201508 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:07:52

起床時刻の記録 ▼新しい順 ▲古い順 RSS

08月31日(月)

起床時刻:07時20分

08月30日

起床時刻:09時30分

新涼を迎へて命伸びにけり(大げさ)

日別画面へ

08月29日

起床時刻:09時30分

夫は、隣の家の物音がうるさいと壁を叩く(時もある)。通常は一回、ドンとやるだけだが、この日は何度も壁を叩いており、それでもまだ物音をたてる隣に頭にきた夫がドンドンドンと複数回壁を叩くと、隣も(初めてのことだが)ドンドンドンと叩き返してきた。
それでうちの旦那がブチーーーンとブチ切れて、隣に乗り込んで文句を言ったところ、先方はこちらにだいぶ気をつかっていて(既に過去に複数回文句を言いに行っているので)、風呂場の音がひびくのを防ぐために風呂場の床にマットを敷き詰めていたそう。

先方がかなり下手に出るので旦那の怒りもだいぶおさまったみたいで、だけれども「現場検証をする」といって隣の風呂場に上がり込み、私に電話してきて、その場で風呂桶を置いたりして「これはひびく?」「これは?」などとやりおった。どれもひびく(少なくとも旦那には)ので、そう言ったら、かなり気を遣ってそっと置いてもやっぱり響くことが判明した。

お隣は子供が生まれたばかりで奥さんはげっそりしていたそうで、「壁をドンと叩かれるとびくっとするので、お手数ですけど、口頭で注意していただけると助かります」と言われたそう。私も「壁を叩くんじゃなくて文句があるなら言いにいけば?」と言うのだが、「めんどくさいだろ!」と言われておしまいなのである。

まぁうちの旦那は、すぐに頭に血がのぼるし、血がのぼると手が出るからね。脳溢血一直線コースである。
とはいえ、夫は自分では「だいぶ丸くなった」と言っていたが。お隣の奥さんが聞いたらびっくりするだろうが、確かにこれでも丸くなった。
隣の旦那はぼーっとした感じの優しそうな方だから、うちの旦那みたいな神経質で短気な人間には慣れないだろう。

それにつけてもうちは子供がいなくてよかったよ。子供がうるさかったら旦那がどんだけ切れていたことか。まぁ確かに子供とはいえ、うるさいのはよくないが、家の中でも旦那を気にしてビクビクしなきゃいけないのは、子供には気の毒である。

日別画面へ

08月28日(金)

起床時刻:07時30分

朝、会社に行ったら二日連続で徹夜の菩薩君が仕事をしていた;;。
いっとくが菩薩君は残業代が一円も出ない。なのに、菩薩君、いつも通り和やかでにこやかだ。二徹なのに、8時間熟睡した人みたいなんである。信じられない。私なんかちょっと睡眠不足なだけで、イライラ、イライラして不機嫌になるのに。

しかも、やっていた仕事は厳密にいうと菩薩君の担当じゃない仕事。担当者がいっぱいいっぱいなので、いつでも菩薩の笑みを絶やさない菩薩君が「あ、僕やりますよ」のノリで徹夜仕事をするわけだ。まぁ、元の担当も連日午前様(午前様といっても1時、2時ではなく、3時、4時)だし、菩薩君に比べれば線が細いタイプなので、私も心配しているんだけど。

どうやったら菩薩君みたいな人に育つんだろう?純粋に不思議。なので、菩薩力研究者として日々菩薩君のことを根堀り葉掘り色々聞いている他、菩薩君(観音菩薩系)と、菩薩君には及ばないものの準菩薩クラスの人格者である社長(文殊菩薩系)を観察している。

その結果一つ言えるのは体力があることだ。社長も菩薩君も体力が半端ない。二人で徹夜で会議していて、頭が通常通り(ということは熟睡した私よりも)働いている。
体力は必要条件であって十分条件ではない。体育会系の脳筋バカはいっぱいいる。でも、疲れていたり自分が具合が悪いときには電車で人に席を譲れないように、自己中心的になってしまう。やっぱり、体力があることは菩薩力の第一条件な気がする。ということは、年をとるとともに体力は低下するから菩薩力も必然的に衰えるということである。年をとると、見た目だけではなく性格まで劣化する可能性がある、ということだ。

だから年をとればとるほど「ありのまま」であるべきではない。やっぱり意識して、人格を陶冶するように、菩薩君のように、怒らず、恨まず、はしゃがず、にこやかで、こまめで、骨惜しみしないように、年をとればとるほど意識しないといけない。

でも怒りやつらさを「我慢する」と我慢の負のオーラが出ちゃうんだよなぁ。いっぱいいっぱいの担当者君は「我慢」の負のオーラが出まくりなんだけど(それも無理からぬことなんだけど)、社長と菩薩君は我慢オーラがゼロなんだよね。我慢しているっていう感覚がないみたいなんだよねぇ。これが大事なんだけど、難しい。

日別画面へ

08月27日(木)

起床時刻:06時45分

残業して帰って来たら、今日の対戦相手は勝てそうと言うので、夕飯も食べずにゲーム。はーあ。これを必死と言わずに何を必死というのか。

「小説だけが発見できるものを発見すること、これだけが小説の存在理由だと、ヘルマン・ブロッホは繰り返しのべていますが、<略>。
いままで未知のものであった実存の一部分すら発見することのない小説は不道徳なものです。認識こそ、小説の唯一のモラルなのです」(ミラン・クンデラ『小説の精神』)

日別画面へ

08月26日(水)

起床時刻:07時15分

昨日は団イベの中休み。
久しぶりに早く(12時は過ぎてるけど)寝た。中途覚醒はやっぱりある。
残業で遅くなったのだけど、世の中の主婦は残業で遅くなったときの家族の夕飯はどうしているんだろう?

「人間の生が罠であること、これは人間がつねに知っていたことです。人は生まれることを願ったわけでもないのに生まれ、あてがいぶちの肉体に閉じ込められ、死はまぬがれません。」
(「小説技法についての対談」『小説の精神』より)

日別画面へ

08月25日(火)

起床時刻:07時25分

団イベ。
累積貢献度の本戦足切りボーダーラインが1億と予想されていて、「まさか」と言ってたら、1億じゃダメ、1億1千万でも落選。2403位(以上が本戦進出)の累積貢献度1億1千328万。
これエリクシール使いまくって1億1千万で落選した団とか、今、ホント虚脱状態なんじゃない。
私も珍しく個人戦績でも上位3千以内。昨日の夜辞典では上位2千以内だったんだけど、スマホじゃないもんで、日中できないからランキング落ちたわねw
プレイできるのは朝と夜だけなんだけど、ほんと、エリクシールがぶ飲みよ。
一切、他のことできないからね。

それにしてもずーっとただ機械的にポチポチボタンを押して敵を倒すだけのお仕事。しかも結構な大金を払ってまで。
人間って簡単に踊らされるのね。

日別画面へ

08月24日(月)

起床時刻:07時15分

先日『不滅』から引用した一文(「年齢の序列では、赤ん坊が頂点にあって、それから子供が、つぎに青少年が、それからはじめて大人が来る。老人はというと、老人には価値のピラミッドのいちばん下、地面にいちばん近いところが残されている。」(P379))には続きがある。
「それでは死者は?死者は地下である。だから老人よりもさらに下に。老人はそれでもまだ、人間のあらゆる権利を認められている。死者は、それにひきかえ、死亡のまさにその瞬間にあらゆる権利を失うのだ。いかなる法律ももはや彼を中傷から保護してくれないし、彼の私生活は私的ではなくなってしまっている」

これはゲーテやヘミングウェイの死後、あれやこれやのゴシップ話や手紙のやりとりが出版されたことを念頭に置いた文章なのだけれど、大阪寝屋川市で中学一年生の男女が殺された事件の報道を見ていると、死者はあらゆる権利を失う、ということをやはり感じる。
見よ、犯人ですら、顔を隠しているのに(顔を隠す「権利」があるのだ!)、死んでしまった被害者側はありとあらゆる写真がばらまかれる。家族構成が、性格が、LINEでのやりとりが、公表される。明らかに捜査上必要ないものまで。

増上寺の墓が改葬された時、将軍家の骨が学術調査の対象になった。この結果は実に興味深く、面白かったが、死んでしまえば将軍も実験動物の鼠と同じ、採寸され、写真をとられ、いじくりまわされる対象物となる。
皇女和宮は身長143センチと当時の人間にしても小柄で「極端な反っ歯」で「奥歯に虫歯があり歯石が多い」などと記述されてしまう。
かくして皇女は”データ”となり、私のような野次馬に面白がられる対象となってしまう。

死んでから時間が経っていること&「有名税」が課せられる和宮、ゲーテ、ヘミングウェイはともかく、一般人でしかもまだ関係者(親御さん!)が存命の間は、死者に対しては、最大限、そっとしておくべきだろう。

日別画面へ

08月23日

起床時刻:09時15分

団イベ(@ぐらぶる)のため12時間ぐらいぶっ続けでゲーム。
私の手持ちの中で闇パは一番強いのでエクストリームをソロで回しているけれど、エリクシールの消費が半端ない。夫はエリクシール課金したらしい。新キャラが出るたびにガチャ回しているし、いくらこのゲームに突っ込んでるんだ。

日別画面へ

08月22日

起床時刻:09時15分

「災いが人間の上に襲いかかると、その人間はそれを他のひとびとの上に撥ねかえせる。それが口論とか、喧嘩とか、復讐とか呼ばれているものなのさ。しかし、弱者には自分の上に襲いかかる災いを撥ねかえせる力がないし、自分自身の弱さに屈辱を感じたり苦しめられたりするし、その弱さを前にして完全に無防備なままになっているんだ。弱者はもう自分自身を破壊することによって、その弱さを破壊するしかない。まあ、そんなふうにして、その娘は自分自身の死を考えはじめたというわけだよ」
(P383 『不滅』ミラン・クンデラ)
よくわかる。
*********************

昨日の夜からIHヒーターがつかなくなった。
夜間受付に連絡して明日、修理にきてもらうことに。
暑いなか、日傘が壊れたので日傘もささずに図書館に本を返して、パン屋でパンを買い、スーパーで買い物をして帰ったらすごく疲れた。
具合が悪くて午後は横になることに。
ここ1週間くらい喉が痛い。風邪にしては喉以外どこも痛くない。
喉は寝起きが一番痛い。

夜からは団イベ。やれやれ。エリクシールがぶ飲みでやらなきゃ。。

私たちがゲームをやっているのではない。ゲームが私たちにゲームをやらせているのだ。笛を吹かれて踊る蛇のように。おかしなことに蛇ならぬ人間は自分の意志で踊っていると思うのだ。踊らされているだけなのに。

日別画面へ

08月21日(金)

起床時刻:07時15分

「絶対に現代的であるというのは、自分自身の墓掘人どもの同盟者であることである」(P215 『不滅』ミラン・クンデラ)
『アート・ヒステリー』(大野左紀子)にモダン・アートの歴史は「父殺しの歴史」だと書いてあった。つまり父親世代の美術=権威を否定することが現代アートの”現代”であるゆえんなのだ。「時代遅れ」として墓に葬られたくなければ、老骨に鞭打ち、永遠の「若者」たらんとせざるをえない。若者という墓を掘る側に金魚の糞よろしくくっついていなければならない。

「もう若いとも面白いとも思えないと決定されてしまった」男は、娘に慰めを見出す。「娘に好かれていることを彼は知っていたし、妻に好かれていることよりも、そのほうが彼には大事だった。なぜならば、娘の敬愛のまなざしは、アニェス(妻※引用者注)のあたえられないものをあたえてくれるからだ。彼はまだ若さを失っていない、ずっと若者たちの一部でありつづけているという証拠をあたえてくれるからだ」
「娘がいるということはエネルギー蓄積器のように彼に作用し、彼はそこから力を汲みあげるのだった」

娘、息子のみならず、「若い友人」たちに「元気をもらっている」中高年たちもエネルギー蓄積器のように力を汲みあげている。自分はまだ若い人と友達になれるのだ、身も蓋もない言い方をすれば、若い人たちに相手にしてもらえるのだ、という自信がわいてくるわけである。あるいは、時代に置いてけぼりにされていないという安心感が。

我々はいつでも若くありたい。いつでもアクティブに、いつでもポジティブに、いつでも夢や目標を持って、いい年こいたオッサンオバハンがうぶな高校生のように人生に向き合うことを奨励され、自らもそのように行動する。「膝が痛い」などという「ネガティブ」で「不健康」で「不愉快」なことを言う「年寄り」は敗者(もちろん加齢も自己責任)として見下され無視される。もっとはっきりいえば「年寄り」という存在そのものが「ネガティブ」で「不健康」で「不愉快」なのだ。まるでホームレス。

「年齢の序列では、赤ん坊が頂点にあって、それから子供が、つぎに青少年が、それからはじめて大人が来る。老人はというと、老人には価値のピラミッドのいちばん下、地面にいちばん近いところが残されている。」(P379)

日別画面へ

08月20日(木)

起床時刻:07時30分

「たぶん、われわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識してはいないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ」(P7 ミラン・クンデラ『不滅』)
そのせいで、中高年は「痛ましいおかしさ」をあちこちで引き起こすことになる。「若作り」という揶揄も、若くつくっているのではなく、本人の意識としては若いからだ。つまり本人の意識と実際の身体(=および他人からみたその人のあるべき意識)のギャップが、悲喜劇を起こす。

若い頃のキラー・スマイルが年をとってからはおぞましさしか引き起こさないこともある。本人はその魔力を未だ信じているが(そこがまた「痛ましい」のである)、その魔力は実はとっくにとけてしまっており、かつて魅力的だった若者の顔は、今や皺とシミとたるみのある老けた顔となり、かつては魅力の塊だった仕草が、その顔と身体に組み合わさると、痛々しく気持ち悪いものになってしまう。

一言でいえば「勘違い」なのだ。年をとると「勘違い」してしまいがちなのだ。
自分を王様だか女王様だかに思って振る舞う精神病患者のように。かつては王あるいは女王だったにせよ、年をとって、すでに王座から引きずり降ろされているのに気付かない。

その人にふさわしいと世間が想定する振る舞いから外れると、「嘲笑」「軽蔑」「怒り」を呼び起こす。中高年であれば、世間は中高年にふさわしい行動、態度、自意識を求める。しかし中高年たる本人は「たぶん、われわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識してはいないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ」。年齢とともに成熟するというのは幻想である。

日別画面へ

08月19日(水)

起床時刻:09時00分

友人とホテルオークラで飲茶。建て替えのため、本館は八月末で営業が終了するので、平日休みをとって行ってきた(週末は全部予約が入っていた)。
独特の和っぽい雰囲気の5Fのロビーも取り壊されるとあって、写真を撮っている人が多かった。

肝心の飲茶の方はというと、11:30~と13:30~の二交代制。最初に数品(干し豆腐のサラダ、餃子、シュウマイ、春まき、揚げワンタン)出された後は、好きなものを1個から選んでオーダーできる。お茶はジャスミン茶(ホットでもアイスでも)がついてきて、すぐに取り替えてくれる。
お腹いっぱいになって、メニュー全部制覇は到底無理。友人は私の1.5倍くらいは食べていたけど。
今日食べて次も頼もう、と思ったのは、クラゲの刺身(干し豆腐のサラダと同じドレッシング。クラゲが大きくてプルプル)、ピータン豆腐、大根もち、エビ餃子、翡翠餃子(にらの入ったスタミナ餃子風)、野菜のあっさり炒め ←さっぱり好みの人の好きなものばっかりw。

って次はどうなっているんだか・・・。今は食べ放題でゆっくりできて税込み3600円以下(蘭コースの場合。これで十分)とお得だけれど、建て替え後はグランドハイアットくらいの値付けになるんだろうなー。

日別画面へ

08月18日(火)

起床時刻:07時00分

夕飯をつくるのに時間がかかりすぎる。たいしたものをつくっているわけでもないのに。

新さんまの蒲焼丼(既に三枚におろしてあるサンマを買ってきた)、豚汁(既に出汁は冷蔵庫に用意していた。具材は豚肉、油揚げ、大根、ニンジン、牛蒡、干しシイタケ)、アスパラガスとハムの炒め物。こんだけよ?
さんまの下ごしらえもしてあったのに。出汁も一からとったわけではない。なのに1時間以上かかってる。ホワイッ??

料理と並行して片付けもしつつだからなあ。食べるときには鍋などは洗って拭きあげておき、食べ終わった後に片付けるだけにしておきたい。

夫は魚は嫌いだけれども、さんまの蒲焼は食べられる。でもレトルトのカレーの方が好きだろう。

日別画面へ

08月17日(月)

起床時刻:07時15分

「寝つけないこと、身動きすまいとすること。それが夫婦のベッドだ。」(『不滅』ミラン・クンデラ)

夫婦のベッドに限らない。社会生活を送るというのは、他人に気を遣い、ストレスと窮屈な思いを抱えることに他ならない。
大昔から、人は群れをつくり、子育てや狩りを協同で行うことで生存率を上げてきた。一人で生きていくのはほぼ死を意味したろう。

我々は皆、共同体で生きることに適性のある者の子孫であろう。人間の群れを避けて孤独を愛して去って行った者はそもそも子を残さなかったに違いない。

私だって本物の孤独ーロビンソン・クルーソー状態ーになったら、半狂乱になると思う。

しかし、適度な孤独、いや、単なる一人の時間でいいのだが、それは切にほしいと思う。それすらも女性(とりわけお母さん)にとっては「わがまま」で「自分勝手」なものとされてきたわけだが。
その理由をつらつら考えるに、「一人でいることを望む」=「相手を拒絶すること」=「失礼」「思い上がり」という心理が働くのだろう。
そのため、男性には書斎があっても、女性にはない。『不滅』のアニェスのように、女性には居間があてがわれるのだ。居間は来るものを拒まない。居間にはプライバシーはない。そういうオープンで常に相手を受け入れる存在、つまり決して「不可解」という”脅威”的存在にはならないことを、人(夫や子供)は女性(妻、母)に望むのだ。

日別画面へ

08月16日

起床時刻:09時00分

一昨日の「ぴったんこかんかん」というテレビ番組で、作家の林真理子氏が「”ご自慢の”京都を案内する」という企画でのこと。
梅が出てきたときに、種をそのまま吐き出しては汚らしいというので、センセイ、バッグから懐紙をとりだしてそこにペッとやっていた。
特注?のケリーバッグの中身が「整理整頓されていない」(by安住アナ)ためか、やたらゴソゴソ、ゴソゴソ、時間かけてなんか探してんなwと思って見てたんだけど、懐紙を出していたのか。あの懐紙にくるんだ梅の種をまた「整理整頓されていない」ケリーバッグに突っ込んで、バッグの中で5日間くらい放置してんじゃねwと心配してしまった。

「オシャレ」と賞賛する安住アナに「ある程度以上の年齢の人なら(懐紙持ってるの)普通じゃないですか?」(うろ覚え)とセンセイは言われていたが、そうなの?!
私、中高の頃はお茶のお稽古のときだけ袱紗やら懐紙やらのセットを鞄に入れて持って行ってたけど、今や家にすら懐紙ないw

街行く人の懐紙携帯率が知りたいw

そうそう、懐紙はともかく、わが社の女子はハンカチすら持ち歩かない!
毎回ハンカチを持たずにトイレに行くので(温風乾燥機やペーパータオルの備え付けはない)、「どーしてんの?」って聞いたらトイレに置いてあるティッシュ(ボックスティッシュ)で手を拭いているそうな。

彼女は「ハンカチは汚いから持ち歩かない」と宣言していて私を驚愕させたのであった。毎日取り換えるから汚くないもん!と言いたいところだが、実際はどうなのであろうか?やはり微妙に湿っていたりするしなw使い捨てが一番キレイというのは確かにそうだろう。

昔何かで読んだのだけど、中原淳一がハンカチは3枚持ち歩け、と書いていた。昔のことで記憶違いかもしれないが、おそらく、一枚は手拭き用、一枚はご飯を食べるときなんかに膝の上に敷く用、だろうが、もう一枚はなに用だったっけな?忘れちゃったが、ハンカチ3枚主義者からすると「ハンカチは汚いから持ち歩かない」時代は隔世の感だろう。さすがに3枚は多いんじゃないかと思うけどねw。洗濯して干すとき、ハンカチだらけになりそう。

食べるときにハンカチを膝の上に敷く率ってのもどのくらいか知りたい。
昔は結構、女性は敷いていたよね?母世代は手拭き用のタオルハンカチと、膝に敷く用のきれいな柄のハンカチと二つ持ち歩いている気がする。
今じゃ誰も敷かない。例のハンカチ持ち歩かない子も敷かないから、白いスカートの上におかずを落っことしていた。だいたい、お上品にハンカチを敷く派ほど、おかずを膝の上に落っことさない。落っことすようながさつな人間ほどハンカチを敷かない。上手くいかないもんだねw

日別画面へ

08月15日

起床時刻:08時00分

「前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル」(池田澄子)
何かを止める決断、終わらせる決断がどれだけ難しいか。
新国立競技場のデザイン案がここにきて白紙に戻ったのも、民意および首相のトップ判断という外からの力が働き、「時間がない」を言い訳に慣性の法則よろしく「前ヘススメ前ヘススミテ大借金」と動いていた組織がとまったのだが、これは極めて稀な例である。

「前ヘススメ、前ヘススメ」と号令をかける側は人の命に人の金(税金)だから、痛くもなんともないのである。遺体の山、税金の無駄遣いよりも、やめることにかかる自らの労力のほうがもったいなく感じてしまうのだ。

いや違うな、そもそも、所属する「組織」や「立場」にとりこまれて、官僚にせよ政治家にせよ、完全な思考停止状態になるのかもしれない。「優秀な人」ほど、組織や会社の「決めた方針」あるいは「既定路線」(「前ヘススメ、前ヘススメ」)に適応してしまう。

組織に対する愛着というのはもちろんいい面もあるのだが、悪い面もある。
自らの組織とポジションを守るという「立場主義」(@安冨歩)に固執し、自らの組織とポジションを守ることだけに全能力を割り当ててしまう。

号令をかけられる側はたまったものではない。

日別画面へ

08月14日(金)

起床時刻:07時15分

会社で高級焼肉に連れて行ってもらったが、慣れぬA5ランクの霜降り肉のせいで翌朝ひどくお腹を下すという悲劇。昼食はかけうどんにしたのだけれど、胃痛がひどくなり、夕飯は抜いた。これが昨日の話。
今日の夜は豚ロースのしゃぶしゃぶ、茹でたハンダマ、刺身こんにゃく、カイワレ大根の盛り合わせを辛子酢味噌で。小鉢は茹でた小松菜とあぶった油揚げを刻んで、辛子醤油で和えたもの。デザートはヨーグルト。
※夫にはこんなものは出せないので彼には中華丼。

はー。美味しい。
私、やっぱりこういう安いもので十分、またこういうものが体質に合うんだろうな~。
霜降り肉は脂っぽいたらないし、箸休めとなるようなサラダとかが出ればまだいいのだけれど、ナムルとキムチがちょこっと出ただけじゃどうしようもない。

お肉は4割りくらいで十分、あとは野菜やその他のものにしてもらいたい。
ってほんと連れていってくださった方には申し訳ないが、これもまた、私が胃弱&年寄だからということもある。若い人にはいいんだろうな。
人には好みというものがあるから、ほんと会食ってのは難しい。

日別画面へ

08月13日(木)

起床時刻:07時00分

『寄生虫なき病』がすごく面白い。

日別画面へ

08月12日(水)

起床時刻:07時15分

08月11日(火)

起床時刻:07時15分

水ようかんをつくった(材料は市販のこしあん、粉寒天、水)。見かけはきれいにできたけど、味は「コレジャナイ」感半端ない。”寒天の味がする羊羹”みたいな感じになってしまった。餡子の量が多かったのか、水の量が少なかったのか、寒天が多かったのか。
もっと清涼感あふれる、するっと、つるっとした感じが好きなのだ。

新潟の若松園義正の水ようかん、まさにあれが理想。
デパートの催事場でたまに売っているんだけれど、値段もお手頃価格で500円程度。なんなら通販で買っちゃおうと思ってググったら、倒産しておった。。。
なんでだろう?倒産の理由が知りたい。

日別画面へ

08月10日(月)

起床時刻:07時00分

朝、モーニングクロスを見ていたら(#クロスのハッシュタグのツイートが低レベルすぎて最近は見る気がしないのだが)、「軍事漫談家」という肩書の井上和彦という人が(初めて見た)、ラバウルに行ったときの話をしていた。つい先週のことだそうな。日の丸の小旗での大歓迎で、日本の軍人がいかに素晴らしかったか、日本の軍人で悪いことをした人は一人もいない、というのが現地の声で、いつまで中国と韓国の声ばっかり取り上げるんだ、本当のアジアの声も取り上げてほしい、といっていた。

そのラバウルの司令官がよほど優れた軍人だったんだろうね。
実際のところ、日本軍にだって人格的にも能力的にも優れた、ごく少数の軍人もいた。
しかし、他の官僚組織と同様、そうでないことの方が圧倒的に多かったし、「ラバウルで賞賛された」ことが中国で犯した日本軍の犯罪を減ずることにはならない。
あるいは従軍慰安婦について、「同じことを韓国はベトナムでやっていた」ことが日本の犯した罪を減ずることになろうか?
「なぜ日本だけ責められないといけないのか?いつまで反省しないといけないのか??中国や韓国(その他オランダなどなど)がおかしい!!」という声に今の日本人は「そうだ、そうだ」の声をあげている。
しかしながら、日本(とそこに井上和彦氏が言うようにアジア諸国も入るのかもしれないが)以外の国際世論が「そうだ、そうだ!!」と思うだろうか?「反省していない」「論点をすりかえる卑怯さ」としか映らないのではないか?

戦前においても、日本はプロパガンダ合戦では中国に負けていたのである。もちろん、そこには日本のプレゼンスを不快に思う列強の思惑が働いていたとはいえ、国際世論に対する説得力が欠けていた。

そもそも、従軍慰安婦の問題は中国や韓国がやいのやいの言うから反省するべきことでもない。自らすすんで何回でも思い出して反省し、今にいかすことなのだ。

2015年のアメリカ国務省の「世界の人身売買に関する報告書」では、日本については「「強制労働や売春に関わる人身売買の送り先であり、発信地でもある」として、4段階評価は主要7か国で唯一、上から2番目に据え置かれた。具体例としては、対価を払って女子高校生とデートするなどの「JKビジネス」が売春を容易にしていると指摘したほか、外国人技能実習制度で入国した研修生の一部が強制労働の状況に置かれていることを挙げ、改善を求めている」

「またアメリカが偏見で語って」「おまえがいうな」と「愛国者」さまたちは言うのだろう。しかし、こういった事柄を放置しながら「日本は素晴らしい!」と言い続けたって説得力がない。女性の性労働に関しては日本は特に慎重かつ厳正に対処し続けていく必要があるし、外国人技能実習制度については実態とかけ離れているのだから、「人身売買」レベルから変更する必要があるのは言うまでもない。

日本には改善すべきところがたくさんあるのに、そこに蓋をして、為政者に迎合しその尻馬に乗り、批判を封じるような、昨今の風潮。
歴史においても、当時の日記を読むと良識派で軍人の友人知人も多い大仏次郎だって、日本人の軍人や軍政府はひどいと批判しているのに、70年後の戦争を知らない人間が「日本の軍隊は素晴らしかった!!」などと言っているのを聞いたら頭を抱えるだろう。

日別画面へ

08月09日

起床時刻:10時00分

外を歩いていたらメンデルスゾーンの「春の歌」のピアノが漏れ聞こえてきた。うまくはないが、「春の歌」であることはわかる。私の友人が大学のオーケストラに入ってバイオリンを初めて弾くようになり、親の前でパッヘルベルのカノンを披露したところ、父親に「その”コガネムシは金持ちだ”はよく弾けてるじゃないか」と言われたらしいwww 違う曲だからお父さんwww

閑話休題。もとい、別の閑話。
ショーペンハウアーは省察の中で、顎のない顔が人に不快感を催すのは、猿に似ているからだ、といったそうなのだが、というのも、ミラン・クンデラの『生は彼方に』にそんなようなことが書いてあり(手元に本がないので、うろ覚え)、クンデラの小説の主人公である若き詩人は顎がない顔をしているのでショックを受け、でもリルケも確か顎がなかったと思い、慰められるというシーンがあった。

顎ねぇ、私は長い間自分の顎についてはノーマークであった。もっと他にマークすべき顔の欠点が多々あったからである。
顎の存在を意識しだしたのは割合最近で、友人(丸顔のかわいらしい人)が「もし自分の顔を一カ所、治すとしたら顎を出したい」と言ったのを聞いてからである。「ハァ?アゴぉ?」と思ったが、彼女はコーカソイドのアメリカ人と長年付き合っていたから、「顎」というパーツが審美的に重要な役割を果たすことを知っていたに違いない。

そう思ってあらためて周囲を見渡すと、日本人は顎がない、というか顎が目立たない顔が思いの他多いかもしれない。あっ、またここから日本人の自己醜悪視が始まってしまうw(『肌色の憂鬱』参照)。もうやめて、日本女性のHPというか自信ポイントはゼロよッ。

「【オールアバウト、コーセープロビジョン共同調査】
「海外3都市と日本女性の”自信”に関する比較調査」を発表
~ニューヨーカーの9割が自分に自信あり。日本人との差は2.5倍!!~
~日本には周りと比較して自信を失う”非ありのまま女子”が多数~ 」
http://corp.allabout.co.jp/corporate/press/2015/150630_1.html

調査対象は20代、30代のフルタイム有職者女性、調査実施期間は今年の6月。
あああ、日本女性は骨の髄まで自分に自信がない。

ニューヨーク、パリ、ソウル在住のフルタイムで働く女性各206名に対し、自分に自信があるかどうかを聞いたところ、ニューヨークは96.1%、パリは82.5%、ソウルは76.7%が「ある」(「どちらかといえばある」を含む)と回答。
一方、2015年4月に発表したオールアバウトとコーセープロビジョンによる「日本女性の”自信”に関する調査」によると、「自分に自信がある」日本女性はたったの38.7%。TB(自信がある)でみても、NY66.5%、パリ44.2%、ソウル22.3%、日本9.1%。

なぜだ?韓国人には『肌色の憂鬱』はないのだろうか?!
確かに韓国人はニューヨーカーやパリジェンヌに比べ自分に自信がないけれども、4都市比較で一番「自信をつけるための努力をしている」(82%)。一方、日本人は「自信をつけるための努力」もまた圧倒的に低くて51.1%。「韓国人はどうせ整形でしょ」とか愚痴を垂れつつ、自信喪失しているくらいなら、とっとと整形しちまえよwって言いたくなるわい。
もっとも韓国人は『肌色の憂鬱』というか「肌の憂鬱」はないみたいで、韓国女性の自信ポイントは「肌」がトップ。羨ましいなー。
日本だと、自信があると思う項目は「特にない」(33.3%)が最も多く、10ポイント以上下がって「仕事の出来」(19.7%)、「肌」(17.5%)が続く。
一方、ニューヨークでは全ての項目における数値が平均して高く、1位「仕事の出来」(57.8%)、2位「頭の良さ」(55.8%)、3位「性格」(53.4%)という結果。パリは1位「整理整頓」(39.8%)、2位「仕事の出来」(39.3%)、3位「頭の良さ」(37.9%)と2都市とも内面的な部分に自信。ソウルに関しては「肌」(31.6%)が一番多いのが特徴。
なお、今回調査した3都市で「特にない」を挙げた人は相対的に少なくニューヨーク・パリでそれぞれ9%、ソウルで11%程度であることから、「日本女性の自信のなさが一層際立つ結果」とのこと。

All About「恋愛」 ガイド 吉戸三貴氏によると、
「日本の女性たちは、まだまだ自分を過小評価する傾向があるようで」「自信を持つということに関しては、海外の女性が「自分がどう思うか」を判断軸にしているのに対し、日本女性は「周囲にどう思われるか」を中心に考えてしまうことが多いのではないでしょうか。数値など明確な基準がある「スタイル」は、海外でも自信のない項目1位になっていますが、「仕事の出来」(ニューヨーク1位)や「整理整頓」(パリ1位)などは、自己評価による部分もあり、日本女性も考え方を少し変えるだけで十分に自信を持てる項目と言えるでしょう」
と言う。

「日本女性も考え方を少し変えるだけで十分に自信を持てる項目と言えるでしょう」?本当にそうなのか?
私は別の要因も言わせてもらいたい。
日本女性がルックスだけではなく仕事も頭の出来もなーんも自信がない理由はここ十数年先進国において唯一、給与が下がり続けているからである。
「日本だけ賃下げ!賃金の国際比較」
http://matome.naver.jp/odai/2137073785257146801/2137077135365398703

毎年毎年、給与が下がり、派遣かパートの使い捨て労働者が大半なのにどうやったら自分の仕事のスキルに自信を持てるのか。

それから日本人の自己醜悪視という長い長い歴史もある。日本人の自己醜悪視の歴史について、『肌色の憂鬱』について引用した8/7の記事を参照せよ。

だから、「日本女性も考え方を少し変えるだけで十分に自信を持てる」などという軽々しいものではない。根深いものがあるのだ。でなけりゃこんな突出して低くならないって。

日別画面へ

08月08日

起床時刻:08時00分

昨日、夕食後に無花果を食べたら、生のパイナップルを食べたときのように、喉がひどくイガイガした。今まで無花果でこんな目に遭ったことはないのだが。
食物アレルギーだろうか。大人になって発症する食物アレルギーは果物や野菜のアレルギーが多いらしい。花粉症がその原因にもなっているようだけれど、私は花粉症ではない(←唯一の自慢)。
胃もなんとなく重い。今度アレルギー検査でもしてみようかしらん。遅延型の検査の場合、保険がきかないので3万くらいかかるのだが。

『「肌色」の憂鬱 近代日本の人種体験』(眞嶋亜有/2014.7/ 中公叢書)を読み終わったが、付箋をつけるところがいっぱいあったな。
一つ、ヒシヒシと感じたのは、なんといっても我々日本人の健忘症ぶりだ。本当に歴史を忘れすぎている。自らが差別した歴史については中国・韓国がやいのやいの言うので忘れてはいないが(しかし、都合よく健忘症になり歴史を書き換えようとしている)、自らが差別されてきた歴史についてもコロッと忘れるのである。排日移民法なんてもうすっかりコロッと忘れているのだ。制定された7月1日を「国辱の日」と新聞は書き、日本ではマスヒステリーの様相を呈するほどの「激昂」ぶりだったのに。

だから反米だというのではもちろんない。問題は日本人が無自覚のうちに歴史をコロッと忘れ、「無」であることをいいことに平気で脳内補完して自分が一番傷つかない、やさしい物語に書き換えようとしていること、その狡猾さと弱さが大問題なのだ。

そして日本政府が行ってきた棄民政策(日本国内における人口膨張への解決策として日本政府が地方の農村部を中心に奨励した)についてもコロッと忘れて、政府がやることに何でも賛成するのが「愛国者」だと思っているバカが増殖しているのだ。

今日では少子化が問題とされるが、かつては日本人の多産性が問題だった(アメリカでの排日の要因の一つとしても当時は挙げられていた)。
安岡秀夫は『一日本人の弁明』(19た23年)で日本人の弱点は二つあって、一つは他の富強国と人種が違うこと、もう一つは「人口過剰天恵貧弱」であることだと言う。せっかく天恵貧弱国土極小にあわせて少子化したのに、問題だ、問題だといっているのは、子供が減ることではなく、高齢者が増えたことなのだ。
だから「少子高齢化問題」というのは欺瞞であって、「高齢者増加問題」が正しい。ほら、ここでも日本人は言葉を書き換えて無意識のうちに「やさしい物語」にしてしまうのだ。8月15日の敗戦日を終戦記念日に置き換えるようなもんである。

それはともかく、天恵貧弱(これだけは日本の長い歴史において全くぶれないw)にもかかわらず、高齢者の人口が増えており、そのような「無為徒食」の人間を養う力は日本にはないころが問題なのだ。となると、どうなるのか。新たな棄民先といっても、高齢者などどこもお断りだろう(日本だってそうである。経済界は移民政策を推進しようとしているが、高齢者はただの一人だってお断りであろう。介護される側ではなく、介護労働をする側だけがほしいのだ)。

どうするんだろうね、年金は破たんするだろうし。高齢者が急激にここまで増えたことは歴史上ないし、欧米先進国を上回るスピードなので、いつものように欧米を参考にすることもできない。日本に何が知恵があるかといえば、何もないだろう。いつもの精神力(要するに我慢)でなんとかするしかないってやつになりそう。

日別画面へ

08月07日(金)

起床時刻:07時15分

『「肌色」の憂鬱 近代日本の人種体験』(眞嶋亜有/2014.7/ 中公叢書)から引き続き引用。

「要するに、日本にとって西洋は、完全なる他者であった。にもかかわらず、あまりの異質な他者である西洋を権威化し近代化を推し進めていった日本は、自己否定をともなわざるをえなかった。
この、西洋にはあるが日本にはない、だから日本は駄目なのだ、という自己否定の思考的パターンが、どれほど知識層、エリート層に浸透したかは、もはやここで説明するまでもない。
西洋の権威化を真っ向から受けたエリート層及び知識層が西洋に対する根深く根強い劣等感を抱かざるをえなかったのも、そこにいいようのない「苦痛」を抱きつづけてきたのも、いみじくも漱石が「必然の結果」と説いたように、近代日本の必然的帰結であった。
非西洋である日本が西洋と一体化しようとしたことでみられた不具合は、可視的領域では人種的差異をはじめとした身体的な要素にみられ、また、不可視的領域では歴史伝統に根付く思想・宗教といった精神的要素に多分にみられたのである」(P346)

「本書が扱ってきた日露戦争前後から第二次世界大戦後にいたるまでの約半世紀、近代日本エリート層に一貫してみられた人種意識にあったのが、自己醜悪視であった。夏目漱石から遠藤周作まで、特に西洋へ留学したエリート層のあいだには、白人に対する人種的劣等感が、自己醜悪というかたちで顕著にあらわれる心性の系譜があった」

1943年からビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍した、京都大学教授で評論家の会田雄次は、敗戦直後から1947年まで英軍捕虜としてラングーンに拘留されていた際に『日本および日本人』(1945年)という数十頁の英文パンフレットを見つける。そこには日本人の容姿の醜さ(眼は小さく細く、頬骨が突き出し、口はひどい出っ歯、鼻は低くつぶれ、足は短くガニ股、背は曲り、腹は突き出しており、「かれらはこの醜さとそれゆえに軽蔑されることを知っているのだ」)が縷々書かれており、会田自身も「実に不愉快」としながらも、「ある程度真実をついている」と指摘する。

「要するに会田の実体験に基づく観察によれば、日本人の外見は、アジアのなかでもとりわけ醜いことになる。さらに会田によれば、日本人はことに外見の美醜にこだわる性質があり、それは、自覚・無自覚を問わず、日本人が「自分たちの容貌醜さに劣等感を持ち、しかもそれに敏感になっていること」を意味していると指摘する」(P367)

「日本人の自己醜悪視は、逆にいえばすなわち西洋人の審美的崇拝を意味した。」「日本人の人種意識には、どうしても美醜という審美的意識が重きを占めていることを物語る系譜があるといえる」
「しかも、西洋人に審美的価値を見出す傾向は、洋行経験を持つエリート層だけにみられたものではなく、敗戦後、白人系「混血児」を持った担任教師もまた先に挙げたように、彼らの外見の美しさを幾度となく記録した」(P368)

なぜこれほどまでに自己醜悪視したのかについて、著者は
「美醜とは客観的側面と主観的側面の入り混じった領域である限り、もちろん、一概には言い切れないが、日本人の自己醜悪視に最も影響力を及ぼしたものとして考えられるのは、やはり近代以降、日本人があらゆるレベルで内在化し続けてきた自己否定にあったのではあるまいか。」(P371)
「近代日本が、終始一貫して劣等感と優越感のはざまで揺れ動く大きな振り子のように不安定さに苛まされてきたのも、すべては非西洋である日本の西洋の権威化による自己否定が根底にあることのあらわれであったといえる。
しかしさらに歴史をさかのぼれば、日本は地政学的にみても古代よりインド・中国といった中心文明の辺境に位置したために、日本の文化・文明とは、常に他の中心文明の持つ「永遠の成果」を「採用」することによってでしか、その存在を明らかにすることはできずにきた「月光文明」(シュペングラー)であったともいわれている。
だからこそ、梅棹忠夫が記すように、アジアのなかでも「おそろしく自尊心がつよい」インド人や、自らを世界の中心と位置付けする中華思想を持つ中国人と比べ、日本人には「ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている」」。
「近代日本が西洋の権威化のもと、西洋の文化・文明を「咀嚼」し「消化」することで国家的存続を図ろうとしたのも、古代より続く、この辺境性による「月光文明」の典型的パターンのひとつであったといえる。つまり、日本人の精神構造には、歴史的にも地政学的にも、常に自己否定と無関係であるときは一度たりともなかった」(P372)

日別画面へ

08月06日(木)

起床時刻:07時30分

「巨人アトラースはこんなふうに考えることができた。
『もしそうしたくなったら、
背負っている地球を放り出して、
こっそり逃げ出してもいいのだ』
でも、そう考えることができるだけで、
それ以上のことは許されてなかった」
(カフカ・八つ折り版ノート)

以上は『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(頭木弘樹 編訳)からの引用。

眠れないので、パラパラめくれるこの本を全部読んで今AM3:00になろうとしているのだけれど、どうも眠くならない。

カフカというのは仕事もできて人からも好かれてお金もあって身長が高く美男子で、絶望する要素などなさそうなのに、自分のことを「無能、あらゆる点で、しかも完璧に」とか『日記』に書いちゃう人なんだな。でも他人に対しては美点ばかりを見ようとするらしい。

著者もいうように敏感な性格なんだろうねぇ。過敏といってもいいだろう。
カフカはいつか自分の無能が人にもばれてしまうんじゃないかと恐れているけれど、自分の無能がすでに人にばれてしまっている人(=私)はどうしたらいいんだろうね。
しかもカフカと違って何の才能もなく、惰眠をむさぼるばかり、と書いたけれど、今惰眠をむさぼりそこなって起きているのだった。

さて、編訳者によると、「『回避=回避の葛藤』こそ、カフカの本質のひとつではないでしょうか」とのこと。「回避=回避の葛藤」とは、レヴィンという心理学者の言で、「二つのイヤなことにはさまれて、一方から逃れようとすると、もう一方に近づくことになり、身動きがとれなくなるということです」とのこと。

ていうか、私が常々ここに書いてるように、人生とはイヤなものAとイヤなものBの選択の過程であるから、どちらに転がっても嫌なことにしかならないのである。カフカじゃないけどそういうときは「じっとうずくまる」というのが、一番心休まる行為だ。というのも、この世は地雷原であるから、今、お尻が多少燃えていても、地雷原をつっきるよりまだマシだと、誰しも考えるのである。

もちろん、世の中の「成功者」と言われる人は「行動しなければ何も変わらない」がモットーだから、きっとアトラスにも「そんなに嫌ならやめれば?」と言うだろう。そんなことしたらゼウスに怒られるでしょーが。怒られた上で、どーせまた背負わされるのである。反抗心に対する刑罰でちょっと重くなってるかもしれない。
行動を起こせば、事態はだいたいもっと悪くなるのである。あ、カフカっぽいw
例えば、転職を重ねるとたいてい給料が下がったりジリ貧になったりするようにね。私か!

圧倒的多数の仕事は、アトラスが地球を支えるような、忍耐と苦痛しかないクソ仕事だ。だから、働かなくていいのなら、それが一番いいのだ。カフカだって仕事が嫌で嫌で仕方なかったわけだから(といってもカフカの仕事は午前8時から午後2時で、しかも公務員で、しかも優秀で順当に出世もしていて、しかも同僚から好かれている。ハァ?)。

「とくに、家にひきこもることは、
いちばん面倒がないし、なんの勇気もいらない。
それ以外のことをやろうとすると、
どうしてもおかしなことになってしまうのだ」(日記)

と言うけれど、生きるためには「それ以外のこと」もしなくちゃいけない。カフカが病気になってほっとしたのは「それ以外のこと」の重圧と義務から逃れて心置きなく家の中でじっとしていられたからだろう。

AM3:30だけど、全然眠くならない。困った。

日別画面へ

08月05日(水)

起床時刻:07時30分

wikileaksが明らかにしたアメリカによる盗聴問題。「一部の盗聴内容はオーストラリア、カナダ、英国、ニュージーランドの政府当局と共有していたという」(日経新聞)。

哀れなるかな日本よ、アメリカと「対等なパートナー」になろうとして、尻尾を振り続けたきたというのに。「普通の国」になったら「対等なパートナー」に近づけるとでも?目を覚ませ。このただのパシリが。

日本は今まで「憲法9条」というママが守ってくれていたから、アメリカに「おい、今日の夜、調子乗ってる奴をしめにいくぞ」と言われても、「ママが夜9時以降は外出しちゃダメっていうんで」といえば、そのママはアメリカのまぁ親戚みたいなもんだから、「仕方ねぇな」と、日本は家に帰してもらっていたわけ。もちろんその分、日本はアメリカに人一倍お金を貢ぐわけだけど、アメリカからすれば日本はただのパシリなんだからトーゼンくらいに思われているわけよ。

アメリカの鉄砲玉になる危険から守ってくれてるママを張り倒して、「一人前の男」になろうといきっているバカが今の日本だ。
「これでボスの横で喧嘩もできるようになるから、ボスに一人前と認められる!!」などとアホな幻想を抱いているのである。

また、成り上がりボスである中国が最近露骨に「このパシリが」と日本になめた態度をとっているので、日本が頭にきているというのもあろう。アメリカにバカにされるのはいくらでも我慢できる日本も、かつて自分より明らかに格下だった(まぁ近代以前の何千年かは中国のほうが先進地域だったわけだが)、中国如きにバカにされるのは耐えがたい、というわけだ。

これもママが「危ないから持っちゃだめ」と武器を取り上げてきたせいだ!そのせいで中国なんかにバカにされる!武器を持った普通の国にならねば!と日本が右傾化したのは、中国のせいなんだからねッと言いたいくらいだが、中国は中国で日本に偉そうな態度をとることで自尊心を満たす必要があるわけだ。そうやって中国内の身内の歓心を買わないといけない。バカは別に日本の専売特許ではなく、中国にも億単位で存在するのである。

どっちにしろ日本は自分一人では中国を見返せないから、アメリカというボスがアジアくんだりまで出張って追っ払ってくれることを願っているのだ。「そのためにはまず、ただの焼きそばパン買ってくるパシリじゃなくて、危険なパシリもやれなきゃいけない」という「けなげな心」で安保法案を導入します!と日本の国会を通す前にアメリカの国会で約束したりするわけだ。パシリっておそろしい。

ボスはアジアのごたごたに巻き込まれたくない、くらいに冷ややか~に思っているのにね。パシリが泣きついてきたら、うぜえとしか思わないわけで。ボスというのは誰でもそうだが、人を利用するのは大好きだが、人に利用されるのは大っ嫌いなのだ。

日本はなぜそこまでして「普通の国」になりたいのか。何かっつうと「同盟国」としての責任を出してくるのか。
それは日本はアメリカとは対等でもなんでもないただのパシリである、という事実を受け入れたくないからであろう。だから、ただのパシリの上納金を「思いやり予算」などという欺瞞的な名称で献上しているのだ。「思いやり」ってなんだよ、要するにアメリカのパシリではなくて、情緒的紐帯をいつも求めている、ナイーブな「少年ジャンプ」思考が日本人なのだ。でも明らかに「対等のパートナーではない」ことはみんな内心どこかで分かっているから、自国の憲法を無視してまで、パシリではない「普通の国」になってアメリカの「対等のパートナー」になろうとしているのだ。

パシリである日本はボスの「友達グループ」(英とか豪とかのFive Eyes)に入れてもらうことをずっと夢見ているのだが、ボスたちから見れば一段階、格下のパシリで、昔は金が多少あったから利用しがいがあったものの、今じゃ家も傾いているし、無視されかけているから(ジャパン・パッシング)、パシリとしての地位も危うくなってしまうと日本は焦っている。

もちろん、アメリカはバカではない。
日本のアメリカ研究がお寒いのとは対照的に(ボスを研究なんて恐れおおいでしょ?)、アメリカは日本および日本人について冷静に色々と研究してきた。まぁそんなことから、日本人がアメリカに一番求めているのは「ベスト・フレンド」と認めてくれるのことなのである。それだけで尻尾をちぎれんばかりに降って喜ぶのである。
逆に日本をクラスカーストの最下位のパシリ扱いすると、生来の「好戦的性格」が表に出てしまうから、表面上はパシリに「トモダチ」というリップサービスをしてくれているというわけだ。

所詮、日本など信用されていない格下のパシリだが、パシリにとってはグループのボスに「トモダチ」扱いされることが悲願なのである。

戦前からの。

まぁ政府内部では色々な事実関係から盗聴されていた(いる)ことは、さすがにわかっていただろう。
でも、わかっていても抗議はできない。
パシリがボスに抗議して「不興を買ったら」、偽装「トモダチ」ポジションから降ろされて、パシリという立場を思い知らせる行動に出られたら自我崩壊しちゃうからだ。
だから、パシリって内心不安でドキドキしながら、「友達」というポジションに固執したいために、一生懸命パシっているのだ。

『「肌色」の憂鬱』の世界は過去ではない。

そういや、松井今朝子さんのブログの7/16の記事に
「問題はまず、日本は歴史的に見て日英同盟以来アングロサクソンと組んでおれば安泰とする一派が推進した安保法案を支持している人たちが想定しているほど、日本にとってアメリカは信頼に足る国なのかどうかであり、つまりはいまだ根強いカラードに対する差別感情を取っ払って向こうは本気で対等に付き合ってくれるつもりが本当にあるのかどうかであって、その点でも私は支持者ほどの甘い見方はできないのであった。」
とあった。

”カラード”は使っちゃいけない言葉なんだが(最近カンバーバッチもうっかり使って謝罪していた)、それはともかく、私もアングロサクソン(に限らず欧米やオセアニア諸国)と日本が対等な関係を築くなどありえないと思う。

日本というパシリは一生パシリなのだから(転校するか登校拒否をしない限りパシリポジから抜け出ることはできない。宇宙に行くか鎖国をするかどっちかである)、花はなくとも実をとる作戦で生きていくのが一番なのだ。「目立た~ぬように、はしゃが~ぬように、似合わ~ぬことはむりをせず~、人の心を見つめ~つづける」という「時代おくれ」の国を目指すのがいいと私は思っているのだが。

オリンピックにしてもアホのごとくはしゃぎすぎて、みっともないったらありゃしないのである。

日別画面へ

08月04日(火)

起床時刻:07時30分

『「肌色」の憂鬱 近代日本の人種体験』(眞嶋亜有/2014.7/ 中公叢書)、面白いんだけれど、せつなすぎて読みすすめないw。
特に「第3章 華麗なる<有色人種>という現実」のパリ講和会議での日本の扱いとか、聞くも涙、語るも涙である。

私にはすごくアクチュアルなテーマに思える。
まぁ確かに黄色い肌であることで差別されることはほとんどないのだけれど、西洋基準の美からすると、劣等人種であることには間違いない。
ろくすっぽ英語を喋ることができないことから、知的にも劣等であると思われてしまう(国際会議でまともに発言できないのも、英語というハンディキャップがあるからだ)。

西洋列強と結ばされた不平等条約を改めるには西洋に認めてもらえるような「一等国」にならねばならない。そのためには脱亜入欧、すなわちアジアの旧弊を捨て、進んだ西洋の一員たらねばならなかった。
しかしながら、日本が富国強兵政策や日露戦争を経て「一等国」になり、西洋社会の一員になったつもりが、そこで人種という壁があった。日本人である限り、洋装しようが何をしようが、チビで醜い日本人のままだったのである。

西洋に認めてもらうために、日本を否定し西洋化した日本に、最後に立ちはだかる人種の壁。「西洋」の猿真似、二流の「西洋」という卑屈な意識。かといって、江戸時代の鎖国政策に戻り、外国人を締め出せる時代環境ではない。それでは植民地化されてしまう。

これはまさに『ヘンな美術史』で明治以降の「日本美術」の置かれた状況と大変通じるものがある。
「日本らしさ」というオリジナリティがなければ二流の「西洋」「猿真似」なのだが、その日本らしさ、オリジナリティは西洋に認めてもらえるオリジナリティでなければならないのだ。

『ヘンな美術史』の感想にも書いたが、ミス・ユニバースみたいなもので、要するに西洋に美的基準(八頭身で身長170センチ以上)みたいなものを満たしつつの「日本らしさ」「オリジナリティ」、例えば黒髪であってり「キモノ」風の得体のしれない衣装であったりするわけだ。そこを金髪に染めてカラコンを入れてしまうと、「猿真似」に格下げになってしまう。

西洋人になりたいのに西洋人にはなれない。真似をすればバカにされる。かといって、西洋のフィルターを通さない「日本らしさ」、例えば既婚女性の鉄漿や眉を剃ることなどは、奇異で野蛮と言われる。
西洋の目から見た好ましいオリエンタリズムというか異国情緒、日本趣味、そういったものに合わせる「クール・ジャパン」的ポジションとは、常に「西洋の目」「西洋から見てどう思われるか」を参照することによってしか成立しえない。それが日本人の主体性がなく空っぽな感じでもあり、また常に評価される側にあるという劣等感にもつながるのだ。結局、ルールをつくるのはいつだって西洋で、日本はその西洋のしいたルールの中で韓国よりすごい、中国はダメだといって、「自分はこいつらとは違うんだもんね」アピールをしているだけなのだ。

だから外国人に「ニッポンのここがすごいニッポン」「ニッポン人は世界から尊敬されている」という内容のテレビ番組や書籍が日本では氾濫しているのだ。日本人の持ってうまれた自己不安感、立ち位置の不安定さの現れであろう。

学校で例えれば西洋人という「いけてるグループ」に認められたがっているスクールカースト下位のダッサイ集団(貧乏で無力な有色人種)から抜け出して、日本は「いけてるグループ」にずっと入りたがっているのだ。悲願なのだ。いけてるグループの真似をして、ダサイ集団の中の更にダサい奴を子分にしたりしたのだが、結局、いけてるグループからは永遠に仲間に入れてもらえない悲哀。
そしてとうとう、1920年代、「マジおまえ、ダサいから、俺らのグループに近寄るのやめてくんない?目障りなんだけど」的排日運動の高まりで、日本人は激昂し、俺はダサいグループの希望の星になる!!ダサいグループ出身でも天下とれるってこと見せてやる!!と身の程知らずな野望を抱き、クラスのボスであるアメリカ君を不意打ちで切り付けたのがパールハーバーって言ったら単純化しすぎだが、そういう心理的背景があったんじゃないかという気がする。今の安保法案みたいのが出されるような世の中の心理的背景には「中国がマジ調子乗ってんだけど」という怒りがあるに違いないように。

日別画面へ

08月03日(月)

起床時刻:07時30分

『「肌色」の憂鬱 近代日本の人種体験』(眞嶋亜有)

「そしてとりわけ漱石の時代が日本の自己認識をめぐって不安に満ちていたのは、そのころ形成されつつあった日本の「一等国」としての人種的自己認識に深く関係していた。つまり、非西洋の「一等国」として近代日本が直面しつつあった人種的不安と呼応していたのである。
たとえ西洋列強と対等の地位を築きつつあったとしても、西洋と日本のあいだには人種的教会がある。それは西洋との人種的異質性であり、当用との人種的同一性でもあった、両者は同じ意味を持つが、明治以降、不平等条約改正を国家的指針とし続けた日本にとって、「文明国」として西洋からの承認を得ることこそ、成し遂げるべき到達点のひとつであり、西洋と対等の「文明国」として承認を受けるためには、西洋との宿命的差異である人種的異質性も、「脱亜」すべき東洋との人種的同質性も、ともに「根本的に不都合な点」(伊東巳代治)となったからである」(P91)
「日露戦争を契機に見られ始める日本人の背丈や体格、容貌や肌の色をめぐる自己醜悪視は漱石だけに限らず、多くのエリート層の間で長きにわたり、懸念され続けていくことになる。その点で、漱石は、幸か不幸か、日本人の人種的劣等感に直面した代表的存在であったといえる。」(P92)

逆に言うと背の低い西洋人男性(キプリングやハーン)は見下ろされることがないため、「日本に来るとほっとする」。

「石橋湛山は洋行経験がなく、西洋に対する劣等感も自分には一切ないと公言していたにもかかわらず、体格に関する劣等感を否めず、次のような言及をしている。

 姿勢の立派でないということは日本人が外国人に対した時など、如何にも貧弱国の国民であるというような感じを起こさしめて、ただ(帝に口)に彼等外人の侮蔑を招くのみならず、自らも亦気が引ける」(P103)

アメリカ特にカリフォルニアでの排日運動に対して、日本エリートは人種問題ではなく、階級問題(無教養な労働者階級だから差別される)に帰そうとしていた。

しかしながらいくらアメリカ社会に同化しても小沢孝雄に対する判決がそこには超えられぬ壁があることを示している。小沢はバークレー高校卒業後カリフォルニア大学で法律を学び、語学力、生活様式、宗教(キリスト者)すべて米国に「同化」していたにもかかわらず、「モンゴリアン」であるために帰化を否決される。

その後の排日移民法に日本は「激昂」する。日本人だって他のアジア人に対して同じような差別をしていたのにもかかわらず、である。
石橋湛山は、そのことをちゃんと指摘しており、「他のアジア人に対する自国の差別的待遇、米国での他のアジア人に対する差別的待遇には触れず、「日本人さえ、白人の間に同党の待遇を受くれば満足」とするのは「利己的であり、卑屈」にほかならず、とても「世界の尊敬を愛くる態度でない」と日本政府の姿勢を批判した。しかし、同法であるはずの日系移民の人権に対してすら一切の配慮や感心を向けなった日本政府が、かくも客観的見解を持ちえるはずがなかった。」(P192)

「人種的差異も人種的感情も変えようがないものである限り、非西洋の「一等国」として日本は、当用と西洋の狭間で揺らぐ不安的な自己の位置づけを見出すほかなかった。
東西文明融和の地としての日本というヴィジョンはそこから台頭したものである」(P140)
1910年代に提唱されたこのヴィジョンは、しかし1919年のパリ講和会議での人種平等案挿入の「失敗」と、1924年の排日移民法による米国からの人種的排斥によって消滅していく。


新フロイト派の精神分析学者であるカレン・ホーナイによると、「劣等感とは所属感の欠如から生じるものとしている」。
日本は西洋に属したいのに、そこに「紐帯」を見出すどころか、あからさまに差別され嫌われていたのである。
「所属感の欠如は孤独と不安を生む。自己の居場所を見出せないからである。そこには、常に優劣感情がつきまとう。孤独の影には自己の特別意識があり、他者との差別化に自尊心のバランスをとろうとし、不安定さを払拭し解消しようとする。」

「日本は第一次世界大戦後、「名前だけにせよ、何にせよ英米仏伊と肩を並べ、世界を号令する位置を占めた」が、その内実は「体も小さく力もないくせに、矢張悪童の仲間に這入って、他を虐げることを業として」いるに過ぎなかった。したがって、同じ悪童の仲間なら、体の小さく力の無い奴が馬鹿にされるは、当り前の事」であり、日本が西洋列強に侮蔑されるのも致し方なきことと石橋湛山は指摘する」(P169)

排日移民法は日本にとっての「国辱」であり、「『国民新聞』はこの七月一日を「国辱の日」と名付け、排日移民法を「日本人の額に劣等人種の烙印を捺した米国の非人道的行為」とした」。
この怒りは思想的立ち位置を超えた激烈なものだったが、その怒りとは一体なんだったのか。著者は
「まずいえることは、その怒りとは所属間の欠如、すなわち劣等感を本質としていたおとにあろう。劣等感とは所属間の欠如から生じる意識感情であることは前章で論じたとおりである。そして、近代日本が抱いた「所属感の欠如」とは、西洋世界に属したくても属しえない人種的差異から生じる劣等感であった。
この「所属感の欠如」とは、これから論じる近代日本の国家的自尊心と密接なかかわりを持ち、かつ近代日本の人種意識を理解するうえで最も重要なカギである。ここで順を追って説明したい。
劣等感とは、一般的に自己が他者よりも劣っていると意識したり感じたりする認識とされるが、それは厳密にいえば正しくない。劣等感とは、本来自己が他者から認められるべき存在であると認識しているにもかかわらず、他者から十分な承認を受けることができていない(と認識する)ことから生じる怒りであるからである。
つまり劣等感とは、まず自己が他者から十分承認を受けるにふさわしい存在であるとの自己認識を前提とする。つまり、自分は特別な存在であるという意識があって生まれるものといえる。その特別意識は、自尊心に近い性質を持っている」(P197)

1920年代とは、奇しくも日本がパリ講和会議や排日移民法といった人種をめぐる現実から「もただる国」であることを自覚させられつつあった時代であり、その後、日本は着実に「要するに力」(佐藤鋼次郎)の時代へと向かっていくのであった」(P202)

以上が第三章まで。

日別画面へ

08月02日

起床時刻:08時35分

08月01日

起床時刻:08時45分

テレビで子供の職業体験イベントを紹介していたが、平成26年では37.4%が非正規雇用なのである。「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」という万太郎の句があるが、今風に言うと「竹馬やいろはにほへと今パート」である。

よくある非正規(派遣・パート)の仕事の現実を教えたらよかろう。
コールセンターやサポートセンターのオペレーターとか(膨大なマニュアルを覚えた上で一日中「申し訳ございません」と言う練習)、一日中立ちっぱなしで鮭の骨を抜く仕事とか、レポートの数字チェック300頁分(終わらなかったらもちろん残業)とか。

文系の正社員だったら営業くらいしかないので、同級生の家に飛び込みでまわり、一個300円で消しゴムを売りつけるっていう仕事をやってもいいだろう。もちろん、ノルマもある。

「一個300円?高すぎる、いらねーわ」と思う顧客にいかにして売りつけるか。泣き落とし戦略というのもあるだろう。実際大人もよく使っている。そういやインターンの大学生が会社に営業に来たこともあった。小学生でもできるようなことだから(ピンポン押して「買ってください」っていうだけ)、小学生にやらせりゃ大学生以上に効果的だろうが、児童労働だからダメなんだけどね。

「上司をがんばって説得してきました」といって30円ぐらい値引きした特別価格キャンペーンなるものをやってもいいだろう。
今なら特別に1本50円の鉛筆をお付けして、っていう常套手段をやってもいい。

あるいは「この消しゴムを使った人たちの喜びの声(効果・効能には個人差があります)」をチラシとして配布してもいい。

このように世の中のたいていの仕事はくだらない仕事だ。
学校で学んだことなんか、なーーーんにも役にたたない。
300円で消しゴムを売りつけるような詐欺まがいの仕事だ。
なぜそんな下らないことをやるのか?
それは「仕事」だからである。
東芝の不正会計が問題となったが、不正してまで何をしようとしたのかよくわからんが、数字をごまかすことが「仕事」となったら、真面目な人間ほどちゃんと「仕事」に取り組むのである。

アイヒマン実験というのもあったが、それも「仕事」となったら、いかに人間の善悪の感覚が鈍るか、を示していた。要するに「仕事」であったら、善悪の判断を保留して「真面目に頑張る」のが、社会適応的な人間なのである。

善悪の判断はともかく(まぁ不正会計をやらなきゃいけなかったり電気ボルトを人に加えなきゃいけなくなるような局面はめったにないだろう)、仕事の必要・不必要の判断もできなくなる。
こっちはよくあることだ。はっきりいってたいていの仕事は穴掘って穴埋めるようなどーでもいい仕事であり、もっといえば仕事のための仕事であり、「お前の仕事なんかなくなったって、誰もこまんねーんだよ!!!」っていう仕事である。300円の消しゴムを売りつけにくる営業なんかむしろなくなったほうが世のため人のためである。

なのにたいていの人はその現実を見たくないから、仕事に「物語」=意味づけを見出し、紡ぎだしているのである。例えば「穴掘って穴埋める」だけの仕事もなぜか「自分の成長のために」「地域の安全のために」「子供たちの笑顔のために」その他陳腐な意味づけがなされて、自分の中でのモチベーションとしての物語になっているのだ。

私はマーケティングの仕事を手伝いながら「全部やめちまえばいいのに」とよく思う。

こういうくっだらない仕事にたいていの人は従事する。
頭なんか使わない。
クライアントに無理難題を押し付けられてもぐっとこらえる精神力、炎天下にスーツをきて押し売りをして回るドM的体力、チマチマした作業を間違えない神経症的緻密さ、無能な正社員ににこやかに対応し彼らの三倍働いても半分の給料しかもらえないことに不平を言わない”コミュニケーション”力、そういったものだけが仕事には求められている。

「むなしかるサインコサイン今パート」
「むなしかるすいへーりーべー今派遣」
「むなしかるぞ、なむ、や、か今営業」

虚しさと言うのは無力感から来ることが多いが、たいていの人は仕事に関して本当は無力感を感じているのではなかろうか。

日別画面へ