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起床時刻推移グラフ

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08月31日(金)

起床時刻:10時30分

今日は鮭のムニエル(夫には牛丼)。
「きょうの料理」の、成澤由浩シェフの「さけのムニエル」を参考につくりましたが、美味でありました。付け合せはレンチンしたオクラとキャベツ。
あとはパプリカをグリルでよく焼いて水にとって皮をむき、塩・胡椒・オリーブオイルでマリネしたもの。これにパンとコーヒー、デザートに桃でもあれば十分満足、というものです。

とまぁ、また食べ物の話かよ!な感じですが、私はほんとに自分のことと食べ物のことしか関心がないような気がします。

というわけで『昆虫食入門』(平凡社新書/内山昭一/2012年4月)です。
帯には「アブラゼミはナッツ味」とありますが(「じゃあナッツを食べるよ」っていうのが私のスタンスではあるんですけど(^^;、これでは食の探求者とは言えませんね)、この本は面白半分の珍奇趣味ではなく、真面目なアプローチで昆虫食を扱っています。昆虫食の文化、心理、食味、栄養から、食料資源としての昆虫、食育の材料としての昆虫に至るまで、古今東西の多くの文献を引用しながら、啓蒙的に書かれた真面目な入門書なのであります。

とはいえですね、そもそも昆虫は美味しいのか?
というのが食い意地のはった人々の疑問でありましょう。

『美味しんぼ』(80巻)にハチの子飯が登場するシーンでは、グルメな人々が「こってりとした濃厚な味、ちょっとうなぎの蒲焼を思い出させる味じゃないか」「とても上等な味だ」「これは驚いた」等々絶賛するらしいけれど、本当にうなぎの蒲焼みたいだったら、絶滅が危惧されているうなぎではなく、ハチの子でいいじゃないか。
(と思いますでしょうが、ハチの子も絶滅が危惧されているようです。長野県中南部、岐阜県東濃地方、愛知県尾張三河地方などで「ハチの子」と称されて通常食べられているのはクロスズメバチ(の巣にはいった幼虫)らしいんですが、「最近は乱獲のため種の絶滅も危惧されるようになった。<略>中国やニュージーランドなどから輸入する業者もある」そうです)
ちなみに味覚センサーで計測されたデータによれば、ハチの子のボイルとうなぎの白焼は同じ味と言っていいほどよく似ており、蒲焼もほとんど同じ味なんだそう。

虫ならどれでも美味しいわけではなく、美味しい虫とまずい虫がいます。カミキリムシ(幼虫・蛹・成虫とも)は「甘味とコクが強く、クリーミーで油が多い」、要するにとても美味な虫で「昆虫食の王座に君臨する希少な高級食材」なんだとか。まじで?!
一方でカイコ(成虫)は「エビ・カニと絞った雑巾が混じった風味」、コガネムシ(成虫)は「ムレ臭に加えて硬くて食べにくい」とか、結構まずい虫も多いみたい。蝉(成虫)は採れたての揚げたてが美味しいそうで、揚げてから1時間もたつと、どうしても硬くなるんだって。

栄養的には「カイコ蛹三個で鶏卵一個の栄養素」といわれるけれど、それほどではないらしい。鶏卵一個の重さ約60gに対して、カイコ蛹3個は約5gで、この12倍という重量差をうめるだけの驚異的栄養をカイコ蛹は持ってはいないそう。しかし、鶏卵に劣らぬ豊富なタンパク質を持つとか。

「食料資源としての昆虫」にも多くの頁が割かれています。
小山宙哉の『宇宙兄弟』では食べるためにおカイコさんを養殖するという話が出てくるそうですが、著者によれば「蚕より生産効率が高いのがイエバエである」。ハエ幼虫(すなわち蛆虫)養殖は素晴らしいことずくめらしいが、正直無理っす。どうせなら「美味、美味」と絶賛されるカミキリムシの養殖をしてほしいもんですなぁ。

色々な話題が満載でとても楽しく読んだけれど、口絵には「虫ミックスピザ」とか「虫寿司」とか「ボクトウガ(イモムシ)の茶碗蒸し」とかの料理写真がカラーで掲載されていて(読者への親切心なんだと思いますけど)、虫が大っ嫌いな私にはものすごく気持ち悪かったです。
個人的には、蜂と蚕のサナギ?と謎のでかい虫がトッピングされた「虫ピザ」が一番衝撃的だったね。真ん中の、謎のでかい虫は著者が食用に飼っているとかいう、マダガスカルオオゴキブリでしょうか?

本屋でこの本をみかけたら、口絵だけでも見て「ぎょええええ」となってくださいませ。

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08月30日(木)

起床時刻:07時45分

夕飯は生姜焼き、レタスとトマトのサラダ、叩ききゅうりのピリ辛あえ、ナスとピーマンの煮物。

大学生の頃だったか『東京物語』を見ていたら、隣の奥さんが「ピーマン煮たからおすそ分け」つって出てくるシーンがあったんだよね。
それまでピーマンは炒めものでしか食べたことがなかったから、衝撃を受けた(しかもピーマンを煮たからおすそ分けっていうのにも衝撃を受けた。おすそ分けというのはもうちょっといいものを分けるんだと思っていたから)。
『東京物語』の感想は「ピーマンは煮てもいいんだということを知りました」だったわけだけれど(映画評論家にはなれない)、それでピーマンを煮るようになった(ナスの煮物と同じ味付け・作り方でよい。炒め煮みたいな感じ。ナスと一緒に煮るとピーマンの色が悪くなるが、気にしないw。ゆず七味を振って食べている)。気に入ってよく作る。あとは、グリルでピーマンを香ばしく焼いて、しょうゆとおかかをかけて食べたり、しょうゆとオリーブオイルをかけて食べたりしている。

どうでもいい話でありました。

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08月29日(水)

起床時刻:12時00分

『遺伝子の不都合な真実ーすべての能力は遺伝である』(安東寿康/ちくま新書/2012年7月)というキャッチーかつ俗っぽいタイトルの新書を読む。こんなタイトルの本を恥ずかしげもなく出すヤツは信用ならんと思ったのだけれど、「あとがき」によれば「筑摩書房の若い編集者の提案」なんだとか。

「すべての能力は遺伝である」という誤解を招きやすい副題だけれども「遺伝子によってすべてが決まる」というわけではありません。

もちろん、私たちのすることなすことのすべてに遺伝子の影響があります。
例えば読書時間、家庭での勉強時間、勉強への意欲、運動をする、朝ごはんをきちんと食べる、毎日歯を磨く、選挙に行く、どの政党に投票するか、職業選択、職業満足度、離婚、煙草・酒・薬物等への依存、同性愛、殺人、そして収入。
これらは(一部を本書から抜粋したのですけれど)、行動遺伝学の研究で少なくとも25%以上の遺伝の影響が報告されたものです(第五章)。

しかしこれらの行動に対する遺伝の影響は全て50%以下であり、相対的にいえば非遺伝的な影響のほうが明らかに大きいわけです(P160)から、「遺伝で決まる」とは到底いえないのです。むしろ、相対的には遺伝以外のもの(環境要因)で決まるといえるでしょう。また、環境によって遺伝の出方は違うのです(「遺伝と環境の交互作用」)。

とはいえ、こういう報告を目にすると、例えば親が薬物中毒だった人などはイヤな気分になると思います。薬物中毒に遺伝の影響があるのなら、自分も親の遺伝で薬物中毒になるんじゃないか、と。でも「相加的遺伝の効果、非相加的遺伝の効果を合わせて考えてみると、親とおなじ遺伝的素質をもった子はむしろ非常に現れにくいことを意味します」(P83)

「遺伝とは親の性質を受け継ぐこと」というのは間違った先入観である、と著者は念を押しています。だから「お前のアホが子供に遺伝して、子供もアホになった」という配偶者からの苦情は言っている本人のアホさ加減を示すだけ、ということになります(でも私はまだこの先入観に縛られていますね)。

そして興味深いのは、行動遺伝学の三原則のひとつ、「共有環境の影響がほとんど見られない」ということです。
つまり家族のメンバーを類似させるような環境(=共有環境)の影響が多くの事柄にみられないのです。しかし、何を「共有環境」とし、何を「非共有環境」とするかがよくわかりません(例えば親が子供二人を同じように厳しくしつけたところ、上の子は品行方正に育ったが、下の子は反発して不良になったら、親の「厳しいしつけ」は共有環境にならないんです。わけがわかりませんw)。

共有環境の影響が見られるものもあります。図表2-11「構造方程式モデリングによる遺伝と環境の比率」(P76)を見ると、一番共有環境の影響が大きいのは言語性知能のようですね。その次に大きいのは薬物中毒、外国語みたいです。
確かに、親が知的で凝った会話をしていれば、自然とどの子供も知的というか、難しい言葉を覚えるでしょう。あるいは家に煙草や酒がある場合、どの子供も手を出しやすくなるでしょうから、納得できます。

しかし、子供のパーソナリティ(協調性だとか勤勉性だとか)には共有環境の影響はゼロのようです。「同じしつけや育て方をしても、子供によって、その意味や効果が変わってくる」(=非共有環境として働く)のでしょう。

遺伝的にゴロゴロしやすいダメ人間はどうしたらいいんだ?と「教えてgoo」に投稿したら、「ビシバシしごいて勤勉人間にする」「甘えを許さない」っていうのが一般的な回答だろうけれど(ちなみに遺伝的に感情問題を起こしやすい子供(不安傾向が高いなど)はスパルタ方式でビシビシ躾けると、もともとの遺伝的素因がより表に出てくるそうで(より不安傾向が高まる)、よろしくないかもしれません)、著者はむしろ、「勤勉なのがいい」という価値観一辺倒であるほうが問題だと思っているようです(多分)。著者は、問題は、「ある遺伝的な行動特徴を悪いことだとみなし」、「不利な状況に陥りやすくさせる社会的状況にもあると考えられないでしょうか」と述べています。

読んでいると、著者は「みんな違ってみんないい」と思っておられるようですが、私たちの多くは、ある遺伝的な(行動)特徴を望ましいとし、別の遺伝的(行動)特徴を悪いこととみなしています。いいかえれば、誰もが「有用の用」だけを目指している、といってもいいでしょう。世間で「無用」とされるタイプの「みんなと違う人」になった場合、「それもまたよし」とは思わないのです。

従って遺伝子操作で自由に子供をデザインできるようになったとしたら、ブサイクやらハゲやらデブやらグータラやらの「無用な」遺伝子を排除し、美しく、スタイル抜群で、勤勉で、賢い子になるようにデザインするでしょう。

しかしながら、我々の多様性の中には、神のみぞ知る無用の用がきっとあるんでしょう。
よくわかりませんが、例えばハゲでデブでグータラなブサイクだけが何かの病気に免疫力を持つとか、宇宙人が襲来したとき、生き残りやすいとかですねw。めちゃくちゃ進化した宇宙人たちは、母星ではとっくの昔に死に絶えたハゲで中年太りのブサイクを見るとショックで死んじゃうんだw。
どう?この「ブサイクvs.エイリアン」っていう映画。アベンジャーズじゃないけど、「地球の運命はこのハゲたちに託された!」なんてねw
ダメ人間であればあるほど、殺傷力が高まる。有能なハゲやデブはダメだ。有能オーラのために「ハゲでデブでもかっこいい」となってしまうからだ。

このダメ人間アベンジャーズ、生来のグータラのために基地になかなか集まらない。家まで車で迎えに来てもらわないと行けない。作戦会議が1時間以上になると具合が悪くなる。何回聞いても、武器の使い方が覚えられない。「メモを取れ!」とハンサムかつ有能な長官に叱られるが、とったメモをなくす。
有能な人間が決死の覚悟で敵の基地内部をスパイし地図を作成するが、ダメ人間アベンジャーズたちは地図が読めない。スマートフォンのガイド機能も役にたたないレベルなのだ。それでまた有能な人間たちが敵の基地に潜入し、壁にでっかい矢印で「ココ」って書いくる、という決死の作業をさせられる。
って、全然違う話になっちゃいましたね><。。。

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08月28日(火)

起床時刻:08時30分

夕飯は焼き豚(デパ地下で買ってきた)、レタスと卵のチャーハン、わかめスープ、サトイモとこんにゃくの白煮、トマトサラダ(と書いたが、トマトを切って塩コショウ、オリーブオイルをかけただけ)。こんな手抜きメニューなのに(野菜が足りていない気がする)、なんでつくるのに1時間くらいかかるんだろう?

チャーハンはケンタロウ式。米粒ひとつひとつに卵をコーティングさせるようにすると、最初は多少ベチャベチャしていても、最期は(結構時間がかかる)パラッパラになります。
料理人によっては、生卵をボールにあけて、その中ご飯を入れて、ぐちゃぐちゃ混ぜて、それを油をひいたフライパンにあけてチャーハンをつくる人もいます。これも同じ原理で、こうすると家庭の火でもパラパラになるんですね(こちらは試したことないですけれど)。

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08月27日(月)

起床時刻:09時30分

『ピアニストの脳を科学する』の続き。

ピアニストの三大疾病は①腱鞘炎②手根管症候群③フォーカル・ジストニアなんだそう。フォーカル・ジストニアというのは「ピアノを弾こうとすると、意図せず手指の筋肉に力が入って固まってしまったり」「思い通りに手指を動かせなくなる病気」なんだそう。かのシューマンもかかったと言われているそうな。

思い通りに手指を動かせないのなら、私ら不器用組も生まれてこのかた、思い通りに手指を動かせないよ、と思ったら、不器用な人同様「フォーカル・ジストニアを患うと、この大脳基底核の一部である被殻の大きさが、大きくなることが知られています」だって。被殻の大きい人は指の動きが不正確になる。
「おそらく、フォーカル・ジストニアを発症し、大脳基底核の抑制機能が低下することで、他の脳部位から被殻へ送られてくる情報を十分に抑制できず、たくさんの信号が送られてしまうために、被殻がいっそう大きくなるのではないかと考えられています」(P123)とのこと。

現時点でフォーカル・ジストニアの引き金となる大きな危険因子として専門家が認めているのは「正確な運動を反復して行うこと」と「精神的な性格やストレス」なんだってさ。「完璧に、正確に弾かなくてはならない」という完璧主義者のほうがなりやすいらしい(男性のほうが多いらしい)。ジャズピアニストには少ないんだとか。

かつて普通の人以上にスラスラピアノを弾けていたのが、フォーカル・ジストニアになってからは、思ったように弾けなくなっていくなんて、本当につらいだろうね。
私みたいに最初から一度もスラスラ弾けたことないのと、一度高みに達してから私らレベル(よりは、フォーカル・ジストニアでもはるかに上だろうけど)に転落してくるっていうのと、どちらがよりつらいかっていうのは意味のない比較かもしれないけれどねぇ。

夫に「お前の取り柄って何?何か一つでも人に誇れることがあんの?」って聞かれたことがあるけれど、いくら我が夫でも、ピアノだけが取り柄だったフォーカル・ジストニアの人(つまり現在取り柄なし)には、さすがにそんな失礼なことは聞かないだろう。ピアノという取り柄がなくなったのは、病気のせいなのだから同情するべきであるし、優しくするべきである。

しかし、これが病気ではなくて、「怠けている」せいでピアノが弾けなくなり、取り柄ゼロになったとしたら、全世界が糾弾するだろう。
自己責任の人には世間は容赦ない。自己責任という言葉は糾弾とセットになっている。
私も「怠けている」から、なんの取り柄もない無能なおばはんになってしまった。それは怠惰で愚かな自分が悪いのであり、100%自己責任であるっていうわけだ。というわけで私は夫に毎日、糾弾されている。

夫は糾弾するだけではなく、日々私の矯正を試みているのだけれど(「何度言ったらわかるんだ、なんで昨日できたことが今日はできないんだ、ボケてるのか、知障なんじゃないか、常に周りに気を配れ、周りを見ろ、反省しないから同じ間違いを繰り返す」などなど)、しかし私はもう年をとりすぎた。
年をとった駄馬に何を言っても無駄である。
男が若い女性が好きなのも、全くもって当然だ。
ていうか、動物を飼うときだってそうだろう。

男女を問わず、ペットショップに行ったら、しつけが入りやすくて、愛らしくてかわいい、健康で元気いっぱいな子犬を飼うものだ。わざわざ、トシをとって、物覚えも悪く、ヨボヨボ歩きで毛が禿げたような、持病持ちの薄汚い老犬を選んで飼う人はいない(ボランティア以外)。

「老兵は去るのみ」って具合にカッコよく去っていきたいんだけれど、去るのもまた、精神力(とカネ)がいるからねぇ。「自分はもうトシなんで兵士はできないんですけど、棚係みたいな感じでいいですから置いてくださいっ、お願いしますっ」と土下座してでもたのみこむのが私だろう。あーあ、嫌だねえってピアノと関係のない話になってしまったけれど。

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08月26日

起床時刻:13時00分

夫が妻を最も愛おしく思うのは結婚式の日、
次は妻が死んだ日である。

夫は妻の遺骸を前にして、
どこかで(おそらく漫画で)読んだか、聞いたかした言葉を使い
「最愛の妻の死」を嘆き悲しむ。

すると死んだはずの妻がむっくり起き上がって
「ちょっと、その慣用句の使い方は間違っているわよ!」
と指摘しやがった。

すぐに殴り倒して棺桶に押し込めてやったが、
(念入りに蓋に釘を打っておかなければ)
女ってのは間違いを見過ごせないのを忘れていた!
間違いという間違いに対して
(漢字の読み間違いから冤罪まで)
ギャアギャア騒ぐのだ。

男だったら、肩をすくめて「下手うったな」とか
「ツイてないやつだな」と済ませるところを
女たちは「これは不正である」とヒステリーを起こす。
女たちのデモ行進ってやつだ。
(男でデモ行進に加わっている連中は女みたいな男か社会の落伍者である。
体毛が薄くてひょろひょろした、テストステロン欠乏症たちである)
もちろん、女たちは常に「正しい」側にいるのだ。

彼女たちが地獄に行ったら面白い。
きっと閻魔大王相手に「これは不正である」という演説をぶつんだろう。
閻魔大王は怒って、彼女たちの舌を抜くに違いない。
うん、これはいいアイデアだ。
女たちの舌を抜けば
世の中の騒音公害の半分は解決するし、
夫婦問題の8割が解決する。

女は死体となったときに一番愛情がわくが
(「喫煙は肺がんになる」とか「野菜を食べろ」などという、
不愉快なことも言わなければ、年増女の不愉快ないびきもかかない)
しかし、「理想の妻は死体である」とはいえない。
死体はワイシャツにアイロンをかけることはできないのだから。

だから理想の妻は死んだ妻ではなくて、
舌を抜いた妻、ということになるだろう。

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08月25日

起床時刻:09時30分

日経新聞の2012年1~7月に電子版に掲載した書評で閲覧数の多かった本ランキングの一位が、『ピアニストの脳を科学する』(古屋晋一著、春秋社)。

私もさっそく買ってきたけれど、2012年1月初版で、私が買ったのは12版!
2000円もするのに、どんだけ売れているんですか。

ピアニストの超絶技巧を可能にするのは脳にあり(超絶技巧を支える運動技能についてもちゃんと解説しておられますが)。
複雑な指の動きをしているとき、ピアニストと一般人を比べると、ピアニストの脳のほうが運動野の神経細胞の活動が少ないんです。
つまり、鼻歌歌いながら難しいことができるわけです。
普通の人だと四苦八苦してやるところを「フンフンフ~ン♫」で出来ちゃうんです。余力があるわけですよ。

だから、普通の人だと見ただけで運動野の神経細胞をフル活動しても「無理。絶対無理」な「ラ・カンパネラ」みたい曲も神経細胞の余力があるから、頑張ったら弾けちゃうんですね。

これね、たぶん、他のことでも言えると思うね。
下手な人ほど疲れるってことあるね。脳をフル活動させてやっているから(つまり全力投球してるから)、疲れるんだよね。
ゲームもそうだね。私、すぐ疲れるもん。でも鼻歌歌いながらゲームしている人は疲れない。

あと、ピアノをはじめるには幼ければ幼いほどいいみたいね、やっぱり。
「幼いころの努力はちゃんと報われる」そうです。

ここで自分語りになるわけですけれど、私は確か幼稚園前くらいからピアノを初めて、高校までやっていたのかな?
かなり長くピアノをやっていたわけですが、幼いころの努力は全く報われていないような気がしますね。来世で報われるんですかね。

ピアニストのランクは、
ホールで演奏するプロのピアニスト>芸大や音大を出たピアノの先生>アマチュアのピアノ愛好家(結婚式で弾いて恥ずかしくないレベル)>下手くそ(ただの近所迷惑)>ど素人
にランキングできると思うのだけれど、だいたいね、私くらい長くピアノを習っていたら、最低でもアマチュアのピアノ愛好家と下手くその中間ぐらいのレベルにはなるんです。しかもウチは父親がクラシック音楽愛好家で、私も小さい頃からクラシックレコードをよく聴いていたから、音楽的環境が悪かったわけでもないんですよ。

ま、練習はあまりしなかったけれど(自分のピアノが下手くそすぎて聴くのが苦痛になるレベルだったんで)、毎週、毎週サボりもせずに個人レッスンを受けてきたわけです。でも、私は最終的に「下手くそ(ただの近所迷惑)」で終わったんです!どういうことですか?エッ?

この本を読んでもその理由は「努力不足」としか判明しないわけですが、そしてそれはその通りではあるんですけれども。
ピアニストは3,4歳からピアノを弾き始め、20歳まで計一万時間を超える練習時間を積み重ねるそうですが、私はとてもとてもそんなに練習していません。でも、私はピアニストになりたいわけじゃなく、騒音公害レベルではなく、音楽レベルのピアノを弾けるようになりたかっただけです。

妹は私よりもっともっとピアノの練習をしなかったんです。なのに、先生は「この子(妹)は才能がある!」と言って、妹は全然叱られないんです(実際私よりうまいし)。私はというと、妹よりも練習して行ったのに、ため息をつかれる。下手くそすぎて。

私より後からピアノを始めた子たちも全員、私を抜き去って、はるかかなたのレベルに到達していきました。私だけがずっとバイエルでした(今、バイエルやらないらしいね?『バイエルの謎』っていう本も書評に出ていたな)。

うちの母親がいつも私に言っていたのは「あなたは人が1回でできることは10回やらないとできない。人が10回やってできることは100回やらないとできない」ってことでしたが、この計算でいくと、まともにピアノを弾けるようになるには寿命が足りません。

私自身と私の周りを観察して言えるんですが、世の中にはたま~に、私みたいな天性の不器用がいるんです。

私は中学時代、週に一回、友達のお母さんに茶道を習っていましたが、先生(友達のお母さん)は「Pyaaaちゃんにお茶を教えることができたら、私も一流だ」と思ったそうです。お茶は三年近くやったんだけれど、いまだに盆点前さえままならないんです。「どんだけ~~!!」と懐かしい流行語を使いたくなっちゃうレベルでしょ?
友達も一緒にやってましたけれど、友達はすぐにお点前を覚えちゃいましたね。ちなみにその友達はピアノがとても上手でした。

さて、この本の事例では、ピアニストの脳の特殊性を探るために、ホール・ピアニストとアマチュア・ピアニスト(あるいは素人)との違いを主に分析しているのですが、長くピアノをやっているのに下手くそな奴の脳を調べてほしいですね、私としては。
この著者はアマチュア・ピアニストレベルだから、頑張ればなんとかなると思っているみたいですが、頑張ったって下手くそなやつはいるんです。

この本を読んで一つヒントになったと思ったのは、天性の不器用は、大脳基底核被殻が大きいんじゃないかな。
ピアニストはここの部分が小さいそうで、大きいほど、演奏するときの指の動きが不正確になり、バラつくんだって。
さらには訓練を積んだバレエダンサーのほうが、そうではない人よりも被殻が小さいんだそう。この部分は巧みな動作を生み出すうえでは「大きくないほうが良い」らしい。
興味があるのは被殻ってのは「小さくなる」もんなのかどうかってこと。
私の予想では、不器用な人っていうのは、たいしたことじゃなくても「全神経を集中して」やらないとできない。例えばボタンをとめるとか、靴紐を結ぶとかいうのも、不器用な子供は一回教えたくらいじゃできなくて、何回も何回も訓練してやっとこさっとこできるようになる。
全神経を集中して頑張る回数や訓練が不器用には多いわけだけれども、そういうときに被殻の活動が活発になる。
その結果、生まれたときはどの人も似たり寄ったりの大きさだったのが、不器用な人だけ大きくなっていた、とかそういうことじゃないかな?とか思ったりしましたね。

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08月24日(金)

起床時刻:10時15分

友人とランチ。
「旦那様にとても愛されている人たち」というのがこの世には存在する。びっくりしましたですか?びっくりしましたですね!

彼女の場合、美人であるのに加えて、「しっかりしているのに天然ボケ」という要素も愛される要素なんだと思う。家計を任せることはできるけれども、ちょっとボケたところ(あくまでも無害な可愛らしいボケであって、オレオレ詐欺師に貯金を全部もってかれるとか、そういう「てへっ」ですませられないような本格的ボケではありません)もあって、「和ませる」ってやつですねぇ。

本格的ボケの人、つまり私は可愛くもなんともない。天然ボケは人の微笑をさそうのですが、本格的ボケは人を不愉快にさせるのです。
だから天然ボケの人は「ほんとにお前は天然なんだからぁ、そこが可愛いんだけど(はーと」と夫に言われるけれども、本格的ボケの人は「このボケナス!!バカ、アホ、間抜け、幼稚園からやりなおしてこいっ!!カスが!!」と夫に言われるわけですね。

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08月23日(木)

起床時刻:09時00分

ここ数日、馬鹿みたいに暑い。
テレビでは「猛烈な暑さ」といっていたから、この暑さを表す正しい形容詞は「猛烈」なのかもしれないけれど。
猛暑日なんてのも昔はなかった。
(wikiによれば、日本国内においては2007年以降、1日の最高気温が35℃以上の日のことを「猛暑日」と言うようになったらしい)
もうさ、暑中見舞いの言葉も「残暑お見舞申し上げます」じゃなくて「猛暑お見舞申し上げます」とリニューアルすべきだね。

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08月22日(水)

起床時刻:08時40分

お盆休みは何をしていたかというとゲーム道に邁進していたのだけれど、私は、呆れるほどにゲームが上達しない。
格ゲーとかじゃなくて、普通のRPGなんだけれど、わたくしは、
①反応速度が遅い
②判断力が劣っている
③注意力散漫
④視野が狭い
から、アクティブな敵に絡まれたり、敵がわらわらリンクしたりすると、すぐに「あわわわ」となっちゃうんだな。
もう一万時間くらいプレイしているというに、このざまですよ。

何をやっても不器用なんだよなぁ。
よく旦那に「脳に虫でも沸いてるんじゃないか」と言われるけれど、ほんとに虫がわいているかもしれない。ていうか、トキソプラズマに感染しているんじゃないか。トキソプラズマは猫の糞経由で感染するだけではなく、生肉を食べても感染するらしい。私は猫こそ無縁だけれど、生肉好きだった(馬刺しとか、ユッケとか。タルタルステーキ好きなフランス人は結構感染しているらしい)。

2010年6月のエコノミストの記事によれば(A game of cat and mouse)、感染者は反応速度が鈍く(poor reaction times)で交通事故に巻き込まれる可能性が高い(more likely to be involved in road accidents)。
注意持続時間が短く(short attention span)、目新しいことに対する好奇心に乏しい(little interest in seeking out novelty)。
http://www.economist.com/node/16271339

プラハのDr.Flegrの研究では、トキソプラズマに感染している人は、交通事故に巻き込まれる確率が(ドライバーであれ歩行者であれ)、感染していない人に比べて三倍くらい高いらしい。トルコのYereli氏の研究でも似たような結果になったんだってさ。

私は交通事故に巻き込まれたことも巻き込まれそうになったこともないけれど、FF11のなかではしょっちゅう大事故を起こしている。
例えば敵に絡まれて逃げたところ、大リンクを起こしてパーティ全員が死にかけるとか。short attention spanに関しては、夫に毎日、毎日注意されている。そして目新しいことに対する好奇心はほとんどない。

とか書くと、「おいおい、てめぇのダメさ加減を今度は寄生虫のせいにするのか!!」とあきれ果て、そのうちこの人「私、呪われているかもしれない」って言い出すんじゃなかろうかと心配する向きもあるかもしれないが。

(ところでぐぐったところ、トキソプラズマに感染している国民の割合が多い国ほど、FIFAの強豪国である、という調査報告もある。DNA分析の結果、トキソプラズマはドーパミンの分泌に関係する酵素の遺伝子を持つ?とかなんとかで、ドーパミンが出まくってサッカーが強くなるんだろうか?でも一方で反応速度が鈍くなり、注意持続が短くなったら、サッカーが下手くそになるんじゃないかと思うけれど。
それはともかく、トキソプラズマが胎児に母子感染すると重い障害になるらしいから、妊婦は肉を十分に加熱して食べなくてはダメなんだそう)

それにしてもさ、寄生虫で行動や性格が変わるなんて、まるで『天使の囀り』だね。って、さらっとネタバレしちゃったけど、面白い小説です。

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08月21日(火)

起床時刻:08時00分

『三人姉妹』のほうは「モスクワに行きたい、モスクワに行きたい」と言いつつ、ずーっと片田舎でじり貧傾向に暮らす、三人姉妹の話(父親が亡くなって斜陽ながら、そこそこ裕福で教養豊かという設定)。

長女オリガは学校教師で「学校で生徒たちにガミガミお説教ばかりしている」せいで老けてやつれている。学校の休みだけが喜び。
次女マーシャは学校教師と結婚したんだけれど、夫に対する尊敬の念(=若気の至り)はいまや雲散霧消し、すっかり夫に嫌気がさしている。
三女のイリーナは働く前こそ「人間は誰でも、骨身を惜しまず、額に汗して働かなくてはならない」とか「人間が生きている意味も目的も、その人の仕合わせも歓びも」労働にあり、「日の出とともに起きて、街路でコツコツ石を叩き割る労働者になるって、すばらしいことだわ」とか労働賛美の演説をぶっていたが、いざ電信係として働くようになると(郵便局勤務みたいなものか)
「べつの仕事を探すわ。今の仕事、あたしには合わない。あたしが望んで夢に見ていたものが、今の仕事にはないのよ。ポエジーも思想もない労働なんて‥‥‥。」と文句を言う。

さらに転職したあとも、
「ああ、あたし不幸だわ。ろくに仕事もできないし、もう仕事なんてまっぴら、もうたくさん、たくさんよ!電信係もやったし、いまは市会に勤めているけれど、回されてくる仕事は全部大っ嫌い。大事だなんて思えない。
あたし、もう数えで二十四よ、働き出してもうずいぶんになるけど、頭のなかは干からびてくし、やせて器量も落ちて老けていくだけ。得るものなんてないし、満足なんかひとつもないの」
と言い、当然「ああ、仕事なんかやだやだ、バァさんになる前に結婚しよう」となるわけだけれど、周りの男がどいつもこいつもパッとしない。
モスクワだったらもっといいのがいるんだろうけど。

しかし、婚期を逃した長姉からのアドバイス(要約すると「彼はブサイクだけど、しっかりしていて真面目そうだから、彼と結婚したら?」)に従い、全然愛していないブサイクと婚約する(彼のスーツ姿はあまりにも貧相で涙が出てしまうレベルらしい)。
三女のイリーナは2chで揶揄されるところの、元祖スイーツ脳みたいなことになっとるw。そういう意味ではチェーホフは全然古びていないのかもしれんけどw

三人姉妹には実は男が一人まじっていて、長女オリガ、長男アンドレイ、次女マーシャ、三女イリーナ、というふうになっているんだけれども(たぶん)、アンドレイがまたダメ人間。みんなの期待の長男で、モスクワに出て学者先生になってくれるかと思いきや、片田舎の郡会の理事なんかに収まってしまい、嫁のナターシャには完全に尻に敷かれている。しかもカードにはまって邸宅を抵当に入れての大借金をつくる。本当にがっかりな長男になってしまったわけだ。

大恋愛の末結ばれたナターシャはびっくりするほど俗物。ただこの俗物だけが人生を謳歌しているようなんだわぁ。そしてこの人だけは転んでもタダでは起きないたくましさがあるのね。他はもう完全なへなちょこ。

どうしてこうなったwwwとお父さんは草葉の陰で嘆いておられるであろうw

オリガは最後に「きっといつか、生まれてきた意味も苦しんできた意味もわかるはず」と希望的観測を述べるわけだけれど、いやいや、これはまだ序章だからね。これからこの三姉妹+長男はもっと悲惨なことになる。『ワーニャ伯父さん』のソーニャのいうように、将来への期待は「死後に神様に慰めてもらうこと」くらいしか持てないだろう、この人たち。

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08月20日(月)

起床時刻:13時00分

『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』(チェーホフ/浦雅春訳/光文社古典新訳文庫)を読んだ。
一言で言うと、ダメ人間見本市みたいになっとるなw

あらすじを思いっきり書くと、ワーニャ伯父さん(47歳独身)の妹と結婚した大学教授(大学教授のほうがかなり年上の「年の差婚」だったんだろう)のために、ワーニャ伯父さんは領地からあがる収入をせっせと送金して、自分のことは全て後回しにして彼に尽くしてきた。
妹が死に(妹と大学教授のあいだには娘のソーニャがおり、ソーニャから見ればワーニャは「伯父」になる))、老教授はえらく年下の美人(27歳)と再婚し、大学も退職して、ソーニャとワーニャの住む家にやってきているんだけれど、結局のところ、老教授はなんの業績も残さず、頭も悪けりゃ性格も悪いことをワーニャは知る。
あんなろくでもない人間のために、俺はせっせと送金していたのか!昔はたいした学者先生だと尊敬していたが、とんでもない!
しかもあんな美人と結婚して!俺は独身だってのに!むかつく!俺の人生を返せ!とワーニャは怒るわけですよ。

「二十五年ものあいだぼくは律儀な使用人よろしく、ここの土地を管理し、せっせと働き、あんたに送金してきた。それだというのに、一度だってあんたから、ありがとうの一言も聞いたことがない」

「二十五年ものあいだ、お袋と猫みたいにこの家んなかに閉じ込められてきたんだ。<略>昼間は君や君の仕事のことを話題にし、君を誇りに思い、うやうやしく君の名前を唱えたものだ。よるになると、君が書いた雑誌や本を読んだものだ。今なら、そんなもの、犬でにもくれてやらあ!」

「これまで僕が後生大事にあがめてきた君の研究なんて、一文の価値もありゃしない!われわれをたぶらかしてきたんだ、貴様は!」

「泡と消えた人生!ぼくだって才能もあれば、頭もある、度胸だってあるんだ‥‥‥。まともに人生を送っていれば、ショーペンハウエルにだってドストエフスキーにだってなれたんだ‥‥‥。戯言はもうたくさんだ!ああ、気が狂いそうだ‥‥‥。母さん、ぼくはもうダメです、ダメだ!」

しかしね、ワーニャの怒りというか、悩みというかを「大手小町」のような人生相談サイトに投稿してもね、誰も「ワーニャさんかわいそう」なんていいませんよ。

「もう47歳ですよね?自分の人生の失敗を人のせいにするのはよしませんか?」とか
「あなたはドストエフスキーにはなれません。自分の器を認めましょう」とか
「自分一人が世界の不幸を背負っているっていう気になっていませんか?少しは周りを見回してみたらどうですか?あなたは視野が狭すぎです」とか
「過去を嘆いたってどうにもなりません。残りの人生を前向きに生きてください」とか、
まぁ、いろいろに叱られるだけでしょう。

最終的には、「死にたい、死にたい」と大騒ぎしている伯父さんを、男に振られたばかりの姪ソーニャ(ブサイク)が「伯父さん、頑張って生きていきましょう!」と説得して終わる。
あたしたちはおとなしく働き、おとなしく死んで、「そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ、そしてワーニャ伯父さん、伯父さんとあたしは、明るい、すばらしい、夢のような生活を目にするのよ」と言うんだけど、「死後にいい思いをするはずだから頑張ろう?」って言われて「うん、頑張ろう!」ってなるのかねぇ。
これは「小町」にはない回答だわ。

ま、私はダメ人間だからチェーホフが好きだけれども、まっとうな人は読んでも「はぁ?」としか思わないんじゃないか?それとも、そこらの雑魚い日本人が悩むのは身の程知らずで許されないが、チェーホフの世界ならこんなわけのわからん悩みでも「文学的である」と許されるのか?よくわからんけどもね。

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08月19日

起床時刻:13時30分

『詩歌歴遊』(大岡信対談集)を寝っ転がって読んでいたら、竹西寛子さんとの対談でこんなやりとりがあった。

「大岡 ちょっと興味があって「百人一首」の歌の最初の音を数えてみたことがあるのです。たぶん「百人一首」の歌だけの特色じゃなくてふつうの和歌一般でもそうなんでしょうが、始まる第一音が、「秋風に......」とか、「かくとだにえやはいぶきのさしも草」とか、「さびしさに宿を立出てながむれば」とか、アカサタナのところで始まるのが五十もあるのです。
イの段とオの段がそれぞれ十九と二十で、ウとエがぐうんと減って、ウの段で始まるのが九首、エの段が二首。日本語の歌というもののうちでも、とくに「百人一首」は、編纂している立場からすると、これはすべて、基本的には、お祝いと言うか、そういう気持ちがこもっているはずですよね。そういう意味で言うととくにそうだったのかもしれないけれども、アの段で始まる歌というのは大体明るい印象がきますね。そういうものがわりと多いということはちょっとおもしろいなと思った。

竹西 それからもう一つ、音の感じから言いますと、歌の最初の語がことにウなんていうのはあとがふさがるわけでしょ。アでありたいという気持ちはありますね、あとで広がってゆく感じがほしい、声も出しやすいし、ーそうですか、五十でしたが。しかし、憎いほどよく考えてある」

やっぱ、ア音てのはめでたいんだな。
百人一首は「秋の田の」「春過ぎて」とア段の歌ではじまり「人も惜し」(イ段)「ももしきや」(オ段)で終わる。
もしこれが逆で「ももしきや」からはじまっていたら、暗くって仕方ない。正月のかるたには不向きだろう(ま、かるた取りのときは順番ぐちゃぐちゃだけどさw)。

前にJポップにおいても女の子の名前においても「さくら」の一人勝ちで、「梅」が完敗しているのは、開放的なア音に対して口すぼまりのウ音が嫌われているのも一因じゃないかと書いたけれど、「ウなんていうのはあとがふさがる」と竹西さんも言うておられる。

もっとも、江戸時代は娘に「さくら」なんて名前より「梅」が断然人気だったはずだ。パッと散ってしまう不吉な「さくら」より、着実に実を結ぶ(子を産む)「梅」を断然好んだのもあるだろうけど、女子に求めるものは「開放性」ではなく「閉鎖性」であったであろうから、ウ音の名前も人気だったんだろう。

これまた前に書いたけれども、作家の島田荘司はアで始まる名前が売れると言ったそうだが(アではじまる綾辻行人の名付け親でもあるらしい)、あ行が本棚の最初にくるとかいうプラクティカルな理由に加えて「アの段で始まる歌というのは大体明るい印象」「お祝い」というように、呪術的なめでたさもあるのかもしれない。

日本の二大めでたい季節は春と秋でア音ではじまる(夏もだけどw)。寒くてつらくて不毛な季節である冬はウ音ではじまる。
一方で、ランボーはa(アー)は黒だという。
黒じゃなかろう?と日本人は思うんじゃなかろうか?なんで黒なんだろう?

ま、どうでもいい話ですけれど。

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08月18日

起床時刻:13時30分

08月17日(金)

起床時刻:13時30分

08月16日(木)

起床時刻:08時15分

08月15日(水)

起床時刻:11時45分

昨日の『武器としての社会類型論 -世界を五つのタイプで見る』の続き。

5つの類型に話を戻すと、これはいずれも「男社会の類型」なんだよね。女はどの類型の社会でも「魂を持った財産」、即ちアリストテレスの言うところの奴隷になっている。
人を上下にわけて上の人が下の人を支配することは極めて「西洋的」とされるけれど(「人を上下に二つに分ける立場は、きわめて「西洋的」である」P19)、西洋でも東洋でもユニバーサルに「男が上で女が下」という風に人を上下にわけ、男が女を支配することになっている。
「科挙」という形で上層への階層移動が開かれている中国においても「科挙」を受けられるのは男性だけだ(よね?)。「全体共同体」タイプの社会のメンバー資格は「その場」にいることだったけれど、「その場」にいられるのは男性だけだ。
歴史的にいえば、生まれた瞬間から女は男に隷属するようになっていたから、当たり前といえば当たり前だけれど(牛や豚といった家畜が人間に隷属するように)。これ一つをもってしても、人を上下にわけて上の人が下の人を支配することは西洋的であるというのは違うような気がする。私が見たところ、どんな社会でも「人を上下に二つに分ける立場」をとってきた。もしも女を「人」に入れるならば。

私はどちらかというと、文化とか歴史とか国民性とかによる違い、あるいは社会類型による彼我の違いよりも、人間の共通性を感じる(と言うと「出た!”人間皆同じ”と考える典型的「全体共同体」タイプ!典型的日本人!」と言われそうだけれどw)。人間の本能というか共通性というかよくわかんないけど、それが空間的・歴史的条件あるいは偶然の産物により、色々な現れ方をしているのだと感じるんですね(それが社会類型)。もっともこれは確信には程遠く、私の現時点での感じ方であって将来的には違う風に考えるかもしれないけれど。

だから、例えば未来予測にとって社会類型の差はクリティカル・ポイントではない、と私は思う。というのも、人間であるかぎり、上個人社会であれ、下個人社会であれ、掟社会であれなんであれ、誰しもがブルース・ブエノ・デ メスキータ教授が示すように、意思決定の際は「望んでいる結果にしたい」「功績を認められたい」と望むからで、これは人類共通だと思うからだ。

未来予測の話が出たので、著者の加藤先生がどのように予測しているか見てみよう。

「皆が豊かになって自由な個人として、かなりの幸福を安定して楽しむことができるようになると、管理の仕事をすることにどれほどの魅力があるのかという問題が出てくるかもしれない」。つまり、底辺も豊かになると、管理の苦労をするより管理される安楽を望む者が増えるんじゃないかという(正社員ではなく好きこのんで派遣となるように)。
更には科学技術が発達するとそれを身につけるのに、勉強時間がより多くかかる。長時間の勉強という苦労をしても幸福でなくなるとしたら問題で、「努力をしない人を不幸な状態にとどめておくという政策などが可能かもしれないが、これも増大する富がある中で、どこまで続くだろうか」。
へ?「努力をしない人を不幸な状態にとどめておくという政策」っていうけれど、「努力をしている、していない」ってどうやって見分けるんだろうね?努力をしても生活保護もいれば、努力をしていないのに親の遺産で食っている人もいる。どうすんだろう?
それとも、社会の底辺を努力をしない怠け者とみなし(まぁ確率論でいえば正しいかもしれないけど)、底辺となったのは自業自得なんだから、甘やかしてはいけない、甘やかして人並みの生活ができるのなら、努力した人が損をするという発想で、生活保護を打ち切ったりするのかしらね。

よくわからないけれど、「努力をしない人を不幸な状態にとどめておくという政策」というのは、5つの社会類型のどの社会でもある程度の支持を得られるだろう。フリーライダーに対する敵意というのはこれまた人類共通のもので、上個人とか下個人とかいう、社会類型なんかとは関係ないんだよねぇ。

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08月14日(火)

起床時刻:08時30分

『武器としての社会類型論 -世界を五つのタイプで見る』(講談社現代新書/2012年7月/加藤隆)をパラパラと読んだ。
私だって何らかの「武器」が欲しいのである。

著者によれば「人はすべて類型で世界を理解する」(序章)。
あー、知ってる知ってる、「A型だから几帳面」とか「さそり座の女だから執念深い」とかそういうやつですね、と言うと「フランス語で論文を書いているこの私を、そこらの占い師と一緒にするな!」と厳重注意されそうだが、まぁ加藤先生の観察によればですね、この世の社会は5つのタイプに分けられるんだとさ。

(1)「上個人下共同体」タイプ(イメージ国家:西洋)
(※以下イメージ国家については「あくまでイメージであって、実物と異なることがあります」)
簡単にいうと、社会の上層にシモジモを支配する自由な個人(富・価値・支配・自由を独占)がおり、シモジモは共同体を支えるために滅私奉公、というタイプ。
著者によれば人を「上下二つに分けるのは極めて西洋的」なんだってさ。マジっすか。

(2)「上共同体下個人」タイプ(イメージ国家:中国)
簡単にいうと、社会の上層(科挙で選ばれた官僚)はお国(共同体)を支えるために滅私奉公、下層は小規模ながら自由を享受する小さな個人、というタイプ。
下層の「民」から科挙で選ばれた管理能力の高い者が「君子」で、管理能力の低い者が「小人」なんだってさ。マジっすか。
上層の者たちは「忠君保民」の滅私奉公だから自由はないんだって。一方で下層は「中国の自然条件が豊かなものであったこと、「あくせくする」ということなく生活できたこと」から、限られていたとはいえ、自由が得られたんだってさ。マジっすか。

(3)「全体共同体」タイプ(イメージ国家:日本)
簡単にいうと、上から下まで全部がお国(共同体)のために滅私奉公、というタイプ。
なんでかっていうと、中国と違って、「日本は長い間ずっと貧しい状態が続いていた。国土が豊でなかったからである」。
というわけで、全員が一致団結して、頑張らなくちゃ生きていけなかったわけだ。
自由なんてのは上から下までない。メンバーとなる資格は「その場にいること」。

(4)「資格共同体」タイプ(イメージ国家:インド)
簡単にいうと、それぞれ同質な(同じ資格を持つ)メンバーがそれぞれ、閉鎖的共同体を形成している社会。
メンバーとなる資格は「生まれ(ジャーティ)」。能力のある者が早く仕事を終えた場合、余暇時間に路傍でボーっとする、というような自由はある。
(日本の場合は早く仕事を終えても、常に「その場」にいなくちゃいけないから自由時間がないらしい)

(5)「掟共同体」タイプ(イメージ国家:ユダヤ律令社会)
簡単にいうと、掟が最高規律である社会。メンバーとなる資格は「掟を守る意志をみせていること」。
こちらも掟を守っているかぎり、ボーっとするような自由はある。

これを知ったことでどんな武器になるかというと、「地球規模の問題についてあてはめてみる場合に、その有効性が発揮される」んだってさ。
へぇ?じゃあ、例えば地球温暖化問題についてどうだろうか?

西洋は「エネルギー問題」については俺らが非西洋を導き支配してやるぞ的対応?
中国の官僚による君子的対応?民を守るために管理能力を遺憾なく発揮する?
日本は「みんなで節電頑張ろう」的対応?(これはあるなw)
インドはエネルギー問題に対応する職能グループをつくる?
掟社会では「神様は節電とか言ってない!」つって無視するとか?

あれ、よくわかんねぇっすw
この武器の使い方、よくわかんねぇっすw

という私のようなダメ人間のために、先生は卑近な例も出しておられる。
「フランスにいた頃は、「上個人下共同体」タイプの社会のあり方を念頭に老いて、「自由な個人」の雰囲気で振舞っていた。日本風に言うならば、「自己主張」を強くしないと、大学での生活も日常生活も円滑に進まない。
日本に帰ってきて、最初の頃は<和>を尊重する静かな人物として振舞っていた」
え?そんなこと?
例えばネトゲでも、ガイジンPTでは、自己主張をはっきりしないとガイジンどもにいいように利用される一方で、JPPTでは、なるべくその場の空気を読んで、皆にあわせるようにしなくてはならない(でないと後でさらされるw)、とかいうのとあんまりかわんないようなw
ひょっとしたら、私の『ネトゲプレイヤー類型論』も世界と戦う上での武器となり、「地球規模の問題についてあてはめてみる場合に、その有効性が発揮される」かもしれない。びっくりである。

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08月13日(月)

起床時刻:10時15分

日曜に観た『トータルリコール』では頭に電極みたいのをくっつけて、人の記憶を消したり入れ替えたりするわけだけれども、私だったら『トータルポジティブ』って映画にしたいね。

頭に電極みたいのをくっつけて、ネガティブな気分をポジティブな気分にかえるような装置。プロザックがあれだけ爆発的に売れたんだから、ずっと確実かつ強力にポジティブになれる「トータルポジティブ」なんていう装置があれば、間違いなく、大ヒットだよ。リコール社よりもね。リコールは所詮、現実逃避だから。

「日曜日の夕方から『会社に行きたくない』と憂鬱になっていませんか?」
「朝起きたときに『なんか、だるい』と思いませんか?」
「『やらなきゃ、やらなきゃ』と思いつつ、家事を手抜きしていませんか?」
そんなあなたに「ポジティブ社」!!

ってやつですよ。

「やりたくない→イヤイヤやる→失敗する→自信喪失する→もっとやりたくなくなる」のネガティブスパイラルを
「やりたい!→すすんでやる!→成功する!→自信獲得する!→もっとやりたくなる!」のポジティブスパイラルにかえましょう、ってことですよ。

もちろん広告には、
「いつもポジティブに働いていたら、UFBの一等地に家を買えました(当方、コロニー出身です)!」とか
「いつもポジティブでいたおかげで、バツ二子持ちの私がUFB出身のエリート(ジョージ・クルーニー似)と結婚できました!」とか
「コロニーの落ちこぼれだった息子がポジティブに勉強に取り組んだ結果、UFBの最高学府に現役で合格しました!」
とかいう「喜びの声が続出!!」で、「え?頭に電極?」とかいう疑いを持っていた人もやりはじめるに違いない。

というのも、ポジティブのおかげで、それまでの普通=平均値が50点だったとしたら、平均値が70点くらいにはねあがり、つまり、「普通」のレベルが上がってきたから、それまで「普通」「優秀」だった人が、「劣等」「凡庸」となり、焦り始めるからだ。

そのうち政府とタイアップして、兵士は必ずポジティブ社の「ポジティブ・ソルジャーコース」を受けなくちゃいけなくなるし、服役囚は「ポジティブ市民いきいきコース」を受けなくちゃいけなくなる。

その結果、「コロニーはUFBに搾取されている!俺のほうができるのに、コロニー出身っていうだけで昇進できない!」とかいうような、「ネガティブな発想」はなくなり、「もっと頑張ろう!これまでの二倍、三倍頑張ろう!」ってみんな思うようになるから、テロも犯罪もなくなって治安がよくなり、「はい、喜んで!」とばかりにサービス残業をするから経営者が儲かり税収も増えて、いいことずくめなわけだ。
まぁただ、居酒屋で同僚どうしで愚痴をいいあうなんてのは「ネガティブで非生産的な時間」として切り捨てられるから、居酒屋は閑古鳥がなくかもしれないが、少なくともポジティブ社は巨万の富を手にする。

しかし、その背後には支配者層の恐ろしい陰謀があって・・・・・・・というのが、『トータルポジティブ』のストーリーだ。
ま、面白いと思うのはトータルネガティブな私だけだろうけどw 

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08月12日

起床時刻:12時30分

リメイク版の『トータルリコール』(コリン・ファレル主演)を夫と見てきた。

第三次世界大戦か何かで地球のほとんどは汚染され、人類が住めるのはわずかにイギリス(U.F.B)とオーストラリア(コロニー)になっていて、コロニーからUFBへは"フォール"と呼ばれる地球の中心部を通る超高速エレベーターみたいなもので結ばれている。
コロニーの住人は労働者として毎日、UFBの工場へ勤めている。主人公のダグもそうで、ライン工として働いているが、同じことの繰り返しである毎日に嫌気が差している。
その上残業してガンバったにも関わらず、目指していたポストには、(自分のほうが能力がずっと高いにも関わらず)UFB出身者で学歴もある男がついてしまう(UFBはコロニーを差別し、搾取しているということで、テロ活動も盛んに行われているらしい)。
日頃悪夢に悩まされ、不眠気味だった主人公は気分転換に「何か素敵な記憶(誰もが羨む億万長者になるとか、スーパーアスリートになるとか)」を注入してもらおうとリコール社に出かける。。。

とまぁ、つかみはこんな感じなのだけれど、主人公のコロニー生活、日本人からみればそんなに悪くないような気もするが。
まず通勤時間(フォールに乗っている時間)がたったの17分。フォールの乗場までの通勤時間は不明だけれど、17分ってめちゃくちゃ職住接近じゃない?
しかも、フォールは途中無重力になるから、全員着席のシートベルト着用。
そこいくと日本(都心)は通勤時間1時間、2時間は当たり前、しかもずーっと立ちっぱなし、満員電車でもみくちゃ、駅についたときはヨレヨレなんてことも珍しくない。
工場での勤務時間は不明だけれど、増産のために二交替制になったとき不平の声があがった、ということは普段は三交代制なんだろう。一日24時間フルで稼働させるとして、三交代で一日8時間。二交代で一日12時間。
(まぁ実際は交代のときにロスが出るだろうから、労働時間はもうちょっと短いと思うが)
日本の正社員なら平時でも一日12時間働いているのは普通だね。15時間とかの人もいるだろう。
自分より能力のずっと劣る人が学歴等の理由だけで上のポストにつくのは、日本のみならず世界的にごく普通のことだし。

更に、主人公はスラム街の狭小貧乏アパートに住んでいるという設定なのだけれど、日本のウサギ小屋住宅なめんなよ、である。日本のボロアパート(いっぱいある)はこんなもんじゃない。日本の六畳一間の安普請はあんなに天井高くないし、あんなに収納ないし、一言でいうと、もっと悲惨でダサい。

しかも「安月給でやってらんねぇ」と主人公はいいつつ、毎晩ビールを外で飲んでいる。日本ではビールを飲めないから発泡酒、いやそのお金もないから水で我慢、てな生活の人も少なくない。
だいたい、「給料前だから今日は"もやし"よ」なんていうシチュエーションもなかったし。

コロニーはUFBからの独立を目指しているらしいんだけど、どうやって経済的に自立するんだろうね?
というのも、コロニーには生産設備がないらしいから、UFBからモノを輸入しなければならない。そしてこちらが輸出できるのは労働者だけ。

となると、今まで同様、コロニーからUFBに出稼ぎに行くということになるが、UFBでは急激な人口増加中。
となると、コロニーからの労働者の多くは不要となる可能性があり、コロニーの失業率は爆発的にはねあがる。
しかも、コロニーにはまだちゃんとした政治体制(失業保険はどこが払うのだ?)が整っていない。警察も軍事もUFBが仕切っていた。更には報復措置でUFBからの資金援助が打ち切られた場合、財政は悪化する。
となると、政情や治安は今以上に不安定になる。UFBの工場で生産された警察ロボットを輸入し(労働単価があがるため価格も上昇するだろう)、自分たちのつくった高価なロボットで同胞を殺すなんてこともありえるだろう。

とかまぁ、映画を観ながらそんな(確実に余計な)心配をしたけれどもねぇ。

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08月11日

起床時刻:09時00分

うちの近所で家を建ててるんだけれども、うるさくって仕方ない。
LOHAS studio(笑)だかロハス工法(笑)だか知らないが(そんな文言の垂れ幕を宣伝のためにかけてある)、こんだけの騒音公害をたれながして「環境に優しい住まいづくり」みたいな顔されてもさぁ、うぜぇとしか思えないわ。
人間の存在そのものが公害なんだよねってことがよくわかる。

我が家はロハスも節電も関係なく、エアコンの設定温度のデフォが25度で夫が帰ってくる時間だけ一時的に24度に下げるようにしている。
で、寒いんだよねwというのも私がゲームしている場所がエアコンのすぐそばなんで。

一方、夫がゲームしている場所はエアコンから離れている+パソコン2台起動+暑がりという要因で、設定温度を26度にすると夫に暑いって言われちゃうんだよなぁ。
「節電!」とか鬼の首とったみたいに夫に言える奥さんがたは、夫との力関係で自分が上なんだろうね。
人間関係なんて所詮、上下関係で、力の強いほうの言い分がなんでも通るんだからさ。

そういやスクエニが赤字らしい。早くFF11のサービスが終了しないかな?と思うけど、11はFF史上最も利益を産んだFFらしい。
たぶん、これからも色んな損失補填のために、他のネトゲの柱が育つまではサービス継続するだろうから、FF11はしぶとく生き残るんだろう。
FF11は夫の生きがいでもあるから、もしFF11がなくなったら、退職後に鬱になるじーさんのように夫の覇気がなくなってしまうかもしれない。
私の30代は丸々FF11に費やしたと言っても過言ではないけれど、何の愛着もない。もっとも、初めてレベル75にするときは昼間もインしてずーっとやってたけど、今はほんとに3日で99になるからなぁ。

昨日の夜はステーキ。焼く2,30分前に冷蔵庫から出して常温に戻し、焼きたてを供そうと思っているんだけど、昨日は夫の帰宅が珍しく遅かったから、冷蔵庫から出したり入れたりで、なんか非常によくないことにw。いたみはしなかったから良しとしよう。付け合せはマッシュポテト、茹でたアスパラ。あとピーマンと舞茸を焼いたの、きゅうりの和物の残り。

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08月10日(金)

起床時刻:09時45分

「風の音に秋はけふより立田山」じゃないが、ここ二、三日、風がやや涼しくなってきたような気がする。
というわけで、というわけでもないが、渋谷のBunkamuraでやってる「国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展」に行ってきた。「レーピンって誰?」だったんだが、ポスターに惹かれてふらっと寄ったところ、これがとても素晴らしかった。ポスターは「休息―妻ヴェーラ・レーピンの肖像」なんだけれど(実物はなおよし)、思いがけなく「思いがけなく」(「革命家?が思いがけなく帰ってきてびっくりする家族の絵」)という作もよかった。様々な肖像画(文豪トルストイもいる)を見るだけで楽しい。

私は絵画に対する関心も知識もほぼゼロで、絵をみても「フーン」という感想しかだいたいおぼえないんだけれど(猫に小判てやつ)、レーピンのいくつかの作には「フーン」以上のものがある(って褒めてるんだかなんなのだか)。何かが伝わってくるんだけど、その何かが何なのかはよくわかんない。ドラマ?内面?精神?そのひとの人生?よくわからんけれども。

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08月09日(木)

起床時刻:08時00分

夕飯は牛肉とアスパラガスの中華風炒めもの(ニンニクみじん切り、豆板醤、しょうゆ、酒、オイスターソース)、煮玉子、きゅうりの和物、昨日の残りの枝豆(前日茹でておいた枝豆のほうが塩味がきいていて美味しいような気がする)、ワカメのスープ。

『食べるギリシア人-古典文学グルメ紀行』(丹下和彦/岩波新書)を読む。著者あとがきによれば、勤務先の大学でゼミを受け持っているらしいが、二世代ほども年の違う女子学生たちの興味を惹くものは何かと考えた末に「食べること」に行き着いた、とある。けだし卓見である。

雑駁に言えば、女の欲望というのは「きれいになりたい(きれいであると賞賛されたい)」と「美味しいものを食べたい」というのが二大欲望だろう(年をとると前者の望みが否応なく断ち切られるため、後者の欲望がより優勢になるような気がするが)。先生が『食べるギリシア人―古典文学グルメ紀行』に加えて『ダイエットするギリシア人―古典文学美魔女紀行』の講義も特別編として付け加えれば、女子学生人気は今以上に高まること請け合い。

なかなか面白い。
ギリシアの英雄たちは肉を細かく切って串に刺しあぶって食べた、だが味について「これはちょっと塩気が足りませんね」だの「固いようですね」など論評しなかった。
魚は食べなかったようだ(ホメロスは英雄たちが魚を食べるシーンは書かなかった)。
また、オデュッセウスは食への執着心があるようで、そこがuntypicalなヒーローなんだとか。

ギリシア悲劇では食のシーンが少ない。その理由は(野外劇という制約に加えて)悲劇な日常を超えた人間の普遍的な精神世界を描こうとするものであり、食という日常を取り入れると喜劇的になっちゃうから、らしい。
そういや、ヒーロー(騎士)のパロディ小説である『ドン・キホーテ』の冒頭は「食」のシーンだ。「昼は羊の肉よりも牛肉を多くつかった煮込み、夜はだいたい昼の残り肉に玉ねぎを刻みこんだからしあえ、土曜日には塩豚の卵あえ、金曜日にはランテーハ(扁豆、レンズ豆?)、日曜日には小鳩の一羽ぐらいは添えたものを食べていた。これで収入の四分の三が消えた」とあり、細かいメニューとエンゲル係数についてまで教えてくれる。

ちなみに「食客」はパラシートスといい(パラサイトの元となる語らしい)。腕利きでもなく、知恵も度胸もない役たたずの食客は「何を言われても黙って聞き、どう扱われても耐え忍び、怒りを抑え、作り笑いの一つもするのは、酒食のもてなしを受けるに足る立派な労働行為である」(P182)とのこと。まさしく主婦(私)に必要なスキルじゃないの。これ(忍耐とお追従)がちゃんとできれば「立派な労働行為」となるらしい。頑張ろう。。。

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08月08日(水)

起床時刻:11時30分

まだ8月である、という事実に驚愕する。
この、夏の暑さによる蓄積疲労の具合から察するに、もうとっくに9月に入っていてもおかしくないからである。

先ほどアイロンをかけていたら、なんだかアイロンがひどく重く感じた。
「日ごろはなんとも覚えぬアイロンが、今日は重うなったるぞや」とふと思ったけど、こんなこと言ったら、全国の平家物語ファンにぶん殴られるであろう。(木曽義仲と今井四郎兼平の最後はホントに泣ける)

親から小包。いちじく(とよみつひめ。美味)、梨(無農薬の幸水。美味)などの他、「鱈の胃と干したけのこの煮物」が入っていた。
私は全く知らなかったけれど、福岡南部(筑後地方)はお盆になると鱈の胃がスーパーでも売られる。結構高い(二千円以上するらしい)。これを干したけのこと煮込んだものをお盆に食べるそうな。
私の両親は福岡出身ではないので、ずっと「なんやろか、あれ」と思っていたそうだが、このたび、道の駅で調理済みの「鱈の胃と干したけのこの煮物」をめでたく購入したらしい。
食べてみたら、九州っぽい甘辛醤油味である(私には甘すぎるが、これが九州スタンダード)。鱈の胃は弾力があって珍味風で、部位によってコリコリだったり、プルプルだったりする。わざわざ胃のほうを求めたくなる気持ちもわからんでもない。

しかしまぁ、「なんでこんなものを食べるのか」といえば、おそらく貧しかったからであろう。棒鱈のような身の部分は無理でも胃のようなモツ部分ならなんとか買えたとか、そういう事情じゃなかろうか。それが意外にいけたから定着した、ようなことではなかろうか。いや、わかんないけれど。

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08月07日(火)

起床時刻:08時00分

私の発見した法則。「古漬けの糠漬けが好きな子供は将来酒飲みになる」。

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08月06日(月)

起床時刻:09時30分

12時から14時くらいまで昼寝。
本当はもっと寝ていたかったけど。

母親から電話。
人生ってのは畢竟、「骨折り損のくたびれ儲け」である。
ま、40才で人生を語るのはおこがましいようだが、「人生の折り返し地点」とやらでわが来し方を振り返れば、そういう概括となろう、という話をした。

ついでに言えば、我が両親の「子育て」なんていうのも、「骨折り損のくたびれ儲け」であったなぁ。無駄なんだよ、無駄。

と、このように(「子育て」なんてのもただの無駄と)私が思うのは平和ないい時代、福祉のいきとどいた良い時代であるからかもしれず、かつては「結婚は子どもをつくるためのもので、子どもというのは、おもちゃでもペットでもなかった。子どもはものを受け継ぐための媒介。この「もの」というのは、王国かもしれないし、高価な結婚祝いかもしれないし、はたまた一族の物語か、宿怨か、骨肉の争いか。子どもをつうじて、同盟が築かれる。子どもをつうじて、悪事のかたきが打たれる。子どもをもつというのは、世に勢力をはなつということ」(『ペネロペイア』P37-38)であったのだ。とはいえ、これは(洋の東西を問わず)重要人物たちが構成する重要な家柄においてのみあてはまる話。

(それにしても、上の鴻巣さんの翻訳文でもそうだけれど、最近「子供」はほとんど「子ども」と書かれるね。「障害者」が「障がい者」と書かれるように。私自身は「子供」「障害者(障碍者)」を使うが)。

重要でないそこらの民草(讓るべき王国もなければ語るほどの一族の物語なんてものもない、だたの雑魚ども)においては、子供とは老後の保険すなわち福祉の目的だったろう。自分が年をとり、ヨボヨボになって稼げなくなったときの頼りとなる杖、それが子供である。

だからこそ、「親孝行」を金科玉条として親世代は子供に教えこむ。親が年をとったときの杖となれ、と口をすっぱくして説くのだ。
それは逆にいえば、「親孝行」というのが不自然だからに相違ない。「親孝行」が本能的なものだったら、あんなプロパガンダは必要としない。
実際、世の中には血の繋がった両親(しかも育ててもらった恩のある両親)に対して憎悪を覚えている人だっており(私はもちろん違うけれど)、「あんたの老後の杖なんぞにはなりません」と言う人はいる。だからこそ、道徳で繰り返し繰り返し説く必要が出てくるのだろう。

今は面倒をみてくれる子供がいなくとも、年金があるから、餓死するということはまずない。無縁社会というのは平和で福祉の行き届いた国や時代にしか現れない現象なのであって、万々歳なのだ。
とはいえ、物事はいいことばかりではないから、餓死はしなくても、家の管理や手入れが大変で、若い人手がほしいこともあるだろう。死んでも誰からも気づかれず、腐乱死体となることもあるだろう。

ま、私はそれでも有縁社会よりも無縁社会のほうがずっといいように思うけれどもね。人と人が接する機会が多ければ多いほど、ストレスもコンフリクトも生まれるのだから。

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08月05日

起床時刻:14時00分

いつものように一日中、ゲーム。
「夫がゲームばかりしています!」と文句たれる妻でなくて「夫にゲームばかりさせられています!」と文句たれる妻の存在を、寡聞にして知らない。
私は「夫がゲームばかりしています!どうにかしてください!!」と文句をたれる妻の気持ちがわからない。いいじゃん、手がかからなくて。

夫にかまってもらいたがりの妻はいっぱいいるけれども、よっぽど魅力的な夫なんだろうねぇ。しかし残念ながら妻自身は魅力に欠けているんだろうよ。だからこそ、夫はゲーム(あるいは仕事、あるいはその他の趣味)にのめりこみ、妻をかえりみない。
それで「夫に無視されている!」とむかっ腹をたてる妻もいるが、もしも夫に「オマエは世間が狭くて話はつまらんわ、頭は悪いわ、性格は悪いわ、どこかいいとこあんの?え?」って言われたらなんというのだろうか?たぶん、彼女らの夫はそんなことを言わない優しい人だから、一緒にいて楽しいのだろう。だから夫に「私ともっと一緒にいてよ、一緒にどこか行こうよ、もっと話をしようよ」って言うんだろう。お前の話はつまらんのに。ブログにでも書いておけや。
冷静に考えてゲームや仕事その他と比べて自分のほうが魅力があるとでも思っているのかねぇ?たいした自信だよ。

私の場合、こういう自信過剰の妻らとは違って、自分がやりたくもないゲームをさせられて、感謝もされずに罵倒されているから、いいかげんウンザリしているんだ。そういう人は果たしているだろうか?私が今、一番興味関心のあるのはこういうタイプの人であって、同病相憐れみたいのである。それ以外の人には全く興味がない。

昼はカレーうどん。トマト、きゅうり、アボカドのサラダ。
夜はピザ。正確にはピザ(Lサイズ)、コカ・コーラ1.5ℓ、ポテトとチキンナゲット、カスタードクリームパイ。

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08月04日

起床時刻:09時30分

友人とランチ。店名を仏語辞典で調べたら「沸騰・激昂」という意味らしいが、「泡」がコンセプトらしい。

飾り皿(サービスプレートっていうんだっけ)が、ベルナルドのエキュム(白一色のタイプ)。エキュムは「海辺の水泡から着想されたコレクション」だそうで、泡という店名にぴったりの皿。

アミューズがまた、「泡」っぽい(カプチーノ仕立てというのか、熊本産のナスのピューレ、トマトのジュレ、バジル、うに、その上にふわふわの泡(うろ覚え)。その横にはトマトのシャーベットとバジルが添えてあった)。コースの最後に出てくるプチ・フールというのか、茶菓子の中にチュッパチャップスのようなものがあり、その中に昔なつかしい駄菓子の「パチパチ」風のものが入っていて、泡に始まり泡(パチパチ)に終わる、という趣向なのであった。

私の頼んだコースの前菜は、鯵。
ほんの少しの塩とオリーブオイルであえており、トマトのスライスがはさまっている。その上には薄切りのフェンネル、そして色んな葉っぱと花びら。

次に蕪。千葉産とのこと。この店の「スペシャリテ」ってやつらしい。予想外に歯ごたえがしっかりしている。そして水分がめっちゃ出てくる。

次にホロホロ鶏(とても柔らかい)とそのジュ、小豆のピュレ、発芽豆、インゲン、胡椒草、マラガのレーズン。胡椒草って初めて食べたけ。謎な葉っぱがよく出てくるようである(私は好きだけど)。発芽豆も初めて。健康によさそう。よくなかったら困る。

そして最後はデザート。アカシアの花のアイスクリーム、アメリカン・チェリー、そして葉っぱ(ベビーリーフの詰め合わせに入ってるやつ)三枚ほど。あとオレンジ風味のメレンゲみたいなの。

(友達が頼んだほうのコースのデザートは個人的には外れなんじゃないかと思ったけれども(味は知らないが見てくれがね)。
三層の丸い球体(アボカドのムース、チョコレート、オレンジゼリー)に真ん中をくりぬいたひらべったいクッキーのごときものがたてかけてあって、まるで土星っぽいのだ。横にはアボカドを小さく丸くくりぬいたものが3つ、それに唐辛子の粉(一味みたいなの)が天の川風にデコレーションされており、「果実の待ち合わせ」とかいうタイトルだったと思うが、「未知との遭遇」というタイトルのほうがずっとぴったりであると私と友人は言ったのだった)

サービスは非常にフレンドリーで、私は今まで、こんなに給仕人に声をかけられたことはない。私はとても面白く話を聞いたけれども(うんちくを聞くのが好きなので)友人は「早く食わせろ」っていう気分だったらしい。

素材をいかした軽い感じのコースゆえ、食後はまったく胃もたれせず、私のような胃弱にはいいかもしれない。
一皿一皿に「新進気鋭」とか「クリエイティビティ」とかいう言葉を彷彿とさせるフレンチでありました。「美味しい」って言葉はあんまり彷彿としなかったんだけどね(アミューズが一番美味しかったかも。って、誕生日ということでご馳走してもらったのにこんなこと言っちゃいけませんねっ)。

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08月03日(金)

起床時刻:12時30分

久しぶりに本を読んで徹夜をしてしまった。
『神聖喜劇』(光文社文庫/大西巨人)全5巻である。

先日、1巻だけ試しに読んでみたら、面白くって仕方ない。
残りの4巻を新宿の紀伊國屋書店で大人買いして折々読んでいたんだけれど、最後のほうはとまらなくなってしまった。

時は1942年、ところは対馬要塞の重砲連隊、そこに補充兵役として入隊した者たち(福岡、佐賀、長崎の三県人)の話である。
主人公・東堂太郎は心情左翼的な気持もあれば(マルクス主義の禁書を読んでいたせいで、九州帝大を退学処分になった)、「世界とは生きるに値しない」というような虚無主義的な気持もある若者だが、へなちょこのインテリゲンチャではない。

彼、東堂の家は福岡藩の士族(もともとは長曾我部のナントカに由来するらしいが、本家ではない)で、父は武術の心得も漢籍の素養もある教育者、主人公もまた、その武士の気骨(「勇を尚び死をいとはず、恥を知り信を重んじ、むさくきたなくなく候事を男子のせざる事と立候習はし」(荻生徂徠の言葉らしいが))が血肉になったような男で、卑怯・虚栄・理不尽を憎み、勇気・正義・公正を重んじる、まぁ快男児なのである。が、内省的快男児なので、小説としては重厚になるわけですね。

この本は、近ごろよくある、改行だらけのスッカスカ小説とは違って、ギッシリ詰まってるから主婦的経済的お得感がある一方(大変お値打ちです)、最初のうちは読みにくいところもあると思う。
慣れない軍隊用語や、夥しい文献からの長い引用、そしてコッテコテの九州弁。

でもその読みにくさに耐えて(あるいはナナメ読みして)、「『知りませんでした』と言うな、『忘れました』と言え」事件まで読めば一気に引き込まれるだろう。
そしてそして、「大根のお菜は軍事機密である」事件までくれば、もう面白くって仕方ないだろう。
その次は「漢字の読み間違い」事件がくるのだが。

とまぁ、このように次々に色んな起こる事件が起こるんだけど、例えば「鬼軍曹による”とんち”クイズ、不正解なら鉄拳制裁!!」とか「橋本二等兵は尋常小学校を卒業したのかどうなのか?!」などという、実に瑣末な事件ばかり。「上官上級者がしばしば発動した姑根性的な加虐変態的(サディスティック)な情熱」といみじくも書いてあるように、「鬼軍曹」の本質は「姑根性」なような気がしてくる(班附の神山現役三年兵はさしづめ小姑か)。
けれども、「事件は『幸楽』で起こっているんじゃない、軍隊で起こっているんだッ」てなわけで、姑と獣を足して二で割ったような暴力的な姑(野獣系姑)たる鬼軍曹らに、嫁たる新兵たちは殴る蹴るの暴行を受けるわけよ。

最近の小説はミステリ仕立てで読み手をひっぱっていくことが多いけれども、この『神聖喜劇』における第一巻の「謎解き」は「誰が特殊部落出身(新平民)か」というものですね。
我々から見れば「は?それはどーでもよくない?そこは敵国のスパイが紛れ込んでいるとかでしょう?」と思うけれども、敵国のスパイなんか出てきません!我々の日常にも敵国のスパイなんか出てこないように。

私たちの世の中は「どーでもよくない?」っていう細事で構成されてるんです。
神は細部に宿るというけれど、その言葉の本来の意味はまるで知らないなりに言えば、物事の本質は小さいことに顕著に出ているんです。
小さいことをないがしろにする人は、大きいことだってないがしろにする。
だからか、東堂は小さいことをないがしろにしない。

例えば軍隊では教えられていないことでも「知りませんでした」と言ってはいけない、「忘れました」と言うのが不文律だというが、東堂は異議をとなえる。彼は思う。

「あの不文法または慣習法を支えているのは、下級者にたいして上級者の責任は必ず常に阻却せられていなければならない、という論理ではないのか。
もしも上級者が下級者の「知りません」を容認するならば、下級者にたいする上級者の知らしめなかった責任がそこに姿を現すであろう。しかし、「忘れました」は、ひとえに下級者の非、下級者の責任であって、そこには下級者にたいする上級者の責任(上級者の非)は出てこないのである。言い換えれば、それは上級者は下級者の責任をほしいままに追求することができる。しかし下級者は上級者の責任を微塵も問うことができない、というような思想であろう。」(一巻P297)

上級者のその上、その上、その上と責任が阻却されているから、最終的には責任というものが雲散霧消し、責任の所在が永遠に突き止められない。
あるいは元から責任など、最初からどこにもない。
「それならば「世世天皇の統率し給ふ所にぞある」「わが国の軍隊」とは、累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構ということになろう」(同P299)

もちろん、『軍隊内務書』ないし『戦陣訓』においても、各級軍人の責任は力説強調されているのだが(「職務ノ存スル所責任自ラ之二伴フ」「任務は神聖なり。責任は極めて重し」)「詮ずるところ、上から下にたいして追求せられるそれのみを内容とするのであって、上が下にたいして王(下から上にたいして問われる)それを決して意味しないのであろう」

逆にいえば、一番下っ端がひとり責任を負う、ということではなかろうか。
上司による部下への「よきにはからえ」「よろしく頼む」という「指示」みたいなものだ。そしてもちろん、「よき」「よろしく」の内容については、「自分で考えろ」ということだ。
その結果については「俺が全責任を負う」というのなら「男」だろうが、思わしくない結果となれば、たいていは「僕はそんなこと知りませんでした。勝手にあいつがやりました。僕は悪くありません」とあとで、上役(あるいは世間)に言い訳するのだ(その一方、手柄となれば自分の貢献を吹聴しまくるのだろう)。

*************
一巻の最後に『神聖喜劇』が発表された当時の評が載っているがその中の瀬戸内寂聴の書評(「激しくまぶしい愛と性」というタイトル。なんでこうなった??)くらい、的が外れているものもなかろう。
「『神聖喜劇』を読むときくらい、自分が女であると自覚させられることはない。この作者から女には読ませないぞと突き放されているような気がするからである。<略>第三部<運命の章>は、男と女の愛と性が、激しくまぶしく描かれていてほっとする」と瀬戸内は書くが(ちなみに第三部の「愛と性」だって「激しくもなければまぶしくもない」と思う。むしろ、不思議なユーモアと「いぶし銀」とでもいうべき抑えた筆調を感じる)、この人は色ボケしているのかしらんが、この小説は、「軍隊小説」と一括りにできない、ごくごく当たり前の人間模様、あるいは人間の特性をきっちり描いたものであり、女たちの足を踏み入れえない「男たちの聖戦」なんていうものではなく、昔から今に通じる、「おかしくて悲しかごたぁる」人間というものを書いた小説なのである。

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08月01日(水)

起床時刻:11時30分

「『(真性の)芸術家』は『習俗的』であることが(先天的・宿業的に)できないのであって、しかもまた『習俗的であることの悦楽にたいする内密にして激烈な憧憬』と『習俗的であること(の悦楽)にたいする(一抹の)軽蔑』との対照的両者を(先天的・宿業的に)ひとしく抱懐せざるを得ないのであった」(『神聖喜劇』第三巻P311)

と書かれると、世間から浮きがちな自分を叱咤し、強いて周りの空気を読んで生きている人たちは「そうそう!私もそう!」と思うであろうが、それはバーナム効果というものである。
「習俗的」とは「世間や常識、あるいは権威と迎合的」ということだとすれば、「迎合している」と思わずに迎合することもあれば、迎合していることに自覚的なこともある。
前者は幸せなケースであり、後者(「そうそう!私もそう!」の人たち)は悩み多きケースであろう。そしてだいたいにおいて、小説を書いたり読んだりする人というのは後者、つまり悩み多き俗物である(私もそう)。

『神聖喜劇』においては、「東京帝大出」谷村がそれ、悩み多き俗物にあてはまるだろう。
彼は「厳原閥」(厳原出身の俗物・小人が中心となった「学校出」の集団)に属しているが、「ほんとうは気が進まない」。
谷村は弁解するように(人目をしのんで)主人公・東堂(食卓末席組)に「まぁ、いつもとおなじそんなことで、いやいやながら、おれはあの仲間に入ってあそこにすわっておったのだよ」と(東堂の是認あるいは同調を求めるかのように)言うが、東堂は「その種の自嘲(的な語り口)」を嫌悪してだまっていた。「その種の「自嘲(的な語り口)」の内実はおおかた必ず自他双方にたいする当人の甘ったれか誤魔化しかなのである」(同P94)

その通りなんだけれど、厳しいっす、東堂さん。

「谷村のような人間も、世の中にちょいちょい存在するのである。その類の人間は、「悪」または「不正」または「権威」にみずから加担するか追随するかしているくせに、彼における「面従腹背の苦衷」とか「良心の痛み」とかいうような物を(「悪」または「権威」にたいする反抗者・不服従者にむかって)こそこそ訴えたり、ぼそぼそ匂わせたり、したがる。私の悟性は、私自身のそういう見方・考え方に私における「狭量」なり消極的「狷介」なりをわずかに内観しなくもない。しかし、私の感性は、その類の人間を、「悪」または「不正」または「権威」への積極的な(恥も外聞もないような)加担者・追随者をよりも、いっそう強く嫌悪(むしろ軽蔑)しがちである」(P95)

谷村が「東堂のように、はっきり拒絶したら、そりゃすっきりはするかもしれんが、なんとしても、ここは軍隊だからね」と言うのに対し、東堂は内心『「なんとしても、ここは軍隊だからね。」などとお前は、もっともらしくほざいてるが、お前の「地方」での生き方も、おおかたおなじじゃないのか』と冷たく思う。

正解www

東堂は虚無主義的心情から「一匹の犬」たらんとするのだが、犬になれない。いってみれば「権威と(無意識にせよ、自覚的にせよ)迎合的」あるいは「習俗的」であるのが犬であって、先天的・宿業的に犬にも習俗的にもなれないのが東堂なんである。

それはもう、そのようにしか生きられない・別様に生きられない、という、ある種の業であって、しかたないのだ。
谷村も谷村的にしか生きられない。せいぜい、自己弁護しつつ、「本当はやりたくない」のだけれど「仕方ない」と自嘲しつつ、その自嘲で責任を放擲する。そういう生き方しかできないのだろう。とまぁ、自嘲(的語り口)にまたなっちゃったけどwww

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