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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:08:04

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04月30日(木)

起床時刻:07時00分

04月27日(月)

起床時刻:07時00分

昔ナンパしてきた男が有名になっとるw
以前、テレビを見ていたら彼が出てきてびっくりしたが、さっきネットサーフィンしたらまーた出てきた。

どんな風に彼が私をナンパしてきたかっていうと・・・、と書き出して思った。ああこうやって昔語りをする年寄になっていくのであるなぁ、と。誰も興味のない昔の”自慢話””モテ話””武勇伝”をしてしまうのは承認欲求の現れであり、これは誰でも持っているものだ。
社会的地位などがあれば人にうざがられなくても自然に承認欲求を満たすことができるが、年をとったり外見が悪かったり金も地位もなかったりして、誰の興味関心も惹かない人は、承認欲求が満たされない。それで人から注目してもらおうと自慢話などをして自ら承認欲求を満たそうとする。これは飢えを満たすようなものだ。

この承認欲求については根深いものがある。前にも書いたが、まだ4歳くらいの従兄の子供が、私が他の人と話をすると「僕のことだけ見て!」とストレートに承認欲求を見せたことがある。近所の子供たちも遊んでいるときに「ママ、見て、ねえママ、見て!!」とママに連呼している。
それくらい承認欲求というのは人間にとって早くから芽生えるものであり、根本的なものだ。だからこそ孔子は「人知らずして慍(うらみ)ず、亦た君子ならず乎」と言ったのだろう。つまり承認欲求が満たされなくてもそれに囚われないことは君子クラスの高レベル道徳なわけだ。もっとも承認欲求の強さの度合は人によって異なるが(だいたい昔の女性はおしなべて「人知らずして慍ず」組だったんだから、みんな君子だったってことになるw)。

「パクツイ」常習犯に直接会ってインタビューしたライター(セブ山)さんの話(ぐぐればすぐに出てくるはず)をネットで読んだことがある。そのパクつい野郎の主たる動機は人から面白いって言われたい!いっぱいフォロワーを増やしたい!いっぱいリツイートされてリアル友人に自慢したい!ってことだったみたいで、要するに肥大化した承認欲求を満たすために、他人のツイートをパクってたらしい。
興味深いのは、他人のツイートをパクったテメェは面白くもなんともないただの屑なのに、人から「面白い」と言われるだけで、自分の承認欲求が満たされちゃうことだ。自分のつまらさは自分が一番わかっているだろうに(自前で何も生み出せないから、パクるしかないのだ)、他人の賞賛の前では自分のつまらなさが消し飛んでしまう。つまり人間は自分の価値は自分で決めるのではなく、他人が決めるものであり、他人の目線が自分の自分に対する目線に同化する。だから嘘でもなんでもいいから、褒められたい。空虚な根拠に虚構の賞賛で十分なのだ。

承認欲求というのは、しかし幼稚なものであるのも事実だ。「私を見て、見て」というのは幼稚である。なぜなら、人間というものは自分以外の人には、たいして興味を持っていないことを知っているのが大人だからだ。ましてや普通の社会生活で承認欲求が満たされないような社会的ルーザーが承認欲求を満たそうとする見苦しいことになること請け合いである。そうでなくとも自分の低レベルの目的(承認欲求を満たして気持ちよくなりたい)のために他人を手段として利用することは恥ずかしい。したがって慎みを知っている大人は承認欲求を慎重に取り扱うわけである。私なんか社会生活で承認欲求が満たされていないために、「誰かに褒められたい病」だから気をつけないとなぁ。

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04月26日

起床時刻:09時30分

ハーア、疲れがとれないので、一人になりたい。
一人でゆっくりしたい。

こうもしょっちゅう「一人になりたい」と思うのは、現状、会社勤めやら夫がいるやらで一人の時間が少ないからだろうか。
失業して一人になったら一人は淋しいと思うのだろうか。
経験からいうと、独身一人暮らし失業時代もちっとも淋しくはなかったので、たぶん淋しいと思うことはないだろう。もともと働くことも人と一緒にいることも嫌いなんだから、それらがなくなっても淋しいわけがないのだ。
もっともニートだった当時、常に金の不安だけがムクムクと胸に湧き上がってきて苦しいというのはあった。無職の一人暮らしで賃貸生活をしていると金の不安に押しつぶされそうになるし、実際、金はどんどん減っていき生活がたちゆかなくなるから、働いたり結婚したりということになる。生活のために生きると魂がすり減ってくる。

お釈迦様は働くことを禁じた。原始仏教集団では働かずして乞食っつーか托鉢をし、食糧を得ていた。働かないで空いた時間にボケっとしたり、もとい瞑想したりしていたわけだ。
私は乞食をするより働くことを選ぶが、忙しく働きながら魂を高めるのは難しいのである。もっとも乞食をしながら魂が高まるとも思えないが。
―って、「魂を高める」などという言葉づかいはふわっとしすぎていてよくないなw きっと疲れてるんだw

それはともかく洋の東西を問わず、貴族にせよ宗教指導者層にせよ、文化に深い関係のあった層は「有閑階級」で、働かずして暇を得ていた偉そうな乞食層でもあったわけだから、暇であることは魂を高めるかどうかは不明でも(有閑階級が人格高潔だったわけではあるまい)、やっぱり食って寝る以外の何かをするためには暇が必要には違いないのだ。それも一人きりになれる暇な時間が必要だ。暇な人たちが集まって宴会しても何も生まれない。お釈迦様が悟りを開いたのも一人で菩提樹のもとで瞑想していたときであって、ワークショップかなんかでひらめいたわけじゃない。一人の暇な時間が大切なのだ。
ま、「小人閑居して不善をなす」という言葉もあるけどなw

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04月25日

起床時刻:08時00分

福岡空港では自分用のお土産に萬年屋(はねや)の「那の香」(ふわっとした卵(卵白?)生地にオレンジピールが入った平たい四角形の菓子)を買ってきた。

お菓子に入っている栞をまるっと引用しよう。
「今も那珂川・那の津などとしてその名前を残すように「那」とは博多の周辺にかつて存在した国でした。
いにしえの時代、後漢の光武帝より金印を授けられた国ともいわれています。魏志倭人伝では邪馬壹国(やまたいこく)に行く途中の国です。
大陸の文化が、日本で最初に伝来した地ともなれば、菓子の祖といわれる田道間守(たじまのもり)が非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)つまり橘を常世の国(とこよのくに)からもち帰ったとき、まず逗留したのがこの地かもしれないという想像もめぐります。
柑橘系の蜜漬け果皮を、ふわりと仕上げた独自の卵生地にほどよくちらし、いにしえに思いを馳せる銘菓「那の香」を仕上げました」

というわけで私もお茶と一緒に美味しい「那の香」をいただきながら、いにしえに思いを馳せた。
そうなんだよなぁ、福岡は「大陸の文化が、日本で最初に伝来した地」であるから古代においては日本の先進地帯だったはずなのに、その文化の蓄積というものが感じられないんだよなあ。京都は言うに及ばず奈良や滋賀のような名所旧跡が何もない。
結局「イメージ商法」に頼らざるを得ず、「橘を常世の国(とこよのくに)からもち帰ったとき、まず逗留したのがこの地かもしれないという想像もめぐります」と想像を巡らせるしかないわけだけれど、常世の国って「あの世」じゃないの?中国や朝鮮じゃないでしょ(と思ってwikiの「タヂマモリ」の項をみたら「内藤湖南は『卑彌呼考』において、『魏志』倭人伝に卑弥呼から魏へ遣わされたと見える大夫難升米を田道間守に比定している」と書いてあるから、那の国の流れで想像をめぐらしてもいいのか)。

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04月24日(金)

起床時刻:08時30分

昨晩は両親と天神の中華レストランで食事をしたのだが、そこの本店は六本木のアークヒルズにあるw
うちの親が今までよく行っていた中華レストランはリニューアルして以前の建物にあった重厚さがなくなってしまったとのこと。

フカヒレとか北京ダックとかが出てくるコースだったのだが、私ははっきり言わせてもらって中華料理があんまり好きではない。くどくて油っぽくて胃もたれするし、味もあんまり好きではない。今回のコースでは前菜のクラゲが一番おいしかったw

でも夫は中華がたぶん一番好き。和食よりも好きだろう。中華と洋食が旦那の中でツートップだな。姑に夫の好きだった料理を聞いたら、味の素のCookdoの酢豚だと言っていた。Cookdoは夫は大好きで特に麻婆茄子は鉄板だ。

今回の中華は量が多すぎてウンザリしてしまったが、両親はこのあと有名な鮨屋で鮨をつまんで帰ったらしい。「いつもは並んでいるんだけど、たまたま並んでなかったの」だって。信じられない。私は水以外は何も口に入らない状況だったのに。

思えば70オーバーの両親よりも私はひ弱にできている。まず食事の量があまり食べられないし、お酒も少ししか飲めないし、すぐにくたびれる(私の体力は年金受給者以下なのだ)。枕がかわると寝付けないし、すぐに胃もたれするし、体力の回復は遅いし、重いものは持てないし、旅行の移動日初日は一日中ホテルで寝ていたいくらい。

私が好きな食事はグリルした野菜か新鮮なサラダ(野菜の煮物はあまり好きではない。サラダは自家製のドレッシングに限る)、オリーブオイル、良質な岩塩、豆腐、白身魚のカルパッチョ、ありとあらゆるマリネ類、チーズ、ヨーグルト、バター(マーガリンは大嫌い)、香菜、しょうゆ、ナンプラー、アンチョビ、ゆず胡椒、レモン、果物は何でも(特にスイカ)。まともにつくられたクルミパン、汁物(スープ、味噌汁特になめこと豆腐の味噌汁)、まともにつくられた白菜漬け(ゆず皮入り)や糠漬け、塩鮭(ロシア産)、スモークサーモン(添加物が入っていないアラスカの紅鮭)。新鮮な釜揚げしらす、大根おろし、本物のすりおろしたワサビ、茹でた空豆(大好き)、アボカド、昆布締めした鯛、小松菜と油揚げの煮びたし。

まぁこういうものが私の好きなもので、私と同じ食事をしていたら絶対に太らないと思うんだよね。でも↑はだいたい夫の嫌いなものリストみたいなもので、ほんと困る。

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04月23日(木)

起床時刻:07時30分

旦那の風邪がうつって具合が悪い中、帰省。
私は飛行機の機内誌は読む派で、だいたい隅から隅までついつい読んでしまうのだが(典型的な時間の無駄遣い)、どこも経営厳しいだろうにこんなきれいなフルカラーの機内誌つくっていられるんだろうか。それとも機内誌は広告集みたいなものだから広告収入が多いんだろうか。ま、人の懐具合の心配などしている場合じゃなく、まずテメェの懐具合を心配してろよって話だが。

機内誌の最後のほうに地図と飛行機の路線図が載っているが、空港名がキラキラネーム化、というか、なかなか奇抜な名前になっていてびっくりした。
一番びっくりしたのは「おいしい山形空港」だろうなぁ、「おいしい」ってあの「美味」のおいしいだよね?いやあ、このノリでいくと東京オリンピックにあわせて「羽田空港」を「おもてなし羽田空港」にしようと言い出す奴が出てきそうで怖いw 富山は「富山きときと空港」だったが、「きときと」は富山で魚が新鮮なことを形容する言葉だったと思うが、よくつけたなw

それからケッタイな名前としては「鳥取砂丘コナン空港」(名探偵コナンのことだよね)「米子鬼太郎空港」「出雲縁結び空港」の山陰カオスゾーン、四国の「徳島阿波踊り空港」、「高知龍馬空港」の同じアホなら踊らにゃソンソンエリア、まぁそれ以外にもいっぱいある。これらは正式名称ではなく愛称かもしれないが、これらの空港名が機内誌の路線図にのっているのである。
あまりにもびっくりして旦那に「ちょっと見てよ!」と雑誌を見せたが、旦那は無反応だった。相変わらずの平常心だぜ。ていうか、私が反応しすぎ?でも、ネット上では「最近の空港の名前がすごいことになっている」的なタイトルの雑文をすでに誰かが書いてると思うんだけど。

企業名が入った空港名はなかったようだが、福岡空港が福岡ソフトバンク空港とかになる可能性はないのかな?いかにもありそうじゃね?
まぁでも福岡や羽田はドル箱路線をかかえているからケッタイな名前にはならないかもな。だいたいケッタイな名前をつけるのは経営の苦しい弱小空港だろう。

ケッタイな名前といえば、日本の政党名もかなりケッタイだが(「みんなの党」とかな。最初聞いたとき、幼稚園かって思ったわw)、「親しみ」を追求するあまり、ネーミングにせよゆるキャラにせよ、ありとあらゆる面で見られる子供っぽさ、幼稚園っぽさは日本国民の幼児退行現象なんじゃないかと思うときがある。一億層幼児化。ひらがな化、ぬいぐるみ化、幼稚園化、アニメ化。まあ、ケッタイなだけで悪いことじゃないけどさ。私自身、全く成熟していないし、幼児化の最前線にいるような気がする。まぁアホだけど無害だろう。

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04月22日(水)

起床時刻:07時30分

思いつきで色々書いていいものなのか。
知識やデータの裏付けもない、単なる憶測で色々書いてもいいものなのか。
ま、ここに書くだけならいいだろうよw 新聞にも思いつきで適当なこと書いてるやついっぱいいるし。というわけでここに思いつきを書く。

昨日の記事の続きである。福岡には長い歴史があるはずなのに、埼玉の奥地の田舎もんに博多が「ただの大宮」呼ばわりされるのはなぜか。歴史的建造物や名所旧跡が大宮並に何もないのはなぜか。福岡は大宮と違って博多商人たちが貿易で財をなしたところのはずだ。

ここで思い出すのが大阪の堺である。日宋貿易で栄えた博多と同じく、堺は日明貿易で栄え、なんといってもあの千利休を生み出した、歴史も古く、文化的にも豊かな(あの与謝野晶子も生み出した)商人のまちである。それが今や福岡並(=大宮並)にたいした観光資源はない。ちなみにトリップアドバイザーで堺市の観光の口コミ一位は「堺市庁舎展望ロビー」である(泣)。

堺が名所旧跡不毛地帯であるのは大阪空襲のせいかもしれないが、やはり堺や博多のような商人のまちにはドドーンとした観光名所ができにくく保持されにくいのではないか、のちに観光名所となるようなドドーンとした建造物ができて次世代にまで残すことができるのは権力者のまちなのではないか。

エジプトのピラミッドにせよ、万里の長城にせよ、圧倒的な独裁者、権力者が命じてつくらせたものだ。小規模なものになると、例えば日本のお城、松本城や姫路城は今でも十分な観光資源だが、それも権力の象徴だ。広い敷地に立派な建造物、そしてそれをつくっても誰にもいちゃもんをつけられない地位、そういったものがあわさってお城はつくられる。商人のまちは狭い店舗や家々がひしめき合うだけで、なかなか「これぞ」という観光資源は残らないのではないか、ということである。

この思いつきの種本もある。というか、種のまんまかもしれんけどw、その本は『日本史の謎は「地形」で解ける』(竹内公太郎 (PHP文庫))である(まぁこの本自体が「思いつきで書いた」系の本ではあるのだがw)。
本書に「なぜ大阪には緑の空間が少ないか」という章があるが、その答えは今日の東京における緑の空間(井の頭公園にせよ新宿御苑にせよ浜離宮にせよ)は、すべて権力者の残したものであり、庶民の町である大阪はそのような広い空間を獲得し保持することができなかった、そのために緑が少ないという話なのであった。
ここに大阪の堺もでてくる。著者は堺市に観光に行ったのだが、そこには何もないこと、千利休の屋敷跡ですら何もないこと(茶の湯につかった井戸だけしかない)に愕然とし、市民都市・堺には強権的な権力がいなかったことで「堺の史跡と緑の自然はとめどもなく潰されていた」と書く。博多も堺と同様の歴史をたどったのではないか、ということだ。

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04月21日(火)

起床時刻:07時00分

「福岡なんて(埼玉の)大宮みたいなもん」と埼玉のド田舎出身の男子に言われたが、確かに何も見るべきものがない。福岡県出身の身としては「九州の首都福岡をさいたま市なんかと一緒にしないでよね」と若干カチンとする部分もあるのだが、客観的にみれば福岡はしょせん「ただの地方都市」ってやつで、見どころも名所も何もない。福岡市の観光名所ってどこだろう?と思ってトリップアドバイザーの口コミみたら、大濠公園が一位だって!マジか。どんだけ観光資源がないんだよw

福岡は大宮と一緒で、文化や歴史の蓄積がない。大宮が東京の衛星都市で栄えただけなら、福岡も東京の支店都市として栄えただけ。

前にもこの話は書いたと思うが、しつこく繰り返す。
wikiの登録有形文化財の項を見てみよう。
「2011年7月1日現在、都道府県別の建造物の登録件数は以下の通りになっている」として表が出ているのだが、福岡はたったの66件(総数8331件)で46位(最下位は山梨の47位)。ファッ?!ちなみにバカにしていた埼玉は126件で26位。マジか。

まぁ登録有形文化財は結構ショボイものも含まれているから、国宝クラスの建築を見てみよう。と思ってぐぐると、福岡は国宝建造物はゼロ!そして埼玉は1(歓喜院聖天堂)。負けてるッ。↓のサイトによる。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/ken-ken.htm

全般的に九州は国宝建造物がとても少ない。建築物に限らず国宝・重要文化財総数ランキングを見ると(2013年)、一位は東京(2,729件)。ですよね~。
二位は京都2,144件、三位は奈良1,311件、四位は滋賀813件。これでみると福岡は12位(1980件)で埼玉(80件)の30位より上になる。
出典は以下。
http://grading.jpn.org/y2308a05.html
なんだかんだで滋賀がすごい、と前も書いたような。

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04月20日(月)

起床時刻:07時30分

お給料がちょっとあがった。上司の人事考課では「大変助かっています、こちらから言うことは何もありません」とのことで過分な言葉もいいところ。

実際のところ、たいした働きはしていないので、これもアベノミクスのおかげなんだろうか。アンチ安倍なんだがw

去年パートから正社員になって、お給料が劇的にあがったので今春はあがらないと思っていた。働きぶりにしてもパート時代とたいして変わらないので、むしろ給料を下げられたらどうしようと思っていたくらい。でも一番うれしいのはお給料が上がったことよりも、上司の言葉だなぁ。

人に褒められることなんてぜーんぜんないもんなぁ。怒られたり、叱られたり、けなされるばっかりで。自信なんて何にもなくて、落ち込むことばっかり。人生ずーっとそんな感じだったから、存在を肯定してくれるような言葉はまさに地獄に仏、という感じだ。

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04月19日

起床時刻:12時00分

『暴力の解剖学 神経犯罪学への招待』(エイドリアン・レイン/紀伊國屋書店 (2015/2/26))の話の続き。

本書は暴力は生物学的基盤(脳の器質的異常や安静時の心拍数の低さ)を持つことを明らかにしている。影響を与えるものは遺伝、妊娠時の喫煙やアルコールの摂取、栄養不良、有害物質(鉛など)の摂取、出産時の合併症(難産も含まれていたんだけど。チアノーゼになったりして脳に酸素が回らないと後々まで影響を与える)などなど。
それに社会的・後天的要因、つまり親からの虐待などが加わると、暴力をふるったり犯罪者になったりする可能性は劇的に高まる。
要するに犯罪は従来のように社会的要因だけではなく、生物学的基盤という要素も大きい(それもかなり大きい)というのが明らかになってきているのだ。

以前、『少年Aこの子を産んで』という、凶悪少年殺人犯の母親が書いた手記を読んだとき、予想以上に普通の両親で「おや」と思ったことがある。古本屋に売ってしまったので今手元にないのでうろ覚えだが、少年Aは子供のころ頭をぶつけたとかなんとか書いてあったたような。。。あるいは出産時の合併症があったのかもしれない。

確かに親の虐待やネグレクトなどは子供に深刻な悪影響を与える。しかし完璧な家庭で育った子供でも凶悪犯になることもある。それは遺伝子の問題であったり、出産時の合併症であったり、その他の生物学的基盤による。
なのにすべてを教育の仕方の問題や躾の問題、ひいては愛情不足の問題にするのは、養育者、つまり先生や親に過剰な責任を負わせ、必要以上に自分自身を責めさせることにつながる。

もちろん、自らの養育や教育の問題を生物学的理由を免罪符にして過小評価する危険性はあるが、しかし今は子供自身の問題も周囲の大人のせいにされすぎているように思うときもある。
だいたいにおいて、自分を責めたほうがいい人は自分を責めないし、自分を責めなくていい人が責めすぎて潰されるような気がする。

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04月18日

起床時刻:09時00分

『暴力の解剖学 神経犯罪学への招待』(エイドリアン・レイン/紀伊國屋書店 (2015/2/26))を読んだ。

103の双子研究のメタ分析によると、非攻撃的な反社会的行動の遺伝率は48%、攻撃的なものは60%(P71)。言い換えると反社会的行動に関する分散の5割強は環境によるものであるが、反社会的行動に対する家庭の影響は22%で、家庭外の影響が33%(P73-74)。

犯罪者の脳には前頭前皮質の機能不全が見られる他、海馬の機能不全が見られる。ただし犯罪者にもカッとなって殺した系の反応的攻撃性を見せるタイプと、計画的殺人や連続殺人を行い警察の目を欺くような先行的攻撃性を見せるタイプと二通りあって、脳のタイプも違う。

また安静時心拍数の低さと反社会的行動の相関関係は例えば喫煙と肺がんよりも強い。また安静時心拍数は遺伝の影響が大きく犯罪者の子供は安静時心拍数が低いことが知られている(P164)。また三歳ですでに男児のほうが安静時心拍数は低い。心拍数が低いということは冷静沈着で恐怖を感じにくいということだ。だから普通の人なら想像しただけで冷や汗をかくような凶悪犯罪もやってのけることができるし、あるいは刺激を求めて反社会的行動をとるわけだ。また安静時心拍数の低い人間は共感力が低く、要するに被害者の気持ちがわからないため、犯罪に走るとも考えられている。

私は間違いなく、安静時心拍数がすごく高いタイプだと思う。私みたいな人はどこからどうみても無害だが、しかし、社会的成功という点ではむしろ障害が多いと思う。ちょっとしたことにも慌てふためき、ちょっとしたことにも傷つき、ちょっとしたことにも悩み、共感力の高さからいろんな人に気を遣い、その結果ストレスは多いし、出世もしない。下手するとストレスのあまり鬱になったりして、社会からドロップアウトする。

思うのだが、チャーチルみたいな人はきっと安静時心拍数が低かったに違いない。あるいは有能な医者や非凡な冒険家などはきっと安静時心拍数が低いと思う。

ときどき思うのだが、世の中の人全員が私みたいだったら戦争は起こらないだろう。だけれども、何の進歩もしないに違いないw 難しいところだ。

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04月17日(金)

起床時刻:07時15分

私の考えや欲するものは昔と変わった。これは時代の影響なのか、加齢の影響なのか、それとも私自身の環境の変化なのか。

以前も書いたように、世論の変化においてもどの程度が世代効果で、どの程度が加齢効果による変化なのか、分解して説明することは難しい。

自分ではそうだとは思っていなかったが、なんか時代の影響も大きいような気がする。なんか、ね。

例えばADHDなんて言葉は私の子供のころにはなかった。私の子供のころにはADHDは単に「落ち着きのない子供」「注意力散漫な子供」と言われていたし、原因は「親が甘やかしているからだ」「躾をきちんとしていないからだ」ということに落ち着いていた。しかし、今ではそれは躾云々の問題ではなく、disorder、本人の持って生まれた障害ってことになっているのだ。

そして今、脳科学がすすむにつれ、もって生まれた障害、あるいは性向が色々あって、努力や躾でなんとかなる部分は予想外に小さい、ということが明らかになっている。いや、なんとかなる部分は十分あるが、子供というのは決してまっさらなキャンバス状態で生まれているのではない、ということが明らかになってきている。そして私も近年はつくづく同意するのだけれど、昔、今よりずっと若い頃は、「意欲や努力でなんとかなる!」信者だったと思う。そうして自分が向いてないことに無駄な努力を費やして鬱気味になり、働くことが嫌で、生きることが嫌になっていた。

鬱っぽくなる中で「人間には向き不向きがあって努力ではどうにもならん。本人対比でプラスの効果が出ても、それが社会的に価値のあるプラスでなければ、無意味だ。だって相対評価の世界で採用でもなんでも決まるんだし」とつくづく思うようになり、簡単に何でもできる人を見たりして、努力が馬鹿らしくなって今に至るわけだが、すべてが自分のせいじゃなくて、半分くらいは自分の生まれ(先天的な理由)のせいにできるのは(時代のコンセンサスとしては「遺伝半分・環境半分」だろう)、ある意味で気が楽になったし、自分の考えもそれにホイホイ飛びついて変わったんだろうと思う。もっとも、私はADHDではないが。

不況という時代のせいもあり、きっと加齢によるしょぼくれ効果もあって、何事も高望みしなくなり、まぁ健康ならいいや状態になっているのが今かなあ。昔はもっと色々な夢を見ていたんだけどなぁ。今は何もないや。

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04月16日(木)

起床時刻:07時30分

「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだか~ら~♪」と武田鉄矢は歌っていたが、実際は必ずしもそうではない。
悲しみというストレスが耐えられないほど多ければうつ病になり、人に優しくするどころではない。あるいは悲しみの度合が過ぎれば(児童虐待を受けるなど)、人に優しくするどころか人に同じような悲しみを与える可能性も高くなる(暴力の連鎖)。

だから「人は悲しみが多いほど人には優しくできるケースもあるが、その人のキャパシティによるし、悲しみの程度や頻度にもよるよね」が正しいと思うのだが、正しくいうと歌にならない。

私の小学校のときの担任が武田鉄矢が大好きで、この歌も歌わされたのだが、子供心に違うと思っていた。そういうケースもあるけれど、そうじゃないケースもある、と。

二番の「信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがいい」というのも、ケースバイケースで、「オレオレ詐欺」のような場合は人を信じて老後の生活資金を全部とられてもそれでいいというんだろうか、と言いたくなる。まぁ要するに「信じられぬと嘆くよりも 失うものが感情だけなら、人を信じて傷つくほうがいいが、金や自身の信用も絡むなら慎重に」だろう。

三番の「だけど私ほどあなたのことを深く愛したヤツはいない」ってのも図々しいにもほどがある。なんでそんなことがわかるのか。「私のほうが誰とかちゃんが好きだもん」「いや僕のほうが好きだもん」という子供の言い分を、どうやって決着つけるのか。実に不毛な言いぐさだ。そしてそもそも愛された程度によって誰かを愛すわけじゃない。ストーカーはストーカー相手をこの世で一番愛していたとしても、相手からはこの世で一番嫌われるだろう。

「だからどうした」だが、いまだに歌詞まできっちり覚えているんだから、子供のころに歌った歌の影響というのはバカにならんかもしれんね。

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04月15日(水)

起床時刻:07時30分

上橋菜穂子さんの精霊の守り人シリーズ、最後の『天と地の守り人』三部作も読了。一日一冊読んでたなw
読み終えた後の気怠い感じは熱中してフィクションを読んだ後に特有のもの。感情のジェットコースターに乗り続けたために、すっかり疲れてしまうのだ。私はHSP、つまりHighly Sensitive Personなので、読書の世界にまでsensitiveに反応する。となると、どうなるか。自分の神経まですり減って、単純に疲れるのである。ただ本を読んだだけで。そういうのもあって、私はノンフィクションのほうが好きだ。読んで疲れない。

読みながら思ったのは、暴力の魅力だ。皇太子チャグムの命を狙う悪の暴力に対して、女用心棒バルサたちは正の暴力で戦う。バルサは圧倒的に強いが、その圧倒的に強く、正しい暴力が悪の暴力をなぎ倒していくのに血沸き肉躍り、もっといえば爽快感を感じるのだ。
「正しい」暴力であれ、暴力には違いない。ボクシングにワクワクする人は合法的な暴力にワクワクし、プロレスにワクワクする人は予定調和な暴力にワクワクする。暴力はかくも、無条件に人を惹きつける。

もしもチャグム皇太子が毎回賄賂で暗殺犯を買収しようとしていたら、あるいはバルサが女用心棒ではなく女教師で、暗殺犯が改心するように長々とお説教をしていたら、すっかり興ざめだろうし、第一、彼らをそんな手段で全員説得できるはずがない。
暴力はお金や言語よりずっと古くから人間とともにあった。「言ってもわからないようだな」のあとの最終的な問題解決手段は常に暴力だ。今でも往々にして大きな棍棒を持っている方が正義となる。

長い原始時代の間、暴力的な者、力の強い者が常に資源を多くぶんどってきた。今の人間が”セレブ”とやらに憧れるのと同様に、昔の人間は暴力的で力の強い者に憧れてきた。今でもそうかもしれない。男だったら力が強ければ大事な人を「守れる」し、女だったら力が強い男と一緒にいれば「守ってもらえる」。

問題は暴力者のナイフの矛先が常に道徳的に正しい方を向いているのか、だが、答えは否だ。女を守ってくれているはずの男のナイフが、当の女のほうに向けられることは当然多いのだ。
では、決して女にナイフを向けることのないタンダ(@守り人シリーズ)を女は選ぶか?答えは否だ。タンダもろとも敵に殺されては子孫を残せない。したがって女は心優しきタンダではなく力の強い暴力者を選ぶ(あるいは強姦・脅迫・誘拐等によって選ばされる)。ヤノマミ族を見よ。この部族においては男は殺人人数が多ければ多いほど、子供の数が多い。かくしてカインの息子ばかりが生まれるというわけだ。

もっとも、我々はヤノマミ族ではないから、殺人者は社会的に罰せられる。敵にいきなり襲われる可能性も限りなく低いことから、女性は暴力をふるう乱暴者より優しくて思いやりの男を選ぶことのほうが多いだろう。女性の趣味や意向が尊重される社会は、男が主導権をとる世界より平和なはずだ。そういう意味で、世界全体がより男女平等にむかっていけば、より世界が平和になるのではないか、という数少ない希望も持てるわけだ。

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04月14日(火)

起床時刻:07時30分

04月13日(月)

起床時刻:07時45分

近所の本屋では本屋大賞をとった上橋菜穂子さんの『鹿の王』が平積みに。
上橋さんの”守り人シリーズ”が大好きなんだけど、最後の方を読んでいないなと思い、シリーズ7作目の『蒼路の旅人』から読みだしたら、面白くてやめられない、とまらない。結局AM2時すぎまで読んでしまった。帰りに本屋で『天と地の守り人』(第一部)も買ったので、明日の朝の電車からはそっち。

小説家っていうのも、溢れる泉のような創作力を持つ人と、なんていうのかな、ちょっとしたセンスや光るものはあるが、ものすごく浅い泉源の人がいる。
泉源の質の良しあしではなく、やはり作家としての「腕力」(という言い方を田辺聖子さんがどこかでしていた)というものの違いかなあ。それはもう、「生まれついての作家」というタイプの人が持つものだ。やっぱり一定水準以上のものをたくさん書ける人は、それだけの「腕力」がある。「生まれついての作家」と「憧れの作家にはなったけれど」という人との差は、本当に厳然としていて、努力でどうにかなるものではない。

思うのだが、創作というのは「没頭力」とでもいうものが必要で、いいかえれば視野狭窄が必要だ(出た、視野狭窄w。最近の私のお気に入りワード)。

「芸術評論家や文芸批評家が偉大な芸術家や作家であることがほとんどない理由は、批評家を成立させる想像力の幅と柔軟性―対立する様式や運動のなかに美徳を見出し、彼らの対立項の本質にある何かを理解する能力―そのものが、偉大な作品を生み出す一途なエネルギーと相容れない傾向があるからだ。創造性には、通常批評に存在するものよりも強力な視野狭窄を必要とする」(『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』p31)

まーた、この本からの引用だが、よほどお気に入りなのかと聞かれたらそんなことはない。というか、人にはあんまりおすすめしない。最近の本は「○○がxxである3つの理由」的な、読みやすい本が多いが、本書はそういう感じではない。だいぶ昔の本を読んでいる気にさせる。例証も「その例出す?」みたいな感じで、なんていうんだろう、曲がりくねっている感じがする。その曲がりくねった感じが面白いというか、細部に面白さを感じるというか、そういう本だな。まあ、言っていることはシンプルだし、最近の本を読んでいたら特段新しい話もないんだけど。

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04月12日

起床時刻:12時00分

航空券とったり、宿の手配したり。
資生堂の美容液アルティミューンを買った。久しぶりにデパートの資生堂のカウンターに行ったら、肌のキメ年齢チェックなるものをやってくれたんだけど、私、実年齢とキメ年齢がズバリ一致した!いや、老けてなかったからいいっちゃあいいんだけど、内心、「実年齢より5歳くらい若かったらどうしよう?」って思ってたんだ、うん。だから全然嬉しくなかった。図々しい?

「老けた、老けた」と言いつつ、心の奥底に「自分は年よりも若い」という確信(=勘違い)があるのかもしれない。

先日、会社の税理士さんと産休をとっている社員の総務関連の話をしていたら、「pyaaaさんも早く子供うんでください」ってなぜか言われて、それを聞いたときも、上記の確信(=勘違い)から即座に内心「いやだ、私ったら子供をうめるくらい若いと見られてる?」と思って、「もう、私は40過ぎてますから無理ですよぉ♪」って言ったんだけど、ひょっとして嫌味を言われたのかしらん?!って今思った。

だって「子どもを産んでいない女はフリーライダー」とか言ってきたママさんもいたし、世の中には「子供を産まない女」バッシングというのがある。税理士さんは「このオバチャン、子供の一人も産まないなんて社会のお荷物!!」という意味で嫌味(あるいはご指導ご鞭撻)を言ったとか?!
でも、きっと嫌味じゃないと思うんだ、あの言い方の感じは。。。と言いつつ、私あんまり嫌味とかお世辞とか気づかないで額面通りに受け取っちゃうほうだからなぁ。基本的に素直で素朴なのよね、私って。

しかし、私みたいに基本がパッパラパーの人間だから「子供をうめ」と言われても「若く見られちゃった、てへ」ですむが、こういう発言は無神経で不躾だ。およそ品性と想像力に欠ける人間の発言といえる。なんでこんなこともわからないのかしらねぇ。

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04月11日

起床時刻:10時00分

「天才は一パーセント以下のひらめきと、九九パーセント以上の複製だ。同様に、音楽家はコピーによって作品から得られる利益が減るのを懸念しているが、一部の音楽家がすさまじく金持ちになれるのは、音楽演奏のコピーが可能になったおかげだ。」(P301)
「モーツァルトは貧困のうちに死んだ。現在ではモーツァルトに比べれば塵ほどの才能しかない音楽家たちが億万長者になり、インターネットで自分たちの歌がタダでダウンロードされたと愚痴を言う。実際、アイデアがさらなるアイデアの糧になっていることははっきりしているーウェブサイトの管理者なら誰でも知っているように、タダでとても面白いものを提供しないかぎり、だれもコンテンツを有料購読してくれない」(P302)
(『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか』)

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04月10日(金)

起床時刻:07時00分

「だがまさにこの物語の枠組みが強いる距離感―細々とした労働生活の細部への没頭から一歩身を引くこと―こそが、一部の人々にとってはこうしたあらゆる努力が無駄に思えるような不安を抱かせてしまう。これは私たちの物語が非現実的な野心を促すため、うんざりするような、見苦しい、どうでもよいものが私たちの生活に絶え間なく入りこんでくるとすぐに意気消沈してしまうせいかもしれない。あるいはそれが私たちのエネルギーを完全に分断してしまうのかもしれない。視野狭窄によって急を要するように見える懸念も、もっと客観的な視点から見ればどうでもよいものだ。現代生活の活気の一部であり、やりがいのある仕事の源泉となっている多様性も、ただ無駄なだけの不摂生に思えてくる。その影響は時に悲劇的で、時に喜劇的で、時にその両方だったりもする。」(『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか』PP183-184)

私、その一部の人々ですわ。
「視野狭窄」って多くの事柄同様に悪い面もあるけれども、いい面もある。
だいたい偉業を成し遂げた人はどこか「視野狭窄」な気がする。
一方の悪い面としては、「悩み」は「視野狭窄」が原因のこともある。
ほら、みあ~げて~ごらん~夜の星を~♪
君の悩みがちっぽけなことに思えるだろう。
ていうか、すべてがちっぽけなことに思えてくるだろう。
もちろん、仕事なんかとりわけちっぽけで、締切なんかくだらなく思えるだろう。
だって悠久の宇宙の時の流れに比べれば、一週間、二週間の先延ばしなんぞ誤差ですよ、誤差!一年後、二年後でも誤差だし。

こういうふうに「俯瞰的」に物事を見ると、たいていのことがくだらなく思えてくるのだ。これは良くないので(こういう人間は世間の信用を失い、周囲から嫌われ、悪くすると集団から追放されるので)、時には意識的に世の規範たる視野狭窄集団を見習って、ありとあらゆるクッダラネー仕事に「やりがい」、「魂の浄化」、「人間の成長」を見出す、壮大な物語を紡ぎだし、それを信じているようなふり(信じこむのだ!)しないといけない。

もっとも、良識ある人は、視野狭窄と俯瞰的シラケとのバランスをとり、中庸をいくのであろう。それが正解っす。極論にすぐ走るんだよね、自分。

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04月09日(木)

起床時刻:08時00分

悪貨は良貨を駆逐する。
ほんの少しのゴミが大量のゴミを引き寄せる(割れ窓理論)。
Ill weeds grow apace.

「いいものは押しつけがましくない。ひどいものほど激烈さに満ちている」とW.B.イエーツは言ったそうだ。
伝聞なのは孫引きのため。
ジョン・アレン・パウロス著『数学者の無神論―神は本当にいるのか』から。
原典はなんだろう。「再臨」の一文に似ているが。「再臨」の該当箇所の原文は
”The best lack all conviction, while the worst
Are full of passionate intensity.”
(「最良の者たちがあらゆる信念を見失い、最悪の者らは
強烈な情熱に満ち満ちている」)
で似ているけど、さすがに訳が違いすぎるか。

ちなみに『数学者の無神論―神は本当にいるのか』は軽妙な語り口の楽しい本だったが、それは私が無神論者だからだろうw。

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04月08日(水)

起床時刻:07時30分

今日は朝からみぞれが降っていた。
天気予報では最高気温5度。先週は初夏みたいだったのに。
母親は「冬物を全部クリーニングに出しちゃった」とあわてていたが、一着もクリーニングに出していない私は完全勝利、グータラの勝利である。

話は変わって、会社の横の席の女子曰く『ヒトラー 〜最期の12日間〜』という映画の最後のほうで、ヒトラーの秘書だった女性が戦後、地下室みたいなところで一人でエンエンとスタンプみたいのを押す仕事をしているシーンがあったそうで、その子は「ちょっといいな、その仕事」と思ったらしい。
戦後の惨めな境遇をアピッたつもりかもしれないが、日本では逆効果だなw 地下室でスタンプを押すだけの簡単な仕事で暮らしていけるなら就職希望が殺到するわいwコミュニケーションスキルに不安持っている層とかには理想的じゃん。

どうせ残業もないんだろうし。どっかに営業してスタンプを押すものをとってこい、みたいなノルマもないんだろうし。モンスター顧客に絡まれることもなければクライアントから「明日までに1万枚」みたいな無茶を言われることもないんだろうし。ワタミみたいに教祖さまのお言葉を暗記する(勤務時間外に)ってこともないんだろうし。
確かにいい仕事だなw

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04月07日(火)

起床時刻:07時15分

昨日の日経夕刊のコラム「あすへの話題」に「合唱をする青少年は非行が少ない、という」と書いてあったが、そもそも合唱をするような青少年は真面目だからじゃないの?要するに「青少年は合唱をすると非行が少なくなる」のではなく、「非行の少ない真面目な生徒が合唱部に入りやすい」ということで因果関係が逆なのではないか。
合唱の非行防止効果を知りたいのなら、ランダムに生徒をふりわけて合唱グループと非合唱グループでその後どれくらい反社会的行動に走ったかを調べるべきだろう(ほかの条件はもちろんコントロールして)。
「合唱 効果」でぐぐると、ヨガと同じ腹式呼吸による健康効果はある、という北欧の調査結果があったが、教育効果や非行防止効果の調査はみつからなかった。

このコラム、タイトルは「唱歌と農村体験」で、「日本郵船取締役相談役 宮原耕治」氏が書いたもの。うろ覚えだが内容を要約すると、この時期になると文部省唱歌の「朧月夜」を思い出す、唱歌は皆で歌ったほうがよい、そういえば合唱をする青年は非行が少ないそうだ、同じ情景を思い浮かべ心を一つにすること、みんなで一つのことをやる達成感がその理由だろう、みたいな話の展開。それならロックやパンクバンドでも同じく非行防止効果はあるはずだ。
まぁ確かに青少年の鬱屈したエネルギーを発散させる運動・歌唱等には非行防止効果があるかもしれない。ロックでもラップでもなんでもよい。老人は郷愁から「文部省唱歌」を歌わせたがるが、趣味にあわないものを歌うのはかえってストレスだろう。
もっとも、合唱には身体およびメンタルへの健康効果はあるようだから、むしろ老人ホームやストレスの多い職場で「菜のは~なばたけ~に、い~り~ひ薄れ~~♪」とやるべきである。

私自身は文部省唱歌には好きな歌が多い。子供のころから文語調の歌詞のほうが、口語より風情があって好きだったのだ。
例えば「冬景色」。「さ霧消~ゆる み~なと江の~♪」で始まるアレである。これが文語ではなく口語で、「霧が消~えた み~なと江の~♪」だったらどうであろうか。風情ゼロだろう。
「げ~に小春日の、の~どけしや~♪」(二番の歌詞)が「マ~ジ、小春日は、の~どかだね~♪」だったらどうであろうか。完全に別モンである。

ところで私はこの歌のせいで小春日というのは冬(イメージとしては1月前後)の暖かい日なのだと思っていた。その理由は①タイトルに「冬景色」とあるからには(新暦で)真冬だろう、ということ、②二番の歌詞に「人は畑で麦を踏む」とあるが「麦踏」は早春(1月、2月)の農作業であり俳句の季語であること、から、どう考えても1月の話だと思っていたのだ。しかし、結構最近になって小春というのは旧暦10月(新暦だと11月)を指すのだということを知ってびっくりした。新暦だと11月上旬の立冬(旧暦10月1日)を過ぎた後から「小春日和」という言葉は解禁になるそうで、「新暦だと11月から12月初めごろの、移動性高気圧に覆われて穏やかに晴れる日を指しているのです。」(「季節の言葉「小春日和」解禁 使うなら12月初旬までに」気象予報士 伊藤みゆき 2013/11/9 日本経済新聞 電子版)。
また二番の歌詞に「返り咲きの花も見ゆ」とあるが「返り咲き」とは「普通、春咲いた花が、小春日和に誘われて晩秋から初冬に再び花をつけること」らしい。

まぁ、麦踏みは霜が降りたらやるそうだから、地方によって違うのだろう。おそらく12月初旬くらいを歌っているのかな。

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04月06日(月)

起床時刻:07時15分

04月05日

起床時刻:12時00分

04月04日

起床時刻:09時30分

「無人旅客機は、一般路線で使われるのはずっと先かもしれないが、技術的にはそんなに苦労せずに作れる(『エコノミスト』誌2002年12月21日号、P81-83参照)」(『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか ヒトの進化からみた経済学』(P・シーブライト)のP29の注より)。

おそらく現在でも飛行機の操縦のほとんどが自動操縦なのだろうが、すべてが自動操縦にならず人間の力が必要なのは、単純だけれど複雑な作業があるからだろう。自動掃除機のルンバのように、機械は単純だけれど複雑なことができない。例えば、ルンバは床の遮蔽物の後ろなどは金輪際掃除できない。人間なら、遮蔽物をひょいと手で持ち上げて後ろを掃除する、という簡単にできることがルンバには今のところできない。

こういった複雑で単純な作業を機械はいつ頃できるようになるのだろう。私としてはまだまだ無理な気がしているが、どうなんだろうか。今のところ、機械はそういった「柔軟な対応」が不可能だから、私たちはパイロット不在の自動操縦の飛行機に乗る気はとうていしない。あるいは人間の制御なしにロボットが腹腔鏡手術するといったらひるむだろう。「大丈夫ですよ、お腹の腫瘍にマーカーつけてますから」と言われても、不測の事態に対応してくれるのかと心配だ。

今のところそういうわけで、機械にはできない人間の仕事-散らかった家の掃除から腹腔鏡手術、飛行機の操縦まで―があるわけだが、今後の技術革新でどうなっていくのだろう。

ルンバやロボットには人間にない優れた点がある。それは疲れを知らないこと、日によって好不調の波がないことだ。品質や技術は一律だから「当たりはずれ」がない。仮によりソフィティスケイティッドされた動きができるようになり、実際に運用可能になれば、自殺願望を持つ自動操縦などはないから先日のドイツで起こったような悲劇は起こらないし、群馬大でおこったような一連の手術ミスもなくなるだろう。

もし何か、不測の事態があったときはどうするのか。やはり最後は人間で、となるのだろうか。いや、おそらく人工知能が判断するのではなかろうか。ハブたる人工知能と一つ一つの飛行機がつながって、すべての機体は監視される。仮に一つの飛行機が予測と違う動きをすれば、ただちに中央から干渉され、トラブルシューティングをするだろう。

思うに、たいていのことは人間がやるより機械がやるほうが間違いがない。信号や踏切を全部人間が目視なりなんなりでやるようになったらどうだろうか。「寝不足」「疲労」などからタイミングを間違う可能性は多いにあるし、もし間違えば大事故につながる。だから私がいつも言っているように、人間って仕事においては常に二流の機械なんだと思う。だってたいていの仕事は間違わないことが品質保証においての大前提でしょう?

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04月03日(金)

起床時刻:07時00分

残業を減らす方法は①技術革新②人員増強③人に押し付ける④アウトプットのレベルを下げる、のどれかしかないような気がするのだがどうだろう?
通常、①と②の導入がままならないことを考えると、ワーク・ライフ・バランスとやらをキープするには③か④しかない。残業を減らす、というと、すぐに「効率のよい働き方を」というけれど、今時オフィスで「つきあい残業」などをしてダラダラしている人は少ないのではないか(なにか調査があるといいのだけれど)。

そもそも効率のよい働き方とは、めんどくさい仕事を非正規雇用や下請け業者に押し付けて、自分はさっさと帰る、というものである。子供と触れ合う時間をつくるため、大手企業の正社員が早帰りする一方で、非正規の独身や下請け業者はそれを補うためにエンエンと働くことになる。前者は「育メン」のスターで、後者は昭和的働き方のルーザーということになる。給料だって後者のほうが低いんだから、踏んだり蹴ったりである。

私が以前いた職場の残業を減らすための「業務改善計画」によると、「無駄な業務」を減らすことによって残業をなくし早く帰ることを実現させるというものだったが、その「無駄な業務」は下請けがやることになっていたのだ。「ついでにこれもやってもらう」「ついでにあれもやってもらう」、しかもサービスで、というわけだ。

特に評価されにくい雑用などというのは、「断る力」を発揮して断るやつが「優秀」ってことになる。仮説提案力、「STAP細胞はありまぁす」みたいなのが評価され、実際にそれを証明する地道な作業(ものすごく時間と手間がかかる)は評価されにくい。

私に言わせると、アウトプットの完成度を下げる、というのはすごく有効な残業時間削減だ。「完璧を求める職人」などというのが「一番効率の悪い働き方」で、「だいたい六割」の出来で、ちゃちゃっとやってしまうのが一番いい。もっとも手術とかだと「「だいたい六割」の出来でちゃちゃっとやってしま」われては困るが、しかしまぁ、常に百パーセントの出来を求めると時間はかかるし、精神的に疲労するし、ワーク・ライフ・バランス的にはアウトになる。

というのも収穫逓減の法則が働くから、0から6割のものをつくる時間と、6割のものを9割にする時間と、9割のものを10割にする時間、ってだいたい同じくらいかかるんじゃないかと思うのだ。「ま、いっか。死にゃあしないし」で納品しちゃえば、残業せずに帰れる、というわけだ。
ただそうすると、リピート顧客がなくなって失業する可能性はあるがwワークなしのライフばかりでも困るんだけどね。

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04月02日(木)

起床時刻:03時30分

「<略>たとえ話というのは、あまり使うべきではありません。たとえ話にすると、どんな小さな問題も大きな問題にすり替えることができますし、その逆もできてしまって、問題の本質を見失わせるからです」(三上修著『スズメの謎』(P78))
またしても、『スズメの謎』から”スズメの謎”とは関係ないところを引用してしまったが、本当にその通りだと思う。といいつつ、私はすぐにたとえ話や比喩を使ってしまう傾向があるので反省する必要がある。

私がたとえ話や比喩をついつい使ってしまうのは、”説明の省エネ”という効用があるからだ。ある事物・事象を説明するのに、イチから定義して細かく言わなくても、すでによくわかっていることを比喩として使っていえば、類推してなんとなくわかるから便利なのだ。
しかしながら、そこには当然細かな、あるいは大きな違いがあって、その違いをすべて捨象してしまっている、という問題点がある。更にいうと、比喩やたとえ話を使って説明する習慣ができてしまうと、言語能力が衰退する可能性もある。というのも比喩やたとえ話は手っ取り早いイメージに頼ることでもあるから、当然、紋切型やクリシェに陥りやすいのだ。

また詩で比喩がよくつかわれることからもわかるように、比喩やたとえは強い感情を喚起する。詩の世界で使われる分にはいいが、例えば政治の世界に進出したりすると、ロクなことにはならない。比喩やたとえの紋切型は陳腐であればあるほど、多くの人に強い感情を喚起する可能性がある。現実はもっと複雑で多様なのに、シンプルな紋切型に現実をあてはめてしまうだけでなく、印象操作すらできるのだ。

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04月01日(水)

起床時刻:07時15分

新聞のコラム(「天声人語」「春秋」「編集手帳」etc)ってどういう位置づけなんだろう?日経の「春秋」はポエムという位置づけなんだと最近理解したが。特に昨日の朝刊の「春秋」のポエムっぷりはびっくりするレベル。昨日の記事にも思わず書いたけれど、ドイツの飛行機墜落事故が副操縦士の故意であるらしいことに関して「飛び続けたい思いが強すぎて青年は闇にのみ込まれたのだろうか。夢は見果てぬ夢だからこそ美しい。そんな詩人の魂があったら、と思う。」で話が終わってんだよ。ファッ?経済紙だよね、これ。
必要なのは「詩人の魂」じゃなくて「安全基準」だろうよ。でもこんなふわっとした文章が許されるのは「社説」じゃなくて「ポエム」だからだろう。それにしても「春秋」のポエムっぷりはひどい。

3/29の「春秋」もポエム度マックスだった。「人の心にも鍵がある。本当に大事な思いは自分にしか分からないものだ。人に語らず、しまっておきたい感情もある。春が来て人が動く。出会いがあり、別れもある。3月の末には気持ちが揺れ動く。ならばカチリと区切りをつけるのが、生きるコツかもしれない。心の中にある鍵さえ守れば、過去は優しいまま消えない。」とか、何の話だよ。痛いわ。

そしてこれを世の中書き写している人がいるんである!いや書き写しているのは「春秋」じゃなくて「天声人語」みたいだけど、どーせ似たり寄ったりだろう(朝日は数十年読んでいないから知らんけど)。

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