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09月30日

起床時刻:12時30分

台風。ゲーム。

最近読んだ『身近な野の花のふしぎ』(森昭彦/サイエンス・アイ新書)に帰化植物について書かれていたこともあり、外来種についてちょっと考えてみた。

『身近な野の花のふしぎ』で著者は帰化植物の問題について
「きわめて重要である。しかしその多くがアリスの裁判のように、大きな声に揺さぶられ、理不尽な有罪判決をくだされている。わたしたちは本当にそうかなといった素朴な疑問をつねにもち、問題の核心に近づきたい」
と書いている。
しかし、何をもって「有罪」とするのかについては触れられていない。

私は外来種だろうが在来種だろうが関係なく、動植物の保護については
①人間にとって役立つかどうか
②人間の審美基準に見合うかどうか
③希少かどうか
が基準となると思っている。
有害のものは駆除、有益なものは繁殖。
見苦しいものは駆除、美しいものは繁殖。
ポイントは「人間からみて」である。人間からみて、有害、不快なものは「有罪」となる。
「自然全体から見て」ではない。

(もし「自然全体から見て」考えるならば、一番有効な生物多様性保護策は「人間の数を劇的に減らす」ことだろう。
『私たちは進化できるのか~凶暴な遺伝子を超えて』(長沼毅/廣済堂新書/2012.1.1)によれば、「自然界のバランスで考えると、100万種とか200万種いる全動物界のなかで、1つの種がその総体重の1%を超えることは通常ないと考えられている」が、「今の人類の総体重は全動物界の10%に近い」。「さらに家畜など人間のために生きている動物を含めると20%から30%になる」そうだ。まさに私たちの存在そのものが、生物多様性を損なっていると私は考える)

例えばマラリアを媒介するハマダラカや日本住血吸虫の中間宿主ミヤイリガイなんかは絶滅していい、と私は思う。生物多様性は減少するが、人間にとっての害虫だから、仕方ない。

外来種かどうかは関係ない。有益か無益か、有害か無害か、美しいか醜いかが全てだ。

問題は特に有害というわけではないが、旺盛な生命力の外来種がひ弱な在来種を圧迫しているというケースだろう。
攻撃的な西洋ミツバチに追いやられた日本ミツバチがかわいそうとか、たくましい西洋タンポポに追いやれらた在来種のタンポポがかわいそうとか、そういうケースだ。
「別に人間には関係ないからどっちでもいいじゃん?」ではあるけれども、③の希少性の基準が出てくる。
生物多様性がどうのこうのとは関係なく、「絶滅しかけている貴重な種は保護したい」の心理である。

どうしてトキなんかを保護しているのか?特に役立つわけでもないし、好みにもよるが審美的に際立って美しいというわけでもない。
特に取り柄なし(害もなしだが、昔は害鳥とされていたとも聞く)なのに、少ないというだけで価値が出てくるのは、スーパーで「残り一個!」となるとたいして欲しくもないのに買ってしまったり、「一日5食限定!」とかに釣られてしまったりする心理と似ているかもしれない。
カラスだって今はゴミを漁るはた迷惑な鳥として間引いたりするが、これも残り10羽になったら保護しだすに違いない。
ま、カラスは賢く、しぶとく、雑食だから(人間によく似てるw)、数はそうそう減らないと思うけれども。

本当に生物多様性を保護したければ、まず人間の数を減らすこと、それが人道的に無理ならば、人間の立ち入る区域を減らすことだ、と私は思う。
人間の小さな居住区を決めてそこから出ないようにする。カプセルホテルみたいなところに住み、自然はバーチャルに楽しむだけで、実際に出かけない。これが一番自然環境に負荷をかけない。
エコ・ツーリズムなどという言葉もあるが、そもそも自然を楽しむツーリズムは「やや自然破壊的」か「おおいに自然破壊的」かのどちらかであろう。
エコ・ツーリズムは「やや自然破壊的」なほうで、そういう意味ではマシではあるが、立ち入らないに越したことはないと私は思う。

そういう風にすると、だいぶ(人間以外の)生物も生き生きしてくるんじゃなかろうか。

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09月29日

起床時刻:11時00分

『ブラジルの流儀 なぜ「21世紀の主役」なのか』(和田昌親編著/中公新書/2011.2.25)を読んだ。
ブラジルに関する知識とブラジルへの好感をもってもらいたい、という著者の意図はよくわかるが、印象批評的というか、ブログっぽい。

印象批評は著述者の感性と読者の感性が一致すれば納得感をもって楽しく読むことができるが、私と著者の感性にはかなり開きがあるようで、どうも腑に落ちないことが多かった。

例えば著者は「ブラジル人は優しい」と最初に書いているが、本書程度の論拠でいいならば、日本人だって優しいといえる。

(いや、ブラジル人は全般的におおらかで優しいんだろうとは思うんですけどね、友人がブラジルに出稼ぎに行っていたので色々話を聞きましたから。しかも彼女は著者(元日経記者、現日経HR社長)のような「駐在員はおおむね日本より広いアパートに住み、メイドを雇い、週末は外食を楽しむ」生活ではなく、親戚(ブラジル移民)の日系スーパーで働くという生活だったからね。金持ちに優しいのはブラジルだけじゃなくて全世界的にそうだけれども、貧乏人が優しさを感じる国は本当に優しいんだろうと思う)

著者は「ブラジル人は子供に優しいが、女性にはもっと優しい」という。その根拠として「ブラジルの刑務所では、女性や子供へのレイプや暴行で収監された受刑者には、囚人たちによる凄惨なリンチが待っているという話は有名だ。女子供をいじめるなんて男の風上にも置けない、というわけだ」という話をあげる。それならブラジルでは女性や子供への性犯罪はほとんどないのかといえば、あとのほうで「09年3月ブラジル北東部のレシフェで義父からのレイプで妊娠した九歳の少女が中絶手術を受けた」という話が出てくる。
え?9才の少女がレイプされるって?
女子供に優しい国じゃなかったの?
(監獄のリンチには犯罪抑止機能はないというのはわかったがw)

それから「ブラジルは人種差別が少ない」「混血の土地だから誰でも受け入れる寛容の精神がある」という話。

しかし読んでいくと、日系人は勉強熱心で賢いので、ブラジル人から尊敬を受けている、という項で、こんなエピソードが出てくる。
サンパウロ大学(ブラジルの東大)予備校でトイレの便座に腰掛けたら、「USP(サンパウロ大)に入りたければ、日系人を一人殺せ。君がこうしてサボっている間、日系人は勉強している」という落書きがあった(友人の話)。別の予備校では「みんなUSPに入りたいか?入りたいなら隣のジャポネスを殺せ!」と叫ぶ先生を見たという証言。

え?あんた、言うてたことと違うじゃん?
と読者がドン引きするのを見越してか
「最初の項に書いたように、ブラジル人の本性は優しいと思う。普段はこんなことは口が裂けても言わない。そんなブラジル人をここまで悩ませる学業優秀な日系人たち」とフォローしている。
普段はこんなことは口が裂けても言わないのは、アンタが日本人だからでしょwしかも駐在のwと思わず突っ込んでしまう。

著者はブラジルの人種差別が少ない理由として、混血がすすんだことと関係があるとする。
「ブラジルの古い諺に「白人女は妻にするため、混血女(ムラータ)は寝るため、黒人女は仕事をさせるため」とあるように、(白人と)混血女性との混血がどんどん進んだ。そうなると人種差別の意識も薄れてくるのが道理」というが、ハァ?男は差別している相手とでも寝る。ただ妻にしないだけだ。
日本軍の兵士は朝鮮人の娼婦や慰安婦とも寝てたから、日本男性は人種差別意識のない人種民主主義者といわれても納得感ないように、「誰とでも寝る=差別がない」では納得感はない。

あと不思議なのは、ブラジルは混血がすすんだ、混血がすすんだという割にブラジルの人種構成は「白人(ポルトガル、スペイン、イタリア系など)が約五割、混血が四割、黒人が6%」であること。
え?混血と黒人少なくね?
思ったんだけど、難しいのは人種の定義である。

つまり混血がすすんだ場合、「白人」「ムラータ」「黒人」を選ぶのはかなり適当というか、自分の趣味によるんじゃないかということだ。
例えばベッキー(父イギリス人、母日本人)だって、イギリス系ということで「白人」を選ぶこともできるだろうし、「ムラータ」を選ぶこともできるだろうし、オバマ大統領(父黒人、母白人)が黒人になったように、「黄色人種」「アジア系」を選ぶこともできる、ということだ。

つまりブラジルにおいては、極端な話、兄弟で人種の自己認識が異なる、なんてこともあるんじゃないか。黒人やムラータが少ないのは、実は黒人やムラータという自己認識をしたくないからではないか。
そんな勘ぐりをしてしまう。

最近のブラジルの国勢調査によれば「総人口1億9073万2694人のうち50.7%が、黒人もしくは混血」らしい(2012年1月のGloval Voiceの記事)。
自分自身を黒人もしくは混血と説明するブラジル人の割合が2000年の国勢調査の44.7%から2010年の50.7%に増加したというらしい。
同記事によれば「我が国の歴史においてアフリカ的文化の重要性の認識度や、黒人にルーツを持つことを誇りに思うブラジル人の数はここ数年で増加している」そうだから、自己認識を変えればもっと、混血や黒人は増えるかもしれない、と思う(もし著者の和田氏がいうように、白人男が人種かまわず誰とでも寝ているのなら)。

同記事を読みすすめていくと、
「97%のブラジル人が人種的な偏見を抱いていないと主張しているが、同じ調査を受けた98%の国民が偏見を抱いている人々を知ると回答した調査結果を忘れてしまいたい」
という文章が出てくる。はいはい、あのUSPの予備校教師ですね、わかりますというやつだ。

いや、私はフレイレの歴史的業績をなみするわけでもないし、ブラジルには「実は根深い人種差別がある(しかし、人種民主主義の名目のもと、差別の存在を明らかにすることも許されず、黒人の悲惨な待遇は自己責任扱いになってきた)」と主張したいわけではない。
ただ、著者のいうことは一面的すぎると思う。

「ブラジル人は子供に優しい」という項の説明もそうだ。
「「子供は社会の宝」という気持ちは、(日本より)ブラジルの方が強いかもしれない」とあるが、それは白人中流家庭以上の「我が子」に対する気持ちだけであって、子供全体に対する意識は低いと言わなくてはならない。その理由については省くけれども。

まぁこんな風に私と著者とでは感性が違うから、頷きながら読むことはできなかったけれど、色々な情報がコンパクトに詰まっているから一読の価値はあるかもしれない。知らないこともいっぱいあった。

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09月28日(金)

起床時刻:10時00分

最近、セイタカアワダチソウを見なくなった。
東京にいるから見ないのかと思ったけれど、母親に聞いたら「うちあたりでも少なくなった」と言う。
私が子供の頃すなわち昭和時代の筑後地方においては、空地という空地には大きなセイタカアワダチソウがわんさか生えていた。

加えて母によれば、何年か前に出た五木寛之のエッセイでも、日本の風土に合わせたのか、セイタカアワダチソウが小さくなってきた、とかなんとか書いてあったらしい。

かつて、その旺盛な生命力から悪しき外来植物(帰化植物)の代名詞の如くいわれ、更には「花粉症の原因」説も出て(見るからに花粉飛んでそうな花なんである)、蛇蝎のごとく嫌われたセイタカアワダチソウが、今や小さく、少なくなっているとは(別にちっとも惜しかぁないが)。

その疑問が『身近な野の花のふしぎ 庭に咲く花から野山で見かける花まで、彩りあふれる世界へようこそ』(森昭彦/サイエンス・アイ新書/2010.5.25)を読んで氷解した。

セイタカアワダチソウは根っこでつくる地下ネットワークが発達していて、ここから分泌される「なわばり宣言物質ポリアセチレン化合物」が、ほかの植物の成長を阻害し、あるいは種子の発芽を抑制しているんだそう。だから爆発的に増えたんだね。
でも、セイタカアワダチソウが無敵に思えたのも束の間、「いまや都市部を中心にして減りつつある」と著者も言う。

二つ理由が挙げてあって、その一つは、在来種のススキがさらに強力な”なわばり物質”を持っていて、本種を駆逐してしまうから(でも、都会だとススキもそんなに見かけない気がするけどなぁ。私がススキに甘くてそれほどチェックを入れないせいなのか)。

もう一つの理由は自分の化学物質によって自家中毒を起こしたからなんだって。

著者によれば、セイタカアワダチソウは「ミツバチや生物たちの貴重な蜜源植物としても見直され、美しさも相まって、渡来後100年を経て、ようやく本来の姿が再認識されてきた。周囲の思惑に揺さぶられる、悲劇のヒロインさながらの波乱万丈な暮らしはまだまだ続く」とのこと。

あんなただのクソ雑草であるセイタカアワダチソウのことを「悲劇のヒロイン」なんて言ってくれる人は森さん(著者)くらいじゃなかろうか。
きっと優しい人なんだろう。

『身近な野の花のふしぎ』は、著者の優しい性格が垣間見える本で、童話チックというのか、メルヘンチックというのか、ポエムチックというのか、「草間の陰から、はにかむように頬をそめて、「あら、見つかっちゃった」と咲いている。キチジョウソウは足元に転がる”ささやかな幸せ”そのもの」とか「女の人が書いたんだよな?」思わず確認してしまった(でも昭彦さんだから男だろう)。

まぁでも雑草じゃなかった「野の花」もそれとしてみれば、かわいらしいものが多いもんである。駆除対象だったら憎たらしいけどなw
オールカラーで見るだけでも和むこの本が千円以下なのだから、お買い得ではある。

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09月27日(木)

起床時刻:08時00分

09月26日(水)

起床時刻:11時00分

夫、会社休み。
夫と一緒にいると鬱っぽくなってくるから、私はなるべく夫と一緒にいたくないのだけど、向こうはずーっと私と一緒にいたいらしい。

買い物だって映画だって、私と一緒に行きたがる(私みたいに一人で行けや)。
で、私はうっかり、夫の逆鱗に触れてしまって、夫を怒らせてしまう(ま、店員や赤の他人が夫の逆鱗に触れることもあるんだけど、夫は他人には絶対にいい顔すんだよね。で、あとで私に文句いいまくる。私が一緒になって怒らないと怒りの矛先はこっちに向くし。うぜぇ)。

夫というのは子泣き爺みたいなもんで、「敵(妻)にしがみつくと石に姿を変え、体重を増加させることで動きを封じる」。「地雷をしかけたから、動くな」のメッセージねw

ま、こちらも妖怪子泣き爺に依存して生きてるんだから文句を言える立場でもないんだけどねw 
誰のおかげでメシが食えてるんだと言われれば、もちろん旦那様のおかげでありまして、感謝の気持ちでいっぱいですよ。何されてもくっついていくこの卑屈さ、ダメさかげん、夫じゃなくても殴りたくなるっしょw 

私もねぇ、夫の気持ちがわかるのよ。ほんっと私ってダメな奴じゃん?
この前「お前の取り柄ってなんなの?なんか一個くらいあんのかよ?」って旦那に聞かれたけど(たまに聞かれる)「ない」って即答したもんね。あえていえば、モノマネなんだけどwww 空気読んで言わなかったがwww あの空気の中で(めっちゃアウェイ)、都はるみはできないぞっ。

自分の下した決断で唯一私がよかったと思うことは子供を産まなかったこと、子泣き爺二号をつくらなかったことだ。家庭という地雷原の中に子供を放り込まなくてよかった。離婚して一人で子供を育てられるならいいけれど、私にはそんな勇気はないからね。

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09月25日(火)

起床時刻:08時00分

09月23日

起床時刻:14時15分

この日は急に寒くなった。

ひょんなきっかけでのぞいたFF11ブログ、SPRING SNOWさんがめっちゃおもろいwww
最新記事、「【FF11】分かる人には分かるはず、このやるせなさ」とかもう、笑いすぎてお腹痛い。
(特に「あぶないあぶない妖怪コントローラー場所崩しが現れた」とかねwww)

この方、フレとおぼしき、えふよんwさん(廃人)とファブニールやりに行ったらしい。
うちもやったわ、旦那につきあってファブニール死ぬほどやったわ、ニーズヘッグを沸かすトリガーの甘茶狙いだったんだけどね。
甘茶が全然出ないもんだから、溜め込んでいた神印章全部つっこんだ上に、魔人・魔王・獣人も神印章にかえて(3倍のレートで変えられる)、全部、つっこんだ。
旦那の欲しいやつ(なんだったか知らね)がなかなか出ないから、私ナニゲにヘカトンキャップもダルマティカもアダマンホーバークも持ってるんすよw

ま、モグハウスで一回着ただけで、倉庫につっこんでいるんですけどねw
アダホバとか、かつての超憧れ装備、廃人の証だったのになぁ。言ってみれば、おシャネルのスーツくらいの価値があった。それが今じゃ、しまむら以下だもんなぁ。

ま、それはいい。

ファブやってる最中に、ブログ主さんは腹痛くなってしまったらしい。
「男子の目の前で「うんこいいすかw」なんて口が裂けてもいえない…」というわけで、
「もじもじしながら、ううん、ううん、ああーやばい、ううーんふぁぶ終わるまでに耐えられるかなー、なんてウンコを抑える運動をしながらコントローラーぴこぴこやってたら、「エグゼンテレッテー」をおすつもりが「イオリアンエッジ」のボタンおしてた。いやエグゼンのマクロが腹がいたいせいでうまく動かなくてでも早く終わらせたいからWSうちたくて、じゃあ手動で、手動でうとう、えいや!!!!ってうったらイオリアンエッジだった。」

まじかwww

FFやってない人に親切説明しておくとイオリアンは範囲ウェポンスキルなので、回りでフラフラ飛んでいるトンボも巻き込んじゃうのね。
で、トンボがわらわらとリンク!!

ファブは普通に倒せたらしいけど、緊急事態で「うんこ離席」したあとに戻ったら全員死んでたらしい。
いやあ、私がもしイオリアンなんかしたら、確実に夫にキーボードで後頭部を殴られているなwww

そのあと、小一時間正座で叱られるわwww

えふよんwさんがいい人すぎるのか?
でもうちの夫もチョー外面いいよ!
夫が主催しているときは、下手クソなやつにも「どんまいw」とか言ってるもんね、でもPCのこっち側では「足引っ張ってんじゃねーよ、クソが、応募してくんな、ボケが!おいおい、クソダメージの雑魚がTPだけためてるんじゃねぇよ、あと後衛ど下手くそ、ケアルおせぇ、ヘイスト切れてる!まじ使えない、クソ臼が。何やってんだよ、こっちは盾やりながら指示出してんのにさあ。ったくよ~、主催に戦利品は全部差し出せよ、お前ら、主催できないクソピクどものくせに!」とか悪態つきまくりだからね(実際は「戦利品はフリーですので、ロットどぞー」とか言っている)。

そのあとも、ずーっと私に「あいつの動きが悪かった」だの、「お前もの動きもだ、反省しろ、バカ」だの、「主催の説明をきかない低能ども」だの、えんえんと文句を言ってるからね。

あー、私もどうせなら夫と離れてFFやりたいわー、九州と北海道くらい離れてFFやりたいわーw
もっとも、九州と北海道くらい離れたら、速攻でFFやめると思うけどwww

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09月22日

起床時刻:10時00分

昨日の夕飯はチーズ入りチキンカツ(できあい)、付け合せにキャベツの千切りとトマト、叩ききゅうりの和物、さつまいも入り筑前煮(さつまいも、鶏もも肉、にんじん、筍、レンコン、こんにゃく、ごぼう)、味噌汁(里芋、豚肉)だったんだけど品数が多すぎると怒られてしまった。
一汁三菜(カツ(キャベツとトマト)、きゅうり、筑前煮)だから多いとは思わないけど、味噌汁と筑前煮が返却されたw
やっぱり、牛丼+漬物とか、カレーだけ(だいたいサラダが返却されるw)とか一品料理が男は好きなのかなぁ。よくわからん。
何が食べたいかリクエストしてくれると楽なんだけど、そういうのは仕事のできないダメな奴なんだよなぁ。「何を必要としているか察する」のが営業のプロなんだろうけど(主婦も夫相手の営業ですからねw)、わたし、察する能力ゼロですからw アスペではなく、単なる鈍い奴なんだろうと思うけど(だいたいにおいて、私は障害レベルじゃなくて、障害の二、三歩手前なんだよな。だから全てが自己責任になるっていうねw)。

要望があったら、メールしといてくれればいいじゃん?って思うけど、そんなご負担をお客様におかけするわけにはいかんのだろう。でも実際のところ、人間関係を全部メールで済ませることができたらいいのにね。非常にクリアで楽チンだ。ま、世の中その方向に進んでいるようで喜ばしい。
*************
FFはもちろん、毎日やってる(仕方なくw)。武器メイジャンをテリガン岬でやってたんだけど、ゲーム内時間が日中のとき、ああいう砂丘系?(バルクルム砂丘とか)の場所って砂が白いから太陽光の反射がすごくて、プレイしながら目が痛くなってくる。雪景色(ザルカバードとか)も昼で晴れた日は画面がまっしろすぎて目が痛いときある。

パソコンの明るさを一番暗く設定しているんだけど(逆にデュナミスは暗すぎて見えないから、一番明るく設定するんだけど)、それでも明るい。
パソコン用メガネを買ってみようかなぁ。

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09月21日(金)

起床時刻:10時00分

『イカの哲学』(中沢新一・波多野一郎/集英社新書/2008.2)を読んでみた。『イカの哲学』とは「イカが語る哲学」ではなくて(当然だがw)、「イカに触発された人間(波多野)の語る哲学」である。

『イカの哲学』の内容を簡単にまとめると、イカの冷凍工場で働くうちに、「イカの親類縁者」のようになった著者が戦争の原因と平和の鍵を発見するお話だ。
そんならイカじゃなくて、サンマに触発されてもよかろうと思われるかもしれないが、中沢新一によるとイカであることが重要なポイントなんだそうだ。「イカが他のいかなる生物にもまして、生命をめぐる深遠な思考を、人間にうながす力を秘めているからである」
(お聞きになりましたか、池田先生@『イカの心を探る―知の世界に生きる海の霊長類 』)

中沢新一によれば、波多野は「イカが人類に伝えようとしている「教え」の一部分に、確実に触れていたのである」。なんか「イカの哲学」というより「イカの宗教」となってきたw

波多野の『イカの哲学』を要約しよう。
イカが網にかかって一度に数万匹も水揚げされるのは、イカにとっては「全く一つの原子爆弾のようなもの」である。イカの頭上に投げられた網と広島と長崎に落とされた原爆とは似ている。
一方で、戦争と漁業は違う。どこが違うのか?漁業は食べるためにするが、戦争の原因は思想の相違のためにする。
では「いろいろ異なった思想を持っている人間共の戦争を如何にしてなくするか」?そのためには「実存を知り、且つ、感じる」ことが大切だ。
「たとえ、それが一匹のイカの如くつまらぬ存在であろうとも、その小さな生あるものの実存を感知するということが大事なことなのだ。この事を発展させると、遠い距離にある異国に住む人の実存を近くするという道に達するに相違ないのだ」

従来のヒューマニズムでは「人間以外の生物の生命に対しても敬意を持つことに関心のない在来の人間尊重主義は理論的に弱く、そして動物たちと人間を区別しようとする境界線がとかく曖昧になり勝ちで」「戦争を食い止めるだけの力が無い」。

従って、お互いの実存をよく確かめあえば世界平和が実現するのである、めでたし、めでたし。

とまぁ、こんなとこである(波多野の文体が、童話チックというか、微笑ましいというか、ほのぼの系なので本文を読んでもらったほうがいいと思うが)。

そしてそのあとに中沢新一御大の絶賛解説が始まる。
「この本にしめされている思想は、生やさしい体験から生み出されたものではない」
「戦争と平和の本質が、深い生命直観の中で、考え抜かれている。しかもその生命直観は、かつてない激しさで戦われた現代戦争をくぐり抜ける体験の中で、鍛え上げられたものであり、平常態の生活の中で想像されただけの戦争論や平和論とは本質を異にしている」
「深淵な生命直観に裏付けられた、戦争と平和をめぐるこのような思考は、かつてもなかったものだし、それ以後にも考え抜かれたことがない」

とまぁ、中沢が波多野におくる賞賛の中で、波多野の戦争体験をやたらクローズアップしているのがわかるだろう。
大正11年にグンゼの創業者の孫として生まれた波多野は航空隊(いわゆる神風特攻隊)に入り南満州の基地に送られるが、出撃直前にソ連軍が侵攻し、そのままシベリアに4年も抑留される。シベリアでまさに地獄を見たあとにシベリアから帰還、スタンフォード大学(哲学専攻)で学ぶ。
昭和40年、42才のときに『イカの哲学』を刊行、しかしながら、脳腫瘍を発症し、46才の若さでなくなっている。

中沢はバタイユの生命論を出してきて『イカの哲学』を解説する。
「生物には自分を非連続な個体として維持しようとする面ばかりではなく、むしろ非連続であることを自分から壊して、連続性の中に溶け込んでいこうとする強力な傾向が隠されていることを、バタイユは見出して、それを「エロティシズム」という概念でとらえようとした」。
「生命は非連続な個体性を自分の力で生み出し、維持しようとしている。ところが生命の内部にはそれを壊して連続性を引き入れる原理が隠されていて、生殖の瞬間に、この隠された原理が表面に躍り出てくるのだ」
「生命には、自己と非自己を分け、異質な非自己を自分の外に排除して、遠ざけておこうとする働きが深いレベルでセットされている」一方で、人間の場合は「生命的な自己は、言語がつくりあげる「私」という幻想の主体に姿を変え、それをもとにして社会がつくられる」。この側面を生命の「平常態」と中沢は名付ける。
生命には「平常態」と「エロティシズム態」という二つのモードがあり、エロティシズム態から芸術、宗教、戦争が生まれた。しかしエロティシズム態から生まれたプリミティブ戦争は国家の誕生によって性質を変えた。
「国家が生まれる前の戦争では、個体性を壊して、自分の中に連続性を引き入れるために、戦争が行われた。ところが国家は、領土や資源の保有や権力の拡大のために、つまり自分の個体性の拡大や維持をするために、「戦争」の原理を自分の中に組み込んで利用した」

そして中沢は「ここまで語ってくれば、生命と知性のエロティシズム態から直接に、人類の心に生まれてくる戦争が、私たちの中に生き続けている「イカ的なもの」と深いつながりがあることを、ご理解いただけたと思う」というが、ご理解いただけるかいw

せっかく波多野が「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ~!」とわかりやすく語ってくれたのに、なーにがエロティシズム態だ。

ま、理解していないなりに、私の言葉で言えば、エロティシズム態っていうのは人間のプリミティブな部分で、平常態っていうのは分析的・合理的な部分であろう。
白血球がウィルスを攻撃するように、人間は異質なもの(非自己)を攻撃する。乃ち、人間の本能的な部分に戦争は組み込まれている。そして平常態=合理的・分析的自己の考える反戦思想(ヒューマニズムに基づく反戦思想)は、本能的な反戦思想(乃ち、「みんな、みんな生きているんだ」という生命直観)よりも弱い。と、まぁこういうことだろう。

中沢に言わせれば、エロティシズム態から出た反戦の感情は、ふつうの市民感情から生まれるそれよりずっと深く、強力であるそうな。戦争の原理が生まれる場所から平和の原理が生まれる、そして「エロティシズムは、戦争のその先に愛を生み出す。しかも愛は戦争に優っている。<略>女性が敢行する愛にあっては、自分の固定性の安全を危険にさらしながら、自分にとっては異物であり他者である別の個体を守り育てるのである」。

そのあと、エロティシズム態における「超戦争」(「エロティシズム態の知性の生み出した戦争が、自ら設けてきた限界を超えてしまう」ような戦争。原爆の投下も含まれる)と「超平和」(憲法第九条)が語られるが、そこは割愛しよう。

私が中沢に共感しないのは、中沢は「戦争を乗り越える原理は戦争を生み出す場所=エロティシズム態から生まれ出る」というが(バタイユはこれを見落としていたそうな)私はそう思わないからだ。

エロティシズム態が予想外に強力であるというのは、さまざまな認知の二重過程モデル(イカ的自己と平常態的自己)で明らかになっている。「戦争と平和」はイカ的自己をみつめることからはじめるべきだというのは大賛成だけれども、「他生命への共感」がエロティシズム態に備わっているかどうかについては疑問だ。
ましてや、イカへのエロティシズム共感が高まり、もはやイカの親戚みたいな気分になるには、相当の素質が必要だ。普通の人には難しい。中沢もいうように「思想的なジャンプ」をしなければ「超戦争」に対応する「超平和」は現れない。イカによる宗教的啓示があれば、私もその域(あらゆる生命へのエロティシズム共感を抱く「超平和」の境地)に達するのかもしれないが、今のところ、はるか下を蠢いている。

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09月20日(木)

起床時刻:08時00分

2日前くらいの朝のニュースで見たけれども、中国の反日暴動(デモっていうんだっけ?)はすごいみたいだね。

私が独裁者だったら、巷間あふれる「説得する技術」系本の著者たち、あるいは「アサーション・スキル」や「コミュニケーション・スキル」を教えてくれる本の著者たち、あるいは「対話(と「共生」)好き」な人たち(「オープンで、内省的かつ共感的な聴きかた」でありとあらゆる問題を解決できると主張する人たち)を最前線におくりこんで「説得」あるいは「アサーション」あるいは「対話」とやらをやらせたいわいw
あの場で「さわやかな自己表現」やら「自分も相手も大切にする自己表現」やらができるのか、とくと見てやるよw

ま、一番最後の「対話」グループは、「尖閣は中国のものです」って説得されて戻ってきそうだがなw もちろん、尖閣が中国のものと全面的に認めれば紛争は解決するから、自分のキャッチコピーに「尖閣問題を解決に導いた対話力」とか入れることができるわけだw(もちろん、他にいくらでも反日のネタはみつかるだろうけどね。ガス抜きの手段でもあるだろうから)。

私に言わせれば、暴徒と化した反日デモのような、集団ヒステリー状態の男たち(ま、女もいるが)を言葉で説得するのは、ほぼ100%無理である。
フーリガンにせよ、テロリストにせよ、頭に血が上った男はどうしようもない。
犬養毅首相はヒステリー状態の青年将校らを応接室に案内し「話せばわかる」と言って「対話」しようとしたが、結局殺された。
ヒステリー時の男っつうのは、檻に入れて好物のバナナでも与えてなだめるしかない。
難しいのは、既にヒステリーおこしてキィキィ言っている男は「対話」すら、「俺にバナナを与えようとしているのか!!バカにすんな!!」と思うことなんだよね。
プライドだけはエベレストよりも高いのがヒステリー症の男だから、「バカにされている!」と思うと暴走しちゃうんだよね。
だから、わからないように相手を立てつつ、こっそりバナナを与えるしかないんだよなぁ。

平常時の男が必要としている言葉は相槌と賞賛(「そうなんだ」と「すごいね~」)であるが、ヒステリー時の男が聞くことができる言葉は承認と謝罪だけだ(「あなたがただしい」「ごめんなさい」)。
「でも」も「ヘチマ」もない、俺がただしい、お前が悪い、謝罪しろ、え?謝罪の声が小さい!!もう一度!!
っていうのが、ヒステリー男の主張なんだから、ユニクロ上海店的対応(「支持釣魚是中国固有領土」とショーウィンドーに貼る)しかできないだろう。仮にショーウィンドーに古い人民日報(尖閣が日本の領土であることを前提に書かれているような記事)を貼り付けたとして、「そうなんだ、へぇ~」と誰が納得するであろうか。「騙されんぞ!」と余計に燃え上がるであろう。

そもそも「お客様は神様」なんだから、仮に自分の考えと違っても、「さようでございます」と言うしかない。
もし神様同士の意見が対立したら?そのときは金と力のあるほうの神様の言うことを聞くしかない(この場合、「中国人民の将来的な購買力(市場規模と市場成長性)」と「暴力による被害(中国人の暴力や破壊行為が及ぶ可能性と、東京のユニクロがこの張り紙の報復として日本人に破壊略奪行為をされる可能性を比較考慮した場合、前者の可能性がずっと大きいだろう)」を考慮すればこれが合理的な対応になるだろう。
アウディなんか「日本人を皆殺しにする。何が起ころうと尖閣諸島は譲らない」っつう弾幕を販売店の前に掲げてたらしいぞw アウディは関係ないと主張しているけれども、どっちにしろ、中国人には受けるし、日本のアウディの不買運動は起こらんのだから、販促活動の一環なのかもしれんがな)

「説得」やら「コミュニケーション」やら「対話」やらは全て意味がない。意味があるのは「金」と「力」だけである。と私は思うけどね。

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09月19日(水)

起床時刻:12時15分

映画『プロメテウス』は「異星人(通称"エンジニア")が人類を創造したと主張する科学者らが、2094年に宇宙船でエンジニアのいると想定される星に行き、どエライ目に遭う」という話だ。

映画自体は若干ついていけないというか、若干「ぽか~ん」となったけれども(もっとも旦那は「よかった」と言っていた)、「エンジニアがなぜ人類をつくったのか」について勝手に考えてみた(エイリアンは別に天使ではなく、人間と大同小異の精神構造をしていると想定している)。

『プロメテウス』に出てくるアンドロイド(男前ですっごい賢い。宇宙語を独学マスターしているw)は科学者の一人に「なぜ人間はアンドロイドをつくったんでしょうか」と聞く。
すると科学者は「さぁ?作れたから作ったんじゃん」みたいに答えたんだけれど、確かにそれも「人類創造の動機」になるだろう。

科学者の目標は、仲間内で「すっご~い!」と言われることだと思われる。原爆をつくる、水爆をつくるっていうのも、「え?お前、あれをつくれんの?すご~い」って言われたいからだろう。作るのことの是非なんて関係ない。だって自分が作らなかったとしても、誰かがどうせ作るじゃん?それなら最初につくった人という称号をもらったほうがいいじゃん?の論理である。
これはでも、科学者に限らないだろう。ハッカーだって、「え?お前、あれをハッキングしたの?すご~い」ってハッカー仲間に言われたいがために犯罪行為でもやってのける。
だから、「俺、人類作れんだぜ」「すっご~い!」のために人類を作ったとしてもおかしくはない。

とはいえ、人間がロボットをつくる一番の目的は、作業用だ。
危険な仕事やきつい仕事を人間の代わりにやらせるためにロボットをつくる。
次の目的は、愛玩用だ。ペットのように、可愛がるために存在する。あるいは「性欲処理用」か。
「ブレードランナー」ではそうだった。

だけれども、異星人(エンジニア)は遠い星にいて地球人を使役するわけでも愛玩するわけでもない。
となると、この目的はなりたたない。

私のイチオシの目的は「実験用」だ。
例えば京都大学では約1,400世代にわたって暗室で飼育しているショウジョウバエがいる。遺伝子の変化を調べるためだ。
ショウジョウバエだから、約1,400世代でも57年間だけれど、人間の1世代の発生に 20年が必要とすれば、1,400世代は28,000年となる。
人間はエンジニアにとってのショウジョウバエってことだ。
人間の28,000年はエンジニアの57年間にすぎない。ひょっとしたら、エンジニアにとっての5年かもしれない。

まぁでも、エンジニアクラスのスーパーテクノロジーを持つ人たちは今更実験によって進化論を直接的に確かめる必要はないだろうから、これは進化の実験というより、歴史のシュミレーション用ね。
異星人たちはどこかで大戦争みたいなことをして絶滅しかけるわけね。
そこで自分らのミニチュア版みたいな人間をつくり、母国と似た環境に送り込み、どこで歴史を間違えたか、あるいは歴史には別の可能性もあったのか、実験室=地球でつむぐ歴史を見て確かめたいわけね。
と自分で書いておきながら今思ったけど、スーパーテクノロジーを持っている異星人たちが今更、そんなめんどくさいことをしてなんにもならんなw。
異星人学者の暇つぶしになるくらいだw 

そっか、「暇つぶし用」ってのもあるな。
「As flies to wanton boys are we to th' gods,They kill us for their sport.」じゃないけど、あるいは「トゥルーマン・ショー」じゃないけど、異星人たちはどこか遠くから地球で起こることを見ていて、戦争が起こるか起こらないか、国が滅びるか滅びないかなどで金をかけて遊んでいる。
ちょっと退屈になってくると、人間に悟られないようにキーマンを少々操り、残虐な戦争や拷問シーンを加えたりして、「見せ所」をつくる。
異星人たちも血が大好きだ。今、人口爆発で人間が急増しているのは、将来の大量虐殺シーン(地球リアリティTV史上、最大の規模!絶対に鳥肌もの!)を見るために、増やしているとかね。
最後は地球が爆発するかなんかの壮絶なエンディングを異星人プロデューサーは想定しており、観客の異星人たちは「本当にすごかったねぇ」「あの迫力はびっくりだよねぇ」と言い合う。フェイクではなくリアルだから面白いというわけね。

まぁ、でもどっちにしろありきたりでつまんないねぇ。もっと斬新なのがいいな。

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09月18日(火)

起床時刻:08時00分

「私がうどんをすすれない件で夫が激怒www」事件が連休中に起こったので、会社で「麺 すすれない」でぐぐってみたら、「俺が麺類をすすれない件で親父が激怒www」というスレが2chのまとめサイトにあった。

同類発見www

2chのいいところは、「世の中にはいっぱいダメ人間がいる」ということを確認できることだな。
自己肯定感の低い日本人にとって、2chは「精神安定剤」と言っても過言ではなかろう。心のチキンスープってやつですよwww
(日本人学生の自己肯定感の低さはこの日記でも、過去言及したけれど、2010年実施「高校生の心と体の健康に関する調査」でも(いずれも「全くそうだ」の比率)、「私は価値のある人間だと思う」:日本7.5%、米国57.2%、中国42.2%、韓国20.2%。「自分が優秀だと思う」:日本4.3%、米国58.3%、中国25.7%、韓国10.3%。
とまぁ、自尊感情が著しく低いんですねw 私に言わせれば「価値ある人間」「優秀な人間」なんて人口の1割に満たないのが普通であって、日本以外の国の高校生の認識がむしろ歪んでいると思うがなw たいていの人間がなんの価値もなければ優秀でもないんだよw)

話がずれちゃったけれども、日本では麺類はズオオ~~~ッと排水口が水を吸いこむごとく、大量にすすりあげて食べるのが「マナー」であって、私のごとく、一、二本ずつチュルチュル食べるのは、マナー違反なんだそうだ。
そして、だいたい5分以内に完食するのが望ましいとされる。

夫が
「どういうしつけをしたら、そんなマナーの悪い食い方になるんだ!!」
「お嬢様ぶっているのか?ガサツな貧乏育ちのくせに!!腹ただしい!!」
「不味そうな食い方をする女をみるとぶん殴りたくなる!!」
「食べるのが遅いのもマナーがなっていない!まわりのことを考えていないからそうなる!!」
などなど、長々と文句を言うので、「わかりました、すみません、麺類を吸い込む練習をしますから」と約束したわけだ。

というわけで、麺類を啜れないダメ人間の皆様、私の調べたところによりますと、その原因はこういうことだ。

①経験不足「これまですすって食べたことがないのでやり方がわからない」
②身体の問題1「呼吸や咀嚼の機能が不十分なのですすることが難しい」
(「鼻呼吸と口呼吸の使い分け」が苦手な人は麺類を啜れないことが多いらしい)
(以上①②は「高橋矯正歯科クリニック」による)
③身体の問題2「喉が細く」「小柄でやせていて呼吸筋が弱い」
(「そばをうまくすすれない」女性が多い理由 Excite Bitによる)

ちなみに私は喉が細く、小柄ではないがやせていて呼吸筋も弱い。

私が思うに、それに付け加えて

④単なる不器用(探偵ナイトスクープによれば、麺類を啜れないのは呼吸筋の問題ではない。口を口笛を吹くような形にして麺を吸えば誰でも啜れるんだそう。でも私、口笛吹けないんだなw)

⑤単なる不器用その2(だいたい麺をすすらなくなった理由は、汁をはねちらかして、洋服にシミをつけまくるからである。器用な人間ならズルズル啜りまくっても、洋服にシミをつけない。従って、不器用な人間でシミをつけたくない人がすすることをやめ、その結果、啜らないのが癖になってしまったのだ。←私のケース)

⑥少食(そもそもそんなに食欲がない。従って、麺類の正統派な食べ方である「ガツガツ、ズルズル、ズオオッ」をせずに、ちょこっとずつ食べるということになってしまう。女の人のチョコチョコ食べはそういうところにあるんじゃないか)

⑦外国人説(麺は音をたてるのがマナーになっているが、西洋はもちろん、音を立てて食べてはいけない。アジアでも日本以外の国々、即ち中国・台湾・韓国・ベトナム・タイなどでも、麺類は音をたてて食べちゃいけないんだって!(知恵袋でみた情報だから本当かどうかは知らない!)
日本では麺だけではなく、お茶も音をたてて飲むのがマナーだとされている(かもしれない)。というのも裏千家の先生が、ずずずーっと飲んで、最後、ずずっと音を立てて飲みきっていたからだ。
ちなみに私は麺類もお茶のずずずーも、味噌汁のずずずーもあんまり好きではない。ひょっとしたら、外国人なのかもしれない)

ま、しかし郷に入らば郷に従えで、今日からずずずーっの練習しますよ。
(と思って会社のそばの蕎麦屋に行ったら休みだった><)
それにしても、食事は一人で食べるのが一番いいねw
(ま、食事以外でも一人が一番だがなw)

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09月17日(月)

起床時刻:不明

この日は祝日だった。めんどくせぇ。
『ブラック・スワン』のDVDを借りて見た。
これは「真面目で頑張り屋のバレリーナが、頑張って主役をゲットしたけれども、実力以上のことをやろうとして、精神に変調をきたす話」なんだね。

この子はね、完璧に間違えずに踊れるんですよ。
でね、芸術にありがちなんだけど、「完璧なんだけど、なんか違う」ってえらい人(演出家)から言われるわけですよ。エロスが足りない的な?官能的じゃないみたいな?

この「なんか違うんだよね」ほど、人を追い込むものはないよね。
間違えてもいない、完璧にやっている、なのに「なんか違う」。

普通の仕事でもあるじゃない?「なんか違うんだよね」って言われても、その「なんか」がわからないから、いくら修正しても「違う」って言われる。そして自分でも「なんか」がわからないから、努力の方向性が見えない。見えない海でもがいているみたいな?だから余計消耗する。

ミスタッチなら、練習時間でカバーできる。
経験不足なら、経験でカバーできる。
でも「なんか」は永遠にカバーできない。
「なんか」がある人は最初からそんなこと問題にもならないし、「なんか」がない人は永遠に「違うんだよね」と言われて終わり。どうしようもない。

諦めるしかない。あるいは「なんか」があるふりをするか。
ま、たいていの人は騙せるもんだけどね。
真面目な人の場合は、「なんか」のない自分を否定しつくしかない。自分を殺すことだね。
「なんか」がある自分に生まれ変わるには、今の自分を殺すしかないもんね。

普通は一気に自分を殺せないから、じわじわと諦める、じわじわと死んでいくってことになるんだろうけどね。ま、どっちにしろ、人生ってのはじわじわと死んでいくことではあるけれどもw

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09月16日

起床時刻:不明

いやぁ、久しぶりに旦那にボコられたwまーた、ゲームが原因なんですけどねw

ズヴァール城外郭にバラードII狙いでcoffer開けに来たんだけど、私は地図が読めないんすよwしかもバカだからマップのつながりが全然覚えられないのw

ズヴァール城入って二番目のマップ、そこに4つ丸い穴がある。穴から下に落ちると次のマップで、その第三のマップに鍵を落とす敵(アーリマンとか)とcofferが出現する。cofferは四隅の部屋か、真ん中に落とし穴のある通路のほうにわくんだけど、どこから落ちても行けるってわけじゃない。
四隅の部屋に行くには中心から一番離れたところから降りなくちゃいけなくて(即ち四角形の角に近いところ)、中心の通路のほうに行くには中心に近いところから飛び降りなくちゃいけない(多分。違ってても知らん。未だによくわからんwww)。

よくわからんから「ここかな?」って適当に降りてたら「ふざけんな、てめぇ!!なんで人のいうこと聞かないんだよ!!中心に向かって飛べって言っただろうがよぉ!なんでその通りにしないんだよ!!このバカ!!」つって頭を叩かれたwww
そのあとは「反省しないからいつまでも成長しない、四十になってもバカのまま」の持論の展開であった。

うちの旦那は、いつになったら、「私は今までも、これからも、ずっとバカである(むしろ、もっとバカになる可能性が大である)」ってことをわかってくれるんだろうか。私はバカな鶏と同じで、いくら説教しても無駄なんですよ。反省するしないにかかわりなく。

旦那のように優秀な人は諦められないんだよねぇ。私は自分のことをとっくに諦めているのになぁ。バカは何をしたってバカなんだけどねぇ。

話が変わるようだけれども、人間は万物の霊長であり、この地球で一番えらいっていうことになっている。家畜なんかは、人間さまが殺して食うためだけにどこかに閉じ込められ、自由を完全に奪われているのだが、こんな残虐極まりない扱いが許されているのは、家畜が人間さまより一段も二段も下の存在だからだ。違う?

じゃあ、なんで動物が人間よりも一段も二段も下なのか?
その理由は「動物はバカだから」である。
「動物は人間よりも知能が劣るから、人間と同じ扱いをする必要はない」というわけだ。動物は知能がほとんどないから、植物や鉱物、石油みたいな「資源」扱いでOKというわけだ。違う?

じゃあ、人間でも知能が劣る人は家畜扱い、モノ扱いしていいのだろうか?
知能の劣った人間より、ずっと賢く、性格もよく、人様の役に立っている犬やら家畜やらはいる。では知能が動物並(動物以下)の役立たずの人間は犬畜生の扱いで十分なのか?家畜小屋に押し込めて肉骨粉でも与えとけばいいのか?

そうはならないんだよね。
それはなんでかって考えると、「人間という階級に生まれたのがすでにえらい」からなんだよね。
貴族がえらいのは資質とは関係ない、貴族に生まれたからえらいのと同じように、人間がえらいのは資質とは関係なく、人間に生まれたからえらいのだ。だから、溺れかけの犬10匹(社会に役立つ立派な使役犬たち)と人間一人(ろくでもない社会不適応者)のどちらかしか助けられない場面がいたら、人間一人を助けなくちゃいけない。資質なんか関係なく。違う?

家畜が悲惨な扱いを受けるのは家畜階級に生まれたからだ。もしペットに昇格すれば、人に準ずる扱いを受ける。名誉白人という言葉が昔あったが、ペットすなわちアニマル・コンパニオンは「名誉人間」なのだ。だから、名誉人間を殺して食ったり、ボケたからといって捨てたりするのは「人倫にもとる」と怒られるわけだ。違う?家畜は平気で殺して食べるのにねぇ?

「犬は牛や豚よりも賢いから、準人間なのだ」?でも猫は多分、豚よりもバカだよ?だけど、猫牧場なんて作って殺して食べてたりしたら、怒られるだろう。猫が準人間扱いなのは知性ではなく、ペット階級という準人間階級に生まれたからだろう。

とかまぁ、そんなことをふと考えたりする。買い物の行き帰りなんかにね。

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09月14日(金)

起床時刻:11時00分

09月13日(木)

起床時刻:08時00分

『鉄道と国家 「我田引鉄」の近現代史』(小牟田哲彦/講談社現代新書/2012.4)を興味深く読んだ。
「日本の鉄道は成立当初から政治的要素を強く帯びて」いると「まえがき」に書かれているように、日本の鉄道の歴史は政治と深く関わっている。鉄道史は政治史でもあるが、著者のバランスのよい記述に好感を持った(もっとも、私と著者の考えが近いために「バランスがよい」と感じただけで、別の立場の人が読めば「偏っている」と思うのかもしれないが)。

日本の線路幅(ゲージ)は「狭軌」(1067mm)を採用しているが、国際標準軌は1435mmである(新幹線は国際標準軌である)。
なぜ日本は「狭軌」を採用したのか、その歴史的経緯について語られるのが一章。

続く二章では、明治以来の鉄道政策における重大な争点、即ち軌間の異なる鉄道建設の是非をめぐる争いが語られる。
明治末期から大正時代にかけて、主として農村の有力者層を基盤とした立憲政友会は建主改従論(簡単に言うと、「安上がりの狭軌の線路をまだ鉄道のない田舎にいっぱいつくろうぜ」という立場)を主張。
一方、これと対立したのが、都市部を選挙基盤としていた憲政会で、改主建従論(簡単に言うと、「安全性や輸送力に問題がある狭軌を広軌に変えようぜ、田舎に鉄道なんかつくっても赤字になるだけじゃん」という立場)を主張。
今も昔も日本は変わらず、政権が変われば、政策がコロコロ変わっていたのである。

そして戦後。この有為転変を知る佐藤栄作(元鉄道官僚)は大蔵大臣として新幹線計画をサポートするために、世界銀行からの借款を発案する。
世銀との借款契約では当該国政府がその事業を継続する義務があったから、内閣が代わっても事業を中断できなくなることが狙いなのだ。内閣が変われば、「新幹線の建設は無駄遣いである」として中断される可能性があることを見越した上での決断である。

著者は「我が国の広軌改築論の興亡史を顧みれば、蔵相としての権限を最大限に利用し、世界銀行を巻き込んで新幹線計画を国内政争から切り離そうとした佐藤栄作の発想こそ、計画実現に最も不可欠な存在だったとも言えるのではないか」と述べている。

第三章では「「我田引鉄」で生まれた鉄道」、第四章では「政治が生み出す停車場」について述べられる。
第四章、岐阜羽島駅のくだりが興味深い。
当初、東海道新幹線は「岐阜飛ばし」じゃないけど、岐阜は通れど停車駅がなかったのだ。
そこを「駅をつくらなければ岐阜県内を通過させぬ」という「政治圧力」をかけて岐阜羽島駅をつくらせたのが大野伴睦老であり、まさに「政治駅」であるとしてマスコミが叩いたのだった。
しかし、真実は違うのではないか、と著者は関係者の回想を引用しながら推測する(詳しくは買って読んでください)。

第六章では「日本の新幹線は中国へ行くべきだったか」について述べられる(著者はもとから反対の立場。詳しくは(ry)。

政治も経営も、選択と決断の連続である。
予算の制約下、「狭軌にするか」「広軌にするか」、「建設を先んずるか」「改良を先んずるか」、「赤字路線を廃止するのか」「赤字でも走らせるのが公共の福祉なのか」、「中国に技術輸出するのか」「しないのか」などなど、難しい判断を迫られる。

何が正しくて、何が正しくないか、はっきりいってわからない。
その当時、あるいは十年後からみれば正しくとも、五十年、百年の後にみれば誤りであることもあるし、その逆もある。
また判断の際、マスコミや世論などというものは最もあてにならないものである、ということも歴史を見れば明らかだろう。

ま、私のする「選択と決断」なんて、お昼をうどんにするかそばにするか、おやつを食べるか食べないか、くらいだから、悩む必要もないんだがw。

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09月12日(水)

起床時刻:10時00分

09月11日(火)

起床時刻:08時00分

少し昔の翻訳を読むと、「貴族の奥方が下町のおかみさん風な話し方をしているなぁ」と思うときがある。
『感情教育』(フローベール)の山田(やまだじゃく。母は森茉莉、祖父は森鴎外)の翻訳(河出文庫)も「おかみさん風」である。

以下具体例。
『感情教育』主人公の母親(モロー夫人)は「いまは家系が絶えたが、さる由緒ある貴族の出だった。親の言いつけで平民の家に嫁いだ」が、夫が死んで「そのあと、傾きかけた資産が残った」という人である。
この由緒ある貴族出の貴婦人が息子に「で、どうだったい?」と話しかけるのである(P21)。
「で、どうだったい?」!?

そのあと「ああ、あんたの例のお友だちかい」
「いま、いったい何時と思ってるのかねえ!」
「じゃ、あんまり遅くならないようにおしよ」
等々言うのだ。

一方で、(性的対象となるような)比較的若い女性は
「なんでしたかしら?」
「わたくしもごいっしょしますの?」
「どうしてらしって、あなた?あたし、退屈してます」
などといわゆる女性らしい言葉遣いをしている。

はて。どうしてモロー婦人は「なんでしたかしら?」ではなく「どうだったい」なんだろう?

考えられるのはいわゆる女言葉(てよだわ言葉、~かしら、~の)が比較的新しいもので(今でいうギャル語みたいな感じで)、1920年生まれの山田の時代においては、いい家だろうがなんだろうが母親世代は使わなかったのかもしれない、ということだ。

『女ことばはどこへ消えたか』(小林千草/光文社新書/2007年)に引用された『浮世風呂』(1809年刊行)の江戸期の奥様のやりとりを一部抜粋すると(漢字も適当にかえている)、
「さようさねぇ、一体また、子供の喧嘩を取り上げるは悪うございます」
「はいさ、さようさ、わたくしどものあたりでも泣いて来ると叱ります」
「何でも厳しいにしくはございません」
「いえもう、余所のお子にけがでもさせ申してはすみませんから、負けて帰るほうがよいのさネ」
「あいさ、弱虫が世話なしでようございます」
といった風な会話があげられている。

丁寧語の「ございます」「ございません」が目立つ他、ここでは「~わ」「~の」などは使われる気配もない。
その変わり、「~さ」が目立つ。「はいさ」「さようさねぇ」など、これは今では「おかみさん風」と認識される言葉であろう。

小林によればこの間投詞的に用いられた「さ」は「ございます」「ます」を連発する二人の会話に、江戸っ子の”実”を添えている感があるそうな。
「『浮世風呂』より100年後の『三四郎』(1909年刊行)の時代も、東京の中流、あるいは下流でも意識の高い家庭では、このような物言いがなされていたと予想される」(P145)とのこと。1920年東京生まれの山田も、親世代のこういう言葉づかいを聞いて育ったのかもしれない。

一方で、若い世代にとっては、親(祖父母)世代の「江戸っ子の実を添えているような話し方」(「さようさ」とか)は、「だっせぇ」ということになり、もっぱら、少女漫画風の話し方をするようになったのかもしれない。

そして、「お髪だの、へったくれのとそんな遊ばせ言葉はみっともねぇ、ひらったく髪といいな、おらぁ、きつい嫌いだァ」と言っている女性が『浮世風呂』に出てくるように「よくってよ、知らないわ」みたいなチャラチャラした言葉が「でぇっきれぇ」な人たち(おかみさんとおかみさん予備軍)が江戸前な話し方を引き継いでいったので、今の私たちには、江戸末期の奥様言葉(江戸っ子の実を添えた奥様言葉)は「おかみさん風」に聞こえるのかもしれない。

あるいは戦前・戦後、江戸っ子などというものはどんどん少数派になり、上昇志向だけが強い田舎モンが山の手を牛耳るようになると、江戸っ子の「実」なんて結構ざぁます、っていうことになったために、「どうだったい」が「おかみさん風」に感じるのかもしれない。

とまぁ、「かもしれない」連発になってしまったけれど、思いつきで書いているので仕方ない。

蛇足ながら(というか全てが蛇足だが)『女ことばはどこへ消えたか』というけれど、『浮世風呂』を読むと昔の下っ端労働階級女子は、今の「若い女の子」より言葉づかいが荒いくらいだ。
ていうか、昔は身分に応じて話し方は多様であった。
言葉づかいは「シグナル」だ。普通は自分の属している、あるいは自分の属したい集団の話し方をする。
例えば年寄りの集団のなかで、ある年寄りが若者言葉で話したら、非常に浮くだけではなく、周囲も不快に感じる。なぜなら、彼が「自分は年寄り集団ではなく、若者集団に属している、あるいは属したい」というメッセージを発しているからだ。
若者の場合も同じで、「やべぇ」「ちげぇよ」と言っている集団の中で「これは失敬」「許してくれたまえ」などと言っている人がいたら相当浮くだろう。
私の子供の頃、東京からきた転入生が標準語を喋っていたので、「オカマ」と言われていじめられていたが、自分は「身内ですよ」「仲間ですよ」というシグナルをおくるために、若者なら若者言葉、ギャルならギャル語、オタクならオタク語を話す。

「女性の言葉づかいが荒くなった」というが、それは明治に四民平等になり、戦後「一億総中流」となった時代に、多くの人の属している(あるいは属したいと思っている)場所が山の手だったため、一億総山の手言葉を目指す時代があったからであろう。

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09月10日(月)

起床時刻:11時30分

09月09日

起床時刻:13時00分

09月08日

起床時刻:09時00分

ま~た、ポカミス(夫に言わせれば重大かつ深刻なミス)をやらかしてしまった。何をやらかしたかというと、「うっかり裏にシーフサポ黒で行っちゃったwwwwwwうはwwwww」(@FF11)であります(裏だから一旦入ったら出られないし><)。

うちの旦那の怒りっぷり(ほぼ発狂)は録音して聞かせてあげたいところであるが(でも弱点運がよくて2時間でいつもと遜色ないくらい稼げたんだけどね)、私はなんでこんなにダメ人間なんだろうねぇっていっつも思う。

いつもは裏に入る前にスペクトラルジグを手打ちマクロをつくるから、そこで気づくはずなんだけど、サポ黒だった昨日に限ってやらなかったんだよね。運が悪いよね。

グレープの名曲「無縁坂」の
「運がいいとか~、悪いとか~、人はときどき口にするけど~
そういうことって確かにあると、あなたを見ててそう思う」
が頭の中で流れちゃいますよね。ついでにこの続き、

「しのぶ、しのばず~、無縁坂~、かみしめるよ~な、
ささや~かな、ぼ~くの、母の人生~」

と気持ちよく声を張り上げたところで、冷静に考えるとさぁ、この母は「後ろだけはみちゃだめと」子供に(笑って)言うような前向きで明るい人だったんだよね。ポジティブないいお母さんぽいけど、全体としてささやかな人生というか、びみょ~な人生だったのよね。
こういうびみょ~な人生をおくったのは、「母の自己責任であるッ」ではなく、「母の運が悪かったから」と総括されている。
確かに「運がいいとか~悪いとか~」という、運の問題もあるだろうけど、適性の問題(「向いているとか~いないとか~」)もあるだろうね。

私は何でも割とそういうこと(「運が悪かった、以上」「自分に向いていなかった、以上」)で済ませちゃうタイプだから、「反省してねぇ!!!」「だから努力しねぇ!!!」「だからダメ人間のゴミ人間!!!」の大合唱(つーか夫の指摘ではあるけれども、子供の頃から、「努力しない」と先生に言われてきた)になるわけよ。

でもさぁ、「お前がダメなのは言い訳ばっかりして、頑張らないからである」理論を受け入て頑張っても、うまくいかねーやつもいっぱいいるじゃん?
そしたら、さらに自分を追い込むだけじゃん?「もっと頑張らなきゃ」ループに入るだけじゃん?

思うんだけどさぁ、宗教や占いやスピリチュアルって、ある意味、より効率的で強力な認知療法だよね。
宗教や占いにはまるのは、成功していないダメな一般人だけではなく、頑張って成功した芸能人とか著名人も少なからずいるけれど、「頑張れば夢がかなう信仰」「成功も失敗もその原因は自分にある信仰」に疲れた人たちのオアシスなのかもしれない。
「全ては自己責任信仰」は人によってはプレッシャーやストレス、幻滅をもたらすんですね(ついでに言うと、芸能人がわけのわからんものにはまるのは「プレッシャーやストレスが大きいから」というだけではなく、芸能界は「自己責任信仰」に疑いを持ちやすいところである、というのもあるだろう、何しろ、才能のある芸人や努力して演技を磨いている俳優が売れなくて、たいして才能のなければ努力もしていない連中が売れているのを日々目にしているからね。「その理由は何?運?信仰?手相?」ってなっちゃうだろう)

「頑張れないから自分はダメなんだ」という人たちや、「頑張って成功したけれど自分は幸せではない」とか「いつか後続に抜かれるんじゃないかといつも不安」とかいう人たちに、「頑張りが不足している」とか「ポジティブ思考が不足している」と説教するかわりに、新たな視点(認知療法的にいえば「適応思考」)を提供してくれる。

「今のあなたが苦しんでいるのは、神様からのメッセージです、苦しみには意味があります、魂を成長させるチャンスです」
「今のあなたが苦しんでいるのは、前世の因果です。現世での困難は前世からのメッセージなんです、それに気づくことが大切です」
「今のあなたが苦しんでいるのは、あなたに水子の霊がついているからです、あなたの優しすぎる性格のため、霊に取り憑かれやすいのです」
「今のあなたが苦しんでいるのは、土星がてんびん座で逆行しているからです。焦りは禁物です、余計運勢が悪くなります」
などなど。

こういう言説で「自分が悪いんだ」「自分はダメだ」とひたすら責めていた人の心に風穴を開けてくれるのだ。「悪いと思っていたことが悪いことではない(気づきへのメッセージ)」とか、「悪いのは自分のせいだと思っていたが、別のもの(霊・天体の運行・その他もろもろ)の所為である」とか、そういう「視点の転換」をもたらしてくれる。
真面目な人のほうが宗教にはまりやすいっていうのもそういうことだろう。自分をとことん責めて苦しくなっている人ほど、新たな視点を提供されることが救いになる。まさに、宗教が「適応思考」となるのだ。

普通の認知療法でも、「自分が悪いんだ」「自分はダメだ」という一面的思考に対する「反証」を見つけ、あらたな「適応思考」ができるようにすることを提唱する。
でも、畢竟、自分(ダメな自分!)が考え出した「反証」であるから、権威も何もありゃしない。
そこへいくと、宗教・占いのほうが確からしさが高い(「有名なタレントの○○さんも、~の教え、~さんの占いを信じているんですよ」)。

私の場合は、認知療法も宗教も占いも興味はあるけれども、どれも全く信じてはいない。これは私の性格というか、趣味嗜好であって、特に立派な理由があるわけではない。単に私はそういうクラシカルでベタな物語が嫌いなだけで、行動遺伝学や進化心理学的な新しい物語のほうが好みである、というだけの話だろう。

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09月07日(金)

起床時刻:11時00分

サマセット・モームの『サミングアップ』(岩波書店 (2007/2/16)/行方昭夫訳)は名著(名訳でもある)でして、5頁に1箇所は引用したくなるフレーズが出てくるんだけれども、最初のほうにこんなことが書いてある。

「世の中には、自分の善行には注目しないで悪行に苛まれているような人間がいる。自分のことを語る人には、こういうタイプの人が非常に多い。悪い面を補うような善良な性質を省いてしまうものだから、単に弱気で無節操で不道徳な人間のように見えてしまうのである」(P18)

自分語りをする人は「自分の悪いところにばっかり注目する」という「認知の歪み」が起きている場合が多い、というわけですけれども、じゃあなぜ、「悪い面を補うような善良な性質を省いてしまう」のかというと、その「悪い面を補うような善良な性質」は「取るに足らない」と考えているからですね。

小林幸子の名曲「雪椿」の冒頭は「や~さしさとかいしょのなさが、裏と表についている~♫」ですが、普通の人は「かいしょのなさ」ばっかり注目してしまうんです。なぜなら、「やさしさ」じゃ食っていけないんだもん。
「金にならない」長所なんて長所じゃねぇ!というわけですよ。

(でも「雪椿」の越後のお母さんはすごいよ、「そ~んな男に惚れたのだから、私がその分、頑張りますと、背なをかがめて微笑み返す」んです。二番で言うには「ま~るで苦労を楽しむように寝顔を誰にも見せないあなた」なんですよ。私もこの父親と同じく「優しさとかいしょのなさが裏と表にくっついている」タイプだけど、妻が「命投げ捨て」子供を育てているのを見ても(三番参照)ボケっとしているようじゃ、この夫はあんまり優しくないんじゃないかって思っちゃうね。私も旦那が「命投げ捨て」ようとしてたら、パートを増やして「私がその分頑張ります」って言うだろう、たぶん)

この「雪椿」に出てくる父親のように、誰にでも何らかの取り柄はあるのだけれども、その取り柄がどーでもいいものである場合が多いのです。かいしょはないけれど優しい。どーでもいいですね。でも、嘆いたって仕方ない。「自分を受け入れよ」、です。

ただ問題は、自分は自分を受け入れても、周囲は自分を受け入れてくれないことなんですよね。「何にもできなくても、いいよ。役にたたなくても、いいよ」って言ってくれるのは親(と「雪椿」では妻)くらいで、普通はは、「お前いい加減にせぇよ!」と回りは言うわけですよ。あるいは、「もっと頑張れ」「もっとちゃんとやれ」「努力が足りない」と言うわけですよ。
「かいしょはないけど、優しさはある!」と言い返しても「黙れ!」と言われるだけなんですよ。

「頑張れ、頑張れ」と言われて頑張れば「雪椿」の父親クラスのような「かいしょ度ゼロ」の人間も「かいしょ度20」くらいにはなるでしょうが、そんなんじゃ「まだまだァ!!」と言われちゃうんですよね。しかも、「やさしさ100、かいしょ0」だったのが、余裕がなくなった分、「やさしさ20、かいしょ20」になるわけで、「つかえない上に性格まで悪くなった」ということになるんですね。こうやって「いいとこなしの悪いとこだらけ」が増えていくかもしれませんけどねw

こういうどーしようもない人は、「その分頑張ります」系の人に寄生するしかないから、必死で「優しい」アピするわけですね、わかりますw

それにしても、今回ちゃんと「雪椿」の二番と三番まで聴いたけど、この父親はただの寄生虫なんじゃないか?本当に母親が言うように優しかったのか?という疑問を抱かざるを得ないw
だってさ、かいしょなしならかいしょなしで、せめて掃除したりご飯つくったりくらいしろや、と思うんだけど、それもしていないっぽいもん。こいつはパチンコしかしてねぇんじゃないか?景品のチョコかなんかをくれるのが「優しい」とか抜かしているんじゃないか?って気がしてくるな。

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09月06日(木)

起床時刻:08時00分

日経BPで和田秀樹が「うつ病になりやすい思考」について書いていた。
・二分割思考(白黒、敵味方に完全にわけて考えてしまう、グレーを認めない)
・思い込みで決め付ける
・過度な一般化(一部を見ただけで一般化する)
・肯定的な側面の否定(いい面があっても否定する)
・should思考(「かくあるべき」が強すぎる)
めっちゃあてはまるんですけど。
私はもし自分が何かの宗教の信者だったら、確実に原理主義者になってると思う。

こういった思考パターンは「認知療法で修正すべきとされている、心に悪い考え方のパターン」なんだそうな。
テレビばっかりみているとこういう「不適応思考」に陥りやすいと和田秀樹は言っています。
(「それこそ「思い込みで決め付ける」「過度な一般化」であり、テレビの「肯定的な側面の否定」じゃないの?」とツッコミたくなりますがねw)

認知療法とは何ぞや?ということを、「はじめての認知療法」というサイトを全面的に参考にして書きますと、認知療法っていうのは「思い込みと現実のギャップを認識して、ものの見方や考え方を変えていく」もので、具体的には思考記録表っていうのをつけるんですね。

悩みや問題に直面したときに以下のトピックについて記述していきます。
①状況(いつ、どこで、誰が、何をしたのか)
②気分の分析(気分とその強さを0~100%で表す)
③自動思考(そのときすぐに思ったこと)
④根拠(裏付けとなったこと)
⑤反証(自動思考と矛盾する事実を探してみる)
⑥適応的思考(全く別の新しい考えや視野を広げた考え)
⑦今の気分のレベル(気分の変化を再評価する)
こういうのを書き出すことで、思込みや一面的思考がなくなり、柔軟な見方をすることができるようになるらしいんですね。

例えば、しょっちゅうミスをする無能なやつがいるとしましょう。
それで上司にも同僚にも迷惑をかけ、日々「つかえねぇ!!」って言われ、落ち込んでいるとしましょう。

認知療法的には
「大事なファイルをうっかり全部消去しちゃって上司に怒られたよ~、でも僕がアクセスできるところに保存しておく方が悪いよね!」
「大事な書類をうっかり電車に忘れてきて上司に怒られたよ~、でも僕に持たせることがおかしいよね!」
「大事な打ち合わせの予定をすっかり忘れちゃって上司に怒られたよ~、でも誰もリマインドしてくれないことが原因だよね!」
つまり「自分が悪いのではなく、会社のリスク管理およびマネジメントの問題なのである」っていう「適応思想」ができるようになることがゴールなんだろうw 確かに自分ではなく、他を責めることによって自分はハッピーになるわな。
「自分がデブになったのはマクドナルドのハンバーガーのせいである」とマクドナルドを訴えることができるようになれば、認知療法完全マスターだろうw

それはともかく、「仕事でのミス」というと私はいつもみずほ証券の「ジェイコム株大量誤発注事件」を思い出す。これは担当者のポカミスで「1株61万円」の売り注文を「61万株1円」とうっかりミスで発注しちゃった、例の事件ね。やばすぎるw
担当者はすぐにミスに気づき、取り消そうとしたんだけど、取り消し処理に失敗する(自動更新されたストップ安の価格(57万2000円)を入れずに、1円の売り注文の取り消し処理を出したのが原因で、「バカの上塗り乙」と当初は言われていたけれども、実際のところは東証のプログラムミスだったみたいで、ストップ安の価格を入れても取り消しできなかったみたい)

みずほ証券では入力された金額が市場価格と隔たりがある場合、警告が出るシステムを設置していたんだけれども、しょっちゅう警告が出るので無視していたらしい。
私がこのみずほ証券の担当者だったらマジで死にたいけど(8分で400億超の損失だよ)、認知療法的には「適応思想」は「東証が(も)悪い」で正解なんだろうw、みずほ証券もそういって訴訟起こしてたしねw

もうちょっと頭がよければ、
「機械の操作ミスに対する警告メッセージも、それが頻発する状況では事故防止効果は期待できなくなる」
「事故防止のために、異常値をシステムで検出することは有効。ただし、機能の優先順位を明確にしておかないと、システム負荷の制約の中で利便性に負けてしまう」
「システムも人間が作るから仕様ミスが発生することがある。十分なテストを行うことが重要」
「最後の砦は「何かおかしなこと」を見張る人間の目と、現場の非常停止権限。使っているシステムについて説明ができる人間を組織内に養成しておくことが必要。特に、システムを原因とした事故が発生したときの情報収集、状況判断を迅速に行うための体制は危機管理上必須」
等々の「適応思想」も思いつくだろう。
ちなみにこれらは「失敗学会」の「証券誤発注」における「知識化」に書かれていることで、さすがである。
私なら「サザエさんみたいなうっかりは絶対に雇うな!一流大卒の「うっかり」よりも、高卒(あるいは中卒)の「しっかり」のほうがはるかによい」という「教訓」を引き出すが、これは「知識化」に含まれていなかったw
ちなみにこのポカミスは大卒の「エリート社員(25才)」がやらかしたらしい。「人間だれしもミスをする」というけれどもね、ミスをしやすい人としにくい人がいるんですよw
就職時はあの無意味な適性検査や筆記試験はやめて(「これらは全て金と時間の無駄である」とうのが私の仮説だ、誰か証明してくれないかな)、ミスのしにくさや几帳面さをはかる別のテストをしたほうがいいよw

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09月05日(水)

起床時刻:10時30分

高倉健主演の『あなたへ』を観てきた、と親から電話があった。別に報告してくれなくてもいいんだけど。いつもはガラガラの映画館が、じーさんばーさんで満席だったらしい。

「とても映像がきれい」(竹田城跡の映像はそれは見事で素晴らしかったし、最後の平戸の夕焼けの海もきれい)で、「田中裕子の歌(星めぐりの歌)がすっごく上手だった」そうな。

富山の刑務官(高倉健)が、亡き妻(田中裕子)の遺言(=平戸の海に散骨してほしい)に従い、富山から平戸まで車で旅をする話らしい。ま、板橋から東京湾に散骨だったら映画にはならんわなぁ。

田中裕子演じる妻(母親曰く「かわいらしい、純真そうな人」)は、遺言状を二通残していて一通は散骨のお願いで、もう一通は平戸局留めの郵便でそこで見ろっていうことらしい。受け取り期限は10日後。
高倉健は「メンドクセーな、おい」と文句を垂れることもなく(我が旦那であれば言いそうだ)、平戸に向かう。
そして受け取ったもう一通のメッセージとは‥‥‥「実は私は大きな陰謀に巻き込まれて、謀殺されたのです!ちなみに童謡歌手は表の顔で、本当は二重スパイです!」とかいうものではありません(ちっ。

私は母親がネタバレ全開で説明したので全部知っているけれども、一応書かないほうがいいでしょうね。母親は「最後はなんだかよくわかんない」と言っていたが、父親は「これはこういうことである」と解説していた。まぁ色々な解釈ができるような、ある種広がりのある映画なんだろう。

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09月04日(火)

起床時刻:08時00分

ちったぁ世の中のことを知ろうと思って、本屋で平積みになっていた『この国で起こっている本当のこと』(辛坊治郎/朝日新聞出版/2012.4月)を斜め読みしてみた。

「日銀出身で数字には極めて明るい」大塚前厚生労働副大臣によれば、公的年金はすでに破綻しているんだそうな。マジですか。

2004年、「100年安心プラン」なるものを国はつくったそうなんだけれど、びっくりすることに、そのプランでの年金積立金の予定運用利回りは3.2%なんだってさ。
3.2%????
バブル時代はとっくに終わってますけど???
ヤクザに頼んでオレオレ詐欺だか麻薬取引だかをしてもらうしかなかろう???

予定利率で運用されていれば、毎年5兆円近くの利息が付いて増えていたはずだが、そんなマジックがあるはずないのは、無能な私でもわかる。
2004年の「100年安心プラン」だと2011年度の国の年金積立金残高(厚生年金の代行部分と国民年金)は約168兆円になる予定だったのが、実際のところはおよそ125兆円。
「予想より40兆円も少なかった!てへっ」なのである。

40兆円のマイナスじゃあ、さすがに官僚たちも自分の楽観的利回り設定をモーレツに反省しただろうと思うでしょう?

ノンノンノン、厚生労働省は09年に突然、年金積立金の予想運用利回りを4.1%に引き上げたのですね。
さっすが頭のいい官僚っていうのは、考えることが斜め上ですよ!

4.1%で運用すれば、ほうら、収支がぴったりあう!って賢く思いついたんでしょうが、3.2%の運用も無理だったのに、なんで4.1%で運用できるって思ったんだろうね?
ま、自分たちが在職している間だけでも、「年金幻想」が続いてくれればいいと思って数字をちょいちょいっと弄っただけだろうけど。

責任感や良心なんて、私たちもたいして持ってはいないが、政治家や官僚は全然持っていないんだろう。持っている人がいるとしても、そういう人は出世しない。世の中、いつでもどこでも、責任感や良心を持たない人のほうが出世するのだ。

88年に出版された『厚生年金保険制度回顧録』(社会保険法規研究会刊)には年金官僚のこんな「回顧」が登場する。

「いよいよ、この法律(厚生年金制度を定めた法律)ができるということになった時、すぐに考えたのは、この膨大な資金の運用ですね。これをどうするか。<略>これを厚生年金保険基金とか財団とかいうものを作って、その理事長というのは日銀の総裁ぐらいの力がある。そうすると、厚生省の連中がOBになった時の勤め口には困らない。何千人だって大丈夫だと。金融業界を牛耳るくらいの力があるから、これは必ず厚生大臣が握るようにしなくてはいけない」
「将来みんなに支払う時に金が払えなくなったら、賦課式にしてしまえばいいのだから、それまでの間にせっせと使ってしまえ」

官僚も人間であるから「天下り先を確保する」ことと「所属する省庁の力を強化する」ことのために働いているわけだけれども(まぁ誰でもそうで、「金ヅルの確保」と「えばり散らすこと」を目的に生きてるんだからさw)、また素直にペラペラ喋ったねぇ、あんたw

辛坊氏曰く「この官僚の言葉通り、年金積立金はまず太平洋戦争の戦費に消え、後に二束三文で売り飛ばされるグリーンピアなどの保養施設の建設などに使われ、いつの間にやら「積立でなく賦課」、つまり「現役世代の拠出でその時代の高齢者を支えるシステム」にすり替えられていったのだ。今では、政治家もメディアも「日本の年金システムは世代間の助け合い制度である賦課方式だ」と認識しているようだが、こう思わされていること自体、年金官僚の誘導に乗っているのだという事実は知っておいていいと思う」(P42)
ホントかね。映画だったら、退職して天下った年金官僚が「ニヤリ」と笑って終わりとなる話だよ、やれやれ。

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09月03日(月)

起床時刻:08時05分

お天気が不安定な中、果敢に外に洗濯物を干して髪を切ってきた。
以上。
って感じになっちゃうよね、主婦の日常っていうのはさ。

あとはそうね、今日は午前中に「ものみの塔」の人が『目ざめよ!』(8月号)を持ってきたね。旦那が寝てるっつーのに、インターホンを鳴らして「奇跡についてどう思ってらっしゃいます?」って聞いてきた。こんなことを他人に聞いてまわるのは「ものみの塔」の人だけだ。
「ハァ、ちょっとよくわかりません」と軽くあしらったら、「奇跡は、聖書に書かれているんです。あれは事実なんですよ。聖書にはこれから起きる奇跡についても書かれています」とのこと。

パンフレットによれば、「イエスは死者を生き返らせた」という奇跡、「記念の墓の中にいるものがみな・・・出てくる」(ヨハネ5:28,29)という約束、そこから導き出される「期待できる事柄」は「亡くなった家族が復活してくる」なんだそうだ。
ゾンビ映画しか思い浮かばないが、まぁエホバ的には素敵な未来予想図なんだろう。

『目ざめよ!』のほうは、「暴力 いつかなくなるのか」特集。暴力の原因として「絶望と不満」、「群集心理」、「憎しみとねたみ」、「アルコール・薬物の乱用」の他に「手ぬるい刑事司法制度」と「偽りの宗教」が挙げられている。

まぁ、聖書に比べたら、信仰の失われた現代の司法制度は「脆弱で無力で腐敗した司法制度」なんだろうね、「レビ記」20章・申命記22章にあるように(wiki参照)、ゲイは全員、「石打による死刑」にしたいところだろう(嫁入り前に処女を失った娘やら、霊能者や、人妻と寝た男らもまとめて全部)。

「脆弱で無力で腐敗した司法制度は直接的・間接的に暴力を誘発します」と書いてあるけれども、同性愛者を石打ちで殺すことが暴力じゃないと思えることが私には全くもって不思議である。つまり、私には聖書こそ、暴力に満ち満ちていると思えるのだけれども、ま、感じ方は人それぞれってやつなんだろうね。

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09月02日

起床時刻:13時15分

うろ覚えだけれども、映画『アイアンマン』でトニー・スタークが言うには、武器製造会社として巨万の富を築いた彼の父の哲学は「平和とは相手より大きな棍棒を持つことである」なんだそうだ。
私はこれは「平和」ではなく、「正義」の定義だろうと思うのだが(「正義とは棍棒の大きさで決まる」、と言ってもいいだろう)まぁ、仮に「平和」だとしたら、もちろん「より大きな棍棒を持っている側の平和」であって、「相手より小さな棍棒を持っている側には隷従」を意味する。

そういえば「復讐の負の連鎖を断ち切るためには、赦さなければならない」とかいうけれど、「赦すとは、相手より大きな棍棒を持っている人が、棍棒を振り下ろす理由があるときに、あえて棍棒を振り下ろさないこと」である。
従って、相手より小さな棍棒しか持っていない場合(たいていは棍棒すら持っていないのだけれども)、人を許すことなどできないのだ。
意思の問題ではなく、資格の問題だ。より大きな棍棒を持っている人間だけが人を許せる立場にある。社長は平社員の深刻なミスを許すことができるけれど、平社員は社長の経営判断ミスを問うことができないように。
平社員にできることは「あの無能な社長、許さねぇ」と居酒屋で愚痴をこぼすか、あきらめて粛々と働くか、のどっちかだ。

そう、棍棒を持たない人の「許し」は「あきらめ」と言われている。
例えば、酔っ払うと暴力を振るう父親がいて、母親が父親の暴力を許容している場合、これは「許している」とは言わず「あきらめている」と言われる。
「許す」というのは、「父親をぐるぐる巻きに縛り上げ、いつでも脳天に斧をぶちこんで殺せるときに、あえて斧を振り下ろさないこと」を言う。
ま、父親を許し、斧を捨て、ぐるぐる巻きから解放したとたんに、倍返しでやられ、最初の「隷従状態」に戻るんだけども。

私たちは多くの場合、棍棒を持たず、棍棒で殴られるだけの存在だ。
つまり私たちはそもそも、人を許す立場にはないのだから、「あきらめなさい。七の七十倍までも、あきらめなさい」というのが正しい言い方だろう。

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09月01日

起床時刻:12時30分