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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:08:15

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10月31日(木)

起床時刻:08時00分

会社に行ったら朝7時に菩薩系男子から「注文の品、出来上がりました」的なメールが入っていた(泣)。ファイルの保存時間がAM3時とか4時とか、おかしいんですけど。

かつて正社員時代に徹夜当たり前の職場で働いていたとき、私だけは徹夜を一度もしたことがなかった。
それは私が「効率的だから」とか「仕事ができるから」という理由ではなく(もちろん)、アウトプットのレベルを落としたからである。
これ、一番簡単な残業削減方法ね^^。

いつも思うんだけど、みんな完璧主義すぎるんだよね。
うちの会社の人(旦那もだけど)の仕事ぶりをシューマイづくりで例えると、シューマイの上にのっけるグリンピースを一時間も二時間もかけて吟味して、「シューマイに一番ぴったりのグリンピース探し」とかやっているんだ。
私に言わせれば、グリンピースなんかのっけなければいいんだよ。そしたら、グリンピースの下ゆで時間も、グリンピースをシューマイにのっける手間もなくなるわけで、労働時間を減らすことができる。それに別に誰も「グリンピースがのっていない!!」とか文句いう人いないって。

もちろん、クライアント側にも問題がある。「40種類のシューマイが食べたい」みたいな要望を出してくるんだから。国産豚肉/アメリカ産豚肉、たまねぎ入り/たまねぎ抜き、しいたけ入り/しいたけなし、筍入り/筍なし、国産豚肉/たまねぎ入り/しいたけ入り/筍なし、みたいな感じでいろいろつくってほしい、みたいな。
おかげで現場は「エートこれはしいたけ入れたっけ、入れてなかったけ」と混乱し、めんどくささ倍増なんだ。ミスもやっぱり増えてしまって、顧客から「筍入ってましたよ!」とかいうクレームがきたりする。

私だったらこんな仕事は請合わない(キリッ。これが究極の残業削減方法である。ま、残業なくなるかわりに仕事もなくなるけどなw。

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10月30日(水)

起床時刻:08時00分

10月29日(火)

起床時刻:08時00分

勤務先の菩薩系男子が相変わらずの菩薩力を発揮していて、わたしの理解を超えている。

わたしの仕事はレストランの仕事に例えるなら下働きね。シェフのアウトプットイメージにあわせて食材を下ごしらえする係、みたいなかんじ。
で、菩薩君は、食材の在庫管理をし、仕入れをし、仕入れたものの選別をし、きれいに洗って、全ての下ごしらえ係の注文に応えて必要なものをそろえて渡す、みたいな係。つまりめちゃくちゃ忙しいし、同時並行的にいくつもの仕事を抱えているのだ。
そんな多忙な彼に、私は五月雨式に「あれも必要だった」「これも必要だった」と注文を出しているのだが、彼はいつもニッコリ笑って「はい!」って感じなんだよ。私だったら「まとめて言えや、このボケ!!」と切れるところだよ。
それでもって、朝5時に「遅くなりましたが、一式用意しました」みたいなメールとともに食材をそろえてくれているんだ。しかも「ついでだったので、エビの背わたもとっときました」みたいな親切心を毎回発揮している。
お前は一体何者なのだ?慢性疲労の日本人を哀れんで神がつかわした天使か?

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10月28日(月)

起床時刻:08時00分

たいして働いていないのに疲れた。
「無能なやつはたいして働いていないのに疲れる」の法則である。

本日もまた、穴を掘って穴を埋めるような仕事であった。穴を掘って穴を埋めることに意味はないように、私の仕事も無意味だと思う。
もっとも、穴を掘って穴を埋める人は上腕二頭筋が鍛えられるなど得るものがあるかもしれないが、私が得るものは眼精疲労とはした金である。

馬鹿らしい。
こんなのを発注してくるクライアントも馬鹿みたいだ。
年々シェアが下がってザマァだ。
既に過当競争気味の市場において、てめぇらが企業活動をやめてもだれも困らねーし。

思うんだけど、たいていの企業はクックパッドにn番煎じのレシピを投稿している連中みたいな存在だ。お前らが投稿しなくても誰も困らない。むしろ無駄に検索がめんどくさくなり、邪魔なだけの存在だ。でも注目されたくて(企業なら生活かかってるしな)、どこかで見たようなレシピを「絶品!」だの「感動!」だの「大人気!」だの、あおり文句をつけて投稿してるんだよな。くっだらない。

私が最近感心したレシピは「乾麺パスタを1時間水に浸してゆで時間1分(しかもコップ1杯の水)でゆでる方法」であった。ガッテンでやってたんだけど。
こういうイノベーティブなレシピなら、大歓迎である。
(まぁ実際のところ、ソースをつくったりしなくちゃいけないから、ゆで時間1分じゃなくてもいいんだけど、パスタをゆでるための大きな鍋を出すとか大量の水を沸かすとか、そういうことがめんどくさい。つまり何かを始めるときの一番のネックは「とりかかること」なんだけど(とりかかりはじめたらそこまで億劫じゃないってことあるわけで)、この「コップ1杯の水で1分」ていうのは、この腰をあげる負荷を減らすんだよね。というわけで、私はここのところ、週末はパスタばかりつくっている)

しかしたいていのヤツはそんな才能ないから、昔っから世の中にあるヤツのパッケージをかえ、あおり文句をかえ、売りつけようとする。
くっだらねー、くっだらねー、くっだらねー。
でもカネを稼ぐためなんだよね。
企業はそうなんだけど、クックパッドに駄レシピを投稿する人は何のためにやっているのか不明だわ。私がここに駄文を書いて、ストレス解消しているように、駄レシピを投稿してストレスを解消しているんだろうか。ま、クックパッドもカネ払って利用しているわけじゃないから、別にどうでもいいんだけどね。

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10月27日

起床時刻:12時30分

10月26日

起床時刻:08時30分

10月25日(金)

起床時刻:08時00分

まーたテレビで「ハリポタ」をやっていた。まぁ面白いには違いないが、ここまで世界的大ヒットになるとはね・・・。

『偶然の科学』(ダンカン・ワッツ・早川書房 (2012/1/25))で、著者は累積的優位モデル(つまり売れているからより売れる)をコンピュータモデルではなく、ラボスタイルで実験している。
ワッツは共同研究者とともに、ティーンエイジャー向けの初期のソーシャルネット・ワークの助けをかり、数種の音楽「市場」を作り出してみせた。SNSの広告バナーをクリックすると、会員達は実験サイトを訪れ、無名のバンドの曲を聴いて、採点し、望むならダウンロードするように依頼される。

一方の被験者には曲名しか示されないが、他方の被験者には以前の被験者がダウンロードした回数も示される。後者の「社会的影響あり」のカテゴリーの人々はさらに八つの平行世界に分けられ、その世界でのダウンロード回数しか確かめられない。
だから、新しい被験者が(無作為に)第一世界に割り振られたら、そこではたとえばパーカー・セオリーというバンドの<シー・セッド>という曲が一位になっている。しかし、もし第四世界に割り振られたら、パーカーセオリーは10位で52メトロの<ロックダウン>が一位になっている場合もある。

順位は全く操作されていない。すべての世界はダウンロード回数が同一のゼロから始まった。だが、それぞれの世界が切り離された状態を慎重に保ったので、それぞれの世界は独自の進み方をすることになった。

明らかになったことは、累積的優位の理論が予測するとおり、「社会的影響あり」のどの世界でも、自己判断のみの条件下に比べ、人気のある曲はいっそう人気があり、不人気の曲はいっそう不人気となった。

だが、同時にヒット曲は世界によって違っていた。「言い換えれば、社会的影響を人間の意思決定に持ち込むと、不均衡性だけでなく、予測不可能性も増していた。この予測不可能性は、サイコロの表面を仔細に眺めてもどの目が出るかを予測する役には立たないのと同じで、曲の情報をもっと増やしても解消されなかった。予測不可能性は、市場そのもののダイナミクスにもとから備わっていたのだ。
注意すべきなのは、社会的影響が質の優劣まで完全に消し去ってしまったわけではないことだ。「すぐれた曲」(自己判断のみの条件下での人気度から判定できる)は「劣った」曲よりも平均して結果がよかったのも事実だった。」
「別の言い方をすると、最もすぐれた曲でも一位になれないときがあり、最も劣った曲でも健闘するときがあった。そして並みの曲、つまり最もすぐれてもいないし、最も劣ってもいなかった大多数の曲は、ほぼどんな結果でもありえた」(P87)

興味深い。わたしたちは「なぜこれが売れて、あれが売れない?おかしい!」としょっちゅう言っているが、そのたびに専門家と称する人間の後付のゴタクを聞かされていたわけだ。つまり常識的説明ってやつを。しかしこのラボ形式の実験は、ヒットの理由として、商品の持つ固有の特質に帰する説明だけでは不十分であることを鮮やかに示してみせた。「累積的優位の効果は、たとえ同じ世界で同じ人々と対象と価値観が出発点になっていようとも、文化や市場における勝者はちがってくると予測する」(P83)

もっとも上記の実験では、並ではなく「最もすぐれた曲」という質的に差がある場合は、一位にはなれなくともヒットする、とのことだが、なんということか、質的な差を専門家ですらわからないのだ。J・K・ローリングが原稿を持ち込んだときに出版を見送った半ダースもの出版社はド素人の文芸サークルではなくプロの編集者がいたのである。やれやれ。

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10月24日(木)

起床時刻:08時00分

わたしの今やっている仕事がどんなものかというと、大量のエンドウマメを莢から出す的な仕事である。バケツ100杯のエンドウマメを莢から出すというようなお仕事である。当然終わらないので、助っ人がくるのであるが、問題はここからである。
エンドウマメを莢から出す作業は単純作業なので誰でもできるのだが、どのエンドウマメを使ってもいいというわけではないのである。熟練の目利きによって、「莢から出すべきエンドウマメ」と「廃棄処分にするべきエンドウマメ」を選り分けるという作業が発生する。つまり専門知識が必要になり、単純労働者では対応できない。この選り分け業の人が足りないので、この担当の人は日々徹夜をすることになる。

これが労働市場のミスマッチってやつですね。なぜ、エンドウマメより分け専門家が少いのか。それは選り分けの目利きになるためには、
①能力が必要(エンドウマメを瞬時に見分ける動体視力的な判断力、反応力が必要)、
②体力が必要(少なくとも3年のエンドウマメより分け実務経験をつまなくちゃいけないのだが、たいていは過労で道半ばで行き倒れる)
③若さが必要(エンドウマメより分け能力はだいたい30才までしか身につけられないとされ、それ以降の志願者は切られる)
なのである。そのために選り分け専門家はいつまでたっても増えずに、一人で仕事をさばかなくちゃいけないのだ。

これがなぜ日本企業の正社員の残業時間が減らないか、の理由ですね。
んでもって、わたしらみたいな不正規雇用の単純労働者は専門家に「先生、これは莢から出してもいいんでしょうか?」「先生、これは廃棄処分の豆ですよね?」「先生、この山はよくわからないので手をつけていないです」と大量の「不明分」を専門家に押し付けて「んじゃ、お先失礼しまっす」と帰るわけで、わたしの横の席の専門家は夜なべをして、選り分け作業をしなくちゃいけないのである。

だから残業って人に押し付けない限りなくならないのだ。わたしが昔、某外資系企業で働いていたとき、残業の多さが問題になってある社員が業務の「スリム化」案を作成したが、そのほとんどを下請けに押し付けるということになっていたのに驚愕したもんである。
きれいなエンドウマメ10kg(剥いたもの)を用意した後の料理というのは、楽しい部分がある。一番つらいのは、下処理だ。これはきちんとできて当然であり、不良なマメが混ざっていたら怒られる。
ほんと、やってらんない仕事なのだ。
なんなのだろう?呪われているのだろうか?
まぁそれはともかく、こんな単純作業はオートメーション化されていいはずだが、うちらの仕事っていうのはエンドウマメの莢むきが終わったら、蟹の身を殻から外すお仕事が始まるわけで、なかなか規格化できないのだ。

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10月23日(水)

起床時刻:08時10分

友人(例の元ウツ病患者にして「pyaaaちゃんは10年前と同じこと言ってる」とのたまっていた彼女)がわたしの勤務先に仕事(日英翻訳)しに来たので、一緒にランチに行った。

先日、二人でご飯を食べたときには、私はウツから回復しつつあるこの友人に向かって「むしろウツになるほうが普通だよ!だって私たちお先真っ暗なんだからさ!なんで元気になれんの?意味わかんない」などと、ひどいことを力説してしまったので、今回は何を言われても前向きに応援をしようとひそかにココロに決めていた。

友人は現在就活中なんだが、志望動機をひねり出すのが苦しいと言っていた。わかるわ、それ。志望動機とか「カネがいるから」以外になにがあるっていうの?ウソや空虚な建前をあたかも「本心からそう思うのです!!」的に堂々と語れてこそ、一人前っていうテスト?大人の階段を登った先には、ホンネと建前の二枚舌プロフェッショナルがいた!!ってやつだよ。しかも大人ってやつは段々と建前にホンネの自分を飲まれていくのさ、大人がみんな同じようなのっぺらぼうに見えるのはそのせいさ、世間が望む自分像を演じているうちに自分の本当の気持ちがわからなくなっちまうのさ。
…って、その痛いキャラはどっから出てきたんだ、自分。

友人は「また前回みたいに仕事が続かなかったらどうしようって不安になる。私って本当に飽きっぽい性格なんだもん」と言う。
もちろん、私は「ソダネ」などと相槌を打たずに、「いやいや、あなた、さそり座だからそんなことはないよ、大丈夫だよ」と前向きに励ました。ほら、美川憲一の『さそり座の女』によれば「あなたは遊びのつもりでも、地獄の果てまでついて行く♪」らしいから、飽きっぽいの正反対、粘着質だよ。だから、全然、飽きっぽくない。まぁ前回と前々回の勤務先は予想外に「地獄の果て」が近かったから結果として早々に辞めただけでね、と。

つーかさぁ、従業員の平均勤続年数が短いブラック系企業会社に勤めた場合、従業員が早々に辞めるのは性格のせいなのか、環境のせいなのかわからんし。それにそのような会社にしか就職口がなかったのは、「努力不足」というより(彼女は普通の人よりはるかに努力はしている)、不況のためかもしれないし。

問題は「辞職理由:自己責任30%/環境70%」とか、誰も客観的に診断できないことなんだよなー。だから自己責任90%くらいのやつが「周りが全部悪い!」と人のせいにしたり、自己責任40%くらいのやつが「私が全部悪い!」としょいこんだり、ほんとめんどくさいことになるんだよなぁ。特に努力家や頑張り屋であればあるほど、外部環境のせいにしたくはないって思っちゃったりするし。「だってちゃんと長く勤めている人もいるんだよ?」である。なのに、なぜ自分はダメなんだ、と自己嫌悪とともに、しみじみ思うわけだ。
知ってる、知ってる。「この道~は、いつか来た道~♪、あ~あ、そうだよ~お♪」、アカシアの花など咲いていない、不毛の自己嫌悪砂漠へとつながる道だねw。やべぇ、全然励ましてないw 

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10月22日(火)

起床時刻:08時00分

10月21日(月)

起床時刻:08時00分

10月20日

起床時刻:11時00分

10月19日

起床時刻:08時15分

10月18日(金)

起床時刻:06時45分

10年ぶりに会った友達に「pyaaaちゃん、10年前と同じこと言ってる」と指摘された、とこの前ここに書いたけど、これがずっと頭にひっかかっていましてね。

というのも、わたしはこの10年間、冷凍保存されていたわけではない。多少は経験を積み、若干の本も読んだのである。それにもかかわらず、全く考えていることが変わっていないってどゆこと?

確証バイアスのせい?つまり、10年前のわたしが持っていた考えにあてはまる経験や情報だけを無意識のうちに重視して、それ以外はスルーしていたために、10年前の考えから全く変化しなかった(というか、10年前の考えが強化されて、頑固ジジイ化した)ということなのかしらん?

わからない。
でも、私はいつだって自分の考え即ちこのネガティブな見方を変えようと頑張ってきた。頑張って、ポジティブなヒトのブログや本を読もうとしたが、どうも目が拒否してしまう。きっとポジティブなヒトは私の日記を読むとイライラするだろうと想像するんだけど、その感情って、自分でコントロールできないでしょ?

こういうことをツラツラ思っているときに読んだのが『確信する脳』(ロバート・A・バートン)。「確信とはそれがどう感じられようとも、意識的な選択ではなく、思考プロセスですらない。確信やそれに類似した「自分が知っている内容を知っている」〔knowing what we know〕という心の状態は、愛や怒りと同じように、理性とは別に働く不随意的な脳のメカニズムから生じる」(P11)

「内観だけでは、思考を形成する生物学的制約を乗り越えることができない。その様子を見ることのできるありふれた例として、うつ病(双極性障害のうつ期)の患者が感じる、どうしようもなく低い自尊心と全面的な罪悪感がある。<略> 友人がいくら助言をしても、その確信は変えられない。患者は自分の自己理解の正しさを革新しているため、治療を拒否してゴールデンゲートブリッジから海に飛び込んでしまう」(P201-202)。だから私は認知療法なんか効くわけがないって思っちゃうんだよな。

本書の目的は「確信の根底には意思の力では変えられない神経学的要素があることを明らかにして、確信の力を削ぐ」ことだそうだ。でも例えば「神様はいる」という確信とか、それが脳神経的な勘違いだと説明されても、確信を削ぐことなんか全然できないと思う。それと同じようにネガティブ信者である私の信念も全然揺るがない。それどころか「揺るがなくってもやっぱり当然なんだ」と頑固ジジイ回路が活性化してしまったようである。困ったもんだ。

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10月17日(木)

起床時刻:08時00分

10月16日(水)

起床時刻:07時30分

10月15日(火)

起床時刻:07時30分

10月14日(月)

起床時刻:08時10分

10月13日

起床時刻:08時00分

『サイコパスを探せ!:「狂気」をめぐる冒険』の続き。
著者の友人は著者の仕事を批判する。
誰しも極端な部分、狂気に近い部分を抱えている。その側面だけをあげつらうのがジャーナリズムあるいはリアリティ番組だ、と。
「実際、ゴールデンタイムの番組には、適切な狂い方をしている人々がたくさん出ている。<略>私たちは彼らを見て笑い、彼らほど狂っていないと知って安心する」
リアリティ番組の元アシスタント・プロデューサーの女性は適度に病んでいる人が番組的に一番おいしいと気づいたそうだ。プロザック飲んでいる程度がちょうどいいらしい。
「私たちは狂った人々を見つけると、そういうふうになってはいけないという見本として、大衆の目にさらしていた。たぶん、正常でいようとすることは非常に難しいのだろう。だからこそ、誰もが、自分が狂ってしまうのではないか、と恐れているのだ」(P262)

著者は最初はボブ・ヘア(サイコパス・チェックリストをつくったロバート(ボブ)・ヘア)信者だったが、段々と懐疑的になっていく。
サイコパスといってもグレーゾーンがあるじゃないか。つまりサイコパスチェックリストで全部があてはまる人は、トト・コンスタンにせよ、ダンラップにせよ、いない。その場合、サイコパス的な要素で判断されるべきなのか、それとも正気な部分で判断されるべきなのか。この疑問をボブにぶつけると、彼は答えた。

「そういうたぐいのことを言う連中は、とても左翼的な、左に傾いている学者なのだよ。いや、私は決して軽蔑的な意味でこの言葉を使っているわけではない。彼等はラベルを貼るのが嫌いなのだ。人々に違いがあるという話が好きではないんだよ」彼は間をおいた。<略> 「犠牲者に、よいところに目を向けてくださいと言ってごらん。彼女は『できません。私の目は腫れあがっているので』と答えるだろう」
もちろん、行きすぎたラベルづけがあるのは認める、とボブは言った。しかし、それは製薬会社の仕業だ。
「彼らがサイコパスの薬を開発したらどうなるか、見物だな。診断基準スコアはぐんと下がり、25とか20に・・・・・・」
「サイコパス探しを始めるようになって、ちょっとばかり自分のパワーに取り付かれたようになっていたと思うんです」と私は言った。<略>
「知識はパワーだ」とボブは言った。
(P332-333)

ちなみに私自身は狂ってしまうかもしれないなんて全然考えたこともないけどね!でも「誰もが、自分が狂ってしまうのではないか、と恐れている」世界においては、「自分は狂わないと確信している」私がむしろおかしいってことになるのか。。。

私自身は、極めつけのサイコパスには出会ったことがない。幸いにしてサイコパスが多いという地位の高い人々とも犯罪者集団とも無縁なので。
サイコパスの特徴を読んで思い浮かべたのは東野圭吾の『白夜行』の、あの美人だ。貧乏に生まれるが、良心のかけらもなく、カリスマ的美貌と知能で人を操り、人を蹴落とし、のし上がっていく彼女。あれ、完全にサイコパスだよね。
サイコパスとつきあう一番いい方法はつきあわないことだろう。ただ上司がサイコパスだったりしたら?サイコパスの知識があれば違うのだろうか。知識はパワーだから。振り回されることもない?いや、振り回されるだろう。「オレオレ詐欺」が広く知られても、だまされるように。安易なラベリングをしたくなるという弊害があるとしても、知らないより知っておいたほうがいいよね。

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10月12日

起床時刻:08時45分

『サイコパスを探せ! : 「狂気」をめぐる冒険』(ジョン・ロンソン/朝日出版社 (2012/6/8))を読んだ。面白かった。

サイコパスとは(この分野の第一人者のボブ・ヘアによると)「魅力や巧妙な手口、威嚇、セックス、そして暴力を用いて他人を支配し、自らの利己的な要求を満たす捕食者である。彼らは良心や共感といった感情を欠き、自分が欲しいものを手に入れ、好きなようにふるまい、罪の意識も後悔もなく、社会規範を破り、期待を裏切る」

アダム・パーキンスのfMRI検査でもボブが囚人に行った電気ショックによる脳波の調査でも、サイコパスは一般人とは脳波パターンが異なり、残酷な場面でも汗ひとつかかない。

「サイコパスは刑務所人口の25%にすぎないが、刑務所内で起こる凶悪犯罪の60~70%は彼等のしわざ」
「サイコパスは変わらない。彼らは罰を受けても学ばない。いずれ年をとって怠惰になり、人を困らせるのが面倒くさくなるまで待つしかない」(エシー・ヴァインディング)

多くの心理学者はサイコパスがいる割合は、通常の人々の集団(約1%)よりも企業のトップなど高い地位についている人々の集団のほうが高い(3~4倍)と信じている。例えばマーサ・スタウト(『良心をもたない人たち』の著者。彼女はサイコパスではなくソシオパスと言っているが実質的な違いはない)。社会階層の梯子を上がれば上がるほど、ソシオパスの数は増えていく、と言う。
「ソシオパスはパワーがすごく好きなの。彼らは勝つのが好き。人間の脳から、愛情に満ちた優しさを取り除いたら、残るのは勝つ意思くらいなものよ」

著者はその後、冷酷にリストラを敢行することで有名なCEOアル・ダンラップに会いに行き、サイコパスなのかチェックしようとする。ダンラップは天然なのか、サイコパス・テストをリーダーシップ・テストと読み替えて高得点をマークした。実際のところ、強力なリーダーシップを振るうためにはサイコパス的要素が必要なのかもしれない。

『進撃の巨人』でアルミンが「確信していることがある」と話していたでしょう。「何かを変えることのできる人間がいるとすれば、その人はきっと大事なものを捨てることができる人だ。化け物をもしのぐ必要にせまられたのなら、人間性をも捨て去ることができる人のことだ。何も捨てることができない人には、何も変えることはできないだろう」、と。
これサイコパスなら余裕でできるからねwww
しかもサイコパスはカリスマ的魅力にあふれた人が多いそうだから、リーダーになりやすいんだよね。

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10月11日(金)

起床時刻:08時00分

今週はちょっと鬱っぽい気分だった。
こういうときは「ああ、ここから飛び降りたら全てが終わる」的な甘美な妄想がふと浮かんだりする。
「いやいや、死ぬ勇気があれば死ぬ気で頑張れよ!」と自分につっこむが、問題は「死ぬ勇気」は一日(というか一瞬)で足りるが、「死ぬ気で頑張る」方は一日で足りることはないし、期限もわからない、ということだ。

まぁ死ぬ気で頑張れば、いつかは過労死という形で終わりがくるのかもしれないが、普通は過労死になる前に鬱になったり仕事をやめるなりして、淘汰されていく。過労死の谷をくぐり抜けたものだけが、「最近の若者は甘えているんだよ!俺の若いころなんて死ぬ気で働いたんだ!文句ばかりいわずに自分の限界に挑戦しろ!」と敗残者どもに説教をするという素敵なポジションを獲得できる。羨ましいね。そうやって自分に自信が持てることが。

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岩波新書の某書を読んでイライラする。一次資料はそこそこ面白いのに解釈が常識的でありきたり。まず結論ありきなのだ。人は自分の意見に合致するものだけを、資料の中に見出すのか。
ま、本を読んでも自分の考えを補強するところだけが印象に残るように、結局、新しい知見に触れてもその新鮮な考えを取り入れることはできないのかもしれない。モームは"It maybe that you only get out of a book what you put into it and see in it only what you are."と書いている。

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10月10日(木)

起床時刻:08時45分

なんだか最近(でもないな、前からだな)、自分がやたらと独断的なことを書いている気がして、我ながら「これってどうなんだろう」と思っていたのだけれど『上出来の人生だが・・・・ サマセット・モームの警句とお喋り』(森村稔編著・モームの著作からの引用と編者の感想からなる本)を読んで、かのモームでさえ、独断的だし、平気で矛盾したことを書いているし、同じようなことを繰り返し述べているのを知って、「まぁいいか」と思った。

"It is cruel to discover one's mediocrity only when it is too late."(Of Human Bondage)
「時既に遅しというときにならないと、自分の凡才に気づけないとは残酷なものだ」
タイムマシンがあったら、20年前の自分に「そこ、分岐間違えてるよ!そっちいったら、バッド・エンドだよ!!」と教えてあげたい。ていうか、10年前も分岐間違えてたな。今も現在進行形で間違えているんだろう。

"After all, in any other walk in life it doesn't matter if you're not very good;you can get along quite comfortably if you're just adequate; but it's different with an artist."(The moon and Sixpence)
「まぁ、他の職業なら特別に優れていなくてもいいんだよ。そこそこ出来れば、十分快適にやっていける。けれども、芸術家は別だ」
ハァ?他の職業なめてんだろw今どきのadequateレベルは、頑張っても非正規労働にしかつけなくて、ワープアコースまっしぐらだ。

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10月09日(水)

起床時刻:08時00分

10月08日(火)

起床時刻:08時00分

10月07日(月)

起床時刻:08時00分

10月06日

起床時刻:09時30分

ちょっと前に、ネルケ無方師の『迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教』 (新潮新書)を読んだ。京都の某臨済宗のお寺での修行体験談にドン引きした(というか、この寺に限らず日本の寺及び坊主の現状にいろいろとドン引きしたが、その中でも一番ドン引きするエピソードを紹介しよう)。

ゲンさん(仮名)という切れやすい雲水が、トクちゃん(仮名)という鈍くさい雲水に「『倒れるまでこの杉の木に頭をぶつけろ』と命令しました。誰もその理由は分かりません。しゃがんで草むしりを続けている皆の耳に、トクちゃんの額が木の幹にぶつかる鈍い音だけが響いていました。私を含めた誰もそれを咎めるわけでもなく、何も言おうとすらしません。フッと見上げると、トクちゃんの額からかなりの量の血が流れています。(中略)トクちゃんが血を流しても、見て見ぬふり。誰も積極的に彼を救おうとは考えません。」

「はたしてこのような修行を続けることで人は救えるのでしょうか。仏法を学び、衆生を救うなんてこととは、無関係な気がしました。仲間の一人を庇う勇気すらないのですから……。」と無力感を覚えて、無方師は山を下ったそうな。

う~~~む。相撲部屋から禅寺まで、柔道部からバスケットボール部まで、指導という名の暴力が広がっている理由は、ひょっとしたら、「成長を促すためには暴力は必要な装置である」というのが日本人の伝統的指導観だからなのか、と思えてくる。

日本においては禅でも、武道でも、鮨屋の修業でも、頭(=理屈)を軽視する。「理屈をこねるな」と最初に言われる。「無我の境地」すなわち「何も考えない」状態が一番上のランクの精神状態と考えられている。
で、「理屈をこねない」「何も考えない」ようになるためには、自我を追放するしかないわけだ。「私が、私が」という気持ちをなくすことが大事なわけ。そして自我を追放する一番有効な手段が暴力なんじゃないか。何も考えられないくらい体を痛めつけること。寝させないというのも宗教の修行でよくあるわけだが、これも一種の自我の破壊ですな。
このような暴力的な仕打ちがブレイクスルーになるというコンセンサスとおそらく実績もあるから、暴力が由緒正しき伝統になっている。

その背景には日本の「身体性の重視」の伝統がある。それが、頭と身体の二元論で考え、常に頭を上位に置く発想の西洋人には新しかった。無法師も座禅を通じて、いわば身体を発見することによって、頭でっかちな悩みから解放され、「楽」になったと言う。
しかし「身体性の重視」の双子の片割れは「言葉の軽視」なわけよ。口で言っても伝わらない。だから何も伝えない。何も教えない。技を盗め。できなかったら殴る。日本の伝統的教育はこういう形の指導になりがちなんじゃないか。だから、体罰も異様だと思わない。

体罰にも上述のようなプラスの面はあるだろう。体罰によって、成長する人もいるだろう。しかしそんな成長ならいらないってのが私の立場だ。ま、私がいうと説得力ゼロになっちゃうのが悲しいけど。0歩(万歩計つけず)。

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10月05日

起床時刻:08時45分

「どうやら大人というのは、ときどきぼうっとしながら自分の悲惨な人生を見つめ直しているようです。ただただ嘆きつづける姿は、懲りもせず同じ窓ガラスに激突していくハエみたいです」
『優雅なハリネズミ(L'Elégance du hérisson)』 (ミュリエル・バルベリ/早川書房/2008/10/9)より、ブルジョワ階級のパロマちゃん(12)のお言葉。

この小説は出版社(早川書房)の紹介によれば「自分の知性をひた隠し、アパルトマン管理人の典型を生きようとする未亡人ルネ。大人たちの世界のくだらなさに幻滅し、自殺を志願する12歳の天才少女パロマ。二人は並外れた感性と頭脳を持ちながらも、世間との係わりを拒み、自らの隠れ家にこもっていた。しかし、ミステリアスな日本人紳士オヅとの突然の出会いによって、二人の未来は大きく開かれるのだった――哲学、映画、音楽、絵画、文学、そして日本文化へ自由自在に言及しながら、パリの高級アパルトマンに住む人々の群像をユニークに描き上げ、今世紀フランス最大のベストセラーを記録した感動物語」である。
小説は、高級アパルトマン管理人のルネ(54才)の日常と、アパルトマンに住む裕福な子供パロマの書く日記とが交互に語られ、すすんでいく。

本書はフランスの「本屋大賞」を受賞し、本国フランスでは130万部売れた他、イタリアでも60万部、韓国では10万部売れたらしい。
とこのように書いたら、ルネとパロマに思いっきり軽蔑のまなざしで見られそうだなw パロマの日記に「どうして大人というのは、○○賞を受賞しただの、○○万部売れただの、○○円もするだのという形でしか、モノの価値を表現できないんでしょうか?それはきっとその人のなかに価値を語る語彙が他にないからです」とかなんとか書かれてもしかたない。

後半の王道ストーリー含めて『ブリジット・ジョーンズの日記』をフランス版にしたらこんな感じになるのかも?という気がちょっとした。ブリジットはミドルクラスだから、超底辺クラスと自分を位置づけている暗いルネとは全然違うんだけどね(ものすごい階級社会でびっくりする)。『ブリジット・ジョーンズの日記』が陽性な笑い&難しいこと抜き!なのに対し、こちらの笑いはフランスらしく皮肉が入っていて、理屈こね力がハンパない(そこが面白いんだけどね)。

「人は、行動ではなく言葉が権力を持つ世界に生きていて、究極の権力は言語をあやつる能力なのです」とパロマちゃんは日記に書くが、これこそフランスである。これこそ欧米である。日本人がこの口先文化というグローバル・スタンダードの中で戦っていくのは大変であろう。「巧言令色鮮し仁」のプロパガンダをしようにも、プロパガンダをするには巧言令色の連中を雇わねばならんという自己矛盾w

とはいえ、口先文化に疲れる欧米人もいるわけで。ルネもパロマも日本文化が大好きなんだが、簡素を美とする日本文化には、あらゆるものが過剰になりがちな社会に対する癒しがあるんだろうとも思う。それに日本は「身分相応にふるまうか、さもなくば死ぬか」(ルネ)というような階級社会でもないしな。著者は2008年から京都に移住しているそうだ。0歩(万歩計つけず)。

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10月04日(金)

起床時刻:08時00分

本日のお仕事は「エクセルの表づくり」という地道な地道な作業。
一つ一つ、コピペしたり、罫線を整えたり、ほぼ家内制手工業であった。

仕事をしながら考えた。
この仕事というか作業を小学生に時給500円くらいでやってもらえれば、私はその間、遊んでいられる上に差額の時給をピンハネできる。小学生でも出来るような単純作業だし、世間を知らない彼らには時給500円でも充分だろうから、文句もいわないだろう。
……って、こりゃ腐った資本家や悪徳経営者そのまんまの発想だわw
ま、児童労働は法律で禁止されているからどっちにしろダメだけど、派遣業者はこんな感じの精神で経営しているのかな。

通勤電車で『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平/平凡社新書/2009)を読む。折口信夫の発想の背景をいくつかのキーワードを用いながら、時に大胆に想像を膨らませて(折口のように)、説き明かしていく。新書というコンパクトな体裁にまとまっているのはありがたい。写真が多いのもよかったね。若いころはこんなカオだったんだ!って、またそこかい、自分w
しかし今だったらパワハラで訴えられそうだね、この人は。男の学生(弟子)相手にセクハラもしてるんじゃないか。こんな人が上司じゃなくてよかったわい。

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10月03日(木)

起床時刻:08時00分

外に出たら金木犀の香りが。
秋の空気に心も軽く、細身のパンプスを履いて出かけたら、10mぐらい歩いたところで足が痛い!!
最近はスニーカーか健康サンダルみたいな靴ばかり履いていたから忘れてたけど、私こういう靴はアカンのじゃ。家に帰って靴を替えたいけど、私は既に遅刻しており、そんな時間はない!!
というわけで纏足の苦しみを味わいながら、会社に行って帰ってきた。

あわない靴を履いていると、一歩歩くごとに痛いし、本当に靴を脱ぎ捨てたくなる。歩くたびに「なんで私はこんな苦痛に耐えしのんでいるんだっけ?」と自問してしまう。

「おしゃれは我慢」とは神田うのの至言だが、そんな我慢して得られるものは、自己満足を除けば外反母趾くらいじゃないか。清潔だったらそれでもう必要にして十分、「おしゃれ」とか「センス」とかどうでもいいっす。
という、この境地を世の人は「おばさん化」といって眉をひそめるが、無欲に近づいているんだからむしろ賞賛されていい。「今年のトレンドを取り入れたい」とか、「足の格好を良く見せたい」とか、そういう諸々の欲望をすべて切り捨てて、「清潔であること」に一点集中する。実にシンプル。

しっかし、このパンプスも捨てなきゃいけないんだろうなぁ。高かったんだけどなぁ…って無欲にはまだまだほど遠いね。9454歩。痛いのによく歩いた;;。

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10月02日(水)

起床時刻:06時00分

会社で急に胃がキリキリ痛み出した。原因は不明。パンシロンキュアを2包ほど飲んで、痛みがおさまるのを待った。持っててよかった胃腸薬。

「この痛みさえなかったら最高にしあわせだろうに、とふと考えた。こういう瞬間に気づくのだが、まったくなにも-善いことも悪いことも-起こらないのは、非常に運がよいのである」(P23)

エリック・ホッファーの『波止場日記―労働と思索』(みすず書房新装版/2002/08)より。アフォリズム集のような日記。何げない日常生活を淡々と綴る中にさしはさまれる、警句のような思想の断片。
「人間は、自分自身の嫌な点を受けいれてなんとか生きていくものである。このような受容の償いは他人に対し寛容になること-独善の罪を浄化すること-である」(P72)とかね。

1958から1959年、ホッファーはサンフランシスコで沖仲仕(港湾労働)をしながら一人紅茶を飲み、豆のスープを食べ、読書と著述にふけり、日曜日には(擬似?)家族であるオズボーン家を訪れ、食事を供にする。

「素敵よね、そういう簡素な生活」と憧れるが、わたしだったら三日も続かないだろう。沖仲仕って何をやるのかしらないが、多分船の荷下ろしとかだよね。絶対大変だとおもうんだけど、ホッファーは50代後半なのに仕事を楽しんでいる。すごいな。もっとも労働時間は結構短いけどね。休みもよくとっているし。

「ほとんどの場合、創造の原動力となるのはささいな、だが持続的ないらだちに対するおだやかな反発である」。日記をつける、なんつうのは創造とはいえないだろうが、なんかわかる気するな。「ささいな、だが持続的ないらだちに対するおだやかな反発」からどーでもいいことを書き続けているような気がする。6834歩。

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10月01日(火)

起床時刻:08時00分

通勤電車の中で『エスペラント―異端の言語 』(田中 克彦/岩波新書/2007) を読んでいる。共感しまくり。

文法に例外なく、しかも文法が簡素であるエスペラントは「学びやすい言語」だと言う。
例えば、名詞は必ず-oで終わり、形容詞はいつでも-aで終わる。
複数形は-j(イと発音)をつけ、目的語の語尾は-oをつける。
動詞の現在形は-as、過去形は-is、未来形は-os、命令形は-u、仮定形は-us、原形は-iで終わる。疑問形はĈu(チュ)を文頭につければオッケー。
こりゃあいい!楽勝じゃん!
と思ったんだけど、そうなるとP78の例文って変じゃない?
「あなたはエスペラント語を話しますか?」が「Ĉu vi parolas esperante?(チュ ヴィ パローラス エスペランテ)」となっているけど、esperanteってなんだ?parolas(話すの現在形)の目的語だから、esperantoにnをつけてesperantonとなるんじゃないの?つまり、Ĉu vi parolas esperanton?となるんじゃないの?

「これは誤植じゃないか」とか色々書いた後で調べたら、-eで終わるのは副詞であった。parolas esperanteで、エスペラント語「で」話す、となるわけだな、多分。エスペラント語「を」話す、の場合はesperantonとなるわけだ、多分。普通にむずかしいじゃん。
というわけで、残念なわたしの頭にはエスペラントですら「学びやすい言語」ではなかったということだ。自分の頭の悪さにめまいがしてくる。8463歩。

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