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起床時刻推移グラフ

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07月31日(木)

起床時刻:07時00分

昨日の記事では、集団の利害と個人への「やさしさ」が対立するときについて書いたが、日常的には誰かにやさしくすることで、自分が我慢しなくちゃいけない、ということがよくおきる。自分の利害との対立だ。

「やさしさ」ってのはそもそも何だろう。
私は自分のリソースを他の人の便益のために使うこと、じゃないかと思っている。例えばテレビで病気の人をみて「かわいそう」と思うのはやさしさではなく、ただの感傷であろうと私は思う。もちろん「ざまぁみろ」などと思うような歪んだ精神よりはずっといいにしろ、思っているだけなら、「かわいそう」と思おうが、「ざまぁみろ」と思おうが、世界に与える影響としては何も変わらないし、自分の労力も一切つかっていない。ましてや涙を流して「はい、おしまい」じゃ、マスコミの流す物語をただ消費しているだけである。

自分のお金なり時間なり労力を割いて他人の便益をはかることに私は「やさしさ」を感じる。となるとですよ、「やさしさ」を発揮するにはお金なり時間なり労力なりが必要ってことになる。他人のやるべきことを肩代わりする「能力」といってもいい。病人のかわりに車で買い物に行ってあげるためには車の運転ができたり、車を所有してたりしなけりゃいけないのである。だから他人の面倒をみる能力がない人がやさしさを発揮するのは難しいんじゃないか、と思ったりする。

そんでもってうちの会社の菩薩君がとんでもなくやさしいのは、やはりとんでもなく有能だからなんじゃないかと思う。彼は常に他の人が使いやすいようにデータでもなんでもつくりこんで渡してくれる。私が菩薩君と同じようにやろうと思っても、能力的に私にはできないんである。後の人のことを考えて私ができるのはトイレットペーパーの補充くらいであるが、菩薩君はそういう雑事から仕事の上の超高度なことまで、なんでもできて、しかもまったく恩着せがましくないのである。
何年か今の会社に勤めているけれど、菩薩くんにはいまだに驚くことの連続である。どうやったらこんな子が育つのか。私が思うに、やっぱり訓練じゃない、もって生まれた何かがあるんだと思う。

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07月30日(水)

起床時刻:07時00分

7月26日土曜日に放送されたNHK教育テレビ「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨匠たち」の第4回は歴史小説家の司馬遼太郎さんだった。番組では最後に、晩年の司馬が子供にあてて書いたというエッセイ『21世紀に生きる君たちへ』の次の箇所が紹介されていた。

「「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」みな似たようなことばである。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。・・・・いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心構えというものである。」

インターネットでは『21世紀に生きる君たちへ』の全文が読める。それによれば司馬はこう続けている。
「その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる」

はい?転んだ人を「ああ痛かったろうな」と思うだけでオッケーな訓練なんぞ「俺ってやさしい」というただの自己満足じゃん。
やさしさと利害が対立するときに、どのように決断するか、どのように選択するかが「やさしさ」問題の核心だろうと思うのだ。言い換えると「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」をとれば、集団あるいは個人の利益が損なわれるようなときに、それでも「やさしさ」を優先するのか、ということである。

司馬の例で言えば、誰かが石に蹴躓いて転んだとする。ああ痛かったろうな、と思う。次々に人が石に蹴躓き転んで怪我をする。普通なら石をすぐにどかすだろう。
しかし、その石が国家なり企業なり自分の所属する集団にとって必要不可欠(と思われる)ものである場合、人はその石をどかさずに、「やさしさ」「いたわり」を捨てるという「苦汁の決断」をホイホイしがちなのである。「仕方ないんだ」の言葉で正当化する。友達が転ぶと「痛いだろうな」と思う「やさしい」人であっても、「経済的利益の優先」あるいは「国益の優先」や「国家戦略上の重要な何か」のため、「やさしさ」や「いたわり」はポイっと捨てられるのである。やさしくあろうとすることは、とても難しい選択であり決断なのだと思う。

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07月29日(火)

起床時刻:07時00分

「電車に乗れる果物は?」「スイカ(suica)!」というわけで(山田君、わたくしの座布団を全部差し上げます)、毎日、朝晩スイカを食べている。もうなぞなぞはいいですか、そうですか。

『ミクロの森』(”The Forest Unseen:A Year's Watch in Nature" D.G.ハスケル/築地書館/2013.7)を読んでいたらこんなことが書いてあった。
多くの生態学者が、近年のシカの増加は全国的な大惨事であると主張しているが、そもそも「私たちがもっている、「正常な」森とはどういうものかということに関する文化的、科学的な記憶は、歴史上のある特異な一点で生まれた。そのときシカは、何千年もの歴史で初めて、森から根こそぎされようとしていたのである」。

つまり「ベンチマークが間違っているのである」と著者は言う。シカが多かったときの森をベンチマークに使うか、少ないときをベンチマークに使うかで今の森の見え方が変わってくる。ベンチマークを疑うこと。これが大事である。って前も書いたねw

例えば、7月29日は土用の丑で、「今年はうなぎの稚魚が豊漁」などというニュースがにぎわっている。しかしこれも、そもそもベンチマークがおかしい。
参照:「鵜呑みにしてはいけない 「ウナギ豊漁」報道 近視眼的な日本の漁業」http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3653

ベンチマークを疑うこと。「昔に比べて、今は」というクリシェの中の「昔」を疑うこと。その「昔」とは過去の「ある特異な一点」のことかもしれない。あるいは誰かにとって都合のいい過去の一点であるかもしれない。捏造ですらあるかもしれない。

つーかさ、過去なんかどーでもよくね?とか最近思う。
そもそも過去をベンチマークにする必要性を感じない。
過去はこうだったというより、理想のほうが大事なんじゃないか。
もっとも過去を参照しなければフィージビリティは担保できないから、そういう意味ではプラクティカルであろうとすれば必然的に保守的にならざるをえないが、精神においては過去よりも未来を志向するほうが大事だと思う今日この頃である。あ、意味不明っぽい文章だけど、なぞなぞじゃないよw

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07月28日(月)

起床時刻:06時45分

なぞなぞをつくっていると、なぞなぞにはいくつかのパターンがあることがわかる。以下、なぞなぞの解き方のパターンを分類してみた。

1.問いから類推するもの
1-1. 状態の類似からの類推するもの(意味を解くもの)。
例:スフィンクスの謎。
1-2. 言葉(音)の類似・同音からの類推。駄洒落・言葉遊びの類。
例:パンはパンでも食べられないパンは何?フライパン。

2.問いの見せかけの矛盾や謎を解くもの
(以下の例はNAVERまとめの「【問題集】超良問なぞなぞ【脳トレ】 」より)
2-1. (主語や目的語の)省略による見せ掛けの矛盾・謎
例:「かけたり、たったり、つぶしたりするものってなんだ?」答「時間」
2-2. 誘導による見せ掛けの矛盾
例:「オスの蛙は勇ましくグワッグワッと鳴いて、メスの蛙はケロケロケロとキレイに鳴きます。では、子どもの蛙は何と鳴く??」→おたまじゃくしだから鳴かない(が、他の蛙の鳴き声の例を出されると一瞬そのことを忘れる)
2-3. 常識的な考えの裏をかくもの
例:タクシーを止める時は、手を挙げて止めますが、山本さんは手が不自由でもないのに、足で止めるそうです。一体どうしてでしょう?→タクシーの運転手だから(タクシーの乗客といえばお客だけを考えがちなことの裏をかく)。この問題のバリエーションとしては「山本さんはタクシーのお代を払わないで降りましたが怒られませんでした。なぜでしょう」なども思いつきます。

私の感じとしては、なぞなぞの種類としては1-2の駄洒落・言葉あそび系が一番多いような気がする。体感(てなんだ)としては8割くらいはそうなんじゃないか。この類のなぞなぞは駄洒落が思いつけばいくらでも量産できるんで、その結果、駄作とされることが多いようなw
例えば、「換気扇、洗ってまさに歓喜せん」という駄洒落を思いついたら(猛暑だというのに一気に寒くなりましたねw)「台所で一番喜びそうなもの、な~んだ」「換気扇(歓喜せん)」となるわけですよ。やはり駄作ですねwww

駄洒落系には普通の駄洒落だけではなく①「逆さパターン」(「逆さにすると動物になる木ってな~んだ?」「樫(逆さによむと鹿)」②「入れ替えパターン」(「みかんといえば愛媛県、みわんといえば何県?」「香川県(「か」が「わ」)」)などバリエーションも思いつきます。さすがに「換気扇」のなぞなぞは旦那に出していませんが、この二つは旦那に出して「ビミョー」といわれたものですw

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07月27日

起床時刻:08時00分

昨日からの流れでこの日も一日「なぞなぞ」を考えていた。娯楽に金のかからない人間であるw

駅前の蕎麦屋で思いついた「なぞなぞ」は「素面のアメリカ人が食べる麺はな~んだ?」である。答えは蕎麦。sober(素面の、酒に酔っていない)とソバの発音の類似から。
続いて「悲しいアメリカ人が食べる麺はな~んだ?」。答えは「ラーメン」。lamentable(遺憾な、悲しむべき/ラメンタブル→ラーメン食べる)から。さすがに出来が悪いなぞなぞなので、この二問は自粛して旦那には出していないけど、お蔵入りも惜しいんでここに書いたった。
もっともこれらを思いついたのは、私が高校時代に愛読していた本のおかげである(おかげっていうほどでもないけどさw)。青春出版社から出ていた『英単語連想記憶術』(うろ覚え)で、日本語の語呂合わせで英単語を覚えることを目的とした本だ。ちなみに上述の二つもこの本の語呂合わせにあった単語だ。キョーレツな絵とともに今でもほとんど覚えている。英語を勉強して何かの役にたったことは一度もないと思っていたが、今こうやってなぞなぞ作りに役立っておるなw

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07月26日

起床時刻:06時00分

夫が「何かクイズを出して」とパズドラしながら言うので(もはやパズドラがただの作業になっているランク500の夫)、「大きくなればなるほど小さくなるもの、な~んだ?」と出した。

夫が答えをぐぐったら(おい)、インターネット上では同じ質問で「服」「コピー用紙」の答えがあったそう。自分で考えたオリジナルな「なぞなぞ」だったんが、21世紀の「なぞなぞ」にオリジナルなどないな。もっとも私が考えていた答えは「分母」なんだけど、そう夫に言ったら「センスない」だってw。悪かったなw

夫には言わなかったけど、「大きくなればなるほど小さくなるもの」というなぞなぞの答えは「金融機関の責任」でもいいかな。この回答はネット上にはないだろう。知らんけどw。
金融機関が大きくなればなるほど「大きすぎてつぶせなく」なり、経営破綻時には公的資金が投入され、経営者は責任をとらなくなる(アメリカでは破綻して救済された金融機関の経営者が以前と同様の高額報酬を受け取り、このことも国民の怒りを買った)。
「金融機関が失敗しても政府が救済すると知るようになると金融機関は反社会的で失敗する可能性の高い投機を大々的に行うようになる。こうして救済主義は将来の危機の可能性を拡大させる」(『新自由主義の帰結』服部茂幸/岩波新書/2013.5)。モラルハザードがおこるのだ。

それはさておき『新自由主義の帰結』はアメリカにおける新自由主義経済学的実践の失敗と偽りの数々を明らかにし、その道を遅れてたどる日本に警鐘を鳴らすものである。目から鱗の内容を、グラフなども多用して視覚的にもわかりやすく伝える本書はお値段以上のお得な新書であった。

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07月25日(金)

起床時刻:07時00分

07月20日

起床時刻:08時00分

修理に出していたサンダルをとってきた。
などと書くと「いいものを長く大事に使う人」みたいな感じだけど、私はそうじゃない。安いものを買って使い捨て、どんどん新しいものを買ったほうが技術革新&デフレの時代には合理的であろう。好みや流行だって変わるしね。
しかしながら、靴業界においてはまったく技術革新がみられない気がするのは気のせいだろうか。10年前のパソコンの価格と性能の進化に比べて、靴は10年前と何かどう変わっているだろうか。10年前どころか、20年前の靴と今の靴とを比べてもなんの技術革新もみられない。相変わらずほとんどの靴が私の足にあわないのである!
だから珍しくぴったりあったものを大切に履かなきゃいけない。オーダーは目の玉が飛び出るほど高いし、もし足にあわなかったら、泣くに泣けない。流行の3Dプリンターで個人にあった木型をつくって、オーダーメイドっぽく安く簡単につくれたりしないんだろうか。

サンダルはいつもと違って個人商店のおっさんに修理を依頼したら、仕上がりが下手くそすぎて泣いた。足をのせる靴底部分を引革で全部修理したけど皮の厚さが微妙に変わっちゃって足が入らないんだけど。結局、捨てなきゃいけないじゃん!

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07月19日

起床時刻:07時00分

友人と某フレンチレストランにてランチ。
ガスパチョが出たんだけど、おいしかった。食欲ない(←うそつけ)ときにはいいね。
昔、彼女と一緒に行ったスペインで食べたガスパチョの話なんかしたりして。こことは違って家庭的な具沢山のガスパチョだったけれど、それもまた美味だったねぇ、などと。

誕生月ということでご馳走してくれた。グッチの香水(フローラ バイ グッチ ガーデングレイシャス。長い)とお菓子(ゼリーの詰め合わせ)も貰った。グッチの香水、夏にいい感じ。

本日やった家事はいつものお掃除+換気扇の掃除(フィルターだけ)、冷蔵庫のお掃除。冷蔵庫は中に入っているものを全部出して中を拭き、チルド室や野菜入れ、仕切り板を洗って拭いてまた戻すってだけ。扉のところの飲み物と調味料入れをやるのを忘れたなwまぁ今度やればいいか。

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07月18日(金)

起床時刻:07時00分

本日は夫が飲み会。ありがたやー。
というわけで、夕飯は夫の嫌いなオクラとラム肉でカレーをつくった。カレーはバターチキンカレーのチキンをラムとオクラにした感じね。雑穀ご飯とワイン2杯。世間のマジョリティからみればただのキモイ食い物であろう。
世間が全て物事の価値を決めるのである。自分がどう思おうが関係ない。

ダメ人間もそうで、ダメ人間かどうかを決めるのは自分ではない。世間である。心優しき無職と叩き上げの意地悪なミリオネアがいた場合、世間は前者をダメ人間と決め付けるのである。世間の価値観では「働けるのに働いていない=ダメ人間、自らの力でお金を稼いでいる=立派な人」になるのである。人間の価値は稼いだ金で決まってしまうのである。

私はそうは思っていない。心優しいこと、恥を知っていること、貪欲でないこと、こういったことこそ、人間として一番大切なことだと思っている。
しかし、世の中的には、そんなことどーでもいいのである。例えば「ニート」という一言で自動的に「どうせ、バカでやる気がなくて無能で甘ったれで弱虫で親が教育を間違えたロクデナシ」と判断されてしまうのである。どんな人かなんて誰も聞きやしない。

無職であることや低賃金であることなどは自己責任というふうに我々は世間様によって洗脳されている。安い給料で食っていけない場合、「ダメ人間だから仕方ない」というふうに個人の問題、自己責任問題に矮小化されてしまう。しかも、それに対して異議申し立てすると「すぐに言い訳をする」「すぐに人のせいにする」「ほら、やっぱりダメ人間だよね」という言論抑圧装置が働く。誰にとって得か、考えりゃあわかりそうな”モラル”を、無職や非正規社員の貧乏人は内在化し、自己チェック機能を強化し、弱音をはかないよう、もっと成長して会社に貢献できるよう、自らを叱咤激励するのだ。「ダメ人間」にならないよう、「ダメ人間」から脱却しようとして、自分を追い詰める。

経済の情報化とサービス産業化などに伴い、正社員が担うコアとなる一部の高度に知的な労働と多くの周辺的な労働が生み出されている。その周辺労働者の生産性は確かに基幹労働者に比べて低いだろう。だから給料が低くて当然だ、というわけだが、その低さの程度に正当性があるかどうかは不明だ。
経済産業研究所の川口氏の研究(「男女間の賃金と生産性格差-日本企業のパネルデータを用いた構造分析-」)によると、女性の生産性は男性の45%、賃金は30%らしい(45%って!とびびったが、この生産性は時間当たりではなく一人当たりで算出されている。つまり、労働時間を考慮していないので、短時間労働の多い女性ではより生産性の差が出てくるというわけだ)。つまり、生産性は低いにせよ、それ以上に給料が安いってことだ。だから「男女の賃金格差が生産性以上に大きいために、女性比率の高い企業の方が、利益率が高い」という論文もある。そりゃ政府が主婦の雇用をすすめようとするのも意味がある。主婦らは家計の補助的な収入が稼げればいいので、深刻な低賃金の問題が表面化することはない。しかし、近年は若い人を中心に、主婦以外の非正規雇用がすすんだから問題となった。多くは親と同居して低賃金に対処しているのかもしれないが、単身世帯はとても苦しいだろう。

また非正規雇用者の能力に対する要求水準もどんどん上昇している。なのに給料は使えない正社員のほうがベテランの派遣より高いのだ。「同一労働、同一賃金、何それおいしいの?」である。そんな中でモチベーションを保てというほうが難しい。
一方で経験不足の社員たちにもプレッシャーがある。有能な人ならともかく、地頭が悪かったりすると、ベテラン非正規社員の「こいつ何にもできないくせに給料だけ高いとかマジ意味不明すぎ」目線に耐えながら、仕事をしなくてはいけない。結局自分の存在意義は「残業が(どこまでも)できる」で証明しなくちゃいけなくなったりして、それはそれで苦しかったりする。「正社員は無能なくせに給料高くていいよね」「非正規はいいよね、早く帰れて」と内心いがみ合う一方、「自分は無能だから給料が安い」「自分は無能だから残業が多い」と自らを責め、ますます苦しくなる。

「そんなどうでもいいことを考えずに、お客様のことだけを考えてがんばれ!」というのが経営者の考えであろう。最近の経営者は経営者と同じ気持ちで仕事をすることを末端にまで求める。経営者とはまるで違う待遇なのに。カルト宗教じみた手法で、給料をあげずにモチベーションをあげようとしているのだ。批判精神を嫌い「素直」であることをよしとする日本の精神風土もカルト体質を跋扈させる土壌となっているのであろう。

馬鹿げた価値観の支配する馬鹿げた社会と見下しても、その馬鹿げた価値観に頭を下げなきゃ生きていけない。うんざりしたって無理はなかろう。

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07月15日(火)

起床時刻:07時00分

今日は夫がまだ帰ってこない。わーい、わーい。
用意している夫の夕飯はピーマンの肉詰め(つくった)、ナスとピーマンの煮物(つくった)、冷奴、ご飯。めんどくさいので汁物はなし。
私の夕飯はあまっていたコールスローサラダ(夫は嫌い)、あまっていたいんげんとじゃがいものトマト煮(夫は嫌い)、あまっていた貰いものの生ハム(夫は嫌い)、あまっていたパン、白ワイン(夫は酒嫌い)。ワイン以外は残飯処理係りでっす。ま、自ら残飯をつくってんだけどね。しょーもない手抜きの品々だが、酒のアテにはいいんすよ(もう食べちゃった)。

家の用事もやる気せず、会社の仕事もやる気せず。
「やる気なしなし病」のため、会社にもずーっと遅刻していたし、暇さえあれば会社でインターネットをしていた。
そんな中、先週末、「社員になりませんか?」と社長にいきなり言われた。マジびっくり。これもひとえに真面目にコツコツと仕事をしてきた成果、、、ではないな。確実に。
「残業増えるなら無理です」と言ったところ、業務内容は少し増えるが、残業はほとんど発生しないはずとのこと。年収は額面で今のほぼ二倍になる。消費税あがったのに時給が1円もあがらないから、やめてやろうと思って派遣の求人を(会社で)チェックしてたところだったから、ラッキーだぜ。これもアベノミクスのおかげなのか?謎すぎる。

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07月12日

起床時刻:08時00分

やれやれ。夫はいびきをかいて寝ている。

『医学探偵の歴史事件簿』(岩波新書/小長谷正明)を読んでいたら、ソルボンヌ大学(パリ大学)のことを「ヨーロッパ最古の大学で」と書いてあった。ん?ヨーロッパ最古の大学はイタリアのボローニャ大学だと世界史で習ったぞ?だから正確には「ヨーロッパ最古の大学のひとつで」と書くべきだろう。一応調べたら(ネットって便利)、ボローニャ大学が1088年創立で、パリ(ソルボンヌ)大が1150年創立。やっぱボローニャのほうが古い。

それにしても、こんなどーでもいいことを学ぶ学校の勉強って何の意味があるんだろう?私もゴミみたいな知識がいまだに多少は残っているが、勉強なんか、ほんと無意味で無駄だったとしか思えない。勉強なんてしたって頭はよくならんしね。

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07月11日(金)

起床時刻:06時45分

この前、うちの夫が「最近、(私のことを)甘やかしすぎている」というので、「例えば?」と聞いたら「(私が)夕飯の皿だけ並べて、飲み物を出していないのに、俺は文句を言っていない。甘やかしている」だとさ。
自分で冷蔵庫から飲み物を出して注げや(とは旦那には言えないからここで書く。旦那には「ごめんね、気づかなくて」と言うに決まってんだろw)。こっちは夕飯つくって夫に出した後、料理に使ったフライパンやら鍋やらを洗っているからいそがしいんだよ。あんたは家に帰ってスーツをほっぽりなげ(私がスーツをハンガーに毎日かけている)、ソファに寝転がってパズドラをしているだけじゃん。冷蔵庫の水を注ぐ(うちの夫は冬でも絶対に暖かいお茶は飲まない。暖かいお茶を出すと切れる)くらい何の手間があろうか。私が食べはじめるころには旦那が食べ終わっていることもあるくらいだ。

家事はバカでもできるくだらない仕事だから、誰も感謝しない。料理だけじゃなくて、日々の掃除だってあるし、色々こまごまとしたことがあるが(旦那のシャツにアイロンをかけるとか、旦那の靴を磨くとか、旦那のスニーカーを洗うとか、旦那のスーツをクリーニングに出すとか、旦那の折り畳み傘を干してたたむとか)、「たいした手間じゃないし、なんでもないでしょ」って全員が思っている。だから誰からも感謝されない。ただ問題があったら文句を言われるだけという完全なる減点評価の仕事。

家庭もイヤだし、仕事もイヤ。職場の人はみんないい人だけど。全てにうんざりする。
これからの人生にも何の希望もない。ていうか、むしろこれから今以上にどんどん悪くなるだろう。恐ろしい。ならとっとと死んだほうがいい。でも、今、自殺したら私がメンヘラ扱いになって、「精神的に問題のある奥さんを離婚もせずに面倒をみた模範的夫」ポジに夫が昇進しそうなんで生きてやるけどさ。人になんと思われようがマジどーでもいいわ、一刻もこの世から早くおさらばしたいと思えるようになったら、死ねるんだろう。

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07月05日

起床時刻:09時00分

超旦那に怒られた。
「俺と対等な関係だとか思うなよ、屑!!」とか超言われた。
読書禁止令がまた出た。テレビ見るならいいんだけど。
旦那は私の家事を1分も手伝わず、朝から晩までパズドラしかしていないんだよ。私が炊事洗濯掃除全部やってるんだけど。暇な時間に本を読んでもいいじゃん。といったら「くだらない本ばかり読んで、実利的に何も成長してない屑」、「俺と対等な口を利くなら、ちゃんと家賃を半額払え屑」と怒られた。
悲しいね、無能な人間って。フルタイムで働いても屑みたいな給料なんだぜ?フルタイムで働いて帰ってきてから家事やっても無能を労働で補うのが当然だから感謝もされないんだぜ?それどころか野菜を出すな、あれがまずい、これがまずいと文句しかいわれないんだぜ?
うちの従姉妹は25歳で自殺したが、長生きしてもいいことなんかない。地縛霊になってさまよっていたとしても、私のこの有様をみれば「早く死んでよかった^^」と成仏するであろう。いや、ほんと、私も死んだら、たぶん、感謝されるんだよ、安っぽい感傷でもってね。くっだらねー。すべてが。

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07月04日(金)

起床時刻:07時00分

最近、会社でもやる気がせず、インターネットを見ている。
『どうする?40代からのファッション&生き方』というブログに「「片づけ」は、人生の単調さや孤独に耐性がなければ困難だ」というタイトルの記事があった。ブログ主のカリーナさんは「片づけられない症候群」の友人の話を紹介したあと、このように書いている。

「お腹がすいているときに
好物をつくるエネルギーなら出やすい。
お菓子が食べたくなったときに
コンビニに走るエネルギーも出やすい。

読みたい漫画を探そうと
本棚の本をすべて外に出して見つけだすのは簡単。
一枚の服を探して
クローゼットの中のものを全部引っ張り出して見つけるのも簡単。
欲望が後押ししてくれるから。

でも、「片づけ」はむずかしい。
後押ししてくれる欲望がないもん。
もう、衝動は残っていないし、
あるのはうんざりする残骸と疲労感だけ。

片付けって
大人になることの
終わりのない単調さと
誰も助けてくれない孤独とを
象徴していると思う。」
とあった。

「片付け」という言葉で私が思い出すのは次のヴィスワヴァ・シンボルスカの「終わりと始まり」という詩。前も引用したことあるけど、冒頭はこんな感じ。

「戦争が終わるたびに
誰かが後片付けをしなければならない
何といっても、ひとりでに物事が
それなりに片づいてくれるわけではないのだから」

散らかす行為は価値の創造として、スポットライトがあたる。欲望を充足させる行為だから。けれども、散らかした後の片付ける行為の無視されようはどうだ。散らかす連中は後片付けをしない。自分たちが散らかした後はひとりでに片付くとでも思っているのだろう。

「片付け」というのは「見えない」労働だ。労働とすら思われていない労働。「常態を保つ」という一見簡単そうに見えることにもエネルギーがかかっていることを誰も知らない。片付け担当以外は。
誰からも注目されず、誰からも評価されない仕事。
「後片付け」などというのは、何かを生み出す能力のない無能な人間のやる無能な仕事だと思われている(「ときめき片付け」創始者のコンマリ氏みたいのは違いますよ、ああいうのは「ときめき片付け」のクリエイターですからね)。クリエイターの後ろからついてまわって、彼らの散らかした残骸をゴミにまとめたり、引き出しに戻したり、する仕事。

むなしい。面白くない。つまらない。感謝されない。誰でもできる半端仕事。でも実は結構エネルギー使う。
それが雑事ってやつだ。人生はこんなものに満ちている。大人になることが雑事を引き受けることなら、日常のほとんどの時間はむなしく、面白くなく、つまらない。そりゃ子供からみたら「よくそんなつまんない人生でヘーキでいられるよね?」と思うのも当然だろう。子供が散らかし、大人が片付ける。しかも誰からも評価されないんだよねw。

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07月03日(木)

起床時刻:07時00分

最近の私は早起き(自分比)である。
その理由はひとつには加齢のためである。
年をとると睡眠時間が短くなるようだ。
もうひとつの、より大きな理由は夫の生活リズムが変わったためだ。
以前は昼過ぎに起きて出社していた夫が、今では普通の時間帯の出社となった。それに伴い、毎日ネトゲ(FF11)を3時、4時までやっていた夫が今では早く寝るようになり、日々FF11につきあわされていた私も(私に拒否権などない。うちでは夫が法律)早く寝ることができるようになり、その結果、早起きができるようになったのである。

早起きできるようになったのは「自分の決意が固かったから!自分の意思力が強かったから!」といった主体的理由ではない。ただの自然現象(加齢)とただの周囲の環境(夫)の変化のためである。
自らの置かれた状況なんて、自然(運といってもいい)と周囲の環境(”偉い人の意向”といってもいい)が決定する部分が大きい。自分の意思や主義主張や欲望を貫きとおせるのなんか、わがままな人(性格にはわがままを許されている人)だけだ。私ら底辺層は、親分(私の場合は夫だが)の機嫌を損ねないようにリソースの許す範囲内で従いつつ、自らも押しつぶされないように策を練るしかない。

国家だってそうであろう。大国(アメリカ様、中国様、ロシア様など)の意向を無視して、自らの信念だの主義主張だの欲望だのを貫くことなどできない。顔色を読みながら従いつつ、その中で国益を最大化してサバイブしていくしかない。子分っつーのはそういうもんである。
今までは平和憲法という大義名分のおかげで、イラクに自衛隊を派兵しなければならなかったときも、自衛隊の犠牲者を一人も出さずにすんだ。日本はいわば「焼きそばパン買ってこいよ」といわれて焼きそばパンを買ってくるパシリポジ(実際は高級黒毛和牛ステーキとかを買ってきてたんだけどね)ですんでいたのだ。それが何を勘違いしたのか「自分も鉄砲玉できるっす!」と危険なパシリを買ってでたのが安部首相ってわけだ。そう、集団的自衛権の行使容認ね。

そりゃアメリカは歓迎するだろうね。「え?お前、鉄砲玉やんの?いいの?」と。イラクの派兵でも自衛隊員は日本に帰ってからPTSDで30人くらい自殺したとか聞いたことあるけど、これからはそんなもんじゃすまないだろう。せっかく今まで、平和憲法という偽善的砦によって自衛隊の命とクリーンなイメージが守られていたのに、自らうっちゃるなんてよほどの阿呆のすることである。

しかも同じアメリカの子分である韓国は、鉄砲玉を名乗り出た日本を警戒して「あいつマジで狂犬っすから!あいつにハジキ与えちゃまずいっすから!」キャンペーンを、敵対するとされる組長(中国様)とやっているのだ。集団的自衛権の賛成者は「ドイツだってオーストラリアだって集団的自衛権を認めている」とか言っていたが、日本はドイツでもオーストラリアでもないんだってば。

話がずれたけど、大国の意向に沿うようにふるまいながらも、大義名分(偽善といってもいいが)をうまく利用しつつ、国益を最大化しようとするのが、できる弱者である。外交能力といってもいい。ま、漫画的世界に生きている脳内お花畑の安部首相にはわからんだろうが。

もちろん物事にはいい面と悪い面がある。集団的自衛権を認めることにもメリットはあると支持者はいう。それは自衛隊が「血を流す」ことにアメリカ様が感謝して、中国様が東京にミサイルをぶちこんだときにアメリカ様が「てめぇうちの島荒らしてんじゃねぇよ」とでばってきてくれる、というのである。
だけれども、私は中国様が東京の島を荒らす可能性とアメリカ様が「あいつ生意気(あるいは悪の枢軸国)だから、しめようぜ」とおっしゃって、自衛隊が鉄砲玉を勤める可能性とを比べると後者のほうが高いんじゃないかと思うんだよね。少なくとも第二次世界大戦後の歴史ではそうである。
それに偉い人の要求はとどまるところを知らずエスカレートする傾向にあるんだよ。自ら要求のリミッターはずすとか、意味不明すぎるわ。

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07月02日(水)

起床時刻:07時00分

非常にどーでもいい話。
昨日の記事で触れた『皮膚感覚と人間のこころ』の著者、傳田光洋氏は資生堂研究所の研究員である。なのにmake upのことをメイクアップと書く(「メイクアップすることの心理的効果」といった具合に)。それで「おや?」と思った。というのも、資生堂はmakeを「メーク」と表記する。花王は「メイク」な気がする。ぜんぜん皮膚とは関係ないですけどねw サラリーマンてこういうとこ気にすんのよw世の中、地雷がいっぱい落ちてますからねw

資生堂の「メイク落とし」は「メーク落とし」だが、花王は「メイク落とし」。ちなみにNHKの公式でも「メイク」は「メーク」。
外来語の長音の表記方法は国語審議会(平成3年)の外来語の表記(答申)によると、
「3 長音は、原則として長音符号「ー」を用いて書く。
〔例〕 エネルギー オーバーコート グループ ゲーム ショー 
<以下引用者略>
注1 長音符号の代わりに母音字を添えて書く慣用もある。
〔例〕 バレエ(舞踊) ミイラ
注2 「エー」「オー」と書かず、「エイ」「オウ」と書くような慣用のある場合は、それによる」そうな。

したがって「メーク」は「メイク」と書く慣用があると考えるなら、「メイク」でOK、そのような慣用がないと考えるなら、「メーク」がお上の意向に沿っている。「メーク」と「メイク」で検索をかけると、「メーク」のほうが若干多いがほぼ同じか。

私は本来、[ei] と発音しているのだから、「エイ」と表記するのが正しいのかと思っていたが、そうでもないんだね。eメールはメイルとは書かないし。同じdayでも「デー」という場合もあれば(「バレンタイン・デー」)、「デイ」という場合もある。映画の”Independence Day”の邦題は「インディペンデンス・デイ」だ(なぜ「インディペンデンス・デー」にしなかったのか?「インディペンデンス・デー」だと「お客様感謝デー」的な軽い雰囲気が出てしまうからかw)。

ま、そんなこんなで外来語の表記は難しいんだよね。
「エイ」だったり「エー」だったり統一性がない。どうしたらいいのか。
「好きに書けばいいじゃんwだいたい文脈でわかるんだからサw」というのが私の考えである。夏目漱石がスープのことをソップと書いていたけど、スープだとわかったしねw
なんなら日本語表記にアルファベットも加えちゃえば外来語の表記問題も解決するんじゃないかwsoupと書けば、発音がスウプでもスープでもソップでも問題ない。今の日本語は平仮名+カタカナ+漢字で書いているけど、そこにローマ字も入れちゃうwまちがいなく大反対されそうだけどw

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07月01日(火)

起床時刻:07時00分

会社で横の席の新入社員は一日中、スマホをいじっている。10分に1回くらいビーと音がなり、そのたびにスマホをみて何かしている。
自分はスマートフォンユーザーではないからよくわからないけれど、LINEってやつですかね?誰かが発言するとビーとお知らせするんじゃないか?とゲスパーしている。なぜ会話というものは、たいてい内容がくだらないにもかかわらず、多くの人を魅了するのだろう。「仕事がクソつまんないからですねw」というのはさておきw。私の仕事はスマホいじくってる彼女の仕事よりもっとつまんねーぞw

ロンドン大学のダンバー博士によると「霊長類の新皮質の割合と群れの大きさに相関があり、また群れの大きさと毛づくろいに費やす時間との間にも相関があることを指摘し、その点から言えば、人間はチンパンジーの倍以上の毛づくろいを行ってしかるべきであると、結論づけて」いるそうだ。しかし、人間は毛づくろいをする代わりに「おしゃべり、とりわけ人の噂話などを行って社会性を維持している」と言っている。以上は『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮選書/傳田光洋/2013.1)というなかなか面白い本から。

傳田氏曰く「ツイッターやブログは毛づくろいの代償行為なのでしょう」。一生懸命何かを書いても何の反応もない弱小ブログより(一方向の毛づくろいwかなすぃねw)、双方向の毛づくろいになりやすいLINEやSNSのほうが中毒性が高いのは当然ともいえよう。

しかし、人類は100万年の間、毛づくろいもおしゃべりもできなかったんですね。というのも人類が毛を失ったのが120万年前、言語を持ったのが早くても20万年前とされるので、その間の100万年間はどちらもなかったことになるから。著者はさまざまなスキンシップがその間のコミュニケーション手段になった可能性がある、という。著者は本書で皮膚が「ただの角質層乙」ではなく、実は多様な情報を感知し、身体や情動にシグナルを発信する機能があること(光や音にも反応している可能性があるらしいっす)を色々な観点から論じている。

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