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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:08:04

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02月28日(金)

起床時刻:07時15分

02月27日(木)

起床時刻:07時45分

02月26日(水)

起床時刻:08時00分

02月25日(火)

起床時刻:07時10分

会社で定期購読している『an・an』をパラパラ見ていたら「そのうち結婚するつもり日記」(山内マリコ)という連載があり、中国人のマッサージ師(女性)に「日本の女の人はすごく可哀想」といわれたという話が書かれていた。その理由は、中国では、とても共働きが多いのだが、「共働きといっても日本みたいに奥さんが外で働きつつ家事もやって、子供の面倒もみて・・・というのではなく、家政婦さんを雇うのが一般的なんだとか。毎日家政婦さんに来てもらっても、「月5万円くらい」とのこと。人件費が安いから可能な慣習のようで、真似できないのが残念極まりないところです」。

わたしなら月5万円で毎日家政婦をやっている側の女性のことを心配するけどね。月5万円の収入しかない女性にだって当然やらなければいけない家事や育児はあるわけで、そういう人は誰に家事労働を押し付けるわけ?

上野千鶴子は『女たちのサバイバル作戦』(文春新書/2013.9.20)でこのように書いている。
「欧米先進国では女性の労働参加は、育児・介護というケアの外注を移民労働者の導入によって支えることで推進されてきました。アメリカでは市場化オプション(ベビーシッターやナニー、メイド)によって、ヨーロッパでは公共化オプション(公設保育所と介護施設)によって。日本ではどちらの選択肢もきわめて限られていたために、女性の「両立問題」が先鋭化しました。代わりに、他の社会では外国人労働力が果たした役割を、女が果たす-ケア労働市場の底辺層を既婚中高年女性労働者が占める-ということが起きました。だからといって日本も欧米並みにケアワーカーを外国から輸入すればよい、と主張しているわけではありません。それでは他の女性のコストにおいて問題解決を先送りしているにすぎないからです。ケアワーカーの国際移動-グローバル・ケア・チェインと呼ばれます-の末端に、アジアの地方におけるケアの崩壊があることは知られています。先進国が男女平等を国内だけで達成したようにみえても、世界的規模で考えれば他の社会の女を踏み台にしていることになります。」

ついでに書くとジャーナリストの竹信三恵子の『家事労働ハラスメント-生きづらさの根にあるもの』(岩波新書/2013.10.18)においても、出稼ぎ家政婦への依存度が高いシンガポールや香港、中東諸国などの「メイド虐待」について書かれている。家事労働従事者供給国と受け入れ国の間で国際問題まで生じている。「家庭という密室に、移住労働者という立場の弱い存在がやってきて、家事労働という安くて当然と蔑視されてきた労働を行うとすれば、どんな国でも、同じこと(引用者注:「メイド虐待」)が起きうる」と竹信さんは書く。

「人件費が安いから可能な慣習のようで、真似できないのが残念極まりないところです」と書く神経が私には理解できない。「慣習」だって?それをいうなら、日本のように共働きでもなんでも女性のみが家事を担当するのも「慣習」であって、他国の、それこそ中国人男性なら「真似できないのが残念極まりないところです」とでもいうところだろう。やれやれ。

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02月24日(月)

起床時刻:07時10分

02月23日

起床時刻:10時30分

02月22日

起床時刻:08時00分

02月21日(金)

起床時刻:08時05分

02月20日(木)

起床時刻:07時30分

『かつお節と日本人』 (宮内 泰介/藤林 泰、岩波新書 (2013/10/19)。面白かったので、メモ。知らなかったが、かつお節の消費量は明治以降一貫して上昇しており、これは人口の伸びを上回るのです。今や「空前の鰹節ブーム」といってもいいくらいの消費量なんだとか。

「鰹節でだしをとる家は減っているのになんで?」とおもったら、こんにちの調味料・めんつゆ市場では、健康志向とあいまって塩分や醤油を減らしてかつおぶしをたっぷりいれてコクを出すのがトレンドで、こうした調味料やめんつゆに入れる鰹節が増え続けていることがブームを支えているんだって。ミツカンはめんつゆに入れるだし原料を1990年代からの10年間で3倍に増やしたそう。本書に引用されている朝日新聞の記事によると、ミツカンは消費者調査で「花ガツオの華やかな香りを好み、ピンとくるお客様が多いことがわかりました」。メーカーが日本食の味を、多数派の好みの方向へ誘導していく。「だしを前面に出すために、減らしたのはしょうゆ。発売当初に比べて4割少なくなりました」。その分は塩で補う。醤油は重たいと敬遠されているらしい。事実、日本の醤油の生産量は1990年代以降減り続けているんだとか。

なるほどねぇ。先日、市販の「白だし」を使って出し巻き卵を焼いて旦那に出したら「これ、買ってきたやつでしょ」といわれたけど、確かに市販のはこんな味かもしれないな、とおもった。鰹節の風味が勝ちすぎている。

一章 かつお節は日本の伝統か
→昭和初期までは消費は限られた(武士・富裕階級、場所も京阪・江戸)。そもそも「だし」が庶民レベルで普通に存在したものではなかった。
かつお節は昔から戦争の携行食、明治においても必須の軍用食。

「南洋節」(中西部大西洋海域、ミクロネシア、パラオ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、パプアニューギニア、ソロモン諸島などのかつお節)の登場、1932-1940までの間、日本全体の10%を超える供給量。
それを可能にしたのは①漁船の動力化②生産地の南下③南洋諸島の植民地化④「南洋節」の企業化。

生産地の変化
→江戸時代からのブランド、熊野節、土佐節(かつお節発祥の地が土佐)のプレゼンスが低下、明治にはいって台頭してきたのが静岡、鹿児島、宮城(←意外)が三大生産地となる。
明治の終わりごろになると、沖縄と台湾が生産地として台頭してくる。

『アホウドリと「帝国」日本の拡大』では、明治時代に日本人が尖閣諸島など南の島々に進出したのは高値で輸出できるアホウドリを捕獲するためであり(無人島でのアホウドリの資源枯渇は早く、その後はグアノやグアノが固まってできるリン鉱と目的は変化しているが)、この行動が「帝国」日本の領土拡大を導き、はるか太平洋の島々へも進出させたという、「アホウドリ史観」が示されているが、アホウドリの羽毛だけではなく、鰹節も加えていいかもw 尖閣でも鰹節はつくられていたらしいし(大正年間に急速に衰退したそうだが)。

南洋の鰹節生産を支えたのは沖縄県民(男は漁師、女は工場)だった。
そのことについては第二章「南洋に向かった沖縄漁民」に詳しく書かれている。第三章は「大衆化するかつお節」、第四章は「赤道直下の一大産地」、終章「つながりあうかつお節ネットワークとわたしたち」と続く。

面白かったが、個人的には漁業資源の枯渇が気になったw全く触れられてはいなかったけど。カツオが乱獲でマグロみたいになっちゃったらどうしよう。

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02月19日(水)

起床時刻:08時00分

最近抑うつ気味の私に父親からメールがきて
「気が向いた時、下手な俳句を読んでいますが、心の目が曇っているのと、感性がもともとないのを老化にかこつけて、あきらめています。それに比べ(比べものにならないですが)、小林凜君11歳(944gで生まれ、先生を含め学友にいじめられ、不登校せざるを得なかった少年)が詠んだ俳句は老人でも感激したので、気休めになればと送ります。」
とあり、何句も(年齢の注釈つきで)送られてきたのだけれど一部抜粋しよう。
・紅葉で神が染めたる天地かな(9歳)
・春の虫 踏むなせっかく 生きてきた(8歳)
・いじめられ 行きたし行けぬ 春の雨(11歳)
・いじめ受け 春も暮れゆく 涙かな(11歳)

わたしがひねくれているのだろう、正直いうと、感激はしなかった。才能はあるだろうし、これからの活躍を期待したいが、今はまだまだ発展途上だろう。いじめについては心から同情する。

わたしがおもうに、小林君が評価される理由は二つある。
一つはとてもわかりやすいことだ。現代俳句が洗練を目指し、プロの俳人たちが新しい取り組みを専門家の間で評価されようとする一方で、一般大衆は昔も今も「涙かな」が大好きなのだ。その直球、あるいはベタな感じにぐっとくる。
もう一つは低体重で生まれ、学校で壮絶な苛めにあった悲劇の小学生が、実は類稀なる俳句の才能を持っていた-というメディアの好む「物語」が背景にあること。むしろ、その物語が句の評価を水増ししているようにおもう。

とはいえ、である。
人はそれぞれ趣味や感性が違うのだ。私が↑のように思うのは「単にひねくれ、ねじまがった感性の持ち主だから、以上」が正解かもしれないのだ。実際、ワタクシそう言われ続けて育ったわけだしw

ま、私はそもそも俳句の芸術性を疑っているので、まぁ所詮どっちでも、どーでもいいんですけどね。
もっとも、私は俳句の芸術性はともかく、医療効果は抜群だとおもっている。つまりうつ病や認知症の防止や改善には多いに効果があると信じている。人間というのは創造活動をすることを好むものだし、プロを目指さなければ(←ここ重要)、心身にいい影響を与えるものなのだ。
創造活動で一番ハードルが低いのが、俳句だ。道具はいらないし、5・7・5が数えられれば誰でもできる!それでいて、頭も使うし、俳句によって、状況を「ネタ」として客観視することもできるのだ。

ま、そんなわけで、私は俳句を大いに奨励する者である。
私自身もたまに詠むけど、精神的に助けられるものがある。きっと小林少年にとっても、俳句が救いになったろう。わたくしも先日、ハワイはワイキキビーチにて何もすることがなく、あまりにも暇すぎるので何か一句詠もうとした。もっとも「ワイキキや」の次がでてこなかったけどwていうか、「ワイキキや」ではじめるからいかんのじゃ!「ワイキキや」ではじまる句には名句はない!知ってた!

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02月18日(火)

起床時刻:08時00分

02月17日(月)

起床時刻:08時00分

02月16日

起床時刻:09時00分

友人と京料理の店に行った。京都の仕出し屋の東京支店である。
京都弁丸出しのおかみさんが「京都では昔から冬に食べるもんどす」とかなんとか言いながら、料理を出してくれる。

大菜は鰤と大根と水菜の小鍋。もし私が旦那にこれと同じものを出したら、間違いなくちゃぶ台返しだわ。「こんなクソまずいもん、食えるかッ!!」といわれるだろうなぁ。
お酒の入った昆布出汁を張った鍋の中の大根と水菜には味付けはなく、その分鰤がしょっぱいから、鰤の塩気で野菜を食べる感じ(ポン酢とかはなく、半分に切っただいだいが出て来る)。
あ~、ドッキリで旦那に出してみたい。そんで「野菜に味はしないわ、鰤はやけにしょっぱいわ、完全に失敗作だろ!!「嫁のメシがまずいんだが」スレに書き込んだら優勝できるレベル!!鍋で失敗するとかありえない!!ちゃんと鍋の素を使ったんか!!」とうちの旦那が切れたところで、「実はこれ、京都の老舗料理屋の味でした、チャンチャン♪」と言いつつ、「ドッキリ大成功」の看板もって出て行きたい!!!

最期に出た〆の丸あんかけうどん、即ちスッポンのきれっぱしの入ったあん(ものっすごくとろみが強くて、たぶん葛でとろみをつけているんだとおもう)のかかった細いおうどんだったんだけど、これも、旦那は100%大嫌いだとおもう。「まずい!!」と言って「カップラーメンを用意しろ!」と言いだすレベルだね。
その理由。
①あんかけのあんの味つけが薄い(旦那は市販のカップラーメンも規定のお湯をそそぐと薄くなるというので、少し少なめに注がなくちゃいけない←カップラーメンすら旦那は自分でつくらなくて私にあれやこれやと指図するだけ)
②お上品なお出汁(市販のめんつゆや出汁の素と違って、「かつおぶしでござい」と鰹節が前面に出て来るわけでもないので、一般的には旨味が少いように感じる人もいるだろう)
③薬味が多すぎる(すり下ろしたしょうががあんの上にてんこ盛りになっていたwww女はだいたい薬味好きなんでいいが、うちの旦那にこんなんだしたら「馬鹿か!」と切れられる)

あーあ、もし私が京都出身だったら、「まずい!!」といわれても「昔から京都ではこうどす!!」と言い返せるのになぁ。
そもそも、人間の感覚(食味感覚にせよ美的感覚にせよ)は人それぞれであり、時代的偏り、地域的偏り、出身階層的偏り、性差による偏り、そして本人の性向による偏りがある。
そのために諍いも起こるのだ。
感覚とは主観的なものだからこそ、小説をめぐって、料理をめぐって、楽曲をめぐって、美人か否かをめぐって、評価は分かれる。
結局のところ、納豆が嫌いな人に納豆の美味しさを納得させることはできないように、趣味感覚というのは他人による論理的説得を拒否するものだ。
つまり、趣味をめぐる争いは不毛なものになる。結局はそのときどきのパワーバランスで趣味感覚の優劣が決まる。
家庭でいえばお父さんの趣味、会社でいえば社長の趣味が尊重される。

そんな中で京都出身者だけは、「日本文化の正統なる後継者」とみなされるため、パワーバランス上一番下にいる者でも、関東出身や九州出身の野蛮人どもに「お前が間違っている!!なぜなら私は京都だから!!」といえるのだ(全員が京都出身、という状況では、通常のパワーバランスで趣味感覚の優劣が決まるだろう)。

いいなぁ、京都。京都出身になりたい。しかし京都は京都でヒエラルキーがあって(特に京都はそういうの大好きだからね、実際京都出身だったら「京都、ウッゼー!」って思いそうだ)、京都出身の人間によれば京都市内以外は京都ではなく、京都市内でもなんとか区とかんとか区以外は京都じゃない、みたいなこと言ってたから、その京都の中の京都、ド京都出身になりたいね。
とおもっていたところに、ド京都出身の男からたまたまメールが来たので↑みたいなことを簡略化して言ってみたら、「僕はpyaaaさんの味付け、塩加減とかとても素晴しいとおもったよ。すくなくとも僕の味覚には合っていた」だって。

もっともこやつに料理をつくったのは一回だけなので、基本適当なこと言ってるんである。なのに、応仁の乱以降京都に住みついている正統派京都人のお墨付きをいただいて、少し嬉しくなった自分のさもしい心根にもイラっときた。更には絶対に慰めてもらえるとおもった男に慰めてもらいたくて余計なことをいう、その自分の心根も非常にさもしい。と自戒をこめて返信はしなかった。といいつつ、ここにメールを一言一句引用しているもさもしい自分もいる。ああ、さもしい。そんだけ自分に自信がないってこと、そして人に褒めてもらいたいってことだ。

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02月15日

起床時刻:10時30分

02月14日(金)

起床時刻:07時30分

02月13日(木)

起床時刻:07時30分

02月12日(水)

起床時刻:08時00分

一週間ちょい休んで会社に戻ったら、「pyaaaさんが戻ってきたから、これでいつも通りになる~」と言う人がいたんだけど、私って職場のお母さんポジなんだろうな。「もうこんなに散らかして」って言いながら、お菓子の空き箱とか新聞とか片付けてゴミだしをする人ポジなんだろう。

仕方ない。
周りは社長も含めて皆私より年下で、最年長の私が誰よりも無能というシチュエーション。無能なオバハンが生き残る道はひとつしかない、それは「お母さん」になることである。仕事はできないけれど皆の「面倒をみる」「世話焼きお母さん」というポジショニングで、居場所を確保しているわけだ。お母さん属性ゼロだけど。

リアルな家庭でもそういうことあるかもしれないね。お母さん属性ゼロでも戦略的理由からお母さんになるということが。
ていうか、もし私が子供を産んだとしたら、それは家庭の「無駄飯食らい」から「お母さん」にリポジショニングするためだったろう。
ま、私の場合、年齢的に「お母さん」にリポジショニングできないので(そもそも、したくもないし)、「病人」へのリポジショニングを狙っている。
「何もできない無駄飯ぐらい」から、「病人なのに良く頑張っている!」への評価替えが目的である。
医者に「うつ病」と診断されて安心する人の中には、そういうのもあるんじゃない?つまり「自分はただのダメ人間じゃなかった、病気だったんだ」という安心、すなわち「ダメ人間」から「病人」への昇格(ま、世の中には「ダメ人間だから病気になる」という見解の人もいますがね)。

ていうか、前にも何度も書いているけど、私は今の医学では見つかっていない病気を抱えている可能性が大だ。絶対、何十年後かには見つかって、私にも「先天性不器用症候群」とかなんとか名前つけられているから。そんで、みんな「あの人ただのダメ人間じゃなかったんだね、頑張ってたんだね」っておもうようになるから。でも今はまだ病気が見つからないんで、ただのクソの役にもたたないダメ人間扱い。はーあ。

人生てさぁ(と話でかくなりましたが)、結局、居場所探しなんだろうな。
子供のころから「自分はここにいてもいいんだ」という確信を得るために、そのときどきで、必要とされる機能・役割・キャラを空気読んで探し当て、それに自分をあてはめる。
メンバー間でもし役割がかぶったら、その役割により適合している人がそれを担うことになるわけだ。
その役割分担に何の疑問も持たずフィットできる人はいいけど、そうじゃないと悲惨だ。まさに居場所がない。「何で自分がこの世に存在しているんだろう?誰にとっても、何の役にも立たないのに?」という自責の念がずーっとつきまとって、死んだほうがいいような気持ちになるわけだね。

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02月11日(火)

起床時刻:07時30分

02月10日(月)

起床時刻:08時15分

『ブラック企業VSモンスター消費者』(今野 晴貴, 坂倉 昇平/ポプラ社 (2014/2/6))、空港の本屋で買って読む。

わたしが例の「お・も・て・な・し」について感じている違和感をちゃんと文章化してくれた。
最後に座談会みたいのが収録されているのだけれど、そこで(「おもてなしこそ日本人の美徳」みたいな「変な日本文化論」みたいな本も流行しだしているが)、「そもそも「おもてなし」やら「ホスピタリティ」なんて、本当に日本人に特有の資質なのかなぁ」と今野氏が疑問を呈すると、五十嵐泰正氏が木曽崇さんのブログを引用しながら「違うとおもう」と答えていた。

五十嵐氏いわく、そのブログ記事によると、2013年に発表された日本の観光競争力は14位で、「事業者による顧客主義の程度」では、日本は2位のスイスをぶっちぎりで引き離して1位である一方、地域全体で外国人観光客を受け入れる姿勢は140カ国中74位なんだそうで、「これは、おもてなしとかホスピタリティの高さが「日本人の国民性」なんて大ウソということだろう」「ありとあらゆるレベルのサービス業が、国際的にみれば度が過ぎたほど圧倒的に「お客様に尽くす」だけのことなんですね」とのこと。
また日本では明確なジョブディスクリプションがないから、「まごころをこめてお客様を全力でおもてなししろ」という命令が下ってしまう。
結果として、客の命令、要求が無限に労働者にふりかかってきてしまう。
…というようなことが書かれていた。

大西巨人が『神聖喜劇』で指摘していた、戦争中の日本の軍隊の「責任阻却の論理」を思い出した。即ち、下級者は上級者に対して責任を問うことができず、上級者は下級者から責任を問われることはないが、下級者は上級者から責任を追及され、無限に上級者に対して責任を負わねばならない、そんな日本の軍隊の論理を大西は「責任阻却の論理」と喝破したわけだが、そんなことが可能だったのはジョブディスクリプションなんか、なーんにもないからである。

「まごころをこめてお客様を全力でおもてなししろ」とは「よきにはからえ」ということであり、現場の一兵卒に無限の責任を負わせるものである。あるいは下請け・孫請け企業が悲惨なことになるのだ。
そしてこのような責任と報酬の非対称についておかしいと声をあげると「文句をいうな」と軍隊なら暴力的鉄拳制裁、ブラック企業ならもう少し非暴力的な抑圧装置が働くわけである。

まぁ日本は「おもてなし」をされる側ならいい国だろうが、「おもてなし」をする側にとっては大変にシンドイ国であろう。

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02月09日

起床時刻:不明

本日も夕方くらいまで全部の交通手段が運休。タクシーも来ない。
外は晴れていたが、JALの出発便はほぼ全部運休。到着便は遅れながらもくるので、成田空港は人でごった返し、難民キャンプ状態。

夕方、京成スカイアクセスとJR成田線が動き出すらしい、という情報が流れてきたときには既にホームへの入場制限がかかっていて、長蛇の列。間引き運転で列のすすみはのろく、やっと乗っても、ホームに電車がつかえているとかで、やたらとまる。ほうほうのていで家に帰ってきたら、旦那がゲームをやるとか言い出すし。はぁ。旅行とは行列のことと見つけたり。
まぁでも空港には本屋もあったので、本を3,4冊読めてよかった。

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02月08日

起床時刻:不明

ハワイに行って帰ってきたら雪で成田空港からの交通手段は全て運休。ホテルも満室、タクシーも来ないので、結局空港で一夜をあかした。早々におにぎりは売り切れ、カップラーメンのお湯に長蛇の列。いやあ、カップラーメンって偉大な発明だね!というのがよくわかった。

夜中の12時ごろ、空港の人が寝袋とビスケットと水を配ってくれた。横に座っていた台湾出身で日本に帰化したという方が「このサービスが、さすが日本ですね」と竹田恒泰あたりが聞いたら感激してすぐにでも著書に書きそうなことを言ってくれたが、ていうか、「さすが日本」ならそもそも成田空港でホームレス状態にならんだろう。いや、この日本人的な減点主義が日本における生きづらさを生むのかもしれん。

翌日は晴れたけれど、事態はまったくかわらず。「JR北海道」って今は最低の評価だけど、雪の北海道を日々普通に走ってるってだけでもすごいんじゃないか、という気がしてくる。

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02月03日(月)

起床時刻:07時45分

02月02日

起床時刻:不明

『今夜もひとり居酒屋』(池内紀/中公新書)は、かる~いエッセイ。新書にするほどの内容じゃないね。『翼の王国』とかの連載記事だったらまぁいいけど、わざわざカネ払って読むような価値はないような。

それはともかく、本書によれば、地方料理を出す居酒屋(博多料理だの秋田料理だの)には地域の偏りがある、と書いてあった。

「大都市の横丁にひそんだ日本の郷里」すなわち東京にある地域色を押し出した居酒屋は、「地図帳にみるようにまんべんなく全国にわたるのではなく、県なり地方なりにバラつきがあるような期がする」と著者はいう。
「たまたま私が出くわした店がバラついていただけかもしれないが、東北ではとくに秋田が多いし、四国だと高知県が断然多い。<略>中国筋だとこれまた圧倒的に広島県が多い。<略>九州以南だと三極分布で博多、鹿児島、沖縄。佐賀や熊本がチラホラ。どうして福岡ではなく博多で、またなぜ大分、宮崎、長崎が少いのか。居酒屋人国記のナゾというものだ」
ただ高知の場合、高知ではなく常に「土佐」と旧国名がうたってあるそうだが。

確かにそんな気がする。
誰か食べログか電話帳で検証してよw
私は挫折したw
博多はモツ鍋屋が多すぎるんで、モツ鍋屋を別枠にしないといけないよね?長崎はちゃんぽんを外さないといけないし、広島は広島風お好み焼き屋は外すんだよね?とかやってると、結構検索がめんどうなんだよw
1円ももらってないのに、自分暇すぎるとおもって我に返ってやめた。

地域色のある居酒屋で、47都道府県中、ダントツに多いのはもちろん、沖縄(琉球)である。私も沖縄料理大好きだね。

本書で一箇所気になった。それは変な九州弁(博多弁?)である。
「九州男児は焼酎飲むバッテン、酒はどうでもヨカ」
という台詞が載っているが、もし「九州男児は焼酎を飲むので、酒はどうでもいい」という意味にしたいのなら(文脈からしたらそうだろう)、逆説の接続詞「バッテン」ではなく順接の接続詞「ケン」をつかって、「九州男児は焼酎(ば)飲むケン、酒はどうでもヨカ」となろう。
ま、どうでもよかバッテン(どうでもいいけど)、とこのようにバッテンは使うのですぞ。

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02月01日

起床時刻:不明

今でこそ、やれ指輪だの、ピアスだの、ネックレスだのをしている日本人だけど、平安時代も、鎌倉時代も、江戸時代も、ずーーーーっと、アクセサリーをしない民族だったんだよね。

これ、世界的に見ても不思議じゃない?
だって、普通、人間はアクセサリーをしたがるもんなんだよ。
日本人だって縄文時代や弥生時代は勾玉やらなんやらアクセサリーをしていた。材料がないからじゃない。日本はヒスイや真珠を産出し、金や銀も豊富だった。なのに、アクセサリーとして活用しないなんて不思議じゃん?

着物代替説(きらびやかな着物が発達し、アクセサリーが廃れた)などというのは全く納得できない。だって、他の国ではきらびやかな衣装を着つつ、アクセサリーを身につけていたわけで。

『謎解き アクセサリーが消えた日本史』(浜本隆志/光文社/2004.11)は、その鍵として、①天皇制②農耕民③地理的要因の3つをあげている。
著者によれば、七世紀なかば、ヤマト政権の統治権の確立により天皇家が祭祀権を独占したこと、「三種の神器」神話によって宝玉信仰を封印したことが、アクセサリー文化を1100年の長きにわたって復活させなかった大きな要因の一つだそう。
著者は「古代アクセサリーの消滅は、まず大化二年(646)の「薄葬令」と密接なかかわりあいをもつ」という。これにより巨大古墳の造営は禁止され、とくに貴金属、玉などの副葬品をなくする方針が打ち出され、玉類は宮中祭祀など限定されたところで使われるようになったんだそうな。

単純化していえば、天皇家がアクセサリーというか宝玉を自分のところに集約し、それをご神宝あるいは仏教の宝玉として封印したことにより、アクセサリーが「なんかおそれ多いもの」になったのかもしれない。
ちなみに江戸時代では水晶の発掘はご法度だったそうだが、「これは日本の宝玉信仰やアクセサリー文化が、支配者によって封印されていたことを裏づけている」。
②は日本人は農耕民(定住民)だったために軽くて持ち運べる財産としてのアクセサリーへの執着心が薄かったため。
③は日本では異民族との接触があまりなかったため他国のアクセサリー文化の影響か一時的なもに終わったため。
ということらしい。ふーん。

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