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起床時刻推移グラフ

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10月31日(金)

起床時刻:07時00分

誰かのことをずるい、と思うこと。自分は損をしていると思うこと。
この感情は本当に強くて、根深い。
私は思うのだが、人間にとって一番最初の、古い、原初的な感情が「損得」ではないか。善悪より、正邪より、損得がずっと古いんじゃないか。

というのも、『ダーウィンがきた!』などを見ていると、動物には基本的には生存欲求と繁殖欲求しかなく、生存や繁殖の欲求と損得勘定は密接につながっているからだ。
この前びっくりしたのだが、岩魚(イワナ)とサクラマスはまったく同じ種類の魚なんだね。体長も体重も何十倍も違うのだけれど。春に同じ親から孵化し、貪欲な子魚はいい場所にぶんどりエサ(水生昆虫)を独り占めする。そうすると小魚の間でも体格差が出てきて、ますます餌を得られる機会の格差が大きくなるのだ。この格差社会においてエサをめぐる争いに負けた小さい小魚は、より餌の豊富な海に出るしかない。
海は川よりも餌が豊富だけれど、一方で天敵も多く1割くらいしか、生き残れない。だから川に出なくていいなら出たくないらしい。その証拠に水温が高く餌も豊富な九州の川では全部岩魚として川で生きて海に出ない。しかし、水温の冷たい北海道の岩魚はエサが少ないため、その四分の三が海に出てサクラマスとして巨大化する。川に残れる四分の一はオスだとか。生存競争に負けた雌全部(全体の二分の一)と弱い雄(全体の四分の一)が大海へと繰り出す。

何が言いたいのかというと、強い貪欲なオスは「いい餌場を独占したい」という気持ちしかなく、「変わりばんこ」に譲り合うとか、レディーファーストだとかそういう気持ちはゼロなんである。生存競争に勝つには善悪も正邪もない。「この餌場をぶんどったらお得」「他人に譲るのは損」という考えしかないのである。

善悪の考え方はずいぶん新しいもので、往々にして、損得と相反することがある。
共同体で縁もゆかりもない老いた個体の面倒を見る、などというのも損得勘定に抵触する。あるいは税金で競争社会に敗れた弱い個体の面倒を見る、というのも、損得勘定に抵触する。他人の子供の喚き声を我慢する、というのも損得勘定に抵触する。子育てをする人の仕事や育児(お守り)を変わりに分担する、というのも損得勘定に抵触する。他の個体や他の個体の子孫のために自分の時間やお金などのリソースを割くこと、あるいは自分の欲求を抑え我慢することは、損得勘定に抵触するのだ。もっともそういう場合でも「自らの評判」という別の損得勘定で動くことはあるわけだが。

結局、私たちが葛藤するのは善悪ではなく、損得なのだ。総論賛成、各論反対になるのは、善を支持し、悪を排除しても、善行が身銭を切るものである場合、やはり生物としての本能に抵触し、反感が募ることになる。
特にリソースが稀少なときはそうだ。善悪よりも損得が、あるいは善悪の皮をかぶった損得が世を跋扈する。

より動物的な本能の強い人間の個体は、目の前のエサがあれば何も考えずに食らいつくカエルのようなものだ。身銭を切るようなことはしない。他人を助けることも、譲ることもしない。動くものがあれば食らいつくカエルのように、貪欲に餌に食らいつく。雌がいたら交尾をせまる。シンプルに生きているから、悩みもない。

一方、大脳新皮質がより発達した、人間らしい人間は、カエル人間たちよりも生きるのが大変だ。悩みが多い。しかも、だいたいカエル的思考(餌がきたら食らいつくだけ)以上のことを考えるようになるきっかけは、カエル人間たちに餌場を独占されて、ひもじい思いをするようになってからである。
餌場をめぐる争いにまけた人間は、貪欲に餌をぱくつくカエル人間たちがずるい、という思いを持つようになる。
貪欲であること、分配の正義を考慮しないこと、自己本位で視野が狭いこと、カエル人間どもによって豊かな自然や生態系が荒らされていること、こういったことを批判する。しかしその根本にあるのは「あいつらずるい」という思いだ。その「ずるい」という思いが理論武装して「善悪」になるのじゃなかろうか。
カエル人間たちはカエル人間たちで自己中心的な貪欲さやひたすら「得」だけを求めて生きる姿勢を善であるとして、神の見えざる手からトリクルダウン効果に至るまで、これまた理論武装する。しかし、その根本の感情は「なんでお前に餌を分けなきゃいけないの?そんなの損じゃん」というカエル思考である。

つまり、損得勘定はどんな感情よりもずっと古く人間に根源的なものである、善や悪、正や邪はずっと後になって生まれた。だから善悪の感情は損得という動物的本能よりも弱い。

などということを友達にメールしてみた。長すぎるわい。

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10月30日(木)

起床時刻:07時00分

『じゅうぶん豊かで、貧しい社会 理念なき資本主義の末路』(How much is enough?/Robert Skidelsky/Edward Skidelsky)(筑摩書房/2014/村井章子訳)

1928年、ケインズが行った「孫の世代の経済的可能性」というテーマの講演では、経済的論理に基づく予言を試みた
「資本蓄積と技術の進歩に関する過去のデータに注目し、資本財が年2%、「技術的効率」が年1%のペースで増え続ければ「発展中の国ではいまから百年後には生活水準が現在の四~八倍に達する」見積もり、この見通しに基いて「めざましい結論」を導き出した。「大規模な戦争や人口の大幅増がない限り、経済的な問題は今後百年以内に解決されるか、すくなくとも解決が視野に入ってくる」というのである。
「この主張の趣旨は、人類は物質的ニーズを現在の労働の数分の一で満たせるようになる、ということだった。多くても一日三時間働けば、「罪深い人間の欲求は満たせる」と言うのだ。<略>ケインズの小論は、アリストテレスと新約聖書を織り交ぜたような輝かしいレトリックで頂点に達する。
「私たちは、宗教と伝統的な徳という確実でまちがいのない原則のいくつかに立ち帰る自由を手に入れられるだろう。それは貪欲は悪徳であり高利貸しは悪であり、金銭欲は憎むべきだという原則、明日のことをあまり考えない人ほど徳と知恵の道を着実に歩んでいけるという原則である。そして再び手段よりも目的に価値を見出し、効用より善を選ぶようになる。一日を一時間を清くゆたかにすごす方法を教えてくれる人、ものごとをすなおに楽しめる陽気な人、織りもせず紡ぎもしない野の百合に敬意を払うようになる」
ケインズの友人で哲学者のフランク・ラムゼイはこの楽園状態を「至福」と名付けた。
となれば資本主義、より具体的には経済的繁栄と金儲けに明け暮れる生活は過渡的な段階であり、目的のための手段であり、目的はよい暮らしだということになる」

このケインズの予言はどうなったか?一人当たりの所得は1930年から4倍に増え、ケインズの予想の下限に達した(ただまぐれ当たりで、実際には世界大戦がもう一度あったうえに人口はおよそ2.5倍に増えたが、ケインズが低く見積もりすぎていた生産性の伸びがそれらを打ち消しあった)。

一方、労働時間はというと、二割くらいしか減っていていない。1930年に先進国の人間はおよそ週五〇時間働いていたが、現在は四〇時間である。私の勤務先は人にもよるが週50時間以上働いているけどね。。。
そもそもケインズは人々が物質的に必要なものは有限のため、十分豊かになれば限界効用逓減の法則(所得の追加的効用が減少するから)から、人々は所得よりも余暇を求めると考えた。
ケインズが欲望と必要を区別していなかったから起きた致命的な誤りである、と著者は言う。必要には限りがあるが、欲望は純粋に精神的なもので際限がない。
さて所得の伸びに応じて平均労働時間が減らなかった理由は
①働くのが楽しいから(「聖書には、人間が神に逆らった罪滅ぼしとして額に汗して働くことを運命づけれた、とあるが、今や「労働=労苦」という古臭い図式が成り立たないという人たちが表れた。「労働はもはや経済学者の言う苦役ではなく、好きでやるものであり、刺激の源であり、自己を確立し、価値を高め、人間関係を育む場だという」「仕事愛の裏返しは、暇になることへの恐怖である)

②働かざるを得ない(どの先進国でも1980年以降に所得格差が拡大して、底辺層(労働=労苦)層は労働時間を長くしなければ、そもそも必要なものを得られなくなったのである。賃金水準の相対的に低いサービス経済の発展により、所得格差は不可避的に拡大するにもかかわらず、税制を活用してそれを打ち消す対策が不十分であり、「サービス業のうち賃金水準の低い職業、とくに小売業、旅館・旅行・運輸業、介護や家事支援などのパーソナルサービス業に従事する人々の多くが、労働時間を増やさざるを得なくなっている。さもないと貧困に転落してしまうからだ」)

③もっともっと働きたい(ステータスを強化するための消費(バンドワゴン効果、スノッブ効果、ヴェブレン効果を狙った消費)のために金がもっと必要である。したがって労働時間を減らせない)
著者は度を過ぎた貪欲は「よい暮らし」をもたらさないという。これは人間がそもそも貪欲であることに加え、資本主義が貪欲を煽ってきたためでもあり(①コマーシャリズム、②地位競争の範囲の拡大、③「もう十分」という考えに敵対的、④万事をお金に換算することによって貪欲を助長する)、社会も人も堂々と貪欲なのが今なのである。

つまり「ケインズの誤りは、資本主義の下で自由に行われるようになった利益追求はゆたかになれば自ずと終息し、人々は文明的な生活の実りを教授するようになる、と考えたことにある。その考えたのは、自然ンな欲望には決まった量があるとみていたためだ。ケインズは、資本主義が欲望創出の新たな原動力となり、習慣や良識による伝統的な抑制が働かなくなることを予測できなかった」
以上までが第一章。

第二章では
第三章では「富についての東西の思想」。「西洋の伝統的思想では、貪欲は行き過ぎた欲望あるいは方向を誤った欲望だが、バラモンは貪欲を欲望そのものに本来的に伴う症状とみなす。そこでアリストテレスとトマス・アクィナスが欲望を対象物に釣り合う程度に抑えるよう助言するのに対し、ヒンドゥー教の経典は欲望を完全に捨て去れと命じる」
出た、インドの極論www

中国はまたまるきり違っていて「欲望の抑制に無関心な点でも、西洋やインドと異なる。それどころか、禁欲に対して強い不信の念を抱いていた。商売も高利も不名誉とはされていなかったし、富の追求に対して宗教的な戒めも存在しなかった。むしろお金はおおっぴらに、そして(キリスト教から見えれば)恥知らずにも崇拝されていた」
ようやく世界が中国に追いついたかw いわば世界が「中国化」しているのである。金聖嘆の「快哉三十三則(三十三の幸福な瞬間)」が紹介されている。ちょっと橘曙覧の『独楽吟』みたいだけど。
「夏の午後、赤い大きな皿の上で、緑の瑞々しい水瓜(すいか)を鋭い包丁で切る。ああ、これが幸福でなくて何だろうか」というのはよくわかるが、次の「窓を開け、蜂を外に逃がす。ああ、これが幸福でなくて何だろうか」ってのはよくわからんね。刺されなかったからか。そりゃ幸福だな。
著者によると「西洋の人々が自由気ままに精神を遊ばせる楽しみを知るのは、金聖嘆がこれを書いてから二世紀ほどのあとのことである」だって。やっぱり世界が「中国化」してんだねw

「札束(あるいは電子マネー)のために健康や愛や大切な時間を犠牲にすることほど、ばかげたことがあろうか」
チーン。そのばかげたことしかしてない。

よい暮らしという観念の消滅

アリストテレスの使用価値という概念
使用価値と交換価値の区別がなくなった
アリストテレスからケインズにいたるまで、交換価値、あるいはまさにそれを体現する貨幣は、追求の対象としては疑わしいとされてきた
「だがミダス王やシャイロックの金への情熱は、実際は情熱ではなく、単に現在の消費より将来の消費を優先したにすぎない。あるいは、ある種のリスク回避に過ぎない。人によってはこれを知性の進化の証だと言うかもしれないが、私たちは経済思想の退化の証とみる」
そうなんだよなあ。金をため込むことは悪徳ではなく知性の証と考えられるんだよなー。

そして最近はやりの「幸福学」「幸福経済学」をやり玉にあげる。
幸福度調査の問題点
「それは結局のところ、「人々は自分の幸福についてこう答えた」という情報を収集するだけで、幸福そのもを計測するわけではないし、そもそもできないのである」
倫理的な問題点
「快楽エンジニアリング」を導くのでは
幸福というのは快楽の断面の総和ではない
また一次元で表せるものでもない
対象が捨象されている
幸福な人生というのは常識では「何か根本的な善きもの」を意味する
正当化できない幸福、正当化できない不幸
「大事なのはよい暮らし、よき人生であって、幸福のことは幸福にまかせておけばよい、と」

成長の限界
環境保護主義者のロマン主義そのものの精神
自然との調和の難しさ、「生きて繁殖する平等の権利」?種差別主義?
「人間中心主義」
「自然の価値が人間の尺度によると同時に本質的でもある」
人間の尺度に従うと同時に本質的な価値を持つもの、芸術と同じ
自然との調和はよい暮らしの一要素である
自然との調和の一つが園芸や造園

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10月29日(水)

起床時刻:07時30分

録画しておいた刑事ドラマを見てたんだけど「こんな動機で人を殺すやつなんか、いるわけないじゃん」とイライラしてきたため、読みかけの本を開いたら「ピタゴラスは無理数を憎むあまり、その不運な発見者を殺してしまったと言われる」(『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』)とあり、反省した。
無理数が憎くて人を殺すなんてことがあるなら、どんな動機でも人を殺すことはあるわな。。。ミステリにおいて、動機を云々してはならない。

ピタゴラスの殺人動機は私らには意味不明すぎるが、「無限というものに対する不信は、天文学や数学も含めて古代ギリシャ思想全般に共通する特徴である」そうな。

「スミスは商業を美化しようと努力はしたけれども、やはりそれが労働者の生活や人格におよぼす悪影響を無視することはできなかった。分業に伴う歪みを論じた箇所は、マルクスを思わせる」
「ごく少数の単純作業だけで一生をすごし、その作業の結果がおそらくいつも同じかほとんど同じであるような場合、そうした労働者はむずかしい問題に直面することはなく、したがって問題の解決策を見つけるために知恵を働かせたり、工夫を凝らしたりする機会もない。その結果、頭を使う習慣をいつの間にか失い、およそ人間がなりうる限りで最低の無知と愚鈍に陥る。頭が鈍っているため理性的な会話を楽しむことができず、会話に加わることさえできない。そればかりか、寛大さ、気高さ、やさしさといった感情も抱けなくなり、私生活上のごくふつうの義務の多くについてもまともな判断を下せなくなる」
(Adam Smith, The Wealth of Nation, P461)

カール・マルクスの外れた黙示録
「だが資本主義は、たとえ不正だとしても、人類を貧困から解放してくれる手段でもあった。言ってみれば資本主義はもう一つの「幸福な罪」であり、神の摂理の一部だとみなすことができる。<略>
一方からみれば資本主義は打倒すべき悪だが、他方からみれば進歩に不可欠の手段だった。」
いやー、これマルクスとは関係なく、私も日々、素朴にそんな風に考えるわ。資本主義、というか、お金についてね。
いわば私たちは誰もがマモンに使えているが、彼は捧げもの(自分の時間、健康、精神的な気高さを犠牲にすること)をを要求する。しかしその見返りに快適な生活と、場合によっちゃ健康を返してくれるのだ。
こういうこと、お金を得るために炭鉱で働き肺を悪く健康を失った人はお金を払って病院で治療してもらい健康を再び得るーこれなら最初から何もしなければよかったじゃん、だが、結局のところ、マモンの神殿にとどまり「ホコリくさいパンを食べる」ほうが、荒野をさすらい行き倒れるよりまし、ということなのだ。
マルクスの場合はヘーゲルの弁証法で矛盾というか悩みというかを解消したが、マルクスは弁証法的唯物論の一局面、すなわち封建主義から資本主義の以降は説明したものの、「資本主義が必ず滅亡する」理由は説明しきれていない。マルクスの聖書的な正義感覚が根拠なくらいである。

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10月28日(火)

起床時刻:06時00分

アラン・ド・ボトンの『プルーストによる人生改善法』(How Proust can change your life(Alan de Botton)は、ユーモアがあり、読み物としてはまぁ楽しめるものの、何にイライラさせられるかっていうと、せっかくプルーストが不均衡な精神の持ち主に特有の極論によって導き出した、残酷かもしれないが一面の真実を、ド・ボトンの均衡のとれた良識的な精神によって、真実の牙を抜き取って、まっとうな結論にもっていこうとすることである。またプルースト自身に対しても、同じことがいえる。プルースト自身を道徳の教科書に合致するように好意的解釈をする必要などない。

プルーストは恋愛なんていうのは不幸の始まりだと考えていた。プルーストに言わせると、男というのは手に入らない女だけが魅力的なのである。二人の間がマンネリになったら嫉妬心をあおって新鮮味を出せばいいそうな(これだけ聞くと、実に陳腐である。でも陳腐ではない恋愛なんてあるのだろうか)。

男性は女性と両想いにならないうちは彼女に夢中だが、両想いになったとたん飽きてしまうので、女性側にとって恋愛とは「さあこれからご飯を食べよう」と思ったところで、閉店してしまうレストランのようなもんなのである。ここから導き出される、『プルーストによる人生改善法』は昔流行った『ルールズ―理想の男性と結婚するための35の法則』(男性に結婚を申し込ませるためのハウツー本。最初のデートでOKしないとか、自分を高く見せるとかそういう類の)になるだろうよw。

なのに『ルールズ』以上の深遠さが恋愛にあると思っているであろう著者は(まぁそれが良識的な人であろう)、ルールズ的提案には絶対に至らない。ていうかさ、プルーストは恋愛すると不幸になると思っていたわけだから、不幸になりたくなければ(人生改善とは幸福になることであろう)、恋愛なんか、しなければいいんだよ。シンプルな話。

友情についてもプルーストは辛辣で、「友情とは浅薄な努力で」「その目的は、私たちのなかにある、唯一リアルな(芸術という方法を除いては)到達できない部分を、表面的な自己の犠牲にするような強いることだ」とか「友情の表現様式であるおしゃべりは、表層的脱線であり、得る価値のあるものは何も与えてくれない。たとえ一生話しつづけても我々にできるのはせいぜい一分間の虚無を繰り返すだけである」などと書いているのである。

友情は時間の無駄、おしゃべりは無益、恋愛は不幸の始まりという「プルーストの人生観」から導きだされるのは「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの教えじゃんw
ブッダもプルーストと同じく(?)恋愛は不幸の始まり論者で、友情は自分にとって損だと思っていた、いみじくも「交わりをした者には愛恋が生ずる。愛恋にしたがってこの苦しみが起る。愛恋から患(うれ)いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」
といっているのだ。引きこもり大勝利じゃないかw

しかしまぁ、ブッダは結構な極論を言ってるよなw
プルーストはどうだったかしらないが、ブッダは家族もいらない、子供もほしがるなという徹底ぶり。
「妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて拾てて、犀の角のようにただ独り歩め。」
―こんな「人生改善法」売れないだろうなw無理ゲーすぎるw

だからインドより東の国々のアラン・ド・ボトンたちはブッダの教え(極論)を在家の人の価値観に合致するように、よりマイルドに常識的に変更したり、あるいは難解な(アクロバティック)解釈によって、常識に合致するように「解釈」したり、してきたんだろうな、と想像する。

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10月27日(月)

起床時刻:07時30分

「楽しみも目標もなく、活動も野心もなく、この先の人生はすでに終わったも同然で、自分が両親に味わわせている悲しみに気付いている僕には、わずかな幸福しかない」と思っているのは私ではなく、三十歳のマルセル・プルーストだ。

「プルーストの肉体的苦痛のリスト」によると、ひどい喘息、ひどい消化不良(次第に一日一食になったようだが、その一食のメニューがひどい。クリームソースのかかった卵ニコ、ローストチキン、クロワッサン、フレンチフライ、ぶどう、コーヒー、ビール1本。ビタミン、カロテン、食物繊維が全然足りていない!!深刻な野菜不足である。また脂肪の多すぎる食事は胃弱の人には向かない。ひどい便秘にもなっているが、無理もない。プルーストは慢性的な便秘は二週間ごとの強力な下剤によって和らげていたそうだ)、敏感肌(石鹸もコロンもクリームも刺激が強くて使えなく、体を拭くときは清潔なリネンで軽くたたきながら乾かさなければならないため、一回の入浴で二十枚のタオルが必要というレベル)、寒がり(真夏でも外出時には外套とジャンパーを四枚身にまとった)、高度に敏感(パリよりも高度が83メートル高いヴェルサイユに行って具合が悪くなる)、咳、その他一般的病気(熱、風邪、視力低下、歯痛、肘の痛み、めまいなど)。
でも全体的に正岡子規の脊椎カリエスのような強烈で悲劇的な病気ではなく(もちろん本人にとってはとてもつらいのだが)重度の便秘、重度の胃弱、重度の敏感肌、重度の虚弱体質、重度の冷え症っていうだけなんだよなぁ。
七転八倒して苦しむ正岡子規に「大げさ」という人はいないと思うが、プルーストは「大げさ」ってたぶん言われてそうだwそれでまた、本人がふてくされるというわけだ。

以上の話はアラン・ド・ボトンの『プルーストによる人生改善法』からの引用。How Proust can change your life(Alan de Botton)が原題であるからして、別にプルーストに関する雑学を並べただけではなく、なんか「いかしてやろう」「有効活用してやろう」という精神に基づいて書かれている。まったくプルースト的ではないが、このプルーストが病気のデパートであったことからも役立つ教訓を導きだすのである。

すなわち、「上手な苦しみ方」である。
「私たちに物事を気づかせ、学ばせるのは病気だけだ。ほかの方法ではまったく知りようのない過程を、病気は私たちに分析させてくれる。」
とプルーストは書いているそうな。
続けて、著者は言う。
「プルーストの提案は、私たちがきちんと知りたいと思うのは、悩んでいるときにかぎるということだ。我苦しむ、ゆえに我思う。」
「ならば、痛みなくして生まれたアイディアは重要な動機づけを欠いていることになる」
「人は二つの方法で、知恵を習得する、と彼は述べている。教師を介して、痛みを少しも覚えずに学ぶ方法と、人生で痛みを感じながら学ぶ方法である。痛むタイプの方がずっと優れているのではないかと彼は考え、その論旨を架空の画家のエルスチールに述べさせる。エルスチールは語り手に、数回は誤ることへの賛成論を聞かせてくれる」

「幸福は体にいい」とプルーストは言う。「だが、精神をたくましくするのは哀しみである」

まぁプルーストの精神がたくましくなったとは思えないがな。偏執狂的(物事を成し遂げる人はそうなんだが)ではあるだろうが、それは元からの性格っぽいし。

「私たちを苦しめる人々を役立てることこそ、生きる技法のすべてだ」(プルースト)著者はもっともらしい立派なことを解説しているけれど、要はネタ化するってことだ。

「悲惨はアイディアへ変わる瞬間、私たちの心を傷つける力を少し失う」(プルースト)
アイディアに変わる瞬間、つまりネタ化したときだ。

読書について
「読書をひとつの規律にしてしまうことは、単なる刺激物に大きすぎる役割を与えることだ。読書は、精神生活への敷居の上に載っている。読書は私たちを精神生活に導くことはできる。だが、精神生活の構成要素ではない。」
ほんとそう。

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10月26日

起床時刻:不明

暑くもなく寒くもなく、
風も弱く湿度も低い
さわやかな秋の日
理想的な秋の日

山に登るもよし、
カーテンを洗うのもよし、
何をするにも最適な
天高く馬肥ゆる秋

そんな貴重な秋の日を寝て過ごした
起きたのは気の早い夕刊ならもうすぐ着る時間だ
昨日、深夜までゲーム(Dark SoulsⅡ)をしていたせいだ
すでに日は傾き、今から洗濯物を干しても乾きそうにない

今から何ができるだろうか
サルトルが何をするにも早すぎるか遅すぎると言った午後3時
急いでやれば間に合うだろうか
今からだってできるだろうか

しかしもう理想的な秋の一日は去ってしまった
今からは山にも登れないし、洗濯もできない
いつになっても、その気になれば何でもできるというのは幻想だ
今からできることは ゲームを再開することくらいだ

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10月25日

起床時刻:09時00分

ゲーム(Dark Souls2)をやっていた。
プレステ版はクリアしたんだけど、プレステがぶっ壊れてしまい、旦那が今度はパソコン版を買ったため、今はパソコン版をプレイしている。旦那は相変わらずやりこみプレイ中。私はもうプレイする気はなかったんだけど、旦那が「やれ、やれ」とうるさいのだ。はーあ。一人の時間がほしい。っていうのが旦那にもわかるんだろうね、なんか「一緒に楽しみたい」という強制が強い。じゃあ、二人でメイ・サートンの読書会でもやりますか?^^とはならないんだよなぁ。
立場の強いものに立場の弱いものがあわせていく。
これ世の中の掟であって、家庭においても恋人同士でもそうなんですな。

私は相変わらず下手。でも二回目の方が色々と楽だ。
まず強い武器がわかっていること、敵の配置がわかっていること、魔法キャラにしてサクサク進めること、命の加護の指輪が修理できるとわかっているので、常に人間でいられることとソウルをロストしないこと、などなど、一回目とプライスキルは変わらないが、進行速度は10倍くらい早い。

人生においても初見っていうのが間違うんだろうなぁ。だから子育てにおいても初見ではない、次男次女のほうが楽orうまくいきやすいのかもしれんよ。まぁ子育てはゲームと違って、敵の配置が毎回ランダムでプレイヤーのパラメータも不明の上に一定じゃない&勝手モードチェンジする(就職時に大不況でハードモードとか)だったりするから、そう単純じゃないだろうけどね。

ゲームにおいては最初はバカ正直に敵も倒し、探索も十分やり、罠にもひっかかりまくって試行錯誤しながら進むが、二回目はスルーできるものはどんどんスルーするし、必要なものはパパッと回収するようにメリハリがつく。ステ振りもわかってるし。
子育ても、長男長女のときはバカ正直にチュートリアルからきっちりやるけど、次男次女以下は省略。でもボス攻略は次男のほうが早いみたいなの、ありそうじゃん?知らんけどw
「だからこんな失敗作になっちまったんだよ」とすねているダメな長男長女にフォローすると、でも圧倒的に印象に残るのは失敗しまくりの初見だったりはするんだよ、といっておこう。

それにしても、プレイスキルは全然上達しない。おっさんのダクソゲーム実況者がいてヘタクソで上達しなくてコメントでも呆れられているが、私あんなもん。プレイスキルだけではなく、ちょっとリアル頭も悪い感じで、仕事できるのか心配になるが、そこも含めて私とよーく似ている。
違いは彼はゲームが好きなこと。なんであんなにヘタクソなのに好きなのか、謎。実況までしてゲームするんだから。ゲームというより自分が嫌にならないのかなあ。彼を見て確信する、「好きこそものの上手なれ」は嘘です。

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10月24日(金)

起床時刻:07時30分

10月23日(木)

起床時刻:07時15分

『ガンもボケも逃げ出す「人生のテーマ」の見つけ方 おカネをかけずに100歳まで元気な生活術』(白澤卓二/講談社+α文庫)を読んだ。
「元気なお年寄りの皆さんと出会い、その生き方を伺っていくと、どの方もとても個性的で、わが道を行くタイプであることがわかります」
「こういってしまうと身も蓋もありませんが、基本的には組織という枠のなかに収まりきるような方はあまりいないのが現実です」
「これはいいかえると、会社のような組織には、個人の健康をむしばんでしまう要素が少なからずあるということです。組織の一員として頑張れば頑張るほど、その要素が大きくなるといっていいかもしれません」

ここフォントを大きくして太字にして表示したい。
「会社のような組織には、個人の健康をむしばんでしまう要素が少なからずある」!!!

会社勤めは健康に悪い。
ていうか、働くことは健康に悪い。
かつて炭鉱で働いていたら、塵芥で肺を悪くしていた。
最近では印刷業で、使用する化学物質のため胆管癌が頻発した。
まぁそこまで直接的ではなくとも、働くことによる「健康被害」はいろいろある。

シャンプーのしすぎで手がガッサガサに荒れてしまう美容師。
冷房のきいたスーパーで冷え症になってしまうレジ打ち。
腰を痛めてしまう介護職。
長時間のパソコン仕事で視力が悪くなってしまう人。
そして、言うまでもなく、仕事に伴うストレス!!
何の面白味もない仕事(シャンプー、レジ打ち、老人介護、エクセル単純作業)をエンエンと続けなければならないこと、つまり仕事自体がストレスになる。これに職場の人間関係などという余計なものまでくっついてきた日にゃあ、どれほどの健康を損なっているのであろう。

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10月22日(水)

起床時刻:07時10分

毎日、毎日、エクセルでコピペをしている。
まぁ、工場での魚の骨抜きみたいな単純作業である。でも、私の抜かなきゃいけない骨は鮭の骨ではなく、鰯の骨である。つまりものすごく、めんどくさい。やっている仕事は単純そのものだけれども、ペーストの参照元ファイルが多いので、複雑なのだ。もちろん仕事は、ものすごくつまらない。こんな仕事は一時間だってやりたくないのに、残業してまでやってるのである。
聞いてください、コピペラップ。

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右から左へcopy and paste (hey!)
一行ずれてるやりなおし!(yeah!)

copy and paste (hey!)
copy and paste (hey!)
朝から晩までcopy and paste (hey!)
数字の差し替えやりなおし!(yeah!)

vlookup vlookup (hey!)
vlookup vlookup (hey!)
数式コピペでvlookup (hey!)
絶対参照忘れてた!(yeah!)

vlookup vlookup (hey!)
vlookup vlookup (hey!)
手作業省略vlookup (hey!)
N/Aなんでだ?スペースだ!(yeah!)

(セリフ)
くだらない労働
ストレスは倍増
先行き暗いdead-end job!

給与はあがらず
未来も描けず
どこまでいってもno future!

copy and paste (hey!)
copy and paste (hey!)
ひたすら無心にcopy and paste (hey!)
クリックしすぎで腱鞘炎!(yeah!)

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10月21日(火)

起床時刻:07時00分

キャロリン・G・ハイルブラン教授の解説
「この小説は、探りながら進む対話を通して、最後には、「完全」になりたいと思うジェニ―のような女たちの考え方の誤りを明らかにする。結婚して、子供を生み、何もかも入った鞄をもちたくて、ジェニーは「わたしは、女性作家は完全な女性でなければならないと思いたいんです」と言う。
しかし、女たちは何もかも入った鞄を持つことはできない。『ミセス・スティーブンズ』は、この問題に注意を集中した数少ない小説の一つである。主題はけっしてあきらかにはされないし、サートンも、マリヤの仕事のほうがマルタの仕事より聖なるものだ、とほのめかしてはいない。しかし、台所仕事や育児からかすめとってきた時間で芸術家になろうとする女に、そのような心を欺く白昼夢を禁じている。<略>
しかし、奇妙なことだが、サートンはマルタが対話に加わるのを許している。イエスは、マリヤの役割のほうがいいと言ったが、世間はほとんど異口同音にマルタのほうを誉めたたたえた。サートンだけが、二人をおたがいに話しあわせている」

この世渡り上手の妹めが!!(byマルタ)という心の叫びが聞こえるようである。まあそれはともかく、姉と妹ではなく、兄と妹だったらどうなったのだろうか?マリアはやはり家事はせずにイエスの話を座って聞いているのだろうか?それで家の中にホコリが積もっていても、ふるまうべき食べ物やお茶などが何もなくても、片付けるべき食器がいつまでも散らかっていても、イエスはマリア(女のくせに座って話聞いているだけ)の行為を誉めるだろうか?腰の重いマリアが動かないので、しぶしぶ男が家事をやったとしても?

問題は誰かが、家事(つまらぬ雑事)をしなければならないということなのだ。二人そろって話を聞ければそれが一番いいのだろうが、誰かが裏方仕事をいつかはしなければならない。
昔はそれが女だった。聖書の話は女同士であるから、マルタがマリアに「あんただけずるい」と文句を言ったのだ。もしマリアが男だったらマルタも文句を言わなかったであろうし、もし言ったとしたら、世間からの支持も得られなかったであろう。
メリトクラシーの今日では、能力によって決められる。性別という属性ではなく、イエスの話し相手にふさわしい能力を持っているほうが聞き手、そうでない人は裏方仕事、ということになる。
しかしここにも問題はある。もしマルタも話を聞きたがっていたら?マルタだって話を聞きたいのに、教養だかテストの成績だかコミュニケーション能力の不足のために「裏方」担当に割り振られたが、本当は話に加わりたいのだとしたら?

解説のハイルブラン教授は「無理」ということになる。もしマリヤの仕事をしたいのなら、マルタの仕事はやるべきではないというのだ。教授は「マリヤの仕事のほうがマルタの仕事より聖なるもの」であり、「マリヤの仕事はマルタの仕事をやりながら、台所仕事や育児からかすめとってきた時間」ではできない、と釘をさしている。

しかし、マルタもマリヤも二人して話を聞くだけの生活―あるいは観想的生活にいそしもうとしたら、生活は成り立たない。誰かが活動的生活によって、観想的生活という「上位生活」を行っている者を支えなければならないのだ。しかも観想的生活のつまみ食いはできないという。分業しなければ成果は出ないらしい。

ここがいつも私のひっかかるところだ。仏教でもそうで、出家者は一切働いてはいけないというが、全員が働かなかったら、だれが食わせていくのだろうか?「女に決まってんじゃん」と言われそうだが、女だってマルタのように観想的生活にも加わりたいのである。床掃除だの洗濯だのだけではなく、知的活動にも加わりたいのである。
今日ではウーマンリブ運動によって、女も「能力がある」と認められたものは男のサークルに入れてもらえるが、そうではない無能な女たち、マルタのような家事労働担当者はいつまでたっても床掃除をしているのである。

私自身はマルタの仕事もマリヤの仕事も両方担当するべきという考え方である。ハイルブラン教授に言わせれば、マリヤの仕事はそんな甘っちょろい考えでできるものではないらしいから、私のようなマルタとマリヤの仕事を半分半分担当するという考えでは、おそらくマルタの仕事もマリヤの仕事も虻蜂取らずで中途半端に終わり、どちらも二流になってしまう可能性も高いだろう。せっかくの分業の利益を損なってしまい、得られるものの総量や質は低下するかもしれない。効率の観点からすれば比較優位のある分野に専念するべきなのかもしれない。
まぁ私は効率を重視しないので、というか、効率よりも個人の幸福を重視するので、「それでいいじゃないか」と思う。個人の幸福にとっては牛馬のように働くだけでも、逆に椅子に座って一日中考え事をしているだけでも、足りない気がする。私は基本的に芸術は個人の幸福への手段でしかないと思っている。そして芸術というか、素人の手慰みは個人の生活や活力にとって、いい刺激剤になる。まぁ素人の二流芸を鑑賞させられるほうはたまったもんじゃないが、人間が生まれながらにして持つ創造欲を満足させることができるからいいじゃないか。

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10月20日(月)

起床時刻:07時15分

エイドリアン(若死にした夫)の母親との会話
(ヒラリー)「まったく変だけど、言葉で言い表すまでは、何一つ編実とは思えないんです。たとえば、けさ、こうして歩いているあいだ、わたしはずっと、あのブナの葉の緑を表す言葉を見つけようとしてたの。どうして、ただ見るだけじゃ足りないのかしら。ばかげてるわ!」
「女は男よりずっと感受性が鋭いのよ…作家でなくたってそうよ」
「そう思う?本当に?」
「感受性が鋭いのか、自意識過剰か、どちらかよ」彼女はふたたび笑った。あたかも女らしさにかくれて、明敏さを和らげようとするかのように。それは女たちの慣習的な態度で、ヒラリーはどうしてもそれを見習う気にはなれなかった」

「あれほど高尚だったのに、どうしていわく言いがたい価値が欠けていたのだろう……これは謎だった。重大なことを軽く扱い、軽いことを重大に扱う貴族的な徳が欠けていただめだろうか」

「子供たちはどうしても親を傷つけることになる。さもなければ、自分がだめになる。たとえ傷はけっして癒えなくとも、どんなに犠牲が大きくても、親から離れていかなければならない」

(男性インタビュアーに)
「あなたは、感受性が鋭いわけじゃないんでしょ?男の人たちは、感受性が鋭くなくてもいいんだから」
「女性は、鋭くなくちゃいけないんですか」とジェニーが訊いた。
「もちろん、当然よ。女は、男たちが天才を発揮してめちゃくちゃに発明したいろんなものを処理しなければならないんだから」

「女たちは自分のデーモンを恐れ、それを制御して、自分と同じくらい分別のあるものにしたがるから」

「それが要点じゃないかしら?どんなふうに生きたかというのが?いつ現実が意識下のレヴェルを捉えたのか?いつ現実は、移し替えられる必要があるのか?」

「感じることのできない人は、感じる人を罰するのよ。これは、狂犬を射殺するのに似た本能なの」(ウイラ)

「はげしさが形式を決めるのよ」とミセス・スティーブンズは言った。「わたしは、形式を失っていた。ところが、それが戻ってきたの」

「ああ、その点については、わたしたちはみんな怪獣ですよ。ふつうの女以上か以下になろうとした女は、みんなね!」

「「創造性」についてのすべての表面的な称賛の下には、殺したいという欲望がある。それは、神秘主義者と反神秘主義者とのあいだの昔ながらの戦い、死にいたる戦いだ」

「人がおなかのなかに収めておかなければならない失敗はとてもたくさんあるんじゃないかしら?」

「さびしさは自己の貧しさで、孤独は自己のゆたかさよ」

「ミューズはいつだって質問の形で現れるのよ」

「わたしたちは骨の髄まで、恋愛事件よりもはるかにもっと下劣で恐ろしいものに汚されているわ!」

「芸術家を志す女性の創造の源泉は何か?結局、女は、芸術作品ではなく、子供を創造するように生まれてついていることはたしかね。それがいわば生来備わっている女の機能よ。才能のある男性は、期待されていることをやり、道を切り拓き、建設し、技術者になり、作曲家や、橋の建設者になる。彼が自分や家族の外で、いろんなものを作り上げるのは、ものごとの自然な秩序にそっているの。でも、それをやる女は常軌を逸している」

「常軌を逸した女にとっては、芸術が健康に、唯一の健康になるの!」

(ピーター)「女性は、全身全霊で書かねばならないのですね。女性の天才は、自己創造の天才だということになる。外の世界はけっして、内の世界ほどその開花にとって重要ではない」
「そうね、全自己、その創造。親愛なるミス・ヘア、ひどく奇妙なことだけど、それは人が結婚しようとしまいと、そういうこととはほとんど関係がないのよ」

「こんな環境のなかで大人になるのは、つらいわね。ここでは、いちばん粗野で冷たい形のセックスは許されているのに、感情のほうは、どういうわけか猥雑ってことになるんだから」

「あの詩は自己憐憫でいっぱいだった。マー、自己憐憫はだめなの。あまりにも多くのものが賭けられているから。たぶん、あなたの全人生もね。頭を使いなさい。考えるのよ!」

(マー)「あなたは何でも利用するんだ。地獄でさえ役に立つんだから」

「彼女は自分が女であるために大いに救われていること、自然そのものによってある種の堕落や恥辱から免れていること、それからまた、自分がある程度の神秘主義者であるために救われているのがわかった」

1974年の再販によせてより
ルイーズ・ボーガンの「女たち」
「女のなかには荒野がない。
その代わり用心深く、
狭くて暑い心の小部屋で
ほこりくさいパンを食べて満足する」

ウルフは『燈台へ』のなかで、ラムジー夫人はリリー・ブリスコーと同じほど満足のいく芸術家であると、言っていない。ジェイムズの主人公は人生の芸術家であるかもしれないが、赤ん坊を腕に抱き、二十人分の食事の世話をしなければならない女性は、人生の芸術家ではない。ラムジー夫人はまちがって、人生の芸術家として誉めたたえられてきた。召使としてであろうが、地母神としてであろうが、妻であり母である人が、真の芸術家と同じほど重要な役割を果たしているという考えは、男女両方を満足させたからだ。しかし、真の芸術家であるためには、自分自身の運命の支配権を握らなければならず、周囲から押し寄せる家事の網の目をくぐり、苦労して自己の概念をつかもうとしている女性は、芸術家ではなく犠牲者であることを、ウルフは知っていた。
女性は、この事実を認識していない。たぶん、あまりにもやすやすと自分は芸術家だという幻想に入りこんでいるのだろう。

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10月19日

起床時刻:09時30分

『ミセス・スティーブンズは人魚の歌を聞く』(メイ・サートン/みすず書房/1993)"Mrs.Stevens hears the marmaids singing" May Sarton 1965(邦訳はおそらく1974年版からの訳)

最初に書かれたのが1965年!中年の私でもまだ生まれてないし。
なのに全然古びていない!まぁ私が古びているだけなのかもしれないけど。

老齢の女性詩人(ヒラリー・スティーブンズ/70歳)が詩作とミューズの訪れについて、芸術家であることの困難について、更に女性が芸術家であることの困難について、二人のインタビュアーに語るという形式の小説で、時に回想を織り交ぜつつ書かれている。
「芸術は芸術であって、性別とは関係がない、と主張するのは結構だけど、実は、男の日々は女の場合とは違って、果てもなく出てくる小さな仕事で切れ切れにされ、みじんに砕かれてはいない。女の仕事というものがあって、それはおもに、たえず邪魔されてもじっと耐えて、かんしゃくを起こさないことだ、とヒラリーはときどき考える」
いや、ほんとそうなんだけど!
2014年の私でもそうなんだけど!
女性の仕事っていうのはマルチタスクで、赤んぼの面倒を見ながら、鍋の煮え具合をチェックし、その間に洗濯物を干す、みたいな感じ。会社での仕事も私のやっていることは電話をとりながら、メールをチェックし、パワポをつくる、みたいな感じ。

このマルチタスクというのは集中力を妨げるものだ。「つまらない仕事(家事だの子育てだの一般職的雑用仕事など)」をやっている女性は常にアンテナを(主婦なら子供や夫へのアンテナを、会社なら周囲へのアンテナを)張ってなくてならず、「おかあさーん」と呼ばれたときに(ていうか呼ばれる前に)さっと立ち上がって、手助けをしなくてはならない。

つい先日、インターネットのニュースで見たが、「英国サセックス大学の研究によると、マルチタスクは役に立たないどころか、脳に害を与える」そうで、「この研究では、いわゆる「セカンドスクリーン」(テレビを見ながら、ノートPCを使ったり)の習慣をアンケートした後、MRI検査を受けてもらった結果、複数のデバイスを同時に使うのが習慣になっている人は、脳内の前帯状皮質(ACC)と呼ばれる領域の灰白質の密度が低いことがわかった」そうで、「この領域は、感情のコントロールや、意思決定、共感、報酬への反応に関連」するんだとか。
「これまでの研究でも、重度のマルチタスクと、注意力散漫や不安といった感情的問題に関連があることは示されていた」ということだが、一つのことに没頭するためには、やはり一人になるしかないのだ。女性の場合。

しかし、われら女性のマルチタスクっぷりを男や周囲のせいにできない部分もある。自ら好んでマルチタスク状況を作り出していることもあるのだ。
ヒラリーも「居間をもう一度のぞいて花を点検する」ことに一時間くらいかかると書いている。「彼女は鋏をもって庭へ出てゆき、ラッパ水仙を二、三本切った。白が一本と、黄色が一、二本。それから、ポエティカス・ナルシシも数本切り、ヴェネツィアンガラスの花瓶に恰好よく活けて、広い部屋へ運んで行った」。
自分で用事を増やしているんである。さっさと机に向かえばいいものを。男の作家がそんなことするのだろうか。
「ヒラリーはしばしば、どうして花が要ると思うのか、自問したことがある…しかし、こういうわけだった。花がなければ、家がからっぽで、わびしく見える。花は幸せにしてあげなければならないもの言わぬ客であり、あたりに一種精神的な雰囲気を与えてくれるものだ」というのである。
要するに家を飾るのが好きだから、カーテンを縫ったりするのである。そうやって自分で余計な仕事を増やしているから(人によってはジャムを煮たり、鍋を磨いたり、色々だろう)、仕事がはかどらない。そして問題は仕事(「彼ら」が認めるであろう立派な仕事)よりも花を飾ったり、カーテンを付け替えたりのほうが面白く、重要に思えることも確かだ。

サートンは庭仕事やら手仕事やらが大好きみたいだから、ヒラリーに「女は、都市では繁栄しないものよ」と言わせているが、これに本書(1974年のアメリカで出された本)の解説者であるキャロリン・ハイルブラン(元コロンビア大学の教授でフェミニズム批評の重鎮)は苛立って「陳腐」だと言っているが、まぁ、真実は陳腐なときもあるのだ。

私の理解ではこうだ。要するに女性の大好きな手仕事や庭仕事の楽しみといったものが都市にはない。花でもジャムでもカーテンでも「買ってくる」というのが都市の生活様式である。つまり家事のアウトソーシングであり、女性のマルチタスクを減らせる画期的な事なのだ。だから普通に考えれば「女性は都市で繁栄する」のである。なのに、ヒラリーはノーという。というのも、彼女は「男になろうとしてきた女には、いつも何かが欠けてるわ」と言い、もちろん、ハイルブラン教授に男女の性役割を安易に受け入れていることで陳腐の烙印を押されているが、21世紀の今となっては、ヒラリー(サートン)を「陳腐」と切り捨てることもできないのではないか、と思う。
仕事に役立たなそうな日常生活の細々としたこと、そういったものを切り捨てて、「男並み」になろうとしたときに、「何かが欠ける」とは陳腐にしても、「何かを犠牲にしている」ことはあるかもしれない。もちろん、男、女と一括りにしてはいけないが(私の知っている男子は一週間に一度は必ず花屋で花を買い求め、お店の人にゲイだと間違われたそうだが。私に交際を求めてきたのでゲイではないようだが)。

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10月17日(金)

起床時刻:07時20分

人気スタイリスト大草直子さんの大ヒット本『おしゃれの手抜き』(文庫版)を読んだ。()の中は私の心の声。

・1シーズンにグレーのパンツ、2本あればいい
・ジーンズにセンタープレスは絶対にあったほうがいい
・ウエスト丈のカーディガンはNG
・なにはなくともグレーのタートル
・シャツはノーストレッチを選ぶべき
・カラーシャツなら、サックスブルーをまず一枚
・シャツのアンダーに着るのは、パール色のシルク
・シャツの衿は立てない、袖はまくる
・10年愛せるのは、レザーのライダースジャケット
・上質なトレンチコートはきっと財産になる
(そういやティム・ガンもトレンチコートは持っとけみたいなことを書いていたような記憶があるが、華奢な日本人女性でトレンチが似合う人は全体の5%くらいな気がしている。だいたいトレンチっつーのは正統派タイプを持つのがいいのだけれど、正統派のトレンチは重いのだ。一度、かる~~いダウンに慣れてしまうと、トレンチを着る気が完全に失せる。
ただ、私の友人はトレンチをかっこよく着こなしていた。「トレンチコート似合うね!」って思わず言ったよ。私みたいに貧弱なのが着ると、違和感しかないんだけど。彼女は身長は163cmと高くはないのだが、背が高く見える。骨太さんなこと、肩がいかり肩で胴回りがあつく腰もしっかりしていること、それに顔つきが険しいことwが似合うポイントだと思う。ヨーロッパ人女性のような険しい雰囲気があって、癒し系ほんわか日本人女性(わたしのことである)には出せない迫力が、トレンチとぴったりなんだよなぁ。)

・絶対に持つべき靴は、黒ではなく、ヌードベージュ。
(全然はかないサンド・ベージュの靴があって、それを出してはいてみたら、めっさあわせやすいことに気付いた)
・ヒールはフラットか7cmに決まり
・靴を買うなら1万円までか5万円台
・いつでもきれいな人は、辛7:甘3
・高いものとチープなものをミックスする
(このミックスって今やるとダサくなる感じはあるよね。。。バッグはヴィトンで服はユニクロ。「外す」というより、むしろビンボ臭くなる感はある。むしろ全身ユニクロでバッグも靴もまともなノーブランドのほうが今っぽい気はするんだわ。アメリカじゃ究極の普通服、normcoreがきてるんでしょ?「外し」とか一切なさそうなファッションだよねw)
・靴で2万円の靴はしょせん2万円にしか見えず、高くもなく安くもない中途半端なプライス。とりたて印象に残るわけではない。もし15万円もって買い物に行くとしたら、高いものとリーズナブルなものの差をつける。
5万円代のサンダルに、3000円のカットソー、7万円代のテーラードジャケットに5000円のカゴバッグ。靴でリッチさをキープしているので安物を着ても安っぽく見えない。
(これも今だと悩むところだな。今は5千円と7万円をミックスするのではなく、全身2万円がいいという時代なんじゃないかという気がするのだ。つまり、5千円と7万円をミックスして7万円に底上げしようという魂胆が「さもしい」という風になってんじゃないかっていう気がする)

・大人は靴で守って、バッグで攻める
・女のコーディネートは靴できまる
(ていうか、7万円の靴でも痛かったらはけなくて、結局2万のウォーキングシューズばっかり履くことになって、コーディネートもウォーキングシューズやスニーカーにあうスタイルになっちゃうんだよ!つまり、靴が一番大事なわけさ)
・リングは人差し指か小指にする
・ハンキーパンキーの下着おすすめだとか。ぐぐってみよう。

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10月16日(木)

起床時刻:07時00分

『恥ずかしい和製英語』(スティーブン・ジェームズ ウォルシュ/草思社 (2005/10)humourもありつつ、ためになる、と思ったが、日本人の中には著者の小咄風解説にイラッとする人もいるかもしれない。

和製英語を片端から攻撃するのではなくて、たとえばスキンシップやペーパードライバーなどという和製英語はよくできていると褒めているが、まぁ通じないに変わりはない。

私が「普通の」英語であって、和製英語ではないと信じていたのは、native check。翻訳した後に英語が母語の人にチェックしてもらうことだが、普通に使っていた。「標準的な英語ではありません」とある。マジで?!
native checkerは「原住民調査官」であり、日本語の意図するところでいうなら、「proof reader/native speaking proof reader」なんだとか。

それから、サッカー関係の英語。
loss time×
→injury time/stoppage time/time added on
lifting 手でつまみ上げる、万引き
→keepy-uppy
heading shoot
→header、diving header
シュートは動詞なので、名詞として使うときはショットBrilliant shotなどとなる。

「ハイテンション」
high tension (高圧電流の)
→excitable/overexcited/carried away

それからfightはとても攻撃的な言葉だそう。Go for it/Do your bestと言う。
「私たちヨーロッパ人は特に、集中した過度な努力には軽蔑的であり、いつもあちらこちらで聞かれる日本語のファイトやゲットは、不条理で恰好が悪いように感じます。」
あー、映画の『グラン・ブルー』にも潜水の日本人選手集団が輪になって「ガンバレ、ガンバレ」風に言い合っているシーンがあって、明らかに日本人をバカにしてんなw風だった記憶があるのだが、おフランス人も「不条理で恰好が悪いように感じます」だろう。

またgetがachieveと同義に使われるのは耳障りなんだとか。

それからreform。家や洋服のリフォームなんていうが、本来は国家や政治の改造を意味する。
仕立て直しはalteration alteration/refurbish/renovate

「Hello Work」も俎上にあがる。
「外国人の耳いは、ばかげて子供っぽく、そして人を見下しているように響きます。雇用期間のように重要な機関には、10歳の女の子のノートの表紙にピンクのリボンのうさちゃんと並んで書かれているような名前をつけるべきではないと思います。
政府がこの名づけ政策をほかの公共機関に拡張する予定でないことを願うだけです。さもないと建設期間はYo!Concrete(よっ!コンクリート)、司法機関はBye-Bye Bad Guys(バイバイ・悪者たち)、それから税未帰還はSo long, Yukichi-san(サラバ・諭吉さん)という名称になってしまうかもしれませんよ。」
ないない、と言い切れないところがこわいw
何しろ「トマト銀行」なんてものが存在した国だぜw
大手都銀でも「さくら銀行」というのがあった。

super supermarket。
「趣味のひとつはショッピングだと言う日本人の若者の多さに驚かされます。女性だけでなく、男性もそう言うのです。はじめのうちは、きっと皮肉った冗談なのだろうと思いましたが、ちがいました。彼らはショッピングで楽しく充実した時間がすごせると、心から思っているのです。
ショッピングは楽しいか、とイギリス人男性に聞いたら、デイヴィッド。ベッカムの意見はさておき、ほかの人はみんな、ショッピングとは刑罰だ、拷問だ、大切なサッカーとビールの時間を無駄にする、残酷で非人道的な過ごし方だ、と答えるでしょう。」
ははは。

halfという言葉は無礼なだけではなく、無意味である。

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10月15日(水)

起床時刻:07時15分

『タカラヅカ100年100問100答』(中本千晶/2014.4)
ありがちな質問をだいたい「ベルばら」以降に絞って「定量的」に回答しているところがなかなか面白い。
・トップまでの年数
「ベルばら」以降54人のトップスターでは、一番多いのは13年で12人
最長18年が二人、大空祐飛と壮一帆、
蘭とむが16年

・音楽学校を受験した人の中でトップスターになれるのは300人に一人

・ベルばら以降トップスターをもっとも多く出している都道府県
1位東京都12人、
2位兵庫県9人、
3位大阪府8人、
4位神奈川県6人
5位宮城県3人
(宮城は涼風真世、杜けあき、朝海ひかるの3名)
宮城は対人口比からしてもトップスターの出現率が高い。
しかも三人とも素敵なトップさん(というのは私の意見。あれ、剣幸さんも宮城じゃなかったっけ?と思ってぐぐったら、富山だったわw)
福岡はダメだね、黒木瞳はトップ娘役だけど(しかも私は結構なアンチw)、トップスターはいない(トップスターという言葉は男役にだけ使う)。宮城といえば、フィギュアスケートで日本人初の金メダルをとった二人、荒川静香さんと羽生結弦くんも宮城(仙台)じゃなかった?なんかフィギュアとタカラヅカって親和的なところあるんだよね。ヅカのトップもアスリートであり、美を追求している。

・「ベルばら」以降で最も長くトップスターを務めたのは汀奈津子さん(ダブルトップ時代を入れて10年、それを除いた単独トップでも8年)

・トップ在籍期間が短くなっていることについて
昔はトップ就任が早かった。だから体力が持た。今は就任も遅いし、「現在は昔に比べて、トップスターに求められる仕事がはるかに多い。第一、公演数が増えているし、<略>メディアの取材等、舞台以外の仕事も昔に比べて増えている。だから体力的に考えても長く続けるのは難しいのではないかと思う」

・トップ娘役だと別格の長期トップがいる。もちろん花總まりさんの驚異の12年。
12年の次に長いのは7年なのだ。花ちゃんまじすげーっす。

・フィナーレで背負って降りる羽は、オーストリッチ、キンケイ、ギンケイ。
「トップスターが最後に背負う羽は高級外車くらいのお金がかかっているそうだ。」まじか

・タカラジェンヌの身長、10年ごとの推移
1983年は最高身長170
1993 173
2003 175
2013 178
歴代トップの身長をみると宙組がやはり一番高く、次いでやはり星。

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10月14日(火)

起床時刻:07時00分

昨夜の「キング・オブ・コント2014」、絶対、優勝はラバーガールだよね、頭二つ分くらい図抜けて面白いもん、って思っていたら、シソンヌだった。。。
私がラバーガールが好きだってことを抜きにしても、圧倒的に笑ったけどなあ。

とことで、チョコレートプラネットがネタで「嬲」を「ピエロピエロピエロンリー」と読ませていたが、この字は見たことあるが何と読むのか忘れていたので(もちろん「ピエロピエロピエロンリー」ではないことだけは確かであるw)、漢字字典をひいたら、「嬲る」で「なぶる」だった。部首の女ヘンから探したんだけど、男ヘンというくくりはない。ニンベン=男だから、か。英語でmanが人も男もさすように。

女がつく漢字にロクなものがないのは周知のとおりだ。女が三人集まれば姦しい(かしましい)、とかね。訓読みでみだら、ともある。強姦の姦でもあり、意味は「①みだら。女性を犯す。②わるがしこい。よこしま。③かしましい」である。本来、「みだら」で「女性を犯す」のは男なんだから、女が三つの漢字ではなく、男三つの漢字にしたらいいやん?男三つで「殺し合い」とでも読ませたら、いかが。意味は「①みだら。女性を犯す。②わるがしこい。よこしま。③殺し合い」でスッキリする(ま、「かしましい」のは女であると認めざるを得ないがw)。
この調子で男のつく漢字を創造してみよう。例えば、峠(国字だそうだが)の山部分を男にして「hierarchy」と読ませるとか、ゴンベン(言)に男で「自慢話」と読ませるとか、病ダレに男で「ミソジニー(misogyny)」とか、ねw

とか書くと、まるで私が男嫌いのように見えるだろうが(病ダレに女でミサンドリーってか?いやいや、病ダレに女は「男好き」だよw)、違います。単に漢字の中の女性差別のバランスをとろうとしているだけですってw。

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10月13日(月)

起床時刻:08時30分

旅に出て、人間が一回り大きくなったという人(自称は除く)を見たことがない件。

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10月12日

起床時刻:08時00分

従兄夫婦と伯母の家を訪問してきた。伯母の家の敷地に、完全二世帯で入口も別の家を建て、結婚して家を出ていた息子夫婦と子供(利発な4才男児)が戻ってきたのである。

都内の便利な一等地に、土地代はただとはいえ、目玉のひっくり返るような値段の三階建ての家を建てたのである。九州だったら、土地付きの家が二軒くらいかえるんじゃねーの?つう値段。

その新居に私の両親と妹と一緒に訪ねた。新築祝いに一万円包んだが(伯母へ一万、イトコに一万)、つか、私(しょぼい賃貸住まい)が豪邸を建てた人に新築祝いをあげることの不合理を若干感じたw

それはともかく、従兄の子供はスーパーかわいい男の子(4ちゃい)である。二回目の対面だから、まぁほぼ初対面みたいなものだ。
この日は私の手をひいてなぜか寝室に行き、ベッド(父親のらしいが)に入って「一緒にふとんに入ろう」というのである。ファッ?!
「怒られるからダメ」って言ったら、寝室のドアをそっとしめて、「大丈夫、怒られないよ」というのである。「いや、怒られる」「怒られないからきて」の押し問答を何回か繰り返しているうちに、誰かが呼ぶ声がして、なんとか切り抜けることができた。

そのあと、みんなで食事に行ったのだが、横に座ったこの男の子が「僕のこと、ずーーーっと見てて」って言うんである。承認欲求が芽生えるお年頃なのだろうか。ガキってのはどんだけ自分の欲望に忠実なんだよw

大きくなると「一緒にベッドに入ろう」などと恋人以外の女性に言うのは確実にセクシャルハラスメントだし、「僕のこと、ずーーーっと見てて」なんて言ったら、気持ち悪がられること間違いなし。子供だけが欲望に忠実なことをのたまっても、「かわいいわねぇ」って言われる。おんなじことやっても、オッサンだと、ただただ嫌悪を催させるだけ。子供時代ってやっぱり幸せだったんかねぇ。そんな自覚なかったけど。

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10月11日

起床時刻:06時00分

昨日、宿の風呂へ母、妹、私の3人で行ったら、50代後半とおぼしき女性と一緒になった。お話好きの方で、色々な話をしていると、私のことを「大学生?」と聞くのであった。何かの聞き間違いだろうと、家族全員思って、全員が聞き流して何も答えなかったら、またしばらくして「東京で大学に通ってらっしゃるの?」と聞くのである。今度は聞き間違いではないので、「何をおっしゃいます、40ですよ、私(42才なんだがな、正確には)」と答えておいた(もちろん、40だろうが60だろうが、何歳で大学に通ってもおかしくないのだが、一般通念として中年の大学生はあまりいないはずである)。よほど目が悪いのか、お世辞にしても学生たぁいくらなんでも行き過ぎだ。もっとも中身は大学生並にまったく成熟していない(悪い意味で)けどな。
ま、どっちにしろ若く見られたのであれば嬉しいので、一応書き付けておく(やっぱ、この効果を狙ったお世辞か!)。

朝食には、たっぷりのサラダ(しかも茹でたサツマイモやカボチャが入っていて、お通じが気になる女性にはうれしい)と自家製にんじんドレッシング。フルーツはキウイ、パイン、リンゴ(だったかな)。鮭の西京焼きも卵焼きも、ひじきの煮つけも、青菜と高野豆腐の煮物も、自家製のお豆腐にかかっていたタレも、昨晩とはうって変わって薄味でよかった。やっぱり夜はお酒がすすむように濃い味にしているのだろうか。茄子の南蛮漬けのようなものは大分酸味が効いていて、うちの家はすっぱいものが好きだからいいけど、これ一般受けするのか心配してしまった。小粒の納豆に、漬物は大根とまっとうな梅干。お味噌汁の具は油揚げと青菜っぽいのと、なぜかあられが。リンゴジュースは国産のストレート果汁。

食後はロビーでコーヒー、紅茶、ジュース、牛乳などがセルフサービスでのみ放題(といっても1杯しか飲まないけどさw)。
初秋の朝の明るい光の中、箒川の清流を眺めながらゆっくりいただくコーヒーは至福。今回の旅行で一番いい時間だったかも(チョーあわただしかったけれど。何しろ日光に行かなければいけないので)。お香のいい香りがしていたが、これは有馬で泊まった旅館と同じ、京都の松栄堂のを使っているみたいね。嗅覚で分かったと言いたいところだが、売店で売っていたからそうではないかとw

ここの朝食は今まで宿泊した旅館の中でもかなりいいと思う。卵焼きも西京焼きも手作りで、味付けが薄目で、野菜が多い。

日光は人がびっくりするほど多く、行ったからにはで、奥の院まで階段をえっちらおっちら登って疲労困憊、しかも、暑さと人ごみですっかり疲れてしまった。「日光はもう結構」だよ、、、。むしろ宿の近くの箒川沿いの遊歩道を散歩してたらよかったw

昼はSAで佐野ラーメンを軽く食べ、夜は阿佐ヶ谷のスペインバル風のところで軽く飲んで食べた。
夜は家で爆睡。。。

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10月10日(金)

起床時刻:06時50分

今日は休みをとって、九州から出てきた両親と妹と小旅行。
塩原温泉郷の湯の花荘に行ってきた。一泊二日の強行軍。
空港でレンタカー借りて、結局全道程、父親が運転した。
72才じゃ疲れたろう。。。

私が運転できたらいいんだけどね。ていうか10年ちょい前は車持っていてちょこっと運転もしたりしてたんだけどね。もう今は怖くてできない。
別に事故ったとかではないが、自分の注意力散漫ぶりを運転以外でも、仕事でも、日常生活でも、しみじみ理解しているので運転しないのだ。
だから車必須の田舎では生きていけない。
運転のごとき、誰でもできることができないのが私。「人並み」が難しいのが私。「普通に生きる」「平凡に生きる」ってことが難しいんだなぁ。世の中の人は「普通」や「平凡」から上を目指すけど、私なんか「普通」や「平凡」を目指すところから始まるんだもん。

あ、鬱っぽくなってしまった。

なんで塩原?なんだけど、東京から車で2~3時間圏内の温泉地(源泉かけ流しで2万くらいの評判のいい宿)を母親が口コミを色々さがして、しかも空室があるところと絞るとここしかなかったんだそうな。

宿のたたずまいやハード面では立派とはいいがたいが、その分サービスがものすごく行き届いている。
立地は(川の音が結構するけど)よくて、部屋からの眺め(客室のベランダに壺のごときミニ風呂がついているのだが、そこからの眺め。壺じゃなかった風呂にはつからず)は、本当に素晴らしい。箒川を望む部屋なのだが、川の水は透明で水底の石までくっきり見える。そして川の上にせり出した木々。紅葉や若葉の季節はどれほど素敵か。

肝心のお湯だけれど、気に入った。お湯から上がってもいつまでもポカポカのあったまりの湯。源泉は60℃くらいほどの高温ながら、一切加水せず、熱交換器で適温まで冷ましているらしい。美肌にいいというメタケイ酸も多く含まれている。この前行った島原の東園と似たタイプの湯かな。あちらのほうが温度は低めで好みではあったが。あー、いいな、秋冬はこんな風呂に毎日入りたい。

センスはいいような、イマイチなような。あの掛け軸はないほうがいいんじゃね?あと部屋のお菓子をもう少し甘味を控えた小さ目のものにしたらよかろう、と。おトイレの匂い袋の香りは好きな香りなのだけれど、におい袋の入れ物(袋)がちとダサい。でも宿をよりよくしようと頑張っている感じが随所に伝わってきて、好感は持てる。

夕飯に松茸の土瓶蒸しが出た。今年初の松茸。わーい。夕飯の味付けはやや濃いめながら、目にも鮮やかで自家製のものが多い(栃木の宿でなぜか、イカの塩辛が出たが、これは料理長の自家製。市販の塩辛は甘ったるくて食べられないが、これはゆずの香りが美味な一品。イカの肝は二か月熟成させているそうな。しかも使うイカは日本海側のしか使わない、というこだわりよう。お土産で売っているが、2千円もするので断念w)。
総合評価としては高い口コミも納得、といったところ。

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10月09日(木)

起床時刻:07時00分

昼ごはんは弁当。焼きうどん、サトイモとニンジンと干ししいたけの煮物、デザートは柿(お弁当に入れた残りが朝ごはんw)。外で食べていたら蚊にさされた。

私は森の中の生活とか人里離れた山奥での隠遁生活に憧れているんだけれど、そもそも虫が大嫌いなので、森の中も基本的に嫌い、ということになる。本を読んでいる分には蚊やスズメバチに刺されもしないし、蟻も寄ってこないが、実際の山野には嫌な虫がうじゃうじゃいる。しかも温暖化の影響で、虫は今後増えていく傾向にあるだろう。だって10月になってもまだ蚊がいるんだから。

「10月には、何千という大きなスズメバチが訪れ、私の家をこれはいい冬ごもりの場所、と見たのでしょう、群がり集まって窓の内側や天井近くの 壁に止まり、時に私の訪問者をたじろがせました。彼らが凍てついて動けない朝のうちに、私はいくらか掃き出しもしましたが、危険な目に遭ったからでは ありません。彼らが冬ごもりの場所に私の家を選んでくれたのは、私の誇りでした。彼らは、住居を共にする私に危害を加えようとはしませんでした。彼らも、本格的な冬の恐ろしい寒さを避けてのことでしょう、私にはわからない隙間を探したのか、少しずついなくなり、いつの間にか姿を消しました」(ソロー)なんて、身の毛がよだつ。「彼らは、住居を共にする私に危害を加えようとはしませんでした」っていうけど、私は虫と意思疎通できる気がしないんだが。もしも自分の家の軒先にスズメバチの巣ができたら、私なら速攻で業者に頼んで駆除してもらうわ。

本質的に私はナチュラリストではない。自然っぽいけれども人工的な箱庭、殺菌消毒されたような公園がお似合いなんだと思う。本物の大自然なんて怖気づいてしまう。都会でひっそりと暮らし、ほんものの森には近づかない。でもこのライフスタイルのほうが、森に分け入って暮らすよりも自然破壊は少ないような気がするけどね。

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10月08日(水)

起床時刻:07時00分

夜、プレステ3がお逝きになった。
夫がダクソ2をプレイしている途中に、ぷつっと落ちた。
その後は電源を押しても反応せず。
修理に出すと2万くらいとられるそう。
プレステ4でプレステ3のゲームができればプレステ4を買ってしまえば一番いいのだが、それができない。

旦那はダクソ2は4キャラ分周回プレイしていて、総プレイ時間は千時間を超えているだろう。
修理に出すと何よりハードディスクが消去されて戻ってきてしまうので、このデータが消されるのが一番痛いらしい。

私は、ダウンロードコンテンツの三番目、ふぶきの中のチャレンジルートのボス以外は倒していた。どヘタクソのため、攻略に時間がかかったので200時間くらいはプレイしている。一番時間がかかったのはロイエスのソウル50個集め。めんどくさっ。
まぁでも、データがなくなって悲しいとかはとくにない。
ゲームに対する執着心というものがないからである。

夫は色々な試行錯誤のすえ(ハードディスクを取り出したりなんだり)、結局、PC版のダクソ2を購入していた。
パソコン版だとロードめっちゃ早い!しかもデータの保存が簡単だから、ノーデスも楽ちん!
ゲームのプラットフォームはパソコンで十分、プレステとかwiiとか売れなくなるだろう。こりゃSONY復活なんてない。ソフト産業に活路を見出すしかないが、どうなるんだろう。

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10月07日(火)

起床時刻:07時00分

『うつ病の真実』(2008/4/23/野村総一郎/日本評論社)は今まで読んだうつ病関連の書籍で一番面白い(という表現はナンだが、知的好奇心の満たされる)本だった。

特に「進化生物学からみたうつ病の意味(第2章、第3章)」と「第17章 うつ病の化学」「第18章 細胞ストレス反応とうつ病の正体」が特に面白かった。

「ユウウツという適応戦略は<略>九州大学の神庭重信教授の仮説で述べられているように「自尊心や自己愛の喪失、そしてそれに対する怯えをそれ以上は許容できないというギリギリの状況」でのいわば捨て身の戦略である」
というのは、すごく腑に落ちる。

動物におけるユウウツ行動というのは(元気がない、食欲がない、うずくまる)、サルなど同種間の階級闘争において、他者から攻撃を避ける効果がある。
「ユウウツは無意識の屈辱の信号であり、これにより上位者からの攻撃が避けられるのである」(『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』(2001/4/ランドルフ・M. ネシー, ジョージ・C. ウィリアムズ)。

ユウウツ行動は「ボス争いからおりますよ」という無言の意思表示、体のサインである。ある意味、自らが自分を傷つけることで、他者からの今以上の攻撃を避ける、捨て身戦略なのだ。「捨て身」というところがポイントで、行き過ぎると、自滅してしまう。というか、意識の上では自滅を願っているのだが。

抑うつ的な気分のときは「消えたい」という気持ちが自然と湧き上がる。でもよくよく考えてみたら、「消えたい」のは「この世から」、というより、「他者の視線から」「この競争社会から」「お互いを評価しあうピラミッド型のシステムから」ではなかろうか。人間は、自己破壊の衝動の強さと共に、自己保存の欲求もその奥底に持っている。

したがって、うつ病の人間や抑うつ的な人間にとって、他者・組織・集団との関わりを避けることは重要だ。必要最低限のドライな関わりで済ませること。ボス猿を決める争いから争いから身を引くこと。一人で生きること。
しかし、一方で抑うつ的になるような弱い個体だからこそ、集団に依存しなければ生きていけなかったりする。ヘンリー・ソロー(Henry David Thoreau)のごとき人間ならごちゃごちゃ言わずに、湖の横にさっさと一軒家をたてて、抑うつ者のようにディレンマ(一人になりたいのに一人になれない)に悩んだりしない。

また諦めることも重要だ。ボス猿を目指すこと、ボス猿のとりまきも諦めること、メスとの交流や子孫を残すこと(実際の猿社会においては、かなり下位の雄猿でもコソコソ交尾している、というのを何かの本で読んだが)、他猿からの尊敬などをあきらめること。
本書も前掲書から引用する。
「ネシーとウィリアムズはユウウツが悲しみを呼び、これまでの行動の再チェックを行う原動力になる、という仮説と関連して、「ユウウツが本当に消えるのは、その人が長く追及していた目的を完全にあきらめ、自分のエネルギーを別の方向に向けるようになった時である」

著者も臨床の実感からこの進化生物学の仮説から出たうつ病治療論に同意する。「悲しみはあきらめにつながった時、意義が出る」と。

「諦めること」というのは現代において、とことん評判が悪い。私も他人に諦めるように促したくはないが、行き詰っている人、それも自らを傷つけるレベルにまで追いつめられている場合、はっきりいってそもそも戦闘の適性がないのだ。それに悪戦苦闘の末、つかみとる勝利の果実(地位、賞賛、メス、子孫)もまた空しいものであることを仏教は説く。執着心を捨てることは負け犬根性とも思われそうだが、他人をうらやましがり、自分を傷つけて生きるより、「すっぱいブドウ」戦略で「あんなものはくだらない」と、距離を置いて生きるほうがよほど優雅というものだ。ま、負け犬の遠吠えなのだが、負け犬と思うから負け犬なのだ、でいいじゃないか。

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10月06日(月)

起床時刻:07時15分

台風18号の影響で午前中は大雨。
「台風出勤も格差に、派遣社員や契約社員など非正規雇用で働く労働者が憤慨 「給料の多い正社員は、ほぼ遅刻なのに」」というニュースを見かけた。雨が降ろうが、槍がふろうが派遣社員は時間通りに出社で、正社員は「不要不急の外出は控える」のか、遅刻する。
そもそも派遣社員は時間給なんで時間通りにいかないと賃金ももらえない。
正社員は遅刻しようが早退しようが、給料はそのまま。
「悔しかったら正社員になればァ?(お尻ペンペン」てか。

派遣社員やパート、フリーターといった社会的に低階層の人間が抑うつ的になるのも無理はない。

第一にそもそも給料が少ない。つまりお金という欲望を充足させる手段が少ない。その結果常に我慢を強いられる。
例えば住まいにしても、夏は暑く、冬は寒く、すきま風が入り、防音設備もない木造アパート暮らしと、快適な最新型のマンション暮らしとでは、日々の生活における我慢と疲労の度合が全然違う。

第二にお金がないのは自己責任であるという風潮から怒りを向ける矛先が自分に向かってしまう、ということ。
メリトクラシーの時代においては、生まれがどうであれ、才覚さえあればCEOにでもなれるのに、低賃金の時間給に甘んじているということは、才覚ゼロ、能力ゼロの証明になってしまう。すなわち自分がここまで苦しい思いをしているのはすべて何にもできない自分のせい、ということに他ならない。
女性の平均収入は男性のそれよりも少ないが、それを差別のせいにできたらどれほどいいか。女でも多くの人が正社員として働いて、それなりの収入を得ている。男女雇用機会均等法で性差別はなくなったとされる。つまり、低賃金であるのは女として差別されているのではなく、個人として無能だからである、という結論に至ってしまう。その結果、やはり自分を責めることになるわけだ。

第三に誰にもその苦痛を話すことができないことから、余計につらく感じること。
悩みを人に話せば軽くなる?とんでもない。非難とクゾバイス(クソみたいなアドバイス)を受けて余計に気持ちが重くなるだけだ。共感を得るどころか「言い訳」「責任転嫁」「甘え」「だからいつまでも非正規」といった叱責と嘲笑しか得るものはない。結局、自分ひとりで抱え込んで、他人といるときは、何も心にわだかまりのないような、嘘の笑顔を張り付けているほかはない。
しみじみと孤独を感じるだろうが、孤独は抑うつ者の社交生活でも最上の部分である。最悪なのは、嘘の笑顔を張り付けて嘘の関係を継続させなければいけないことだ。まさに他人との付き合いはMental exhaustingでしかない。

第四に承認欲求が満たされないということ。自分が無価値であるという暗黙のメッセージを繰り返し社会からもらうということ。
重要人物になればなるほど、周囲はその人に注意を払う。その人の気持ちを察し、その人のニーズを先回りして満たそうとする(つまり気をつかう)。しかし、低い階層の人間には誰も注意を払わない。むしろ「こいつにだけは威張っていいんだ」とふんぞりかえられることもしばしばで、ひどい場合は、たとえばコルセンやサポセンに電話してくるモンスター顧客にひたすら謝るような立場になる(電話の応対は時間給の人間がやっているのだ)。
ドアマットみたいに踏みつけられるだけの存在。だれもドアマットに「大変ですね」とはいわない。これは抑うつ的な気持ちにならざるをえないであろう。

第五に「仕事がダメならプライベートで充実させればいいや」とならないこと。多くの場合、プライベートも充実しないこと。
収入が低ければ低いほど、未婚の割合が高まるのは各種調査からも明らかである。仮に暖かい家庭やあるいは子供を望んだとしても、低収入の派遣社員では高収入の正社員よりも実現が難しい。不安定な仕事、低い収入、低いステイタス、こういったことが「愛の巣」をつくることの障害となる。
しかしまぁ、本物の抑うつ者なら「愛の巣」なんぞはこっちから避けるべき代物であり、結婚も子供も同様である。一人であることこそ慰めなのだから。

第六に仕事内容に付随する疲弊感、徒労感。もちろん、どんな仕事にもそれに伴う責任や疲労がある。低賃金の人間は誰にでもできる簡単な仕事をしているわけだが、それ特有の疲弊感もある。機械的な作業が多いが、逆にいうと失敗してはいけないという緊張感がつきまとう。つまり頭は使わないが神経は使うのだ。
機械のような正確な作業が求められるだけで、「考え」などというものは何も求められない(「カイゼン」(作業人数を減らす提案など)は別として)。また「誰でもできる簡単な仕事」という最底辺の仕事(たとえば主婦業など)ができないというのは、人間としてもはや欠陥品であると自分自身思うようになる。

社会の底辺になればなるほど、いわゆるマズローの自己実現理論における大部分の欲求が満たされないのが現実である。生理的欲求を満たすこともあやうく(飢え死しないだけでマシというレベル)、人から承認されることもない。しかもこの欲求未充足状態の原因はすべて己にある!と言われているのである。こりゃ自分を責め苛み、殺したくなっても無理はなかろう。

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10月05日

起床時刻:11時30分

10月04日

起床時刻:07時20分

10月03日(金)

起床時刻:07時00分

10月02日(木)

起床時刻:07時20分

10月01日(水)

起床時刻:07時30分

今日は会社で仕事がほとんどなかった。
一日中インターネットしていたようなもの。

『猫のなるほど不思議学』(岩崎るりは/講談社ブルーバックス)を読んだ。子猫が人との絆を築くためのもっとも大切な感受期(センシティブ・ピリオド)は生後二週目から七週目とされるそうで、そのときに絆をはぐくめなかった猫はそのあとどれほど愛情をかけても人間との距離はほとんど縮まらないそうな。

「感受期に蕃殖者が愛情を注ぐことで、豊かな人格ならぬ「猫格」が形成される。しかし、いかに愛情をかけて育てあげても、どうにもならないこともあります。
生まれつきの性格は変えることができない。著者がそれに気がついたとき、いまさらのように遺伝の凄さを痛感したものでした。」
「生まれ持った性格のおおよそは、元気な赤ん坊であれば産道から出てすぐのとき、つまり臍の緒をつけた状態のときにわかります。」
神経質な子はピーピー鳴いて手足をばたつかせ、臍の緒を切るのにも、体を拭くのにも時間がかかるが、おおらかな気質の猫は手のひらにのせたとたい体をごろごろ転がして喜びを表し、その後の世話も手間がかからないんだそうな。
ちなみに私は確実に前者だったなw 自分は少しでもおしめが濡れるとビィ!と泣き出す子供だったらしい。しかも恐怖心が強く、「あんたは手がかかった」と親によく言われた。妹は後者で天性の「なつこさ」(著者の言葉によれば)があったと思う。

ブリーダーならではの面白い視点もあってなかなか楽しい読み物だった(とはいえ、猫の「性生活」については書き方があまりに赤裸々で品がないので若干辟易したが。ま、これは私が例によって神経質なせいかもしれない)。
猫っていうのは母親の気質をよく引き継ぐらしい。
また猫のコートの色によっても性格が違う(白猫ほど繊細でプライドが高いらしい)。チンチラやアメリカン・ショートヘアでも色素の白い子ほど、繊細で神経質みたい。虎毛のような野生のネコ科動物にいそうなタイプは温厚で快活で陽気なんだとか。黒猫は「自立、頑強、のんき」とある。
そもそも白色は野生の有色に対してメラニン合成されなくなった突然変異なので、野生であれば保護色としては不利なので淘汰された可能性も高い。しかし人間が愛玩したので残ったともいえるわけで、やはり虚弱なのかもしれない。また近親蕃殖すると色素が薄くなる傾向がみられるんだそうな。

狭い空間でも平気なのは、ペルシャ(温厚、安定、無頓着)、チンチラ(繊細、静寂、依存)、ヒマラヤン(温和、やんちゃ、社交的)だとか。
まぁでも雑種が育てやすくてかわいいらしいけどね。特に血統種×血統種の第一世代が。

著者みたいにまともなブリーダーが増えればいいけれどね。劣悪ブリーダーを取り締まるだけではなく、ペット流通の仕組みを変えること、国民の意識を向上させること(「猫ちゃんかわいい~」ってのは動物愛護とは何の関係もないからね)が猫にとっては大事であろう。

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