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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:07:57

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07月31日

起床時刻:09時30分

寝苦しくて、何度も目が覚めて、結局ソファで朝方から寝た。
睡眠環境が本当によくない。
セミダブルの小さなベッドに二人で寝ていると狭いし、暑い。
その上に旦那がベッドのほとんどの面積を占めている。
前も書いたが、うちのベッドを南米大陸にたとえたら、私の占める面積はチリで旦那が残り全部、すなわちブラジルとアルゼンチンとその他の国を足したような状態なのだ。
枕があるから、ペルーも私も領土でしょ?と言われそうだが、いえいえ、私の枕も旦那が使うので、ペルーも旦那の領土である。
だから、私はチリなのだ、本当に!!
チリは寝返りも打てない。そのくせブラジルが寝返りを打って、チリにあたると「チッ」と舌打ちするんだから。

ていうかチリは、なんでああいう形になったんだろう?
細すぎるし、長すぎる。

その上、ウチはニトリの安いベッドを10年くらい使っているから、スプリングがもうだめで、コイル感が半端ない。マットレスがごつごつしているのである。起きたら背中が痛いってどういうことよ。

更に、私の定番「遅刻して超焦る夢」を見た。夢の中で私は、東京の東のほうにある「堀切」というところに行かなくちゃいけなくて(いっておくが、私は堀切には一度も行ったことはないし、縁もゆかりも用事もないところだ)、そのとき私は阿佐ヶ谷っぽいところにいたのだが、夢の中では阿佐ヶ谷になぜか都営新宿線が通っており(都営新宿線は阿佐ヶ谷は通らないが「堀切菖蒲園」という駅はある)、「早く乗らなきゃ」と走り回るも、都営新宿線のホームがみつからなくてめちゃくちゃ焦るという夢。何しろ、すでに遅刻なのだ!!目が覚めてホッとしたが、寝ている間に相当なアドレナリンが出ていたはずだ。全然、気持ちも体も休まらない。

ありとあらゆる意味でベッドで寝るのが苦痛なのでソファに避難した(一昨日も避難した)。南米大陸に例えると、ソファはアルゼンチンぐらいのかんじで長さは足りないが、幅はある。いや、ソファはアルゼンチンというより日本かな。ソファは誰とも国境を接していない、島国である。誰とも国境を接していないって、気持ちが休まることだ。

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07月30日

起床時刻:09時00分

『カキフライが無いなら来なかった』(せきしろ×又吉直樹/幻冬舎)を図書館で借りて読んだ。

本当は一緒に借りた経理の本を読まなきゃいけないんだが。
私が経理担当とか、ワニがベジタリアンになるくらい無理があるっつーの。
適当で、いい加減で、すべてにおいてどんぶり勘定のダメ人間の私が経理だって。
いや、謙遜ではない。既に請求書の発行ミスも数回やらかしている(例えば、最新の見積もりじゃなくて、古い見積もりで請求書を発行しちゃったとかね)。ほらね?いっておくが、私は謙遜をしないタイプなのである。

小学生の時、大人になった私が経理をやるなんてこれっぽっちも思わなった。
せきしろ×又吉直樹には『まさかジープでくるとは』っていうタイトルの本もあるんだけど、「まさか経理になるとは」だよ。
ま、それを言うなら、「大きくなったら経理になりたいです」とかほざくガキはこの世に一人もいないと思うが。

はーあ。人生はかくもままならない。
ゼイディ・スミスの『美について』(On Beauty)の中でハワードが娘に対して「死んだ気分になるような生き方をするな(Don't live in a way that makes you feel dead) 云々」と思うシーンがあるんだけど、死んだ気分になるような生き方をしないためには、死ぬしかないじゃん?!死ぬか、死んだような気分で生きるか、のどちらかだ。

さて『カキフライが無いなら来なかった』より、面白かった句をいくつか。
笑ったのが、又吉サンの「屏風の虎に檻を描けば早いんじゃないか」。
はははw 発想の転換がさすがは芸人さん。
あと、又吉さんの句だと
「独りだから静電気を無視する」
「祖師ヶ谷大蔵と言いたかっただけ」
「これも頑張れば燃えるゴミだろう」
「リバーシブルであることを放棄させた」

せきしろサン
「なんか疲れると思ったら坂か」
「化石をつくろうと貝を埋めた」

二人ともなんか似た匂いはあるものの、又吉さんのほうがせきしろさんより、一歩か二歩、常に面白いね。
著者紹介によると、せきしろさんの方が10歳年上の文筆家だそうだけど、エッセイみたいのでも、やっぱり又吉さんのほうが面白いし、読ませると思う。
才能のあるなしって残酷やな。

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07月29日(金)

起床時刻:07時30分

『うつの医療人類学』(北中淳子/日本評論社/ 2014.9)を興味深く読んだ。
つい先日、『野の医者は笑う』(東畑開人)を読んだが、本書とセットで読むとよさそうである。
『野の医者は笑う』は野の医者つまり正規の医者ではない心の闇医者たち(オーラだのレイキだのマブイセラピーだのの専門家)の(闇)医療人類学だったのだが、この『うつの医療人類学』は日本の正規の心の医者たちを対象とした医療人類学なのである。本書を読むと、心の闇医者たちが独自展開しているのと同様、正規の心の医者たちもやはり独自展開していることがわかる。日本のうつ病理解と、北米や欧州でのそれは、各々異なる点があるのだ。
だからといって、著者は日本のうつ病理解は間違っているとか遅れているとか、言っているのではない。むしろ、日本のローカルなうつ理解が、今後グローバル・サイエンスに働きかけていくだけの力をもちうるのではないだろうか、という。

日本ローカルのうつ理解の特徴としては、「うつ病が過労の病として捉えられ、仕事というきわめて普遍的な、日々の営みを原因として引き起こされ得る病」とされたことである。リーマンショック後の世界不況において、過労自殺がグローバル化する中、「日本の自殺・うつ病言説と同じような流れが、世界各地で生まれつつある」(P213)そうで、過労自殺先進国?・日本における理解や経験が世界の臨床現場で役立つんじゃないか、というわけだ。

日本では長いこと典型的なうつ病の患者さんといえば、1962年にテレンバッハが提唱した「メランコリー親和型」タイプ、つまり真面目で責任感の強い完璧主義者タイプで、そういう人が許容量以上にメいっぱい仕事を頑張り続けたために、ココロがポキッと折れて鬱になったという説明がよく聞かれたものだ(うつ病は従来「女性の病」とされてきた欧米とはその点異なっていたのだそうな)。
「メランコリー親和型論の日本おける理論的展開は、1950年代にアメリカやイギリスでもさかんに議論された「タイプAパーソナリティ」概念が、その後科学的根拠を疑われ、性格論自体徐々に影響力を失った歴史的経緯や、またメランコリー親和型が本国ドイツで決して主流の理論とはならなかった事実とは、きわめて対照的である。日本においては、この概念の妥当性、信憑性が何度か疑問視されながら、1990年代以降の新世代抗うつ薬の世界的な台頭後も、その非普遍性がさほど問題とされることもなく、精神医学の古典的教科書的知識となっている点も非常に特殊だ」(P178)

そしてまた臨床の現場では、このメランコリー親和型が治癒神話として機能しているのを著者は知る。
2000年代のはじめのことでやや古い話にはなるものの、当時の医者は、「まじめ」で「周りに気を遣う」人々が過労うつ病になった、という文脈でうつを理解することを患者にも促していた。要するにうつ病患者は怠け者でも精神的脆弱者でもなく、オーバーワークを引き受けて頑張りすぎてしまった犠牲者なのである、と強調することで、患者を自責の念から解放し、バイオロジカルな不調に意識を集中させることで回復を図ってきたし、実際、昔はそれなりに有効でもあったのだ。

と同時に、それは「社会的性格論の枠に収め、正当性を与えることで、それ以上の”原因”探求を避けるものとして使われているようにもみえた」という(精神療法はうつ病治療において、かなり慎重に取り扱われているという。というのも、「内因性のうつ病が誤った精神療法的介入によって、「神経症化」していく危険性」があるからなのだそうな)。

そしてここで『野の医者は笑う』に戻りたい。
1995年以前の「自分探しの時代」における臨床心理学は「日本社会が抱えていた空虚感を癒す役割を背負って」おり、「深く自分を見つめて、自分らしい生き方を援助する治療法が主流だった。心の奥深くにある傷つきや願望を真摯に見ようとしたのだ」(P243)と著者は、現在のお手軽3分ヒーリングと対比させながら言っているが、『うつの医療人類学』では必ずしもそうではない。

私が想像するに、カウンセラーのところには昔も今も「自分探しの相談」というよりも「抑鬱状態の相談」でくる人が多いんじゃないかと思うので、『うつの医療人類学』から引用するが、精神科医らが「最も懸念するのは、患者が状態の悪いときに、自分を掘り下げることによってかえってうつが慢性化し、神経症化してしまうことだろう。ピエール・ジャネが述べた「(自分を常に振り返る人は)永遠の自己分析とでもいうものに入っていき、心理学者になる。それはそれである意味病気(adisease of the mind)なのである」との言葉に共鳴する精神科医はおそらく多いだろう」(P52)。永遠の自己分析って、私みたいな感じ?w 

実際のところ、「深く自分を見つめて、自分らしい生き方を援助する治療法」「心の奥深くにある傷つきや願望を真摯に見」ることは、むしろヤバイことになることがあり、だから臨床の現場でもタブーとなってしまった、という現実がある。日本社会の余裕がなくなってしまったためだけではない。

もっとも私自身は「心の奥深くにある傷つきや願望を真摯に見」ることを好むけれど、うつが悪化することが少なくないというのはよくわかる。それよりも、ニューソート風に「考え方を変えましょうね」とやったほうが、人生と社会に適応するためには有効なことが多かろう。

『野の医者は笑う』によると、
「野の医者の基本信念である「考え方が変われば、世界が変わる」という発想は、実は宗教由来だ。
ニューソート(New Thought、つまり新しい考えという意味だ)というキリスト教系の思想運動の基本信念なのだ。
積極思考、ポジティブ・シンキング、あるいは光明思想、言い方は色々あるのだけれども、それは自分と世界が繋がっているという魔術的な考え方なのだ」(P172)そうだが、私に言わせれば、「考え方が変われば、世界が変わる」思想は野の医者だけではなく、正規の医者も同じ考えを採用しているように見える。「メランコリー親和型」神話もそうだし、認知療法に典型的だ。考え方=認知が変われば、世界が変わる、がコンセプトじゃないか。
認知の「歪み」をノートに書きだすという理性的な方法でやるのが認知療法で、神だの霊だのパワーストーンだのオカルトを援用してやるのが野の医者なのである、というのが私の見方である。

もちろん、臨床心理学が専門の『野の医者は笑う』の著者は野の医者と臨床心理学の異なる点を述べている。それは臨床心理学と野の医者が呈示する生き方の違いだ。
「野の医者が思考によって現実が変わることを目指すのに対して、臨床心理学は現実を現実として受け止め、生きていくことを目指す。軽い躁状態が健康なのか、落ち込めることが健康なのか。このあるべき生き方の点で私たちは意見を違え、違う道を歩んでいるのである」。

でもさ、現実を現実として受け止め、落ち込みつつ生きるって難しいよね。失業しててもいい、みんなにバカにされててもいい、いじめられててもいい、体のあちこちが痛くてもいい、それでもそんな現実を受け止め生きていく気にさせるのって結構な無理ゲーじゃね?
一方で野の医者は神様だかパワーストーンだか引き寄せの法則だかしらんが、オカルトによって、「愛されてお金持ちになる!」というふうに現実を変えると言っているわけだ。

資本主義社会の敗者として生きていくか、資本主義社会の勝者になれる「秘法」を知るか。
そりゃあ、後者のほうに惹きつけられる人が多いだろうよ。
もちろん世の中には、そんな「秘法」を、コレッポッチも信じられない人もいる。自らの良心と美学と知性から、頭のイカレタ勝者になるくらいなら(しかもたいていの場合、勝者にもならず、ただのイカレタ人かただの鴨になるんである)、資本主義の敗者たる理性の人を選ぶ、という人である。

こういう人が社会と折り合いをつけて、敗者が敗者として敗北を抱きしめて生きていくには、「諦観」を身につけるしかないだろう。『うつの医療人類学』ではうつをサバイブした人の多くが、「諦観」という「回復の哲学」を身に着け、現実社会に戻ってきていることを指摘する。

バートランド・ラッセルは自分の内面へ関心をむけるのは不幸の源であり、私心なき外界への興味が幸福を導く、というようなことを『幸福論』で書いていて、私は「なるほどな」と大学時代に読んで思ったのである。なのに未だに私はこんな感じ(永遠の自己分析というある意味病気状態)なんだから、そういう性格だと思ってあきらめるしかない(出た、諦めw)。ただ読書の時間(そして読書感想文を書いている時間)だけは、まさに外界への好奇心のみで満たされており、私にとってある意味セラピーになっているように思う。かえっていろいろ悪化している気もしないではないがw。

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07月28日(木)

起床時刻:08時10分

尾籠な話で恐縮だが、会社の女子トイレがたまに汚れていて(便器に便や血がついている)、気づいたときは私が掃除しているんだけれど、あの汚したままで平気な神経ってなんなのだろうね?!流したあとには振り返って便器の状態を必ずチェックしていただきたい。

トイレ掃除をしながら思い出すのは「トイレの神様」という歌である。
「トイレには~それはそれはキレイな~女神様がいるんやで~
だから毎日 キレイにしたら 女神さまみたいにべっぴんさんになれるんやで」
という嘘八百を並べるおばあちゃんが出てくる歌だが、トイレ掃除でべっぴんさんになるかボケ!!!嘘つくな!!!
という怒りが毎回こみあげて、トイレ掃除でべっぴんどころか不美人になる一方である。

私は「トイレの神様」の歌詞が大嫌いで、なんでこんなに苛々するんだろう?とつらつら考えるに、このおばあちゃんの子供の指導方針が嫌いなんだな。「悪いことしたら地獄に落ちる」とか「トイレ掃除をすればべっぴんになる」とか、子供に言うことをきかせるために、ウソも方便で適当なことをいう奴が嫌いなのだ。まぁ地獄のほうはあることもないことも証明できないから、完全なる嘘とはいえないが、トイレ掃除と美貌の因果関係は全くないから、完全なる嘘である。
「嘘をつく奴は地獄に落ちるんやで!!だから毎日、嘘ついたら、地獄に落ちて閻魔さまに舌をひっこぬかれるんやで!!」とおばあちゃんに歌って聞かせたいところであるが(おばあちゃんの教育方針を私も踏襲してるなw)、それはともかく、トイレとは不思議なところで、若い子にはトイレ掃除でべっぴんになると教える一派(おばあちゃん)がいる一方、トイレ掃除で会社の業績が回復すると教える一派(経営者)もいる。

「カリスマ経営者はなぜトイレ掃除にハマるのか?」というリクナビの記事によると、「整理、整頓、掃除、清潔、躾をまとめて「5S」と呼ぶ。これは日本企業独自のもので、欧米ではそれほど知られていないという。そのベースにあるのは「掃除をすると社員が成長する」「掃除をすると会社の業績がよくなる」という考え方だ。しかし日本においても5Sの効用が理論的に語られることはまれで、「何となくよさそうだ」という理解に留まっている。ここに学問のメスを入れているのが、日本大学経済学部の大森信教授だ。著書『トイレ掃除の経営学』ではトイレ掃除が持つ経営学的な意味と事例を解説している。」

大森教授によると、掃除をすると会社がよくなる理由は掃除をすることで社員が変わるからなんだそうな。
「社員は掃除を通じて3段階の変化を見せていくことになります。
(1)自分のために自分が懸命になる(利己・自力)
(2)他人のために懸命になる(利他・自力)
(3)特定の誰かのためではなく、すべての人のためにあらゆることを引き受けて全身全霊で取り組む(利他・他力)」
http://next.rikunabi.com/journal/entry/20141126

というふうなスーパー社員に解脱するらしいが、私、いまだに(1)だけどね。ていうか、(1)ですらないな、自分のためにもあんまり懸命にならない。
掃除は利他の精神を生むらしいんだけど、私、利他の精神ゼロだね。それどころか、トイレ掃除をしても他人に対する怒りと憎しみしかわかないけどね。汚した奴だけでなく、「トイレの神様」教のおばあちゃんにもムカつくし、人間が排泄するような仕組みをつくった自然もしくは神様に対してもむかつく。全方位に対して壮大にむかつく。私は、まだまだトイレ掃除の修行が足りていないのか、あるいは性格がどうしようもなくねじまがっているのか。両方なのかもしれない。

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07月27日(水)

起床時刻:07時30分

朝、テレ朝の「羽鳥モーニングショー」をダラダラ見ていたら、「ショーアップ」のコーナーで北海道の標津町の祭りをとりあげていた。標津町は町おこしのために「ウラップ伝説」を創作して、それに基づいた祭りを1990年代にはじめたらしい。
テレビで見たところ、立派な山車が出るほか、若人から「ウラップ伝説」の登場人物の男女を選び、彼等が扮装して、なんかよくわからん儀式っぽいことをやっているのだった。

ちなみに「ウラップ伝説」てのは、不作に悩む若い男女が化石の鮭を掘り返したところ、夢のお告げで川に戻してほしいと鮭?に言われ、鮭の化石を川に放流?したところ、豊作になってめでたし、めでたし、っていうような話w 適当に聞いていたので、間違っているかもしれないが、間違っていたら、「こういう異説もある」ってな風に語り継ぐといいよw よりもっともらしくなるしねw ちなみに鮭の化石は本当に発掘されたらしい。 
「創作の伝説に基づいた祭りってどうなの?」と疑問に思う人が地元にもおり、それでニュースに取り上げられたのだった。

スタジオではAERA編集長の浜田さんと司会の羽鳥さんは、この祭りのおかげで町の人口の5倍以上の人がつめかけ、町おこしに役立っているのだし、ちゃんと町のHPにも「創作です」と書いてあるんだからいいんじゃないかと擁護した一方、ぶれない玉川さんはもちろん反対。「だって嘘じゃん!」と言っていたwだよねw
が、嘘でも100年続けば伝説になるし、そこらへんのホンモノの伝説も最初は創作だったかもしれないし、それこそ嘘みたいな話が多い、と羽鳥さんに反論されていた。

日本のあちこちに残っている、「創作やろ、これ!!」と言いたくなるような伝説と、ウラップ伝説の何が違うかといえば、ウラップ伝説はマーケティングのためにつくられた伝説、ということである。集客のツールとして、デッチアゲられた「言い伝え」を「言い伝え」と言っていいのだろうか。「伝説」ではなく「広告」というべきだろう。
まぁ神社なんかも急に縁結びの言い伝えをデッチアゲたり、実家の近所の神社では「ピンピンころり」の利益があると突然売り出してやたら儲かっているから、「みんなも(特に宗教方面)やっている」と言いたくもなろうが、しかし、行政も巻き込んだ公的なところがやるのは、やはりまずかろう。

似非を似非と言わずに広めた「江戸しぐさ」と違って「ウラップ伝説」は「似非です」、もとい「創作です」と言っているからいい、というのもわかるが、のちのちこの「ウラップ伝説」が江戸しぐさ化しないとも限らない。
似非伝説がいつのまにか「昔からあったんだもんね」風の伝説になってしまう危険性を防ぐためにも(学歴詐称ならぬ伝説詐称である)、「創作」であることを前面に出したほうがいいと思う。私としては「標津町・創作伝説コンクール」をやることをおすすめしたい、もちろん町起こしとしてね。そうすれば「ウラップ伝説」ではなく、「創作」精神を子々孫々まで伝えることができるだろう。そして毎年集めた創作伝説の中から、一番良かった伝説に毎年伝説を変更するのがオススメである。そうすると飽きられないし、クリエイティブな町・標津町として売り出せる。鮭だけではなく、酪農も盛んな町らしいから、次は牛の神様を出してはどうか?そうやって地元の産業もアピールしつつ、新たな展開をしていくのだ。

例えば、「実は標津町の鮭は宇宙人と交信している!」というのは、どうだろうか?だからUFOがよく飛来するとでもいえば、それこそ町おこしになるではないか(「UFOの町・標津町」)。もちろん、定番のUFOまんじゅうもつくる。そして例の鮭の化石(見たことないけど)は、「一説によれば、宇宙人の足跡とも言われているのである」とここで化石をまた役立てよう。もちろん、なんちゃって儀式では映画『サイン』に出てくるアルミ箔の帽子をかぶるのだ。
夢が広がりまくるな。

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07月26日(火)

起床時刻:08時15分

07月25日(月)

起床時刻:07時00分

『高峰秀子のレシピ』(高峰秀子の『台所のオーケストラ』を底本として料理を再現し、エッセイ等も収録して再編成したもの)を読んだ。高峰秀子が亡くなったのは2010年か。

「まえがき」は『台所のオーケストラ』文春文庫版(H12年)所収のもので、自分の料理を「即席インチキ料理」、「ゴキブリ女房の手なぐさみ」だって。「ゴキブリ女房」ってすごいな。おそらく「ゴキブリ亭主」(大辞泉によると「やたらと台所に入りこみたがる夫を揶揄(やゆ)していう語」らしい)の女性版で言ったのだろう。「ゴキブリ女房」に深い意味はなく、ちょっとした「ユーモア」とともに自分を卑下したか、台所でゴソゴソやるのを卑下して言っただけだと思われる。自分のことを卑下するのが、日本人のたしなみ・礼儀作法だから。

とはいえ、最近は、自分や身内を卑下する表現はあまり好まれなくなっているように思う。
何かモノを人にやるとき、昔は「つまらないものですが」と必ず言い添えたものだが、今はあまり聞かない。それから「ほんのお口汚しですが」といってなんか食べ物をやる、ということも減っているように思う。「お口にあえばいいのですが」というようなニュートラルな表現が多いし、私自身、へりくだる表現はあまり好きではない。へりくだるのではなく、本当にそう思っているのならオッケーである、という基準だな、私の場合。

自称ゴキブリ女房の高峰秀子は美貌の上に(と書いたが、私はとりたてて美人だと思わない。まぁ普通?原節子は美人だと思うけど)、料理も大変美味しく、家事も完璧で、養女の方が書いておられるが「特筆すべきは、台所で物音一つ立てなかったことである。料理が仕上がる頃には、使った器や材料が全て片付けられていたことである」。

マジですか!噂によると、おだいどこで、水しぶき一つはね散らかさなかったらしい。
す、す、す、すごい。さすがである。ひれ伏すしかない。全然ゴキブリじゃない。これでゴキブリ女房なら、世の女房は何女房なんだ?ゴキブリ以下ってなんだろう?実害的にはシロアリ?寄生虫?しかし寄生虫も最近は脚光を浴びているからなあ(『寄生虫なき病』参照)。特定外来生物のカミツキガメ女房(雑食性で凶暴)なんてどうかな、と思ったが、日本の女房たちの繁殖力は低いから、あてはまらないね、残念でした(そもそも凶暴ではございません)。

養女の斎藤さんは「高峰が五十五年の結婚生活で一度とした割ったことがない器を何があっても割らぬこと」を心掛けているらしいが、ひえええ、私、そんなところに絶対に養女に行きたくない。五十五年間、一度も器を割ったことがないって!そういうきちんとした人は何をやっても素晴らしくお出来になるんだよ。苦労して育ったから、万事に神経がいき届くようになったのかねぇ。

あとすごいのが、高峰秀子の旅の流儀について書いた本があって、その中で高峰秀子様はファーストクラスの飛行機の中でも人目があるところでは眠らなかったんだって(旦那サンもそうだったっけな?忘れちゃったけど)。すごくない?この美意識。この万事に神経の行き届いた感じ(二回目)。背中がいつもピシッと伸びてるんだろーなー。まず体力がすごい。「疲れた」なんてゴロンと横になったりしないんだろうな。ソファにゴロンと横になってしかも横になった姿勢でおせんべいを食べながらテレビをダラダラ見る、なんてことは絶対にないんだろう。

私は子供のころから二言目には「たるんどる!」とありとあらゆる人から注意されてきたので、たるみゼロの高峰秀子様は本当にすごいと思う。

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07月24日

起床時刻:10時00分

夕飯はハンバーグ(付け合わせはブロッコリー、かぼちゃ)、サラダ(キャベツ、ズッキーニを塩もみしてフレンチドレッシングで)、白桃。

ハンバーグは粗びき牛肉と豚肉のミンチを買ってみたんだけど、牛の粗びきに牛筋が入っていて大変筋っぽく、夫が「何これ!?」と切れていた。こんな屑ミンチを売っていたスーパーが悪いんだからスーパーに怒ってくれればいいが、夫に言わせればあのスーパー(値段は高いくせに品質は悪い)で買った私が悪いってことになる。

夫は私に切れればいいが、私はどこに切れるんじゃ。
「弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者をたたく♪」
私に子供がいたら子供にあたっていたかもしれん。
でも夫の目の前であたれば、私が悪いと怒られるだろう。人のせいにするな、と。
今、仮想家族(夫、私、子供)においてこのハンバーグ事件の経過をシュミレーションしたのだが、ぞっとする。確実に今よりも悪い。何しろ夫vs自分が夫+子供vs自分になるのだから。
子供がいなくてよかった。

家庭の中のヒエラルキー、家庭の中の上下関係、どいつが上で、どいつが下か、はっきりさせて、上の奴についていく。会社の人間関係、ママ友の人間関係と同じ、愛情などというもので対等になれると幻想するのは恋愛中のほんの一瞬、人間関係はどれも一緒、支配―被支配をめぐるゲームだ。

そもそも結婚しなけりゃ、そんな支配―被支配のゲームにも巻き込まれず、夫や姑にヘイコラしなくてもいいのになぜ結婚するのか。答えは簡単で上司やクライエントにヘイコラする口が見つからなかったか、嫌になったかで、家庭という「永久就職」を選んだからだ。ま、確かに最近の嫁は、社会人が理不尽なクライアントにヘイコラするのに比べたら、夫には全然ヘイコラしていない。「男女平等」が行き届いた一方、「お客様は神様です」哲学が駆逐されていないからだろうか。

経済的に自立していて、しかも若い女性は、夫にも強い(経済的に自立しておらず若くもないのに強い女性もいるけどね、「母である」というオールマイティカードのおかげで)。「イヤならやめますけど、何か?」という姿勢でいられるから、夫のほうもヘッドハンティングしてきた社員のご機嫌をとるように、妻にもみ手していることもある。

私のように市場の最低価格のバーゲンセール品、カネもらっても引き取り手のないようなゴミ屑のような品は、雇用市場においても恋愛市場においても、足元を見られるのだ。ブラック企業が雇用者を使いたおすのも「どうせ他にいくところないんでしょ」「どうせどこにも雇ってもらえないんでしょ」と足元を見ているからだ。

ブラック企業を辞めてどうするというのか。ブラック企業Aをやめたらブラックな現実(失業)が待っているだけだ。他でもやっていけるなら最初から就職しないか、とうにやめている。つまり現実というのは、才能や美貌や健康や体力や若さといったリソースのない人間、つまり世間からの需要のない人間にとってはブラックなのだ。

ハンバーグ一個で大げさな結論になっているが、一事が万事、こうなのだ。
私が、一人でいるのが大好きなのは一人でいるときだけはヒエラルキーの最下層でいることを感じなくていいからだ。誰かにあわせ、誰かにもみ手して、間違ったことを言ったりしたりして、怒られないかとびくびくする必要もないからだ。一人でいるときだけは自分らしくいられると思う。しかし生きていくためには集団生活しなきゃいけないんだよなあ、はーあ。

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07月23日

起床時刻:09時30分

『「がん」では死なない「がん患者」 栄養障害が寿命を縮める』(光文社新書/2016.5.19/東口高志)を読んだのでメモ。
がん患者の死因の8割は感染症。
なぜ感染症になるのか、それは栄養障害のために免疫力が落ちているからだ。
がんで歩いて病院に入院してきた人が退院するときには歩けなくなっている。
言われてみればそーね。実は、入院患者の3割は栄養不良なんだとか。
一番いいのは口から物をたべること(だから口腔ケアはチョー大事)、それが無理なら胃瘻じゃなくて腸瘻。

「栄養を入れるとガンが大きくなるというのは重大な間違い」
正常な細胞は通常好気性解糖を行うが、がん細胞は嫌気性解糖を行う
・嫌気性解糖:ブドウ糖→ビルビン酸(酸素がないと)→乳酸になる
・好気性解糖:ブドウ糖→ビルビン酸(酸素がたっぷり)→ミトコンドリアに取り込まれて酵素によって代謝→アセチルCoA→TCAサイクルに入る=ATP(生体のエネルギー通貨)がつくられる)

ビルビン酸がアセチルCoAにかわるには、ビルビン酸脱水素酵素が働かなくちゃいけなくて、このビルビン酸脱水素酵素がちゃんと働くためにはいくつかの補酵素が必要で、その一つがビタミンB1なんですね。というわけで、ブドウ糖ちゃんをTCAサイクルに入れてATPをガンガンつくるためには、ビタミンB1チョー大事てことですな。
ところでなんで酸素があってもガン細胞は嫌気性解糖をするのだろうか?嫌気性解糖は仕組みが単純だから反応は早いもののちょこっとしかATPはつくられず、ブドウ糖からの代謝効率はチョー悪い。理由はまだはっきりわかっていないんだって(アポトーシスを避けるため?)。いくつかの仮説は本書で書かれている。

あとコエンザイムQ10も大事なんだとか。コエンザイムQ10はATPを生産する際に使われる酵素の補酵素。それからガンがある人はL-カルニチンも大事なんだって。カルニチンっていったらラムじゃね?私はよく食べている。あとBCAA(バリン、ロイシン、イソロイシン)も大事。理屈は本書を読まれたし。
ていうか、本書を買って全部読まれたし。新書だから千円以下。
まぁ病状が違えば栄養管理も異なってくるので(たとえばCOPDなど呼吸障害の人は糖より脂肪を多めにするとか)、今実際に病気のある人は専門家に相談しなくちゃいけないが、その前の、どこも悪くない人でも、参考になるところは多々ある。たんぱく質、ビタミンB1、超大事。さっき書いたねw

そうそう、髪の毛はタンパク質不足、毛根の細胞の酸化、血流障害で抜けるらしい。
「ついでに言うと、髪の毛は朝の3時から9時の間に伸び、毛孔が緩むことから、その時間帯にシャンプーはしないほうがいいでしょう」だって。もし洗うなら少量のシャンプー等を使って優しく洗えとのこと。へー、朝シャンより夜シャンがいいんだ。髪はストレスでも抜けるから、ストレスを和らげる作用のあるテアニンが入っているお茶でも飲んでリラックスするのがいい、というけれど、お茶のテアニンぐらいじゃ全然リラックスできないよ、わたしw。

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07月22日(金)

起床時刻:07時45分

『蜂飼耳詩集』(ハチカイミミ、と読むらしい。図書館で借りてきた)に収録されていた「隠す葉」より一部引用。

「なにも身につけず出歩くと
捕まるそうだ
「なぜ一枚も持っていないんですか、着るものを」
「ぜんぶぜんぶ、焼いてしまったんです」
「というと?」
「合わなくて」
「大きさが?」
「着る、ということに、まるでなじめなくて」
不文律ではない、その前に 風邪をひく
月はどこかに浮かんでいる
思い出せないほどの遠い過去に
祖先は体毛のほとんどを
笑いながら歌いながら失くしたがそれは
作ったものを纏うことと 引き換えだった」

正確には、「作ったものとコロモジラミを纏うことと 引き換えだった」、のである。
「人類が体毛を失ったのは三百万年ほど前で、服を着るようになったのが、七万年ほど前という推測がある」(『21世紀の宗教研究』(平凡社・井上順考他の論文集)。
ていうか、体毛を失って服を着るまでの293万年(相当長い)はどうしてたんや?!「葉っぱ一枚あればいい♪」(@はっぱ隊)という時代が続いていたんだろうか。それこそ風邪をひかなかったんだろうか。
それはともかく、この推測は「シラミの研究から導かれたもので、陰部に住むケジラミと頭部に住むアタマジラミのDNA分子解析と、アタマジラミから分かれたコロモジラミの分子解析による。
つまり人類の体毛がなくなったので、ケジラミとアタマジラミは分離され、別々の進化をした。また服を着るようになったので、アタマジラミからコロモジラミが分化し、もっぱら衣服に住むようになったということである。衣服着用は、出アフリカした人類の寒冷地への進出を可能にしたと考えられる」
以上は『21世紀の宗教研究』の中の「宗教研究の新しいフォーメーション」(井上順考)からの引用だ。宗教の本なので別にシラミの話は主眼ではなく、神が「衣服をまとった姿で表象されるのは、七万年より新しくなければならないという推測が成り立つ」ということらしい。

蜂飼耳の「隠す葉」はこのあと、大きめの葉を綴り合せて「そこを隠す」ものの、はっぱ隊で秋冬を向かえるのはさすがに不安だから鏃(やじり)を作って何かを狩ろうとするが鏃は不出来で、こんなものではなにも仕留められないと思い、これは海際にうつったほうがよくはないかと思案するわけだが(詩の「あらすじ」を書いちゃうという乱暴狼藉w 何しろ長いのである)、「わたしは知恵に見放されている」という主人公がどうするかというと、「途方に暮れて地面に 左手の影 映してみる」(この一文で詩は終わり)。

はい、ここ!たぶん、ここで神のお告げを聞くというか見るんですよw
つまり左手の影に何か”ビジョン”を見て、読み取るんですよ!神の意志的な、天使からのメッセージ的な、何かを。シナイ半島とか見えませんでしたか?!
「宗教研究の新しいフォーメーション」(井上順考)に戻ると、ジャスティン・バレットは『なぜ誰もが神を信じようとするのか』の中でHADD(Hypersensitive Agency Detection Deviceの略語、過敏な動作主体探知装置)という人間の認知のありかたを提起するのだが、つまり「出来事の背後に常に何らかの主体を見出そうとする認知の特徴のことである」。
そう、葉っぱのざわめき、影のかたち、オッサンのくしゃみ等々にまでなんらかの超自然的な意志や霊からのメッセージ(Agencyの存在)を読み取ってしまうのが、我々なのである。

このはっぱ隊隊員は、月がどこかに浮かんでいる夜に、左手の影を地面に映して、神のお告げを見る儀式を完成させるだろう。ヘタクソな鏃(やじり)で手首を傷つけて、血を滴り落とすかもしれない。なぜか血を滴り落とすと霊的効果が高まるとされている。はっぱ隊隊員は、世界の成り立ちについて何か”ヴィジョンを得る”かもしれない。

適材適所というが、鏃(やじり)づくりが得意だったり興味がある人はどこまでも鏃づくりのカイゼンに心血を注ぐが(理系男子に特徴的なように)、鏃づくりが苦手な不器用な奴(この詩の主人公)や知恵に見放されているアホ(この詩の主人公)は、ボーと左手をかざしたりして、ボーとどうでもいいこと、もとい世界についての直観的な理解について思索を深めるのが好きだ。私もそうだからわかる。実際的なことが苦手ですぐ現実逃避するタイプの人間(左手を地面にかざしている場合じゃない!働けや!)の適所というのはシャーマンなんである。だから私(不器用なアホで現実逃避が得意技)もきっとシャーマンに向いているんだろうが(少なくとも鏃工場に勤めるよりは)、しかし葉っぱ一枚になるくらいの勇気と信念がないとシャーマンにはなれないのだ。まず、最初の奇声を発する勇気が必要だ。そして周囲に「は?」と言われても続ける信念。それから私の想像だと、シャーマンにはノリの良さが必要で、儀式ではトランス状態になってノリノリで祝詞というか呪文をあげなくちゃいけないんだけれど、私はライブですらのれないタイプ。リズム感がそもそもないんだな。勇気、信念、リズム感、私には全部ない。はーあ、私の適所ってどこなんだろう。この世にはない気がする。

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07月21日(木)

起床時刻:07時00分

「中年女性というのは、この世でもっとも知的好奇心と向学心に燃える人たちだと私は思う。だから、知らない世界を教えてくれる宗教にはまりやすいのだ」(『野の医者は笑う』)そうで、私も、宗教にこそはまっていないものの、知的好奇心と向学心に燃える中年女性の端くれとして、本書すなわち『野の医者は笑う』(東畑開人/誠信書房/2015.8)を面白く読んだ。

本書は沖縄の”野の医者”たちが、人々(圧倒的に女性)の心身の不調を、「アヤシイ」方法(オーラソーマ・拝み(ウガン)・瀉血(ぶーぶー)・マブイセラピー(マブイとは沖縄の言葉で魂のこと)等々)で治癒するヒーリング文化を取材したものである。ヒーラーという「エキスパート」へのインタビューを中心とする定性調査といったところだ。これにトヨタ財団がカネを出したらしいw すごいw 

京大大学院卒の臨床心理士である著者は、こういうアヤシイ研究をしていると「超自我」に「ドイツ版ユング全集を写経して、出直してきい!」と関西弁で叱られる気がして途中でスランプに陥ったそうだが、私に言わせればユングの集合的無意識やフロイトの性的一元論も十分、オカルトチックで、本書風にいえば「レトリック」だと思うが、それはともかく、「治療者は診断を告げることで、なぜ病いになったのかのメカニズムを説明し、そして治癒の形を提示し、そのためにどうすればいいのかを説得する」のだが、沖縄では”野の医者”の説明モデルに納得感を持つ人が多いので(ユタ文化の素養がある)、ヒーリングが盛ん、ということのようだ。また沖縄では患者自身が色々な説明モデルを自由に”チャンプルー”して独自理論を生み出し、癒された側が今度は癒す側(ヒーラー)になることも多くみられるのだそうな。

本書で興味深かったのは、「なぜ沖縄に野の医者が多いのか。それは沖縄が貧しいからではないだろうか」と指摘している点だ。沖縄は日本で最も年収が低く、出生率が高く、離婚率も高い。経済的困難を抱えながら女手一つで子供を育てる中で、心身に不調をかかえた女性達(ヒーリングにはまるのは圧倒的に女性だ)が多いのも無理はない。彼女たちはヒーラーに癒され、そしてヒーラーになることに憧れるのだという。
著者に言わせれば「癒しは、ヒーリングで収入を得るというところにある。葉湖氏自身がそうだ」(※葉湖氏ってのは、異常に軽薄でお手軽な「マインドブロックバスター」の創始者)。

いやあ、言っちゃったねえ。そうなんじゃよ、なんだかんだ言って、究極の癒しはお金なんである(それもヒーリングという「好きな仕事」「やりがいのある仕事」で稼げるなら夢のようであろう)。
ホリエモンが言ったようにお金があればたいていの問題は解決するのだ(もちろん、身体的な病気が原因の悩みも多いから一概にはいえないが、経済的な疲弊から鬱になった系なら、金こそが特効薬である)。
また貧乏ゆえに「マインドブロックバスター」に代表される、インスタントラーメンのごとき即席ヒーリング(3分に1個心のブロック?を解除するんだそうな)に頼ってしまうのではないか、ともいえるのではなかろうか。

そもそも正統派の心療内科に通うと、治るまでに1年、いや2年、もしかしたら3年などという悠長な見込みが発表され、医者は「焦らずゆっくりと治していきましょうね、その間は休職して、なるべく無理しないで、家族や周りの人の理解を得ながら、じっくり治していきましょうね」、などと言うわけだが、東京の大企業に勤めているんならともかく、アルバイトやパートといった時間給でギリギリの生活をし、家族の理解を得るどころか旦那はアル中だし、子供はウルサイし、そんな中でなーにがゆっくりと治すだ!子供は腹すかせているから、どんなにだるくったて、飯をつくって食わせなきゃなんないし、そのためには働かなきゃならないのだ!という状況だとですよ、「一分で治します」と宣伝している方に賭けてみたくなるのが人情ってもんじゃあ、ありませんか。

お金がないのは首がないのと同じ、という言葉があるが、お金がないのは単なる不便を超えて、その人の自己認識にまで深刻な影響を及ぼす。
お金がないのは強欲な金持ちに労働者階級が搾取されているからではなく、自己責任なのだ、というのが時代の認識であり、要するに「テメェが無能で役立たずで何もできないバカだから貧乏なんだよ、人のせいにすんな」という風潮を額面通り受けとめると鬱になるし、「私なんて無能で役立たずで何もできないバカだから、社会に迷惑をかけるだけだし、自分もつらいし、もう死のう」と思うわけだ。

しかし幸いにして、我々には生存本能、つまり「もう死のう」を回避する本能が備わっているので、我々はスピリチュアルを通して認知の歪みを取り除く、というより、認知を歪めて生きのびる。曰く、「お金がない」に代表されるような諸問題をアナタが抱えているのは、本人の無能のせいではなく、祖先の供養の問題、前世の問題、波動の問題、風水の問題、潜在意識の問題(「ありのままの自分」を押し殺している問題)、パワーストーン不足問題等々により起こされているのである、というふうにスピリチュアルは認識のオルタナティブを解決方法と常にセットで提供してくれるのだ。わーお、ミラクル!

著者はこう書く。
ヒーリングを受けに行った人は「そこで野の医者という生き方に憧れるのだ。人に使われるわけでもなく、自分で自立し、やりがいのある仕事をする。それが彼女たちの求めている癒しだ。<略>
彼らは新しいキャリアと経済的な自立を夢見て、野の医者になる」
なるほどなぁ、それはわかるなぁ、と思った。

これまたアヤシイ野の医者のアドバンテージだ。野の医者は、スクール経営を通じて、新しいキャリアと経済的な自立を夢見させてくれるのだ(もちろん、金を払って夢を見るのだw)。

正統派の心療内科に1年だか2年だか3年だか通うとだんだん良くなってくることが多いわけだが、しかし、良くなってくると、現実世界に戻らなきゃいけなくなる。しかも、1年だか2年だか3年だかの空白のキャリアを経て、トシだけ無駄にくって、市場価値が下がった状態で!カネもなく、スキルもなく、キャリアもなく、シワだけ増えた状態で!そして世の中は相変わらず不況だから、仕事は大変で給料は安い。いやああああ!戻りたくない!!

そこいくと、スピリチュアル業界で癒された人たちは、お手軽なヒーリングの研修みたいのを受け、スキル(といっていいのか)とオーラとポジティブ思考を身に着けて(なんならパワーストーンも)、リアル世界に戻っていけるのだ。うーむ、どこからどうみてもスピリチュアル業界のほうがよさそうな気がしてくるではないか。

ところで青森や宮崎といった年収水準で下位の県も沖縄のようにヒーリング文化が栄えているのであろうか。青森はイタコが有名だし、沖縄のようにスピリチュアルを受け入れる下地はあるのかな?、どうなんだろう。調べようにも、県民一人あたりヒーラー数とかの統計はなさそうw 総務省の家計調査の品目にも「占い」とか「ヒーリング関連費」とかは、さすがにないだろうしw。

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07月17日

起床時刻:09時30分

07月16日

起床時刻:05時00分

『BEYOND -Two souls-』をクリア。面白かった。一周目は日本語吹き替えで、二周目は英語音声日本語字幕でプレイしていたら(『Until Dawn』同様、イベントスキップできないし、セーブデータ一つしかないし、めんどくさいんだが、これが今は普通なのかしらん)、例のディナー「青椒肉絲」をつくるシーンに。そう、私が「あれは牛肉とトマトの塩コショウ炒めであって、「青椒肉絲」ではない!断じてな!」と告発したシーンだ。そしたら、英語音声だと「青椒肉絲」のことをAsian Beefって言ってる!ジョディが作ろうとしているのは「アジア風牛肉」とでもいうべき料理で、「青椒肉絲」ではなかったのである(「青椒肉絲」の英訳はさすがにAsian Beefではなかろう)!
つまり、ジョディのつくる「青椒肉絲」が「青椒肉絲」でなかったのは、翻訳の問題だったのだ!

あんなにアツく、「青椒肉絲」について語っていたは、何だったのか(7/12の記事参照)。
いやあ恐ろしい。だから翻訳ってのは、難しい。おそらく翻訳者は「アジア風牛肉」では意味不明すぎるので(ていうか、一口に「アジア風」といっても大変広いが、私が考える定義というか、アジア風の共通要素は発酵調味料を使うことだ。んで、ジョディのつくる料理はナンプラーとか醤油とか豆鼓とか味噌とかコチュジャンとかの、いわゆるアジア風の発酵調味料が何も入っていないから、アジア風要素はどっちにしろゼロだと思う)、日本のプレイヤーにもわかりやすい「青椒肉絲」にしたんだろう。

本なんかでも、翻訳者が親切に日本人の読者にもわかりやすいように適宜なじみのものに変えるってのは、特に昔の翻訳者ではよくあった。ちょっと今例を忘れてしまったが、それこそナヴァランではわからないだろうから、肉じゃがにかえる、みたいなことをよくやっていたのである。これは仮の例だが、それを読んだ幼いころの私は「へー、向こうでも肉じゃが食べるんだー」と思ったりしたのである。今はそのまま訳して、日本人にはわからんだろうと思えば訳注をつけるスタイルが多いように思う。

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07月15日(金)

起床時刻:07時30分

朝、「ビビット」(TBSの朝の情報番組。常に口角をあげている真矢みきサンは、どんな暗いニュースも絶対に口角を下げなくて、眉間にしわを寄せるか(暗いニュース)、寄せないか(明るいニュース)の二種類の表情しかしないことに、たまに見るたび驚愕するw)を流し見していたら、都知事候補者の元岩手県知事の増田氏の紹介で「2003年の県知事選では全国で初めて”ローカル・マニフェスト”を掲げ公共事業費を3割削減した」とかなんとか言っていたが(うろおぼえ)、これだけ聞くと、「無駄な公共事業費を減らして自治体の借金をすごく減らした人」っぽいが、この方退任するとき、就任時の倍の借金を岩手県に残していったんですから!残念!と波田陽区(覚えてますでしょうか)を出してしまうくらいアレ?と思った。増田氏は平成7年(1995年)4月から平成19年(2007年)4月の3期12年、岩手県知事をつとめたんだけど、就任時からガンガン借金増やしていったお方である。と、山本一郎サンがyahooのブログ記事で書いている(「増田寛也「ほとばしる無能」を都知事候補に担ぐ石原伸晃&自民都連(訂正とお詫びあり)」)。途中でさすがにやっべぇ!となって任期後半に公共事業費をガンと減らしたわけだ。

平成25年(2013年)に岩手県が出した「公債費負担適正化計画」で(山本氏のブログに「公債費残高が年度会計の18%を上回ると、国から「馬鹿かよ。再建計画出せや」と言われ」て出している書類とはこれ。ブログに掲載されている年次ごとの公債費及び県債残高の推移グラフも掲載されている)に、どーしてこんなに地方公債をいっぱい出しちゃったのかという理由が書いてある。
私自身は公共投資はある程度必要だと思っているけれど、これから本格的に少子化しようってときによくまぁ県立大学なんかつくったねぇ。公共投資で景気が上向き、大学設立で若者が流入し、財源も増えて若い人も増えて「わーい」ってなるかと思いきや、ただ借金だけ残っちゃったのね、、、。まぁどーせ誰が何やったって、日本が沈没船である事態はかわらないのだから、しゃあないのかもしれないけどさ。ネガティブな私としては、従容として沈没を受け入れるのか、あがいて借金を増やすのか、どっちかなんじゃないの?などと思うが、こんなこと言ったら絶対に選挙に勝てませんw

そんなわけで借金まみれの岩手県なのだが、「地方が主役になる日本を岩手から」(「岩手県人口ビジョン」の副題)などといまだに言っているのだから、ポジティブ思考にもほどがあるw。もし首都圏直下型の大地震に加え、南海トラフの巨大地震、富士山大爆発、どえらい津波、原発事故などの大災害が同時に起こって、首都圏から西日本まで壊滅状態になった場合、岩手が急浮上して日本の主役になるかといえばそんなこともなく、東京コケたら岩手も含めて皆コケて、日本全体が立ち直れないはず。そのくらい日本の経済は東京(首都圏)一極集中で、地方自治体で体力があるのはトヨタの愛知県、ヤマハの静岡県ぐらいだろう。大阪は大沈没しているしねぇ。
日本のような災害大国(そんな大国いやだ)ではある程度リスク分散させる必要はあると思うけど、そうするとどうしても非効率になるし、難しいんだよねぇ。『都市は人類最高の発明である』のエドワード・グレイザーが、「都市を高層化・高密化させて発展させることが人類の進歩につながるのであり、その足を引っ張るような現在の各種政策はやめるべきである」と主張しているように、一極集中には一極集中のメリットがあるんだよね。

そういえば、まだ日本の体力がある時代に東京に対するインフラ投資をしっかりせずに地方創生とばかりに地方にお金をまわしたせいで(竹下政権のふるさと創生一億円とかなw地方自治体がなぞのモニュメントたてたりしたやつ)、東京がアジアのハブからすっかり転落して、シンガポールだか香港だかにもってかれた・・・と中公新書の『国土と日本人』(大石久和)に書いてあったような記憶があるが、、、本が手元にないから記憶違いかもw
要するに東京コケたら皆コケるのだから東京にあえて資源を集中投下して、東京がアジアや世界の他の都市と比較しても競争力や優位性を保てるようにし、地方はそのおこぼれを地方交付税交付金としていっぱいもらうほうがいいんじゃないか、という戦略もあるわけでw

しかしもちろん、本当は地方がいわゆる「元気になる」ってのが一番いいのだ。では私が岩手県知事だったとして「地方が主役になる日本を岩手から」をどうやって実現するのか・・・・・・と書き始めて気づいたが、私は絶対に岩手県知事にはならないのだから、そんなことまで心配する必要はないのだったw

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07月14日(木)

起床時刻:07時30分

07月13日(水)

起床時刻:07時30分

07月12日(火)

起床時刻:07時30分

『Heavy Rain』をつくった「Quantic Dream」社による『BEYOND : Two Souls』のPS4リマスター版(オンライン配信専用タイトル)、まだ途中なのだけれど、とても面白い。今ちょうど青椒肉絲の話が終わったところだ(半分くらい?)。

そう、この章ではジョディ(主人公)が、ディナーに料理本を見て青椒肉絲かチキンカレーをつくるか、宅配ピザをとるかプレイヤー決めるシーンがあって、それで青椒肉絲を作ることにすると、冷蔵庫からおもむろに材料をとってくる。

私はそこで目を疑ったね。
青椒肉絲の材料が、トマトと玉ねぎと肉(牛のステーキ肉っぽかったが不明)なんだもん!!
まぁ筍の水煮は冷蔵庫に入っていないだろうな、とは思ったが、せめてピーマンは入っているやろー!!

そしてジョディが調理に取り掛かるのだが、玉ねぎとトマトを粗みじんに刻んで(ジョディは玉ねぎを切るときに涙が頬に伝っていたけど、玉ねぎの成分で涙を流させる硫化アリルは冷やすことで気化しにくくなる性質があるため、冷蔵庫で冷やした玉ねぎを切った場合、涙はあんなに出ない。ていうか私は全然出ない)、肉を一口大に切り、オリーブオイルで炒めて、塩コショウ、ジンジャーパウダー、仕上げに白ワインで出来上がり。

「それ、青椒肉絲じゃねえええ!!!」と全日本人が思ったんじゃなかろうか?
そして更に驚くのが、ジョディの”青椒肉絲”を一口食べた人は「青椒肉絲だね?」と言うのである。
「オマエ、よくわかったな!!」とリアル口に出してしまったわw
だってこれ、トマトと牛肉の塩コショウ炒めだよ?
しかもこれを食べた人が、青椒肉絲は「中国に住んでいたときに好きになったんだ」などと、ほざくではないか。
・・・ん?ひょっとしてこれ(トマトと牛肉の塩コショウ炒め)が本場中国では青椒肉絲と呼ばれているとか?!私たちがいつも食べている、あのピーマンと筍と肉の細切り(片栗粉をまぶす)を炒めて、味の素クックドゥの「青椒肉絲の素」でからめたやつ(すみません)、あれは「日本風」青椒肉絲なのか?!と不安になって思わずwikiを見てしまった。
そうしたら、「発祥の中国においては豚肉を使用するのが標準であり、牛肉を使用した場合「青椒牛肉絲(チンジャオニウロウスー)」、もしくは短縮して「青椒牛肉」、「青椒牛」などと表記する。日本の場合、牛肉を使用していても「青椒肉絲(チンジャオロース)」の名で呼ばれることが多い」という日本独自の相違点はあったにせよ、「「青椒(チンジャオ)」とは辛みを抜いて品種改良した唐辛子(現代ではピーマン、ししとうなど)の緑色の果実を指し、「絲(スー)」とは細切りのことを指す。つまり青椒肉絲とは、ピーマンなどの細切りと肉材の細切りを炒めた料理のことをいう」ということで、大筋では日本の青椒肉絲は青椒肉絲なのであった。そしてジョディのつくった青椒肉絲は「青椒」でも「絲」でもないのだから、本場中国においても青椒肉絲であるはずがないということが判明し、ホッとしたのであった。
しかしwikiには「中国の素朴な作り方では老酒と塩のみを調味料として使用するとされる」そうで、ただの塩炒めは全然アリということなのだった。へえ。それを食べたら、青椒肉絲に近いが青椒肉絲ではないと思いそう。というのも、日本のレシピだったら100%、醤油とオイスターソースと生姜とニンニクは使うもんね。

まぁこのゲームをプレイするとこういう風に青椒肉絲に詳しくなれるわけですね。

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07月11日(月)

起床時刻:07時30分

07月10日

起床時刻:09時30分

07月08日(金)

起床時刻:07時50分

今日は昨日塩麹に漬けておいたするめいか(1パック買ったら永遠になくならないんじゃないかと思われるタイムも、一緒に漬けておいた)をオリーブオイル+白ワインでチャッとソテーし、いったん取り出す。ズッキーニ1本、ニンニクみじん切り1/2個、ご飯をいためあわせ、そこに汁ごと先ほどのするめいかを入れ、仕上げに塩少々とコショウをひき、パルメザンチーズをかけてなんちゃって「いかとズッキーニのリゾット」。
するめいかってやりいかと違ってどうしても固くなりがちだが、塩麹パワーはすごい。私みたいについつい念入りに火を通しすぎても(刺身用じゃないもんで)、柔らかいまま。するめいかはやりいかの半額程度と安いので、なるべく使いたいw たただちょっと塩麹の甘い味がついてしまうので、レモンをほんの少々絞ってみたら、大変に美味しい。あとはオリーブを数個と白ワイン2杯。デザートはヨーグルト+ブルーベリージャム。

5/24の日経新聞の文化欄に、「安高文書」の紹介があった(時里奉明教授)。「安高文書」とは、明治から昭和にかけて福岡県北部の芦屋町に生きた安高団兵衛(「尋常ではないほどの記録魔」)の日記だ。彼は1919年から毎日、寝入りと目覚めの時間を記し、「睡眠統計を取り始めてから足かけ16年の記録をもとに、団兵衛は自分の平均睡眠時間を割り出している。1日平均は5時間40分だった。夜が長い冬季は6時間以上になり、夏季は4時間台の時もある。
団兵衛は自ら実験台になって、人は6時間寝れば十分働けると結論づけた。彼は「私のように家庭の事情で教育に恵まれなかった者が取るべきただ一つの道は、勤勉力行あるのみ」と考えていた。ムダな睡眠はできるだけ削り、効率的に働くことを第一に心がけていた」

ひえええ、団兵衛のとこには嫁にいきたくねー!!
それはともかく、「意外に寝てないんだなあ」という印象。
2016.7.6の朝日新聞GLOBEによると、「眠らない日本人。理想は、7時間?8時間?」と題した記事で「日本人の睡眠時間は、この半世紀で緩やかに減ってきた。NHKの国民生活時間調査(2010年)では、平日の睡眠時間は7時間14分。40~50代は6時間台と最も短い。調査方法が違うため単純には比較できないが、調査を始めた1960年より1時間ほど減っている。
これは世界の中でも短い。
経済協力開発機構(OECD)の調査(09年)では、日本人の1日の平均睡眠時間は7時間50分。1位のフランスより1時間も少なく、18カ国中、韓国に次いで2番目に短かった」そうな。
http://globe.asahi.com/feature/110821/03_1.html

しかし、「人は6時間寝れば十分働ける」論者の団兵衛氏に言わせれば「日本人は睡眠不足」どころか「寝すぎなんじゃ、ボケ!」ということになりそうだ。

ちなみに朝日新聞の同記事によると、
「眠りの質は個人の健康に影響があるだけではなく、社会全体の安全や安心をも左右しかねない。
米国に興味深い研究がある。被験者たちの睡眠時間を4時間、6時間、8時間に分け、ランプがついたらボタンを押すテストをした。2週間後、「6時間」の被験者は一晩徹夜したのと同じくらい反応が鈍り、「4時間」の被験者は二晩徹夜したのと同じ状態になっていたという」
団兵衛は自ら実験台になって6時間睡眠で十分と結論づけたんだが、ま、N=1じゃあねぇ、サンプル数が少なすぎたんですねw

しっかし、奥さんの睡眠時間はどんだけだったんだろう?団兵衛が5時間40分なら5時間か下手したら4時間台かも?戦前なら女は男より早起きだったろうし(今でもそうですね、はい)、寝るのも最後だったろうから(「嫁はしまい風呂」だったろうしねぇ)。

さて日経の記事に戻ると、団兵衛の「家業日誌の数字などからはじいた1日の平均労働時間は15時間20分」。なげえ!夏目漱石の『門』の主人公の官僚なんか全然働いていない印象だったが、やっぱり戦前は今とは比較にならない格差社会だったんだなぁ。団兵衛の奥さんは農作業に加えて家事・育児・介護も加わるだろうから、どんだけ働いていたんだろうか。農家の嫁はやっぱり大変すぎる。
それにしても私みたいな”無駄の塊”が社会からリストラされず、存在できているというのは、世の中が豊かになり、余裕が出てきた証拠である。昔だったら私みたいな存在自体が無駄な人間は、「無駄飯食らい」としてマジで世の中からリストラされて、とっくに死んでただろう。恐ろしい。

ちなみに先ほどの朝日新聞の記事によると、日ごろの「寝だめ」が効果を発揮するそうな。へー、寝だめはよくないって説ばかり聞いていたので意外だが、個人的には納得w

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07月06日(水)

起床時刻:07時40分

07月05日(火)

起床時刻:07時30分

07月01日(金)

起床時刻:07時30分

今日の夕飯はラムのステーキ・バルサミコソースと白ワイン。
ステーキ用ラムもも肉(塩コショウしてオリーブオイル、ニンニクの薄切り、タイムと一緒にマリネしておいたもの)を焼いて(中はほんのりピンク色のなかなかいい焼き加減)、さらにバルサミコソースをかけた。
バルサミコソースのレシピはクックパッドで見つけたもの。マリネしておいたせいかお肉は柔らかくて、大変美味。ラム特有の臭いも私は全然気にならないが、ラムが苦手な人はやっぱりダメかもなあ。付け合わせはグリーンアスパラ。あとは人参のラペとトマトとアボカドのわさび醤油和え(+レモン汁、オリーブオイル)。デザートは買ってきたリンゴのタルト。
ああ、仕合せだ。

**************
夫が中古ゲーム屋で買ってきた『until dawn』(ホラー?サスペンス?オカルト?)を夫より先にプレイしてしまった。
前半はとっても面白かったが、後半、特に最後の方は尻すぼみかな。10時間くらいでクリア。
『until dawn』は選択肢によって、運命(ストーリー)が分岐する「バタフライ・エフェクト・システム」が売りだけれど、私はかつて人気だったアドベンチャー・ゲームブックを思い出した。最先端のゲームを昭和のアナログな遊びと一緒にしたら怒られそうだけどw。それにしても、ゲームブックって私が子供の頃は結構流行っていたんだけど、ナタデココ並に急速に市場から消えてしまった。ビデオ・ゲームのRPGにとってかわられたのかな。
『until dawn』はアドベンチャー・ゲームブックをうんと豪華にしたような印象。PS4だと映像が映画みたいだから、自分の選択肢で話を変えられるような映画を見ているような感じだった。

ただマルチ・エンディングとはいえ何人生き残るかが違うだけで、ストーリーのヴァリエーションはないみたい。マァ最近の豪華なつくりのゲームだと、別のストーリーラインをつくるとしたら膨大な製作費用がかかるだろうからね、ゲームブックみたいなわけにはいかないだろうw

不満点としては①イベントスキップできない、②歩く速さが遅すぎ(ダッシュ機能ほしい)、③セーブデータが一つしかない、だな。イベントスキップできないのは周回するときマジでイライラする。

あとグロシーンは日本独自の規制で全部暗転して真っ暗になるので、私のような心臓が弱い人(『SAW』がトラウマになっているタイプ)には安心だが、人によってはかなりフラストレーションがたまるかも。特に後半は、画面が真っ暗になり何が起こってるのかよくわからないwっていうシーンも結構あった。
んー、このゲーム、もっと面白くなりそうな予感はしたんだけどなー。まぁでも一周目は十分楽しかったし、B級ホラー映画好きな大人のライトゲーマーが週末にさらっと遊べる感じで、安くなっていたら一回くらいプレイしてもいいかもね。

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