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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:11:08

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07月31日(火)

起床時刻:08時00分

『ダーク・ナイト ライジング』を見ていたら、孤児の警官がこんなようなことを言っていた。孤児である身の上を最初は誰もが同情し、理解しようとしてくれるが、時が経つにつれて、無理難題を押し付ける。「前を見て、すすめ」と。それで、怒りというものは隠さなくちゃならないということを学ぶ、みたいなことを。

人間というのは慣れる。最初はかわいそうに思っていても、それが十年一日の繰り言であったならば、飽きてくるのだ。当人にとってはまだまだ血も出るような新しい傷の痛みであっても、周りにしてみりゃ「その話は聞き飽きた」というものだ。

最初は同情していた人が「でも、世の中にはもっと不幸な人もいるのよ」と説教をはじめる。まったく、そのとおりだ。世の中にはもっと不幸な人もいるが、所詮は他人の不幸であって、そう、話をしている人自身、他人のことになんぞ興味はないのだ。

となると、話を聞いてもらうためにはもっとインパクトを添えなくてはならない。で、自殺などという最大のインパクトをもって「俺の話を聞け」とばかりに死ぬ、なんてこともあるだろう。そうやって話を「キャッチー」なものにする、わけだ。遺書という形の自己主張が一番、インパクトがあるだろう。

そのくらいしないと、人は聞く耳なんぞ持たないから、「抗議の焼身自殺」などという恐ろしげなる方法などを編み出す人がいるわけだろう。

だから、ただで話を聞いてもらおうっていうのは、図々しいことであって、金を出すか、命を出すかして(この世では金と命は基本的には同義であるからねぇ)聞いてもらなくちゃいけない、ということだ。

死んで花実が咲くものかというけれども、場合によっちゃあ、死んだからこそ花実が咲いたってこともあるだろう。
「生きていてくれさえすればいい」といっても、それが二年も三年も、場合によっちゃ、十年も二十年も家にひきこもりっきりのどニートになってでもしたら、感謝の気持ちもどこへやら、「いつまでも過去にこだわらんで、前を向いて一歩を踏み出さにゃいかん」と説教もしたくなるだろう。

実際、元いじめられっこというのは引きこもりなどの「いじめ後遺症」に悩む人が多いらしい。しょこたんことタレントの中川翔子がいじめ問題についてブログで
「死ぬという選択だけはしないでほしい。絶対に、生きる価値がいっぱいいっぱい未来にはある。いじめをする下らないやつの人生よりよっぽど幸せな未来が待っているから」
といじめに苦しんでいる人にメッセージをおくっていたそうだけれど(ブログ自体は読んでいないんだけど)、本当に「いじめをする下らないやつの人生よりよっぽど幸せな未来が待っているから」なのだろうか。
いじめの程度にもよるが、おおいに疑わしいと言わざるをえない。文科省がいじめられっ子のその後の実態を調べるとかいうのが数年前にあったようだけれど(公表されているんだろうか?)、「いじめっ子よりもよっぽど幸せな未来」のが実感としてあるのならば、調査は必要なかろう。「いじめっ子よりもよっぽど幸せな未来」なんてのは、無理難題中の無理難題だろう。

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07月30日(月)

起床時刻:12時00分

『昏き目の暗殺者』に続いて『ペネロピアド』(マーガレット・アトウッド/鴻巣友季子訳/2005角川書店)を読んだ。
『オデュッセイア』によれば、ペネロペイアは夫であるオデュッセウスがトロイア戦争出征とそのあとの道草により20年間王国を不在にする間、よく国を守り、求愛者たちの誘惑にも負けず、夫を待ち続けた貞節な妻の鏡である、ってことになってるんだけど、アトウッドは「古典作品においてことばを持たなかった女性たちに声をあたえる」(訳者あとがきより)。

物語の語り手は、ペネロペイアと(夫オイディプスと息子テレマコスによって)吊るし首にされた十二人の女中たち。
「前書き」によれば、アトウッドは
「『オデュッセウス」をつぶさに読めば生じざるをえない二つの疑問に焦点をあてる。すなわち、なにゆえこの女中たちは吊るし首にされたのか?ペネロペイアは実際なにをもくろんでいたのか?<略>わたしは、かねてから、吊るし首にされた女中のことが気になって仕方なかった」
(元ネタである『オデュッセイア』を知らなくても、普通に面白くて笑える)

アトウッドがはじめて『オデュッセイア』を読んだとき、「よく考えたら色々おかしくね?」って思ったんだろう。『昏き目の暗殺者』のローラも、聖書やら古典やらの細かいことが気になる人だが。

ローラは『坊ちゃん』以上の無鉄砲だから、な、な、なんと、聖書の「好きじゃないとこ」を裁縫ばさみで切取ってしまう。
「歴代志」をひと刈り、「レビ記」を何ページにもわたって、「マタイ福音書」からも一撮み。キリストがイチジクの木を呪うところ。
ローラは「キリストが木にひどい意地悪をしたといってカンカン」になるんだけど、アトウッドも子供の頃、その箇所を読んで違和感を覚えたんだろう(さすがにハサミで聖書を切り刻もうとは思わないだろうが)。

常識人のお姉ちゃんは「ダメでしょ、そんなことをしちゃ」と諌めるんだけど、ローラはへいちゃらで、「ただの紙だもん。大事なのは、紙じゃないよ。大事なのは、紙に書いてある言葉だよ」と言い返すのだ。

違うね、世間で大事にされているのは、紙のほうだよ。器だよ、見かけだよ。
言葉?ふん、聖書という「権威ある紙」に書いてあるからその言葉だって「大事」になるのであって、もし異教徒の口から同じような言葉が出れば、無視されるか、悪くすれば「大問題」としてつるしあげられてしまうだろう。所詮なあやふやなもんなんだ。
結局、「何が書いてあるか」より「何に書いてあるか」を人は尊重するってこと。あるいは「何を言っているか」より「誰が言っているか」を人は尊重するってこと。それは単に言葉の内容を云々する能力の問題だけでもなく、たいていの人は、内容をいちいちをつぶさに検討するような暇な時間を持っていないないからだ。つまり「効率の問題」でもあるわけでね。「非効率」が「悪魔の化身」と思われている現代においては、これはもう、正義でもあるかもしれんね。

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07月29日

起床時刻:13時00分

新宿にて映画『ダークナイト』の最新作(『ダークナイト・ライジング』)を観る。夕飯は寿司。
先日、たまたま新宿に立ち寄った際、いい加減くたびれてきた麦わら帽子を買い替えようと、京王百貨店(中高年ミセスに照準を合わせたシニア・マーケティングで有名な)にて物色し、試着してみたところ、店員さんが「お帽子は後ろに引き気味にかぶるものですよ」とアドバイスをくださった。ところがどっこい私は地面とつばをほとんど水平にしてかぶるほうが好きなのである。
京王式帽子のかぶり方の指導がいきわたっているのかしらんけども、だいたいシニア女性は、帽子を引いて(すなわち帽子のつばをあげて、後頭部をすっぽり入れて)かぶっているようである。顎紐でもつけたら、ひねた幼稚園生の出来上がりといった風情である。中年太りの腹の上に斜めがけした「ポシェット」がかかっていれば、典型的な中年観光客のできあがり、といったところ。
と、ここまでくさして不安になったので、さっき鏡の前で帽子のかぶり方をかえて一応検証してきたけれども、「お帽子」は幼稚園生風かぶりかた(見苦しい顔面丸出し)よりも、水平にかぶったほう(夜目遠目「帽子のうち」)がよほど美人度があがる、と思われる。ま、結局何も買わなかったんだけどもw。

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07月28日

起床時刻:13時30分

07月27日(金)

起床時刻:12時15分

今日も暑い。
暑いとやる気しない。

今日は土用の丑。うちはすき焼きにした。なんかもう、鰻が全然採れないそうで、不漁だ、不漁だと言われれば、食べる気もしない。
そこまでして鰻を食べる必要も感じない。
と思っていたら、母も牛肉を買ってきたそうだ。

昨日、お酒売り場で「明日は土用の丑ですが、これは鰻にあいます」と言われた「大信州 純米吟醸N.A.C. ひとごこち」なるお酒を買ってきたんだけど、鰻じゃなくてすき焼きでもよかろうw

販促担当の方によれば、「IWCの 純米酒の部で「大信州NAC」でトロフィーを受賞したんだとか。
(もっとも入賞したお酒は「大信州 N.A.C 浜農場」であり、今回買った「高山の里」はこのお酒につかった米とは厳密にいえば同じではなく、隣りくらいの田んぼでできた米である、とのことでありました)

N.A.C.ってなんぞや?と思ったら「長野県原産地呼称管理制度 Nagano Appellation Control」だってさ。こんなふうに産地を前面に押し出して「ドーダ」と言えるのは、京都、加賀、おフランスくらいなもんであろう。長野がここまでのブランド・ポジションを確立したのは、全くたいしたもんである。

で、肝心のお酒でありますが、私は味覚オンチなので話半分どころか話四分の一くらいに聞いてほしいのでありますが、普通に美味しく、お店の方が言っていたとおり、食中酒として何にでもあいそうな気がしましたね。

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07月26日(木)

起床時刻:08時00分

朝「シャッキっと」目が覚めるということがない。
洗いたてのシーツのような、白くパリッとした気分で朝を迎えたいのだが、いつもヨレヨレ、クタクタ、シワシワのボロ雑巾状態(しかも生乾きみたいな)で朝を迎える。

昨日の夕飯のズッキーニとパンチェッタのパスタ、私は塩辛くなりすぎて失敗しちゃったと思ったけど、夫は珍しく「美味しい」だって。
あとはナスと玉ねぎのトマト煮、レタスとトマトのサラダ、焼いたオクラと舞茸を柚子胡椒とポン酢で、といったメニュー。それと私だけ、白ワイン(ピノ・グリージョ)。デザートはいただきもののシャーベット。コーヒー。

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07月25日(水)

起床時刻:13時00分

暑い。
やる気しない。
ゲームも色々やらなくちゃいけないことがいっぱいあるんだけど(例えば武器スキル上げ)、やる気しない。夫にもしょっちゅう「早く、スキルを上げろ」と言われるんだけど。

ダメ人間、ゲームの中でもダメ人間。
真理すぎて、また書いてしまった。

そんなダメ人間の私はブランデンブルク協奏曲のCDを二種類持っているんだけど(うっかり買ったってやつだろう)、いつも聴かないほうを久方ぶりにあけてみたら、なぜかブエナ・ビスタ・ソシアルクラブのCDも入っており(これもまた、ダメ人間に典型的なことである)、久しぶりに聴いてみたら、気に入って、ずっと聴いている。「だからなんなのだ?」と言われても困るんだけどw特に落ちはないwたいていの日記には落ちなんかないw

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07月24日(火)

起床時刻:08時00分

07月23日(月)

起床時刻:12時00分

せっかく涼しかったのに、また暑くなってしまった。。。
疲れがとれない。。。
やる気もしない。。。
これはいつものことか。。。

とまぁ、全部の行に「。。。」をつけてしまう。。。
そういう、夏。。。。。。

そしてこの夏、私はナニゲにシジュウになってしまうのである。(広辞苑によれば)とうとう初老である。
まさに「。。。。。。」である。よくしゃべるロシア人に云わせれば

「四十年といえば、これはもう人間の全生涯だ。老齢もいいところだ。
四十年以上も生きのびるなんて、みっともないことだし、俗悪で、不道徳だ!誰が四十歳以上まで生きているか、ひとつ正直に、うそいつわりなく答えてみるがいい。ぼくに言わせれば、生きのびているのは、バカとならず者だけである」

なんかこの文章、前にも引用した気がするなぁ。してないっけ。四十になると、ボケてきて、何を書いて何を書いていないかわからんようになるんですわね。ちなみにこれはドストエフスキーの『地下室の手記』(江川卓訳)なんだけど。
そのとおりだよねぇ、だってさ、バカでもなく、ならず者でもなければ、四十前に死んじゃうんだもん。

最近読んだ小説でも非凡な子は早々と死んじゃうんだ。死なないにしても、浮浪者になっておったなぁ。

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07月22日

起床時刻:不明

土曜は13:30~日曜の4:30くらいまでゲーム。
グロウベルグにこもりっきり。
そのかいあって祝・オハン完成(私のじゃないよ)。
予想外に簡単にできてた。3週間くらいで出来たんじゃないかな。

人間はあえて困難な道を歩む。
あえてオハンづくりの道を歩むのだ。
平坦な道ではない。障害物もあるだろう。
しかし、よりよきナイトになるために、あえて、その険しい道に足を踏み入れる。

「僕の前にオハンはない
オハンの後ろにナイトは出来る
ああ、ゲームよ
ゲームよ
僕をニ垢使いにさせた広大なゲームよ
開発は目を離さないで守ることをせよ
常にゲームの気魄を僕に充たせよ
この遠い道程(オハン完成)のため
この遠い道程(オハン完成)のため」

ま、感動はしないなw
特に「この遠い道程」についていく従者の立場としてはなw

****************
今日旦那に「オマエって本当に性格悪いな」って言われたんだけど(別にここに書いてあるようなことは旦那には言わないよ)、きっと嫌味な性格がにじみ出ているんだね。子供の頃から嫌味を言いたがるくせがあって、ついつい言っちゃうことがある。「オマエは余計な一言が多いから黙ってろ!」って今日も言われたw。だからここになるべく書いて、リアルでは口を閉じておこうと思うんだけどさw。

中学時代の担任に「何様のつもりなんだ、おまえは」と言われたけど、そういう他人を小馬鹿にしているのが態度に出ちゃうんだね。「偉そう」におもわれちゃうんだよなぁ。真面目にやっている人に対して「バッカみたい」っていう態度で見下しているように思われるんだね。その人にとっては大切なこと(例えばゲーム)を「くっだらない」っておもっちゃうんだよなぁ。

別に「くっだらない」と他を貶めることで自分を高めようっていう意図は全くないんだけどね。例えていえば、「他人の骨折より、我が身の突き指」みたいな感じで、人ごとだとなんとも感じない、「骨折したくらいで騒ぐなんてバカなんじゃないの?」って思う一方で、自分がちょっと突き指しただけで「救急車!」ってわめくような感じなんだと思う。
自分のことは針くらいのことも棒くらいに大げさに考える。つまり他人の心の痛みに対して鈍感だし、仮に私の言葉で傷ついたとしても、「なんで?面白いじゃん?」みたいなところがある。基本的に意地悪だし。素で性格が悪いんだと思うけど、悪い性格をよくするのはほぼ不可能だから、そういう人はボロが出ないように、ひたすら黙ってなさい!ってことなんだよね(匿名空間だけ、「ネットの恥はかき捨て」とばかりにボロをだしまくるわけだ)。

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07月21日

起床時刻:12時30分

昨日の夜10時くらいからゲームはじめて今朝の6時。
この時間までゲームにつきあってあげて「非協力的」とのお言葉をいただきました。加えて、「オマエはほんとに努力しない、頑張らない、成長しない」のお言葉も。
非協力的ではないと思うんだけど、「努力しない、頑張らない、成長しない」の「三ない」はそのとおりなんだよねぇ。

ライバルが来たんで今日は終わりになったけど、世の中、ライバルがいて燃えるタイプ(夫)と逃げる選ぶタイプ(私)がいるんだよね。
「何くそ」根性が大事だと言っていたのは、誰だっけ。柔道の人だったような気がするが、私は「何くそ」根性がない。

取り合いとかになったらすぐに逃げるんだよねぇ。
リアルでもそう。
「どうせ負けるにきまっているから、その場から逃げる」っていう負け犬根性もおおいにあるんだけど、取り合いのギラギラしたかんじがめんどくさいってのもある。夫もライバルが来ると「気をぬくな!!集中しろ!!」ってなるし。そういうのが疲れる。そして疲れるのは大嫌いだし。

高校のとき、苦労人の友人(「何くそ根性」の塊みたいな人)から「あなたみたいに楽ばっかりしている人は、将来きっと苦労する」と言われたけど、その苦労する将来って今なのかなぁ。その子に教えてあげたらきっと喜ぶだろう。

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07月20日(金)

起床時刻:13時02分

今日は涼しくて過ごしやすい。
マーガレット・アトウッドの『昏(くら)き目の暗殺者』(The Blind Assasin 鴻巣友季子訳/2002/早川書房)を読んだ。

ボタン工場で財をなしたが今では斜陽のチェイス家の、三代目になるアイリスとローラの姉妹。妹のローラは25才で車ごと橋から転落して死ぬ。
アイリスの嫁いだ実業家の夫も47才にして死亡、アル中気味だった娘のエイミーも幼い子(アイリスからみれば孫)を残して階段から落ちて死亡、そして愛しい孫サブリナは小姑(夫の妹)にとりあげられ、会うこともかなわない。
ローラの転落死、あれは本当に事故だったのか?
今ではすっかり年老いてしまったアイリスは、一族の歴史を回想し、物語をつむぎはじめる。

その途中、途中で当時の新聞記事や雑誌記事が挿入され、またローラの死後出版された『昏き目の暗殺者』が作中作として挿入される。

今では「たいしたいじわるバアサン」(鴻巣さんの「訳者あとがき」)になったアイリスによる語りのみでも、おそらく私は面白く読んだと思うけれど(途中何回か噴出してしまった)、しばしば転調があり、ばあさんの「ぼやき節」とは違う、若く情熱的な身分違いの恋(肉体関係あり)が語られたかと思うと、謎めいた「ボルシェビキ」風の恋人が寝物語に語るザイクロン星の物語というSF調ありで、まぁ盛りだくさんに、贅沢につくられているのだ。

ローラの死の真相は何か、あるいは『昏き目の暗殺者』(当時はスキャンダルだったのが、今ではたいした「文学」あつかいである)がどういう経緯で発表されたのか、というミステリーの要素もある。もっとも、純粋な「謎解き」として読めば、落第点(30点くらい?)だと思うけれど。

とはいえ、ミステリーは一つの大事なスパイス、あるいは食欲を増進させる風味づけであって、この小説の醍醐味は、いくつもの食材が丁寧に調理され、それらが名シェフによって、絶妙なバランスでひとつにまとめられ、複雑な味わいの贅沢な一皿として饗されるという至福なのだ、と思う。

今回、初めてアトウッドの本を読んだけれども、これは本当に面白かった。

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07月19日(木)

起床時刻:08時00分

今から20年近くも前だろうか。
私の友人がその頃、設立されたばかりの幻冬舎でアルバイトをしていた。
もう時効だろうから書くけれども、その中に仕事のできない、確か京都大出の社員がいたそうで、社長の見城氏はその男性の頭にゴミ箱をかぶせたり、勝手に彼の辞表を作成し、社員らに回覧したりしたという。

もちろん、伝聞の話だから真実というつもりもないし(とはいえ、その友人は話を盛るようなタイプではない)、彼女が「間違った解釈」をして憤然と報告したのかもしれないが。

私たちには「イジメである」(当時「パワハラ」なる言葉はなかった)と思えたけれども、見城氏にしてみたら、できない社員の「やる気を鼓舞するための教育的指導」であったかもしれない。
あるいは『憂鬱でなければ、仕事じゃない』というようなタイトルの本も出されているくらいであるから、職場も憂鬱であるべきだ、と考えての「仕事をしやすい環境づくり」の一環であったかもしれない。

伝説の名編集者として、メディアへの露出も多い同氏だが、「小学生の頃はいじめられッ子だった」とも語っていた。
そのいじめの内実は「いつも陰で誰かに笑われているような気がしてた。自意識過剰だったのか もしれない。周囲の目がいつも気になってたから」というようなもので、具体的には苗字からの連想で「検便」と呼ばれた、くらいのことだが。
http://case.dreamgate.gr.jp/mbl_t/id=412

まあ自己認識としては「いじめられっ子」だったんだろう。
でも、「いじめられっ子」が必ずしも人の心の痛みのわかる人間になるとは限らない、という興味深い例のようにも思う。
実際のところ、「いじめられっ子」が別の場所では「いじめっ子」になり、世間を「見返してやる」ということもあるだろう。

それはともかく、私は「幻冬舎の本は買わない」と思い、設立からこの方買っていない。
といいつつ、まぁいい加減な人間なんでたまにはうっかり買ったけれども、そもそも幻冬舎の出す本というのはだいたいは15分くらいで立ち読みできるような本なので、たまに読みたいものがあれば立ち読みしてきたわけだ。

ところで、東野圭吾の『悪意』(講談社から出ている)は「いじめ」が絡んでいるミステリーで、人の心(悪意)の底知れなさを感じる小説だ。ミステリーとしてもよくできているし、ミステリー以外の部分も面白い。東野作品で一番好きかもしれない。東野圭吾ってほんとすごいなぁ。

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07月18日(水)

起床時刻:12時00分

ゲームをせんとや生れたとしても、戯れせんとは生まれていない。
というのは、ゲームは戯れなんぞではないからだ。

真剣勝負である。

さて、その真剣勝負をずっとしているんだけど、なっかなか望ましい結果にならない。
15回連続で変色ジェイドの色が変わらないだと・・・・・・・?!
もう夜がとっくにあけていますよっと。

おかしい。絶対におかしい。
わかった、これは真剣にゲームをしていないからである!
やましい心の持ち主(私である)がやましい気持ち(めんどくせぇ)でプレイしているからである!

ってヒラメいたのは夫であって、私は人間が呪術を信じる瞬間をみた!
魔女狩りは永遠に不滅です。うん。

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07月17日(火)

起床時刻:08時00分

今朝たまたま「みのもんたの朝ズバッ」にチャンネルをまわしたら、いじめ問題の専門家という明大の先生が出ていた。
「暴力・犯罪系のいじめには学校の治外法権化をなくすことがきく。いきなり警察沙汰、裁判沙汰にする。もともと、いじめるほうはいじめる相手を虫ケラくらいにしか思っていないので、虫ケラのために自分が損をするようなことはしない。これで一気に減る。コミュニケーション系のいじめ(無視とか)には学級制度の廃止。小さな集団に閉じ込められているから深刻な問題になる」 とかいうような提言(うろ覚え)をしておられたけれど、その通りだわね(でも警察に訴えるたって、「いじめの証拠」を被害者が集めなくっちゃいけないとなると大変だから、教室やトイレの入口に監視カメラでもつけとくのかしらねぇ)。

もっとも「いじめている子にも人権はあるのだから、いきなり警察に突き出してはいけない。教育でなんとかせねば」って反対する人もいるだろうけど、「人権」だの「道徳教育」だの「いじめのない学校づくり」宣言だので(この滋賀の学校は「宣言校」らしい)、真人間になるっつぅなら、大人の犯罪者も刑務所じゃなくて、また小学校にでも入学させればいいじゃない?

って言うと、薄汚れた大人は更生不能でも、子供は「タブラ・ラサ」()だから、教育次第でどうとでもなる、一緒にするなと言われるのかもしれないけど。

私はね、大人も子供も基本は一緒なんだと思っているんだよね。
同じ人間であって、途中で別の生物種に変わるわけじゃない。
だから子供の世界にも大人の世界にもいじめはある。
戦前の日本軍みたいに閉鎖空間では深刻ないじめが起こりやすい。同様に学校という閉鎖空間でも深刻ないじめが起こるんだねぇ。
(だから、出入り自由なカルチャースクールでは深刻ないじめはおこりにくい。学校なんて生徒の能力に応じた予備校かカルチャースクールでいいじゃんって思うけどね。学校に何しに行くかっていうと勉強しにいくんだから)

結局ね、いじめ問題は「システム」で防ぐしかないんだと思うんだよね。
道徳教育を否定しているわけではなく、教育で「ものごとの善悪」を教えることはできるし重要だけれども、他人の痛みに対する「共感力」なんていうのは先天性のもんだからどうしようもない。運動神経同様、訓練によって多少は伸びるのかもしれないけれどもねぇ。

「いじめってかわいそうでしょ?かわいそうでしょ?」って、いくら先生が力説しても「いや、むしろ楽しい」って思う気持ちは変えられないのよ。
そんな人がいるなんて信じられないと思う人もいるかもしれないけれども、誰でも嫌いな奴が苦しんでいるのを見ると、ほくそ笑むでしょ。例えば今回の滋賀のいじめっ子らがネットでバッシングされて「これは新たなイジメである、かわいそう」って思うのは多分、その子の親くらいで、真面目な人格者が、今回のいじめっ子らの行為に義憤を感じて「オマエらが死ね」と言ったりするのだからねぇ。「因果応報」っていう言葉の「すっきり感」ったらないわよね。

と、ちょっと脱線したけれども、ただ「暴力・犯罪系のイジメをすると罰せられる」というやり方で世間の道徳に適合させていくしかない人ってのは、大人でも子供でもいるんだよ。
(「じゃあ、罰せられないかぎり何をやってもいいっていう子に育っていいのか!」という憤りはもっともだけど、周りをみればそんな大人ばっかりだし、そしてそんな大人が得をする世の中じゃん?)

子供が気軽に相談できるような第三者機関は必要だと思うけどね。こういうことに精通した専門家ね。学校の先生には、いじめのハンドリングなんか無理だよ。でもそういった機関にちゃんとした調査権がなければ結局「話を聞いてあげる」程度の気休めにしかならないと思うけど。

大人には警察や刑務所という犯罪の抑止力がある。あるいは裁判所を必要としているわけ。
どうして子供の世界は「教育」や「こころがまえ」というものだけで、犯罪やトラブルがなくなると思うんだろうね?
「いじめを見てみぬふりするな」とか先生は説教をたれるけど、そういうお宅はヤクザに説教できるか?っていうとできないでしょう?
大人だってできないことを子供に要求するのは、図々しいんでないかい?と私は思うけどね。

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07月16日(月)

起床時刻:14時00分

ゲーム。夕飯はデリバリー・ピザ。

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07月15日

起床時刻:14時00分

ゲーム。夕飯は焼き鳥を食べに行った。

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07月14日

起床時刻:14時00分

ゲーム。「敵の取り合いをさけるには、夜中の2時から5時にゲームをするのが望ましい」という夫の意見のもと(それ以外の時間もゲームしてるんだけどw)、夫唱婦随の夜行性ゲーム道。
今、オハンつくってるんだけど、「無色の塊」を75個あつめなくっちゃいけないのね。これが大変なんだ。昔に比べたら相当楽になってるけどさ。

都はるみの「夫婦坂」ならぬ「オハン坂」ですよ。

「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている
そんなことばを 信じて
越えたレリック、エンピ坂
いいの いいのよ あなたとふたり
無色の塊 笑顔で耐えりゃ
春の陽も射す オハン坂~」

しかしまぁオハン坂をこえたら、イージス坂があったり、アルマス坂があったりと、たぶん、永遠に坂続きなんだけどね。ほんと、夫婦坂、乙!ってところでしょう。

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07月13日(金)

起床時刻:12時00分

07月11日(水)

起床時刻:11時10分

昨日の夕飯はすき焼き(牛肉、豆腐、エノキダケ、ネギ)、ワカメとお麸の味噌汁、アボカドとワカメ(柚子胡椒+醤油で刺身風に)、ピーマンと桜えびのあっさり煮、デザートは桃(旦那はバナナのパンケーキ)といったメニュー。私だけすき焼きをよそった後にキムチ(消費期限すぎてます)を入れてみたけれど美味であった。

小説を読んでいたら、どうも飽きてきちゃう。
小説の登場人物のことに興味が持てないんだねぇ。
知り合いでも何でもないしねぇ。知り合いでもその人のじーさんばーさんの話まで聞きたいと思うような人はいないしねぇ。

ギュンター・グラスの名作『ブリキの太鼓』なんだけど「ぼくの生まれるずっと以前のことから話を始めよう。というのは自分がこの世に生を享けた日付を書きしるす前に、せめて祖父母の片方だけでも思い出す根気のない人間は、だれも自分の生涯を書きしるすべきではないからだ」というわけで、母方のばーさんとじーさんの出会いから始まるのだが(中欧の、複雑な政治的背景の、歴史のからまりやら難しいあれこれの事情やらがあるので、彼のいうことはもっともなんだけれど)、どーでもよくなってきちゃうんだなぁ。

昔はもうちょっと興味を持って小説を読んだように思うけど、年々確実に偏狭な人間になっているように思う。
というか、自分のことにしか興味を持てない度合いが(昔からあったけれど)年々確実に強化されているような気がする。
色々な意味での柔軟性、情熱や感動、新鮮な驚き、世界への単純な好奇心、一般的な同情心やシンパシーみたいのものが確実に減っているね。

「ああ、知ってる知ってる」みたいなことが多くなって「まぁどうしようもないし」的な感想しか出てこなくて「それより私の話を聞いてよ」みたいな自己中心性が前面に出てきているんだよなぁ。だから『ブリキの太鼓』のオスカル君の幼少期(ブリキの太鼓マニアでそれを取り上げようとすると怒りまくって凶器の「声」でガラスをわりまくる)を読んでも「今だったらこの子も自閉症って診断されるのかねぇ」くらいにしか思えないんだわねぇ。

あとはまぁ「私は大変な時代に大変な場所に生まれてこなくてよかった。現代日本に生まれて幸せな人生をおくっていることを感謝しなくっちゃ」という独善的というか、いかにも平板というか、そういう感想くらいだねぇ。

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07月10日(火)

起床時刻:08時00分

昨日の夕飯は黒酢の酢豚(夫のみ)、大葉入り桜えびと卵のチャーハン(色合いがきれい)、わかめとえのき、豆腐の中華風スープ、ナスとピーマンの煮物、ほうれん草の胡麻和え。

先日、母親から電話があって(特に用はなし)、ちょうど歳時記をめくっていていたら、日記みたいな句ばかりで「ハァ?」と思ったので、数句よみあげたら(「夏休み親戚の子と遊びけり」とか「あぢさゐや軽くすませる昼の蕎麦」とか)、母親は「「だからどーした?」って感じだね」ともっともな感想を述べたあと、「俳句ってこんなんでもいいんだ!」と目覚めたらしく(つまり「日記風俳句」)、母親もさっそく駄句をつくりはじめて私にメールで送ってくるので、私も私で駄句を送り返してやったら、向こうも負けずに駄句を量産してくるので、この勢いでやると駄句ばかりが100も200もできそうである。

なんつうか、カラオケみたいだよなぁ、俳句って。
歌っているほうは気持ちいいんだけど、聞くほうはあまり聞いちゃいない。
それだけではなく、カラオケも俳句も敷居が低い。バイオリンやピアノと違って、誰でも声さえ出れば歌が歌えるように、文字さえ数えられれば俳句はできる。
それゆえに、カラオケ同様、愛好者が多い。
更には、カラオケ同様、プロとアマの違いがそれほど明確ではない。
例えば、プロのバイオリニストは、バイオリンに触ったこともない子供よりかは確実にうまいし、比べ物にならないだろう。一方で俳句は「俳諧は三尺の童にさせよ」というように、むしろ訓練なんかいらないようにもとれるのだ。変な癖というか色がつく、というのだろう。

桑原センセイも『俳句第二芸術論』でプロとアマの数種の俳句をひいて「区別がつかない」ってことを例証なさっていたわけだけれども、プロとアマの区別が歴然としていて、敷居が高くて、才能がないとできないのが芸術だというのなら、漫画なんて、その頂点に燦然と輝くものだろう。
何しろ、漫画ってのは、絵の才能とストーリーテラーの才能と両方いるし、それに加えて、絵の訓練がやっぱり必要だし、大変な根気と体力が必要なもんなんだからねぇ。

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07月09日(月)

起床時刻:11時30分

悩みといえば色々あるけれども、この前、冷麺に使ったキムチが、既に賞味期限(7/6)が過ぎているってのもある。しかも、かなり残っているんですけど。
夫は豚キムチとか豆腐チゲとか嫌いだから、パートに行かない日の、平日の昼間に消費するより他はないんだけど、どう考えてもなくならないw。捨てるのはもったいないけど、どうしようもないよなぁ。

それだけじゃなくて、ボイルしただけの生っぽいタイプの桜えびも残っていて(まだ賞味期限前だけど)、夫に一口食べさせたら「少し生臭い」って言われちゃった。

しょうがないので、お昼にちょこっと消費する。
冷凍しておいた干し筍ご飯に桜えびを混ぜたのと(割と美味)、ほうれん草の胡麻和え(これも残りもの)と、ナスとピーマンの煮物(これも残りもの)と、キムチっていうメニュー。
でも、まだまだキムチも桜海老も残っている。。。。
どうすんだ、これら。。。

後は台所のマットを洗濯したり、換気扇の掃除したり。

昨日の続きというわけでもないけれど、健康健全生活でまるくなったかと思いきや『日々のあれこれ 目白雑録4』で金井サン、『体脂肪計タニタの社員食堂―500KCALのまんぷく定食』の佐々木俊尚による書評('10年6月20日朝日新聞)についてボロクソに書いていたw

佐々木氏の「これは昭和の良き時代の家庭料理だ。小津安二郎の映画や向田邦子脚本のドラマに出てくる山の手の家庭で作られていた料理である。当時、食材はふんだんにはなく、調味料も醤油(しょうゆ)と塩、酢、ウスターソースぐらいだった」という文章に対して、「小津安二郎とまるで同等の存在であるかのように脚本家の向田邦子の名前を並べる鈍重な感性と悪い眼を持った、違いの分からない書き手」と一言もの申した後、「小津の映画に「山の手の家庭で作られていた料理」が登場するかどうかについてざっと見ておくことにしよう」と述べ、あれやこれやの小津映画の食事シーンについて回顧されるわけだけれど、全てにおいてタニタ食堂の食事とはかけ離れたものなんですね、これが(まさに「なんとなく通用している曖昧で、それらしいイメージが正しいことであるかのように語られる」典型なわけですわ)。

更にはおなじみのご近所のSさんが寸評(「山の手の家庭で作られていた料理」どころか、宅配の糖尿病食か病院の食事そのものです」)とともに『体脂肪計タニタの社員食堂―500KCALのまんぷく定食』をポストに入れていかれたそうで、中身をみてみると「トマトの味噌汁」なんてのが出てくるわけだ。
これまた昨日も書いた『待つこと、忘れること?』(02年平凡社)にも出てくるんだけど昭和70年代急速に増える離婚の原因をおった「週刊朝日」連載の離婚の原因のルポルタージュで「トマトの味噌汁」が原因で別れたっていう話があったそうなんだわ。
千葉の田舎の母子家庭で育ったA子さんが東京の山の手育ちのぼっちゃんと玉の輿婚をしたものの、夫の大家庭で初めて出した味噌汁が「トマト入りの味噌汁」(A子さんにとっては食べ慣れた夏の爽やかな朝の味覚)で、「夫を含めた家族全員からお椀を前に冷たくひきつった沈黙とみそ汁に口を付けないという扱いを受け、この出来事が生活レベルの違いからの破局へいたる最初のそして最大のキッカケとなったというのである」。つまり「このA子さんのケースのように、タニタのレシピ(トマトのみそ汁の場合)は「山の手の家庭で作れられていた料理」ではないのだ」。
(じゃあ何かっつーと「ようするに平成の健康用具メーカーの会社員のために管理された500キロカロリーの「栄養と料理」といった雑誌でおなじみの定食なのである」とのこと)。

佐々木俊尚氏はちょっとした思いつきで適当なことを書いたために金井美恵子氏に「完全論破」されたわけだけれど、私は全然関係ないこと―「夫婦というのは似たもの同士が一般的にはうまくいく」ということを思いましたね。ま、当たり前ですが。氏育ちが似ているほうが生活がスムーズに行くんですもん。
例えばキムチを朝昼晩でも食べたい人と「臭いからキムチなんか食卓に出すな」という人とが、うまくいくのは至難の業ですもん。

発酵食品ですから、(塩分と唐辛子の刺激は気になりますけど)朝昼晩キムチを食べるのはそれはそれで健康にいいのかもしれませんがね、健康によくても嫌なもんは嫌っていう人がいますからねぇ。「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」ですわ。「トマトの味噌汁」だって健康にはいいでしょうに。つくったことはないですが、多分お味もいいだろうと思いますがね(うちは旦那が熱を加えたトマトが嫌いなので出しませんが)。

そういや、料理研究家の平松洋子さんの『わたしの台所手帳』によれば、彼女は韓国料理が大好きで「世界中どこの国を旅しても、韓国に滞在しているときほど体調のよい旅はない」そうで、それは「朝ごはんも、昼ごはんも、晩ごはんも毎日、毎日」たーっぷりのキムチを食べるからというのも一つ、理由にあるらしい。で、日本に帰ってくると体の調子ががっくりと落ち込むらしい。

それはともかく『わたしの台所手帳』は絶対にうちの夫は口をつけなさそうな料理ばっかり紹介されていて(もっとも、公正を期するために言うと、この本で紹介されている「ニラの味噌汁」はうちの定番味噌汁になっていますけどw)、ほとんど「まかない料理」みたいなもので、主婦のお昼にはいいけれどこれを家族に出す勇気はないなぁ。。。「れんこんとミントのピラフ」とか私でも勇気いるもん。。。主婦のまずい創作料理の典型ようにみえるけど、「ある日パズルがぴしゃりと符号するように、新しいナニカが生まれる」とか横に書いているんだよねぇ。ほんといい旦那さんと子供をお持ちだわねぇ。

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07月08日

起床時刻:12時30分

昼ラーメン、夜ピザ(コーラ、ポテト+チキンナゲット、アップルパイ←夫のみ)。ひたすらゲーム。

夫はギリ30代前半なんだけど、この前の健康診断の腹部超音波検査で「脂肪肝が認められます」とあって私は内心ビビったんだけど、彼はお酒は全く飲まないから完全に食生活に問題ありなんだと思う。
好きなものが脂肪肝の元になりそうなもんばっかりだからねぇ。しゃーないっすな。加えて、ゲームばかりで全く動かないし。

多分、本格的に病気になったら色々変えようと思うだろうけどね。
男っつうのは頑固だから、人がなんか言っても聞きゃあしないのよ。ましてや、名だたる医師でもない、そこらのオバハンである妻の言うことなんか聞くわけない。

自分で決意するか、会社に命令されるかの(組織人間の面目躍如)、どっちかしか行動を変えられないもんだからさ。

いくら人に健康にまつわる諸説を力説されても、わからないのが庸人たる我々。
失った健康に語らせるのが、一番雄弁なんですよ。
(ま、女の場合は失われた若さってのもかなり雄弁だけどね。
女のほうがメタボが少ないのは失われた若さにしがみつくことが必然的に健康に結びつくのかもしれないね)

病気っていうのは人を変えるね。
あの、超ヘビースモーカーで夜型生活者、掃除大嫌いと公言されていた金井美恵子センセイの変貌っぷりに驚いた。

『日々のあれこれ 目白雑録4』(2011年6月朝日新聞出版)には日記(2010年3月の「新潮」)が載っているけれど、それによると
「この三年近く、あれやこれやと病気がちだったので、身体のことを考えて朝食のメニューはほぼ決まっている。喘息に効果あり、ということになっている食物中心である。ジューサーで絞った人参とリンゴの生ジュース(アップル・ビネガーを大さじ一杯入れる)、黒豆の煮汁盃一杯、生姜入りミルク・ティー、黒豆の水煮と果物とヨーグルト。<略>
眼の手術の入院以後、六時には眼が覚めるし、タバコもやめ、新聞を読みながら果物中心の朝食の後は、部屋の掃除に洗濯で、これもハウス・ダストやダニやカビといったアレルギーの元をとりあえず取り除くためなのだが<略>」(P255)だって!

それだけではない。
「去年の十月から週一回、区立体育館に通うことになった肩凝腰痛予防体操の成果が少しずつあれわれてきたということになるのだろうか、引きこもりがちの生活が去年の暮れ以降、外出機会が増えるようにもなって、まあ、いいことではあるのだろう」(P153)
とかも誰?!って感じw

2002年出版の『待つこと、忘れること?』という可愛い本では(書いてあることは憎たらしいんだがなw)、起きるのは12時か1時って書いてあったんだけどw。掃除についても「さて、もちろん、私は掃除も洗濯も料理も雑用も整理整頓も大嫌いです」って書いてあったんだけど(でも、「一生の趣味」としての掃除に目覚めたという話で、10年前から掃除には熱心だったみたいだけれども)。

病気すれば誰もが模範的早起き生活村の人みたいになるわけでw
優等生的人生がやっぱり最後には勝つんですw

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07月07日

起床時刻:14時00分

一旦ベッドに入ったんだけど全然眠くないw
今、朝の7時半なんだけどw

夫につきあって土曜の昼(PM3:00)から日曜の早朝(AM5:30)くらいまでぶっ続けでゲームしてたんだけど、「もう寝ようよ」って言っても絶対聞き入れられないよね。

よく雑誌かなんかに『睡眠のゴールデンタイム』とかいうのがあって、22時から深夜2時までの間に寝ると成長ホルモンが出るとかなんとかで、肌にいいとか言うけど、そんなの信じるのって情弱のバカ主婦だけだよね。って、あたしのことなんだけどw

しかもさぁ、私が色々言っても、情弱なバカの上に「美魔女」でもなんでもないから(偏食で喫煙者の夫のほうが私よりも美肌なのはこれいかに)、説得力ないんだよね。「バカでブスはだまってろ!」だよねぇ。

私は調子に乗りやすいんですね。

ふと思ったんだけど(思い出したんだけど)、調子に乗っているやつを見るとわざわざその人んちに乗り込んで「オマエはバカなんだからすっこんでろ!!」と叱りつけたくなる人っているね、世の中。「こいつはバカです」と玄関にベタベタと張り紙をつけたくなるような人w。
でも、人の品性って嫌いな人との付き合い方にでるような気がするねw

いや、別に何があったってわけじゃないんだけど。
世の中をみると「人付き合い」が不幸の原因であることってすごく多いような気がしてね。

さて、洗濯ものでも干して寝るかなー。

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07月06日(金)

起床時刻:11時30分

あっついねぇ、やる気しないねぇ、イヤんなっちゃうねぇ。
ま、暑くなくても、やる気しないし、イヤんなってるんだけどさぁ。

それだけじゃなく、自分がバカでイヤんなるだよねぇ。
この前、ラジオの投書だったかな、”「子育て」では、勉強しろなどと口うるさくいうことは一度もなく、ただ、「人に迷惑をかけるな」と、これだけを教えた(その結果、立派な子供に育った)”みたいなのがあったような、なかったような、完全にうろ覚えなんだけど、ただ覚えているのは「人に迷惑をかけるな」ってものすごいハードルの高い要求だなwってことなんだね。特にバカにとってはねw

バカってさ、存在自体が傍迷惑だからね。
呼吸をするように周りに迷惑をかけちゃうからw 

この前『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』っていうローワン・アトキンソン主演のおバカなスパイ映画をみたんだけど(笑えたw)、これもまぁ「傍迷惑なバカ」の典型だよね。
上司も同僚も部下も大迷惑wしかもこのバカは情報部なんで、国家的な大迷惑になっちゃうわけだw

「バカは死ななきゃなおらない」(あるいは死んでもなおらない)っていうのが真理だとしたら、バカは「私がいると人の迷惑になってしまうので死にます」つって死ななきゃいけないんですよ!!

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俳句には「あるある俳句」という分野が大きな一角を占めると前に書いたけど、俳句だけではなく日本文学全体が「あるある」らしいw

「今に至る日本の文学というのは、「あ、わかるわかるその感覚」みたいな作品の系譜がずっと続いているんです。今の「J文学」といわれれるものについても、最近芥川賞をとっているものにしてもそうです。むしろ、そのような傾向が過剰になっている感さえします。」(『保守問答』講談社2008)
と中島岳志氏が西部邁氏との(噛み合ってるんだか、噛み合ってないんだかナゾな)対談で言っています。で、「とにかく問題を抽象化する努力を日本人はあらゆる分野で怠ってきたのではないでしょうか」。

まぁねぇ、なんつったって「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」だもんなぁ。「何事のおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる」だもんなぁ。

わかるひとには「あ~、わかるわかる、その感覚」だけど、ピンとこない人にはピンとこないだろう。
でも、ピンとこない人のために「大和心」や「涙こぼるる有難さ」を抽象化し、理論的に語りだしたら、それこそ「大和心じゃない!」って言われちゃうもんなぁ。

「日本人ならわかる。以上」っていうアレね。
感覚の話だから議論にはならないんだよなぁ。
「オマエは日本人じゃないからわからない」で終わっちゃうんだよなぁ。
で、相手も日本人だったりすると「オマエこそ本当の日本人じゃない」って言い返したりして、どちらが本当の日本人か競い合うっていうイミフなことになるわけだなぁ。
右翼だったら「日本人」ですが、左翼だったら「庶民」、スノッブだったら「金持ち」あるいは「セレブ」とか、適宜入れかえたらよろしいわけですけれどもw

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07月05日(木)

起床時刻:08時00分

夕飯は鯖寿司、わかめとお麸の味噌汁、枝豆、ナスとピーマンの煮物、スイカ。ウィスキーのソーダ割を2杯。

歳時記を読んで男の本音を知るシリーズ第一弾、
「夏痩も知らぬ女をにくみけり」(日野草城)

「あ~、わかるわかる、いるよねぇ、こういう神経の図太い女!嫌だよねぇ!」って膝を打つ人(男だろう)がいるから、角川の『俳句歳時記』(夏)に例句として採用されたわけだ。

夕飯の席で「あら、アンタ、コロッケいらないの?じゃ、あたしがもらうわ」って言う妻(中年太り)を憎々しげに見る係長の夫(胃弱)の心の声って感じでしょうか(「クソ暑いのに揚げ物なんか出しやがって、このバカ女が!少しは亭主に気を使えってんだ!頭も神経も使ってないから、バカみたいにブクブク太ってんだよ!」)。

暑さで食欲もなくて少し面痩せし、夏でも肌がやや青白いような、薄幸そうな美人っていうのが「風情があって」よろしいのかもしれないが、実際問題、自分の妻が「夏負けした」つって、一日中布団でゴロゴロしてられると、それはそれで「にくたらしく」思うのであって、妻というのはやっぱり、体調不良でヨロヨロしながらも、けなげに掃除洗濯に励む姿が夫に「いとおしい」と思うせるんであろうねぇ。

ま、夏負けも知らぬ女と草城に言われた側にしてみれば「夏負けの女々しき男を嗤ひけり」って言い返してやりたいところだろうw

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それにしてもさぁ、バカってつらいよねぇ。私のことだけど。
バカはさぁ、「生まれてきてすみません」って思うよねぇ。
でも「バカでもいいんだよ、人間だもの」って言ってくれる人もいるかもしれないけどさぁ、それは身近にバカがいないからだよ(つーか、そう言ってるオマエだけがバカなのかもしんないぜぇ?)。
妻がバカだったりしてみぃ、「砂糖と塩を間違えたァ?!このバカがッ!!」って怒り狂うって(一般論としては)。

そういや高校時代、一度「人間だもの」の方がいらして講演なさったことがあり、私のバカな友人が感銘を受け、「私は数学ができないのが悩みです」っていう、見当ハズレでバカな質問をしたんだけど「やれないのかな?やらないのかな?どっちかな?」というお答えをいただいてたw。級友の私が教えてあげます、「やれないんです」。

それにしてもさぁ、この「やれないのかな?やらないのかな?どっちかな?」って超便利フレーズだよね。

「希望大学に進学できない、就職先がみつからない、結婚相手がみつからない、お金が貯まらない」といった卑近な悩みから「オリンピックで金メダルがとれない」、「原発事故の後片付けができない」、「景気が回復しない」などのデカい悩みに至るまで、全部「やれないのかな?やらないのかな?どっちかな?」で片付けることができるw 上から目線でイラっとするけどなw

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07月04日(水)

起床時刻:10時00分

私は小説をあまり読まないんだけど(テレビドラマ同様、興味ないから)、『百年の誤読 海外文学篇』(岡野宏文×豊崎由美/アスペクト出版/2008.3)は、ここ100年の「海外の名作」を紹介する(毒舌な?)対談で、私のような人間でも十分楽しめたw 何回かリアルで吹き出したもん。

本筋とは全然関係ないけど、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のアントリーニ先生のくだりを、野崎訳では先生のホモ疑惑を濃厚に出しているのに対して、春樹訳では「そうともとれる」くらいの、ホールデン少年を少し突き放した感じで訳しているという話のあとで、岡野さんが「周辺の事実からするとさ、つまり先生が奥さんと寝室を分けていたり、何かというと「コーヒー」って怒鳴ったり、そういうことからもたぶん彼はホモだと思うけど」だってw その「状況証拠」でホモなら、かなりの割合の夫はホモになっちゃうよw

それはともかく、面白そうな本も結構あったので読んでみよう。トヨザキ社長は前書きで「二人のお喋りがみなさんの読書欲を少しでも刺激できたらこれに勝る歓びはありません」と書いているけど、本当に彼女は本が大好きなんだなぁ。
人がテレビを見ようと見まいがどうでもいいように、人が本を読もうが読むまいが、私は基本的にどうでもいいもんね。両方とも基本的にはただの時間の無駄だし。

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07月03日(火)

起床時刻:08時00分

朝パイナップル、昼うどん、夜はギョーザ(テイクアウト)、チャーハン、にらと豆腐の味噌汁、蕪のサラダ。ウィスキーのソーダ割を二杯ほど。

小学校のとき、クラスの男の子が担任の先生に叱られて、「○○くんがやれと言ったからやったんです」と言い訳したら、先生は余計激昂して「じゃあ、オマエは○○が死ねと言ったら死ぬのか!えっ?!」と問い詰め、その男の子は当然反論できるはずもなくただうつむいていたのでありましたが、それを聞きつつ、まぁ場合によっては○○が死ねと言ったら死ぬしかないんだよなぁと私は思っておりました。
結局、パワー(暴力といってもいいですが)を持っているものには従うしかないんだし。例えば特攻部隊の人たちの中には、死にたくなかった人もいたと思うんだけど、「エライ人」が命じたら、「バンザイ」と言って死ななくちゃいけなかったように。
あるいは、国家以外の非合法な暴力といえばヤクザなわけですが、学校の先生は子供の喧嘩の仲裁には入れますが、ヤクザの喧嘩の仲裁に入れない。
ヤクザのほうが学校の先生よりパワーを持っているからですね。

子供にとっては、そのガキ大将はヤクザみたいなもので、子供らの小さくてグロテスクな世界は「パワー」によるヒエラルキーが厳然としてある。
先生にはバカらしく見えるでしょうし、そして実際、バカらしいんですがねぇ。大人の世界もより大いなる存在から見れば実にバカらしいでしょう。

結局人生、「自分よりエライ人の言うことを聞く」しかなく、やりたくなくても「仕方なく」やるしかないわけで。

大方は、羊の群れの羊のように、羊飼い及び牧羊犬の命ずるがまま、メェメェと鳴きつつ、右へ左へ移動するようなもの、なんでしょう。
よく慌ただしい生活のことを「何かに追い立てられるように」と形容するけれども、実際、家畜のように追い立てられているんでしょう。
羊に必要なのは牧羊犬の「サインを見逃さないこと」や「服従」であり、「意志」などではないのです。ポジティブに生きるとは自ら牧羊犬の先回りをすることなのでしょう。あるいは「右へ左へ追い立てられる」ことに積極的な意義を見出すことです。
「文句ばっかり言っても仕方ない」「与えられた役割をまっとうせよ」とポジティブ羊たちは教えてくれるのです。

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07月02日(月)

起床時刻:08時45分

07月01日

起床時刻:12時30分

『成熟社会の経済学―長期不況をどう克服するか』(小野善康/岩波新書/2012.1.20)を読む。

なーるほどねぇ、今までの経済学ってぇのは基本的に「発展途上社会」の経済学だったわけだ。
つまり、「冷蔵庫が欲しい、車が欲しい、家が欲しい、服が欲しい、学歴が欲しい、あれもこれも欲しい」というふうに、ひとびとの欲求はお金に向かわず、具体的なモノやサービスに向かうっていうふうに前提として考えていたわけだ。だから、「供給が需要を呼ぶ」というセイの法則が成り立ったわけですねぇ。

そういう社会における不況というのは、一時的に需給が噛み合わなくなって起こるものであり(供給過剰で不況になったり、景気が加熱してバブルになったり)、その状態では政府が財政支出で景気を下支えしたり、あるいは日銀が貨幣供給量を調節してバランスをとったりすれば、長期的には経済は平常状態に戻る、というのが経済学の常識なわけです。

しかしですね。日本ではこの二十年間、不況だ、不況だと言われて、不況だから財政出動だ、ゼロ金利政策だとやってきたわけですよ。
なのに景気がよくならないので、今度は「無駄を省け!効率化せよ!」と、あらゆる分野でスリム化が図られたわけですけど、やっぱり景気がよくならない。

これは何か変なんじゃないか?って普通は考えると思う。

著者によれば、変な理由は何かっていうと、今の日本は成熟社会であり、高度経済成長期(=発展途上国時代)みたいに「冷蔵庫が欲しい、車が欲しい、家が欲しい、服が欲しい、学歴が欲しい、あれもこれも欲しい」ということがなくなったことにあるのだという。
今の日本人は「欲しいものは何にもございません。※ただし金を除く」のです。

そう、我々、ダンシャリして溜め込むものは、金だけなのであります。
お金ってのはいいよ~、場所とらないしね、あっても邪魔じゃないしね、何にでも変えられるしね、いざってときに頼りになるしね。

というわけで、お金への欲望が異常に膨れ上がった社会、それが成熟社会っつーか日本なのであります。

思えば、バブルもそうなんですね。
「もう物はいらないがお金は欲しい、でも現金で持っていたら収益がないから、何かもうかる試算を持っておこうと思って人びとの欲望が土地や株式に向か」ったのがバブルなんですね。
バブルがはじけて、「もう資産運用なんかバカらしい、パーッと金をつこうたれ!」となるかっていうと、全くならず、「清貧の思想」に向かうわけです。
倹約して金を貯めるのです。で、清貧な人々が「お金を握り締めて物を買わない状態が続くと、物価が下がり続けてお金の価値はますます上昇していきます」。

そうなんですねぇ、だからいくら政府が金をばらまいても、日銀がマネーをジャブジャブにしても、景気はよくならない。人々はお金を握り締めて「いざ」というときのために蓄えるんです。

つまり、発展途上社会と違って、成熟社会である日本では、物の需要が極めてシュリンクし、金の需要だけがチョー拡大しているってことなんですね。
そういう特異な社会では、政府が需要を創出しなくちゃダメなんです、と著者はいいます。

とはいえ、「国民から税金を100万円集めて給付金を100万円配っても差し引きゼロで経済全体ではお金は増えません。それなら、もらった方は消費を増やしての、払った方は消費を減らすので、合計需要は変わらず、景気全体がよくなるはずがありません。このことは、給付金の代わりに公共事業の給与として100万円配っても同じです」(P56)

「同じことは減税についても言えます。減税とは、これまで取っていた税金を取らないようにすることですか、税収が減ってその分財政支出を減らすしかありません。つまり、減税すれば納税者は助かるけれど、財政規模が縮小して、これまで給付金や政府関連事業で所得を得ていた人が受け取るお金が減ってしまう」。

ってことは、逆にいえば、増税しても景気を冷やすことはないってことになるよね?

という思いを見抜いたかのように、すぐそのあと「反対に増税しても同じです。<略>減税でも増税でも差し引きゼロです」とある。
ふむ、ということは純粋に再分配の問題なわけだ、減税とか増税っていうのはな。

税金のマイナスの乗数効果を減じるために、赤字国債にして公共事業を行えばプラスの乗数効果が発生するはずですが、著者はそれについても「国債は借用証書ですから、それを持っている人たちはあとで利子つきで借金返済を性急し、その資金は国民からの税金で集めることになります。そのことが明白ですから、人びとが当初に消費を増やすはずはなく、乗数効果も働きようがありません」とにべもなし。

「消費に対する乗数効果などないという議論は財政支出の中身によらず成立します」というのなら、著者のいうよう、増税で金を集めて需要を創出するっていうのも意味ないじゃん?と思うわけですが、いやいや、「財政支出の意義とは、教科書に書いてある金銭的な波及効果(乗数効果ね)ではなく、書いていない「直接便益」です」。

その例として山小屋の整備ってのがあげられており(著者撮影による「オーストリアの美しいロッジ」と「物置然とした日本の山小屋」の対比写真が掲げられているくらいです)、増税して、美しい山小屋設備を政府がつくることによって、登山関連の新しい需要(山ガールの大ブームでしょうか)が生まれるかもしれません、と著者は期待します。山好きなんですな。

そうです、一見無駄だけど「生活の質を向上させるもの」(介護、環境、教育、観光など)に政府が投資すべきだと著者はいうのです(政府が投資しなければ、国民は全員、家で札束を数えているだけだから、無理なのです)。

しかしまぁ、消費税を増税して、きれいな山小屋が整備されて喜ぶのは一部山好きだけでして、たいていの人は「あたしの税金で無駄なものをつくりおってからに!!」とハラワタが煮えくり返る思いでしょう。
「こちとら、山なんぞに出かける暇もなく、朝から晩まで働いているっていうのに!!不公平だ!!」と歯ぎしりすることでしょう。

はっきりいって、国全体の需要がどーのこーの、と言われても、あたしら愚昧なる、一般大衆はぜーんぜん、どーでもいいんです。B層大衆は「自分のお金は一円だって出したくないッ」と財布を握り締めて絶叫しているんです。

そういう哀れな守銭奴どもを眺めて著者は「私たちはいつから金の亡者になってしまったのでしょうか」と「おわりに」で嘆きます。
「いつからって、大昔からだよッ、貧乏性が国民性なんだよッ、MOTTAINAIなんだよッ」と僭越ながら教えてさしあげましょう。何しろ、日本は有史以来ずーっと発展途上国だったんですから。

著者は生活を楽しまず、金勘定しかしていないドケチな日本人をみて、『クリスマス・キャロル』のスクルージおじさんみたいだといいます。
「そもそも、無駄っていったい何でしょうか。お金を握り締め、欲しい物も買わずに我慢し、その結果、仕事が減って若者も就職に困り、働き盛りの人たちも肩たたきにあい、働きたい人が働けないでいる。これこそが無駄ではないでしょうか。経済の本来の目的とは、お金をためることではなく、日本がこれまで積み上げてきた巨大な生産能力と富を活かして、私たちの生活を楽しく快適にすることです」

本当にねぇ、そうなんでしょうけど、そうは問屋がおろさないのですよねぇ。
お金を使うことによって、私の生活を「今は」楽しく快適にすることはできるかもしれないし、誰かが儲かり、誰かの雇用をうむかもしれないけれど、「長期的には」自分は破産の憂き目にあうかもしれないわけです。
ゲームの理論じゃないけれど、みーんながお金を使えば著者のいうような景気回復がまっているのかもしれないけれど、そうでなければ、金を使った者がバカを見る世界なんです。

おはら庄助さん なんで身上つ~ぶしたァ?♪
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした♪
ハァもっともだァ もっともだァ♪

などという固有名詞入りの誹謗中傷が合いの手に入る民謡が広く歌われてきたニッポン国なんですから、「言わんこっちゃない、あれがキリギリスの末路だよ」と指さされるわけですね。

(「会津磐梯山」は民謡としては好きなんですが、朝酒を除いた朝寝と朝湯が大好きな私としては、小原庄助さんに同情的です(どんな人かはさっぱり知らないけれど)。むしろ、同じ東北のよしみで「おざわ一郎さん、なんで身代き~づいたァ?」とでもやったほうがいいんじゃないでしょうか。
とはいえ、庄助さんの散財手法と違い、一郎さんの蓄財手法は難しすぎて一行にはまとめられませんがw)

それにしても、国民の生活の質をあげる投資として国民にひろく支持されるような政策があるのでしょうか。私が政治家だったら、小学校のトイレを全部洋式+ウォシュレット(シャワートイレ)にしますね。これは山小屋の整備とちがって誰からも反対されないはずですね。

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