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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:08:07

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03月31日(火)

起床時刻:07時30分

本日、夫は飲み会のため夕食を作らなくていい。
夫がいない間、好きなことができる。
わーい、わーい。
とか書くとひどいようだが、気難しい顧客の相手をする営業(と書いて「太鼓持ち」と読む)やガミガミうるさい社長の社長秘書みたいなもんで、太鼓持ちや秘書は顧客なり上司の不在のおかげでリラックスできるのだ。
相手が不在であること(「帰ってくるのが遅い!」「また飲み会?!」)に腹を立てるのは、テメェが顧客か社長になっている証拠だぞw

心地よいところであれば、キャバクラであれ、スターバックスであれ、会社であれ、自宅であれ、人はホイホイ帰ってくるものなのだ。なぜ心地よいのか。それは顧客あるいは社長として大切に扱われているからである。「ちょっとゴミ出しといて!」などと決して言われないからである。「コーヒー」といえばすぐに持ってきてくれるからである。そこに背広をほうっておけばハンガーにかけておいてくれるからである。
つまんない話も興味を持って聞いてくれ、自慢話には「すごいですね!」と相槌を打ってくれる。そんな人のところであれば、いつだって一緒にいたいだろう。だけれど、それは接待なのだ。私も含めて、たいていの人の話はつまらん傾向にある。面白いのはテメェだけ。だから私のようにブログに書いて自分で読んどけってことですよ。

接待ではなく、本音の付き合いをしたいだろうか?「コーヒー」といえば、「自分で入れろ」と返され、つまんない話はスルーしてテレビをつけられ、自慢話には「その話は聞いた」と言われ、それでもいいのか?!

たいていの人間は本音の付き合いなんぞ望んじゃいない。
年寄の昔話を偽物の熱心さで聞いてくれる孫と、本音を隠し立てせず「そんな話興味ない」と遮る孫とどちらがいいか。

もっとも、世の中広いから、たまにはお互いの話を面白く思えるようなこともあるが、そういうケースの多くは興味関心の近い同年代の人に限られるだろう。たまに「若い人も面白がって自分の話を聞いてくれた」と誇らしげに言う中高年もあるが、だいたいは礼儀上の理由あるいは打算に基づく偽善的行為から聞いてくれただけであろう。
しかし、「しない善よりする偽善」というのが私のモットーであるし、偽善を働いた礼儀や優しさは真実なのである。だから彼らの優しさに漬け込んで、長々と話し込んではいけない。拘束してはいけない。ブログに書け、ブログに。同年代でひょっとしたら、面白く思ってくれる人もいるかもしれない。

面白くもない前置きが長くなったが、ブログだからこういうこともできるのだ。こんな話を誰に話すんだ?全員がうんざりするだろう。いや、ひょっとしたら、誰かが面白く思ってくれるかもしれない(ま、この話はさすがに無理かw)。

さて本題(というほどの”本題”でもないが)。
今日(3/31)、日経朝刊の「春秋」をうっかり読んでしまったが、ひどいもんだった。実に情緒的なふわっとした内容で、びっくりする。

簡単に説明すると、山上憶良の「貧窮問答歌」の反歌の引用からはじまり、人間って空を飛ぶことをずっと夢見ていたよね。人類は空を飛ぼうと頑張ってきたよね。というような話のあと、
「ドイツの格安航空会社の旅客機が墜落した事故は、副操縦士が故意に引き起こしたとの見方が強まっている。病気のせいで操縦士の資格を失うことを心配していた、とも伝えられる。飛び続けたい思いが強すぎて青年は闇にのみ込まれたのだろうか。夢は見果てぬ夢だからこそ美しい。そんな詩人の魂があったら、と思う。」
だって。ハア?
必要なのは「詩人の魂」じゃなくて例えばスカイマークみたいに操縦席にパイロットを一人にしない(トイレ等で一人になるときは客室乗務員が入る)というような「安全対策」でしょうが。

いや、これが経済紙朝刊一面のコラムではなく『日々の想い』みたいなタイトルの「しっとりとした」エッセイ集(春になると必ず「春は出会いと別れの季節である」みたいな文章ではじまる退屈なエッセイを書いちゃう系の)だったら別にいいんだけど、そんな情緒纏綿たる文章を経済紙に求めてないでしょう。あ、社説が別にあるからコラムはポエムでいいのか。

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03月30日(月)

起床時刻:07時30分

ポール・ザック(Paul J Zak)の『経済は「競争」では繁栄しない 信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と共感の神経経済学』(原題は”The Moral Molecule The source of love and prosperity”)を読んだ。

どうでもいいけど、この著者が若いイケメンで、著者紹介の写真を思わず二度見してしまった。身長190cm超えの元フットボール選手、しかもイケメン。二度見するだけではなく、更にググってしまった(どんだけよw)。
wikiの写真が本にも載っている写真。実際は写真よりも老けているが。TEDの講演がなんと邦訳つきで見れるのである!ついでにいうと講演内容は本書の要約みたいな内容だった。

というわけで、本書の内容を書かずともTEDを見ればいいのだが、ざっくり内容を書くと、適切なかたちで分泌&受容するオキシトシンは共感と信頼を産み、世の中の善サイクルを促し、経済的繁栄をもたらす。また個人レベルでもオキシトシンレベルが高いと幸福度も高いんだとか。
一方でテストステロンは利己主義や攻撃性を高め、処罰志向を強める。男性はもともと女性よりテストステロンが10倍もあるから、男性のほうが厳罰傾向にある。ついでにいうと、テストステロンの影響下では社会的地位の高い権力者ほど反社会的になるらしい。

近年はテストステロンを煽っているというか「自己利益万歳」みたいになっているが(ウォール街を見よ)、オキシトシンの信頼関係がなければ経済的にも社会的にも繁栄しない。もっともオキシトシン一辺倒で、だれもかれもを信用していたら「カモがねぎしょって歩いてる」ことになるから、オキシトシンやテストステロンを出すタイミングは重要である。

最終章は「信頼社会はハグからはじまる」とあるが、オキシトシンはハグをすることでも分泌されるそうな。一日8回ハグをすること。これが幸せになりたいあなたへの著者からの処方箋である。

そんなこと、できるか!!
という怨嗟の声が日本全国から聞こえてきそうである。著者は医者の奥さんにかわいい子供、先生を崇拝する学生に取材に群がるマスメディア、といった人たちに囲まれているからハグし放題だろうが、私の周りには「ここ数日だれとも口きいていないんだけど?」という人がいっぱいいる。

だいたいさ、ハグによってオキシトシンの分泌が増えるって言うけどさ、それは著者がまっとうなイケメンだから著者とハグした相手が皆オキシトシンを分泌したんだろう。もしこれが気色の悪い好色爺だったら、オキシトシンどころか、コルチゾールがでまくるわ。

ハグは日本人的には敷居が高いが、SNSもオキシトシンを分泌させるらしい。人とのつながりはSNSという形であっても共感ホルモンたるオキシトシンを分泌させるそうな。でも私、そもそもFacebookもtwitterもLINEもしていないっていう、今時珍しいSNS度数ゼロの人なんだけど。

リアルもバーチャルも友達いないという私みたいな人は、マッサージにかかることをおすすめする。マッサージでもオキシトシンレベルはあがるのだ。私は先日、肩こりと眼精疲労からくる頭痛に耐えられず思わずマッサージにいったのだが、本当に気持ちよく、肩も頭も軽くなり、リフレッシュできて気持ちも前向きになり最高だったが、オキシトシンが分泌されたのかもしれない。もっとも5%の人は何したってオキシトシンは分泌されないそうだ。関わり合いになりたくないね、そんなやつとは。私は違うぞ、たぶんw 

本書の主張については疑わしく思う部分や納得感のない箇所も多々あるが、まぁ読んで面白い本だった。文章が上手だね。出た、イケメンに甘い!

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03月29日

起床時刻:08時30分

今、AM1:50。
いったい世の中の既婚者はいつ、どこで日記やブログを書いているのだろう?自分一人の時間をどうやって持つのだろう?
ヴァージニア・ウルフは「女性が小説なり、詩なりを書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」と書いたが、21世紀の日本において、一人ぶちで食えなくて二人ぶちになったクチの女性は当然たいした年収も自分の部屋もなく、小説や詩どころか、しょうもないブログを書く時間や空間すら持つこともできない。家中が寝静まったあと、ひっそりとリビングのソファテーブルにパソコンを置いて(自分専用の机など当然ないから)、自分の思いをつづるわけだ。「さっさと寝ろ」って話だがw。まぁたいていは実際さっさと寝るんだけどね。

昨日引用した『スズメの謎』(三上修著)に↓のようなことが書いてあった。
「科学というのは、厳格で、何かとても神聖な感じがします。が、結構いい加減なところもあります。複雑な問題を解こうとすればするほど、いろんな前提を置かなければ成り立たなくなります。そして、それらの仮定や前提の真偽ははっきりしていないことが多いのです、<略>私は、ほかの分野のことをよく知りませんが、このことは生物学でより顕著なのかもしれません。というのも、生物学ではさまざまな複雑な要素が絡み合うので、いくらか荒っぽい過程を置かないと、にっちもさっちもいかなくなることがあるからです。そういう科学のいい加減さに、あるときそっぽを向きたくなったのです」(P129)
「スズメの謎」とは関係ないやん、ですが、最後の方に脱線話が書いてあるんですよ。それはともかく、↑のようなことは別に生物学に限ったことじゃないと思うね。前提がそもそもおかしいやん、ていうのは、経済学なんかもっと顕著だと思う。

普通の仕事でもそういうのある。「前提」がそもそもおかしいような気がするんだけど、そこは「所与」だったりするんだよね。だから著者の気持ちわかる気がする。だって、間違った前提からどんなきれいな結論が出てきても意味ないから、虚しくなるもん。
でも、常に何かしらアウトプットしなきゃお金をもらえないから(学者なんてとくにそうだろう)、アウトプットを導くためには前提を置かなきゃいけないし、そこから疑っていたらいつまでたっても何も書けないしねぇ。

一人寝静まって書くのが無責任なブログだから、前提がなんであれ、好き放題勝手放題、いい加減に書けるから面白くていいのだが、これが商業用の、「金とります」という文章だったらしんどいんだろうなぁ。
昔、私がレポートを書いたとき、語尾にやたらと「~と思われる」とつけていたら、上司に「「~と思われる」が多すぎて自信なさそうに響く、よくない」と注意されたことがある。でも、実際、自信ないんだし、本当は「~と思われるような気がするが、気のせいかもしれない」くらいに書きたいとこなんだよw。ブログだと独断と偏見で言い切っているんだけどなw

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03月28日

起床時刻:09時30分

近所の満開の大島桜を見上げるとヒヨドリが二羽。近年ヒヨドリをよく見かける気がする。増えているのだろうか。それとも単に気のせいだろうか。
そもそも私は鳥なんぞにたいして興味はなかったから、経年変化はよくわからない。体感だと、雀は減って、カラスも一時期(バブルのころ多かった気がする)より減って、ヒヨドリが増えた、という感じ。だってどこでも、あの灰色の体と赤いほっぺたとかわいいボサボサ頭をみかけるのだ。私の勤務先は東京のド都心だが、そこの街路樹にもヒヨドリたちがいる。

ヒヨドリについてはともかく、『スズメの謎』(三上修著 誠文堂新光社 2012年12月発行)によると、日本の雀の数は減っているらしい。
ところで、この本は『白菜の謎』に続き子供向けの本だが、考え方の根本を教えられる気がする。『スズメの謎』のテーマは3つ、①ざっくりいってスズメは日本に何羽ぐらいいるか、②経年でみるとスズメの数は増えているのか減っているのか、③増減があるとしたらその理由は何か、である。

例えばクライアントに「日本全国でだいたい雀の数ってどのくらいいると思う?」と聞かれたとしよう。費用も時間も限られた中で、どうやってざっくりと数を把握するか。自分でも考えながら読んでみるといいと思う。
こんな単純な課題でもクリアしなくてはいけない問題が色々あることがわかるだろう。いくら効率性を追求しても、現在思いつく方法では、ものすごく手間暇がかかる作業で、残業しなきゃこんなことできねーわ、なんである。要するに、世の中、結果としては一行「日本にスズメはざっくりと○○羽いる」で終わることでも、プロセスはそれはそれは大変なんである。そういうことがわかっていない人が多すぎて困る。結局ね、検証やチェックに時間がかかってんだよ。一行だけ、なんとなく、印象論で言うだけなら簡単なの。

例えば私らは漫然と非科学的な印象論で「鳥が増えた」だのなんだの言っているが、鳥は季節によって個体数の変化が大きいので(春に雛がかかえって増え、冬に死んでいく)、単に春に比べて冬は減ったと思っているだけのことかもしれないのだ。
「雀海中に入って蛤となる」(雀大水に入り蛤となる)というのは俳句の中でも一番長い季語だろうと思うが、秋になると雀は町から田畑のある農村にいって姿を消すので、昔の中国では雀は秋には海に入ってハマグリになるのだろうと、その模様の類似(羽と貝殻の)もあって、そういうことを言ったらしい。「雀が秋に減少するのは海に入ってハマグリになるためである」とか、一番ダメな思考パターンだ。でもそういう印象論ってほんと、書くのに時間かかんなくていいよね。時短ワークだわ。

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03月27日(金)

起床時刻:07時30分

『ずる』(ダン・アリエリー著)は、人間の利や快楽を求めようとする本能と、規範や正しさを守ろうとする精神の戦いを、巧妙な実験によってあぶりだしているが、私たちの意思決定の多くはその板ばさみなので、不正のみならず多くのことに当てはまる。

例えば精神的疲労、意志力の消耗が私たちをより「本能のまま」突き動かすとしたら、ネットショッピングなどというのは、疲れていない朝にやるべきである、ということがわかるだろう。ガチャなんかもそうだ。後で後悔するような課金は夜にやる確率のほうが高い。夜書いたメールを一晩寝かせろというのも、精神的に疲労しているときは(夜はだいたいそうだろう)、相手に配慮をする精神的な余裕はなく「思ったことをそのまんま」書きがちだからだろう。

また「課金をしない」「甘いものを食べない」などという誓いをいったんやぶってしまうと「どうとでもなれ」効果なるものが発揮され、誓いを全くたててない人よりはるかに課金したり甘いものを詰め込んだりしがちだ。「やぶれかぶれ」効果だ。必要以上に自分を追い込んでいるのである。

更に言うと「自分へのご褒美」も気を付けないといけないかもしれない。自分へのご褒美は自分の欲求の「つじつまあわせ係数」をあげる可能性が高い。「こんなに頑張ったんだ、こんなに耐えてきたんだ、だからこれくらいいいじゃないか」という気持ちが、全く疲れていないときなら無駄だと思えるような高額ガチャから浮気にいたるまで、導く可能性がないともいえない。

というわけで、夜はインターネットをしたりバーに出かけたりせずに、さっさと風呂に入って寝るがよかろう。

ちなみにうちの旦那がソシャゲでとんでもない高額課金をしたと顔面蒼白で告白してきたが(金額は頑として言わないが、百万はいってそう)、上述のようなタイミングにおいてやはり高額課金をしたのである。
夫もさすがに「人生で初めてやらかしてしまった」と落ちこんでいたが、彼は自己正当化の物語を紡ぐのも得意なので、どうせすぐに復活するだろう、悪くしたら「すべて私のせい」ということになりかねない、と心配している。夫は「これからは私に優しくする」などとケナゲなことを言っているが(その理由は「怒らなかったから」だと)、信用してはいない。ゲームばかりせずに本書を一度読んでみればいいのに、と思う。いかに他人も自分もあてにならないか、ということがわかるだろう。

『ずる』によると「ごまかし実験」のごまかしの量にはほとんどの国や文化による違いは見られない。我らが高潔なる日本人の結果については言及されていないが、間違いなく日本人もアメリカ人や中国人と同じ程度にズルをするであろう。

東日本大震災でその秩序だった行動が賞賛された日本人であるが、その理由は、ズルや不正をしなくても餓死したり凍死したりする可能性はまずなかったという大前提がある。自分や我が子が死ぬ可能性がある、というのは、不正やズルのとんでもなく大きな「つじつまあわせ係数」となる。まぁほぼ何でも許される状況となるのだ。
そのうえで、まさに「海外から賞賛される」という行為が逆に道徳的自覚を促したこと(本書の実験でも「十戒」を思い出させてからだとズルは減っていた)、SNSの発達などによる監視効果、などがあるだろう。

先日、モーニングクロスでインドの大規模カンニングの様子が報道されていたが(親が校舎の壁をよじ登ってカンニングをするのである!)、コメンテーターが「文化が違いますね」といっていた。

インド人も日本人も数字さがしゲーム(詳しくは本書参照)においては同じように道徳的柔軟性を発揮して同じようにズルをするのに、国や大陸、文化によって腐敗の水準が明らかに違うという現実がある。
それは我々の日々の活動は数字さがしゲームとは違い、文化的水脈にかかわるからである。つまり①特定の活動を道徳の領域に含めるか、追い出すかは文化にかかわっているし、また②特定の領域で妥当とみなされるつじつま合わせ係数の文化による違い、だ。

ちなみにすべての比較文化実験のなかで、たった一度だけ違いが認められたことがあったそうだ。それはワシントンD.C.の議会スタッフとニューヨークはウォール街の銀行家たちの間だそうだ。銀行家のほうが二倍もごまかしをしたらしい。ほら、やっぱり規制したほうがいいのだ。一番泥棒に近い人たちを野放しにしたがるのは意味不明だ。ちなみに一つの会社でテストをした場合、経理などの「創造性の低い」仕事の担当者とコピーライターのような「創造性の高い」仕事の担当者を比べると明らかに後者のほうがズルをするんだと。さもありなん。

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03月26日(木)

起床時刻:07時30分

『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』(The〔Honest〕Truth about Dishonesty How we lie to everyone - especially ourselves)(ダン・アリエリー著)を読んだ。私が「新しい教科書をつくる会」だかなんだかの会長だったら、この本を道徳の教科書にしたい。

本書で著者は人をして不正行為に駆り立てているのは、合理的な費用便益思考(悪事を働いたときの費用と便益を計算して悪事を行うかどうかを決める)ではないという。そうではなく、「わたしたちの行動は二つの相反する動機づけによって駆り立てられている。わたしたちは一方では、自分を正直で立派な人物だと思いたい。鏡に映った自分の姿を見て、自分に満足したい(心理学者はこれを自我動機と呼ぶ。)だがその一方では、ごまかしから利益を得て、できるだけ得をしたい(これが標準的な金銭的動機だ)。この二つの動機が相容れないのは明らかだ。では、ごまかしから利益を確実に得ながら、自分を正直ですばらしい人物だと思い続けるのは、いったいどうすればいいのだろう?
ここで、わたしたちの驚くべき「認知的柔軟性」の出番となる。この人間的能力のおかげで、わたしたちはほんのちょっとだけごまかしをする分には、ごまかしから利益を得ながら、自分をすばらしい人物だと思い続けることができるのだ。この両者のバランスをとうろとする行為こそが、自分を正当化するプロセスであり、わたしたちが「つじつま合わせ仮説」と名づけたものの根幹なのだ」(P37)

本書では不正を促す要因(正当化の能力、利益相反、創造性、一つの反道徳的行為、消耗、他人が自分の不正から利益を得る、他人の不正を目撃する、不正の例を示す文化)や不正を減らす要因(誓約、署名、道徳心を呼び起こすもの、監視)も、実験によるデータの裏付けとともに明らかにしていく。

面白い。例えば私は今日30分くらい遅刻したのだが(しれっと)、「やばい」と思う反面、数々の自己正当化(「だって頭が痛いんだもん、こんなに頭が痛いのに、会社に行くだけでもエライ、遅刻くらいしたっていいじゃん」)をしていたのだ。更にいうと、周囲が遅刻をしていることも「私だって遅刻してもいいじゃん」の理由となった(遅刻だって給料ドロボーという点からすれば不正なのである)。

遅刻に限らず、まわりが不正していても咎められないのをみると、「あいつだけずるい」と思い、すぐに「私だって」となり、われながら思いもしなかったような図々しい行動に出るものなのである。不正はウィルスのように蔓延するのだ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というが、「赤信号、誰かが渡れば皆渡る」でもある。
そしてそれを咎められると、自らの道徳観の弱さではなく、「あいつだって」「あいつが最初に」と他人を責め、自分の道徳性に対しては目をつむるのだ。自らの意志で渡った癖に、最初に渡ったあいつに騙された、くらいに思う人だっているのだ。やれやれ。

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03月25日(水)

起床時刻:07時30分

ひどい頭痛。
貰い物の緑茶が余っているんだから、紅茶を買ってまで飲むのはやめよう、緑茶を全部消費してからにしよう、と思っていたんだけど、アールグレイのティーパックを買ってしまった。やっぱり、私は緑茶よりも、コーヒーよりも、アールグレイが一番好き。
という、ものすごくどうでもいい私情報。
「どうでもいいですよ♪」っていうお笑いのネタが前、あったな。だいたひかるさん。

頭が痛いので会社でもセデスを飲んだ。朝と昼2錠と1錠飲んで、少し収まったけど、やっぱり頭がガンガンする。間違いなく眼精疲労。

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03月24日(火)

起床時刻:07時30分

昨今のテレビにおける日本礼賛番組の氾濫っぷりは、日本社会の高齢化がその要因ではないか、といったことを私は以前ここに書いた。つまり加齢(年齢)効果によって、社会全体が保守化、右傾化、お好みなら「愛国心の高まり」といってもいいが、が起こっているのではないか、ということだ。
というのも世論調査をみると「自国への誇り」はいつの時代でも(戦後すぐでも平成の今でも)高齢者のほうが若者より高いから、回答者に占める高齢者の割合が高くなればなるほど、「自国への誇り」は高まるはずだ、そしてそれを確かめたい・感じたい高齢者のニーズに「我褒め番組」が合致するのではないか、というのがそのとき思ったことである。

しかしそれだけともいいきれない。世論の変化の背景には①世代効果、②時代効果、③加齢(年齢)効果がある。①は例えば戦前生まれの人がいつまでも儒教的道徳観を持ち続けるケース、②は例えば経済大国になることによって自国に誇りを持つようになるケース、③は例えば年をとるにつれて墓参りを大事に思うようになるケースなどだ。
「ナショナリズムの高まり」「愛国心の高まり」はひょっとしたら①や②の効果もあるかもしれない。私にはちょっとピンとこないが。そんな問題意識をもって、『現代日本人の意識構造[第八版]』(NHKブックス/2015.2)を読んだ。

しかしながら付録Ⅱの「解析方法」に「世論調査から得られた結果を用いて、加齢、世代、時代の3つの要因を数理的に分離することは困難であることが知られており、様々な解析が試みられたが、決定的な理論は開発されていない。つまり、世論調査によって全体での意見分布が変化したことはわかっても、それが、人びとが意見を変えたことによるものなのか、世代交代によるものなのか、さらには時代変化の影響がどのように関与しているかは、数理的にはわからないのである」と釘を刺されてしまった。ふーん、わかんないのか。

本書によると、日本に対する自信はバブル時代にピークに達したあと、バブル崩壊とともに下降線をたどったが、今回再び上昇し過去最高水準に達している。
※「日本に対する自信の内容」は「日本は一流国だ」「日本人は他の国民に比べて、きわめてすぐれた資質を持っている」「今でも日本は外国から見習うべきことが多い(「そうは思わない」の回答)」の回答をスコア化したもの。

今回、経済的に低迷が続き、しかも東日本大震災後の原発事故とそのおそまつな対応を目の当たりにしながら、バブル時代の水準まで日本に対する自信が回復した内実として、社会学者の岩淵功一は「現在多くの人が感じる日本への愛着や誇りは、グローバルイベントや文化輸出などに見られる”世界で活躍する日本人と日本文化”いよって喚起されている」と指摘している。ふーん。

終章では数量化Ⅲ類による分析で、日本人の意識構造がどのように変化してきたのかをみている。分岐点は98年で(あ、この調査は5年に1回だからね)、このときすべての世代で「伝統志向」の傾向が強まっており、日本全体で保守への回帰がみられた。
一方で、変わらない変化の方向もあり、東日本大震災の影響で「家族の絆」がクローズアップされたが、「あっさりとした人間関係」を求める傾向は続いている。

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03月23日(月)

起床時刻:07時30分

「夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん」(馬場あき子)
「すさまじくひと木の桜ふぶくゆゑ身はひえびえとなりて立ちをり」(岡野弘彦)
「ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも」(上田三四二)
「夕光(ゆふかげ)のなかにまぶしく花満ちて枝垂桜は輝きを垂る」(佐藤佐太郎)

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03月22日

起床時刻:10時30分

クイズ。『万葉集』で一番題材となった花は?答えは萩。梅かと思ってた。
そういや、萩といえば与謝野晶子が「白萩の君」、山川登美子が「白百合の君」とかなんとか、「明星」の中で言われていたとかなんとか、(なんとかが多すぎる)、聞いたことがあるが、あと白藤の君ってのもいたよなぁ?確か。
そのとき思ったのが、私は白萩は嫌だわ、である。地味すぎね?
さすがに「白百合でっす!」と手をあげる勇気はないし、そんな自信もないが、白萩はちょっと・・・ではなかろうか?
となると、白がつく花、、、白薔薇?すみませんでした、ありえません。だいたい白薔薇は”白薔薇のプリンス”春日野八千代さんがいるから永遠の欠番だろうし。
白菊だとなんか葬式っぽいし、あと白い花って何がある?大根の花?遠慮する。いや、大根の花にも素朴なよさ、民藝感はあるけど、そっち方面目指してないし。
あとは白梅か。うーん、なんか良妻賢母感があるな、白梅には。私は違うと思う。
白木蓮もいいが、私はそういう感じでもない。うちの母親は白木蓮を思い出すところがあるが。母は背が高くて骨っぽいせいか、チャラチャラ感ゼロの樹木っぽいんだよね。
となると、なにが残っているかなぁ。選り好みした結果、シロツメクサ?それは嫌だ。私はカラーがいいかな。もはや「白」がついていないが、花は白いからいいだろう(もっとも白い花のように見えるところは仏炎苞(ぶつえんほう)というらしいが)。スッキリとした感じが好き。

って一生一人でやってろ!!な話題でしたな。

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03月21日

起床時刻:09時30分

「私の人生って無駄ばかりだったなァ」と思うようになってから、つまり中年を過ぎてから「無駄」についてよく考える。時間の無駄、金の無駄、資源の無駄。一方で「無駄」は豊かな生活の証であるようにも思う。かつて友人に「幸せを感じるのはいつ?」と聞かれたとき「無駄なことをしているとき」と答えたが、読書をしたり文章を書いたり、といった無駄な時間ほど楽しいことはない。何も生み出さない、無駄な時間。誰の役にもたたない無駄な時間。よほど楽しいと思わなきゃやらないだろう。

しかしこのような無駄な時間を持てるのは、ひとえに技術革新とそれがもたらした豊かさゆえだろう。もし洗濯機もスーパーマーケットもなければ、私は朝から晩まで洗濯をしたり、畑仕事をしたりしなければならず、とうてい読書のような無駄な時間も持てなかっただろう。紙が貴重品だったら日記も書けなかっただろう。
豊かさが無駄を許容し、無駄が豊かさを形づくるのだと思う。だから豊かさはまっすぐ幸福へとつながっている。無駄なことばかりできたのは言うまでもなく、それだけ生活に余裕があったからだ。

何を無駄とするのか。それは時代によって変わる。水資源が貴重な場合、風呂などは無駄でありこの上なく贅沢だった。しかし今の日本では風呂は贅沢ではなくなった。無駄の定義は結局それ自身が決めるのではない。環境によって決まる。あるいは未来によって決まる。
しかし一方で人間は何の目的も持たない行動(あるいは人生)に虚しさを感じるものでもある。人生などすべて無駄だと思いながら楽しむにはなかなか技術が必要なのである。

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03月20日(金)

起床時刻:07時30分

03月19日(木)

起床時刻:07時15分

弁当用にいなり寿司をつくった。
昨晩、お揚げを炊いておいて、今朝は酢飯をつくって詰めただけ。
初めておいなりさんを作ったんだけど、レシピにある砂糖や醤油の量にびびって、少な目にしてお揚げを煮たら、どうも味がボケてしまったので、お弁当には箸休めの佃煮と糠漬け(大根、きゅうり、にんじん)を多めにいれてみたwそれ以外は菜の花の辛し和えを入れて春らしく。

酢飯のほうは父がつくった葉ワサビの醤油づけを入れて、ピリリと辛いワサビいなりに。私は葉ワサビの入ったワサビいなりに目がなくて、昔、近くにいなり寿司専門店の「豆狸」があったときはそこのワサビいなりをよく買っていたのだった。

いやあ、おいなりさんって相当な量の砂糖を使うのね。全然ヘルシーじゃない。おいなりさんのレシピを探してぐぐっていたら、「ためしてガッテン」で「非常識?いなりずしを激ウマに変える裏ワザ」というのが取り上げられていた。

いなりずしというのは地域による好みの差があるけれど、「どの地域でも8~9割が「好き」答えた“究極のいなり”のヒントは、100年前の作り方」にあったそう。以下引用。

明治時代のいなりずしは「現代の味つけに比べ、酢飯の塩は2~3倍、油揚げの砂糖は20倍という、かなり濃い味つけが特徴です。ところが実際に食べてみると、意外にもおいしいという結果になったのです。

スタジオゲストに、この酢飯と油揚げを別々に食べてもらいました。すると、酢飯は「しょっぱい!」、油揚げは「あり得ない甘さ!」という答え。ところがこれをいなりずしにして両方一緒に食べると、絶妙なバランスが生まれるのです。

その理由は、複数の味(甘みと酸味、塩味と酸味など)が、お互いのもち味をやわらげ、バランスのいい味になる「味の抑制効果」にありました。この明治のいなりをヒントにして、今回ガッテンが生み出したのが、「究極のいなり」なのです。

これで、一般的な作り方では「そこそこのいなり」になってしまう理由も説明できます。油揚げ(砂糖の甘味、しょうゆの塩味)に、酢飯(酢の酸味、塩の塩味、砂糖の甘味)が加わっても、「酸味vs.甘味」「酸味vs.塩味」の抑制効果で、甘味だけが強くなり、甘すぎたり、ボヤッとした味になりがちだったのです。

一方、「究極のいなり」は、油揚げ(砂糖の甘味、しょうゆの塩味)に、酢飯(塩の塩味、酢の酸味)が加わったときに、「甘味」「酸味」「塩味」がほどよいバランスになっていたのです。

「そこそこのいなり」を「究極のいなり」にするには、酢飯に砂糖を入れないことだけです!」

衝撃的(明治のいなりが)だったので長々と引用したけれど、レシピも載っているので、今度はガッテン流でつくろうかな。。。

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03月18日(水)

起床時刻:07時15分

『ヒトラーと哲学者』の続き。
本書は非常に伝記的、ジャーナリスティックに描かれていて、スポットライトを当てられた個々人の生き方や人物像はわかるものの、彼らの思想についてはほとんど触れていない。個人的には彼らの哲学思想がどうナチズムと結びついたかが知りたい。例えばアドルノはハイデガーの哲学では「<本来性>は、衰弱の意識を慰めてくれるとされるわけだが、にもかかわらず、やはり衰弱に類似している」という。どういう意味か説明してほしいw
あるいは「近年、勇気ある批評家」による「シュミットの反ユダヤ主義はその著作の核心部分にある」とはどういうことか。

しかしまぁ、実際のところは順序が逆なんだろう。
つまり彼らの感情や印象、直観があって、そこに理論なり哲学なりを後付でくっつけるのが、学者のやることなのだ。というか、私ら一般人もそうしている。
だから万巻の書を読もうが多種多様な人と議論をしようが、自分の考えを補強するにとどまるだけで、考えをドラスティックに変えたり、自分の見聞が広がったり、ということはないのだ。いわゆる認知バイアスだ。私たちは誰もが見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞く傾向にある。そこにうまいこと理論をくっつけるのが学者先生なのだろう。

著者は「哲学は<道徳学(モラルサイエンス)>の子孫である」から、ハイデガーやシュミットがナチスに加担したという不穏な事実を常に意識し続ける必要がある、という。
もちろん先人の犯した過ちを糾弾し続けること、死者に鞭打つことは、私たちの戒めのために必要であるが、結局のところ、モラルや何かのために、あるいはよりよい存在になるために哲学や芸術ができることは驚くほど少ない、と私は思う。いくら本を読もうが、それこそ「モラルサイエンス」に精通しようが屑は屑、と思う。この本を読めば特にそう思わざるを得ない(認知バイアス?w)。

また著者はエピローグでもし哲学は「倫理規範を示し得ないのなら、ではどの分野が為しえるというのか。ましてや、人類の統治形態のうちでもこの残虐極まるものを批判的に反省できないような人間の思考などに、どれほどの価値があるのか」と読者に問い、「気をつけなければ、謎めいた言葉が偏見を覆い隠し、さらにはヒトラー哲学の種子が次世代に繰り越される恐れがあるんではなかろうか」と結ぶ。

しかしこの言葉も問題を含んでいる。私たち誰もが、時代や空間の制約を受けている。未来の私たちはジョルダーノ・ブルーノの地動説を「偏見」だとし、火刑にした教会こそ間違っていたと知っている。まさに「偏見」にとらわれていたのは教会なのだが、しかし、当時にあって、どうやって地球が太陽の周りを回っていることを一般人が知ることができよう。
そしてカトリック教会にいたっては20世紀に入って「教皇ヨハネ・パウロ2世のもとで、ブルーノに対する裁判過程も再検証され、「処刑判決は不当であった」という判断が下された」(wiki)。どんだけ時間かかってんだよw

更にいうと、”不都合な真実”が正しかったとしたらどうなるのか。遺伝について研究がすすみ、人間というのは生まれたときからある程度、先天的な差異を持つ、そしてそれは教育によって全部が全部書き換えることはできない、ということが仮に明らかになったとしよう。そのような真実は属性による差別、例えば人種差別や性差別を助長するとして、「偏見だ」「ナチス的思想だ」と退けることが正しいのであろうか。

私はそれも誤りだと思うのである。ダーウィンの自然淘汰の理論がナチスを勢いづかせたという理由から「偏見である」というのが奇妙であるように。「ダーウィン自身は、社会政策は闘争とか自然における淘汰といった観念によって単純に進められるべきではなく、共感や同情はすべての人種や民族にまで広げられるべきだと主張した」(本書P87)が、当然のことだ。

「政治的な正しさ」によって学問や研究や思想をしばるのは、本質的に危ういとおもう。というのは、「政治的な正しさ」というものじたいが、時代や場所による制約を受けており、偏見なのかもしれないからだ。

一方で、それ以外の場所では「政治的な正しさ」を求めること、偏見をなくそうとする試み(歴史的な積み重ね)は、常に最大限考慮していくべきだと思う。少なくとも、我々には間違いの歴史、誤りの歴史、がある。いかに我々が凶暴で残虐で自己中心的で偏見に満ち、簡単に自己正当化し、実に忘れっぽいかを歴史は教えてくれている。
だから私たちは8月15日がくるごとに反省しなくてはいけない。死者を悼むと同時に鞭打つ必要がある。自分たちのために、だ。

「あそこで本を焼いているが、これは前触れにすぎない。最後は人間も焼いてしまうだろう」というハインリヒ・ハイネの言葉が本書で引用されている(P115)が、本を焼く人間は最後には人間も焼く、これは歴史から導ける数少ない法則だろう。

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03月17日(火)

起床時刻:07時15分

03月16日(月)

起床時刻:07時15分

親から送られてきた北海道のシシャモ。
子どものころ、子持ちシシャモがよく朝ごはんに出ていたが、ここ10年か20年はまったく食べていないかも。

同封されていた能書きによると、「現在、日本国内で消費されている「ししゃも」の96~98%はカペリン(通称カラフトししゃも)と言われるもので、ししゃもとは別の品種です。ししゃもは、北海道南東部の太平洋沿岸だけに生息しているものをいいます」
「最近は稀少資源となり、文字通りの伝説の魚になりつつあります」
そして送られてきたのは、十勝川を母川とする北海道は広尾前浜獲りの天然物でございます。

それを読んで、「うわー↑↑」とテンションが上がるというより、むしろ食べるのに気が引けてしまった。ニホンウナギに続いて絶滅危惧種に指定すべきなんじゃないか、という気になる。

シシャモとカラフトシシャモの違いが同封のパンフレットに図入りで説明されていた。
シシャモは「体長13センチ前後でうろこが大きい。カラフトシシャモより丸みがあり、口や目が大きく、脂びれが小さい」。
カラフトシシャモは「うろこがわからないくらい小さい。口や目が小さく、脂びれが大きい。キュウリウオ科の仲間であるが、シシャモとは区別される」
確かに、ふっくらとしたシシャモに比べてカラフトシシャモのほうがシュッとしているかもね。色もししゃもは少しオレンジがかっていて、カラフトシシャモは青っぽいような、、。

シシャモが北海道の太平洋沿岸にしかいない稀少な資源なら禁漁にして、「オホーツク海沿岸・樺太・カムチャッカ・北米太平洋北部と北極海など広く分布する」カラフトシシャモを輸入して食べればいいんじゃないかという気もする。

シシャモは水気をペーパータオルでふき、片栗粉をさっとまぶして、油で二度揚げした。魚嫌いの旦那に出すつもりはなかったが、ちょうど揚げているときに帰ってきたので、一応「シシャモ食べる?」と聞いたら、「食べる」というので、レモンを添えずに塩をふり(旦那はレモン嫌い)、3匹ほど出したら、無言で食べていた。へー。残りは全部私。レモンを添えて塩はなしで。

クセは全然ないので、揚げれば魚嫌いでも食べられるようだ(焼いたら食べなかったな、間違いなく。あとアジやサバなんかの青魚だとフライやから揚げにしても旦那は食べないんだが、ししゃもは臭みのないサケ科の白身魚だから食べられるんだろう)

いっくらでもシシャモ食べられるけど、稀少な資源ならば、食べないほうがいいんじゃ。。。やっぱり一抹の罪悪感が残るわ。。。

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03月15日

起床時刻:09時00分

『ヒトラーと哲学者』を引き続き読んでいる。
それにしても、ヴァーグナーとニーチェを愛する自称”哲人総統”ヒトラー以降は、学問や芸術の価値はとことん地に落ちたのではないか。ヒトラーは落第生で、ろくすっぽ勉強もできず、独学で哲学書を(最初のほうのページだけ)めくっただけだ、だから本物の学者ならあんな野蛮な思想にかぶれたりはしない、と言えたらどれだけよかったことか。

実際にはカール・シュミットやマルティン・ハイデガーといった「本物の学者」がナチに入党し、ナチの人種差別政策等を思想や理論面から補強しているのだ。学問や芸術に、豊かな感性を育むだの、人格を陶冶するだの、人間性を高めるだの、感受性を養うだの、そんな機能はないってことがはっきりしたのではないか。

いくら哲学書を読もうが、クラシック音楽を聞こうが、人間性や感性の向上には何の関係もない。残虐非道な政治、薄っぺらい自慰的思想、そして人種差別主義のお先棒をかついだのは、日本でいまだに何冊も翻訳が出ている「知の巨人」たちなのだ。

読みながらそう思い、ここにも途中で上のように書いた。
そうしたら「訳書あとがき」にジョージ・スタイナー『言語と沈黙』(由良君美訳)の次の一節が引用されていた。まるっきり私が書いていることと同じである(のだが、それを格調高くずっと上手に書いている)。

「われわれは<あとに>きた。人間というものは、夕べにゲーテやリルケを読み、バッハやシューベルトを演奏しながら、朝(あした)にはアウシュヴィッツで一日の業務につくことができるものであることを、<あとに>きたわれわれは知ってしまった。そんなことができる人間は、ゲーテ読みのゲーテ知らずだとか、そんな人間の耳は節穴も同然だとか、逃げ口上をいうのは偽善である。こういう事実を知ってしまったということ- このことは、いったい文学や社会とどういうかかわりをもつのか。プラトンの時代、マシュー・アーノルドの時代このかた、ほとんど公理になっているあの希望 ―≪教養は人間を人間らしくする力である≫、≪精神のエネルギーは高位のエネルギーに転ずることができる≫という希望は、<あとに>きたために知ってしまったこの事実と、いったいどういうかかわりをもつのか。さらにいえば、規制の文明伝達機関(メディア)-大学・学芸・書物の世界- は、政治的野獣性にたいして適切な抵抗をすることができなかったというわけではない。これらの機関が、しばしば、政治的野獣性を歓迎し、儀式を行い、弁護までしたのだ。なぜであろうか。」

「この暗黒の蛮行は、ゴビ砂漠から発生したものでも、アマゾンの雨の密林から発生したものでもなかった。じつに、ヨーロッパ文明の内部から、ヨーロッパ文明の核心から立ち現われたのである。」

芸術教育のお題目にいまだに「豊かな感性を育む」などというのを見ると、頭を抱えずにはいられない。

ゲーテやリルケ、シューベルトも漫画やラノベ、アニメ音楽と本質的には変わらない。ただ単に楽しむためだけに存在するのだ。誰もアニメなんぞに「人格を陶冶する」機能なんぞ求めていないだろう(日本の場合、そうでもないところがびっくりするが)。単なる娯楽なのだ。

だから無駄なのだが、逆にいうと無駄なのに存在しているのはそのもの、それ自体に価値があるからだ。「役に立たないもの」を排除し、ありとあらゆるものに何らかの効用を期待する、それは痩せ細った貧しい精神そのものだ。
かつて、竹中平蔵がその著書でシェイクスピアを読むのは、世界のエスタブリッシュメントと対等に付き合うためだ、というようなこと(うろ覚え)と書いていたが、まさに精神の貧困さを表している。こういう人はシェイクスピアがエスタブリッシュメントの必須教養でなくなったら真っ先に放り出すのだ。まさにスノビズム。対象それ自体の価値ではなく、それに付随する記号的価値にのみ、重きを置く(あるいは記号的価値、つまりブランド力しか理解できない)のがスノビズムだと私は思うが、教養を求める人たちはどうしてもスノッブかつ権威主義と親和的だ。なぜなら、どこかの権威が認めたカノンをまず受け入れる(とりあえず手にとってみる、聞いてみる、弾いてみる)ことから、教養というものは始まるので、本質的に自主独立の精神や反骨精神とは相いれないものなのだ。

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03月14日

起床時刻:10時30分

「残虐さこそ力の源なのだと、ヒトラーは確信していた。後年こう述べている。

路上でなぐりあいがあるとき人が集まってくるのを見たことがあるかね。残虐さには敬意が払われる。残虐と腕力。路上に集まる単純な人間は、腕力にしか敬意を払わないのだ。まさに無慈悲さについては、女、もっと言うなら、女と小共だ。連中は癒しとなる恐怖を欲する。何かを恐れたいのだ。おびえながら、だれかに服従することを欲している。<ボクシング・マッチ>のあとでは、どこでも、傷つけられた連中こそ、最初に入党したという事実を、諸君は経験しなかったかね <以下略>」
(『ヒトラーと哲学者』イヴォンヌ・シェラット。上記はラウシュニングからの引用。ラウシュニングの描くヒトラー像は疑わしいとされているらしいが、著者は「私のラウシュニングからの引用は、総統の性格を再現するという意味では、トレヴァ=ローバーが保証しているMartin Bormannの証言など矛盾しない」)

ヒトラーは暴力をふるう父親と愛情深い母親に育てられた。父親に殴打されながら、暴力は建設的なものだという思想を子供のころから育んでいた。そうだろう、暴力は人を従わせる。暴力をふるう人間は恐れられ、敬われ、そして愛されもする。女、つまり母親と、子供である自分はまさにそうなのだ。母親にいたっては暴力をふるう父親とベッドをともにするのである。

この思想はヒトラーに特有のものではない。しつけと称して暴力を認める家庭でも共通の、ありふれた考え方だ。よほど自覚的ではない限り、親から子へ、子から孫へ、暴力は伝わる。

そもそも、暴力的な男ほど多く子孫を残しているのであり(『アダムの呪い』(ブライアン・サイクス)によれば、現在1600万人もの男性がチンギスハーンのY染色体を受け継いでいるそうな。「彼の軍事作戦は、彼のY染色体にとっても理想的な繁栄の機会となった。当時の記録によれば、打ち負かした敵の領土での略奪行為は、チンギスハーンの許可が下りてはじめて開始されたらしい。そのあとは、どの階級の人間にも同等の特権が与えられた-ひとつの重要な例外をのぞいては。美しい女性はすべてチンギスハーンに引きわたさなければならなかったのだ。彼のかかりつけの医師までが〝ときには〟ひとりで寝たほうがいい、と助言したくらい、チンギスハーンは精力に満ちあふれていたらしい。」「現在、各地域に広まるこのY染色体が、過去千年のあいだにひとりの男性に端を発していることは、疑いの余地がない。そのうえ、チンギスハーンが亡くなったときのモンゴル帝国の領域にぴったり一致する場所から見つかっている」)、もって生まれた暴力嗜好性が男にはあるのかもしれないし、その男の暴力嗜好性を女が増長させている(チンギス・ハンからヒトラーの父親まで)のかもしれない。

そういったことを考えるにつけ、私は子供を持たなくてよかったと思う。私自身は両親に一度も手を挙げられたことはないし、自分だって暴力をふるったりしたことはないが。

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03月13日(金)

起床時刻:07時30分

「死ぬときは箸置くやうに草の花」(小川軽舟)というようにありたいものだが、そうはいかんのだろうなぁ。
死神が「寿命ですよ」とやってきたときに「そっと箸を置く」ことができればいいが、「ちょっと待って!まだステーキが残ってんの!後で食べようと思って、残してたの!」とジタバタする可能性もある。
その一方で延命治療の発展によって、そっと箸を置いた後も、食事のテーブルに括り付けられる可能性もある。「もういらん」というのに、胃瘻だの点滴だので食事を流し込まれるのだ。
あるいは食事をしたのかわからない、箸すらわからなくなっても、ひたすら口を動かし続けているのかもしれない。

「おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は」(齋藤史)
のちのちから見れば、40前後の今など人生のピークなんだろうかなぁ。体のどこも痛くもなく、悪いところもなく、仕事もあって、気力も充実し(あとから見ればよw)、何の不安もないとき。あのとき、何をしてたんだろう、私は。などと思い返すのか。答えはグラブルやってましたッ。ケルベロスの召喚石がエクストリームで二回続けて出た、これはラッキー。

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03月12日(木)

起床時刻:07時30分

実家からセリ、シイタケが送られてきた。いずれも「木の花ガルテン」で100円。3/8に出荷されたものだが、新鮮だった。

セリはさっそくセリご飯に。シイタケは石づきをとったところに、マヨネーズを入れて焼き目がつくまでグリルでこんがりと焼く。それと残り物の鶏もも肉の照り焼きと新ゴボウを煮たのを入れて今日のお弁当のできあがり。七味をちょっとふってアクセントに。

わーお、年寄り向けのショボくってマズそうな献立!
と夫に言われるのはわかっているので、上の弁当は私だけ。
私一人で、照り焼きもセリご飯もゴボウも食べる(シイタケは旦那も食べられるので、夕飯に出した)。

食事一つとっても、他人と暮らすのは難しいよね。そういや先月、曽野綾子が
「<略>外国人を理解するために、居住を共にすることは至難の業だ。もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」
と書いて炎上したっけ。

曽野綾子が馬鹿なのは昔からだから驚きもしないが、違う価値観・ライフスタイル・趣味嗜好の人間と居住をともにすることが至難の業であることは事実である。曽野綾子のように同じ人種ならば同じ価値観で同じライフスタイルで同じ趣味嗜好である、と思えるような雑駁で粗忽なつくりの精神の持ち主ならともかく、私に言わせれば人種や国籍にかかわらずほとんどの人とは居住をともにすることは至難の業なのだ。

世代が異なり、性別が異なり、出身地域、文化的バックグラウンドが異なれば、当然価値観やライフスタイル・趣味嗜好は変わってくる。"The past is a foreign country: they do things differently there"という言葉があるように、世代の違いは出身国の違いのようなもので、 違う世代が「居住を共にすることは至難の業だ」という結論になろう。三世代同居なんてとんでもない!それどころか、居住区だって「老人地区」と「若者地区」でわけたほうがいい、と言ったとしたら、曽野綾子ならばきっと同意してくれるだろう。もちろん、私は曽野綾子とは違うから反対だが。曽野綾子とか石原慎太郎とかを「老害特別地区」に押し込めるというのは魅力的な思想かもしれないが、やはり反対だ。言うまでもなく、どこに住もうと個人の自由である。

更に曽野綾子思想を推し進めれば、家族を解体すべき、ということになるであろう。違う世代、違う価値観の人間が集まって一つ地域どころか、一つ屋根の下で暮らしてコンフリクトが起きないわけがない。日本では家庭内の殺人が全殺人の過半を超えることからもわかるように、一番身近で、一番よく見知った人間とでも、他人と居住をともにすることは「至難の業」なのだ。家族を解体することが犯罪抑制にもつながる。きっと曽野綾子は同意してくれるだろう。

一番いいのは、カプセルホテルのようなところで、一人一人生活することだ。完全防音・防臭の小部屋で一人一人個別に生活する。無駄に広い土地もいらないし、なんといってもエコロジカルだ。
もちろん、他人との接触は最小限に抑える(たとえばロビーに暇な人間がたむろしないように、そういう空間はなくす)。家族などというのは諍いのもとだからつくらない。
そうすれば多様な人間が暮らすことのコンフリクトを最小限に抑えることができる。きっと曽野綾子も同意してくれるだろう。

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03月11日(水)

起床時刻:07時30分

やっとビリジアン、という単語を思い出した。
昨日からずっと、アレは何ていうんだっけな、と考えていたのだ。
昨日、会社に行く途中に見かけた神社の、ツヤツヤした椿の葉っぱ、あの色は絵具に入っていた緑色そのものだナ、何ていうんだっけ、ほら、黄色や水色といった名前が並ぶ絵具の中で異彩を放っていたあの色の名前は、ベジタリアンじゃなし、なんだっけ、そういや「肌色」なんていう名前の絵具もあったな、今だったら大問題な名前だよ、などと思案しながら、会社に行き、そして帰ってきて、今日行きがけにふっと思い出したのだ。
どんだけ脳の回線のつながりが悪いんだ。

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03月10日(火)

起床時刻:07時30分

『桜が創った「日本」』(岩波新書/佐藤俊樹)を読んだ。
本書の中に私がつい先日読んだ『白菜のなぞ』出てきて、なんかうれしかったね。以上。

じゃあ、あんまりなので、ちょいと書くと、ソメイヨシノは幕末から明治の初めごろに、東京(江戸)の染井周辺から各地に広がった。ソメイヨシノの起源に関して確実にいえるのはそれだけなんだとさ。

ところで世の中には反ソメイヨシノ派もいる。そういう人はたいていヤマザクラ派だが、しかし彼らもまた、ソメイヨシノ革命によってつくられた伝統にとらわれている、という。

ソメイヨシノを人工・東京・新しさ・無個性・軍隊の象徴としてとらえ、一方のヤマザクラを自然・吉野・旧さ・個性・文学芸術の象徴としてとらえる二項対立の図式は、単純化しすぎで、ソメイヨシノ以前をヤマザクラに代表させること自体、「ソメイヨシノ的感性」の産物なんだと。P7の桜の自生種の分布図をよーくごらんなさい、ということだ。ヤマザクラは寒さと潮風に弱いから、そういうとこ(たとえば江戸とか)はヤマザクラよりオオシマザクラが江戸の昔から植えられていたし、長野はエドヒガンが目立つ。あの桜の名所、角館もエドヒガン系で、だいたい東北の名所はエドヒガン系が多いらしい。

したがって「ポッと出の派手なソメイヨシノなど品がない、ヤマザクラの楚々とした美しさこそを日本人は愛してきたのである」的な発言も陳腐でバカな発言の見本としてとりあげられているw
「w」をつけているが、私がしそうな発言だよw あっぶねぇw
いや、別にソメイヨシノについてはどうも思わないが(著者みたいに「私たちはソメイヨシノに深い不気味さや気持ち悪さを感じる」こともない。勝手に「たち」にしないでよねっ。ていうか、ソメイヨシノが咲いているのを見ても「きれいだナー」としか思わんのは感性が貧困なんだろうか)。

だいたい吉野の山のサクラだって、せいぜいが樹齢70~80年ぐらいで、というのも吉野の桜が本格的に整備されたのは明治20年代後半なんである。戦前のガイドブックや町史にはその理由を「里人の濫伐」と書かれているのだが、それも語られなくなる。吉野の里の整備が始まったころは普通にソメイヨシノも植えられていたそうだ。
吉野の山の旧さが強調され出したのはそんなに古いことではなく、吉野はよくある名所の一つで、ふつーに小金井あたりと比べられていたのである(今だったら恐れ多くて怒られっちまうだろう。何しろ吉野の花を見ずして桜を語るなかれ、みたいな雰囲気があるもんなw)。
『櫻史』の山田孝雄は明治29年に初めて吉野山を訪れたとき「エ?意外にしょぼくね?」とは言っていないが要するにそういう印象を持ったようである。

語り方が変わるのは昭和10年前後で、それ以前のナショナリズム(一応、”科学”の衣を身にまとったナショナリズム。例えば伊藤銀月のようにポジティブフィードバック理論から桜に国民性をみるような理論)と、精神論から導く桜のナショナリズムは、見かけの上では似ていても中身というか、構造がだいぶ違う。引用しよう。

「精神論はすべてを精神の流出の結果だとする。だから、精神にあたるものが時間的にも先行する。旧いものほど精神が純粋な形で現れるとして、旧さに特別な意味価をあたえる。目に見える桜の向こうに<日本>を見出すことは同じでも、この点で、ナショナリズムの科学と桜の精神論は大きくちがう。前者の「起源」は論理的な原因であるのに対して、後者での「起源」は論理を超えて、時間的な始まりへすべてを還元する。
こうして桜の精神論はヤマザクラを始源の桜として再発見する。ヤマザクラの旧さに(それが文献の上で旧いのかそれとも実際に旧いのかを問わずに)桜らしさ=日本らしさの最も純粋な姿を見出す。さらに旧ければそれだけ人間の手が関わっていないわけだから、それは最も自然に近い。桜らしさ=自然=日本らしさという図式が、ここにできあがる」

ソメイヨシノは、著者が語るよう、桜のイデアを体現したような花(それに加えて成長が早く安価で育てやすい)だからこんなにも急速に広まったのだ。「紀貫之はソメイヨシノを見てサクラの歌を詠んだのではないッ」というにせよ、いかにもそれっぽいじゃん?

まぁどっちにしろ、桜語りをするんなら、この本はまず読んどけ、となるだろう。その上で語る勇気、というか、語るべき何かがあるとは思えないがwちなみに著者は桜はなんでも好きらしいが、あえていえばオオシマザクラ派らしいぞw

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03月09日(月)

起床時刻:07時15分

昨日見た映画『小さいおうち』(戦前の西東京のモダンな中産階級の女中だったタキの回想話)だが、これを見るとつくづく「洗濯機はインターネットよりも世界を変えた」ということがわかる。あ、これはハジュン・チャン氏の『世界経済を破綻させる23の嘘』(徳間書店/23 things they don't tell you about capitalism)からの引用ね。

『小さいおうち』を見るとわかるが、「奥様」は女中のタキちゃんと一緒に家事をやっていて、「奥様」というか、女中頭みたいなもんなのである。要するに二人がかりで朝から晩まで家事をしている。
チャン教授は言う。経済が発展するにつれ、人々が提供するサービスは物品よりも早い速度で高くなるので、メイドを雇うことが贅沢になる。だから経済発展段階の低い国(ブラジルやエジプト)や時代(かつての日本や欧米)ではメイドを雇う率が高い。

しかしそれだけではない。”人々”と”物品”の変動具合がどうであれ、洗濯機に代表される「家事テクノロジーの出現がなければ、富裕国も前世紀にあれほど劇的な家事労働者の激減を経験しなかったはずである」(1870年代のアメリカでは働いて賃金を得ていた者のうち8%が家事労働従事者だった(これは現在のエジプトやブラジルと同じくらい))。「1870年代に雇用されていた女性の約50%が家事労働者かウェイトレスだった」。
畢竟誰かが洗濯をしなくちゃいけないのだ。洗濯機がなければそれは当然女がやるのである。

「電気、水道、ガスに加えて、家電製品が出現すると、女性ひいては男性の生活様式は変革された。以前よりもはるかに多い女性が、労働市場に参加できるようになったのである」
「女性の労働市場への参加が多くなるにつれ、家庭と社会での女性の地位も高まり、就ける職の幅も広がって、女性の教育への投資も増加し、それがまたさらに働く女性の数を増やした。たとえ家庭にとどまって育児に専念する道を選んでも、高等教育を受けていれば、家庭での地位は昔よりも高まった。夫と別れることになっても、自分で食べていけるから平気だ、という脅しが現実味を帯びるようになったからだ」

ま、現実はもっと苦く、複雑ではあるが。

しかし、それはそれとして、洗濯機に代表される家事テクノロジーが、女性の地位を向上せしめた大きな原因であることは間違いない。「インターネットより大きく世界を変えた」かどうかは議論の余地はあろうが、女性に関していえば、家電およびそれが使えるインフラ整備のほうがはるかに大きなインパクトがあっただろう、と思う。ネットはあるが家電の一切ない世界とインターネットはあるが家電の一切ない世界、どっちを選ぶ?と聞かれれば確実に後者だ。どっちにしろ家電やインフラ設備がなけりゃ、女にネットをする時間なんぞない。洗濯、まき割り、水汲み、買い出し、飯炊き、風呂焚きといったことで一日が終わるだろう。

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03月08日

起床時刻:10時00分

録画しておいた『小さいおうち』を見た(原作未読)。途中からだけど(たまたまテレビをつけたらやっていたんで)、期待以上に面白かった。
(以下、完全ネタバレ)

『アベンジャーズ』みたいに万人受けするとは思わないからおすすめはしないが、いい意味で紙芝居っぽく、おとぎ話っぽい。ま、中身は人妻の不倫話なんで、「どんなおとぎ話だよ?」だがw

舞台は戦前の中産階級、人妻(松たか子)のよろめきに加えて、女中のタキちゃんが奥様である松たか子に横恋慕するわけだが(推測)、特にドロドロすることもない。というのも戦争ですべてが終わるからね。おとぎ話ってさ、ドロドロしたとこ全部、live happily ever afterでカットするでしょ。シンデレラだって身分違いの結婚もいいところで、義理のお母さんとの生活大変だよ。社長令嬢の美智子皇后だって民間出身というのでいじめられたと聞く。シンデレラなんて、どんだけいじめられるんだよ。つまり「シンデレラ」の第二幕は「渡る世間は鬼ばかり」なんだが、そこは全部、カットなんだ。
たぶん、シンデレラは早々に死んだんじゃないか。そして、王子さまは「シンデレラを忘れられない」といって一生独身を貫く。男が死んだ女に操をたてて一生独身、母親である后がヤイノヤイノ言っても、決して嫁などもらわない。第二幕で泉ピン子を出さずに「純愛」物語にするためにはこうするしかない。

この『小さいおうち』に話を戻すと、奥様は弘前出身の若い芸術家肌の優男・板倉(吉岡秀隆)を好きになるのだが、彼は戦争にとられ、離れ離れになってしまう。そうこうするうち、東京大空襲で「小さいおうち」も焼け、奥様も旦那様も死んでしまう。戦争から生きてかえってきた板倉は画家として成功するが、死んだ奥さんに操をたてて一生独身を貫く。

なんつうおとぎ話だ。道具立てとして「戦争」を持ってきて「文句あっか」の悲劇の完成である。しかし、冷静に考えれば戦時中でなくたって、現代でもこういう話はどこでも転がっている。不倫相手の板倉が弘前の実家の酒屋を継ぐっていうんで青森に帰り、離れ離れになったとして泣ける?「まぁ潮時でしょうよ」としたり顔で呟くぐらいだろう。
奥さんは奥さんで、戦争でだんだん贅沢ができなくなってきて、生活も苦しくなっていく。戦争による悲劇、というわけだ。しかし、これだって旦那さんのIT企業が破産し、奥さんともども夜逃げという話でも同じ結果になる。その後、奥様がパートに出たところで、かつての女中だったタキにばったり!しかも仕事に不慣れな奥様は何かとタキにいびられるのであった。。。
これが本物の悲劇だよッ。

映画の中、老女になったタキが「長生きしすぎたのよおおう」といって号泣していたが、タキは死なずに純愛物語の第二幕「リアルドロドロ物語」に長々と出演し、ウンザリしてたんだろう。

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03月07日

起床時刻:10時30分

過去の自分の日記を読み返していたら、あまりにも面白くて読みふけってしまい、歯医者の定期検診の時間に遅れるという失態。
どれもこれも「うんうん」とうなづけることばかりで、一から十まで意見があう。ってそりゃそうだ、私が書いたんだもん。

'I never travel without my diary. One should always have something sensational to read in the train.'とはオスカー・ワイルドの言葉だが、それを引用するのはいくらなんでも図々しいにせよ、大なり小なり、人間は自分のことに一番興味がある。
だから、例えば夢日記なんて他人のものは読めたもんじゃないが(夢の話ってこの世でいちばん興ざめなんだ。週刊誌のゴシップ記事のオチが全部「・・・という夢をみました」だったことを想定してみよ。「女優のxxと俳優の○○が離婚?!・・・という夢を見ました」とか、興ざめもいいところだろう。もっとも幸福の科学は堂々と「・・・と守護霊が言ってました」という夢オチならぬ守護霊オチで記事どころか本までだしてるけどな)、自分が見た夢の話は面白い。さらにその夢から自分の性格診断だの、自分の運命予測だのまでして、どんだけ自分びいきなんだよ。

ツイッターやブログがこんなに流行るのも、自分という一番興味深い相手と、対話ができるからなんだろうなぁ。自分との対話、なんていうと、妙に深い感じがするけれど、自分の考えをもう一人の自分が面白がってんだろうね。ツイッターの呟きも、「あ、面白いこと私考えた」と思うから記録するのであって。「そうじゃないよ」っていう人はどうせ面白くないツイートしかしていないので「あなたはそうでしょう」と答えるとして、多少なりとも発信したり、記録に残すというアクションに価値を感じるのは、自分の考えが「あ、面白い」ともう一人の自分が思うからだろう。

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03月06日(金)

起床時刻:07時30分

友人からのメール。「ひとつ聞いていい?最近メールくれないけど、どうして?」だって。アンタは私の彼女かよwww

世の中の人はこういうメールを貰ったらどう返すんですかね。
「いや、まぁ忙しくて最近」みたいなことを書いたら「ほんとにそれだけ?」と来たもんだ。

人の心というものは移ろいやすく、変化や刺激を求めるようにできている。また人によって、刺激の受けとり方が違う。梅の花を何時間でも面白く眺められる人もいれば、3分も見れば飽きて他のものを探す人もいる。同じバイオリズムの人となら、同じぐらいのタイミングで飽きるからトラブルにもならないが、違うバイオリズムだと「もっと梅の花を見ていたい」「いや、もう飽きた」という風に諍いになる。

私はおそらく後者で、常に強い刺激を求めたがるほうなのかもしれない。
世の中には縁側でお茶して、世間話してほっこり、みたいなのが好きなタイプもいれば、私のように「もう飽きた」とばかりに勝手に本を読みだすような人もいる。大事なのは相手に問題があるのではない、非があるのではない、ということだ。「そりゃもちろん、あなたに非があるんですからね!」と非難されそうだが、それもそうではない。義務で人付き合いなど、なんでしなきゃいけないんだ、親戚じゃあるまいし。一緒にいて退屈と思った場合、別の興味関心をひくことに時間を割くのは人生が有限だから仕方ないわけよ。退屈であることや退屈と思うことを責めたってしょうがない。単にバイオリズムが違うだけで、仕方ないんだ、と思ったほうが精神衛生上お互いいいだろうと思う。

などと余裕綽々な調子で書けるのも、私が今まで一度も、誰かにふられるとか浮気をされるとか冷たくされるとか、そういう目にあったことがないからだろう。あるいは、そういう目にあっても気づいてなかったのかもしれないがw うん、その可能性が高いなwww 私の場合、基本的に自分のことしか考えていないから、誰かに嫌われたり冷たくされても気づかなそうwww

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03月05日(木)

起床時刻:07時30分

残業。くっだらない仕事。
AとBが一致しているかどうか、一つ一つチェックするっていう仕事なんだけど、ほんとこういうの、コンピュータだったら一瞬でできるのに、人間というのは欠陥コンピュータ、劣化した機械だから、蛍光ペンでチェックを入れながら、ぶざまに時間をかけて一個一個見ていくわけだ。

「それも大切な仕事よ」ってきっと世の中の良識派は言うんだろうけど、ハァ?大切な仕事かもしれないが、ただのクソ仕事だ。やりがいなんかゼロのクソ仕事だ。ATMのやっている現金の払い出しにやりがいを見出すようなものだ。ATMに「やりがいのある仕事ですね!」っていう人はいないだろう。

でも、ATMができる前は人間がお金を窓口で数えて渡していたのだ。人間は欠陥機械だから、ATMと違って間違えるかもしれない。でも間違えてはいけないのだ。
間違えないこと、素早いこと、それしか求められないのがたいていの仕事だ。それを劣化機械、欠陥機械が、「注意力」という奥義を発動して、頑張ってやっているのだ。頭は使わないが、ものすごく気がつかれる。だから仕事ってのはクソ疲れるのだ。

そもそも人間は生まれながらに頭は使いたがるようにできている。いろんな、どうでもいいことを知りたがる。子供の溢れる好奇心を見よ。
一方でたいていの仕事、とりわけ非正規の仕事には好奇心など無用で、「言われたことを間違いなく実行すること」だけが求められる。これは後天的に身に着けたスキルを総動員する必要がある。
集団生活の中で後天的に身につけたものが、気遣いであり、敬語であり、注意力であり、指さし確認であり、メモをとって復唱することであり、ダブルチェックである。どこの子供がお母さんのいうことを復唱したり、メモをとったりするだろうか?

だいたい人間の仕事なんか、全部機械がやれるようになるまでのつなぎでしかなかろう。機械を設計する仕事は人間しかできないし、より必要とされ、高給にもなっていくだろうが、それ以外のほとんどの仕事は機械に任せたほうがよほどいいだろう。

だってATM競争して人間が機械に勝てるわけないじゃん。料理の給仕にせよ、機械なら注文を間違えないし、落としもしないし。介護にせよ、機械なら腰が悪くなることもない。私のやっている事務仕事なんか、それこそ機械で全部できちゃう。かつては「経験」というものが大きな力になったが(まぁ今でもそれはそうなんだけど)、コンピュータは膨大なデータベースを参照し、ありとあらゆる過去の知見をまとめ、最適な解を出すことができる。「このケースの場合は過去はこう対応しました」というのが官僚仕事だとしたら機械でもすぐに代替できるし、その先の過去を踏まえたうえで、新しいディシジョンメイキングをするのは、官僚も機械も難しいものの、人工知能なら可能だろう。

つまり、ほとんど全部のサービス業は人間という劣化機械がやっているつなぎ仕事、つまり機械さまが全部こなすようになるまでのつなぎなのだ。もっとも、人間のほうが機械さまより労働力として安いってことが大きなアドバンテージがあるわけだけれども、これだってどうなるかわからない。

などということを考えて、さぼってたわけです。うん、サボるなんてことは人間しかできないだろう。

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03月04日(水)

起床時刻:07時30分

見かけは中年でもココロは思春期なんだよッ。
昨日までロックを聴いていたような人が「もう60だから」つって、いきなり演歌を聴くようになるかね。中身の成熟なんてね、つーっと右肩あがりに一律に誰でも成熟するわけじゃない。xに年齢を入れたら、成熟度yが出てくるような方程式じゃないんだ、人間の心は。身体の老化のほうはともかく。

この一律にすすむ外見の老化といっこうにすすまない中身の成熟、というギャップが悲劇を生んでいるんだよなぁ。どこからどうみても見かけはおばさんなのに、中身は十代って、私のことなんだが、不気味そのものだろう。だから旦那に「もうおばさんなのに」「おばさんなんだから」と非難されるわけだ。もし私の見かけが十八歳なら全然許されるのに(実際許されていたのに)。

おばさんというのは、口八丁手八丁で、世話好きで、若い子が散らかした後を片付けてまわり(「あらあらこんなに散らかして」とかいいつつ)、世間慣れしていて、冠婚葬祭に通じていて、ボタンつけがうまく、てんぷらを上手に揚げることができ、知らない人とも世間話ができ、電話の受け答えも如才なく、一を聞いて十を知り、常に控えめで、決して出しゃばらず、人をたて、空気読む力は人一倍あって、人間関係に通じ、人の気分を害することは言わない。それがどうも世間の考えるオバサンみたいなんだよね。ハードルたけぇな、おい。

でも早起き生活にはこういうスーパーおばさんが、いっぱいいる気がする。。。私の中ではyakkoさんが浮かんでいるのだが。

私が自分を未熟だと思うのは、例えば自意識の過剰さね。「おばさんなんだから誰も見ねえよ」と言われもし、自分で思いもするのだが、いまだに何かにつけ自意識過剰。劣等感も自尊心も過剰に強い。子育ても介護もしていないからか、自分のことばかり関心があるし、自分のことばかりを考えている。自我が肥大化したままなのだ。
そんなわけで、私の中身はいまだ中学生レベルなんだが、周りの人は私の外見からして「成熟したオバサン」と判断し、そういう接し方をする。人間は思考の省エネのために他人を属性や外見で判断し、行動せざるを得ないからだ。リンゴはリンゴの味がして、トマトはトマトの味がすると想定して買い物するようなものだ。なのに、リンゴなのにフキノトウ味がしたら、誰しも不安になる。そして自分を不安にさせるような調和を乱す人間のことを、人間は嫌いなのだ。

というわけで、私はどうせみんなに嫌われるので、人と接触したくないのだよ!!(←ここあたりがもう中学生だよねw)。

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03月03日(火)

起床時刻:07時30分

雛祭りの料理とかけて新聞ととく、その心はどちらもちらしが入ってます。
なーんてね。

全然期待しないで読んだ『白菜のなぞ』(板倉聖宣/平凡社ライブラリー)が予想外に面白かった。勉強になった。雑学というだけではなく、物の考え方を一つ、教えられた気がする。

触りだけ書いておくと、白菜ってのが日本に伝来したのは意外に新しくて明治時代らしい。お隣の中国、韓国に白菜があるのに、なぜ日本では明治になるまで栽培されなかったのか。この謎に対して3つの仮説が提示される。
①日本人そもそも白菜の存在を知らなかった。
②日本人は元来白菜が嫌いだった。
③色々な障害(持ち出し禁止等。綿花はそうであった)があり、取り入れたかったが取り入れられなかった。

さて、どれでしょう?私は③だと思った。サツマイモが薩摩から持ち出し禁止だったりしたように、人間ってケチで自分勝手にできているから、有用な作物などは人に教えないんだよ。って思ったんだね。ま、私の歴史観というか、人間観がよく出ているわけですがw
答えは本書に書かれています。簡単な読み物なのに、当時の文献資料をよくあたっていて、説明に説得力がある。そっかあ、その見方はしなかったなぁ、と感心して、「謎解き」としてよくできている。

余談だけれど、本書の最初のほうで、現在(2000年)、日本人がもっとも食べている野菜として大根、ついでキャベツ、玉ねぎ、白菜と出てくるのだけれど、これは生産量の重量に基づいている。うーん、重量でみたらそりゃ大根だろう。もやしとかシイタケとか軽い野菜は超不利だ。カロリーでいえば芋の圧勝な気がするし。個人的には家計の支出金額でみるのがいいような気がするが、どうなんだろう。その場合、大根は一位から転落すると予想。
よーするに「よく食べている」と一言でいっても、どの基準でみるのかで結果は変わってくる。

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03月02日(月)

起床時刻:07時30分

ガチャ課金はしないといったな、あれは嘘だ。

私は今グラブルをやっていて、毎日一回ガチャ(初回90円、二回目以降300円)を引いている。月末月初にかけてはレジェフェス(パズドラのゴッドフェスのようなもの)があり、SSRの出現率がアップしている(3%が6%だったかな)というので、いつもはひかない10連ガチャ(3000円)も引いた。それに加えてゲーム内でもらえるアイテム(ガチャをひくのに使える)を貯めておいたのも使って、そうだなぁ、10連ガチャを5回くらいまわしたかな。あとは単発のSR以上確定チケットとかも使って(6枚くらい)。それでSSRキャラは一人だよッ。SRが四人、あとはRの雑魚どもであった。キャラじゃなくて召喚石もあったけれど。

「グラブルは無料でも楽しめます」と言う人もいるようだ。ストーリー上ゲーム内で無料で配布されるまぁまぁ強いキャラがあるから。でも、それって、明日の雛祭りの雛人形(雛壇)に例えるならば、三人官女だけは無料でもらえます、てなもんなんだよなぁ。いやこれだけもらっても、でしょ。悪くはないが、これだけじゃちょっとパーティメンバーが貧相すぎるじゃん。

「楽しい雛祭り」という歌も課金しなきゃはじまらんだろう。
「灯りをつけましょ 課金して
お花をあげましょ 課金して
五人囃子も 課金して
今日は楽しい雛祭り」
となるわけで、雛祭りだって課金というか、お金を出さなきゃ何もないし、楽しくもない。今思ったが、何だろうこの「楽しい雛祭り」って歌、モノしか出てこない歌だが、何が楽しいんだろう。物欲が満たされるのが楽しいのか。これでバトルをするわけでもなし(五人囃子はめっちゃバフ性能ありそうだ)。

それはともかく、たいていは課金してガチャをひいてもお雛祭りの飾りでいえば、「雛あられ3個」レベルしか出ない。

お内裏様にお雛様という二大スーパースターはバハムートとルシフェルという二大召喚石だろうか。いくら課金したらとれるんだろう。単発で狙いにいっても絶対にとれないよなぁ。

もしバハルシというお内裏様にお雛様を二つともとろうとしたら、
「お内裏様にお雛様
二人ならんで数十万♪」
だよなぁ。

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03月01日

起床時刻:10時00分

雨の中を友人とのランチで日本橋に出かけた。友人からは海外旅行のお土産を色々ともらう。いつも申し訳ない。

食べたものはまずサラダ、前菜はスモークした鰤にトンブリがたっぷりかかっているもの。それとゴボウ。いや、和食のお店じゃなくてフレンチなんだけどね。メインは鴨肉、にんじんのソース。デザートは綿菓子みたいのが上にのったイチゴミルクの高級版、みたいなやつ。食後のコーヒーは産地やら豆やらにこだわっているそうだが、かなりの浅煎りで酸味が強い。夜はもう少し深煎りにするんだ、と給仕の方が言っていた。最近こういうコーヒー流行っているみたいね。個人的には深煎りで酸味がないほうが好きなのだけれど。
全体的にとてもあっさりとして、和な雰囲気(器から食材まで)でありました。スタイリストの大草直子に似た給仕の方はとても感じがよかった。

行きは春雨がしとしと降って、乾燥しきった肌がよみがえるようと喜んだが、夕方帰る頃にはザァザァ降り。公園を通って帰る折に一句、「春雨にけぶる公園人もなし」。

「そりゃそうだ、こんだけの大雨なんだから、公園に人がいるわけないじゃん」と即座に心の中で突っ込んだ。
「よーし、それなら、『春雨にけぶる公園人ひとり』でどうだ」
「ん?さっき「人もなし」って言ったばかりだよね?どこからその人は出てきた?さては捏造?」
「ブブー、捏造ではありません。人とは作者、私のことなのです」
「確かに作者は最初から公園にいたわな。こりゃ一本取られたわい」

などという会話を心の中で交わしながら(ま、会話を「交わす」も何も、一人二役なんだけどさ。ヤバい人だわ)、家路を急いだ。夕飯は焼肉丼、パプリカの炒め物、なすとピーマンの煮びたし、キャベツと油揚げの味噌汁。

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