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起床時刻推移グラフ

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06月30日(火)

起床時刻:07時15分

今日の一句。
「茄子切ってアク抜きもせず炒めてやる」
「炒めてやる」、この攻撃的な感じが、今日の気分。

だってさー、「茄子のアク抜き」と一言でいうけど、その内実は、切った茄子を水張ったボールに放してしばらく待って、ザルに茄子を引き上げ水を切って、その茄子をペーパータオルでいちいち拭いて、そしてボールとザルを洗って布巾でふかなきゃいけないんだよ。
めんどくさッ!!

どうせ豚肉と一緒に甘味噌で炒めるんだから、アクもわかんねーわい。

という気分でもある。

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06月29日(月)

起床時刻:07時30分

今日は貴重な梅雨の晴れ間。
と言いつつ、昨日も一昨日も晴れてなかったっけ?

「梅雨晴れの路地吹く風の早さかな」
父親へのメールでは「梅雨晴れの路地吹き抜ける風早し」としたんだけれど、これじゃ切れがないんじゃないか、よくわかんないけどwというわけで、上のように変えた。

「梅雨晴れ」の季語で類句がないかネットで検索したら、梅雨晴れの句が多すぎて全て読む能わず。私のチェックしたページがたまたまだったのか(「歳時記」というHP)、稲畑汀子先生の句がいっぱいあった。
http://www.haisi.com/saijiki/tuyubare.htm

「雲重くとも梅雨晴でありしかな」(稲畑汀子)とか。
「梅雨晴の術後の旅と聞きしより」(稲畑汀子)とか。
「梅雨晴を信じ旅発ち来りけり」(稲畑汀子)とか。
「みちのくの旅梅雨晴を信じけり」(稲畑汀子)とか。
「梅雨晴ともう言へさうな旅路かな」(稲畑汀子)とか。
「梅雨晴のつづく旅路に従へり」(稲畑汀子)とか。
「梅雨晴の旅路の展け日本海」(稲畑汀子)とか。
どんだけ梅雨の季節に旅行してんだい、と思ったが(ま、わたしがそういう句をあえて選んでいる部分もあるんだけどw)、「ホトトギス」の大俳人だから各所に呼ばれることが多いのだろう。実際、「会一つ終へ梅雨晴の古都へ旅」(稲畑汀子)なんていう句もある。全部『ホトトギス』に掲載されたものだけれど、『ホトトギス』が稲畑先生のスケジュール帳みたいになってんだw(「東京の梅雨晴を持ち帰りたる」とかね。メモやろ、それw)。

稲畑先生が家にいるときももちろんあって、以下のような句も詠んでおられる。
「昨日より今日の梅雨晴信じられ」
「昨日降り今日梅雨晴となる家居」
「芦屋いま梅雨晴と告げ受話器置く」などなど。
まあ意味も気持ちもよくわかるけれど・・・ただの報告な気が・・・どこが切れなの・・・ものすごくどうでもよくない?・・・・いやいや、高浜虚子の孫である稲畑御大、俳句界のサラブレッド中のサラブレッド、おそらく幼き頃より、立てば俳句、座れば俳句、歩く姿は五・七・五の生活を送られて行住坐臥皆これ俳句におなりなったんであろう。
見よ、この句「芦屋いま梅雨晴と告げ受話器置く」を。なんのてらいもなく、なんの嫌味もなく(芦屋が嫌味といえば嫌味だがそれは貧乏人のひがみである)、さらっと日常を詠んでいる。日常詩たる俳句の真骨頂であるぞ、さあればこそ、次の句も「梅雨晴を信じて予定組み上る」(稲畑汀子)となるわけだ。また旅行行くんかい、報告の続きはもういいよ、っていう人はまだ俳句のなんたるかがわかっとらんのだ。

私も真似してみよう。今日の一日を俳句でつづるのだ。なんの気負いもなんのてらいもなく、ごくごく素直に思ったことを五七五で書いていこう。”俳句は日記”ってやつだ。

「梅雨晴れや洗濯物を外に干し」
「梅雨晴れの日差しや日傘さしてゆく」
「梅雨晴れの会社の窓を開(ひら)きけり」
「梅雨晴れやウォーターサーバー水注ぐ」
「梅雨晴れの日にも仕事か外を見る」
「昼時を待ちわぶ心や梅雨晴れ間」
「昼食のすだちおろしのうどんかな」
「梅雨晴れ間天ぷらカラリと揚がりけり」
「夏負けじかしわ天をも頼みけり」
「昼休みもう終わりたる立葵」
「仕事中外を見ている梅雨晴れ間」
「小雀の遊ぶと見えて去りにけり」
「梅雨晴れの一日(ひとひ)を空しく過ごしけり」

やっべ、どんどん出てくるわー、一日100句くらいできるんちゃう?まぁ100句まとめて全部ゴミっていうような駄句ばかりだけどさ><

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06月28日

起床時刻:09時00分

夫に連れ出されてジョギングというかランニングというか、要するに近所を走った。前も書いたけど、私は長距離走が大っ嫌い。一時間歩くのなら全然いいんだけど、走ると疲れるし苦しいしあちこち痛くなるし、いいことなんか一つもない。

夫は走った方が体調がいいらしい。そんなら一人で走れや(怒)。
もう走らないかと思ったら、団イベ中に運営がやらかしたこともあって、ゲームに対するモチベが下がったのかも。

疲れて空を見上げると、色々な太さの電線が張り巡らされている。数えきれないほどの電線。そしてそこから更に家の屋根や二階に電線が引かれている。綾取りの紐のように、こんなに電線が張り巡らされているなんて。工事のときにどれがどれやら、混乱しないのかしらん。台風がきたら電線がもつれたり絡まったりしそうだけど、そうでもないのか。

夫に言ったら「そもそもイケてる町は電線を全部地中に埋めている。さっさと地中化の工事をすりゃあいいのに」と言っていた。
私自身は電線工事の人の作業負担が少なく、災害時の復旧の簡単なほうでいいけどね。

「電線や縦横無尽に夏の空」

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06月27日

起床時刻:08時30分

夢の中で山歩きをしていたら、蛇に足を噛まれた。
絶対に山には行かないぞ、と起きて決意。
夢だからマムシじゃなくて、黒地に赤色の筋が入っているいかにも毒蛇風な蛇だった。前を歩いている人がみんなよけていっているところを、楽しくおしゃべりしながらまっすぐ歩いていったら、蛇がウヨウヨいたっていうね。だいたい人が避けてんだから、そこにはウ○コかあるか蛇がいるに決まっているじゃないか、と起きてから反省した。だいたい注意力散漫なんだよね。

昨日はなんだかひどく疲れていて12時前に寝た。狭いベッドに夫と二人寝ているんだけど、夫が私にくっついてくるから、重いわ、暑いわ、鬱陶しいわ、かなわない。それで私が更にベッドの端っこにいくと、夫もくっついてくるから、ベッドの私の寝ている側半分に二人寝ていて、夫側はがら空き。アホか。
と思って2時半くらいに起きてソファで寝た。ベッドも別々、寝室も別々、なんなら家も別々くらいが精神衛生上よいが、一人暮らしって基本的に贅沢なことなんだろうな。経済的にも、身体的にも自立した生活ができるのって、簡単なようで難しい。
老化や病気で、身の回りのことを自分でできなくなってしまったら、一人暮らしなんて我儘な夢物語になってしまうし、お金が無ければ親と暮らすか、住み込みで働くか、最近はやりのシェアハウスなどで暮らすことになる。

そういや最近、色々なコンセプトのシェアハウスが流行っている。古民家で暮らすだの、畑がついているだの、シングルマザー限定だの、多世代共生型だの。バブル期の「流星に導かれ出会いは夜のマリーナ♪」(@『二人の夏物語』)時代には、とうてい考えられなかったよ。「ルームナンバー砂に書いて誘いをかけた」(@『二人の夏物語』)のルームナンバーはもちろん、「おしゃれなシティホテル(死語)」のルームナンバーであって、シェアハウスのルームナンバーじゃあない。今ならシェアメイトと庭でバーベキュー(安上がり)していて恋が芽生えたりするのかもしれんなぁ。

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06月26日(金)

起床時刻:07時00分

『反アート入門』(椹木野衣/幻冬舎/2010)を読む。
第四章「貨幣とアート」の章が私の興味関心に一番近く、私がおぼろげに感じていたことが明確に文章化されたという感じで面白かった。

要約しようかと思ったが、時間がないので引用を。

「「ものを作る」ことが「情報を動かす」ことに呑み込まれることで、伝統的な芸術の創作的価値が留保され、以前には創造的とは考えられていなかった「情報を動かす」こともまた、創造的・芸術的行為としてとらえられるようになってきたのです。<略>「その意味で現在の美術界は、情報資本主義のヴァーチャルな投機的段階をモデルに、そのおりごとの価値策定を行っていると言えるでしょう。このことから、現在のアートは資本主義の論理に完全に包摂されている、と言っても過言ではないと思います。」(P195)

「なぜこういうことが起こったのでしょうか。実はこのようなことが起こるのは、近代の芸術では仕方のないことなのです。なぜなら、近代的な貨幣制度と今日におけるアートの成り立ちとは、もともと、ひじょうに類似したものだからです」(P196)

どういうことかっていうと、要するに絵なんてものは原価が知れている。一方で紙幣なんてのも、原価が知れている。なのになんで絵はとんでもない値段で取引されるのか。なのになんで汚い紙切れである金をため込むのか。その価値は要するに、ヴァーチャルなもの、「「人々の幻想をかきたて、ありもしない価値を妄想させ、実際に取引することで妄想を現実化し、そのことを糧に前進していくーそれが近代芸術の特質なのです」(P199)。

第四章3節の「絵画は紙幣に憧れる」。
紙幣の価値を担保しているのは国家(そして紙幣にはちゃんと国がつくりましたよのサインが入っている)、一方で絵画に価値を与えるのは評論家たちの評価とやはりサイン。

第四章4節「アート<キリスト>貨幣経済」
「芸術作品と貨幣経済は密接であるどころか、元来は同じものだったのではないか」ということ。
マーク・シェルの『芸術と貨幣』(みすず書房)を参照した議論。イエスが神殿の両替商を追っ払ったのは宗教もまた貨幣と異種同根だから。へぇ、その視点はなかったな。

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06月25日(木)

起床時刻:07時30分

タレントの広瀬すずが「どうして生まれてから大人になった時に照明さんになろうと思ったんだろう?」「(音声スタッフは)何で自分の人生を、女優さんの声を録ることに懸けてるんだろう」などと発言して物議を醸しているが、広瀬すずが、私の仕事や生活をみたら「どうして生まれてから大人になった時にこんな仕事をしようと思ったんだろう?」「どうしてこんな毎日を過ごしていて平気で生きていられるんだろう?」って純粋に不思議がるだろう。十年一日、同じ簡単で単調だけれども神経だけは使う仕事をしていて、何の進歩もなく、何の成長もなく、何の楽しみもなく、何の面白味もなく、頭の悪い機械のごとく同じことを繰り返しつづけているのを見て、「よくもまぁ、そんなつまらないこと、やってられるねぇ」とあきれるだろう。

生きるためなのだ。
私のような何のとりえもない無能な人間が生きるためには、才能のある若い人からみれば、くだらなく、つまらなく、無駄にしか思えないような「雑用」を朝から晩まで、週5日の時間を費やすしかないのだ。

まさに生とは呪いなのだ。この呪いから解放されるには肉体を殺すしかない。無駄でくだらない生で唯一意味のあることは、自殺をすることだ。死ぬことで、この呪いの連環を断ち切ることだ、さあ、勇気を出して、一歩を踏み出すのだ。そうすれば永遠の解放が得られる。

その勇気がない。だから足元を見られる。もし単純労働の奴隷どもが世を悲観して全員死んだら、広瀬すずのごとき才能あふれる人たちも困ることになる。けれども、奴隷は精神までも奴隷化しているから死ぬ勇気がなく、このくだらなく、無意味で、惨めな生にしがみつく。それがわかっているから、簡単に見下される。今私にできる唯一の意味あることは自ら死ぬことなのに。

哀れな存在であることよ。生まれてこないのが一番いいのだ。

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06月24日(水)

起床時刻:07時55分

なんたる天祐、昨夜9:30からグラブルがずーっとメンテで、インできず。
アサルトタイムに備えて肉だけ汁を使ってためていたが、インできないんじゃ、寝るしかないじゃん^^というわけで、速攻寝た。頭痛がひどかったので、ゲームなんかしたくなかったのだ。

私自身は、全く個人的事情でゲームをしたくなかったのでゲームをプレイできないことは大助かりだが、運営の姿勢はさすがにビビったわ。
そもそも団イベ期間中という、ヘビーユーザー、課金ユーザーのロイヤル層が一番ピリピリする時期の、それもプレイ人口が一番多いゴールデンタイムにメンテするとはいい根性してんな~、と。リアルマネーを使ってエリクシール課金してまでためた肉や戦績は無駄になるんだぞ。団のサポートにつっこんだ分も。弁償もんだよ、他の世界なら。

まぁこの時間にここまでメンテしているなら、よほど深刻なトラブルが発生しているんだろうとは思うけど。

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06月23日(火)

起床時刻:08時00分

疲れがとれない。
頭の芯がズキズキ痛む。
そんなときに夫の飲み会とは、まさに僥倖。助かった。
夕飯はブロッコリーとベーコンのパスタ、豚しゃぶのサラダ(豚ロースの薄切り、茹でたキャベツ、紫玉ねぎ、貝割菜)、缶チューハイ(珍しい)、さくらんぼ。

本当は団イベ中なのでずーっとゲームしなくちゃいけないんだけど、ちょっとさぼってyoutubeで色々な人のCasta Divaを聴く。ま、わたしはオペラは(オペラも)門外漢で、オペラ歌手のことも全然知らない。オペラ歌手より、まだエグザイルのメンバーのほうがわかるくらいだ。それはともかく、こんなに簡単に聴きたいものを聞けるなんて、なんて素晴らしい時代なのだろう。

ド素人の感想でいうと、やっぱり泣ける度合でいうと、マリア・カラスMaria Callasが一番なんじゃないか。
エディタ・グルベローヴァEdita Gruberováも本当に美声で素晴らしいけれど。まさに澄み切った歌声。youtubeで見たエディタ・グルベローヴァは60代らしいけど、信じがたい美声と声量。すごい人だ。
モンセラート・カバリェMontserrat Caballéもいいし、チェチーリア・バルトリCecilia Bartoliのしっとりと抑えた感じも好きだ。いぶし銀って感じだ。チェチーリア・バルトリって独特な声だなぁ。
まぁyoutubeにあがるくらいの人なら誰しも素晴らしいんだろう。

歌詞の内容はさっぱりわからないが、気持ちが洗われるようだ。

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06月22日(月)

起床時刻:07時30分

1945年12月に成立した「改正衆議院議員選挙法」では沖縄県民の選挙権は停止された。以下、『平和憲法の深層』(古関彰一 筑摩書房 (2015/4/6))から引用。

「1946年4月の選挙は、改正された憲法の是非を問う選挙であったから、沖縄県民は、この憲法の是非を問う埒外に置かれたのであった。つまりマッカーサーにとって「戦争の放棄」とは、沖縄に軍事基地化を強い、本土のみに適用される憲法で「戦争の放棄」を可能にした、と見ることができる。一方で、沖縄の基地化こそ、本土における「平和と民主主義」の限界を示すものであった。
こうした沖縄観はマッカーサーのみならず、憲法施行直後に昭和天皇も宮内省御用掛の寺崎を通じて次のようなメッセージをマッカーサーに送っている。
「寺崎が述べるには天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球の他の諸島を軍事占有し続けることを希望している。……天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上のー貸与をするという擬制の上になされるべきである」(進藤榮一『分割された領土』岩波現代文庫、2002年、66頁)」(P114)

「国民代表を選出する、しかも憲法を審議するための代表を選出する議会で、ある選挙区の候補者だけが選挙権とともに、被選挙権を奪われる、このようなことはまずありえないことだ。
しかも、沖縄県民は第二次大戦の最大犠牲者であり、県民すべてが三か月もの地上戦を経験していた。1945年12月で、いまだ帝国議会が存在し、沖縄の代表が衆議院議員として国会に議席を持っていた。沖縄選出の最後の議員の一人となる漢那憲和(元海軍少将)は選挙権が奪われるに及んで、その不当性をこう訴えた。

「帝国議会に於ける県民の代表を失うことは、其の福利擁護の上からも又帝国臣民としての誇りと感情の上からも洵(まこと)に言語を絶する痛恨事なのであります。此の度の戦争に於いて六十万の県民は出でて軍隊に召された者も、止まって郷土に耕す者も、各々其の職域に応じて奉公の誠を尽くしました。沖縄作戦に於ては、男子は殆ど全部が陣地の構築は勿論のこと、或は義勇軍を編成し或は徴集せられて戦列に加わり、郷土防衛に全く軍隊同様に奮闘し、師範学校及び県立一中の生徒の如き全部玉砕して居ります。又婦女子も衛生隊給與隊として挺身し、国民学校の生徒までが手榴弾を持って敵陣に斬り入んでおるのであります。……凡そ此の度の戦争に於て沖縄県の払いました犠牲は其の質に於て恐らく全国第一ではありますまいか。此の県民の忠誠に対して、政府は県民の代表が帝国議会に於て失われんとするにいたりまして、凡そあらゆる手段を尽くし、之を防ぎ止めねばならぬと存じます」
(第八十九回帝国議会衆議院議員選挙法中改正法律案外一件委員会議録-速記」第四回、1945年12月7日55頁)」(P116-117)

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06月21日

起床時刻:10時30分

『平和憲法の深層』(古関彰一/ちくま新書/2015.4)を読む。
日本国憲法は「GHQの押しつけ」と言われるが、実態はどうだったのか。議事録をはじめとする資料を丹念に拾い、推察していく。
第二章第四節「天皇制・沖縄そして九条」については何ともいえない暗澹たる気持ちになった。マッカーサーは昭和天皇の免罪のために九条で戦争放棄を謳い、その一方で(そのために、というべきか)、日本の安全保障のために沖縄を日本から切り離し軍事基地化することになった。いわば、昭和天皇の免責と戦争放棄がバーターで、これはマッカーサー元帥がレールを敷いたものだ。

それにしても”芦田修正”(その内実については本書で詳しく書かれている)の芦田は「改正憲法の最大の特色は、大胆率直に戦争の放棄を宣言したことであります。<略>我々はこの旗を掲げて全世界に呼びかけんとするものであります」なんて今時社民党でもいいそうにないことを言っていたんだねぇ。

本書の「はじめに」の冒頭は以下のような文だ。
「日本国憲法は、そろそろ七○年目を迎える。明治維新から数えて日本が第二次世界大戦に突入したのは七三目のことであるから、それはほぼ同一の期間を過ごしていると見ることができよう」

震災は忘れた頃にやってくる。戦災も忘れた頃に繰り返す、なんてことにならないことを祈るばかりだ。本書を読むと敗戦直後の平和を求める日本人の熱気が伝わってくる。

戦後すぐは「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と真摯に思ったかもしれない(憲法前文を誰が書いたかについても、本書で推察されている)。
今となっては「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する冷酷な現実を深く自覚するのであつて、国益を愛する諸国民の横暴と身勝手を警戒して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というところだろう。これが「時代遅れ」ではない「現実的な」考えというやつだ。恒久の平和を念願しているのは変わらないにしても(安倍首相は「積極的”平和”主義」を標榜している)、「平和を得るために戦争を放棄する」から「平和を得るために戦争もやむなし」に変わったんだろうね。

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06月20日

起床時刻:07時15分

今日は夫が外出。
梅雨の貴重な晴れ間、洗濯物を干して(これはいい)、ここに一週間分の日記を書いて(これは無駄)、お昼。

一人のお昼ご飯はゴーヤーチャンプルー、納豆、ご飯。旦那が嫌いな苦瓜に臭いが気になる納豆だって気にせず食べられるのは一人ならではの特権。
今日のゴーヤーチャンプルーは成功。木綿豆腐をしっかり水切りしたから全く水気が出なかった。私はゴーヤーチャンプルーをつくるとき、お肉にしょうがの擦りおろしとお醤油、お酒で下味をつけておく。味付けはしっかり目のほうが美味しい気がする。
食後は茂助だんごの水饅頭。餡のまわりの葛質の部分は、絶妙のぷるぷる感。中の餡もさっぱりしたこしあんで、夏だねぇという気分。

昨日、歯医者の定期健診で「歯はよく磨けていて歯肉も問題ないけれど、着色汚れが多い」と言われた。コーヒー、紅茶、お茶が大好きな上に、茶渋などがつきやすい歯みたいで、衛生士さんも同じタイプなんだとか。「だから私、お茶が大好きだったんだけれど、水を飲むようにしたんです。もう慣れました」と言う。

というわけで、私も朝はコーヒーをやめてお白湯にしたんだけど、水饅頭に白湯は無理でしょう、やっぱりお茶でしょう!!囚人だって白湯じゃなくてお茶を飲んでいるのに(知らないけど)、なんで無実潔白の私が白湯を飲まなきゃなんないのさ!!という気分になり、緑茶を淹れた。「薄~く淹れよう、そうすれば茶渋もつかないかも」と思ったんだけど、「いくらなんでもこの茶葉の量は少なすぎる」「いや、これは多すぎる」と微調整した結果、いつもよりちょっと濃いめくらいのお茶が出来上がったよwwwやれやれwww一日もお茶断ちできないなんて情けない。

そもそも、私ではなくお菓子が悪いのだ。和菓子には緑茶がつきもの、洋菓子にはコーヒーや紅茶がつきものなんだから。お菓子から断たなきゃ。

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06月19日(金)

起床時刻:07時15分

この日記も6/20(土)につけている。
この日は(って昨日だからまだ記憶も鮮明)、梅雨寒。
夜20時に歯科の定期健診にいく(夜21時まであいている歯科医院なのだ)。

先ごろここで治療した歯が少し痛むので相談した。詰め物の中が虫歯なのではないかと思って、レントゲン写真も撮ってもらったが、虫歯ではなさそうだ、という。もともと神経の近くまで治療した歯なので、神経が圧迫されて痛みが出るのだろう、とのこと。いずれ神経も抜かなきゃならないだろうが、なるべくなら抜かないほうがいい。なので、我慢できない痛みではなければ様子を見られたら、とのこと。
家に帰っても食欲はなく、ゲームを少しやって寝た。

はあ。年をとるにつけ、嫌なこと、辛いことばかりが増えていく。
「梅雨寒やいつまで続く歯の痛み」なんていう辛気臭い句が口をついたが、いかんいかん、そんな老人趣味のシミジミ路線は。高齢化社会の”一億総シミジミ”社会にあっては類句を避けるために(今まさに日本のどこかで「歯の痛み」について一句詠んでいる高齢者がいるはずである)、今時風の新素材を詠むべし、と先日ここに書いたたばかりである。

・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。
思いつかないなァ。

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06月18日(木)

起床時刻:07時15分

この日記も6/20(土)につけている。
ちょうど夫と帰りの電車が同じだった。トンカツ弁当を買って、あとはひたすらゲーム。予選突破の最終日だから、脇目もふらずゲーム。
必死にゲーム、ゲーム。エリクシールもソウルパウダーも使って、戦績を稼ぐ。おかげで本戦進出決定。はぁ疲れた><。

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06月17日(水)

起床時刻:07時15分

この日記も6/20(土)につけている。
この日は洗濯物を部屋干しして会社に行った。雨は降らなかったんじゃないかな。この日の記憶がほとんどないw
予選突破がかかっているから、間違いなくゲームはしたはずだけど。そうそう、会社帰りにデパートで、夫の父に「父の日」用のギフトを手配したんだった。実家の父にはピンとくるものがなく。よさそうな寝巻があったんだけど、1万6千円もしちゃあ、ちょっと買えない。

夕飯はパスタにしたんじゃなかったかな、ベーコンとしめじのパスタ、カプレーゼ(トマトとモッツアレラチーズ)、アボカド、焼いたピーマン。
しょっちゅうピーマンを焼いているように思われそうだけれど、実際、しょっちゅうピーマンを焼いているw 焼いたピーマンが大好きなんだもん。魚焼きグリルというよりピーマン焼きグリルになってるw

ただこの日のピーマンは苦味があったので、夫には出さず、私一人で1袋分、全部食べたw ピーマンは苦味が弱くて食べやすいときもあれば、今日のピーマンは昔風ピーマンで苦味が強かった。まぁそれも好きだけど。

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06月16日(火)

起床時刻:07時15分

この記録もまた6/20(土)につけている。
この日の天気予報では、午前中は晴れ、午後曇りだったので、外に洗濯物を干していったら、会社に着いた頃には大雨。土砂降りといってもいいほど。

天気予報が大外れだったわけ。もっとも家を出るときの生暖かい空気に、「これは気象が不安定なときの空気だから、やばそう」と思ったんだけど、時間がなくてそのまま出て来ちゃったんだよね。週間天気予報では雨が続くという予報だったし今日干しちゃおう、とも思って。

「チーム森田の天気で斬る」という私のお気に入りのブログによると6/17の「降水の有無の適中率」という記事(河津さん)にこんなことが書かれていた。
「気象庁が公表している、関東地方の降水の有無の適中率を見てみると、6月は年平均と比べて適中率が低く、冬型の気圧配置が現れて晴れやすい12月と比べると、10%以上も開きがあります。梅雨前線の南北の微妙な動きで雨が降るかどうかが変わってしまうため、どうしてもこの時季は適中率が低くなるのです。」
へー。季節によって適中率にも差が出るのね(私は「的中率」って書いていたけど、天気の場合は適中って書くのね。気象庁のHPでも「適中」だった)。

残業して家に帰れば洗濯物はビショビショ。
この徒労感を何にか喩えん。
まぁ洗濯物ぐらいで無力感を感じるなんて図々しいかも、もしこれが農作物だったとしたら、そのガックリ感は途方もないでしょうね。一年丹精をこめて育てた稲や果物が台風で全滅とか、想像するだにつらいものがある。

果実といえば、今年のさくらんぼはすごく美味しい。先日、初物の佐藤錦をさっそく食べたのだけれど、甘くて味が濃い感じ。
これまた「チーム森田の天気で斬る」の記事(先ほどの一日前の記事)「おいしいサクランボの秘訣」(青森の千種さん)によれば、「農家の方に伺ったところ、サクランボの出来を左右するのは「気温・日照時間・降水量(雨)」。 中でも、雨と霧は大敵だそう。 雨や霧だと実割れを起こし、水分が多くなるために甘みが失われてしまう」そうなんですね。今年の5月は晴天が多く雨が平年に比べても少なかったから、さくらんぼには好適だったのでしょうね。
農家ではビニールをかぶせて雨を防いだり、色々工夫をされているそう。感謝しつつ、さくらんぼをまた食べようっと。

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06月15日(月)

起床時刻:07時15分

今週は忙しく(仕事とゲーム)、この日記は土曜日(6/20)に書いている。この日は確かひどく蒸し暑かったような気がする。夜遅く、川沿いを歩いていると、むっとするような匂いが鼻をついた。しかも生理二日目で腰が重い。

この日も残業。
この日から団イベ。

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06月14日

起床時刻:10時00分

夫が某コーヒーショップで聞いた話。夫の近くに座っていた若い女性達の話の内容というのが、「彼氏が飲み会に行くときは浮気ではないことを確認するために1時間ごとにその場の写真をとってLINEで送らせる」というもの。事前にとっておいた写真ではないことがわかるように日付入りで。
それを聞いて夫はムカムカしたそうで、私に早速、報告してきた。

私はそもそもスマホを持っていないので、LINEを使ったこともないが(おいw)、もし私がLINEを使用するとしたら何を書くだろう。私がここに飽かず文章を書くのは「もの言わぬは腹ふくるるわざ」なれば、人には言えない胸のうちを吐き出して、いわば感情の便秘を解消せんがためである。LINEであればリアル知り合い相手だから、そんなことはできない。結局、余計な感情をまた一つため込むだけに思う。FacebookなどのSNSに全く興味がないのも同様の理由である。

「梅雨入りやLINEで語ることもなし」
などという駄句を思いついたが、それこそ「LINEで語ることもなし」などとLINEに投稿したりしたら全員不愉快だろうから、やはり天候の話題くらいしか書けないではないか。「梅雨入りだね」「そうだね」みたいな無難な会話しかできないではないか。んなこたぁないかw

俳句といえば、親へのメールに「梅の実の落つるにまかす空き家かな」と書いて送った後で、「落つるにまかす」っていかにもありそうだなぁと思いググったら出てきた出てきた。
「青梅の落つるにまかす身衰へ」(服部幸, 掲載誌『朝』, 2007.09)
うわあああ!!
しかも私の原案は「青梅の落つるにまかす高齢化」だったのだ。これだと完全に同じ、類句ってレベルを超えてパクリ。もともと、いくつもの丸々とした青梅がコンクリートの上で潰れているのを見て、梅の木の持ち主は庭の手入れも億劫な年齢なのだろう、と思ってつくった句なのだ。さすがに「高齢化」じゃ、なんか時事批評の川柳みたいだから、ちょっと変えたのだが、みんな思うこと同じなのね。

他にも「おまん地蔵落つるにまかす青ぎんなん」(桜井菜緒, 『濱』, 2002.02)もある。「落つるにまかす」は高浜虚子に「たまるに任せ落つるに任す屋根落葉」というのもあるそうで、「落つるにまかす」が常套、月並みな表現なのだろう。

今後日本が更に高齢化していけば、梅も柿も銀杏も落ち葉も「落ちるに任す」光景があちこちで見られるであろう。そして類句も続々とつくられるに違いない。日本自体が高齢化しているから、高度経済成長期に整備した高速道路や水道といったインフラストラクチャーも「朽ちるに任す」八重葎国家化しそうで怖いがw

このように落ちるに任したり朽ちるに任せる系は他の句とかぶりそうだが、LINEのほうはかぶりにくそうだ。なるべくLINEだのスカイプだのという新現象(でもない?)を詠んだほうが類句の危険は少なかろうw

もっとも短歌や俳句は日本文化の底荷(バラスト)である、という説もある。上田三四二の言らしいが、松岡正剛の「千夜千冊」から引用すると、短歌や俳句は「「現代の日本語というこの活気はあるがきわめて猥雑な船を、転覆から救う目に見えない力」となればいいのではないか、そういう磨かれた言葉のためのバラストになればいいと考えて」いたそうな。
となると、軽軽に新語や流行語を短歌や俳句で使うのは考えものであろう。それが後世に残していくべき磨かれた日本語たる資格を持つという確信がない限り。
もっともLINEにしろ、グーグルにしろ、こういった商標は他の言葉に置き換えることもできないけどねw。そしてこういった商標が動詞化していっているんだよなぁ。

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06月13日

起床時刻:07時20分

『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』(渡辺祐基/河出ブックス)を読む。実に面白かった。本書の狙いを一言でいうと「バイオロギングの明らかにした野生動物のダイナミックな動きを紹介し、その背景にあるメカニズムや進化的な意義を明らかにすること」である。本書の11頁にそう書かれているから間違いない。

例えばマグロは時速何kmで泳ぐのか。そんなに急いでどこにいくのか。
渡り鳥はどのようなルートで渡りをしているのか。

仮にクライアントからこのような仕事を請け負ったらどうしたらいいのだろう。私だったら拒否するけどwそうもいかない場合はどうするか。

「マグロになが~い縄をつけてぇ」とか低能丸出しなことしか考えられない人(私である)は、本書で紹介されるバイオロギングの手法にひれ伏すがよい。アルゴス、ジオロケータ、ポップアップタグ。そしてそれに至るまでのアナログ時代のバイオロギング手法。ショランダー、クーイマン、ウィルソン、そして日本の内藤らの取り組みが紹介される。アナログ時代の創意工夫に感心する。

先人たちの試行錯誤により、興味深い事実が明らかにされてきた。
体重250kgのマグロは平均時速7kmで泳ぐ、とか。え?意外に遅くない?いやいや、これでも魚類の中では圧倒的に高速なのだそうだ。そのメカニズムについては本書を参照されたし。

あるいはバイカルアザラシは肥満度(脂肪率)と潜水パターンに相関があるという仮説を一匹のアザラシで証明せよ、という課題にどう答えるか。
答えを知ってると簡単に思えるが(本書を読んだからねw)、ゼロベースで発想できるかどうか。

鳥の滑空飛行は航空力学で説明できるが、羽ばたき飛行は説明できない。オランダのヴィデラー教授はアマツバメの模型を流水水槽に入れ、翼の周りで何が起こるのか調べた。流速を調整してレイノルズ数と呼ばれる物理量さえあわせれば、空気でも水でも違いはなく、全く同一の物理現象が観察できるから、そこに中性浮力の粒子を水に混ぜれば流れを可視化することができる。その結果、翼の周りでは前縁渦と呼ばれる特殊な渦が出ていることが分かったそうな。

私はこの手の本を読むと、調査手法にいつも感動してしまう。結果知り得たことも、もちろん重要だし興味深いが、その発見にいたる過程に感心するのだ。

最後に一言。本書でも触れられているが、バイオロギングで、ぜひニホンウナギの回遊経路を明らかにしてほしい。日大の塚本教授の研究により、産卵場所はグアムの沖合であることがつきとめられたが、ニホンウナギはどのような経路で日本にやってくるのかまだ不明だ。絶滅危惧種であるニホンウナギについてもっと知ることで、保護や完全養殖のヒントが得られたら、と思う。

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06月12日(金)

起床時刻:07時00分

残業。ひたすらコピペ作業。

我が仕事は賽の河原の石積みの如き、単調にして際限なき作業の繰り返しなり、もっとも賽の河原の石積み作業は無給ゆえ、そこに大きな違いはあれども(むしろ家事に似たるか)、仮に賽の河原にて給金が出たならば、「罰」ではなくただの「仕事」とならむ。しかも底辺社会においては比較的よき部類の「仕事」なり。

ああ我が歩いて来たりし道を振り返るに、ただゴミのみぞ残れる。是皆石積みの残骸なり。鈴木真砂女の句に「人生きて残すは悔や簾捲く」とあるも、「人生きて残すはゴミや簾捲く」の方が正しからん。なんとなれば、今まさに捲いておるその簾も所有者の死後はたちまちゴミとなるは必定なれど(国宝級の簾を除く)、悔いは人が死ねばその人とともに雲散霧消するものなれば、一般庶民死して残すは名でもなく悔いでもなくゴミなり、というべきなり。

人は一生をかけてガラクタをまき散らすのみ、而してかかるガラクタを指し「成果物」とぞいえる。
我が残業してつくりあげしレポートも早晩、無用の長物、即ちゴミとなるべし。時間、紙、電気代、すべて無駄なり。健康を損ないて(我、腱鞘炎および眼精疲労を併発す)、ゴミを製造するとはまさに笑止千万、狂気の沙汰といえる。かかる無思慮が大手を振ってまかり通るのも、「仕事」なる言葉の幻惑力がためなり。「仕事」といえば、人を殺すのも人を騙くらかすのもゴミを撒き散らすのも何でも立派な一大事業なりと思う、浅薄なる自動思考の人間の多いためなり。

聖書に曰く、労働は楽園を追放されし人間の罰なり、と。太古の人間の曇りなき目を通してみれば(「ナポレオン・ヒル」も「七つの習慣」もなき頃なり)、労働は罰に非ざるべからず。日々の労働の苦しさ、虚しさに惑い悩みたる人間に一番得心のいく説明が「労働=神の罰」説ならん。

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06月11日(木)

起床時刻:07時00分

近所の踏切の脇に咲いているきれいな雑草、あれなんていう花なのだろう?白と薄いピンクの可憐な花。
と思って調べたら、「昼咲き月見草」って言うんだって。
グーグル先生が有能すぎてビビるわ、こんなふわっとした疑問も解決するんだもの。

”デジタルネイティブ世代”と私らアナログ時代に子供時代を過ごした人間とでは、知識の蓄積量が違ってくるのだろうな。だって私ら石器時代の子供たちは「あれって何だろう?」「これって何だろう?」と思ったとしても、①親に聞く②家の百科事典を調べる③図書館で調べる、くらいしか術がなかったし、となると、「面倒だからいいや」となって、結果的に全く知識が蓄積されなかったのである(少なくとも私はw)。

それはともかく、「ヒルザキツキミソウ」はwikiによると「北米原産の帰化植物であり、観賞用として輸入・栽培されていたものが野生化している」んだって。線路脇の雑草ばかりの荒れ地にだって咲くのだから、たくましい。

少し前に咲いていた、別の種類のきれいな雑草はオレンジ色でケシの花っぽかったのだけれど、あれはナガミヒナゲシ(長実雛芥子)って言うんだってさ。繁殖力がヤバいくらいにすごいらしい。「ナガミヒナゲシはアレロパシー活性が強く、雑草化リスクが大きいので、広がらないようにする必要があります」とのこと。
http://www.niaes.affrc.go.jp/sinfo/result/result26/result26_38.html
へー。アレロパシーなどという聞いたことない言葉も知ることができる。インターネットってすごいな。

文字の発明、紙の発明、印刷機の発明、そしてインターネットの発明。人類の歴史をみると、着実に知識を得るためのコストが低下していっている。多くの知識に容易にアクセスできるようになって、一般庶民レベルの知のレベルはどんどん上がっていく。素晴らしいことだ。
ここで新聞のコラムだったら「知識は増えたが、知恵はどうか。知恵は未だに簡単には得ることはできない」などと付け加えるところだろうw

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06月10日(水)

起床時刻:07時10分

「朝イチ」は「特定空き家スタート」についての話題。増加する空き家を背景に「特定空き家」制度(認定されると土地にかかる固定資産税が最大6倍に増額される)が始まったのだそう。
誰の所有物かもわからない空き家のそばで、高額の新築の一戸建てが売られている。他人のオンボロ家屋か新品の高額住宅かしか選択肢がない。日本の住宅寿命は30年と言われているから、家主が死んだ頃にはその家はたいていただの粗大ゴミとなってしまう。

数千万という大枚をはたいて買った家屋が30年で粗大ごみ化しなければいいのに。中古住宅がそこそこの値段で売れるのなら、空き家とならず流動性が高まるのではないか。
もともと日本の住宅市場においては、年月とともにゴミ化する安普請住宅でも土地の値段がずっとあがっていたから、そちらで資産となったいた。要するに右肩上がりの土地神話のおかげで、住宅の長期的な品質や資産価値については問われなかったが、今やそのような土地は都心など一部に限られる。また、家を解体することは大量のゴミを出すことであるから、エコロジー的にもよろしくない。

「意外な住まいの常識、ベスト10 クイズに挑戦」という日経の記事(2015/4/19)によると、日本で流通している全住宅のうち、中古住宅の割合は10%前後だという。「国土交通省によると、日本で流通する住宅のうち中古住宅は13.5%(2008年)。米国の90.3%、英国の85.8%に比べ大幅に低い。空き家は多いが圧倒的に新築が好まれる。国は「いいものを造り、長く使う」社会への移行を目指し、中古住宅の割合を20年までに倍増させる目標を掲げている」とのこと。

「いいものを造り、長く使う」が可能になるためには、日本に住む以上必ずくるという大地震への備えが必要だろう。まずは住宅の耐震性を高めることそして地震の際の防火防災に直結した街づくりが必要だろう。そうでなければこと家に関しては「いいものを造り、長く使う」社会の到来は難しいだろう。

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「飲食は一人に限る鱧湯引き」
夫が飲み会で不在。わーい、わーい。
夕飯は鱧ではなく、蕪の葉っぱのパスタと残りものの鶏の照り焼きと残りもののワイン。The主婦ッ。
蕪は青森は野辺地の小蕪。柔らかくて、大変美味しい。
先日、別の産地の蕪を買ったときは筋張っていて閉口したが、青森の蕪はそんなこと全然なくて、まるで別の品種みたい。

パスタはまるまる3株の葉っぱと蕪(根の部分)一つを使う。味つけはにんにく、アンチョビ、ドライトマトと塩だけ。レシピは『そうだ!パスタにすればいいんだ!』(坂田阿希子)より(ただしレシピでは葉っぱしか使わない)。柔らかい蕪の葉っぱを使ってレシピ通りにつくれば間違いない。とはいえ、夫には絶対に出せないけどね、こんな”大根飯”のパスタ版みたいなものwww

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06月09日(火)

起床時刻:07時30分

「ふと香る すれ違いざま サロンパス」
季語がない。
いや、サロンパスが季語かもしれない。
そんなわけないか。
日曜日にマッサージを受けたのだけれど、もみ返しがひどくて、サロンパスを貼った。

「長雨や 残り香ほのか サロンパス」
季語も入れてみた。サロンパスを貼ると服にもサロンパス臭が残っている。ちなみに私はサロンパスの匂いが結構好きだ。
って、もうサロンパスの話はいいか。

朝ごはんは昨日の残りのキムチチャーハンと納豆、大根おろし、焼きのり、ヨーグルト。キムチ、納豆、ヨーグルトと発酵食品の勢揃い。ものすごい臭いでもある。なのに便秘のああ不思議。

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06月08日(月)

起床時刻:07時15分

朝食はカボチャとひき肉、トッピングにチーズ。全粒粉のパン、ヨーグルト、カフェオレ。カボチャとひき肉美味しいな。昨日の夕飯用に作ったんだけど量が多くなったので食べなかった分。豚ひき肉はにんにく、細かく刻んだベーコンと一緒に炒めてハーブソルト、ケチャップ、ウスターソースで味付け、炒めたカボチャとあわせて上にチェダーチーズをのっけただけ。オーブンで焼き目をつけようかと思ったけど、暑いのでやめた。そのままでも十分美味しい。

会社の帰り、一台電車を待って席に坐ろうとしたら、横から猛烈な勢いで割りこまれて席を横取りされたのであった。私の半分ぐらいの年齢の、若くて小太りで、健康そのものにみえる、もっさりしたお嬢さんである。それで我ながらびっくりするほど頭にきたのだが(「怒髪、天を衝く」とはこのことか!ってレベル)、しばらくするとさすがに冷静になった。なんでこんなに腹がたったんだろう。我ながら怖いくらいに頭にきたし、呪えるもんなら呪っていたね。実際「横取りしてまで座ろうとする根性だから、若いのにデブなんだよ!!」と内心毒づいていたからね。もちろん怠惰だからデブになるというのではなく、むしろ遺伝や体質の要素のほうが大きいと、常日頃は思ってはいるのだが。我慢する力が衰えているのかなぁ。

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06月07日

起床時刻:10時00分

久しぶりに夫のDV。
「不愉快なことを言うな!」ってやつ。
できるなら女から言葉を奪いたいだろう。
まぁ実際、歴史を見たら、男は女から言葉を奪い続けてきたわけだが。

いつもの下らない理由。
私が洗濯や掃除でバタバタしているときに、夫が「シリアルを牛乳につけといて」というから、「自分でやれば?朝からゲームしかしていないんだから」って言ったこと。まぁ余計なひと言には違いない。「黙ってやれ」ってこと。

私は子供がいなくてよかったとしみじみ思う。
息子がいたとして夫みたいな大人に育ったとしたら、ぞっとする。
夫にはわからないだろう、自分は何の非もない、「怒らせるお前が悪い」としか思っていないのだから。

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06月06日

起床時刻:09時00分

朝ごはん。目玉焼き、キャベツとベーコンの炒め物、パプリカのマリネ。夫「遅い!!」。パプリカを焼いて皮をむくのが時間かかるのよね。まぁ目玉焼きだけ出せばいいんだけどさ。あとは全粒粉のパン、はちみつとバター。

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06月05日(金)

起床時刻:07時30分

「万物は一瞬も留まらず、変化し、消えていきます。<略>
私たち自身も変化し、やがて散る存在です。しかし、私たちには「意識」があります。本当は変化をしているのに、現状を維持し、変わっていないと思うとする「意識」です。これによって形作られる自分は、本来の自己ではなく、「自己イメージ」です。
変化する「自己」と、変化しない「自己イメージ」。時間とともにその乖離は大きくなります。両者が離れれば離れるほど矛盾が生じ、無理が起きます。ふだんは無意識のうちにその矛盾を修復しているのですが、それが修復できないまでに大きくなったとき、突然人生に深淵なクレバスが出現し、あらゆることの意味を喪失し、精神や身体に破綻を来したりします」(『体と心がラクになる「和」のウォーキング』安田昇P189)

前にも書いたが、老化に伴う悲劇とは自分はいつまでも若い頃と同じ自意識なのに、外見や肉体は醜く衰えてしまうこと。

人生っていうのは必ず負けるレースへの強制出場である、負けに向かい続ける未来に対して自意識を微調整し続ける必要があるのかもしれない。

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