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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:08:28

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01月31日(金)

起床時刻:08時15分

ありがとう、神様!!
今日は残業で夫がまだ帰ってきてない。
最近夫がまたネトゲにはまってるんで、それに付き合ってわたしもAM3:00くらいまでゲームしている。「眠いから今日は終わりにしよう」などと言おうものなら、「文句ばかりいうな!さっさとやれ!」と怒られるんである。
今日は疲労がピークに達していて(わたしの疲労許容量は普通の人よりすっごくすくない)、日中から頭がガンガン痛いわ、なんか腰も痛いわ(多分、姿勢の問題。ずっとソファに座って、ソファテーブルの上に置いたラップトップでゲームしているもんで)、「ああ、今日は帰ったら寝たい!!」と帰り道からおもってたんだよね。
そしたら夫が珍しく残業で、横になって寝ることができた。ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい!!

世の父親族が「家族サービス」とかいって家族を旅行につれていったりするけど、父親の本当の家族サービスは不在であること(金だけ入れて)ってこともあるだろう。
父親の恩着せがましい「家族サービス」幻想につきあって「仲良し家族」ごっこをやっているだけっていうね。
わたしの知人(子供二人)も夫(エリート旦那)がいると家中がピリピリすると言っていた。「夫が怒り出す地雷がどこにあるかわからないんで、腫れ物にさわるように扱っているけど、変なところで怒りが爆発する」そうな(わかる、わかる)。
彼女曰く、家族で外食したとき、夫がよくわからない理由でぶすーっとふてくされて、でも外面はいいから(←こういう男は絶対にそう)、その場は何もいわないんだけど、帰りの車の中で「お前(妻)のココがダメなんだ」と怒りを爆発、子供らも「お母さんがダメなせいでお父さんが怒って、こんな空気になったんだよ」と非難がましいことを言ったそうでつらかったというが、そんな外食なら一人で目刺しでも食べていたほうがよほどいいのだ。

まぁしかし彼女はただの専業主婦で、離婚して目刺し生活はイヤだという人なので、夫の顔色を伺いながら、ビクビク生活するしかないのである。目刺しをとらずに地雷をとったのだから仕方ない。誰に強制されたのでもなく、自分で選択したのである。ま、選択の自由とは「イヤなものA」と「イヤなものB」のどちらかを選ぶ自由であるが。第三の選択肢としては、「両方を拒絶して死ぬ」とかいうのもあるが、普通は選択肢にあがってこないね。

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01月30日(木)

起床時刻:08時10分

会社でAERAを購読しているんだけど、今週号に「努力か諦める力か-ツイッター発「為末努力論争」をリアルに議論」というのが掲載されていた。
ツイッターやってないせいか、「為末努力論争」の存在も知らなかったんだけど、ぐぐったら、こんなこと↓らしい(2013/10/28 J-Castニュース)。

************
陸上界で活躍した日本のトップアスリートの為末大さん(35)がツイッターで、「やればできると言うがそれは成功者の言い分であり、例えばアスリートとして成功するためにはアスリート向きの体で生まれたかどうかが99%重要なことだ」と持論を展開した。すると、「身も蓋もない」「道は努力で切り開くもの」などと批判が殺到し「炎上」した。」
<略>
こうした批判に対し為末さんは13年10月28日に「努力で成功できるか」と題したツイートを展開した。
「成功する可能性があるものを目標に置いた場合は努力すれば叶うかもしれないが、オリンピック選手になるのは難しく、才能と、環境がまず重要で、それが努力よりも先にくる。人生の前半は努力すれば夢は叶うということでいいと思うが、どこかのタイミングで自分を客観視しなければ人生が辛くなる。なぜかというと、努力しても夢が叶わなかった場合は自分の努力不足だと思ってしまうからだ。だから、努力原理主義を抜けられなかった人は、こんな自分を許せなくて何かを呪って生きていくことになる。そして、人間の能力はそれぞれだから一つの事に縛られるなんてもったいない、とした。
そして最後に、「がんばれ、より、よく頑張ったねもう十分だよ、の方が救われるステージがあると思うのです」と締めくくった。
************

びっくりした!!わたしの考えがオリンピックアスリートと一致するとは!!
ていうか、多分、文句をつけた人間っていうのは、為末さんというオリンピックアスリートが言ったから「ムカついた」んだろう。
わたしが同じことを言っても「はいはい、社会の負け犬乙」「かわいそうな人ですね」「真面目に努力したこともないくせに」で終わるので、痛くもかゆくもないわけですよ。
それを社会の負け犬どころか、オリンピック選手で、社会のたいていの人より真面目に努力してきた人がいうから、努力幻想を信じている人はカチンときたのだ。

アエラの調査によると、「努力すれば夢はかなう」に対して「そうおもう+どちらかといえばそうおもう」の回答は、年齢・収入・幸福感に比例して高くなる。
つまり、成功している人(年配者は日本の経済成長期と重なってたわけで、収入が右肩あがりに上昇していた時代の人である)は、自己奉仕バイアスという認知の歪みにより、「自分の成功は努力のおかげ、他人の失敗は怠けているせい」という考えを持ちやすい(同じ認知のバイアスで、失敗している人は「自分の失敗は社会のせい」と思いやすいわけだけれども、本当にそうだろうか?日本は「失敗は自己責任」の声が強くて、自分を責めるヒトが圧倒的に多い気がする)。

なのに、為末さんは成功者にもかかわらず、努力信仰を「それってバイアスだから」と書いたもんで、世の努力信者は信仰を否定されて、ムカついたんだろう。

まぁわたしがここまで努力なんか報われない!!と声を大にして書いているのは、実害を日々こうむっているからである。いうまでもなく、夫からの害である。

夫は勉強も運動も仕事もできる人間である。だから自分の成功は「頑張ったから」、他人の失敗は「努力が足りないから」というふうに常々おもっているのだ。例えば、生活保護をもらうような人に対しては「文句いわずに働け。こっちだって嫌々働いているんだ」でファイナルアンサーなのだ。「働きたくても働けない」などというのは「ただの我儘」なのである。
「努力が足りないから社会の落ちこぼれになっているんだ!文句ばかりいうな!真面目にやれ!!」と、社会の落ちこぼれたるわたしは夫に毎日言われているのだ。

わたしは自分の人生で唯一満足していることは子供をうまなかったこと、と以前に書いたが、本当にそうである。無能なばかりに毎日罵倒されるような人生をおくるなんて、かわいそうすぎる。
もちろん、自分の子供だからといってわたしみたいなダメ人間になるとは限らないが、DVの父親と無能な母親の家庭、そして「真面目にやれ」「努力しろ」「結果が全て」の社会に生みおとして「生まれてきてありがとう」なんて、ずうずうしいにもほどがある。「こっちは大迷惑だよ!!」と生まれた側ならおもうもんね。

子供には無限の可能性があるというが、プラスのほうばっかり想像してんじゃないよ、むしろマイナスの予想をしておいたほうが根拠がある。
だって、人間ってだいたい醜悪なものでしょ。一番身近な人間とさえいがみあい、憎悪しあう。見下し、評価し、利用する。他人を馬鹿にすることで自分の自尊心を保つ。他人を貶め、けなすことが大好きなのに、自分は正義の側にあるとおもっている。ていうか、正義なんて言葉を臆面もなく使えるほど、羞恥心がないヒトが表通りを闊歩する。昔も今も。
人間関係だけではなく、国の関係でも、一番身近な韓国や中国といったお隣さんといがみあい、憎悪しあう。
なんてイヤな世の中だろう。「それを変えるような子供になってほしい」なんておこがましいことは思えない。だって、世の中圧倒的大多数は国籍や民族を問わずイヤなやつなんだから。

まぁわたしは両親に恵まれて両親の愛情を一身に受けて大事に育ててもらったので、親には何の文句もない。DVもなく諍いもないすばらしい家庭で育ったわけで、むしろ感謝しかない。
でも感謝は感謝として、生まれてこなければよかったという気持ちはとても強い。まぁ両親がいなかったらとっくに自殺していただろう。死なないで、生きているのはこんな自分でも死んだら親が悲しむからである。あとは自殺したあとの死体の処理とか面倒をかけるのもなぁっていうのがある。むずかしいね。

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01月29日(水)

起床時刻:08時00分

4行日記をご存知であろうか。
「事実」「気づき」「教訓」「宣言」の4項目を4行(1行20文字程度)に分けて書く日記のことである。ITProというサイトによると、
「4行日記では、まずその日に起こった出来事などの「事実」を書き出し、それに対して自分が感じたこと、発見したことなどの「気づき」を書きます。この主観的な気づきを抽象化して、格言やことわざなどに置き換えるのが「教訓」です。最後に、「私は○○している人間です」と未来の自分の状態を「宣言」します。例えば「違う部署の人と話した(事実)」「いろんな視点を持つ人がいた(気づき)」「片方聴いて沙汰するな(教訓)」「私は広い視野を持つ人間です(宣言)」という具合です。
毎日自分の行動を振り返り、この4段階で思考を深めることが、なりたい自分像を明確にし、行動を変えていく助けとなります。自己啓発や能力開発を目的に、4行日記に取り組む人は増えています。」とのこと。(2011/01/14 小林 暢子=日経情報ストラテジー)
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Keyword/20110104/355787/

すばらしい。というわけで、私もやってみることにする。
事実:FF11で失敗して「プレイ時間に比例したスキルをいい加減に身に付けろ、馬鹿が」と夫に怒られた。
気づき:プレイ時間の累計をみると450日20時間であった。
教訓:1万時間の法則などウソである。
宣言:私は自己啓発にだまされない人間です。

この4行日記は正解なんであろうか?多分不正解だな。
私は自己啓発大好き人間で、本も色々読んでいるから、だいたい自己啓発にかぶれているヤツがいいそうなことは何でもわかるんだ。もはや自分で自己啓発本を書けるレベルで(これまたびっくりするくらい内容かぶりまくりで、パクリまくりなのがこの分野なのである)、上の「宣言」も自己啓発っぽく「私は一つのことに1万時間費やすことができる、夢をかなえる人間です」とかも思いつくわけだが、羞恥心が邪魔をする。
だいたい、「夢をかなえる」ってなんだよ?このワード好きだよね、このテの本は。でも夢ってなんなの?金持ちになる?
まぁ確かに世の中、健康と金以外、何の価値もないといえばそうなんだろうが、自己啓発の偽善者どもは、絶対にそうは書かないんだよ。
「好きなことをやっていると、自然と(ここ傍点)、健康になり、お金も集まってきます」というストーリーにしたがんだよ。あのなぁ、そういうこともあるかもしれんが、そうじゃないこともあるだろう。
中島みゆきの「ミュージシャン」という歌の歌詞にも
「他にできることもなし この齢になってるから じっとベンチで暮らしてる それより他ないだろうか 人生は長過ぎて僕の手に負えない 生意気な若い日のツケで回ってくるのか」ってのがあるだろう。
このようなミュージシャンのネガティブ発言に対しては、みゆきのように
「ミュージシャーン、さみしいことをいーわないでー♪
長生きはつらいことじゃないはずよ~♪」
と慰めるのが一番ただしいのだが、自己啓発本は絶対に慰めない。慰めるかわりに「努力の仕方が間違っていた」だの「得意分野を見極めるのが遅かった」だの「運の引き寄せ法則を知らなかった」だの「自己プレゼン能力が足りなかった」だの、後出しジャンケンで責め立てるのである。腹立つわー。

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01月28日(火)

起床時刻:08時15分

『中国と茶碗と日本と』(彭丹/ 小学館/2012年08月)を最初のほうだけ読む。わたくしは中学、高校と友人の母上について茶道を習っていたので、茶道具にも関心がある。心静かに茶碗についての理解を深めよう、と思って読みはじめたんだけど、なんかこの著者怒ってんなw
特に珠光青磁に切れてるwこんな百均に売ってそうな器がいいとか、マジ意味わかんないんですけど?みたいな怒りが伝わってくるw
日本人はこれが「侘びの美である」とか言うけど、じゃあ、侘びってなんすかね?武野紹鴎は「正直に、慎み深く、おごらぬ様子」って言ってるけど、それってただの儒教じゃん?「倹の徳」じゃん?ていうか「侘びの美」とか後付であって、「珠光が自己流の茶の湯を打ち出すために珠光青磁を利用した」(P79)だけなんだよ。利休が「朝鮮から渡来した二束三文の茶碗を利用して莫大な利益を得た」ことと「同工」なんだよ、わかってんの?みたいな感じでござった。

もちろん、学者さんの書いた本だから、こんなザックバランではない。本文を引用すると、「茶の湯においては唐物が珍重される。しかし同じ唐物でも、砧青磁、官窯青磁、景徳鎮青白磁などと異なり、珠光青磁のような下手物は安値で入手できる。そもそも当時の珠光の財力では、珠光青磁のようなものしか購入できなかったかもしれない。」
「珠光は珠光青磁の灰黄色を借用して独自の茶の湯を創り上げた。あえていえば、珠光の侘び茶は、中国の下手物青磁の借用から生まれた日本人の創造である。下手物の青磁茶碗は、珠光の茶祖としての地位の確立とともに、侘びの美意識云々と結び付けられる。茶の湯での地位も飛躍的に上昇し、珠光青磁と称せられるようになる。ついには高嶺の花となり、信長、秀吉や家康の茶入、利休の井戸茶碗のように、価値顚倒を成し遂げた唐物陶磁器の一つとなったのである。」(P81)

思いつきで書くけど、「侘び」って当時の現代アート、前衛だったんだろうと思うのよ。彭丹氏は「侘びがわからない」というんだけど、侘びのわかりにくさっていうのは、現代アートのわかりにくさと同じな気がする。いわば、砧青磁はミケランジェロでありラファエロであって、誰でもその美しさがわかる。一方、珠光青磁や井戸茶碗、楽焼なんていうのはデュシャンであり、ポロックなんだろう。

珠光、紹鴎、そして利休が完成させた侘び茶は、「権威と金の象徴」である正統派アート=砧青磁に代表される高級唐物に対抗し、「侘び」という新機軸の(もっとも彼等は「侘び」という言葉は使っていないけど)あたらしいアートを呈示してみせたんだと思うのね。井戸茶碗とか楽茶碗みたいなものを、利休というセンスの固まりが「これがいけてるんです」として呈示したから、衝撃だったわけでしょ。
もちろん利休はオサレ師匠だから、チープな日本製や朝鮮の茶碗とお高級な唐物とをミックスして使ってた。全身ブランド=唐物装備だった中世の大金持ちと違って、新興成金の利休はセンスで勝負してたわけよ。クールだったろうね、当時としては。だから田舎モンでダサい秀吉なんかコロッと参っちゃうはず。

大野左紀子さんの『アート・ヒステリー』という本によると(面白い)、モダンアートの歴史は「息子による父殺し」の歴史として記述されるそうだ。
それは「まず若者が旧態依然とした「父」のブルジョア文化に反旗を翻して登場し、徐々に広範な影響力を及ぼしていくことによって親父世代に引導を渡し、やがては自らが文化となった頃にまた次に来るものたちに乗り越えられていく……という物語です。」

唐物を見せびらかすエスタブリッシュメントにうんざりしていた信長やら秀吉やらが侘び茶に夢中になったのは、今のニューリッチが現代アートに夢中になるのと同じかもしれないし、おそらく現代のニューリッチ同様、投資要素もかなり大きかったと思う。
そう、現代アートの後ろに札束がちらついて見えるのと同様、侘びの茶道具の後ろにも札束がちらついているんである。しかも、どちらも「適正価格がちっともわからない」ために、うさんくささがつきまとうのだ(そこが秀吉が利休に不信感を抱いたところでもあるんじゃないか)。
東京都現代美術館がロイ・リキテンスタインの代表的作品である油彩画『ヘア・リボンの少女』を約6億円で購入したとき、「え?こんなマンガみたいな絵が6億円?」と驚く人がいたように(私である)、井戸茶碗を見て「え?こんなひび割れた茶碗が重要文化財?」と驚く人もいるだろう。
エライ人の「お墨付き」で価格が上下するところも、現代アートと茶道具は同じである。そして権威と金の象徴であるアートに対する批判として登場したアートが新たな権威と金の象徴になるのも世の習いなわけで、侘び茶のくせに全然侘びてないってことになるのである。

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01月27日(月)

起床時刻:08時15分

『不平等について 経済学と統計が語る26の話
Tha Haves and the Have-Nots
A Brief and Idiosyncratic History of Global Inequality』
(ブランコ・ミラノヴィッチ みすず書房 (2012/11/23))

所得と富の不平等-この問題を現代から過去の歴史にまで遡って考えるのが、本書のテーマである。すごくオシャレな装丁。でも薄いくせに値段がたっかい。3000円もする。the Have-Notsに売る気ないだろw ま、中身は薄くはないが。面白い本だった。

以下メモ書き。

●社会の所得水準に応じて、不平等はどのように変化するのか。
パレートは19世紀後半のヨーロッパ諸国および諸都市の租税に関するデータという限られたサンプルに基づいて「個人間の不平等の鉄則」の存在を確信し、社会制度が異なっても、所得分布は大して変わらないと考えた。すなわち、「80対20の法則」。

1955年クズネッツ仮説。経済成長において所得の不平等は逆U字型を示すとしたが、実際はそうあてはまらない。んで、拡張的クズネッツ仮説(金融の発展度、財政支出規模、国歌セクターによる雇用の大きさ、経済の開放性などを追加変数を入れたもの)が出て来る。

フランスの経済学者ピケティが他の経済学者と共同で十数各国を対象に実証的証明を行ったが、結果はクズネッツ仮説も拡張的クズネッツ仮説も否定するものだった。

つまりヨーロッパ各国における不平等はかつては長期的に縮小傾向にあったのに、ここ25年間は明らかに拡大している。
となると、「政治的説明」をするしかない。すなわち、所得分布に関する政治的理論(相続税や所得税をあげるか下げるか、戦争の影響など)。

●不平等は経済効率に役立つのかどうか
役立つのもあれば役立たないのもある、悪玉と善玉コレステロールのように経済発展の段階によっても不平等の有用性は異なる。発展の初期段階では物理的資本は不足しているので、裕福な人々にその所得の一部を貯蓄してもらい投資に回すことが必要となる。
ところが経済が発展すると物理的資本は足りて人的資本(教育を受けた人材など)の価値が高まり、不平等のため、高等教育を受けている人材がすくないと経済は失速する

●不平等と経済的正義
アンソニー・アトキンソンによる経済学による厚生主義的アプローチ。19世紀末の英国の経済学者エッジワースは「「洗練された」味覚の持ち主である裕福な人々には、多くの所得を得る資格がある。例えば、良質の食べ物やワインから、より多くの満足感を引き出せるからだ」と不平等を擁護(そのデンでいけば、私は多くの所得を得る資格がある)。

「最適所得分配とはシャンペンとキャビアなしでは生きられない快楽主義者に対して、パンのみで生きる人々が資金提供することなのだろうか」、こうした疑問を基にしているのがアマルティア・センによる「潜在能力(ケイパビリティ)アプローチ」。即ち、障害のある人は障害のないひとほどサッカーが楽しめないからといって、サッカーをやる機会を減らせというのはおかしい、むしろ障害のある人ないひとそれぞれが楽しめるように、「潜在能力」を同等にするように調整するべき。この考え方によると既存の財やサービスから満足を得ることがむずかしい人にこそ、より多くの所得を与えるべき。

しかし厚生主義は結局個人の効用を比較できないところでつまづく。

ロールズ「不正義とは、すべての人々の利益にならず、とりわけ貧しい人々の利益にならない不平等である」

●中国に対する唯一の深刻な脅威は増大する不平等である
1980年代所期の改革開始時には30以下だったジニ係数は45にまで拡大
中国のもっとも裕福な沿岸の省と内陸の貧しい省を比べると格差は10対1まで拡大した(少なく見積もって)。この数字はソヴィエト連邦末期の上下差6対1に比べてとてつもなく大きいが、ソヴィエトと違って単一民族であるか、漢民族が大多数である地域がほとんである。
中国の国家的統一が脅威にさらされるとしたら、それは国内の経済的分裂に端を発するものとなる可能性が高いだろう、と書いてある。

●グローバリゼーションによって世界各国の所得は収束したか。
新古典派とよばれるかつての経済理論によれば、グローバリゼーションによって世界各国の所得は平準化するはずだ。
豊かな国の対外直接投資先はまずしい国になるはずだし、豊かな国で成熟した技術をまずしい国は比較的低コストで取り入れて、模倣し、技術的に追いついていくプロセスを開始できるはずだし、まずしい国が比較的得意とされる分野に特化することで成長率を加速させることができるはずだし、豊かな国の組織や政策をまずしい国は「借りる」ことができるはずだから。
ところが実際には近年のグローバリゼーションのもとで所得は分岐している。
実際のところ、資本は豊かな国からまずしい国に流れたのではなく、豊かな国から豊かな国に流れた。2007年、米国に対する外国からの新規投資は2400億ドル、一方の中国は1380億ドル。しかし中国はまずしい国の中の例外
で、インドは230億ドル、。
理由はまずしい国の裕福な人々が自分のお金と生命を心配して、外国に投資している=「ルーカス・パラドックス」。労働力もそう(スキルのある人は裕福な国にいこうとする)。それに技術的発展は内生的。

世界の国々の間の「今日の不平等は19世紀および20世紀の大半の状況よりも、はるかに拡大している」そうで、フランスのブルギニョンとモリソンの推定によると、1820年のグローバルな不平等はジニ係数50(単位は%)だったが1950年には64、1992年には66に達しているとのこと。著者によれば世界のジニ係数は70にも達する(低くみつもって)。これは当たり前だが、世界中のどの国よりも高い。
言い換えると昔は「生まれた階級」で所得は決まったが、今は「生まれた場所」のほうが大きいということになった。

ふーん。

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01月26日

起床時刻:不明

お正月に読んだのかな、『食と文化の謎―Good to eatの人類学』(マーヴィン・ハリス/ 岩波書店 (1988/8/30))。面白い。ていうか、私のツボだね、タイプだね。「なぜヒンドゥー教は牛を聖なるものとするのか」「なぜユダヤ教徒やイスラム教徒は豚を食べないのか」など、誰でも一度はおもったことのある疑問を「それは宗教だからである」で片付けないところが、たのしい。納得いかないところがあっても、たのしい本だから許す。

ハリスさんの基本的考え方としては、
「好んで選ばれる(食べるに適している)食物は、忌避される(食べるに適さない)食物より、コスト(代価)に対する実際のベネフィット(利益)の差引勘定のわりがよい食物なのだ。」
「つまり、選ばれる食物は、忌避される食物にくらべて、一般的に、一皿あたりのエネルギー、たんぱく質、ビタミン、ミネラルが多いのだ。世界各地の料理にみられるちがいは、大部分、エコロジカルな制約と条件に理由をもとめられ、その制約と条件は地域によってことなることを本書で明らかにしょうと思う。たとえば、結論をさきどりして言ってしまえば、肉食中心の料理は比較的低い人口密度、作物栽培に不向きか必要としない土地に関連がある。逆に、菜食中心の料理は高人口密度にむすびついており、地勢、地味と食料生産技術の制約から、食肉用動物を飼育すると、人間が手に入れられるたんぱく質とカロリーの総量が結局は減ってしまうことになるようなところである」

以下メモ書き。
第1章。動物性食物と植物性食物は、それぞれ、人類の食生活において根本的にことなる生物学的役割をはたしている。動物性食物は、そのような有用性と稀少性があいまって、象徴的な力をもつものとなる。「発展途上国のひとびとの動物性食物摂取パターンの特徴はみずからの意思による自粛というより、不本意な禁欲なのだ。それは、一人当たりの収入があがるにつれて、
動物性食物と植物性食物の比率がかわっていくことからわかる。」として日本の例が挙げられている。

第2章 牛は神様。「ヒンドゥー教の歴史において、牛の保護がつねに中心的な問題であったわけではない。ヴェーダ時代におけるブラーマン階級の宗教的義務の中心は、牛の保護ではなく、屠殺だったのだ。そのようなおしみなく、牛を屠殺し、食べる時代は、やがてヴェーダ人の主張たちが、もはや大量の牛の群れを富の象徴としてたくわえておけなくなるとともにおわった。人口が増加し、森林が縮小し、牧草地にスキが入り、それまでの半牧畜生活様式は集中的な農耕と酪農にかわった。」

「人口密度が高くなるとともに、牛は人間と食物をとりあうようになり、やがて牛の肉はコストがあまりに高くつくものになって、首長たちは、牛肉食をともなう公開供犠で、それまでのように気前よくふるまえなくなった。」

「紀元前600年頃になると、農民の生活水準はさがり、また戦争、旱魃、飢饉が大きな打撃を与えた。」
肉食にありつける不平等性に対する敵意がしだいに大きくなってきていることに、新しい宗教指導者たちは気づいた。そのような緊張に満ちた社会的、経済的状況のなかから、仏教-世界で最初の不殺生宗教が生まれた。
「仏教の発生は大衆の苦しみと環境の疲弊に姦計があったのだ。おなじように動物供犠に反対する類似の非殺生宗教がインドで同時期に発生しているからだ。」ジャイナ教とか。

「仏教の牛供犠に対する反対が事実上意味していた牛食の禁止は、貧しい農民たちの胸にひびいたにちがいない。」
「九世紀にわたって、仏教とヒンドゥー教は、インドのひとびとの胃袋と心を自分のものにしようと争いつづけた。結局、ヒンドゥー教が勝利した。しかし、それは、ブラーマンたちがリグ・ヴェーダの動物供犠妄執を克服し、非殺生の教義-今日アヒムサで知られる-を採用し、牛の殺害者でなく保護者をきどるようになったあとのことだ。」

ほかのどうの動物(あるいは物)も、人間に対して牛ほど多くの貢献ができないことである。

第3章、豚肉嫌悪は、どう考えても、牛肉嫌悪よりもっと非合理的に思える。すべての家畜のなかで、豚は、食物を肉にかえる速度と効率で、もっとも大きい潜在能力をもっているからだ。

なぜ古代イスラエルの神はひとびとに、豚肉を賞味することを禁止したのか。ヤハウェーは食用可能な動物は反すう動物であってほしかったのか。
「反すう動物のなみはずれたセルロース消化能力は、中東では、人間と家畜との関係にとってきわめて重要な意味をもっていた。」
牛、羊、ヤギは人間の食べない草、わら、干草、木の葉などを食べて大きくなる。豚の食物は人間と競合する。高セルロースの餌で育てると豚は体重を減らす。豚は雑食だが、反すう動物ではない。実際のところ、消化器官、必要な栄養物に関して、豚は猿と類人猿以外のどの哺乳動物より、人間によく似ている。豚は汗腺を持って以内ので、泥や水で体をぬらして体温の上昇を抑えなくてはならない。泥や水がない中東では、豚を飼うことは昔も今も、反すう動物を飼うのよりずっとコストがかかることなのだ。
こういったマイナスを上回るベネフィットが豚はあまりにちいさい。

たしかに豚は中東の各所で一万年前から飼われている-羊と八木とおなじくらい古くから、牛よりは前から。カールトン・クーンは中東では豚飼育の全般的衰退が起きた理由として、「森林破壊と人口増加」のためと明確に説明した。著者いわく、森林が破戒されていくのと同時に、農地と牧草地も不毛になっていき、そのような森から耕地、耕地から牧草地、牧草地から砂漠へという連続的変化は、それぞれの段階で、反すう動物の飼育には有利を、豚飼育には不利をもたらしていった。

おもしろーい。

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01月24日(金)

起床時刻:07時45分

以前、歯科矯正の先生に「わたしは意思が弱くて」みたいなことを言ったら、「君みたいにあごのがっしりした人は、意思が弱いはずがない」と言われて「・・・」となったという話を前にここにも書いたけれども、わかった、わたし、普通の人が鼻歌まじりにできることも、歯を食いしばって全力投球しなきゃできないような、かわいそうな人間なんだ。だから無駄にあご(というかエラ)が発達してんだ。確かに私、気がつくと歯をくいしばってることが多い。
しかもわたしが歯をくいしばって頑張っていることは歯科矯正の先生しか知らなくて、周りにはただの顔の四角いヤツくらいにしかおもわれてない。

無駄なあごの発達を経て、今の私が万事にやる気を失っても無理はないといえるだろう。
誰もが社会の歯車に過ぎないにしても、ゆがんだ歯車は歯車としても悲惨である。いくら努力してもゆがんで生まれた歯車は一生ゆがんだままだ。他の歯車と協調しようと頑張っても、歯車がゆがんでいては協調できない。どちらかが磨り減るだけだ。まぁゆがんでいるほうが当然、非難されるのだが。生まれてきてすみません、不良品の歯車ですみません、というべきところかもしれないが、不良状態で生まれてきたのは自己責任じゃない、と無駄なあごの発達を経てしみじみ思う。
昔は「全員が白紙の状態で生まれてきて、努力不足のダメ人間だけが不良品に育つのだ」という「不良品=自己責任論」が一般的だったけれども、遺伝子研究やらなんやらで、もちろん後天的要素も半分くらいはあるにしても、もって生まれた歪みはどーしよーもない、ということもわかってきたのである。

なんていう中学校のころおもっていたことを中年になっても書いているとは、おそろしい。やっぱり普通じゃないんだとおもう。成長が普通の人より著しく遅れているのだろう。その兆候は小学校のころからあった。しかし私は成熟するまえに老化するんである。見た目は老人!頭脳は幼児!という逆コナンコースである。漫画にもならんね。

今日の夕飯は豚肉の味噌漬け(昨日漬けといたやつ)、付け合せはキャベツのバターいため、豚汁、大和赤まな(奈良の伝統野菜らしい)と油揚げの煮びたし。しょーもない夕飯。嫁の飯がまずいんだがスレにさらされそう。料理なんてこの上なくくだらなく、やる気がしない。

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01月23日(木)

起床時刻:不明

一人の時間が足りない!
他人とは家族も含めてストレスである。
自分の欲求を抑え他人の欲求にあわせなければならないのだから。
一人でいることを嫌うのは、自分の欲求を押し通す自己中心的王様タイプか、他人の欲求に鈍感な神経の図太い者である。

人類はずっと一人になることを夢見てきた。
例えば日本人の究極の憧れは西行法師である。
旅に出てるから土地のしがらみゼロ、家族もいないから人間関係のしがらみゼロ、働いてもいないようだから職場のしがらみもゼロ。
しかもうわさによると、「願わくば 花の下にて PPK(ピンピンコロリ)」という希望どおりに亡くなったというし。
いいなぁ。理想の人生だなぁ。
でもよく考えたら、野宿とかマジ無理。旧暦の如月っていまの何月だかしらないが(3月?)、外で寝たら普通に凍死しそう。
というわけで、ヘタレな一般人は西行的な生き方にあこがれつつも、しがらみだらけの世界でしがらみにまみれて、自分を押し殺してTO DOリストをこなすためだけに生きてきたわけですよ。

究極的にはホームレスになって(西行だってホームレスである)精神的自由を守るか、しがらみまみれの俗世間でしがらみに従って鬱々として生きるか、どっちかなのかもしれない。
わたしは精神的な自由より風呂をとる。物欲というか生理的欲求(人間三大欲求=食欲、風呂欲、睡眠欲。あとエアコン欲を加えて人間の四大欲求にしてもいいだろう)にとらわれているのである。

もちろん、カネがあればホームレスにならずとも、しがらみ=人間関係をミニマムにしても生きられる。しがらみなしの欲求充足がカネによってできるわけですから。だから、無縁社会もカネがあればユートピアになるわけですね。ま、カネがないと、欲求を充足させるには「しがらみ」で強制するしかない。カネのなくなってきた日本国もそっち方向(しがらみの美化)にいくのかもね。

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01月22日(水)

起床時刻:不明

ANAの最近のCM見て(パイロット制服を着た西島秀俊とバカリズムがでてきて、 「日本人のイメージ、変えちゃおうぜ」(西島)、「もちろん」(バカリ)と英語で会話するんだけど、バカリはこの時、コントに使うような金髪のかつらと付け鼻をしてる)「うわー、、、こんなんやっちゃうんだ、、、イタイ会社だ」とおもってたら、yahooニュースになってた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140120-00000038-jij_afp-bus_all
「金髪に高い鼻」は人種差別、ANA新CMに外国人から苦情」という見出しだったけど、日本人は外見をいじるのに抵抗がなさすぎるというか、鈍感すぎるんだよ。(ほぼ)単一民族社会の低レベルなお笑いで感性が鈍磨しちゃってるから、「どこが問題なのかわからない」ってなるんだろうね。
もちろん、このCMの製作者には人種差別の意識はゼロだとおもうし、ただ笑いをとりにいっただけだろうが、基本、無神経なんだよ。

外国企業が日本市場に参入するCMで「西洋のイメージ、変えちゃおうぜ」つって、目じりをテープでひっぱって細くして、眼鏡かけてプラスチックの出っ歯をつけて出てきたら、お笑いを意図しているんだろうが、かなり低レベルで無神経なお笑いだ。
「一重や出っ歯は醜くても、金髪や高い鼻は魅力なんだからいいじゃん」という人もいるかもしれないが、目の細い東アジア人の整形は二重で目を大きくすることが一番多いのに対し、コーカソイド系で一番多い整形は鼻を小さくすることだ。

外見を揶揄してはいけない、という基本的なことがわかってない。
例えば日本の漫画やお笑い界だと「ゴリラ」というあだ名が平気で出て来るけれど、もし白人が黒色人種や黄色人種に対して「ゴリラ」だの「サル」だのあだ名をつければ、人種差別的というレッテルが貼られるはずだ。
人種差別的な意図は全くなく、単にその人がとてもサルに似てたからそう呼んだだけだとしても、そういうあだ名をつけたり、からかったりすることは非常にリスクが高いし、常識を疑われる。

だから外見に関するジョークをいうにはものすごく慎重にならないといけないのに、「ブス!」といえば笑いがうまれるとでもおもっているイージーで低レベルなお笑い芸人が跋扈する国では(有吉とかな。しかもあれを「毒舌」と持ち上げるなんて、頭が悪すぎるとしか思えない。しかもブスと言われた人に対して『空気よんでみんなと一緒に笑うところですよ』という無言の圧力つきなんである)、感覚が狂ってるんだろうね。「ただの冗談だよ、空気読んで笑ってよ」ですまされないと、「外人ってめんどくさい」となる。ていうか、そもそも人間関係ってめんどくさいんだよ。「日本は単一民族だから阿吽の呼吸で通じる」とかいう人もいるけど、お前に合わせてやってるだけだよ、バーカ。ホンネをいえば、日本人同士だって外人なみにわかりあえないよ。単にその場の空気読んでんだよ。

それはともかく、でかい鼻をからかうといえば、夏目漱石の『我輩は猫である』も成金のオバハンに対する鼻いじりがひどかった。もっともそれをいうなら、『源氏物語』も末摘花に対する鼻いじりもひどい。
まぁ、昔の人間は倫理的に未発達で他人に対する思いやりの心があんまりなったんだろう。だから差別的な社会をつくって平気だったんだろう。昔はそれこそ身体障害者にカタワなどと平気で言っていたが、今ではもちろん、そんなことをいう人は神経を疑われる。つまり身体的に一般人と異なる人に向かってそのことを揶揄するのはいけないことだ、というのが、日本でもやっとわかってきたわけだが、未だに一般的な美の基準から逸脱する人に向かっては平気で「ブス」というのである。外見について語るときは、身体障害について語るのと同じくらい、センシティブになるべきだろう、とりわけ、広報やピーアールの世界では。
もちろん、どこの国でも外見差別や人種差別はあるだろうが、表だって揶揄すると(サッカーの試合とかであったような)、制裁を受ける。偽善は偽善であるが、偽善って大事なんである。

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01月18日

起床時刻:08時00分

01月17日(金)

起床時刻:08時00分

01月16日(木)

起床時刻:08時00分

会社で先日受けた「ストレングスファインダー」(@『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす』)で出てきた自分の資質(強み)をシェアすることになったのだけれど、わたしの予想通り、うちの会社の社員の強み(資質)はかなりかぶっていて、多かったのは内省、収集心、着想だった。それ以外でも基本的に強みに挙げられている項目はだいたいかぶっている(ということは、強みにあげられない項目もだいたいかぶっているのだ)。これって国や民族によって違いとかあるのかな。

それはともかく、わたしがこのテストには占い程度の価値しかないとおもう理由は、「才能(じぶん)に目覚めて」、自分の強みを知っても、それを実際に活用することなどできないからだ。
なにゆえ、自分が生きがたく、人生がつらいと感じるのか、という理由はわかるにしてもね。それは結局、人間、自分の才能に見合っていないことをやるように社会から要請されているからですよ。

単純な話、例えば内省もちに適する仕事の数と内省もちの人間の数が見合ってないんだよ。需要と供給の単純な関係。
内省もちは多いが、内省もちに適する仕事はほとんどない。たいていの仕事は、レジ打ちにしろ、バスの運転手にしろ、営業にしろ、在庫管理にしろ、経理にしろ、まず必要なのは「間違えないこと」である。
例のくだらない才能集の中でいえば、規律性にあたるだろうか。しかし、規律性をもっている人はずいぶん少い。つまり、世の中の仕事が求める才能と実際にそこらへんにある才能との間にミスマッチが起こっているわけよ。
結局、この占いじゃなかったストレングスファインダーをやっても、「この仕事って向いていないんじゃなかろうか」という疑いを確信に変えるだけのことだ。常識で考えれば、一生「この仕事って向いていない」と思いつつ、だましだましやっていくしかないのだ。

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01月15日(水)

起床時刻:08時15分

01月14日(火)

起床時刻:09時00分

01月13日(月)

起床時刻:08時45分

身バレするとやばいので記事消去。当たり障りのないところ?だけ残しておこう。

人は自由なようにみえても不自由である。実際の選択の余地は驚くほど限られている。働きたくなくても、働かなくちゃいけないし、家事やりたくなくても、やらないといけないし、クライアントのご機嫌をとりたくなくても、とらなくてはいけないし、ゲームをプレイしたくなくても、プレイしなくちゃいけない。人生に自由なんかない。やるべきことのリストがあるだけだ。つまり人生とはただの「To Doリスト」である。しかもそのリストは他人が作成したものである。自分が作成したと思える(勘違いできる)人が幸せなんだろう。それが幸福感の強力な因子である自己コントロール感である。

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01月12日

起床時刻:13時30分

01月11日

起床時刻:09時00分

01月10日(金)

起床時刻:07時35分

01月09日(木)

起床時刻:07時50分

勤務先で社長に『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす』(日本経済新聞出版社 (2001/12/1))を渡された。
勝間和代が宣伝していたやつだ。自分じゃ絶対に買わないねw

この本によると、人間には34の資質(=才能。才能とは、無意識に繰り返される思考・感情・行動のパターン)があるそうで、だいたい15歳くらいまでに決まる。しかも、これらの「資質は永続的なものだ。どれほど変えようとしても、資質は絶対に変わらない」。だから弱点を克服しようとするより、自分の才能を見つけ伸ばしたほうが簡単かつ効率的。

(この点はわたしも常々ここで主張してきたところである。才能のない分野をいくら努力してやっても、ちょびっとしか成果はあがらない。だから「一万時間の法則」なんてモンが成り立つのは、もとから才能のある分野に限られるのである。このことをFF11のプレイ時間に一万時間ぶっこんでわたしは証明してきた。)

んでもって、その強みを見つけるには、指定されたURLにとんで、本についているIDコードを使用して(注意:IDコードは1度しか使用できないので古本は使えない)、かなりボリュームのあるストレングスファインダーなる心理テストを受ける。
そうすると、34の才能のうちアンタの上位5項目の才能はこれですよ、と教えてくれるのだが、わたしはほとんどの質問項目が「どちらでもない」だったねw。
というのも全ての質問が二つの資質のどちらに当てはまるかを答えさせる質問で(質問のイメージとしては「私は常に締め切りに間に合わせる」or「私は常に最上のものを提出する」とか「私の人生は成功に満ちている」or「私の人生は喜びに満ちている」とか)、9割くらいは「どちらでもない」なんだよね。このまま全部「どちらでもない」を選んだら結果ってどうなるんだろう?私の場合、会社に結果を報告しなくちゃいけないからそんな冒険はできなかったけどさ。

そして質問項目は「私は未来のことを考えるとわくわくする」だの「私は分析力がある」だの、明らかに34の資質の項目と結びつくようなわっかりやす~い質問が多く、しかも自己申告なんだよね。自分について勘違いしている場合、勘違いした結果が出て来るわけだ。

文句はともかく、占い好きなので楽しくやったが、結果はというと、「1.内省、2.収集心、3.ポジティブ、4.学習欲、5.回復志向」でありました。かけてもいいけど、日記なんか書いているやつは確実に「内省」入るから、早起き村の人も「内省」がトップ5に入るとおもうよ。まぁ日記といっても備忘録的に使っている場合は違うから、早起き村の半数くらいでしょうか。
そして皆さんが確実に高いのは「学習欲」だね。中国語、英語、資格、いろいろ勉強している人が多いから、まぁ早起き村の96%は「学習欲」が入るでしょう。
「収集心」っていうのは物だけでなく知識の収集心も入るそうで(「知りたがり」はこれ)、格言とか好きな人が多い早起き村の人たちはこれまた「収集心」もかなりの高確率で入るはず。
本を買わなくても(本だけでは自分の才能(資質)がわからず、古本の価値をゼロにして常に新しい本を買わせるとかアコギな商売だよ!)、自分の資質(才能)がわかってよかったっすね。

ちなみに勝間のやってる「勝間塾」(月額4800円!!)には「特に、ストレングスファインダーで「最上志向」「学習欲」「内省」「収集」などが多い方が多数集まっています。ドリームキラーのない環境で、一緒に支え合って、成長していきましょう。」なんだそうで、私「最上志向」以外はコアなカツマーとかぶってんだけど。うれしくない。私にいわせれば「学習欲」「内省」「収集」しかない人は高学歴ワープアタイプ(天職:ニート)だとおもうけどね。あ、ついついドリームキラー発動しちゃった。

ま、「学習欲」「内省」「収集」あたりは完全に予想の範囲内だから別にどうでもいいし、「才能っていわれてもね」という感想しかないが、私の強みに「ポジティブ」が入っているんですよ!ドリームキラーなのに?まぁいいや、私の自己紹介は「ネガティブです」から「ストレングスファインダーでポジティブもちです」にかえとくかw冗談だけどw

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01月08日(水)

起床時刻:07時50分

01月07日(火)

起床時刻:07時45分

01月06日(月)

起床時刻:07時45分

01月04日

起床時刻:09時00分

01月03日(金)

起床時刻:09時00分

正月早々ネガティブなので読んでほしくはないのだが、そう書くと「じゃあ書くなよ」と突っ込む自分もいて、だから最近ここにログインしないというのもある。それにしても、ネガティブ人間の居場所はいずこにありや?リアルにはなくても、匿名ブログというネットのあなたの空遠く、ネガティブ住むと人の言ふ、ではなかったか。ああ、われひとと尋(と)めゆきてSNS化で帰り来ぬ。

もっともログインしないのは「”ネガティブ垂れ流し”を自粛している」という理由だけでなく、「フルタイムで働くようになってそもそも時間がない」という理由もある。
とか書くと、「フルタイムつっても、パートで残業もあまりなく、子育てもしておらず家事は手抜き、親の介護もなければ近所づきあいもないくせに、なんで時間がねぇんだよ!!」と突っ込む自分もいる。yakkoさんとか見てみろや!と。
しかし、人間には人それぞれ能力というものがある。
人間には持って生まれた「器」というものがあり、それを磨くことはできるが、大きくすることはできない。
年齢を重ねるにつれて、ひしひしとそう思うのであります。

ところで結構前の話なんだけど(根にもつタイプです)、「私の淹れたコーヒーがまずくて夫が切れる」という事件がありましてな、私が「そんなに文句いうなら、自分で淹れれば?」と言ったら、「俺が家賃を全部出しているのに、なんで家事をやらなきゃいけないんだよ!俺が家事をやるなら、お前も家賃を半分払え!払えないくせに文句をいうな!」と夫がいうわけですよ。

なるほど人間の労働時間は労働生産性で決まるんですね。
つまり私がフルタイムで働いても家事は100%私の担当であるのは、フルタイムで稼ぐ生産性(=給料)が夫よりも低いから、食費や雑費くらいしか負担していない。夫と同じレベルの負担をするには、労働時間を伸ばすしかない(私の場合、家事という現物で支払っているわけですが)。

「貧乏暇なし」とはつまり「貧乏であるのは労働生産性が低いためであり、長時間労働によって生産性の低さをカバーするしかない」という意味で、この言葉の真のメッセージは「貧乏であるのも過労状態であるのも、結局オマエが無能なせいだ」ということなんでありましょう。
この「貧乏暇なし自己責任論」は「貧乏暇なしの現状を招いたのは社会ではなく、オマエ自身である」と思い込ませることで、社会の安定化につながっているんですね。結局責めるべきは社会ではなく、常に自分なんですから。おそらくブラック企業経営者も同じ考えでしょう。テメェが無能だから過労死とかしてんだよ、と。

ほんっとイヤになるね、全てが。というのが、年頭所感であります。

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01月01日(水)

起床時刻:不明

我が家に歳神様をお迎えして、年のはじめにいただくご馳走、それがお節。
子供たちにも伝えていきたい大切な日本の伝統ですね。

とかいう文章を気持ち悪がらずに書けるキャラになりたいもんですな。
もちろん、わたくしは愛国心の塊でございますから、わが国のお正月のしきたりの数々を子々孫々にまで伝え、、、って伝える子供がいないけれども、おせちは毎年つくっていたんですが(単に煮しめとか酢蓮とかが好きなんで)、旦那が「おせちはいらない。食べたくない」というので、今年はなしw もちろん旦那の嫌いな雑煮もなしw

それにしても、お節が昔はご馳走だったんだなぁ。
かつての日本がどれだけ貧しかったか、をしみじみ思う。
昔のハレが今のケ以下になっちゃってるんだよなぁ。

『十代に何を食べたか』(平凡社+未来社編)を読むと、1922年東京生まれの豊田正子は「ほうれん草の茹でたのも、つけ合せなどではなく、わが家ではメインのおかずだった」という。「刺身なぞ食べた覚えはない。魚は目刺しか塩びき、これがまたおいしかった」という。

印象的だったのは、岡部伊都子(1923年大阪市生まれ)さんの「三つの別」という文章だ。
「昭和初期の大阪の商家には三つの別がありました。家長である父だけは特別にごちそうがつき、次は家族、それから住みこみの人びとといった差でした。盛る器もちがっていました。ご存知のように、大阪では朝、味噌汁をつけません。ほとんどが辛漬(からづけ)のおこうこ(沢庵)でお茶漬けです。佃煮とか、塩昆布、梅干などの壺が置かれるのは家族の卓だけ。あったかなご飯よりも、ひやご飯が多かったです。お昼は、何か一菜とご飯。あるいは一汁とご飯。一汁一菜となるのは夕食でした。
<略>母の生家は海産物問屋でしたが、一度、番頭さんが箱膳で昼食をするところに通りかかりました。ただ、胡瓜もみ一品が、大の男の、働き手のご飯なのに絶句しました」(P213)
おかずが胡瓜もみ一品でっせ!
昨年ユネスコの無形文化遺産に登録された和食文化は、「一汁三菜を基本とする食事スタイルで、バランスがよく健康的である」とか言ってるけど、家庭料理に関していえば、一汁三菜はごく最近のトレンドでんな!かつての多くの家庭では、貧乏すぎるのと暇がないのとで三菜も用意できるか、どアホ!だったのです。

そしてこれらの文章からわかるもう一点。それはかつての日本は今とは比較にならないほどの格差社会で差別社会だったということ。身近なとこだけでも「三つも別」があるw。
所得分布もとんでもなく不平等で、戦前の日本のジニ係数は今(2010年で0.336)よりずっと高くて、 橋本健二氏の『「格差」の戦後史 階級社会 日本の履歴書』(河出書房新社、2009年)によれば、「19世紀末から日中全面戦争直前まで戦前日本のジニ係数は一貫して上昇(1937年には0.547)」なんだそう。一般に,ジニ係数が0.4を超えると社会が不安定化する恐れがあるといわれていて、超格差社会といわれる中国は公式発表で0.47~0.49あたり、もっとも0.61(以下、西南推計)とか0.5以上とかいう推計もあるのでなんともいえないが、おそらく戦前の日本は今の中国と同じかそれ以上の格差社会だったと思われます。
戦前のわが国の超格差社会の一因は農民の貧困化であるが、こうした状況は「政党政治への失望と全体主義・統制経済への憧れを生み出したと考えられる」そうで、「青年将校(その多くは農村出身であった) による度重なるクーデターは、こうした状況のもとで発生し国民の共感を得た。このように, 戦前期の軍国主義への傾斜と日本の悲劇は、この時期の不平等化と無関係ではないのである。」(『所得分布の戦前と戦後を振り返る』南亮進(一橋大学名誉教授)、ぐぐったらでてきた)。

『十代に何を食べたか』に話を戻そう。
木村修一氏は昭和4年(1929)生まれ。宮城県南部、福島県相馬市にほど近い丸森町は、しばしば冷害に悩まされ、洪水に見舞われるなどで、生活はおしなべて貧しく、弁当を持ってこられない子が何人かいて、学校で特別給食を受けていた。弁当を持ってこられる字でもその内容を見られないように、新聞紙で防壁をつくり、隣からのぞかれないように頭を弁当の中に入れるような格好で食べていた。丸麦を煮ただけのボロボロしたごはんに、梅干や漬け物、あるいは削り節がついているような貧しいものであることを誰もが承知していたそうな。

一方、1921年生まれの小林直樹氏は長野県小諸出身で、東大出の憲法学者である。大方の農家より相当ましな生活をしていたせいか、こう書いている。

「顧みると私の青少年時代は、旧帝国は戦争に狂奔し、日本の内外は緊張と矛盾にみちていたけれども、十代の食生活に限っていえば、総じて幸福だったといえる。何よりも食べ物の質という点で、清浄な自然の作物を日々の糧に出来たということは農薬や添加物で汚染された食品を喰わされている今日と比べて、どれほど良かったか分からない。
この文を書いてから、またかなりの年月が経った。日本の食生活はコンビニ・ファストフードの拡大に伴い、「若い世代の食べものは、昔の家族の団欒の中で味わった風情などを失って、ひどく殺風景なものとなってきたようだ。いわゆる「マクドナルド化」現象は、日本に限らず、欧州その他の各地に及んで、食生活の簡易化と画一化の傾向を示しているが、それは物質的な豊かさと便利さのメリットの反面で、人々の心身を蝕んで感情と栄養の両面で、人々の心の豊かさを奪いつつあるように思われる。」

おかずがきゅうりもみ一品だけ、お弁当が丸麦を煮たのをつめただけのほうが、「感情と栄養の両面で、人々の心の豊かさを」涵養するとマジでおもっているんだろうか。
全員がきゅうりもみ一品ならまだしも、明治以降、格差は拡大一辺倒で、裕福な家庭では別世界の食事をしていたのであった。そんな中できゅうりもみ組や丸麦組は、どれほどの羨ましさとねたましさ、惨めさとひもじさを感じたであろうか。
「物質的な豊かさと便利さ」は、「人々の心身を蝕んで感情と栄養の両面で、人々の心の豊かさを奪」ったりはしない。心の豊かさを奪うのは貧困と不便さ(による多忙)である。

なんでこんなにどーでもいいことを長々と書くかというと、なんか最近、先祖がえりしたがってるような人が多いような気がするからであり、そんでもって、「あなたの描くご先祖さまって妄想かいいとこどりだから」と思うことが多いからであります。

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