201406 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:07:59

起床時刻の記録 ▼新しい順 ▲古い順 RSS

06月30日(月)

起床時刻:07時30分

やる気しない。
といいつつ、会社にいって、数字を右から左にコピペ(←仕事)する。
道を行く蟻たちよ、お前もやる気しないときがあるのか。
やる気しないけど、とりあえず砂糖を巣に運んどかないと、うちの女王蟻マジこえーんすよ、で運んでいるのだろうか。
多分そんなことはなくて、何も考えずに、禅の境地で運んでいるんだろう。

それにしても人間と蟻、何が違うんだろうか。
ってまたその話かい!
蟻は砂糖に群がり、人間は金に群がる。
群がる対象が違うだけじゃないか。
蟻は暑い日もめげずに遠路はるばる食べ物まで通勤する。
人間は暑い日もめげずに遠路はるばる職場(間接的な餌場)に通勤する。
蟻はもくもくと重い荷物を持ち、巣まで運ぶ仕事をしている。
人間はもくもくと数字を右から左にコピペしている。
蟻にも快・不快があり、砂糖に群がるという意思があり、巣のためにもくもくと働くという習性がある、人間にそれ以上のものが何かあるわけ?

ひとつには人間は蟻よりずっと頭がいい。すばらしい道具をつくれる。自動車だってパソコンもつくれるしね!でも私は自動車もパソコンもつくれない。ここ数年で私が作った道具は「マツイ棒」(割り箸と捨て布と輪ゴムでつくる、松居一代氏考案の掃除道具)くらいだ。蟻塚に枝をつっこんで蟻を食べるチンパンジーよりかは進化しているかもしれないが、輪ゴムなんか原材料をもらってもつくれない。

世の中には自動車やパソコンをつくる賢い人間もいるんだろうけど、自分はぜんぜん知性もない。
蟻はもくもくと右のものを左にやり、左のものを右にやるという肉体労働をやっているが、私はパソコンをつかって右のものを左にやり、左のものを右にやるという事務仕事をやっているだけだ。まぁ蟻にはパソコンは使えないが、作業内容の本質は同じである。

子供は蟻の行列を飽かずに眺めたりする。何が楽しくてそんな暇なことをするのかよくわからん。おそらく子供は蟻の行列の一員じゃないから興味深く感じるのだろう。自分も蟻的生活を送るようになると、蟻の生活にはちっともわくわくする要素はない。日々、うんざりするような仕事の繰り返しである。私の場合、日々のルーチンワークの合間に落ち込むことや嫌なことがあるくらいで(むしろルーチンワークは人生のいい部分である)、何が楽しくて生きているんだろう?と観察者なら思うだろう。

日別画面へコメントを読む(2)

06月29日

起床時刻:11時00分

嫌なこと、憂鬱なことばかりが心に浮かぶときは、何も考えないようにする。何も考えない。何も考えない。呼吸に集中する。
「ララバイ♪何にも考えちゃいけない♪
ララバイ♪心におおいをかけて♪」
中島みゆきの『アザミ嬢のララバイ』の2番の歌詞が頭に浮かんでくる。
何も考えずにただ生きる。それってカメムシとどこが違うんだろう。

カメムシは何も考えない。
何も考えずに、ただ食べて生きて子孫を残す。
私もただ食べて生きるだけだが、カメムシと違って「無意味な人生の複製に何の意味があるのだろう?」と考えるから、子孫を残さない。そこがカメムシと私の違いだが(つまり子孫を残そうとしないところ。こんな生物は人間以外いないだろう)、それ以外は全部一緒だ。
餌を求めて生きるだけ。カメムシのごとく。
カメムシは人間に迷惑をかけつつ、人間は地球環境に迷惑をかけつつ、繁殖する。

餌をとるのをやめれば、このくだらない毎日から解放される。しかしそこは生物の本能で、餌を食べることをやめるより、考えることをやめようとする。何も考えずに口を動かすことに専念しようとする。何も考えずに口を動かすカメムシをお手本として、カメムシみたいに生きようとする。見よ、カメムシを。生きようとする意志そのものである。あふれる生命力、みなぎる繁殖力、そしてあの悪臭の強さ、昆虫界も人間界も栄えるのはこういうタイプである。さぁカメムシを目指そう、座禅を組んで「自分はカメムシだ」「自分はカメムシだ」と唱えることからはじめるのだ。これぞカメムシ教なり。
という風にやっぱり何か考えてしまうので、まだまだカメムシ教の教祖にはなれないね。

日別画面へ

06月28日

起床時刻:09時30分

06月27日(金)

起床時刻:07時30分

06月26日(木)

起床時刻:07時30分

出版当初から好評だった『カラスの教科書』(松原始/雷鳥社/2013/01)を今頃読んでみた。随所に入った可愛いイラストが楽しい。軽妙な文章の中に著者のカラス愛がにじみ出ている。自称カラス屋の著者がどれだけカラスが好きか。

「カラスのつぶやき 旅鴉のカラス旅」という囲み記事では、
「知床にはワタリガラスを見るためだけに行った。双眼鏡にオオワシを捉えておきながら「くそ、ワシかよ」などと神をも恐れぬ罰当たりな台詞を吐くのは、ワタリガラスを探すカラス屋だけだろう。普通なら天罰が下り、雷に打たれて即死するに違いない」だってwほんとだよw

ハシブトガラスがこれだけ都市部にいるのは日本だけなんだそうな。うれしくないがなw
分布的にみるとハシブトガラスは東南アジア方面の鳥で、アフガニスタン、インド、マレー半島を経てロシア沿海州まで。島嶼部ではフィリピンの一部、台湾、日本全土、そしてサハリンの南半分に分布しており、「実は日本以外の場所ではそんなに数の多い鳥ではなく、街なかで見かける鳥でもない」のだそうな。マジで?

ハシブトガラスは本来、森林性の鳥だと考えられている。実際、台湾の探鳥ガイドブックには「巨嘴鳥(ハシブトガラスのこと)は中高度の山地の森林に住む」と書いてあるそうだ。探鳥地である烏来や陽明山の紹介文には「ここで見られる鳥」として「巨嘴鳥」が書いてあるそうだが、日本人だったら「ここまで来てカラスとかいらんわ!」だろうねw

文献資料によると江戸時代から東京にはカラスがたくさんいたことがうかがえる。シーボルトも「江戸はカラスの町である」「朝はカラスの声で起こされる」と日記に書いていたそうだ。幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人もカラスについて書き残している。モースは「カラスは街頭掃除人」と的確に評しているほか、日本は鳥類の豊富な国で、しかも人と鳥類の距離が非常に近いとも書いている。
長年の経験で鳥が人を恐れない?だからハシブトガラスが渋谷に暮らしている?
いや、なんといっても東京が"食の都"で生ゴミシティだからだろう。
カラスにしてみれば餌をまかれているのも同然である。著者のいうよう、一番のカラス対策は「カラスにゴミを触らせないこと」である。(もっとも飲食店の充実では有名な台北の繁華街のゴミ回収は日本同様の方式らしいが、日本みたいにカラスがゴミのまわりでうろつきまわっていることはないらしい。不思議だ)

日別画面へ

06月25日(水)

起床時刻:07時30分

仕事をする気がまったくしなくて、会社で3時間ぐらい(ひょっとしたらもっと)ネットを見ていた。「ゲーム・オブ・スローンズ」を見終わってしまったんで、関連の記事を検索していた。時差ありすぎだけど、トラウマ回の海外のtwitterの反応が面白かったw

うちの旦那の反応は、このトラウマ回のみならず、不幸な目に逢ったキャラに対してはたいてい怒ってるね。不幸の原因を不幸な目にあった人に見つけ出して「こいつが○○しなかったから(あるいは○○したから)こうなったんだ!こいつが馬鹿だからこんな目にあうんだ!」と怒っている。
まぁドラマに限らず、夫は現実においても不幸な目にあった人に同情するより、その人自身の落ち度を探すタイプである。実に興味深い。

私はどちらかというと「運が悪かったね」と同情するタイプだ。「○○すればよかったのに」「○○しなければよかったのに」とは思わない。根性がない、頭が悪い、勇気がない等で「ある行為をしなかったこと」も「ある行為をしたこと」も、しゃーない、と思いがちなタイプだ。根性がないように生まれついたんだからしゃーない、と。そもそも人間っていうのは認知バイアスがかかりがちで、合理的な意思決定ができるものでもない、後知恵や岡目八目でいろいろ言うのと実際は違う。

うちの夫は私よりはるかに自分の人生はコントロール可能だと思っているんだろう。自分の意思や努力あるいは判断力というものに対する信頼度が高い。
一方、私は人生がコントロール可能だとは思っていない。自分の判断力にも何の期待も信頼もしていない。そもそも努力は報われることもあるけれど、報われないこともあるし。ま、私は困難にぶつかったら基本メソメソ泣いているだけだって知ってるからなw他人にもそれ以上は求めんよw

日別画面へ

06月24日(火)

起床時刻:08時00分

読みながら身悶えするくらい、生理的に受け付けない本を読んでしまった。もっとも途中で耐えられなくなって投げだしてしまったが。『魔法ファンタジーの世界』(脇明子/岩波新書/2006)である。

「子供たちには、ぜひともファンタジーを読んでほしい。なぜなら、ファンタジーには常識にとらわれない自由な発想をうながす力や、土台のない空中にでも楼閣を組み上げていく技を会得させる力があるからだ。そうした力は、<略>、文学の領域にとどまらず、自然科学、社会科学の領域でも大きな力を発揮する」とかなんとか言っているけど、この本自体が紋切り型のお説教そのもので、ファンタジーで鍛えたという「自由な発想」はどこにあるんですかってて聞きたいわ。

ていうか、「ファンタジーを読むとこんなお得なことがある!」なんていう発想自体がさもしい。単に面白いから読むだけだろうよw「ファンタジーの教育効果」があるというなら、実証的に説明してほしいもんだね。「ソースは俺」にすらなってないからさw

著者は「ご都合主義のライトノベルは読むに値しない」というが(でも具体例は一つもあげない)、昔話やファンタジーの古典だってご都合主義ばかりである。
また、最近のファンタジーの残虐性はダメで昔話の残虐性はよいというのも、よくわからん。昔話の「残酷性」(かっこつき)を「あっけらかん」と楽しめたのは「感情移入などせずに、どんどん展開していく筋書きをせっせと追いかけていたからだ。そのことがわかって見直すと、いわゆる「残酷性」の大半は、お話のめりはりをはっきりさせ、スピーディな展開を助けていたのだとわかってくる。だが、そこへ心理描写や風景描写を加えると、いやでも感情移入して痛みや苦しみを味わってしまうし、昔話の身上であるスピーディな展開がそこなわれると、気にならなかった不自然さも身についてくる」という。
ていうか、著者の攻撃する最近のファンタジー、ラノベ、漫画、アニメのキャラはたいてい類型的だし、展開は昔のファンタジーよりかなりスピーディだ。だから読者は昔話なみにあっけらかんと筋の面白さを追いかけているんだという反論だってできるじゃん。残酷描写は同じように話のメリハリをつけるため、ともいえるし。
だいたいさ、感受性なんて人それぞれで、昔話の登場人物に対してすら心を痛めるやさしい人もいるんである。だからこそカチカチ山を改変したりするのだ。「私はこう感じる」はブログに書いとけじゃないの。

日別画面へ

06月23日(月)

起床時刻:07時30分

先日、宿泊した施設が某池に面していたんだけれども、なんで「○○池」っていうネーミングにしたんだろ?って思うんだよね。「○○湖」にすりゃあ、マーケティング的にいいと思うんだけど。

「池」と「湖」では喚起するイメージがぜんぜん違う。Swan Lake「白鳥の湖」がSwan Pond「白鳥の池」だったらバレエにならないだろう。
由布院の金鱗湖は観光名所になっているが、金鱗湖なんていうけど、ため池みたいなもんである。絶対にネーミングの勝利である。
wikiを今見たら、もともと金鱗湖は「由布岳の麓にあることからかつては「岳下(たけもと)の池」、「岳ん下ん池」と呼ばれていた」んだそうな。まぁ妥当な名称である。わかりやすいしねwそれが、「1884年(明治17年)に儒学者の毛利空桑が、魚の鱗が夕日に照らされて金色に輝くのを見て「金鱗湖」と名付けたと伝えられている」ということで、毛利空桑のネーミング・センスに脱帽である。「岳ん下ん池」じゃ誰も写真をとったりしないw

そもそも「池」「沼」「湖」の違いとは何か。
Yahoo知恵袋にその答えがあったので転写すると、
「大辞林によると、
池:地面にできたくぼみに水のたまったところ。普通、湖沼より小さいものをいう。
沼:一般に、水深5メートル以内の水域。水草が茂り、透明度が低い。湖との区別は明確でない。
湖:周囲を陸地で囲まれたくぼ地で水をたたえた所。池や沼よりも大きく、沿岸植物が生育できない深い湖盆(5メートル以上)をもつもの。」
だとか。

意外に湖の定義がゆるいんで、結構な数の池が湖を名乗れそうだ。なぜ湖を名乗れるときに、あえて池を名乗るのだろう。昔の人はネーミングによって例えば「観光客を誘致しよう」とか「住宅地を高く売りつけよう」とかいうさもしい発想(あ、「さもしい発想」じゃなくて「マーケティング戦略」というんでしたw)はなかったんだろう。まぁ土地の価値なんぞ米がとれるかどうかがすべてだったかもしれんしなぁ。

日別画面へ

06月22日

起床時刻:11時30分

近所の庭木に、真緑の羽に真っ赤な嘴の、比較的大きなオウムのような鳥がペアでとまっていた。たまたま横にいた夫に「あの鳥なに?!」と興奮して聞いたら「さあ」とまったく興味ない返事。うちの夫のその平常心はすごいなと思う。だって、南国チックな色合いの、およそ日本ぽくない鳥ですよ。それをちらっと見て「さあ」でやり過ごすなんて、私みたいに興奮しやすいたちからするとマジびっくりする。
うちの夫の無関心は多岐にわたっていて、例えば、夫はサッカーにも微塵の興味もない。夫が日本代表メンバーで知っているのは本田だけで、長友は「ニコニコ動画の大文字赤字コメントで「インテル長友」ってよく出てくるから名前は知っているけど、顔は知らない」といっていた。むしろ私はそっちがわからないw

まぁいいや、それで後でインターネットで調べたら、私が見たやつと同じ鳥の画像が出てきて「ワカケホンセインコ」っていう名前だと知った。wikiによると「日本ではペット個体が逃亡などして各地で野生化している。最初に定着が確認されたのは1969年の東京都23区の西南部」とあった。うちも23区の西南部。前にも見たことあったんだけど、見間違いか幻覚だろうと思ってやり過ごしてたんだよね。だってあまりにも日本ぽくない鳥なんだもん。名前と実態がわかってよかった。インターネットって便利だなぁ。

今、この文章を読み返したけど、すべてにわたってどうでもいい話である。

日別画面へ

06月21日

起床時刻:09時30分

06月20日(金)

起床時刻:08時32分

06月19日(木)

起床時刻:07時30分

米HBOのドラマ、『ゲーム・オブ・スローンズ(Game of Thrones)』にはまっている。
このドラマは「大人向けの『ロード・オブ・ザ・リング』」などと説明されているようだ。確かに『ロード・オブ・ザ・リング』のような中世ヨーロッパ風ファンタジー世界に大量のエロとグロと醜い大人たちを投入したドラマといえるかもしれない。

不愉快なポルノまがいのシーンや不愉快な残虐なシーンが多いので、観ることはおすすめしない。『ロード・オブ・ザ・リング』と違って、のんびりニュージーランドを散歩したりしないのだ。
あくまでどぎつく、刺激が強く、展開が早く、次から次に登場人物がでてきて(たいていはイヤな奴だがたまにいい奴もいる)、飽きさせない。中毒性がハンパないので、アメリカで大ヒットしたというのもよくわかる。

カコイイ台詞もいっぱいあるが、英語の勉強にはならないだろう。
なぜなら使うシチュエーションが想定できないからw
"The next time you raise a hand to me will be the last time you have hands!" -シーズン1より
"I will hurt you for this.A day will come when you think you are safe and happy, and your joy will turn to ashes in your mouth.And you will know the debt is paid." -シーズン2より
ね?こんなフレーズ、一生つかわんでしょうw

真面目かつ頑張り屋かつ勉強熱心な早起き生活民向けの名言としては
"a mind needs books as a sword needs a whetstone if it is to keep its edge. That's why I read so much Jon Snow.”
(知性には本が必要だ、刀の切れ味を維持するため、刀に研ぎ石が必要なように。だから私はたくさんの本を読むのだよ、ジョン・スノウ)というティリオンの台詞がいいか。

ま、リアルだといくら本を読んでもmindが磨かれることはない。
なまくら刀をいくら研いでも所詮はなまくらであるように。チーン。

日別画面へ

06月18日(水)

起床時刻:07時30分

井上ひさしの『日本語教室』の続き。

「外来語、カタカナ言葉の氾濫は目に余りますが、一方に「漢字倒れ」というのもあります」(P52)
「特にワープロが使えるようになって、書けない字でも漢字に変換しますから、今、若い人の文章というのは、漢字の使い過ぎ、「漢字倒れ」になりかかかっていますね」(P53)
とあるが、ホントかね。

島崎藤村の『破戒』の冒頭と村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のそれとを比べて御覧なさい。圧倒的に『破戒』のほうが漢字が多いし、難しい。

「丁度其二階の窓に倚凭(よりかか)つて眺めると」(『破戒』)なんて絶対今は書かない。「転宿」と書いて「やどがえ」と読ませるのも「和語と漢語の結びつき」の強さゆえである(後述の『日本語の近代』参照)。ま、「やどがえ」自体が死語だけどw
一方、『多崎つくる』のほうは「大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた」と漢字の数も少なく、漢字自体も平易である。

明治と比べりゃ、漢字・漢語は減ってんじゃん!
今野真二『日本語の近代』(ちくま新書)の副題はずばり「はずされた漢語」である。本書の表紙の説明書によると「漢=中国(文化)」は日本にとっての「公性」を支えてきたが、日本が近代国家を確立しようとする中で日清戦争が起こり、社会は漢を離れ、洋に目を向けるようになった。・・・「和漢洋」から「漢字・漢語」が次第にはずされていく・・・」んだそうな。

明治と比べるからいかん、ワープロの出現前後で比べるべきなんじゃ、という向きもあるだろうが、それを言うなら、例えば天声人語の漢字数および漢字の難易度の時系列比較でもやるとかしなくちゃ説得力がない。そういう内容の新書なら読んでもいいが、根拠が「わしはそう思う」じゃあてにならん。

何がいいたいかというと、「過去と比べて今はこうである」といいたいなら、その過去とは具体的にいつのどこかをはっきりさせねば意味がない。比較対象次第で結論(今)の見え方もかわってくる。そして比較は「なんかそんな気がする」じゃなくて、きちんとした論拠をあげてやってもらいたい。まぁ、まじめに読むほどの本でもなかろうが。

日別画面へ

06月17日(火)

起床時刻:07時00分

井上ひさしの『日本語教室』(新潮新書)を読んだ。
2001年での上智大学での"講義"4回分の書き起こし。
なんつうか、「オジサンの四方山話」といった趣。
実家にあったから持ってきて読んだけど、これを定価(680円税別)で買う気はしないねw

本書読んで知ったこと。
大江健三郎がはじめて無機物に「たち」をつけた(例:書物たち)。
そうなんだ!
私は「ていねいに生きる系」女性が「無機物+たち」を使いだしたんだと思ってた!「野菜たち」とか「器たち」とかよく使ってるじゃん?
「なーにが"野菜たち"だ、きもいんだよ」と思ってたら、ノーベル賞作家がそのハシリだったとは!

あと「一県一川、つまり一つの県に一つの川というのは日本では最上川だけで、これが山形県人の自慢」ってのも初めて知った。地理が苦手だったもんでねw
そして川には「a」という母音(大きな音)の名前が多い、北上川、阿賀野川、多摩川、荒川、など。
「川の名前にはどうしても「a」という母音を使いたくなる。昔の人たち、名前をつけた人たちの音韻感覚というのは、やっぱりすごいものですよね」。
一文字も「a」の母音が含まれていない筑後川の立場はwww
しかも「ちくごがわ」って発音しにくいんだよなw
だから筑後の人は筑後を「ちっご(こ)」とよく発音する。
筑後弁はちっごべんね。どうでもいいですね、はい。

日別画面へコメントを読む(2)

06月16日(月)

起床時刻:07時00分

06月15日

起床時刻:11時00分

『美人の正体 外見的魅力をめぐる心理学』(越智啓太/実務教育出版/2013.8)。アホみたいなタイトルだが、外見的魅力についての過去の調査結果がコンパクトにまとめられている。

「第三章 美人は頭がいいのか悪いのか」より一部メモ。
①美形は実際よりも、良く評価されがち
②美形は実際に出来がいい
という二つの観点から論じられている。

①外見的魅力による評価バイアス
ランディとシガール(1974)は、エッセイに添付されたプロフィール写真が美人か不美人かによって評価が変化するか調査を行った。
→同じ出来のよいエッセイの場合、執筆者の写真の魅力度による差はない(統計的に有意な差ではないが、外見的魅力度の高い女子学生の執筆論文のほうが評価高い)
→同じ出来の悪いエッセイの場合、魅力度の効果があらわれ、執筆者が魅力的なほうが評価が高い
ただし評価者が女性になると、むしろ美人が書いたエッセイのほうに厳しい評価が下されている。

ワプニック(1998,2000)によるバイオリンの演奏や子供のピアノ演奏の調査では、外見的魅力度の高いほどパフォーマンスが優れていると知覚される。ノースとハーグリーブス(1997)によればポップミュージシャンでも同じ結果に。

先生→生徒だけではなく、生徒→先生のバイアスもありうる。リニオロ(2006)らはアメリカの生徒が評価するサイトを調べたところ、「ホット」と評価されている教員は、そうでない教員に比べて、すべての大学で学生からの授業評価も高い。

②外見的魅力の高い人間は本当に能力が高い
ロンドン大学金沢(2011)のイギリスでの大規模な調査。
1958年生まれの子供たちが7才と11才のときに教師が彼等の外見について魅力的か否かを判断(魅力度は生涯かわらないという前提による)と様々な種類の知的能力のテストの点数を総合して算出した一般知能得点の相関をとった結果、r=0.381という比較的高い正の相関が得られた。
アメリカにおける同様の大規模調査によると、魅力度(訪問調査員による5段階評定)、PPVT(Peabody Picture Vocaburary Test)ではr=0.126とイギリスより低くなっている。

ウィリアムスら(2010)はアメリカのプロフットボールリーグのチームのクォーターバックの能力(QB指標といわれるもの)とその外見的魅力に高い相関関係がある、つまり、ハンサムな選手ほど良い成績をあげているということを明らかにしている。

②の理由としては「よい外見→周囲からの高い期待→ピグマリオン効果」と、顔や身体の左右対称性(外見的魅力の一つ)は健康や知性、社会的適応などと密接な関係がある(プロコシュら、2005)という生物学的要因があげられている。ほんとかよw

ピグマリオン効果ねぇ。
そういや、私は20代のとき上司(関西人のおっさん)に「あんたこのままいくと、ただの無能なオバハンになるで」と予言されたが、これが"逆ピグマリオン効果"だったんだろうか?「ブサイク→低い期待→ほんとに無能になる」という結果になったんだろうか?

私はそうは思っていない。私の外見と頭の出来のどちらが悪いかといえば、まぁ両方悪いんだけども(かなすぃ)、外見より頭のほうが悪い。当時、私は既に十分、無能だった。ブサイクだからという理由でアンダーバリューされたのではないとおもう。

ブサイクなのも悲惨だが、どんな美人だろうが、40才、いや50才過ぎたら「ただのオバハン(もしくはバアサン)」というカテゴリーに十把ひとからげで入れられちまうのである。
それを思うとブサイクが悲惨なのは若いうちだけである。無能は一生悲惨である。ブサイクでも有能なら少なくとも金(老後のベスト・フレンド)が貯まるだろう。

とか書くと、「イヤ、美人なら玉の輿に乗れるでしょ」という人もいるだろう。トロフィー・ワイフコース。
しかし、『美人の正体』で紹介されている森と小林(2008)の研究によると、お金持ち妻(平均世帯年収が9000万円程度の家庭の妻)を対象にして大規模調査を行った結果、現代日本では美貌ゆえの「玉の輿婚」は難しく、むしろ「キャリア型妻」が多いそうな。
「森らによれば中流階級以上以上でとくに母親が教育熱心な家庭に育ち、自らも社会で経験を積みキャリアウーマンとなった女性が、仕事の中で、将来富裕層になる優秀な夫か、あるいはすでに経済的基盤を両親から受け継いでいる夫と出会う「キャリア妻」方が「現代の玉の輿」婚である、といいます」。わかるわー。

日別画面へ

06月14日

起床時刻:11時00分

06月13日(金)

起床時刻:07時00分

06月12日(木)

起床時刻:07時00分

06月11日(水)

起床時刻:06時45分

06月10日(火)

起床時刻:06時30分

06月09日(月)

起床時刻:06時00分

06月08日

起床時刻:06時00分

長崎県南島原市加津佐(かづさ)から小型ボートに乗り、野生のイルカを見物してきた。
イルカは長崎県島原半島と熊本県天草の間の海を回遊しているそうだが、この日の見物場所はほとんど(対岸の)天草であった。約300頭の野生のイルカ(ミナミハンドウイルカ)がいるそうだが、この日も多くのイルカの群れを間近に見ることができ大満足であった。「天草方面を海上から見て帰ってくる」なんてことにならなくてよかった。
加津佐に帰る途中、遠くにスナメリが見えた。船長によると、スナメリは繊細なのでイルカのように船で近づいて見る事はできないらしい。水族館でスナメリを見たことがあるけれど、スナメリも本当にかわいい。

その後、原城跡に行った。
原城は、1637年の「島原の乱」の際、一揆を起こした群衆3万7千人が籠城した廃城である。一揆群集は、一人の内通者を除いて、女、子供、老人にいたるまで全員が殺された。

原城へ向かう道の周囲には畑があり、のどかな風景である。
車を降りるとむっとするような草いきれ。鳥の囀りしか聞こえない。妹が蛇を見つけた。私ら家族以外は一人の観光客もいなかった。

草深い道を登り、かつて本丸があったとおぼしき場所に出た。
眼下に海の見える景色はすばらしいが、PM2.5か黄砂で霞んでいる。
大きな白い十字架と、それの反対側に手を合わせて立つ天草四郎の像が建っていた。

(「天下の美少年」といわれる天草四郎なら、もう少し今風の美男すればよかったのではないか、と正直思ったが、これは恐れ多くも長崎平和祈念像で有名な北村西望氏の作品である。もっとも外見に限らず天草四郎に関する正確な文献資料等はあまり残っていないようである。歴史をつくるのは常に勝者であるから)

原城は島原の乱を起こしたときには廃城になっていたが、乱後、政府は徹底的に破壊しつくした。歴史をたどるよすがは、わずかに残された石垣くらいである。

wikiには「島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱」とある。
松倉勝家、寺沢堅高の課した重税と苛斂誅求(特に島原藩の松倉家)は現代人の想像を絶するほどであった。また切支丹弾圧の拷問や刑殺の凄惨さ、むごさは言葉にするのもはばかれる。

司馬遼太郎氏は『街道をゆく17 島原・天草の諸道』(「週刊朝日」の連載は1980年)で「徳川初期の切支丹弾圧のむごたらしさそのものが、日本史のなかで異質ではあるまいかと思いたくなる」という。

「寛永三年(1626年)から三年間、長崎奉行であった竹中采女正重義は「穴吊り」という苛酷を通り越した拷問を考え出した。<略>
人間の諸現象のなかで、人間が人間を苛るということほど胸の悪くなることはないが、とくに苛め側が正義や使命感を持ったとき、悪魔以上のことをやるらしい。徳川官僚にとって切支丹退治というのは政権から与えられた強烈な正義であった」

『トラウマ』(宮地尚子/岩波新書)にも同じようなことが書いてあった、つまり人間は「正しい理由」を与えられると、案外簡単に暴力をふるえるし、加害者にもなれる、というのだ。信用を裏切る行為など社会規範を破った人を罰し規則を守らせるようにする行為は、自分がその被害者ではなくても、脳内の報酬系(快楽中枢)が反応することが明らかになっている。

ドイツの研究者タニア・シンガーによる実験ではジェンダー差がみられるそうで、ある人に痛みが加えられるのを目にすると、被験者は自分が痛みを感じる領域が男女とも活性化するが、不正を行った相手に加えられる罰の場合、女性は多少同情を示したけれども、男性はまったく同情を示さず、むしろ脳の快楽中枢が活性化したそうだ。「「共感」から「公正」へとスイッチが入れ替わり、罰を受けるのを見て楽しんでいるようだった」という。
義憤や正義感の持つ危うさはここにある。

とまぁ、話がずれたが、胸の塞がれるような思いで原城を後にした。

お昼を近くの原城温泉真砂というところで食べた。私と母は島原名物の「具雑煮」を選んだ。
うろ覚えの記憶で書くと(ちょうど一週間後に書いている)、具材はアナゴに鱧に高野豆腐、白菜、にんじん、しいたけ、ごぼう(いいアクセント)、つみれ、鶏肉、かまぼこ、小さめの丸餅が3つ入っていた。妹の頼んだちゃんぽんが大盛りできたので、餅が大量に入っていたらどうしようと心配していたのだが、適量で美味しくいただいた。

妹が雲仙の宿を予約しているので、宿に向かいがてら仁田峠に立ち寄った。
残念ながらミヤマキリシマはほぼ終わっており、濃い紫色の花はほんの少ししか見ることは出来なかった。
今年はミヤマキリシマの花が早かったようで、満開はGWの後だったそうだ。
そのかわり、やまぼうしの白い花をあちらこちらに見ることができた。額アジサイのようなツルアジサイも見ることができた。ウツギだろうか、白い花弁のところどころに桃色のまじった花をたくさんつけた可憐な木も多く見かけた。
白っぽいホワホワしたものが枝についている木があちこちにあって珍しく、父親がロープウェイの係の人に何の木か聞いたら、何のことはない、大量の毛虫が葉っぱを丸かじりにして、大量の糸を吐き出していたのだった。それが白いふわふわとけぶって見えたものの正体だった。係の人がわざわざ毛虫のついた枝を持ってきて見せてくれた。びっくりするほどいっぱいの毛虫がたかっていた。うえー。

ロープウェイで上まで登ったが、すっかり霞んで(ガスか黄砂がPM2.5か)何も見えやしない。すぐに下に下りて宿に向かった。

日曜だったせいか、客室をアップグレードしてくれて、とても広い部屋になった。和室も付属のツインのベッドルームも広々としていて、トイレも二つ、洗面所も二つ。池を望む洋室にはゆったりとしたソファが置かれていて、すばらしい景色を堪能することができた(全額両親が払っているのだが)。

さっそくお風呂に入りにいった。他の客もおらず、ゆったりと浸かることができた。眺望がよかった。
お風呂は源泉かけ流しで、お湯は単純酸性温泉(含硫化水素)。雲仙のお湯は草津に似ているそうだが、九州の温泉地は湯量が豊富なので、たいてい自家源泉からひいている。そのため、同じ温泉地でも宿によって多少湯質が違ったりする。ここはメタケイ酸が多く含まれるそうで、美肌の湯でもあった。
加温していないそうで、江戸っ子にはぬるく感じられるかもしれない。ぬるめの湯がすきな私にはちょうどよかった。ぬるくても体の芯からしっかり温まるお湯だった。

日別画面へ

06月07日

起床時刻:06時00分

午前中に鳥栖のアウトレットへ行って、洋服とサンダルを購入。
母と私と妹の三人で行って、父親は家で留守番。
ちょうどセールが始まったみたいで、開店前から駐車場は混んでいた。ハワイで買うより鳥栖で買ったほうが、はるかに安く体型にも合うことを実感w

お昼は久しぶりに「ごぼ天うどん」を食べた。
福岡のうどんは柔らかいので、胃弱の人(私である)にもぴったりである。
私はそばやうどんを食べるときのマナーが大嫌いなのだが(音を立てて麺をずずずーっと一気にすすり、かまずに飲み込むのが正式な日本のマナーなんざましょ?)、噛まずに飲むこむ日本式麺の食べ方(必然的に早食い)は絶対に健康によくないと思うのだ。
しかし、マナーにうるさいうちの旦那は、5分以内にうどんを食べ終わらなきゃブチぎれるし、よく噛んで食べると「まずそうな食い方をするな!」と怒られるし、ほんともう、うどん屋に行くのが苦痛で仕方ない。まったく食事は一人でするに限る。

うどん県香川は糖尿病患者が多いことで有名である。
以下、「健康スマイル情報局」というHPより引用すると、

「香川県は、2008年の糖尿病受療率調査でワースト1位、2011年はワースト2位でした。香川県が2011年に行った「県民・健康栄養調査」では成人男性の42.6%が糖尿病またはその予備軍とされていて、この数字は全国平均よりも約12%も高いという調査結果も出ています。
この結果を受けて、香川県は「糖尿病ワースト1位脱出事業」を展開し、2012年と2013年には小学生に糖尿病検査を行っています。」
「香川県に糖尿病患者が多い理由は、香川県特有の食生活にあると言われています。香川大学医学部付属病院糖尿病センターの村尾教授は「原因はひとつではなく、複合的な要素が絡んでいます。もちろん、そのひとつが讃岐うどんだというのは否定できないと思います。」と述べています。」
「確かに香川県民は、他の都道府県と比べて、うどんの消費量が多いのですが、このうどんの食べ方に問題があると村尾教授は述べています。讃岐うどんは、よく噛まずに飲み込むように食べる習慣があります。これは、栄養の吸収を早めて、食後に高血糖になりやすいのです」
http://e-garmin.com/2010/

というわけで、食事をよく噛まないで食べるのは健康によくないはずなんだよ。と、旦那に言っても、どうせ「くだらないことを言うな!」と怒られるので言わないけど、うちの旦那も糖尿病になればいいのに。でも、私がついつい旦那に野菜も出してしまうため(やっぱり野菜がないと彩りが悪いので)、なかなか糖尿病にならなそう。ていうか、夫に食生活をあわせている私が先に糖尿病なりそうでコワイ。世の中、他人に気をつかう奴から病気になるからな。

日別画面へ

06月06日(金)

起床時刻:08時00分

実家に帰省。飛行機の中で『トラウマ』 (岩波新書/宮地尚子/2013.1)を読んだ。
本書の構成は、トラウマとは何か(第一章)、トラウマを抱えながら生きること(第二章)、トラウマを抱えた人とどう向き合うか(第三章)、ジェンダーとセクシュアリティ(第四章)、社会や集団レベルのトラウマ(第五章)、トラウマの持つ可能性や創造性((第六章)。

愛情あふれる家庭でぬくぬくと育った自分にはたいしたトラウマもないと思っていが、ジェンダーとセクシュアリティ(第四章)によると、DVもトラウマになるということで、私、今、トラウマ育成中じゃん。色々あてはまるんですけど。

「ディー・グラハムは、女性に特徴的とされている性質は(引用者補足:「従順」「受動的」「臆病」など)、トラウマを長期的に受けてきた人の特性と重なると指摘しています。彼女は、人質事件の被害者が犯人に愛着を抱くようになるという「ストックホルム症候群」の概念を発展させ、人質事件以外でも、また集団レベルでも同様のメカニズムがおきることを明らかにし、「社会的ストックホルム症候群」と名づけました。そしてその内容が伝統的な「女性性」とかなりの部分で一致することを指摘しています。<略>
また、グラハムはストックホルム症候群に陥らないためには、「自分のスペースを要求する」ことが大事だと指摘します。ジェンダー研究者の江原由美子氏は、女性は足を揃え、肩を落とし、なるべく空間を占領しないように気遣うことが多いこと、時間的にも、誰かが会話に割り込んできたら女性の方が話しを中断しがちで、他人の時間を使うことに申し訳なさを感じやすいことを指摘しています。
<略>
そんな奥ゆかしい女性が今時どこにいるの?と思う人もいるかもしれませんが、DV被害者の場合、まさにそういう規範を内在化させられていることが少なくありません。」

「そんな奥ゆかしい女性が今時どこにいるの?」ってここにいるんだよ!!私です、わ・た・し。
それはともかく、著者は「社会的ストックホルム症候群」について、かなり批判的に読んだそうだ。確かに著者のように経済的に自立した女性には的外れに聞こえるかもしれないが、昔も今も、夫に頼らなきゃ生きていけないような人が、殴られても夫に従順だったり、夫のいい面を見ようとするのは(例えば夫の小さな親切を過大に有難く感じるとか、夫の束縛を「愛情」と感じるとかね)、ポジティブで前向きなのかもしれないし、共依存なのかもしれないし、洗脳されているのかもしれないが、どちらにしろありうる生存戦略だし、集団レベルのストックホルム症候群っぽいともいえるだろう。私はよくわかる。

グラハムはストックホルム症候群に陥らないためには、「自分のスペースを要求する」ことが大事だと指摘しているそうだけど、「自分のスペースを要求」しようにも、日本の家のどこにそんなスペースがあるというのだ?日本の住宅事情なめんなよ!ですよ。とりわけ貧乏人は「うさぎ小屋」住まいなんである。従って貧乏であればあるほどDV被害は深刻化する(はずだ。私の予想ね)。

私はトラウマから得るものは何もないように思うが、著者によると、トラウマは創造力や想像力、知恵の源になるそうだ。
もっとも、「トラウマからすばらしい作品が出来上がることが大事なのではなく、そのプロセスが大事であることは強調しておきたいと思います。<略>自分が何かを表現してもいいと思えること、何か表現すべきものを自分が持っていることに気づけること、誰かが受けとめて興味を持ってくれるかもしれないという希望をもてること、そこの部分が重要なのです」

見苦しかったり赤裸々すぎるような感情の発露も本人のヒーリングプロセスなのだ。安上がりの。
というわけで、私は他人を不愉快にさせ、やる気を失わせ、うんざりさせても、何かを表現するという「プロセスを大事にして」、十年一日、何の進歩もなく、ただの愚痴をここに垂れ流してもよいのだ、というお墨付きを得たようにおもう。間違っているような気もするが。まぁ、グダグダとつまらんことを書き連ねることが「ヒーリング」なのかもしれんし、そのおかげでこうやって生きているのかもしれないしな。
もっとも、トラウマが「昇華」されたすばらしい「作品」を残したジャン・アメリーなんかは最終的には「自らに手をくだし」たわけだけれどもね。だから中途半端なアマチュア芸や下手の横好きの趣味レベルならともかく、まともな鑑賞に耐えうる「作品」レベルのものを作り出す行為はヒーリングとは無縁なのかもしれんね。

日別画面へ

06月05日(木)

起床時刻:07時30分

『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』(一ノ瀬俊也/講談社現代新書/(2014/1/17)を読んだ。
本書は、米陸軍軍事情報部が1942~46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌(Intelligence Bulletin、以下IB)に掲載された日本軍とその将兵、装備、士気に関する多数の解説記事などを使って戦闘組織としての日本陸軍の姿や能力を明らかにしてゆく。もっともIBは敵国の資料であるから、日本軍に対する偏見も多く含まれていようが、それを割り引いても興味深い事実が浮き上がってくる。ていうか、「でしょうね」という納得感がハンパない。というのも、今の日本に通じるものが色々とあるからだ。

一章では戦士としての日本兵の実情
二章では兵士達の心情
三章では太平洋戦争前半における対米戦争の全体像と特徴
四章ではフィリピン、沖縄など戦争後半における全体像と特徴
に焦点をあてて分析している。

基本的に日本軍はブラックであった。
もっとも、軍隊はどこでもブラックだろうが、そのなかでも際立ってブラックなのが日本陸軍だったと言っていいだろう。一つにはカネがない。だから武器がない。じゃあ白兵戦かといえば(陸軍は白兵戦主義のイメージもあるが)、実態は違う。何しろ米兵の平均身長約172.7cmであったのに日本兵は平均約161.3cmしかない。体重も日本兵のほうが15kg近く軽い。というわけで、日本兵は白兵戦を怖がっていた。
しかも射撃のスキルも低かった。しょっちゅう、射撃が下手くそと書かれている。おそらく訓練するのに充分な時間も装備もなかったんだろうと想像する。

のちに元陸軍大佐の中原茂敏は日米両軍師団の編成と装備を比較して、「兵員は1.3倍に対し、小銃3倍、機関銃2倍、火砲5倍、戦車6倍」(火砲のうち重火砲は7倍)であり、1945年沖縄戦における日米両軍の火力装備の差を火砲数・弾丸威力を勘案し「1対20」と見ている。
日本軍は米国の空軍にも多いに苦しめられた。米軍の捕虜になった日本軍中尉は「我々は空軍について、米独より要するに一世紀遅れていた」という。
ちなみにIBは日独軍新兵器の報告も多数あるが、「ドイツ軍新兵器が強力な重戦車などであるのに対し、日本軍のそれは前出のヤシの実爆弾など即製兵器がほとんどであるのは残念である」と著者は書いている。

ドイツに比べても圧倒的に戦力が劣るんだから(ヤシの実爆弾ですよ)降伏するしかないじゃん、と思うがそのオプションはないのである。上層からは「なんとかせい。ただし退却したら死刑な」と言われているのである。

「なんとかする」ために、例えば火力に劣る日本軍は米軍の弾を減らすために、狙撃兵を木にくくりつけた。そうすると狙撃兵は死んでもまだ木にくくりつけられているので、米軍は死体に弾を無駄打ちすることになるので、米軍の弾を消費させることができるからである。木にくくりつけられる日本の狙撃兵はたまったもんではないが。
日本軍は戦車にも苦しめられたが、対戦車用人間地雷(!)を編み出したりもした。これまた人間地雷になった日本兵はたまったもんではないが。
一言でいうと、日本軍は米国軍に比べても圧倒的に人命軽視であった。「お金がないんだからしょうがないじゃん?」の精神であろう。

日本軍の医療は最悪で、「米軍のみたガダルカナル島の日本軍の野戦病院は地獄そのものであった」。日本軍のマラリア死亡率はすさまじく、それ以外にも食料不足による脚気、腸炎が多発して日本軍に大損害をもたらし、「医療の要素が米軍のはるかに犠牲の少ない勝利に貢献した」とまで書かれている。著者は「日本軍の短期決戦思想に基づく補給の軽視はよく指摘されるが、医療もまた当事者の言によれば「金がないから」という実に官僚的な理由で軽視されていたのであった」という。

IBは日本軍の医療体制がかくも低レベルであった理由として、「その根深い欠陥、すなわち劣った個人教育、貧弱な設備、ばらばらの組織、西洋の基準に照らせば、『ヒポクラテスの誓い』をとうてい満たせない患者への態度」を挙げている。IBは更に、「患者に対する日本軍の典型的態度は西洋人には理解しがたいものがある。敵は明らかに個人をまったく尊重していない。患者は軍事作戦の妨げとしかみなされないし、治療を施せばやがて再起して戦えるという事実にもかかわらず、何の考慮も払われない」。

日本軍は死者には丁重だが弱者(病人など)には厳しい。
「「死ぬまで戦え」という軍の教えを自ら実行した死者には実に「丁重」だが、生きて苦しんでいる傷病者への待遇は劣悪で、撤退時には敵の捕虜にならないよう自決を強要している。」
これなんかも戦争を知らない日本人である私も「いかにもありそうなことだ」と思う。

ちなみに日本軍は給料もめっちゃ安かった。米軍軍曹によれば戦地の日本兵の金銭事情について「民間人に売れると思った物は何でも盗む。彼らの賃金は世界中の陸軍でおそらく一番低い」とのこと。最下級の兵士の給料は3円だったそう(葉書1枚が3銭の時代である)。留守家族はどうやって暮らしたかと言うと村人で助け合っていたらしい。日本兵家族に対する物質的待遇の低さはドイツのそれ(いろんな保障や手当てがつく)とは対照的である。だってお金がな(ry。

「なぜ日本軍が戦争後半にこのように粘り強い持久防御戦争をとったのか」について、著者が参考としてあげているのが、対米戦時の大本営陸軍部宣伝主任参謀の恒石の回想記の記述である。
「生産力において多大の懸隔のある米軍に対して、たとえ一対十の物質的損害を与えても、さしたる影響はなかったであろうけれども、人命の喪失は死を鴻毛の軽きにおく日本人と異なり、彼等には深刻な問題であった。ことに輿論を尊重する民主国家であるだけに、この点は対米宣伝上もっとも効果あるポイントであった」とある。
つまり日本人と違い人命を尊重する米国人の命を奪うことで、厭世的な世論に導くことが一つの狙いであったらしいのだ。
だから著者は日本軍がそれなりに「合理的」であったとするが、日本の「肉攻兵たちの人命が惜しげもなく犠牲に供された事実は改めて強調しておかねばならない」と著者はいう。へーえ。

日別画面へ

06月04日(水)

起床時刻:07時30分

06月03日(火)

起床時刻:07時30分

06月02日(月)

起床時刻:07時30分

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(ジョナサン・ハイト)の後半(第9章~)を読んだ。前半のほうが面白かったかな。

著者は「人間の本性の90%はチンバンジーで10%はミツバチだ」という。チンパンジーは利己主義(個人主義)、ミツバチは集団主義のメタファーである。「人間はなぜ集団を志向するのか」(人間はなぜミツバチでもあるのか)の説明として、著者は集団選択理論を持ち出している。つまり互いに結束するために集団選択によって設計された集団レベルの適応だというのである。
ミツバチスイッチは
・集団の多様性ではなく類似性を高める
・人々の同調性をうまく活用する
・個人間ではなく集団間での健全な競争を実施する
「類似性、運命の共有、フリーライダーの抑制によって強化される郷党心、すなわちグループ愛は、私たちが達成できる最大の成果ではないだろうか」(P379)だってさ。
それを言うなら、日本なんかミツバチ社会の極北、高度ミツバチ社会つってもいいだろう。日本人はミツバチ度20%くらいいってんじゃね?(っていうかこのパーセンテージってなんか根拠あるんすかねw)
日本といえば類似性(homogeneous society)、運命の共有(「一億玉砕」がマジでスローガンになった国である)、フリーライダーの抑制力の高さ(生活保護バッシングをみよ)、そして「空気を読む力」である(もっとも著者は「空気を読む力」については触れていないけどねw。まだまだミツバチ思考が足りていないということであるw)。

著者は第11章「宗教はチームスポーツだ」で宗教は人間の進化において合理的な行動であったことを証明する。すなわち、ひとたび人類は宗教を信じるよいうになると、「うまくそれを利用して道徳共同体を築いた集団は、存続し、繁栄し始める」。「私たち人類は、自己を超越した何ものかに関心を抱き、そのまわりに他の人々とともに集い、より大きな目標を追求するチームを形成することにかけては途方もない能力を持つ。このことは、宗教の何たるかを説明する」
それがわかっていたから、伊藤博文は皇室を神格化して国家神道というフィクションをつくったんでしょ。「より大きな目標を追求するチーム」となった日本は、先の戦争でにっちもさっちもいかなくなると「神風特攻隊」や「対戦車人間地雷」まで編み出したからな。

ところで進化にとって合目的であったからといって、それが正しいわけではない。進化と善悪は全く別物である。
宗教がワールドワイドに存在することに進化論的根拠があるなら、当然、女性差別(宗教と同じくらいワールドワイド)も進化論的な適応行動だったのだ。女性を差別する社会は、より「安定的」で「存続し、繁栄し始める」といえるだろう。宗教同様いくらでも論拠はある。

私は著者と違って多元論者ではないので、集団のために個人を犠牲にするような考え方には反対する。WEIRED文化(前半参照)こそが正しいと思ってる。そこを譲ったら、リベラルでもなんでもないじゃん。

日別画面へ

06月01日

起床時刻:10時00分

クリント・イーストウッドの『許されざる者』(Unforgiven 1992)を今更ながらみた。もう20年前の映画で、イーストウッドは当時62才。
元は腕利きで冷酷な殺し屋のウィリアム・マニー(イーストウッド)は、奥さんのおかげで更正し足を洗ったが、彼女は子供を残して他界。マニーはお金欲しさに再び殺しの世界に戻るのだが、年老いてしまってヨレヨレのヨボヨボ。馬に乗るのも一苦労。
街についても熱を出してウンウンうなっているだけだし、映画のほとんどは弱っているおじいちゃん状態なんだが、最後の最後、おじいちゃんの逆鱗に触れるようなことが起き、おじいちゃんは覚醒して伝説の殺し屋に戻り、圧倒的な強さを見せつける。

よく考えたら(よく考えなくても)、マニーの行動は倫理的にも法律的にも色々と問題だらけだが、漫画にせよ、映画にせよ、この覚醒パターン(「どうやら俺を本気にさせてしまったようだな」)はいつだって快感なのである。

ハリー・ポッターにせよ(貰い子で苛められているが、実は伝説の魔法使いの息子で魔法の世界ではヒーロー)、パーシー・ジャクソンにせよ(リアルの世界ではADHDの難読症で苦労するが、実はポセイドンの息子で一級デミゴッド)、ウィリアム・マニーにせよ(養豚業もままならないおじいちゃんだが、実は伝説の殺し屋で覚醒したら超強い)、冴えない主人公が覚醒して無双状態になる、というのがいいんだよね。

まぁ現実は、一生覚醒なんかしないまま終わるんだけどね。まさにフィクション。ただの現実逃避。そしてリアルの冴えない一週間がはじまる。

日別画面へ