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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:07:52

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06月30日(木)

起床時刻:08時00分

06月29日(水)

起床時刻:07時30分

06月28日(火)

起床時刻:07時30分

06月27日(月)

起床時刻:07時30分

夫は夕飯不要とのことで、今日の夕飯は昨日作っておいたラムと野菜のトマト煮込みと白ワイン(夫はラム肉嫌いだけど、私は大好き。どうしてこうも趣味が違うかな)。大変に美味。セロリとタイムがいい仕事をしている。
食後のデザートは葛桜とジャスミンティー。色々と国籍不明w 

少し前から書店の料理本コーナーに行くと「作り置きのおかず」系が平積みになっている。やはり世の中共働きが増え、主婦でも帰る時間が10時過ぎるのが当たり前になると、作り置き以外に選択肢はないよねぇ(手作りに固執する場合)。それがいやなら夜の12時から食事になりますがよろしいですか?ってことになる。

ちなみにインドでは作り置きがNGだと前に本で読んだことがある。インド人の旦那を持つ世の主婦に深く同情する。
これはおそらくアーユルヴェーダの考え方からきているのだろう。「アーユルヴェーダでは、調理後3時間以上たったものはタマス食とみなされます」と日本アーユルヴェーダ学会のHPに書いてある。タマスというのは、これまた日本アーユルヴェーダ学会のHPによると、「暗黒を意味しますが、同じ状態に留まろうする衝動のことで、活動を抑える宇宙の力」らしい。ハア?てなもんだが、要するによくないもの、ということだろう。

確かに冷蔵庫のない時代のインドなら、食事の作り置きは食中毒のリスクを劇的に高めただろうけど、冷蔵庫という文明の利器をつかえば、タマスも黄色ブドウ球菌も全然増えないと思うんだが。ま、アーユルヴェーダの信奉者からしたら、タマスってのは目に見えない気の流れ的な何か?なので、冷蔵庫は関係ないって言うんだろうなぁ。そうそう、アーユルヴェーダでは朝起きたときに白湯を飲むのも、いいとされるんだけれど、これまた15分間沸騰させた白湯を飲めって言うんだよね。インドの細菌ウジャウジャの水ならともかく(それでも長い気はするが)、現代日本の清潔な水なら必要ない、むしろお湯を沸かし続けるエネルギーの無駄遣いがタマスを呼ぶのでは?と私は思うわけだが、宗教組織のエライ人(教祖とか)がそうしろといったら問答無用に従うのが信心であって、「水質が~」と言う人(私)とは最初から話が全くかみ合わないんだよね。

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06月26日

起床時刻:09時40分

06月25日

起床時刻:09時40分

06月24日(金)

起床時刻:07時30分

今日は珍しく弁当を持っていった。
いわしの蒲焼(昨日の残り。薬味はミョウガ)、モロヘイヤの磯和え、紫キャベツのマリネ、アボカドのレモン山葵醤油和え、それと黒豆入り玄米おこわ(レトルトパック)。
ハタからみたら貧しげかつまずそうな弁当だろうが、私は美味しく食べた。

かなり前に読んだ『人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える』(2016/2/26、ジョナサン・ゴットシャル、青土社)のメモ。
本書は大学の非常勤講師(英語学)によるMMA(日本風にいうと総合格闘技)体験談。著者は40がらみのオッサンなので、実際のファイトはただの一回で、あとはひたすら練習しているだけなんだけど、読み物としてはまぁまぁ面白い。もっとも、この手の話題に興味関心があり、類書を色々読んでいる人にとっては(著者は主に行動進化学的な観点から「ヒトはなぜ格闘―暴力からスポーツまで―に魅せられるか」を論じている)、新しい知見というほどのものは特にはないが、ポピュラー・サイエンスとスタントもの(体験記)を上手に融合させてはいる。

ただ、低身長で胸板の薄いことを気にしている日本人男性が本書を読むと心臓にグサグサと言葉の槍が刺さるもしれない。というのも、著者は「大きな者は我意を通し、小さい者は譲歩する」(ここ傍点)(P84)ことを強調するのだが、これこそ小さい男が最も言われたくないことであろうから。

男の強さというのは体格で決まり、背が低い男や貧弱な男は背が高くて筋肉隆々の男には絶対に勝てないと、著者は念を押している(つまり総合格闘技で桃太郎と鬼が闘ったら、100%鬼が勝つのである。桃太郎が勝ったのは奇襲と数の力(黍団子で雇った傭兵ども)のおかげであろう)。

更には背の低いヒョロヒョロくんが空手をやって強くなろうと思っても、東洋の武術は実戦には何の役にもたたないし、あんなものはいくらやっても喧嘩も格闘技もまったく強くならないと著者は断言する(その中でも柔道はまだマシらしいが、空手特に極真空手はただの詐欺カルト扱いなので極真空手に心酔している人は、立ち読みしてから買うかどうかを決めたほうがいいだろうw)。

本書では空手だかテコンドーだかの黒帯を持つノブという科学の教授(チビの日本人中年)と著者が、「東洋の武術は実戦には何の役にもたたない」という点をめぐって論争になり、実戦で決着をつけることになるんだけど、黒帯のノブが著者(元いじめられっ子のへなちょこアメリカ人)にフルボッコにされ「東洋の武術は実戦には何の役にもたたない」ことが証明される。しかしながら、空手の、精神的な面でのいい効果は示唆されている。いわばヨガみたいなもんである。もっとも空手家たちは自分たちがヨガをやっているとは思ってはいないだろうがw

私は本書を読んで『肌色の憂鬱』を思い出した。そう、明治期のエリート日本人男性たちが、西洋人(白人)と出会い、いかに外見コンプレックスまみれになったか、について書かれた本である。
思うに、明治期の日本人エリートを悩ませたのは肌色もさることながら、貧弱な体格ではなかったか。男たちのモンキーダンス(ゴットシャルの用語。男たちの示威行為のこと)において、重要なのはお肌より(男の顔にシミやシワがあったって誰も気にしないだろう)、体格であり上背であり筋肉だ。つまり強そうかどうかである。
この点、日本人の男は西洋人の男に圧倒的に負けていた。「大きな者は我意を通し、小さい者は譲歩する」とゴットシャルは書いているが、今よりもずっと暴力がむき出しの時代において、チビで貧弱で弱いことはどれだけ劣等感を刺激しただろう。

大きな者に小さい者が勝つには道具が必要だ―、つまりダビデがゴリアテを退治できたのは投てき武器を使用したからだ。しかるに、当時は、ダビデたる日本よりゴリアテ(西洋)のほうが何倍もいい武器を持っていたのである!ひとえに技術力、経済力の差だ。
要するに日本は西欧になーんにも勝ってるところがなかったのだ!これは悲しい!
そりゃあ「精神力」を持ちだしたくもなるってもんだろう。

しかし精神力で銃弾が避けられたり、日本刀で戦車を切れたりするわけないのである。漫画じゃないんだからさ。少年漫画では小柄もしくは中肉中背の少年(正義感に燃える主人公)が、凶悪そうな大男(たいてい愚鈍と決まっている)に勝つんだけどねぇ。力で押されて主人公が危機に陥っても、友情パワー(「仲間を守る!」)という精神力で、圧倒的な実力差(身長差、体格差、経験の差、武器の性能差)を逆転するのだ。いやあ、漫画って本当に夢が詰まっている。みんな漫画が大好きなのも無理はない。

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06月23日(木)

起床時刻:07時30分

06月22日(水)

起床時刻:07時30分

今日は早く帰ってきた。
夫は夕飯不要とのことだったので、自分の好きな献立にした。
海南鶏飯風チキンライス、胡瓜のピリ辛漬け、トマト、香菜(たっぷり)をそえたもの、小松菜と油揚げの煮びたし、茹でたモロヘイヤの生姜醤油和え、アボカドとわかめ(山葵醤油で)、冷奴(薬味は生姜とミョウガ)。こうやって書くと、醤油味が多いな。食後のデザートにスイカを食べたら、なんとスイカが傷んでいた。初めてのこと!

たまたま通りかかった八百屋で元は680円くらいのスイカ(1/4サイズ)が、380円くらいになっていたから、こりゃ安いと思って買ったら、甘いんだけど発酵途中のようなすえたような味。我慢して数口食べたけど、やっぱり無理で、全部捨てた。重たいのを頑張って持って帰ったのに、安物買いの銭失いってやつだった。冷房のない八百屋の品物は傷みが早いのかも。これからは今までどおり、スーパーでカットされているスイカを買おう、、、。切るのもメンドクサイし。

ところで私は香菜やミョウガが大好きで、なんでこんなに好きなんだろう?と自分でも不思議に思う。これがミョウガではなくアイスクリームなら別に不思議には思わないが(長年飢餓状態をサバイブしてきた人類が糖分と脂肪分を好むのはデフォルト設定なんだから)、ミョウガが好きなのは我ながら不思議だ。実際、ミョウガや香菜は好き嫌いがかなり分かれる。

『おいしさの人類史:人類初のひと噛みから「うまみ革命」まで』(ジョン・マッケイド/2016.2/河出書房新社)によると、苦味の感じ方の違いは遺伝子の違いなんだそうで、T2R1(第七染色体にあるDNA鎖。ハア?)とやらの配列のバリエーションによって苦味の感じ方の違いを生み出しているんだと。ブロッコリーなどアブラナ科の野菜が食べられない人は、アブラナ科の野菜の苦味を強く感じるせいかもしれない。
私が子供の頃は、野菜を残す子供は「躾のなっていない子供」だったが、今は、アレルギーがあるか遺伝的に野菜の苦みを強く感じるという「体質の問題」ということになろう。

それにしても遺伝子研究が進めば進むほど、これまで「躾の問題」とされてきたことが「遺伝子の問題」や「体質の問題」であることも多いことが明らかになってきた。
睡眠時間でさえ、遺伝子の型によって最適な時間が違うというし、また年齢によっても体内時計が変わることが明らかになっている(NHKの「サイエンスZERO」によれば10代20代では体内時計が1時間~3時間遅れるそうで、学生(特に高校生あたり)たちは朝早く起きても夜早く眠ることができず、慢性的な睡眠不足になるそうな。この対策としてアメリカで「スタート・スクール・レイター」という始業時間を1、2時間遅らせる取り組みをしたところ、生徒の学力が上がったとか。睡眠不足は寝坊より悪いってことであろう、と「早起き生活」で書くのはいかがなものか、ではあるけれど)。

問題は社会生活を営む上では多種多様な個人であっても他人の決めた画一的なルールに従わなければならないことだ。そこに人間のストレスの源があるともいえるだろう。全員がクローンだったらもっと生きるのが楽だったかもしれない。全員朝寝坊タイプで、全員野菜が嫌いで、といった風だったらルールも守りやすかろうし、給食も食べやすかろう。
しかし種の存続のためには遺伝的多様性が不可欠で、人々が多様であればあるほど、自分とは全く違う感性や価値観にあわせなければならず、我慢しなくちゃいけない局面がいっぱい出てくる。

もちろん、最近の企業は「人材の多様化を推進」しており、社会にとっても「ダイバーシティが大切だ」などとよく聞く。多様な人材にあわせた柔軟な働き方が今後は主流となっていくだろう、などと聞いたようなことも書こうと思えば書けるんだろうけど、ケッと思うわけで。

そーゆー「多様な働き方」、もっといえば「多様な存在」が、「許される」のは企業に必要とされる金を生み出す能力がある人だけ。そうではない単純労働者(往々にして非正規雇用者)は、20世紀から変わらず画一的なマニュアルに従うことだけが求められるのであり、例えば障害や病気やなんらかの理由でそのマニュアルに従えない「多様な」人間は切り捨てられるだけなのだ。単純労働者のくせに画一的マニュアルを遂行する能力が足りない場合、福祉施設以外、どこにも居場所はない。

だいたい「ダイバーシティが大切」とかいうお題目を唱える人は決まって「変化の激しい世の中に対応するには多様な人材が必要」だとか「多様な人材によって組織のレジリエンスが確保される」だとか言うわけなんだが、要するに「つかえる」多様な人材が必要なだけで、「つかえない」人(ただの「人」であって、人「材」ではない)を飼っておく余裕は、都庁にはありそうだが、普通の民間セクターの場合どこにもない。

だから「ダイバーシティが大切だ」っていう一見カッコイイセリフは、鄧小平が言ったとかいう「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」とどこが違うっていうんだろう?と思う。特に昨今は人材のミスマッチが進んでいるから(鼠を捕れない老いた駄猫ばかり)、蛇であろうがカラスであろうが、鼠を捕ってくれればそれでけっこう、という意味で「多様な存在を認める」時代になっているとは思うけれど、たとえ猫であっても鼠を獲れな場合、どこにも居場所はないし、そういうのは「多様な存在」じゃなくて「社会のお荷物」って言われるんだよ、ケッ。

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06月21日(火)

起床時刻:07時30分

06月20日(月)

起床時刻:07時30分

06月18日

起床時刻:09時00分

06月17日(金)

起床時刻:07時30分

『音漬け社会と日本文化』(中島義道、加賀野井秀一/講談社学術文庫/2009)を読む。
タイトルに惹かれて手に取ったんだけど(日本が音漬け社会であるのは同意)、わたくし、中島義道が、控えめに言っても大嫌い。まぁ本書は加賀野井氏(知らなかったが、中島の4歳年下のフランス帰りの中央大教授)との書簡集なので、半分は加賀野井成分で出来ているわけだから、大丈夫だろうと思って読み始めたら、意外なことに中島の書いている方が圧倒的に面白い。
加賀野井氏の、ありがちな日本人論とご立派だけれど薄っぺらな提言を読むと(教養ある経営者が日経新聞夕刊「あすへの話題」あたりに書いてそうな文章)、私は苛々がとまらないんだけれど、中島も間違いなく苛々しており、中島は「あなたのここに苛々する」とちゃんと言い、その反論にはだいたい共感できた。特にP181の「信念と感受性」から「少数意見をきちんと聴いてくれる共同体はない」(P189)は全く同意。

とはいえ、一読して、ますます中島のことが嫌いになった(考え方や感じ方は意外なほど近い部分もあったし、ヨーロッパでの体験の受容の仕方も加賀野井より中島のほうにずっと近いけれど)。

中島は自分の気に入らないことがあると(ヘッドフォンの音がうるさいことから女性が車内で化粧していることまで)、感じ悪く(これはわざと感じ悪くやっているんだそうで、それには本人なりの理由があるんだが割愛)注意する。私が中島を嫌うのは、注意する対象が必ず自分より身体的・社会的に弱い相手で、絶対にヤクザだのクライアントだのにはカラまないことだ。

実際に本書の巻末に収録されている中島と加賀野井の対談で、中島は注意する対象として(下手すると刺されるかもしれないから)、「まず無難なのはおばさんです」という。さらには「むしゃくしゃしているとき」におばさんという「獲物」がやってくるので注意して鬱憤をはらすのだとか。中島は他人に注意するときの心得として「まず公共機関に抗議する」、「弱そうな人を見てまずやって、慣れる」ことを挙げる。なるほどこの二人が注意をする対象が(武勇伝めかしてわざわざ本書の中で書いている)、公共機関(「公僕」)、自分が「お客様」であるときの店員、あるい女性や若者が多いのも当然である。

中島は武器として「自分の名刺」や「著作」を持ち歩いているんだとか。こういう卑怯で小心なマッチョが「ドヤ顔」でトクトクと「武勇伝」を語るところが、私のカンにさわる。これで「闘う哲学者」とか、チャンチャラおかしいってんだよ!!ま、中島自身は暖簾に腕押しの世間に「闘い続ける」自分のことを風車に闘いを挑んだドン・キホーテに例えるんだが(知識人って自分をドン・キホーテに例えるの、大好きよね、笑えるわ)、ドン・キホーテは切り札に「電通大教授」の名刺なんか出しませんから!喫茶店での飲み逃げの「武勇伝」もムカムカするんだけど、長くなるので割愛。

書簡の中で加賀野井が「中島さんも私も小言幸兵衛歴は三十年以上。そのあたりのノウハウを、そろそろ次世代に伝授すべき年齢にさしかかっているのかもしれません」とエラソーに書いているが、コイツらのノウハウなんか「自分より弱い奴にだけ注意をする」っていうだけで、不良高校生がカツアゲをするときの方針と別に変わらない。要するに、どっちが強いか弱いかという、動物的かつ本能的なレベルの話であって、それはそれでよくわかるから、その結論が「体を鍛えましょうね」「出世して偉くなりましょうね」というのならまだ筋が通っているものの、加賀野井(中島より、一段とアタマと感性が鈍いために余計に苛々する)は「他者との共存」、「『他者を理解せよ』という至上命令」、「大切なことは、常に言葉を重ねていくこと」だのとお役所並の空虚なスローガン(何しろご本人が実践できていないしする気もないんだから)をへーきで言うんだからおそれいる。この方は「他者を理解する」って繰り返しているけれど、彼が目指しているのは「他者に僕を理解してもらう」ってことじゃん?何この甘ったれ具合。
生協のトラックが来たときの到着を知らせる声がうるさいと加賀野井が抗議したら、近所のおばさんらから文句を言われ、「言語同断」つまり言葉の対話をあきらめた、と語っているが、近所のおばさんレベルで理解したり話をするのをあきらめていたなら、いったいどこの「他者」を理解し、どなたと「対話」なさるんでしょうねぇ?としか。西欧人?

と唐突に西欧人を出すようだが、加賀野井がすぐに「言語同断」になってしまうのは、日本語のせいかもしれないのだ。
加賀野井によれば、日本語は「まずもって「単語的」であり、「命題的」ではない」(「お前、間違ってるよ」「お前とはなんだ、お前とは!」みたいなやりとりに象徴的)。「これに対してヨーロッパ語の”You are wrong”や”Vous avez tort”のような表現では」、「相手の正当性をめぐる「命題的な」判断に注目する。好悪よりも前に、成否・善悪が論じられることになるわけです」。更には「日本語にはニュートラルな表現がないために公共的な物言いがしにくい」、「日本語が「蠱惑的」であったり「感情的」であったりするがために「命題」そのものがないがしろにされる」とも述べている。

「日本語だと「命題」そのものの吟味ができなくなるから、日本語はやめて英語だかフランス語だかを公用語にしようぜ」っていう話なら、まだ論理的一貫性があって面白いんだけどねぇ。
ところで楽天をはじめとする日本の企業でも英語を公用語にする動きがあって、私は謎だったんだけれど、なるほど、加賀野井の説からすれば、グローバリゼーション云々のまえに日本語そのものがアカンということになり、三木谷さすがってことになるんだろうか。
日本語ってのがある意味和歌的(言霊的祝詞的で、内容よりも語感が大事)だから、和歌でKPIについて語れと言われても難しいように、日本語は企業の言葉としてふさわしくないのかもしれない。確かに和歌ってのは基本的に内容は空疎で、歌聖といわれる柿本人麻呂の百人一首に入っている和歌だって「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」だが、たった31文字の半分以上が「蠱惑的な」序詞が占めているんだもんな。この歌の「命題」としては「長い夜を一人寝ている」ってだけで「あっそ」ってな話だが、我々は「命題」ではなく言葉の感じを大事にしているわけで、それは和歌だけにとどまらない日本語の性格なんだね。だから和歌ならぬ最近の経営計画書だの新製品企画書だのが、最近のいいカンジ(だいたい外来語)の言葉をちりばめて、内容は空っぽでもいいカンジに仕上げようとしがちなのは、日本語の「蠱惑」性ゆえなのである、ってか?
しかし再三書簡のやり取りの中で中島が指摘したように、この日本人および日本語への批判は西欧人にはあてはまらないのか?という視点も必要だろう。ソーカル事件というのもあったよねw あれはポストモダンっぽいワードに「蠱惑」されていたがゆえに、通用したいたずらではなかったか。

それはともかく、音に敏感なマイノリティとかほざいているこの二人、最近の保育園の騒音問題でだいぶお仲間が増えてますな。保育園の騒音問題に関してはこの二人はなんて言っているんだろう?彼等のロールモデル(?)の西欧ドイツでは「子どもの騒音への特権付与」を可決したわけだが、隣近所に保育園ができたら、住民税を払わないというのが中島の行動様式だろう(喫茶店ではこういう論理で代金を払わなかったし)。しかし、ドン・キホーテではない中島はそんなことしないのだ。彼は風車には、決して斬りかからない。

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06月16日(木)

起床時刻:07時30分

博報堂の「生活定点調査」(1992年から隔年で実施)は、誰でも無料でデータを利用することができる有難い統計で、時系列で色々な変化がわかって面白い。

例えば人付き合いに関して、「友人は多ければ多いほどよいと思う」と答えた人の割合は一貫して低下傾向にあり、直近の2014年28.4%で過去最低。初回(1998年)の57.2%にくらべるとなんと28.8ポイントも低下しているのだ。
「最も特徴的なのは男性60代で、全体より約12ポイント高い39.9%でした。逆に最も低かったのは女性20代で、全体より約9ポイント低い19.3%でした」とのこと。
今の時代、友人100人いることよりもスマホ1台持つことのほうがよほど価値があることだろう。友人と一緒にいるより、スマホを一人でいじっているほうがよほど楽しそうである。ていうか、友人と一緒にいるときもそれぞれがスマホをいじっているのだから、まぁスマホがメインで友人というか人間は添え物といったところだ。

それ以外でも私が興味を持ったのは、食生活に関して「和風の料理が好きな方だ」と答えた人の割合が年々低下傾向にあり、直近(2014年)は53.6%で初回(1998年)に比べ、12.2ポイントも低下していることだ。
「男女差については、2014年は女性の回答率が約14ポイント高い結果となりました。最も特徴的なのは女性60代で、全体より約27ポイント高い80.4%でした。逆に最も低かったのは男性20代で、全体より約16ポイント低い38.1%でした」とのこと。
だから親子孫三世代同居の拡大家族は不幸なんである、というのは食事の趣味が性別や年代で全然違うから、常に誰かが誰かに合わせなくてはならないからだ(たいていは女性が男性にあわせるか、女性が性年代別に食事をそれぞれ用意するかであろうから、自分の趣味を押し付けない女性ほど不幸になるのである)。
ちなみに「漬物が好き」「豆腐が好き」「酢の物が好き」も過去最低の回答率で和食と同様の結果(男性20代が最も低く、女性60代が最も高い)。

一方で、好きな料理に関して「ハンバーグ」と回答した割合は過去最高の54.8%(初回1998年より15.8ポイントアップ)。「最も特徴的なのは女性60代で、全体より約16ポイント低い38.3%でした。逆に最も高かったのは男性20代で、全体より約14ポイント高い68.7%でした。」

フィンランドの調査で男児を生んだ母親は女児の母親に比べ寿命が短くなる(しかも息子が多ければ多いほど短くなる)というのをネットで読んだとき、「ははあ、息子が多いと夕飯がカツ丼やらチャーハンやらになりがちだから、それで動脈硬化にでもなるんだろう」と思ったのだけれど、それは早合点で、男児の場合は妊娠しているときにテストステロン(胎児が男になるためのホルモン)を大量に浴びるのでそれで老化するんだと。よくわからないが、しかし調査結果によると父親の寿命は子供の性別がどうであれ変わらないらしいから、私の「夕飯説」は正しくないねw

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06月15日(水)

起床時刻:07時30分

06月14日(火)

起床時刻:07時30分

06月11日

起床時刻:09時00分

06月06日(月)

起床時刻:07時30分

06月03日(金)

起床時刻:07時30分

06月02日(木)

起床時刻:07時00分

残業が多かったので、なかなか日記を書く暇がない。

備忘録として5月は何をしたかを書いておくと、『ダーク・ソウル3』で「王たちの化身」(ラスボス)までは倒したものの、「無名の王」をいくらやっても倒せなくて放置。別に「無名の王」は倒さなくてもクリアできるんで、さっさと終わらせちゃおうとしたら、夫に「ちゃんと全部やれ。そんなだからゲームだけでなく、なんでも中途半端にしかできない」と言われ仕方なく(何度も)再トライしたが、その結果、やっぱり勝てずに、かつゲームをクリアもせずに放置するという、もっと中途半端なことになってしまった。

その後、ダクソとは真逆のゲーム、『アンチャーテッド4 海賊王のなんちゃらかんちゃら』をやった。
いやあ、難易度が選べるって素晴らしいね!どこでもセーブできるって素晴らしいね!
私は中級でクリアしたが、基本的に×ボタンを押してボルダリングするばっかり(壁をよじ登るゲーム)だったが、ダクソと違ってゲームが苦手な人やストーリーを楽しみたい人、それから中高年には断然おすすめだ。ストーリー自体は他愛もないのだが、しかしJRPGのワケわからなさ(「ファルシのルシがコクーンでパージ」@FF13)は全くない。戦闘面ではステルス攻撃が有効すぎる、っていうかステルス攻撃しないと死ぬ。ほぼ首落としをしてる感じだったねwゲームとしてはやや単調に思うところもあったが、、、まぁ仕方ないだろう。

また登場人物は全員、オッサン・オバハンであり(エレナもナディーンも30前後?)、ビクター・サリバンにいたっては60才くらい?日本のアニメによく出てくる、キンキン声の女の子たち(どこから声を出しているんだっていう感じの)は一切出てこないので頭も痛くならない。

今作ではネイトのお兄ちゃんのサムが出てくる。サムはレイフ、ネイトと一緒にパナマの凶悪な刑務所を脱獄しようとしたときに一人だけつかまり、10年以上そこに孤独にぶち込まれていたのだった。刑務所で苦労したせいか、だいぶサムは老けていた。ネイトは30代後半?サムは40代後半くらい?10歳くらいの年の差か?
刑務所を脱走してきたサムはネイトに海賊エイブリ―の秘宝を絶対に見つけないといけない、でないと殺されると言い、ネイトはお宝探し稼業から足を洗っていたものの、サムを助けるべく、再び冒険へと乗り出すのだった・・・・・・。

とまぁこんな話なのだが、これがJRPGだと絶対にこんなくたびれた中年のオッサン(サム)は出さないだろう。サムの代わりに年の離れた妹(謎の病気で死にかけの美少女)が出てきて、「彼女を救うためにはエイブリ―の財宝が必要」となり、「だからお兄ちゃん、お前を守るためにガンバルよ!!」という設定になるんじゃないかと。

それはともかく、今はすっかりくたびれた中年のサム、声優さんの声がいいのもあって(誰かと思ったら井上和彦か)、ちょっと哀愁漂う感じが私のタイプだったw

備忘録として書いておくことがこんなことしかないってどうなの?という感じだが。

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