば「1万時間の法則は半分ウソである」ということになる。必要条件ではあるが、十分条件ではない。
ぼくは仕事柄、世界のトップの人にインタビューする機会があるが、同じプロでもなぜここまで違うのか、といつも疑問に思っていた。グラッドウェルは「1万時間の法則に尽きる」と言うが、それは間違いである。Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration.(天才とは99%の汗と1%のひらめきである)という箴言は昔からあるが、この1%がないと天才にはなれない。99%が1万時間に相当するとしても、問題はこの1%の才能がほとんどの人がないという厳しい現実に直面する。

『婦人公論』(9月7日号)で、脳科学者(?)の茂木健一郎とピアニストの中村紘子の対談の中で興味あるやりとりがある。

茂木 名ピアニストになるには、何が決め手となると思われますか。
中村 指が速く動いて、音を間違いなく弾ける人なんて、いくらでもいます。それ以外の、その人ではないと味わえない感情を持っていること。どんな分野でもそうだと思いますが、やっぱりその人ならではの世界を持っていることが大事です。
茂木 それは生まれつきのものですか?それとも・・・・。
中村 生まれつきのものです。それが“才能”というものでしょう。
茂木 努力だけではどうにもならないものがあるんですね。
中村 そう思います。」

私なんぞ、「指が速く動いて、音を間違いなく弾ける人なんて、いくらでもいます」のレベルにすら到達しなかったがな!近所で誰よりも早くピアノを初めて(幼稚園かその前か)、妹に抜かれ、後からピアノを始めた周りの子全員に抜かれ、周回遅れでバイエルを弾いていたがな!

プロになるには才能が必要だ。ピアノの先生になるには才能はいらない、練習時間だということだけど、その域にすら達しない奴だっているのだ(ま、1万時間も練習していないけどね)。

そういうと「言い訳だ!」「もっと頑張れ!」「真剣にやれ!」「泣き言を言うな!」っていわれるわけだけど、あたしゃその美しき人間平等思想についていけないんだよ。人間は平等じゃない。才能も違う。生まれつきの要素がとても大きい。どうしようもない奴はどうしようもないんだよ。

なんでそれがわからないんだろうねぇ。
「人というのは頑張れば全員おなじはずなんだ」、というのが草の根デモクラシーの基礎なんだろうね。そういう人たちが裁判員制度とかいうワケのわからんものを導入したりするんだろうね。
判断能力にだって人には大きな差があるんだよ。ま、司法試験受かっても判断能力があることにはならんが、裁きたい人たちに裁かせときゃいいじゃねぇかと思うんだな。

とかいうと、「出た!日本人の無責任の構造!」って言われるわけだが、「分を知る」というのは日本人の謙虚さの知恵だと思うんだが。まぁ謙虚さなんていう価値はスクラップどころか、むしろ憎悪の対象になっていて、「わたしが、わたしが」と手をあげる人が一番エライ時代なんだけどさ。

無理なもんは無理なんだし、できない奴はできないんだよ。できる奴ができない奴のために頑張り、できない奴はでしゃばらない。それでいいじゃないかと私は思うんだが、これなんぞ「ダメなやつの言い訳」か「封建思想」になっちゃうんだろうな。
今の時代は無理なんてものはない、無理は人のなさぬなりけりで、できない奴もできる奴を目指して頑張り、できる奴は自分のためだけに頑張り、できない奴はできる奴の足を引っ張る。それが美しきメリトクラシーの世の中ってわけなんだわ。

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03月07日(水)

起床時刻:11時45分

寝てたら「ものみの塔」のひとがやってきて「目ざめよ!」を持ってきた。黙ってポストにいれて行ってくれればいいんだけど、ピンポ~ンって必ず押すんだよな。

うちによく来る人をランキングすると、一位:ピザ配達の人、二位:宅急便配達の人、三位:ものみの塔になっとる。これでいいんだろうか。

まぁそんなわけでインターフォンに出たら「最近、怒る人が多くなったと思いませんか?怒りをコントロールできない人が多いと思いませんか?」とのこと。で、聖書が怒りのコントロール方法について教えてくれてるんだと。

まぁ、旧約聖書の神もたいがいぶんに怒りっぽいと思いますけどね。
だいたい、ソドムとゴモラも「風紀が乱れとる!!」と怒りまくった神様によって「天からの硫黄と火によって滅ぼされた」んじゃないの?そこまで怒らなくってもって思うんだけど。

創世記の大洪水も「オマエラなっとらん!!」と人間に神が切れて、ノア以外の全部を滅ぼしたんじゃなかったっけ?

この神様にも今月号の「目ざめよ!」(特集「どうしてそんなに怒るのか」)をお配りするといいと思うわね。怒りをコントロールするには「リラックスする方法を学ぶ」といいらしいよ。
「深呼吸はすぐに行うことができ、怒りを和らげるための最善の方法」とありまっせ。人間を絶滅させる前に深呼吸してみたら?

リラックスの次には「期待し過ぎない」ということが書いてある。
「過大な期待をする人は怒りの問題をかかえがちです。なぜでしょうか。ある人や物事が自分の高い基準に達しないとがっかりし、すぐに腹を立てるからです。こうした完全主義的な思考と戦うために、次の言葉を思いに留めておきましょう。「義人はいない、一人もいない。すべての人が道からそれ(た)」(ローマ3:10,12)」
その言葉そっくりそのまま旧約の神様にお返ししますけどね。

一方、イエス様は優しいイメージがあるが、神殿で商売している人にぶちぎれてなかったっけ?

そこいくとブッダはすごいよ。アルボムッレ・スマナサーラ師の『怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)』を読むと、お釈迦様は絶対に怒っちゃいかんということを徹底されていたんですね。強盗が入ってきて面白半分に腕を切っても怒っちゃいかん、みたいなことが書いてあったような。

すみません、無理です。

「怒る」ということに関していえば、『恥辱』(J.M.クッツェー)を読んですごく考えさせられた(ここからは完全ネタバレしつつ書きます、注意)。

主人公の娘ルーシーは南アフリカのド田舎村で農家の真似事みたいなことをして生活をしているのだが、強盗&暴行&家大破壊&犬皆殺しの悲惨な目にあう。しかしルーシーは「怒るべき」ところで、怒らないのだよね。

逃げ出せばいいのに、逃げ出さない。逃げ出すことは負けだという。しかし世間的にみたら、とどまることのほうが負けなのだ。

彼女はあえて苦難の道を引き受ける。どん底まで落ちる。それがその場所にとどまるための対価だとしたら、それを支払うという。

私はルーシーにイエス様を重ねてしまった。イエスもルーシーも、もっとうまく立ち回れたはずだ。けれども二人とも逃げ出しもせず、そこにとどまる。二人とも誰かを傷つけたわけでもないのに(むしろただ善き人であらんとしただけなのに)、存在自体を社会から疎まれる(ルーシーは黒人社会から、イエスはユダヤ人社会から)。イエスは最後は犯罪者として処刑されるという「恥辱にまみれた」最後をとげる。ルーシーだって惨めな境遇に自らを投じているようにしか思えない。

イエスとルーシーの共通点はまだある。ルーシーは人を裁かないのだ。自分を傷つけ、物(モノ)のみならず、彼女の尊厳を奪う人たちを罰しようとしない。主人公はそれでイライラするのだが、読者ももちろん、イライラする。悪い奴をつかまえ、土下座させ、「すんませんでした!」と言わせたい!そうしたら、どんなにかスッキリすることだろう。
でもルーシーはそれを望まないんだねぇ。もちろん、現実主義的な打算もあるんだけれど(ここで生活しなくちゃいけないから空気を悪くしたくないっていう)、それだけじゃない気がする。

主人公は強盗に襲われて思う。
「なにかを所有するというリスク。車、靴、ひと箱のタバコ。なにもかも行きわたるほどは無い。車も、靴も、タバコも。人が多すぎ、物が少なすぎる」(P130)

主人公は思うだけだが、行動の人・ルーシーは「所有するというリスク」を放棄する。分別もあり、小賢しくもある隣りの黒人に土地を譲渡するというのだ。今でも十分悲惨だが、そうすれば一文無しの敗残者となる。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6.19-21) をルーシーが実践しているように思えてくるのだが。

ルーシーは「伝道師」ができなかったことを、この南アフリカの大地で実践しようとしているようにも思える(強盗に襲われている間、主人公は「伝道師―それが遺したものとは?あの輝かしい一大事業が遺していったものとは?今の彼にはなにひとつ見えてこない」と思うことを考えあわせるに)。

ルーシーは「善き人になってみせる」と言う。そして父に「あなたも善き人を目指すべきね」と言うのだ。やっぱりルーシーはイエス様か何かのような気がしてくる。こう書くとルーシーがお堅い道徳家のような感じがするかもしれないが、そんなことはなくて、ウィットに富んでいて、賢くて、優しくて、もちろんリアルな感じもあって、よくできた小説なんだわ。

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03月06日(火)

起床時刻:08時00分

パートに行ってきた。バイトに行ってきた、と言ってもいいんだけれど、おばちゃんがやる短期労働はバイトじゃなくてパート、みたいなのない?やってること一緒なんだけど。

ニートは「15〜34歳の年齢層の非労働力人口中から学生と専業主婦を除き、求職活動に至っていない者」を言うわけで、35歳になったらニートから無職になるわけだけども、やっぱそんな感じで、35歳すぎたら、バイトからパートになる、みたいなのがあるのかな。

FF11の話。夫の2アカにつきあって、久しぶりにプロマシア・ミッションをやっているのだけど(レベル制限なくなったんだから一人でできるだろうにめんどくさい)、相変わらず意味不明だな。まぁ、私の読解力が著しく不足している+FF嫌いっていうのがあるんだろうけどさ。
ゲームでもアンチャーテッドみたいなわかりやすいストーリーなら好きなんだけど。(ここからプロマシアネタバレ)「男神プロマシアは“死”という概念に目覚め、それを受け入れようとしていた。それを嘆いた暁の女神アルタナはプロマシアを救うため、“彼の死”を分割した。“分割されたプロマシアの死”は、虚ろと呼ばれた。」とかもう、難しすぎるわ。

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03月05日(月)

起床時刻:11時50分

『経済成長は不可能なのか 少子化と財政難を克服する条件』(盛山和夫/中公新書/2011.6.25)を読んだと書くと、テメェは天下国家を心配する前にテメェ自身のことを心配しやがれという声が聞こえてきそうである。
100%そのとおりなんだけど、世の中に景気よくなっていただかないと、トリクルダウン効果だけを狙って、最下層で口をあーんと開けて待っている、我々シモジモは困るわけですよ。

話を戻すとこの本のプロローグを読んだだけで、気分が暗くなる。
私もたいがい暗いことを書く人だが、この人もたいがい暗いこと書いてる。

著者は日本が抱えるクァドリレンマ(ジレンマの4つ版。あちらを立てたらこちらが立たずが四つもあるんですな)として、①デフレ不況②財政難③国が借金まみれ④少子化をあげている。

例えば①デフレ不況や④少子化を解消しようと政府が金を出すと、さらに②財政難や③借金まみれがひどくなる、とまぁこんな感じですな。

私はニュースも新聞も見ないからよく知らなかったんだが、日本は借金だらけの火の車。どえりゃあことになってるんですよ。(あ、知ってた?)
「どうすんだこりゃ、福島あたりに石油がドバっと出ねぇかなぁ」と他力本願の私は思うくらいだが(聞くところによると石油はすでにピーク・オイル、産出量の最盛期はすぎているそうですね)、先生はそんな典型的ダメ人間発想(=天に頼る)はしない。

この本は結構盛りだくさんに、失われた20年の要因は何なのか、日銀が悪いのか、円高が悪いのか、規制緩和が足りないのか、潜在成長率が低いのか、
あるいは経済政策についての提言のどこがよくてどこがいかんのか、とか色々書いてあるんだが、そこらを全部すっとばすと(こらこら)、先生の処方箋はこうだ。

2011年 ドバっと国債を発行する。それにより名目成長率と税収を確保。
2012年 前年の政策の結果として名目成長率が4%に拡大。税収拡大。でもあいかわらず、国債はドバっと発行する。
2013年 成長率は4%、税収の伸びは7%。政策的経費は5%の増。
2014年 消費税5%アップ。国債2%増。プライマリーバランスが改善しはじめる。
2019年 ここでさらに消費税を2%アップして、プライマリーバランスの早期改善を期す。

そんな上手く行くかいな?
直感的には、国債を発行しても赤字だけ増えて、たいして経済成長しないんじゃないかって気がする。
ま、私の直感はあてにならないけども。
直感的には、太陽は地球の周りをまわっているような気がするし、地球は自転していないような気がしているから、むしろ私の直感は確実に間違っているんですけどねw

グローバル経済時代においては、国も社会も人間も(教育も宗教も病院も)、今や世界で尊敬を受ける唯一の組織となった「私企業」を参考にしないといけない。
で、企業はというと、今の日本みたいに収入は増えずに、支出ばかり増えるとき、どうするかっていうと、リストラをするんですね。
人件費を削減する。一番の特効薬はリストラなんです。

ま、国民はリストラできないから国の経営者らは悩んでいるわけですね。
(だからリストラだけでのしあがってきたアメリカのロムニー大統領候補なんて、政治家の適性がどこにあるのかさっぱりわからんね)

日本でも全老人を、とっとと早期に死なせれば、プライマリーバランスはあっさり改善するし(年金と医療費の大幅削減)、そして老人の資産を召し上げて、成長力のありそうな若者に分配すれば、成長産業を刺激するという点でもいいですし、内需に対してもいいのです。
というのも、若者がモノを買わなくなったと言われるけど、それでも老人より消費性向はずっと高いですから、(老人はお金を「老後の病院代」として溜め込むんです)、デフレ不況も脱却できる。
金があれば子供をつくろうという気も起きるから、少子化も改善する(少子化の大きな原因として経済的不安があるのはよく知られていることですね)。夢の特効薬じゃね?

しかしまぁこんなことをやったら、現代のナチスだとして世界からコテンパンに非難されるだろうけども。
SFだったら、日本のためを思うマッドサイエンティストが、老人だけを選択的に殺すウィルスを発明して、それをこそっと東京を中心にばらまき(田舎は老人が地域を支えているとこ大きいからね)、老人がバッタバッタと死んでいく、なんてね。老人は「東京病だ」と慌ててみな地方に逃げていって、東京一極集中も解消される。
その翌年くらいにプライマリーバランスがぐぐっと改善、国債の格付けもぐぐっとあがるという、SF小説の一丁上がり。

実にグロテスクだけど、合理的思考の帰結ってグロテスクなものじゃない?
もちろん、グロテスクな不合理はわかりやすいし、それをなくすために私たちの先祖は闘ってきたわけだけれども、完全に合理的であってもなおグロテスクな結果に陥ることもあるのよね。

とまぁ全然違うことを考えちゃうのは、バカだから仕方ないんだけどさ。

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03月04日

起床時刻:14時30分

「反省しない→努力しない→永遠に向上しない底辺のクズ人間である」
というのがうちの夫による私の分析である。
ゲームをしていて、私がポカをまたやらかしたときに言ってたんだけどね。

思うのだが、”勝ち組”の”負け組”に対する見方というのは概ねこんな感じじゃなかろうか。一言でいうと、「自業自得じゃ、反省せい!」というのが、夫婦喧嘩をこえて、負け組に対する勝ち組の意見と一般化できるのではないか。

「今までに一度でも真剣に頑張ったことがあるのか?」
「今まで一度でも逃げずに何かと取り組んだことがあるのか?」
「人生において何か一つでも誇れるものがあるのか?」
と聞かれたが、答えは全部ノーである。

受験勉強もしなかった。
大学は現役で受かった適当なとこに行った。
就職活動もほぼしなかった。
就職してからは当社比では頑張ったが、世間比ではほぼ頑張っていない。
子供を生まなかったから子育ても頑張らなかった。
結婚生活も当社比では頑張ったが、世間比ではほぼ頑張っていない。

頑張らないからダメなんだ!
頑張らないから、何一つ誇れるものもない、最底辺のゴミクズとなってしまったのだ!!

というのが夫の主張なのですね。

まぁ確かにそのとおりかもしれんが、私が誇れるものがただ一つあるとしたら、子供を生まなかったことだ。私のゴミクズDNAを絶ったこと、負の連鎖を絶ったことである。
生まれてきたとしても、いいことなんか何もないのだから(正確に言うといいこともあるんだけど、嫌なことのほうが質・量ともに凌駕する)、生まれてこないのが一番いい。一方で、生まれてきてすぐ死ぬのがいいことにはならないのは、これは親や友達といったシガラミができてしまうからである。

日本に生まれてくるのは恵まれている。感謝しろ。
確かにそうかもしれない。しかし生まれてきたら、星飛雄馬のごとく、ど根性人生を送らないといけないのだ。大リーグ養成ギブスならぬ正社員養成ギブスをつけられて、

お~もい~こんだら、試練の道を~
行くが~日本のど根性~
真っ赤に燃える 王者のしるし
正社員の星をつかむまで
血の汗流せ 涙をふくな
ゆけゆけ~日本人~どんと~ゆ~け~♪

とまぁ、「頑張れ!頑張れ!」の人生なのだ。
結婚しても頑張れ、子供を産んだら子育てを頑張れ、日々頑張って生きなくちゃいけないのだ。頑張らないと、とたんに最底辺に転落してしまうからだ。

何かに追い立てられて、自分を叱咤激励して、転落の恐怖と戦いつつ、生きる。それが勝ち組の人生なんだろう。だから、自分の尻も叩かずに、努力も向上もせず、転落していった奴は、それ相応の悲惨な境遇であってほしいと思うのだし、私みたいに、勝ち組のおこぼれでのうのうと生きている奴は、大感謝かつ大反省して欲しいわけだ。そして努力してこちら側にはい上がってきてほしいのだ。

一方で負け組たる私は「そんな生活も人生もご遠慮申し上げます」と言いたいわけだ。だから「離婚したって別にいいよ」って言っているのに、「ほらそこ。まさにすぐ離婚するというのがすぐ逃げるというところ。感謝してもっとよくなろうと思わない。反省しない。反省しないから努力しない。反省も努力もしないから、クズのまま」という冒頭の、「私のテーゼ」に戻るわけですよ。でもさ、40になってクズだったら一生クズだろうよ?普通。
ここから指数関数的奇跡の急回復(反省のパワー)するのかね。

「どういう育ちをしたらこんなワガママで無反省になるんだ?」といぶかられたが、育ちも悪けりゃ遺伝子も悪いんですよ。なんで「ゴミでクズで知的障害者」と自らが思う嫁と一緒にいるんだろう?別れればいいのに。
「ど根性」で嫁をなんとかしようとしているんだろうか。大ゲーマー養成ギブスだか良妻賢母養成ギブスだかしらんが、それを身につければ、素晴らしいゲーマーのできた嫁ができると思っているんだろう。
相手が悪かったね。私は筋金入りのゲーム嫌い、かつメンヘラ気味の頭おかしい人なんだよ。石ころはいくら磨いても永遠に石ころなんだ。

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03月03日

起床時刻:11時30分

miki.lucyさんが写真をとるときに上手く笑えないと書いてらしたが、写真をとるときに上手く笑えない人のほうが好ましく感じる。
外資系企業の年次報告書みてると、完璧な前歯8本くらいを全開にしてニッカーと笑っているおっさん(アメリカ人か)がよく出てくるでしょう。信用ならん気がするもんね。

私も普段はよくヘラヘラ笑っている人なんだが(「ヘラヘラすんな!」と怒られてきたタイプ)、カメラを構えられると緊張しちゃうんだな。未開人かって感じだけど。

昨日はゲーム(@ff11)でポカをやらかし、まーた旦那に切れられたよ。

「バカ!なんでちゃんとスリプル管理ができねぇんだよ!!何回同じミスするんだよ!!反省してないからだろ!!だから何やってもダメなんだよ!!リアルでも仕事もできないんだよ!!反省しろ、脳みそ腐ってんじゃないのか(←これ定番)!!」
とかなんとか。

そんなに私が気に食わないなら、テメェ一人でやりやがれ!クソが!!
と言いたいところだが、言えない。
私はゲームなんぞやりたくないんですけど。

夫には友達が一人もいないから、私にべったりくっついてるんだろうなぁ。
「若年性濡れ落ち葉族」ってやつですな。
忘年会ゼロ、新年会ゼロ、今年も去年も一昨年も(たしか)。
結婚して以来、夫は土日に友達と出かけたことは一度もない(結婚式の出席は数回あるけれど、純粋に遊びに行くとかはないんだわ)。

だから妻にひっついてまわる。
そりゃあ妻はいいよね。
何を言っても怒らない。「コーヒー」「甘いもの」と言えば出てくる。
相手の嗜好を無視して、好きなことに付き合わせられる(「おい、ゲームするぞ」)。

しかしまぁ、世の男性はなんでこんなにゲームやらパチンコやらにはまるのでしょうねぇ。

女というのは日常の細々としたことにも、楽しみを見つけることがあるけれど(まぁ自己欺瞞といえば自己欺瞞かもしれないが)、男の人生は「冒険か無意味か」の二者択一なのだろうかねぇ。
で、冒険家ではない大多数は擬似リスク体験や擬似冒険体験を求めて、「お仕着せの冒険」たるレジャー産業にはまる。計算されたリスクとリターン(玉の出る確率やアイテムドロップ率は決まっている)でいいなんて、実にお手軽にできているが、人間の求めるものなんて所詮計算可能なものなんだろう。

ここをちょいと刺激してやれば、ドーパミンが出る。
ニューロマーケティングが一般的になるにつれ、ますます「科学的に」ゲームや広告もつくられるだろう。実際、今でもゲームをプレイしているときの脳波をはかって「最適な」調整をする企業だってあるし、広告や商品パッケージを見たときに、どう脳が反応するのかも細かく知ることができるのだ(昔はMRIを使っていたそうだが、今は脳波なんだと。クーリエ・ジャポンで読んだんだけど(うろ覚え)、MRIだと5秒くらいのタイムラグがあったのと装置が高価でバカでかくなるという問題点があったのが、脳波をはかるタイプだと頭にかぶってスマートフォンでつなぎ、データを簡単に集められるんだとかなんとか)。

「発話の起源は歌にあり、歌の起源は過大にしてからっぽの人間の魂を音で埋めんとするところにある」(『恥辱』クッツェー)とあったけれど、音楽だけではなく、ゲームの起源もパチンコの起源も、あるいは映画やアニメや小説の起源も、過大にしてからっぽの人間の魂を埋めんとするところにあるのだろう。そして今からっぽの人間の魂を「科学的に最適な方法で(少ないコストで大きな企業収益を得るために)」脳波やら何やら調べて埋めようとしている。

人間というのは複雑にして単純、「欲望」ですら、企業から簡単に与えられるものなのだ。からっぽの人生に耐えられないほど過大に発達させたエゴとそこに収益機会を見つけ出した企業の幸せな結婚、それが近年のレジャー産業の隆盛だろう。

「雁渡る 生きるさびしさ きびしさに」(鈴木真砂女)という句があるが、「ゲームする 生きるむなしさ 無意味さに」というのが真実なところか(このゲームするは「ゴルフする」でも「本を読む」でも「パチンコや」でもなんでもいい)。季語なくなっちゃうけどwww。

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03月02日(金)

起床時刻:12時00分

明日はひな祭りである。ここのところ近所のスーパーでは「あかりをつけましょ、ぼんぼりに~♪おはなをあげましょ、桃の花~♪」を大音量で流して、ちらし寿司の素だかひなあられだかを買わせようとしている。

ひな祭りといえばdra先生が先日、柳川に行かれ、お雛飾り(さげもん)を見てこられたそうだ。私は福岡育ちなので、柳川のひな祭りは聞いたことがある。
うちの母も以前にお謡仲間のオバサン連中で、柳川に行き、雛飾りを見物し、うなぎを食べて帰ってくる(順序は逆かもしれないが)、というのに参加して、俳句までつくって私に見せたものだ。

それは今でも覚えていて
「ひな祭り 熟女の群れも 華やいで」
というものであった。

「熟女ってのが、どうかなぁ、私は熟女って言葉があまり好きではないよ」と母に言ったら、「じゃあ、なんていうのよ?年増の群れも華やいで?」と反論された。確かに年増の群れじゃいけないし、ましてやババアの群れでもいけない。年増もババアも華やがないもの。
当時、まだ耳慣れぬ新語ではあったけれども、やはり「熟女」しかないのであった。

新語といえば、クラウドコンピューティングだのライフハックだのロングテールだのビッグデータだの、最近はとんでもなく色んな言葉を日常的に知るわけだが、これらはもとはといえばただの英語をカタカナ表記したものである。

一方で、「ヒヤリハット」なんつうのは純然たる日本語の新語であるといえるだろう。
「ほっこり」というのも新形容詞のような気がするがどうだろうか。私が子供のころは「ほっこりする」なんぞ、聞いた試しはなかったが。「ほっとする」とは言ったけれども。「ほっこり」ブームが起こったのは、平成不況の「癒し」ブームの頃からではなかろうか。ま、適当に言ってるですけど。

あと私が気になるのは「野菜たち」「器たち」という、女性料理研究家にありがちな「モノ+たち」表現ね。
この前も「野菜たち」を連発している料理本を読んで違和感を覚えた。だいたい日本語は単複同形なんだが、あえて、「たち」と言わなくちゃいけない事情はなんなのだ。
「公達」「友達」というように「たち」は自分と同等以上のエライ者、大事な者に使い、自分と同等以下は「ら」(「君ら」)、「ども」(「犬ども」)を使うような気がする。
と書いてからgooの辞書を見たら(先に見ろ)「「たち」は話者が同等と考える人物を表わす語につき、「ども」「ら」は、見下したり軽蔑したりする人物を表わす語につく」んだってさ。へー。

そして「「たち」は、人だけでなく、生き物についても使う」。でも今は無生物にも使うから改訂が必要になるかもしれんな。

私もそのうち「野菜たち」「器たち」「タオルたち」「洋服たち」「本たち」という言葉を使うようになるかもしれない。その予兆はある。そのときはモノたちとお友達になれてよかったねと喜ぼう。

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03月01日(木)

起床時刻:08時00分

『よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年』(辺見じゅん、保坂正康/文春新書/2012.2.20)を読んだ。
昭和天皇は87年の生涯において、どのくらいの数の御歌を残されたか。
宮内庁御用掛も務めた歌人の岡野弘彦さんによれば、昭和天皇は1万首ぐらいお詠みになったそうで、公表されているのはそのうち約900首なんだとか。ただ辺見さんの感覚によれば、もう少し多いのではないか、まったく表に出ない歌というのもありますから、とのことである(「はじめに」より)。

私は天皇陛下に限らず、皇族のお言葉的なもので感動したためしはないが、歌は違う。
「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むる」だけではなく、「天皇と臣民の心を通わせる」ものもまた、歌なり、と思う。

「文は人なり」と言うが、「歌もまた人なり」である。
御製をその時代背景とともに読み返すことで、記者会見などではわからない昭和天皇のお人柄が伝わってくる。
私は昭和天皇には戦争責任があると思ってきたし、今もあると思うけれども(ただし責任は問えないと思うが)、天皇の祈りにも似た御製を読むと、「胸せまりくる」(これは昭和天皇が先の戦争、戦死者、その家族を思う御製でよく使われる言葉だ)ものがある。

もちろん、1万首ともいわれる御製の中で公開されているのはほんの約900首だから都合の悪いものは隠しているという見方をする人もあるかもしれない。しかし先の戦争前、戦争中の歌会始で詠まれた歌(これこそ全臣民が新聞で目にするものであり(戦前だってそうだよね?)陛下がその民に一番伝えたいお気持ちだったであろう)から明らかになるのは、平らな世、安らけき世をただただ祈る昭和天皇のお姿である。

「ふる雪にこころきよめて安らけき世をこそいのれ神のひろまへ」
(昭和6年 歌会始「社頭雪(しゃとうのゆき)」)

昭和6年満州事変勃発、昭和7年上海事変、5.15事件
「あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」
(昭和8年 歌会始「朝海(あしたのうみ)」)

昭和11年2.26事件
「みゆきふる畑の麦生(むぎふ)におりたちていそしむ民をおもひこそやれ」
(昭和12年 歌会始「田家雪(でんかのゆき)」)

昭和12年日中戦争勃発
「静かなる神のみそのの朝ぼらけ世のありさまもかかれとぞ思ふ」
(昭和13年 歌会始「神苑朝(しんゑんのあした)」)

昭和14年ノモンハン事件 第二次世界大戦勃発
「西ひがしむつみかはして栄ゆかむ世をこそ祈れとしのはじめに」
(昭和15年 歌会始「迎年祈世(としをむかへてよをいのる)」)

昭和16年東条英機内閣成立、真珠湾攻撃
「峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり」
(昭和17年 歌会始「連峰雲(れんぽうのくも)」)

『昭和天皇独白録』にもあるように、昭和天皇は日米開戦を避けたいと思っていたんですね。日米開戦を前に9月の御前会議で統帥部に、明治天皇の御製(「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさはぐらむ」)を読み上げてさとしている。「しかし、天皇の意に反して、日本は太平洋戦争に向かって進」(辺見)むことになってしまった。
「昭和天皇は、昭和前期から、軍部の方針になにかしらの違和感を持っていました。しかし、御前会議などで、「陛下、今は戦争をしなければこの国は潰れます」と言われると、天皇はそれには抗えない」(保坂)。

昭和20年3月の東京大空襲、そして、4月の米軍沖縄上陸。
「沖縄について、昭和天皇は死ぬまで思いを残されている」(辺見)。そりゃそうだ。県民の4人に1人がなくなったと聞く。8月には広島、長崎に原爆が投下される。

ポツダム宣言を「受諾し、降伏するか、本土決戦で戦うのか、政府内部の意見は二分していました。そこで最後に昭和天皇が受諾の聖断を下されるわけです」(保坂)
「十五日未明には、陸軍近衛師団の一部将校が、玉音放送を録音した音盤を奪取しようと武力行動を起こしますが数時間で鎮圧され、同日正午、日本国民はラジオではじめて聞く昭和天皇の肉声で日本の敗戦を知りました。終戦後、昭和天皇は疎開中の皇太子に手紙を送っていますね。それには日本が戦争に負けた理由がはっきりと書かれてありました」(辺見)

「昭和二十年九月九日の手紙です。当時皇太子は十一歳でした。手紙にはこのように記されています。
「我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
明治天皇の時には 山県(有朋)、大山(巌)、山本(権兵衛)等の如き陸海軍の名将があつたが、今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考えへず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです(以下略)」」(保坂)

ポツダム宣言を受諾してまもなくの御製
「爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」
もっと早くにとめてくれればと思うが陛下だって人の子だから責めるのは酷かもしれない。

そして戦後の奇跡の復興。

折々の昭和天皇の御製を読むと、ウルウルしてくるものがある。感極まっちゃうんですね。
昭和天皇ご自身の和歌の才能やお人柄もあるのだろうけれど、やはり五七五七七のパワーですよ。
音楽と同じように五七五七七も、理性とか論理とかで判断する大脳新皮質を突き抜けて、いきなり旧皮質に刺さるんですよね。
そしてもちろん、「御製」というオーラがある。となると「ありがたや~、ありがたや~」となっちゃう私は、深層心理において極めて原始人的なんだろう。そういうのが嫌いな割にね。

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