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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:07:58

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11月30日

起床時刻:10時30分

一心不乱に『ベヨネッタ2』をしていたせいで、目・肩・腰が痛い。
夫がとうとう、ハード(wiiU)も含めてソフトを買ったんですよ。彼は前作の『ベヨネッタ』もトロコンするまでやっていたから、『ベヨネッタ2』がプレステ3で出ていたら予約して買っていただろうけど、そもそもwiiUを持っていないし、wiiUのタイトルでやりたいゲームはないしでずーっと買うか悩んでいたわけよ。ダクソ2もやりこみ終わって、ブラボも来年、というわけでとうとう買ったわけ。
なんでプレステ3で出さなかったんだろうな?『DOD3』みたいなクソゲー出さないで、『ベヨネッタ2』を出せばいいのに。よくできたゲームだと思う。私は『ベヨネッタ』より『ベヨネッタ2』のほうが好きなくらい。普通、続編はつまらなくなっていくものなのに、これはすごい。

無粋なことを書けば、実際の魔女はあんなスーパーモデルみたいではなかったろうけどね。「魔女狩り」という名のもとに狩られたのは子供も産めなくなった年取ったオバハン、オバーサンであったとどこかで読んだことがある。口減らしなのだ。「良心が咎める」せいか、大罪をでっちあげて処刑するという、ね。偽善もここに極まれり。
と思っていたら、山形浩生のエミリー・オスターの邦訳を紹介するブログ記事で、オスターは「中世の魔女狩りというのが実は気候や経済成長と関係していて、不作になるとそれが魔女のせいにされて魔女狩りにつながる、という得体の知れない研究をしたり。でもすべて、統計的な因果関係をきわめて緻密に見直して、めざましい結果を挙げた研究」と書かれていた。やれやれ。事実は小説、じゃなかった、ゲームよりも残酷だわ。

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11月29日

起床時刻:09時30分

「日本のイチョウは百万年ほど前に絶滅している。日本にイチョウが再導入されたのは室町時代とも言われている」(『日本の樹木』ちくま新書/舘野正樹)。へー、そうなんだ。イチョウなんて太古からずーっと日本にあるものだと思っていた。「生きる化石」イチョウはたまたま中国の奥地に取り残されることで生き残った。イチョウの実は銀杏だがwikiによると銀杏は唐音読み(日本漢字音(音読み)において鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音。宋以降の字音である。by wiki)だから、イチョウというか銀杏が日本に来たのも鎌倉以降になるのだろう。

『日本の樹木』を貫くのは「樹木の適応戦略」(寿命の戦略)という視座だ。
①常緑高木は長い寿命(200年以上)が期待される場合の戦略
②落葉高木はもう少し寿命(50年~200年)が短い場合の戦略
③中低木はずっと寿命が短い(50年以下)場合の戦略
常緑低木、つる食物など例外はあるが、類型化することで樹木を理解しやすくなる。その寿命の中で最大数の子孫を残すことが植物においても重要となる。樹木も、太陽光争いの競争の中で棲み分けが出来たり、他のものが進出できないところに適応したり、している。

それはともかく、イチョウは東京都の「木」で、東京都のシンボルマークはイチョウの葉っぱである。面白いことにイチョウがシンボル(都道府県の「木」)の自治体は東京、神奈川、大阪である。都会に多い。中国で生き残った化石のごとき植物が大都市のシンボルになるとはイチョウもびっくりであろう。私はイチョウも銀杏も大好きだ。

県木一覧を見ていると、やはりマツ・杉・楠・ヒノキといった格の高い木が多いようだが、長野の県木は白樺である。木曽五木の木曽って長野だよね。五木の中の一つに絞れなかったのか(五木の中でケンカになるからね)、あえて白樺という「雑木」を選んでいる。まぁ白樺の林はきれいだからね。薄暗いスギの人工林になじんだ九州人の目に、長野の山の美しさは格別であった。

「この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしづかに
鳴りいだすだらう」
(by八木重吉)の美しい詩も私の中では軽井沢か白神山地といったあたりがイメージロケ地だったんだが、東京の町田に詩碑が立っているのだそうな(ネット情報)。町田かいw

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11月28日(金)

起床時刻:07時30分

「鱈とキノコのホイル焼き」を作ったが夫が嫌いかもしれないので、昨日の残り物(チキン南蛮)をスタンバイ(大量に揚げたのだった)。夫が好きなソーセージと(たぶん好きではない)カリフラワーのガーリックソテーマスタード風味も作ってみた(ジャーマンポテトのカリフラワー版みたいな感じ)。私はそれに加えてピーマンの焼きびたし、デザートに柿。柿は種が入っているタイプのもので昨日出したら、「種が入っている!」とふてくされていたので今日は出さない。汁物はつくるのがめんどくさくなったので(というより、後片付けの洗い物が増えるのが嫌で)割愛。
もし全部却下だったら、レトルトのカレーもある。ていうか、最初からレトルトのカレーを出したほうがいいか。バッカみてー。

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11月27日(木)

起床時刻:07時30分

本日の夕飯はチキン南蛮(+キャベツの千切り)、素揚げしたかぼちゃ、玉ねぎとジャガイモの味噌汁、冷奴。デザートは柿。それで力尽きた。
やっぱり揚物は家で揚げると美味。でも私の家の場合狭いせいで、いつまでも油臭いにおいがするので(新聞紙をひいて飛び跳ねを防いでいるつもりだが)、そのあとファブリーズしたり、拭き掃除したりでめんどくさい。

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11月26日(水)

起床時刻:07時30分

最近読んだどーでもいい本(テレビのバラエティ番組みたいな面白さはあったが)『博士たちの奇妙な研究』からメモ。リチャード・ワイズマン博士によると心霊体験の要因の一つに超低周波音が関係しているらしい。耳には聞こえなくても、超低周波音が人体になんらかの影響を及ぼしているというのだ。理由については今後の研究課題だが、「博士によれば、超低周波音が人間の内臓を振動させ、それが不安感、恐怖感と関係しているかもしれないという」。んで心霊スポットと呼ばれる場所には、超低周波音が流れているのではないかと推測しているそうな。
ほんとかね?もしそうなら、ホラーゲームの要所要所で超低周波音を流すってのもありだな。ずっとでは慣れてしまうだろうから。クッソつまんなかったとかいう『サイコブレイク』も超低周波音を用いてリメイクするとか。もっともあのゲームもはやそういうレベルではないくらいのクソっぷりらしいが。

本書の中で面白かったのは温暖化防止の妙案として出された「地球をもう少し、太陽から離れた軌道に乗せることで、温度を下げる」というものだ。元NASAエイムズ研究所のGregory Laughlin博士, カリフォルニア大学のDon Korycansky博士, ミシガン大学のFred Adams博士によるものだ。
重力のスリング・ショット、つまりパチンコ(二股の棒にゴムひもをつけて玉をはじきとばすほうの)の原理を利用して、あるいはスウィングバイ航法と同様に、惑星などの重力を利用して、効率的にエネルギーを得て軌道をちょいとずらすのだ。
直径100kmほどの小惑星を見つけて、それを地球方面にポーンと飛ばして(どうやるのか不明)、地球ギリギリのところを通過させると、スウィングバイ航法のようにお互いの重力の影響を受ける。そのとき地球は少しだけ外側の軌道にはじきとばされるのだ。その小惑星は今度は木星だか土星だかに向かうのだが、またそこでスウィングバイして再び地球を目指す。とはいえ、そうしょっちゅう動かす必要はなく、博士らの研究によると六千年に一回、ちょこっと動かせばいいらしい。
もし、うっかり地球に小惑星がぶつかったらどうなるか。バクテリアレベルの生命に至るまで死ぬらしい。おい。
太陽は10億年たつと今より10%輝きが増すらしい。そのままぼやっとしていたら「フライのようにこんがり焼かれてしまうだろう」とのこと。打つ手は早ければ早いほどいいそうだが、いやいや、あと数億といわず数千年単位で待てば、今よりずっと科学が進歩するだろうから、待ってたほうがよほどいいだろう。

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11月25日(火)

起床時刻:07時00分

無職の友人から「幸福ってなんだろう?」というメールがきた。
私に相談するとは、おぬしさては友達がいないな。
まぁいい。
幸福とは何か。幸福は一般に①地位財(収入、名声、ステイタスなど)と②非地位財(家族、健康、信仰など)で決まると言われている。

スヌーピー(PEANUTSの中でルーシーの言らしいが)の「幸せとはあったかい子犬」(Happiness is a warm puppy)という言葉が有名だが、これだって地位財(収入)や非地位財(時間と健康)を持ってなきゃ無理な相談である。
というのも、賃貸住宅はだいたいペット不可だから、まず持家前提となる。ペット可の賃貸に住んでいたとしても、共働きの場合、日中ずっと子犬を家に放置することになり、犬のことを本当に好きだったらとても飼えない。家で仕事しているか、専業主婦か、日中に家にいる人がいなければ子犬を飼うのは無理。またある程度の安定した収入もないといけないし(犬には保険がきかない)、飼い主自身も若く健康でなくてはならない(飼い主が死んだらペットが悲惨だ)。

というわけで、あたたかい子犬を飼えるような環境というのは非常に恵まれた環境ということになる。幸せとはあたたかい子犬を飼える環境、すなわち金銭的・時間的余裕があり健康であること、つまり少なくとも物質的に恵まれていること、となる。ほんわかした感じはどこへ行った?

話を戻そう。
①も②もない場合どうするか。
その場合、幸福になりたいなら、解釈によって幸福になるしかない。

カルト思考(「選ばれし者の試練である」)、オカルト思考(「守護霊が守ってくれているおかげで飢え死していない」)、よかった探し(「飢え死していない」)、自分よりダメなやつ探し(「まだホームレスじゃない」)、酸っぱいブドウ戦略(「金があると諍いのもと」)、知らぬが仏的幸福(情報を全部遮断する。「持たざる者」にとって他人との付き合いは不幸の始まりである)などがその具体的な戦略である。

というようなことを返したが、友人は一般論ではなく「pyaaaちゃんにとっての幸せは何?」と聞くので「生理的欲求が満たされ健康である上で、無駄なことをしているとき」、と答えた。本を読んだり、ここにこのような駄文をつづったりするのは楽しい。というのも、本を読んだり文章を書いたりすることは、一円にもならない、無駄な作業であるから、動機は純粋に「面白いから」だけなのだ。これが仕事となると「役にたたなきゃ」「ありがたいと言われなきゃ」「文句言われないようにしなきゃ」などと余計なプレッシャーがかかって、ちっとも面白くないし、ストレスしか感じないし、まるっきり不幸なのである。

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11月24日(月)

起床時刻:07時30分

法事。夫の祖母の一周忌。
落ち込むことしきり。
夫に私が年がとっているのがいやだと言われる。
そうだろう、夫の妹(私より16歳年下)の隣に座ったら、もうほとんどお母さんだよッ。

女の価値なんて若さで決まるからな(世間の声)。もちろん、それだけではない。しかし就職活動同様、若さは有利には違いないし、若さを補う何か(就活なら経験、婚活なら収入)がなければ、年齢を重ねることは圧倒的に不利だ。

就活がきついのは自分をMark to Marketし、他人からみた自分の価値を突きつけられるからだ。私などはジャンク債だ。
評価されることが嫌なら市場を出るしかない。まさに引きこもり、NEETになる、わけだ。
NEETになる人は、逆説的だが人の目や世間体や自己評価を気にする人が多いのではないか。もちろん、誰だって人の目は気にするが、その気にする度合が過度、というか、本人の精神的な強さに対して過剰に、気にするのだろう。

NEETが叩かれるのは生きているからだ。他人の精神的な疲弊(市場に晒されてうれしい人もいるだろうが、そうでない人が圧倒的に多いだろう)のおこぼれを掠めとって生きているからだ。市場のプレイヤーたちは言う、「誰だって苦しいんだ、つらいんだ」と。つらさや苦しさを避けている人間、つらさや苦しさから逃げている人間は、そう生きる資格はない。なぜこんな荒涼とした世界に人はとどまる?あまつさえ、あらたに子供という犠牲者を送り込もうとする?

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11月23日

起床時刻:09時00分

メイ・サートンの『82歳の日記』を読んでいたら、日本でもベストセラーになったテリー・ケイの『白い犬とワルツを』を誉めていたので、図書館で借りて読んでみたが、正直、私は評価しない。テレビドラマレベルだと思う。
テレビドラマを貶めているようだが、必ずしもそうではない。テレビドラマは漫画と同じく、キャラクターが平板で、そのために行動も完全に予想の範囲内で、予定調和の大団円に終わるため、仕事で疲れた脳みそにはちょうどいいのである。自分の脳みそに何の葛藤ももたらさない。明るいキャラはどこまでも明るく、勇敢なキャラはどこまでも勇敢な、そういったドラマや小説は(『白い犬とワルツを』もそう)、安心して読んだり見たりできるのだ。私自身は読んで考えこまされるような、一筋縄でいかない小説のほうが好きで、もっといえばノンフィクションのほうがフィクションよりずっと面白く感じる。
というのもノンフィクションはある事象に対する新しい視座や解釈を単刀直入に説明してくれているからだ。そうでなかったら出版される意味がないだろう。例えば結婚小説を読むより、結婚についての社会学的・人類学的・歴史学的な話のほうが読んでいて面白い。
クリント・イーストウッドが演じたら似合いそうなジーサンの美学とか、読まなくてもわかるので別にどーでもいいのだ。

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11月22日

起床時刻:08時44分

最新の知見を全く無視した、カビの生えたような主張を繰り返す老いた学者のノスタルジックな主張集みたな本を読んでいてイライラする。知識が全くアップデートされていない。
今思えば、私の大学の授業もこんなもん。インターネット以下。教授が大昔の講義ノートを読み上げるだけ。「大学教育はただの時間の無駄だった」(私の場合)けれど、大学に行かなきゃわからないものね。大学に下らぬ幻想を抱いていたかもしれない。得たことはそれくらいか。人生もそんなもん。生きてきてわかったことは「人生なんてくだらない」ってこと。

図書館で借りた本だからいいものの、自分で金を出して買った本なら壁にぶつけるレベルだわ。「こんなくだらないことを書いて金を貰えるなんて羨ましい」というイライラもあるんだろう。こちとら神経をすり減らして働いて得た雀の涙なんだ。こんな居酒屋談義以下のジジイの繰言に金を払えるかっつーの。

でもほんと、頭ってどんどん固くなるんだなぁ。っていうのがよくわかる。そして「誰からも支持されるマジックワード」、たとえば生物多様性とか、そういうのに頼っていると、確実に知性は衰えると思う。

総論としての生物多様性に反対する人はいないだろう。だけれども、各論としてはみな反対する。実際のところ、それを実行できる施策レベルに落として考えると、「利害の対立」(←重要)が起きて、「多様性を尊重して」などと簡単にいえなくなるのだ。財源は?見返りは?ボランティアじゃないんだぞってこと。お題目を唱えるのが一番簡単で(「サステナビリティ」だの「ダイバーシティ」だの)、それをPDCAサイクルに落とすことが一番難しい。そこがわからないと、脳内お花畑のおめでたい議論になっちゃうんだけど、エライ人って現場知らないから、そうなっちゃうんだろうな。うぜー。

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11月21日(金)

起床時刻:07時30分

昨日は暇だったので会社で購読している『日経新聞』の「春秋」を読んだ。
日経のHPに全文が載っていたのでコピペしよう。
「昔、宋の国に多くの猿を養っている人がいた。急に貧しくなり、餌のドングリを減らすことにした。朝三、夕四でと猿に言うと立ち上がって怒る。では、朝四、夕三ならどうかと聞くと、みな伏して喜んだ。目先の違いにとらわれるのを笑う「朝三暮四(ちょうさんぼし)」の故事である。

▼数は同じだから、満足も同じ。人間は一日を通して考えるし、先々も想定する。だから、猿と違って、ごまかされない。利益が得られるように計算して、合理的に行動する。将来に備えてお金をため、生涯の収入を考えながら使う。目先の収入の増減には、強い影響は受けない。かつて経済学はそんな人物像を描いていた。

▼現実は違う。先を見越していたはずが、ローン破産や借金苦に陥る人もいる。最新の経済学は、実験でその行動を確かめ始めている。せっかちな人は、来月の1万円より明日の5千円を選ぶ。足元の小利に目を奪われ、後の大利を失う。後悔先に立たず。不利なことは後回しにしがち。そうした感情も経済を動かしている。

▼消費税の税率引き上げ延期が決まった。景気回復が遅れ、デフレ脱却が危ういからという。アベノミクスが順調なら事情は違った。成長と財政再建、社会保障の充実を同時に追うのは難しい。それより目前の政治態勢の再建を急ぎたい。そんな心理が働いたとすれば、後に得られるはずの大きな利を失ったのかもしれない。」

「足元の小利に目を奪われ、後の大利を失う」とか原発推進派の「日経新聞、お前が言うか」だよなぁ。
「後の大利の皮算用」つってな(言わないです)、その計算が難しいんだよ。リスク計算といってもいいがな。予定っつーのは狂うんだよ。大利の予定が「想定外」なことが起きてアテが外れるんだよ。
「せっかちな人は、来月の1万円より明日の5千円を選ぶ。」と書いているが、別に銀行だってせっかちだから割引率という考えを導入しているわけではない。要するにリスク差なのだ。極端な話、来月まで確実に生きているという保証はない。それなら来月一万円もらうより明日5千円もらったほうがお得じゃん?あるいはその五千円を回収して再投資したら来月には一万五千円になるかもしれない。それなら明日、五千円もらったほうがお得じゃん?そこんとこが専門家も含めてよくわかんないから、借金苦に陥ったりするわけだ。餌のどんぐりを見境なく食いすぎたアホだけではない。今日のどんぐりを我慢して将来のどんぐりに投資した結果、相場が反対に動いて借金苦、破産とかも多いだろう。もし相場が予想通りに動いて大儲けしたら、日経新聞なんかまっさきに拍手喝采するんだって。たいていはまぐれあたりだったりするのに後付の理由で納得してしまう。日経”猿なみ”新聞だから仕方ない。まぐれあたりじゃない場合はインサイダー取引だ。

原発に話を戻すと、安全、安全といっていた原発が事故を起こし、誘致をしたなんとか町は「足元の小利(原発誘致で入ってくるお金や雇用)に目を奪われ、後の大利を失う」ことになったともいえるわけで、それはアホでせっかちだったからなのか。その可能性も高いが、利益とリスクの皮算用を誤ったのだ。そもそも日経新聞読んでそうな人はだいたい間違ってるんだからw

ついでにいうと、「消費税の税率引き上げ延期が決まった。景気回復が遅れ、デフレ脱却が危ういからという。アベノミクスが順調なら事情は違った」と書いているが、なぜアベノミクスが順調ではなかったのか?それはある意味、日本国民が宋の猿とは違って、「どうせいつか消費税あがるし」「どうせ年金足りなくなるし」「だからこのどんぐりはとっておこう」と考えてお金を使わず、内需が冷え込んだからじゃないのか。知らんけど。そうやって日本人は長年、コツコツ老後に向けてどんぐりをため込んでいる。どんぐりを貯めこんでいない人は、飢え死にしかけてため込む余裕が全然ない人くらいだ。

一部の猿は株高で貯めていたドングリの資産が実質大幅に増えたが、それはごくごく一部の猿の話で、大多数の猿は消費税増税で消費マインドがすっかり冷え込んだままだ。「消費税延期しますよ」と政府に言われても「どうせいつかあげるんでしょ」と「合理的」に長期的見通しを持ち、動かない。もちろん、来月消費税が上がるとしたら、駆け込み消費をするだろうけど、そのあとは財布のひもをぎゅーーーーっと締めるだけ。政府が「特別にどんぐりをばらまきますよ!」といっても、どうせもらったどんぐりは「何かのときのために」土の中に埋めてとっておくだけ。個々人が「長期的視野にたち」「合理的」に行動した結果、アベノミクスに踊らされることもなく、その結果アベノミクスがうまくいかないともいえるんじゃないんかね。知らんけどさ。

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11月20日(木)

起床時刻:07時30分

軽蔑している人間に跪き、嫌悪している人間の情けを乞う。
まるで家畜のように。
家畜は自由を奪った悪そのものの存在に馴化したおかげで、繁殖し、繁栄している。人間に馴化しなかった野生の狼は万物の霊長たる人間に殺され、北海道の狼は絶滅した。奴隷根性で頭空っぽな家畜と違って狼は敬意を受けるかもしれないが、それは絶滅した後、ノスタルジーとともに、だ。

狭い牛舎にぎゅうぎゅうに詰め込まれた(ダジャレじゃないですお)人間たちは悪夢のような満員電車に詰め込まれ、仕事場に輸送される。よくこれで暴動が起きないと思うだろう。ローレンツは人口過密、すなわち社会的接触が大きくなると攻撃性が高まると危惧したそうだが、そこは家畜化(攻撃性を弱める)ことで対処している。家畜は暴動を起こさない。

家畜化することは悪いことばかりではない。強い人間が(別の強い人間の攻撃から)守ってくれるし、北海道の狼のように毒ダンゴで殺されることもない。繁殖は奨励されるし、まずくて飽き飽きするとはいえ、餌は与えられる。野生では飢えと隣り合わせだ。

人間は野生の狩猟採集生活から、定住生活にかわったとき、すなわち農耕・牧畜革命が起きて人口が増加しはじめたとき、そのときから、人間の人間への馴化傾向は強まっていったであろう。自然発生的なボス猿とボス猿に従う猿たち。ボス猿は攻撃性を強め、他の猿たちは攻撃性を弱めていく。
社会的動物であるアリや蜂のようだ。彼らも一匹だけが生殖機能を発達させ(生殖機能の権化となる)、残りは働きアリや働き蜂として仕えるのだ。人間社会においては女王は一匹ではないし、そもそも「女」王ではなく、階層構造はより複雑だけれども、権力機能をトップ集団に集め、その集団は権力にふさわしく暴君化していき、働きアリたちは精神まで働きアリ化していく。面白いことに働きアリがトップ集団に入ると、性格まで変わるのだ。女王蜂になると生殖機能を発達させるかのように。

働かずに簒奪するだけの狼志向、ハイエナ志向の人間は、満員電車を捨て、エアコンのついた快適な犬小屋を捨て、荒野をさまよう。私たちは働かずして奪うだけの「自由な」人間を憎むから、彼らが荒野で行き倒れたときは拍手喝さいする。「あんなふうになっちゃいけませんよ」と牛舎の中から指をさす。

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11月19日(水)

起床時刻:07時25分

スーパーでバターを買おうとしたら、2軒とも在庫なし。スーパーにバターがないなんて、どこの発展途上国だよ!(1400円のカルピスバターはあったけどね)
マーガリンは山のようにあった。まがい物しかない。こんなんで「グルメ国」を自称しているんだから、ちゃんちゃらおかしい。リンゴのタルトを作ろうと思ったのに。

思えば2008年もバター不足になった。一人一箱限定でも、スーパーでは常に売り切れ状態だった。
食の安全保障、大丈夫なんだろうか。目先の安さにつられずに、食糧自給率を向上させること。まっとうな食品がまっとうな値段(高すぎもせず、安すぎもせず)で買えること。そんなことが大事に思う。時代錯誤ですかね。

今の乳製品不足は昨夏の猛暑で道内を中心に乳牛の出産が減ったことの影響があるらしいが、今後、地球温暖化していくのだから、夏は暑くなり、乳牛にとっては逆風の環境になるだろう。それに加えて「高齢化などに伴う離農に歯止めがかからず、かつて16万戸以上あった国内の酪農家戸数は13年度、1万9千戸にまで減った」そうだ。
http://musilog.net/archives/1005142500.html
(リンクは切れているが元ネタは北海道新聞の6月の記事の模様)

「安い乳製品をもっと輸入すればいいじゃない」と思っている人も多いだろうが、「中国が乳製品消費国として台頭し、欧米豪の乳製品はそちらに流れはじめた」とフード・ウォッチ・ジャパンの2008年の記事にある。
今後、中国の乳製品需要はどんどん高まっていくはずだし、一方で日本のバイイングパワーはあらゆる面で確実に下がっているという現状を考えると、輸出国に足元を見られて高値をふっかけられたり、場合によっては、買えないということもあるだろう。

「ごちゃごちゃ文句言わずにマーガリン使えよ」という人も多いだろう。私はトランス脂肪酸が気に食わないということよりも(それもあるが)、味が嫌いなのだ。オサレカフェでサラダランチを頼むとパンとマーガリンが出てきてがっかりすることがある。バターと称してマーガリンを出してくるところもある。仕方なく食べるが、やっぱりマーガリンは嫌いという結論に至る。
別に味に敏感なわけではない。むしろ舌はバカなほうなんだけど、合成甘味料のコーラ(ダイエット・コーク)とクラシック・コークを飲むとすぐに違いがわかるようなものだ。
なんか違うんだよね。私は断然、クラシック・コーク派で合成甘味料は大嫌い。普通の砂糖のほうがおいしいと思う。

今日の夜は夫は飲み会なので、シンプルに。
ほうれん草と油揚げの味噌汁、焼いた鮭、レタス(の外葉を使って)と卵、ハムの炒め物。余っていたカボチャはバターで焼こうかと思っていたけど自粛して、マヨ+チーズ焼きにした。デザートは焼きリンゴ。残っていたバターを少しだけ使って、あとは砂糖、シナモンパウダーだけw耐熱皿に入れてオーブンで焼けばオッケー。簡単、安い、ヘルシーと三拍子そろっておるw

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11月18日(火)

起床時刻:07時25分

高倉健が亡くなった(というのが今日判明した)。高倉健のかっこよさの10%、いや5%くらいは名前(芸名)に由来するんじゃないかと思う(そしてかっこよさの50%くらいは背の高さからきている)。
そのくらい芸名の「高倉健」というのはよくできている。本名の「小田剛一」も悪くはないが、「高倉健」のほうがカリスマ性のある名前だろう。もし高倉健が「山田孝夫(仮)」という名前だったらここまでかっこよく感じたであろうか。

日本語の言葉(とりわけ固有名詞)の印象は、音感と漢字感で決まるといっていいだろう。高倉健は音も漢字も日本人的にはとてもいいのである。
以下「音感覚から見る日本語」というHPから引用させてもらうと、
「カ行音は乾いた感じ、サ行音は快い、タ行音は強く、男性的な感じ、ナ行音は粘る感じ、ハ行音は軽く、抵抗感のない感じ、マ行音は丸く、女性的な感じ、ヤ行音は柔らかく、弱い感じ、ワ行音はもろく、壊れやすい感じがあるという」。
http://www.sipeb.aoyama.ac.jp/~mt-home/alumni/ando/sound.html
タカクラケンは「タ」で始まるから「強く、男性的な感じ」を印象づける。多用されているカ行音(「カ」「ク」「ケ」)は「乾いた感じ」=クールさを演出し、「ラ」は(個人的見解だが)華やかさを感じさせる(例:サクラ、バラ、キラキラなど)。そして最後の「ン」で引き締めている。
漢字がまたいい。「高」はいうまでもなく、高貴なイメージ、「倉」は「蔵」でもあり裕福さ・富の象徴。一転して名前の「健」は「健やかさ」で庶民的な、親しみやすさを感じさせる。高倉という苗字がなんとなく由緒ありげで武士っぽいところが雰囲気にあっている。そう、高倉健の場合、高倉健という芸名が彼の人柄と我々が感じているイメージとぴったりあっているのだ。「高倉」という「孤高な感じ」「男らしい感じ」「きっちりした感じ」と「健さん」という「親しみやすさ」。

逆に私が名前はどうなの?って思っているのは、現在の大スター、福山雅治である。名前が全体的に柔らかく、女性的な感じ。福山という苗字がもう女性らしい「ふっくら」感や「柔らかさ」を連想させるのに加えて「マサハル」もまた、女性らしいのだ。母音のア音の多さ、マ行の柔らかさ、サ行の軽さなどが女性らしい、やさしい感じなのである。顔があんだけシャープだから名前が柔らかくても問題ないかもしれないが。確実に本名だろう。

最近は本当に本名が多いね。ジャニーズも本名主義らしいし。
だけれども、よくできた芸名やペンネームはそれだけで様々なイメージを喚起するものだ、と私は思う。

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11月17日(月)

起床時刻:07時25分

仕事で販促について調べることがあったのだが、『販促会議』の2014年7月号にこんな文章が載っていた(㈱子プロシステム/大久保惠司氏)。

「ヤバい経営学(フランク・バーミューレン著)という本の中にこんなエピソードが紹介されています。アメリカのアーカンソー大学のジェシカ・ノーランという研究者が、カリフォルニア州の家庭の省エネを呼びかける4種類のチラシを作りました。
①節約しよう!環境のために。
②節約しよう!社会のために。
③節約しよう!あなたの出費も減らせるのだから。
④節約しよう!みんなもやっているのだから。
どれが一番効果的かを考えるために住人たちにインタビューしたところ、「他人がやってるからと言って自分もやるとは限らない。」「④はあまり意味がないんじゃないの?」という意見が多く、その他の回答にはあまり差がありませんでした。

メッセージの効果を確認するために、ノーランは家庭ごとに違う4種のメッセージのチラシをこっそり住人たちの家に配り、後に各家庭の電気メーターを調べたのだそうです。その中で電気使用量が明らかに減少したのは、インタビューでは評価の低かった4番目の「みんなもやっているのだから」のメッセージを配った家庭だったのです。

彼女はこの事実から「『他の人たちがやっている』という単純な事実は、私たちの意思決定や行動に大きく影響している」という消費者インサイトを得ました。
このエピソードは以下のことを示唆しています。
●人は「思っていること」と同じ「行動」をとるとは限らない。
●「行動」という事実を調べることでインサイトを得た。」
http://www.coprosystem.co.jp/knowledge/blog-marketing/2014/0725155202.html

面白い。だから「どう思うか」と意見を聞くだけでは正しいインサイトは引き出せない。実際の行動を調べないと。言えてるわ。
例えばわたくし、物欲を克服したと常々言っている。ちょっと前に「洋服なんか清潔だったらなんでもいいや」と書いたくらいなのだが、実は今月、洋服代等に色々お金を使ってしまった。言ってることとやってることと違うじゃん、と思うかもしれないが、物欲というより、「久しぶりに友人に会うのに、あんまりみすぼらしい恰好をしてはいけないだろう」という理由でコートを買ったのだ。
真冬ならゴージャスなコートを一昨年位に買ったんだけど、雪が降っているのがちょうどいいような真冬仕様なんで、日中はまだ暖かい晩秋の季節に着るとただの「季節感ない人=おしゃれじゃない人」になっちゃうのだ。なので、今の季節にちょうどいいようなコートを買ったわけよ。
物欲というよりは、他人志向、他人基準の消費だよなあ。ヴェブレン消費というほど顕示的なものではなく、「せめて人並みでありたい」消費、「世間様に後ろ指さされたくない」消費という、どこまでもみみっちい消費ですね。

「『他の人たちがやっている』という単純な事実は、私たちの意思決定や行動に大きく影響している」というが、「他人の影響」ってほんとに大きい。例えば少子化対策として「周りがみんな産んでいる」という状況にすることはかなり有効だと思うね。周囲からの影響ってものすごく大きい。だから集団の一元化っていう現象も起きる。私だって友人が洋服にコレッポッチも気をつかわない人なら、私も気にせずいつもの襤褸をまといていったのだが。このように物欲に動かされなくても別の理由で物を買うってことはあるのだよね。

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11月16日

起床時刻:09時00分

ショップチャンネルを延々と見続けてしまった。
無駄ではない。煩悩を捨て去る訓練をしていたと思えばいい(←ポジティブシンキング)。紹介されていた品々にはおおいに心を動かされたが、結局何も注文しなかったのだから、煩悩界からの刺客であるテレビショッピングと闘い、勝利をおさめたといえよう。

だいたいですよ、人里離れた古刹で煩悩を捨て去るのとショップチャンネルを見ながら煩悩を捨て去るのとどちらが困難か。番組後30分以内にお電話いただいた方に限り、送料無料!特別にもう一本おつけして!お値段そのまま!いますぐ、あなたもこの感激を味わってください!を聞きながら煩悩を捨てる方が困難だろう。
寒いお堂でブルブ震えているときに、暖房器のテレビショッピングを見ていたら煩悩との戦いは試練を増すだろう。「たったこれ一台でお部屋全体が暖まる!遠赤外線パネルでずっと暖かい!灯油ストーブと違って火事の心配もなく、エアコンと違って空気も乾かず、電気代も安い!今ならメーカー希望小売価格の半額!!」と聞いたら、今すぐ電話したくなるだろう。私も今すぐ欲しくなった。別に寒いお堂で見ていたわけではなく、それどころかエアコンの効いた部屋で見ていたのだが、「なんかすごくよさそう」なのだ。

今時のセールスプロモーションは「行動経済学」や「脳科学」の知見を用いたニューロマーケティングなどが盛んで、ほんとにあの手この手でモノを買わせようとしている。
本物のイノベーションならともかく、ちょっとパッケージ変えました、ちょっと成分変えました、ちょっと香料変えました程度のものを、売ろうとするのがおこがましい。世の中はあのヒット作をうんだマーケター、あのヒット作のプロモーションを手掛けたプロモーターを賛美する一方で、年金はあてにならないし、老後にしっかり貯めて節約するべきだという道徳感というか現実が一方にある。金のない老後は自己責任なのだ。一方で金を使え、使えとあおり、その一方で金を使うことは愚者のやることだと教えられる。つまり、お金を使うときのストレスは増加しているのに(収入が右肩上がりの時代とは雲泥の差!)、お金を使わせようとする手段は巧妙化している(ネイティブ広告とか。マジうざいだけだわ)。
ほんと煩悩と闘う側も知的武装が必要―敵を知り、己を知る―なのだ。

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11月15日

起床時刻:08時00分

友人とランチ。別れた後「仕事の愚痴を言ってごめんね」というメールが来たので、「仕事の愚痴をこぼしたのではなく、疎外された労働について多角的に語り合ったのである」と返信したら返事が来なかった。デスヨネー。
どうして世の中の人は不平不満を話すことを愚痴だと思って自主規制するのだろうか?『資本論』も壮大な愚痴だというのか?マァ言うんだろう。資本家ガー、剰余価値ガーと文句を言っている暇があったら、自分も起業したらいいじゃん?文句と泣き言ばかり言ってないでさ?とかな。

私は愚痴に対する許容量が大きい。というより、友人が愚痴りはじめたら、すぐに私が大演説をぶつのである。「仕事がいやで」と言われたら「労働とはワーキングクラスにかけられた呪いである、by オスカー・ワイルド」と言い出して「年をとりたくない」と言われたら「40年以上も生きのびるなんて、みっともないことだし、俗悪で、不道徳だ!by ドストエフスキー」と『地下室の手記』を持ち出し、「老人とは棒切れに引っ掛けたぼろ上着そっくりだ」とイエーツの詩句の一部を引用し(もっともイエーツの詩には但し書き(「もしも魂が手を叩いて歌うのでなければ」等)があるが、魂が手を叩いて大声で歌ってもイエーツやその他有名人の年寄りでなければ誰の耳にもその歌声は届かないのだよ。魂の咆哮は新聞の投書欄に投稿しても採用してもらえないだろう、「電車の中の若者のマナー」「最近の若者の日本語の乱れ」などなら、うんざりしながらも一抹の憐みでもって採用してもらえるかもしれないが)、自制心と向上心の共同作業に「明日は今日よりよき日にならねばならない」というイデオロギーをまぶしたハイブリッド型努力の結果、最終的には「棒切れに引っかかったぼろ上着」にしかならないなんて、なんと人生とは皮肉なことか、そう、「人生とは必ず敗北するゲームへの強制出場である by pyaaa」 と長口舌をふるうのである。

それで相手は白けてしまうのだ。おお、退屈な人間とはこちらが話したいときにしゃべり出す人間だ、とは誰の言葉であったか。そういう意味で私は退屈な人間であるし、そのうえ、他人を気落ちさせるようなことしか言わないのだから、友達が減っても無理はない。
オトナの友人との会話とは、お互いの日々の生活の愚痴を少々こぼしても、うなづいて聞いてもらえ、絶対の味方がいるという安心感を与えあうことなのだ。そうやって「うんうん」と聞いてもらった後は、「色々あるけど、明日からまた頑張らなきゃね」と前向きな気持ちになって、「じゃあそろそろ」と伝票をつかんで立ち上がり、ほのあたたかいものを胸に感じながら、お互いの生活に戻っていくものなのだ。ところが、どうだ、私は!「また明日からがんばろ」という決意を「ハァ?それって自己欺瞞でしょ」と背負い投げしようとする「うざい」やつなのだ。

わかっておる。わたし、年をとって明らかに偏屈になってきた。んでもって、それでいいと思うようになってきたんだなぁ。空気を読まないとだんだん狂人に近づいていく。思ったことを前頭葉のスクリーニングなくそのまま実行すれば狂人だし。あるがままの自分でいたいのよ、そう世の中はあるがままの自分でいる狂人とあるがままの狂人に振り回される従者から成る、by pyaaa、もういいって?

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11月14日(金)

起床時刻:07時30分

「自己のアイデンティティの規定・確立には他者の存在が必要であり、他者との関係によってしか獲得できないもの(『自己と他者』R.D.レイン)」であるならば、他者からの侮蔑的視線に晒されている場合、自己イメージも侮蔑的にならざるを得ない。すなわち、低い自己評価とつながるしかない。しかし、そこには自由がある。解釈の自由が。
もっとも、このある種「酸っぱいぶどう」戦略は評判が悪い。とりわけ自己啓発本の世界では。自己啓発世界のグルは「自己変容」「行動」により自分と自分の行動が変わることによって、他者の視線(=評価)が変わり、自己イメージも向上せしめるという教えを強調する。
しかしながら、最終目標としての他者からの評価を意識することには変わりはなく、他者志向・他者基準で動くことにおいて、「自己変容」の前と後とでは何も変わらない。他人からの評価に一喜一憂するその不安定さは精神にとって大きなストレスだ。その点、自分基準の導入という点で「酸っぱいぶどう」戦略は画期的なのだ。

他者からの侮蔑的視線を「神による試練=私は選ばれた人間である」と捉えたり、「大殺界のため=運命のスケジュール上の厳寒期であるからこのような目にあうのであって、そのうち春がくる」と捉えたり、「付和雷同型大衆の同調圧力をはねのけているため=大衆社会において高貴なものの背負う受難」などと考えたり、「父権社会による抑圧=悪いのは社会であって自分ではない。むしろ自分を貫くための試金石」などと解釈することができ、そのことによって自己評価の下落はむしろ覆される可能性もあるのだ。

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11月13日(木)

起床時刻:07時35分

『なぜそんなに痩せたいの?ー「美人」になりたい女の社会心理学』(ヴァルトラウト・ポッシュ)(原題はKörper machen Leute: Der Kult um die Schönheit、ドイツ語はイロハもわからんのだが、Körper machen LeuteはKleider machen Leute(Clothes make the man/馬子にも衣装)のもじりであり、訳者によると「馬子にもボディ」ということ。
そして後半は「美をめぐる崇拝」という訳をされているが、カルトはカルトでいいんじゃないか。「美に関するカルト」で。「地獄の沙汰も"美貌"次第」というメッセージをあらゆるメディアが発信し、男性はいうにおよばず(女性が美の追求にだけいそしんでいれば、父権社会は安泰である)、女性も自ら「美のカルト」の伝道師となっている現状をアイロニカルに指摘しているのだから。著者は美を否定しているわけではないが、美の追求が強迫観念化し、この過度な美の追求によって天国ではなくむしろ地獄の沙汰を招いているという逆説を自覚せよ、と促しているのだ。

それにしても毎回、日本の出版社がつける邦題には溜息が出る。なんだってこういうセンスなんだろう。今、ダーウィンの『種の起源』が翻訳されたら、『あなたは昔、猿だった!?-生存競争と自然淘汰による「目からウロコ」の生物学―』といった邦題をつけかねない(実際のところ「ダーウィンは人間については「人類の起源にも光が投げかけられる」(wiki)としか言わなかった」がそんなんじゃ売れないんだよ!)。

まぁそれはともかく、Ebba D Drolshagenという人の著作からの引用がめちゃくちゃ多いので、彼女の本が気になった。”Des Körpers Neue Kleider - Die Herstellung weiblicher Schönheit”など。
ググったところ、一冊も邦訳されていないみたい。英訳も見つからなかった。誰か日本語に訳してくれないかなぁ。

「不安定な自己評価はとりわけ美の競争には抵抗力が弱い。他人との競争や比較から自身の価値を読み取ることができれば、美しいボディの意義は高くなる」

「明確な自己評価感覚をもてない女性にとって、ほかの人には与えられるものが自分には得られずに損をするという不安がつねにつきまとう。この複雑な心象の欠落部に痩身や魅力を賭けた競争はさながらジグソーパズルのピースのようにぴったり収まる。というのも、ライバルを凌駕して重要な得点をあげ、トップになる可能性が提供されるからだ」(Karin Deuser, Elisabeth Gläser, Daniela Köppe - Neunzig-sechzig-neunzig. Zwischen Schönheit und Wahn ここからもよく引用されている。面白そうなので誰か邦訳してほしい。)

あー、わかるわかる。結局ね、なーんにも取り柄のない人間が生きていこうとすると、昔からの生活の手段、すなわち女性性(性を売る)と美(男をひっかけて結婚)に頼るしかない。著者は自己評価の低い美人であることより、健全な自己イメージを持っている女性のほうが幸せであると調査結果を引用して言うが、美人でもなく、その他の能力も平均より劣っていたら、どうやってポジティブな自己評価を持てばいいというのだろう?
仕事もできない、頭も悪い、しかも不美人。仕事の努力をしても、生来の低すぎる能力のためにその努力が報われないことがわかったら、美にかけるしかない。
世の中頭をよくする薬はないが、「美しくなる」と喧伝するもの(化粧品、洋服、ブランド品、スポーツジム、ヘアスタイル、ネイル、それから「ストレスの少ない環境」に「ヘルシーな食事」、目にするもの(住環境)も美しいものであればなおよし)はいくらでもある。当然、そちらに頼るしかないではないか。

そしてやっぱり報われないのだ。←今ココ。
この年になると「あきらめ」の境地になる。
おばさんでいいや、の精神である。洋服なんて清潔ならいいや、顔なんて化粧しなくてもいいや、だれも見ていないし。他人の視線もどうでもいいし、自分の外見もどうでもよくなる。自己評価は相変わらず低いが、おばさん化というのは否定すべきことではない。女性の神経症、あるいは美をめぐるカルトから解放してくれるともいえるのである。

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11月12日(水)

起床時刻:07時45分

11月11日(火)

起床時刻:08時00分

さっきNHKの教育テレビ(今「Eテレ」って言うんだっけ。そういや「E電」(民営化後の国鉄を一時期そう呼んでいた)という呼称、あれはどうなったのか。そう、かつてJRを「E電」と呼ばせようとしていたのである。昭和のネーミングセンスに驚愕するがよい。「Eテレ」も「E電」と同じ末路を辿ればいいと思うが)で、「依存症」についてやっていた。ちらっとしか見なかったけれど、依存症といっても薬物依存やアルコール依存だけではなく、現在は様々な依存症が問題になっているとのこと。例えば買い物依存、ネット依存、ギャンブル依存など。依存の診断も難しく、こういった新型依存症の人に支援の手が届いていないのが問題なのだそうな。

依存症かそうでないかの診断は簡単だと思うんだけどね。
①依存によって本人が困っている
②依存によって周囲が困っている
のどちらかの場合は依存症、そうでなければ「気晴らし」や通常の余暇活動の範囲になるんだと思う。
②については、アルコール依存や薬物依存のように明らかに社会的に許容できない依存症の場合は、たとえ本人は困ってなくても依存症という判断を簡単に下せるけれど、「新型」の場合は難しい。本人はまったく困っていないのであれば「依存症」と診断されても「自分は正常、周囲や最近の風潮が異常」と思うだけだろうし、明らかに「社会的に許容できない」と断言できるほどの重症ではない限り、振り回される周囲にとっては残念なことだが、結局、問題となるのは①の場合だけだ。

番組では買い物依存症の女性が出ていたが、彼女のクレジットカードの月々の支払は30万ちょいであった。アラブの金持ちなら、一か月どころか一日の買い物で使ってしまう金額だろう。でも誰も「買い物依存だから治療したほうがいい」とは言わない。要するに普遍的な診断基準(月いくら以上なら買い物依存症)というのはない。月々5万円、洋服を買うのでも依存症と思えば依存症なのである。

だから、自己申告制で判断するしかなく「客観的な診断基準」なんか求めたって無駄だと思う。苦しんでいると言っているからには苦しんでいるんだろうということで、対応するべきだろう。と言いつつ、私は対応できないけどね。話すら聞いてやれないと思う。テレビでさえ途中で消してしまったしね。自分は依存症になりやすいタイプだと思うのだけど、途中から「私は依存についてどう考えるか」に焦点が移って、今依存症で苦しんでいる人とかどーでもよくなってしまうという自己中心っぷり(私は私のことにしか興味がないのである)。ああいった自助グループを主宰している人は本当に人間ができていると頭が下がる。

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11月10日(月)

起床時刻:07時30分

ひどい頭痛と腹痛。生理に伴うものだと思うけど。
貴重な休みを横になって過ごした。

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11月09日

起床時刻:11時30分

mxテレビで日曜の昼にDisco Trainという番組をやっている(80年代のディスコ文化を回顧する番組で、昔のディスコナンバーをDJ Osshyと早見優が「ナヴィゲート」する番組)。この日、一瞬チャンネルを回したらおっさん(きれいなおっさんではあるが)のDJ Osshyが古(いにしえ)の音楽を流していたのだが、TV局のセット内のダンスフロアに見立てたところでは、若いピチピチの女の子たちが踊っていた(古びたDJと古びた曲で)。そうなんだよなぁ、ここに当時ディスコで踊っていた、今はおばはんとなった古びた女性たちは投入しないんだよなぁ。おばはんたちの娘くらいの年齢の子たちが、おばはんたちの変わりとして表舞台に出る。懐古番組だというのに、女だけは常に若いのに差し替えられるのだ。

テレビ番組でよくある組み合わせが、年取った男性アナと若い女性アナである。男性には「才能」「特殊技能」(レコードをかける、原稿を読み上げるなどの)があるから容貌は重要ではないが、女性は美だけが取り柄の無能だから(「花を添える」という役目)、花が萎れたら取り替えるのが当然、というのだろうか。
また、昔は自ら寿退職をして、「職場の花」から退いたものだった。「花」であり続けることのつらさ(事物の自然に反しているからね)、「花」に変わる才能や能力がないために居場所のなくなることのつらさから救ってくれるのが、白馬に乗ったエリートサラリーマンとの結婚、そして「寿退職」だったのだ。

しかし、枯れてしまった花を捨てて新しい花を活ける理由は、常に新鮮な新しい花を大事にする理由は、それだけ―見かけだけが取り柄の無能な女性の責任―ではないような気がする。

「永遠に若い女性や恋人という理想はある特定の目的を果たす。それはつまり、その男性に彼自身が年をとらないかのように錯覚させるのだ。そして美や若さが移ろいやすいということも忘れさせる。ナオミ・ウルフは書いている。
『生身の女性をひとつの芸術作品とみなすことは、それによって男性がみずからの不死を装いうる可能性のひとつである。女性の目が彼の鏡であり、その鏡が古くなれば、この鏡をのぞきこむ男性は彼自身もまた年老いることがわかる。新しい鏡、すなわち移ろいやすい肉と血ではなく美でつくられている空想の鏡ならば、この種の自己認識から彼を救ってくれよう』」
(『なぜそんなに痩せたいの?』ヴァルトラウト・ポッシュ)

確かに、私の見聞しているところでも、「若い女」に病的にに執心するのは中高年が多い。若い男で「彼女は若いんだよ」と鼻を膨らませて自慢していることは少ない。というのも自分も若いから、若さの価値に気付いておらず、それ以上に若さのもたらす苦しさに悩んでいる最中だったりするからだ。ものすごく年上の女性と付き合ったりする若い男性もいる。しかし、自分が若さを失い、若いことが珍重すべき輝かしいことであると認識するにつれて、女性の価値において「若さ」がトップに躍り出てくる。
35の女性とつきあう20の男はいるが、55の女性と付き合う40の男はいない、という事実もこのことを表しているだろう。またこのことは女がかなり年上の年の差カップルは男が年をとるにつれて、危機感が増大することも意味する。

事実、有名な離婚カウンセラーである岡野あつこ氏は「実は妻が年上の場合は、離婚するケースはグッと増えてしまいます」と言っている。
「結婚後しばらくはうまくいきますが、ある時点で夫が成長し、社会的地位が得られると、妻にリードされてきた結婚生活に夫が疑問を持ち始めたり、窮屈に感じてしまうようになります。その結果、自分がリーダーシップを発揮でき、さらにビジュアル的にも魅力的な若い女性に目がいってしまう…というパターンが多いのです」
自分を育ててくれた糟糠の妻にはもう用はない。見るたびに萎んで枯れて年寄になっていき、気を滅入らせる妻は生ごみ同然の存在だ。ましてや夫のほうが妻の社会的地位を追い越したり、より「成長した」ということになると、取り柄のないバーサンと一緒にいる自分がみじめに思えてくる。
立派な成長した男として、若い女の子と一緒に「若返り」、家庭を持ち、一家の主としてみなを支えていくという「家長の役割」を求めたくもなるのだ。しかもバーサンに対しては「これもできないのか」と叱りつけるところを、若い女の子だと「まだ若いから仕方ないね」と寛容にもなる。
ネットの情報だが、牛窪氏曰く「歳の離れた男性と結婚する女性は寿命が短い。妻が7~9歳年上の場合、妻の死亡リスクが20%上がる。年上の妻を持つ夫は、偏見を持たれ、ストレスを受けやすい。それを妻が共感し、ストレスが伝わり、短命になる。逆に男性が年下の女性と結婚すると男性の寿命が長い」なのだそうな。「若い女性と結婚してうらやましがられる」ことが健康にいいのだろう。最近は「金持ちの女性と結婚してうらやましがられる」というパターンもある。男に羨ましがられることが男の生きがいだからなぁ。

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11月08日

起床時刻:07時30分

11月07日(金)

起床時刻:06時45分

ランチに某カフェに入ったら、矢野顕子が大音量で流れていた。
入ったその足で出ていきたかったけど、さすがにそんなこともできず。

矢野顕子にせよ、中島みゆきにせよ、ああいう主張の強い曲はBGMには不向きなんだよ、と思うんだけど。このカフェのオーナーさんが矢野顕子大好きなせいか、音も大きい。こんなこと言ったら全国の矢野顕子好きな人に殴られそうだが、私は矢野顕子のあの甲高い声がものすごくカンにさわる。それだけではなく、聞いてくださいと言わんばかりのピアノ、意味ありげな矢野ワールド全開の歌詞、すべてが「過剰」であって、本に集中できないんだよ!!
このカフェで彼女の「歌い上げ」を聴きながら思ったが、私は矢野顕子のRの発音が嫌い。”I love you, I love you, forever"などとしょうもないことをうたっていたが、foreverの発音にイライラする。まぁ要するに矢野顕子が嫌いなんだよw坊主憎けりゃRまで憎いってなw

カフェの音楽なんてのはモーツァルトのディヴェルティメントのように、カンに触る部分が全くないものがいい。変な「主張」が強すぎるものは全部NGだ。

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11月06日(木)

起床時刻:06時30分

WHオーデンは書いた。
「人生についての人間的洞察に
職業がどう影響するかは
知りたいところだ。
たとえば事務員は
森羅万象を分類整理し、
ブローカーはものの本質も財産と思うのだろうか。」
(「重苦しいデート」沢埼順之助訳『オーデン詩集』思潮社)

仕事が人生観に与える影響はあるのだろうか?単純作業の事務員としては認めたくないところだが。

アダム・スミスは『国富論』でこう言っているそうだ。
「ごく少数の単純作業だけで一生をすごし、その作業の結果がおそらくいつも同じかほとんど同じであるような場合、そうした労働者はむずかしい問題に直面することはなく、したがって問題の解決策を見つけるために知恵を働かせたり、工夫を凝らしたりする機会もない。その結果、頭を使う習慣をいつの間にか失い、およそ人間がなりうる限りで最低の無知と愚鈍に陥る。頭が鈍っているため理性的な会話を楽しむことができず、会話に加わることさえできない。そればかりか、寛大さ、気高さ、やさしさといった感情も抱けなくなり、私生活上のごくふつうの義務の多くについてもまともな判断を下せなくなる」
(Adam Smith, The Wealth of Nation, P461)

上記は『じゅうぶん豊かで、貧しい社会 理念なき資本主義の末路』(How much is enough?/Robert Skidelsky/Edward Skidelsky)(筑摩書房/2014/村井章子訳)からの引用である。
著者のスキデルスキーは「スミスは商業を美化しようと努力はしたけれども、やはりそれが労働者の生活や人格におよぼす悪影響を無視することはできなかった。分業に伴う歪みを論じた箇所は、マルクスを思わせる」と述べている。

チーン(沈没する音)。
しかしながら、仕事が人格(人生観)に及ぼす悪影響は単純作業によるものだけではない。

昔、あるクライアントが冗談まじりに「うちは家庭でもインセンティブを導入しましてね、おかげで妻が家事をよくやるようになりました」と言っていた。行動科学によって得られた知見は消費者行動を理解するのにも、家族の行動特性を理解するのにも役立つだろう。役立つ、ねぇ。
畢竟、人生も仕事も変わらないのかもしれない。要するに、人生も仕事も最小のインプットで最大のアウトプットを求める試みである。あるいは人生という所与からいかに多くのものを引き出すか。その試みに「役立つ」のである。家庭生活であろうと会社の売上であろうと。

自分の市場価値を常にマーク・トゥ・マーケットし、年齢とともに生じる市場価値の低下をリポジショニングによって回避し、様々な市場環境に柔軟に対応しながらも、確固たるストラテジーを持って”自分”というブランドの”DNA”ともいえるようなコア・アイデンティティを獲得していく―その絶え間ない挑戦と試行錯誤が人を成長させ、それが人生というものを形作っていく。

どや?かっこええこと書いたやろ?
くっだらねぇけどな。あーあ。こういう中身ゼロのふわふわとした言葉を書き綴ってる人いるよなぁ。私、マジでこの手のことならいくらでも書けるわ。もっともまずは女性起業家にでもならないと、こんなタワゴト誰も聞いてくれないけど。あーあ、くっだらない。

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11月05日(水)

起床時刻:07時00分

夕飯をつくるのが面倒なので、ハインツのホワイトソースでも買って手軽にグラタンにしようと思ったけれど、缶の裏側を見てやめた(必ず原材料を確認する)。
参考までハインツのHPからコピペするとホワイトソースの材料は「小麦粉、とうもろこし油、ショートニング、生クリーム、牛乳、たまねぎ、バター、全粉乳、砂糖、食塩、脱脂粉乳、たん白加水分解物、チキンエキス、たん白加水分解物調製品(たん白加水分解物、砂糖、食塩、その他)、香辛料、増粘剤(加工デンプン、タマリンド、キサンタン)、調味料(アミノ酸等)、香料、(原材料の一部に大豆を含む)」である。
家庭でホワイトソースをつくる場合、必要なのは(原材料は原則として含有される量の多いものから書かれるので)「牛乳、(生クリーム)、小麦粉、バター、(顆粒コンソメ)、塩、コショウ」以上である。
市販のホワイトソースは、基本的に安い油まみれの澱粉なのだろう。乳製品は高いから安いコーン油やショートニングを使って、乳製品感を増強するために香料を使うのではないか。

クックパッドを見て、レンジでつくる方式のホワイトソースを作ったが、なんかダマダマ感があるんですけど。。。いつもの小林カツ代式のほうが安定感がある。具材はマカロニ、ベーコン、マッシュルーム、玉ねぎ、茹でておいたほうれん草。
先ほど焼きあがったので食べてみた(旦那は今日は帰りが遅い)。
うーむ、味が薄い。私ならちょうどいい味付けだが、旦那には確実に薄すぎる。いわゆる「優しい味」ってやつだが、「優しい味」が好きな男は存在しない。男はいつでも「濃いめ」の「パンチのきいた味」が好きだ。
たぶん、ハインツのホワイトソースでつくったグラタンのほうが旦那にとっては「コクがあって」「クリーミーで」おいしいだろう。ホウレンソウが邪魔だと怒るかもしれない。

そうして、私のグラタンづくりの要した時間がすべて無駄だったということになるのだ。本日の献立はグラタン、レタスサラダ、イチジクのコンポート。コンポートは作り置きだし、レタスサラダはちぎっただけなので時間はかからないが、夫は両方とも嫌いだろう。はーあ、嫌いなものだらけのクソ夕飯が出来上がった。

手間とお金をかけたもののほうが、安物のインスタントよりできが悪いなんて、悪い冗談だよ。でも、まぁ私の人生ってそんなものだわね。つまり、我が人生とは悪い冗談みたいなものだ。無駄な努力をして、ゴミをつくりだしているだけ。

最近つくづく思うのだが、私はefficiencyを尊重しない。processの効率化、streamlineによるoutputの最大化を目指すのがbusinessの常識なのに、あえてその反対をいく。というか、「反対をいく」という明確なpolicyがあるわけではなく、なんか気がついたらそうなっているという、一番いかんパターンのダメ人間である。
一つ言えるのは私はとことん、仕事にも家庭にも向いていないってことだ。じゃあ何に向いているの?って言われたら困る。何にも向いていない。少なくとも、私は何かの役に立つような、有用な人間ではない。私はずーっと役立たずの人間の居場所を探しているのだけれど、今のところ、居場所はあの世しか見つかっていない。

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11月04日(火)

起床時刻:07時30分

メイ・サートンの『独り居の日記』を読む。
「孤独」が大きなテーマの日記だと言われるが、そんなに孤独かあ?
友人・知人から家政婦・庭師に至るまで、入れ替わり立ち代わり誰かしら訪問してくるし、自分も講演やら何やらであちこちでかけている。友人や見知らぬ読者から手紙の束が毎日どっさりやってきている。週末には友人を招いてピクニックに出かけたり、夏にはロングフェローの孫娘である友人の素晴らしい家(1890年代に建てられた、「多くの部屋を持つ屋根のある箱舟」といった趣の家)にて「ヴィクトリア朝の安全と快楽に守られて」滞在したり、充実した社交生活を送っている。

ていうか、私の家をこの1年で訪問してきた人は宅急便の配送業者とピザ屋だけなんだけど!ここ5年でいうと、エホバの証人の信者が「目覚めよ!」を持ってきてくれていたのだが、今は来なくなってしまった。手紙は来ないし、DMだけが来る。

夏休みといえば、中島みゆきの「あたいの夏休み」にあるように、
「お金貯めて三日泊まるの~が夏休み、
週刊誌読んでやってくれば数珠つな~ぎ、
冷めたスープ放りなげるように飲ま~されて、
たった三日、でもあたいの夏休み」
なのだ。

もっとも私は夏休みにどこか他人の家に滞在したいという気はさらさらないから別にいいが(むしろ積極的にお断りだ)、肝心の住まい、この「二人居」の家はどうだ?

庭もなく狭い賃貸の「我が家」はゴミゴミした住宅地にあり(もし東京に大地震が起きて(それは専門家によれば確実にいつか起きる)、大規模な火災が起きたら、道路が狭く、一方通行の多い地域なため、消防車の行き来も難しく、かなりの確率で悲惨なことになるであろう。一応、東京では高級な部類に入る住宅地ではあるが、欧米からみたらただのスラムである)、部屋も狭く、夏は暑く、冬は寒く、隣の物音もよく聞こえ、部屋数がほとんどないので、自分の部屋すらない。あるのは寝室とリビングという名のテレビルームだけ。
バージニア・ウルフは女性の自立のためには年500ポンドの収入と自分だけの部屋が必要だと言ったが、21世紀だっつーのに両方ないよ!!(500ポンドが現在の日本円にしていくらかは知らないが、どっちにしろ、ないに違いないのである)
サートンは「一人でいられることがなく、空間をもたない日々が長く続きすぎたので、煉獄にいるようだ」と書いているが、本当の煉獄ってのはどういうものか教えてやんよ、と言いたいわい。
落語の長屋の大家が「一人ぶちなら食えないが、二人ぶちなら食える」と諭しているシーンがよく出てくるが、今日の結婚も江戸時代の結婚もたいしてかわらん。一人ぶちなら食えない奴が、二人ぶちなら食えると寄り添い、部屋も二人で一つ、人口過密地帯に住むことになる。満員電車の通勤から人口過密家庭に帰るまで、人にあふれた世界。やるべき仕事、やるべき家事、そして回りには上司や夫という監視者。一人というのがいかに贅沢か。

家はその人の精神の体現である、みたいなこと誰か言ってなかった?
ハイデガー?
日本人じゃないだろう。全員が「じっと手を見る」状態になるだろうから。

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11月03日(月)

起床時刻:08時30分

メイ・サートンの『独り居の日記』、お腹を空かせた警戒心の強い野良猫に餌をあげていたら、妊娠して子猫を4匹生んだ。そしてまた妊娠した。
「私は彼女を捉えることはおろか、さわることも、近づくこともできない。だから庭のしげみの下に、ミルクと食物の皿を彼女の全家族のために出しておいてやった、でも二か月もすれば子猫がまた生まれてくるだろうが、それまでにはこの四匹はほとんど大人になり、子供を生み始めるだろう。ある夜私は、際限なく増えてゆく何百匹もの猫や子猫の夢を見て目が覚めた…夢魔である。」
餌をおとりに猫を檻に入れるのだが「昨日、野良猫は恐ろしい様子で私を見た。彼女の唇は恐怖のために半ば吊り上がっていた。冬の間中、私は彼女の動じない、魅了された目付きでみつめられていた。冬中、私たちのあいだで信頼が築かれてきたのだ。そして今、私はそれを裏切らなくてはならない。彼女はとてもひもじく、オレンジ猫ととうとう織に入ったので、私は素早く戸口をぴしゃりと閉めてしまった」
そしてヒューマン・ソサエティの手に猫たちを託した。その男性は母猫は長く苦しまないで終わるだろうこと、子猫をもらってくれる家庭か探してくれると約束してくれた。著者自身も残りの3匹の子猫は手なずけ、時が来たら去勢するつもりだそうだ。著者がすごく悩んでショックを受けていることは言うまでもない。

世の中というのはこのようなジレンマに満ちている気がする。
著者の溢れんばかりの子供らしい善意は助けを求めてくるものを助けようとする。私たちだって、家の目の前で子供がひもじさのあまり倒れていたら、後先考えずに助けるだろう。
しかし、いつだって善意は高くつくのである。
わざと子供が目の前で倒れるようになるかもしれない。この家ならいくらでも助けてくれるよ、と。そんな悪意はなくとも、子供が親や親類縁者も連れてきて、全員に食事をふるまってほしいと頼んできたらどうなるのか。一人や二人ならともかく、何十人もきたら?家の前に段ボールハウスがたくさんできたら?家の周りに悪臭が漂うようになったら?
善行というのは本当に難しい。
しかし子供らしい善意が時に地獄への道を舗装するとしても、善意をせせら笑う自称リアリストにはなりたくはない。

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11月02日

起床時刻:08時45分

11月01日

起床時刻:08時00分

「オーデンとはなんという神秘だろう!彼は新しい種類の詩を創り出した。思うにそれはエリオットよりも独創的であり、私たちの詩の概念でいう”詩的”なものとは正反対なものに根差し、誇張は皆無で、皮肉で、反ロマン的で、機知に富む。これらはすべてバイロンに源を探ることもできたが、オーデンには自身のヴィジョンがある。」
「私たちはすべて芸術作品を通して、人前での自己と指摘な自己を一体化しようとする。」
「神経の抑鬱状態というものは、回転する車輪のように文字通り繰り返しやってくるからうんざりする」
「社交的な外面だけでの人づきあいは、時間の無駄だ。ほんとうの人となりを見抜こうとして、私はあらゆる努力を傾けるが、それができないといは心が落ち着かず腹を立てる。無駄になった時間は毒を持つ」
「人はどうやって成長するもの?」
「…幸福の経験はもっとも危険なものである。なぜなら、存在しうる幸福というものはすべて、われわれの渇きを大きくさせ、愛の声は空虚を、孤独を響きわたらせるからである。」
メイ・サートンの日記よりメモ。

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