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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:08:00 平均起床時刻:06:44

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01月31日(木)

起床時刻:07時02分

先ほど夕飯時にテレビをつけたらNHKで所さんが出てくる番組をやっていて、それによると、リンゴ市場において、黄色いリンゴの出荷がグングン伸びているんだそうな。というのも、赤いリンゴをつくるにはものすごく手間暇がかかる(毎日リンゴを回して、まんべんなく太陽があたるようにしなくちゃいけないんだって!気が遠くなる)ので、農家の高齢化がすすむ昨今、そんなことやっちゃおれん、ということで黄色いリンゴが人気なんだとか(それにしてもあの手間暇を見ると、赤いリンゴの皮を剥くなんてとんでもない、有難くいただかなきゃ!と思うな)。
ちなみに東京卸売市場の価格だと赤いリンゴ(ふじ)の方が黄色いリンゴ(王林)より20円高かった(キロ単価だったっけな?)。でも市場価格は赤いリンゴも黄色いリンゴも同じだ。少なくとも、私がいつも買う青果店では、サンふじ、ジョナゴールド、王林はいつも置いてあって、価格が同じ。ということは、小売店にとっては、黄色いリンゴを仕入れた方が、利幅が大きいだろう。
ちなみに私は今日は王林を1個食べた。その前はジョナゴールド、その前はサンふじで、だいたいこの3品種でローテーションしている(近所の八百屋がだいたいこの三種しか売ってないからね)。それぞれに長所があるので、ローテーションして買っている。でも、原価を考えれば、サンふじかジョナを買うのがいいだろう、と思っていたら、黄色いリンゴは香港で人気だそうで、香港のスーパーでは6個入りの黄色いリンゴ(王林だかトキだかシナノゴールドだか知らないが)がうやうやしく箱詰めされていて、それがなななんと5千円!日本産のリンゴでこのお値段はお買い得なんだと言っていた。香港では黄色(黄金色)が福を呼ぶとして人気なんだとか。ひゃあー、それを思えば、うちの近所の八百屋は王林が一個100円ぐらいだからなんてお買い得なんだろう、やっぱり王林を買った方がいいんじゃないか?などと思案を巡らしながら夕飯をすませ、そのあとお風呂に入っているときに思い出したのだけれど、そういや昔スターキングっていうリンゴがあったなあ、と。ふにゃふにゃした感じで私はあまり好きではなかったが、私の友人はスターキングが好きだったと言っていた。ここ何十年も全然見かけない。
見かけないといえば、つい先週末、友人に「最近、サンふじばかりでふじを見かけない」と言ったところ、「ふじとサンふじは同じふじなんだけれど、袋をかけないで太陽にあてて育てたものをサンふじって言うのよ」と教わり、へええええ!と驚いたのだった。確かに袋をかけるのもめんどくさい(ていうか、色味を赤くするなら太陽にあてなくちゃいけないわけで、袋はかけない方がいい気がするけど、なんでだろう?)から、農家の高齢化がすすむ昨今、サンふじタイプばかり見かけるのも至極もっともなことだ。

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01月30日(水)

起床時刻:06時10分

『ヒア・アンド・ナウ』というJ.M.クッツェーとポール・オースターの往復書簡集を読んでいたら、クッツェーがテレビでスポーツ観戦をするのは時間の浪費だろう、と言い、オースターがその通り、というやり取りがあって、そんなことは気鋭の作家に言われてハッとするような新発見とはとても言えないだろうが、テレビでスポーツを見ることで「僕は何も学ばない。そこから得られるものは皆無だ」(クッツェー)というのなら、この本を読むことでも、私は何も学ばないし得られるものは皆無だ。いや、皆無ではなく、面白さという快楽を得ているが、それはテレビでスポーツ観戦をすることでも得られることだ。
「テレビでのスポーツ観戦が無益で時間の浪費に他ならない」(オースター)というが、何が有益で何が時間の有効な使い方なのか。
もしテレビを見ることでお金を得られるならばテレビ観戦も無駄ではなく、有益となり、本を読んでも一文にもならないならばそれは無益で時間の浪費ではないのか。お金を稼ぐことだけが有益な時間の使い方なのか。そうではないなら、有益な時間の使い方のクライテリアとは何なのか。私の人生を振り返ると、大学に行ったことも結婚したことも今働いていることも全て無駄で無益で時間の浪費に思えるけれど。ただ虚しさだけがいつもあるような。

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01月29日(火)

起床時刻:07時00分

"One cannot think well, love well, sleep well, if one has not dined well."
Virginia Woolf

個人的にはよい食生活を送っていてもよく眠れないことはしばしばある。
よい睡眠のためによい食事は必要だろうけど(腹ペコだったり胃もたれしてたらよく眠れないのには同意た)よい睡眠のためにはそれだけでは足りないのだ。
よい睡眠のためには脳内の松果体から分泌されるメラトニンというホルモンが不可欠だが加齢とともに分泌が低下する。
なので、厳密に言えば、よい睡眠のためには若さも必要である。
また、適度な肉体的な疲労も必要だ。一日中ゴロゴロしていたり、パソコン仕事などして座ってばかりだと、疲れていても眠くはならないが、登山や水泳をした後は一発で眠くなる。
一方で過度なストレスや、くよくよ悩んでしまう性格的な傾向は睡眠の質を低下させる。
などと書いていくとアフォリズムからは遠ざかってしまうけれど。

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01月28日(月)

起床時刻:07時00分

先日、渋谷の中央図書館の休憩スペースでコーヒーを飲みながら本を読んでいると、浮浪者とおぼしき男性がやってきた。裾がボロボロのズボンに垢じみた顔、そして何より気になるのが、悪臭である。実はそれほどひどい臭いではなかったが、思わず席を立ってしまった。

浮浪者、あるいはホームレスと呼ぶ方がポリティカルにはコレクトなのかもしれないが、そういった人たちを目にするたびに、自分の人道性?人道力?、適当な語が思いつかないが、そういうものが試されている気がする。
そうして毎度、自分は人道的な人間ではないという結論に達する。
人道的どころか、最近は官民あげてキャンペーン中の「ダイバーシティ」すら、私は認められない気がする。
みんな違って、みんないい?否、みんなと違って、不潔であっていいわけがない。
誰かが不潔でいることによって私が直接の被害を受けていないとしてもだ(もっとも「スメハラ」は受けているかもしれないが)。
私は不潔な人に優しくなれない。その人がたとえ聖人であったとしても、である。

それにつけて思い出すのはスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』だ(前にこのことは書いたかもしれないけれど、ホームレスと遭遇する度に思い出すのでまた書くとする)。
ピンカーはこの上下二巻の大著で「長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしている」ことを明らかにしようとしているのだけれど、その理由の一つに人道主義革命(人々が中性の魔女狩りのような拷問や残虐な刑罰を認めなくなった)があり、人道主義革命が起きた理由として、人間の生活環境に起きた変化がきっかけをつくったのではないか、というのである。

「人権の歴史に詳しい歴史学者のリン・ハントは、文明化プロセスのもう一つの側面がプラスの影響を及ぼしたと指摘する。衛生観念や礼儀作法が向上したこと(手づかみで食べない、性行為はプライベートな場所でする、体液などの排泄物は人目にふれないように、衣服にもつけないようにする、など)である。ハントによれば、礼儀の観念が発達したことで、人間は自律的な存在だという感覚が増大したという。すなわち一人ひとりの身体には生まれながらに完全性があり、その人の身体はその人の所有物であって社会の所有物ではないということだ。
私自身の感覚はもっと具体的な方向に向きがちなのだが、その私から見ると、清潔さが道徳的な感性に影響を及ぼしたとする、もっと単純な仮説がありそうだ。つまり、人は昔に比べて周りに不快感を与えなくなってきたということである。人間は不潔なものや体から排出される分泌液に嫌悪感を抱く生き物であり、現代人が悪臭のするホームレスの人を避けたがるように、昔の人も不潔な隣人に対しては接し方も冷淡だったのではないかと思われる。さらに悪いことに、人は生理的嫌悪は容易に道徳的嫌悪へと移行しがちで、不衛生なものイコール、下劣で軽蔑に値すると見なしてしまう。二〇世紀の残虐行為を研究する学者たちは、ある集団が別の集団を制覇した途端、なぜいつも簡単に残忍な行為に走るのか、頭を悩ませてきた。哲学者のジョナサン・グローヴァ―は、非人間化の悪循環ともいうべきものがあると指摘する。嫌われた少数集団は不潔な状態で生活することを強いられ、そのため人間以下の動物のような存在だと見なされる。すると支配者集団は彼らをさらに不当に扱うようになり、その結果、彼らはますます貶められ、抑圧者の心に残っていた良心の片鱗も消え去ってしまう、というのだ。この非人間化の悪循環は文明化プロセスの逆回しと言っていいかもしれない。歴史の進行とともに清潔さと人間の尊厳が増大し、やがて何世紀もの歳月をへて、他人の幸福に対する敬意も増大したことのまさに逆が、この非人間化の悪循環である」(P314-315)

ただし、残念ながら文明化プロセスと人道主義革命とを時系列的に検証してみると、因果関係はないんだそうな。だから、みんな清潔になってきたおかげで、臭くなくなった他人への共感力が増したような気がしたけど、そうでもなかったわ、という話で、却下された仮説をわざわざ引用する意味はないようなものだけど(じゃあ何がきっかけだったんだよ?wと思うかもしれないが、それは「印刷物の増加と識字能力の向上こそ、人道主義革命のきっかけとなった最大の外生的要因ではないかと思われる」んだそうな)、個人的にはすごくしっくりきたのである。

泥棒に入られないように鍵をかけるのと同じで、人間が残虐にならないように清潔にしないといけない。
しかし一方で鍵がかかってなくても泥棒に入ってはいけないのと同じで、他人が不潔であっても礼儀正しく、人道的であらねばならない。
もっとも、泥棒に入らない方は簡単だけど、悪臭を放つ不潔な人に親切にするのは難しい。

「やがて、誰もみないっせいに、彼らへの同情心を失ってしまう。不潔さ、悪臭、喧嘩や咳のうるささが、あまりにもひど過ぎるのである」(『夷狄を待ちながら』J・M・クッツェー)

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01月27日

起床時刻:04時30分

01月26日

起床時刻:08時45分

「人間の不幸の全ては家で大人しくしていなかったことに始まる、とはさる根性曲りの遺した金言である。私としてはここに一言付け加えたいー家を出てふらふらすること自体に不幸を招く要素は何もない。人が不幸になるのは主に、出先で人とでくわすせいである」(P154)
「人間の天敵は人間であり、我々の不幸は殆ど全て、人との交際によって生まれるものなのだ」(P160)
『外人術 大蟻食の生活と意見~欧州指南編~』(佐藤亜紀、筑摩書房)

というわけで、理論的には隠居すればするほど、人間は幸福になるはずなのだが、私自身は、最近認めざるをえないのだが、淋しがり屋であるため、人との交際を求めてしまうところがある。ゆえに、去年離婚をして「ああ、せいせいした、男なんてもうこりごり」という舌の根も乾かぬ内に、男と付き合ったりしてしまうわけである。あるいは、紙の日記を書いていたのに、こちらにログインするのは何かしら人を求めてのことだろう。

今年の蟹座の星占いを見ていたら、「モテモテだった去年とうってかわって今年は試練の年」といったようなことが書かれていたが、去年のアレをモテたというのだろうか?と自問してしまった。何しろ言い寄ってきたのは、若いが前科のある日雇い労働者と70近い既婚のジイサンである。しかも両方金がまったくない。40代後半のオバサン(私である)が恋愛市場で等価交換として差し出される男性が彼らなのである。もっとも彼らにしてみれば、「冴えないオバハンだけど仕方ないか」という諦念と妥協のオファーであったろう。

それはともかく、自分が中高年になってわかったことだが、若い異性に言い寄られるという経験はいたく自尊心をくすぐるものである。オッサン、ジイサンが若い嫁を貰うと、聞いてもないのに自慢してきて極めてうっとうしいが、その気持ちはわからんでもない。つまり、オッサンだのジイサンだの年寄(ここでいう年寄とはあくまで相対的なものであって、30才でもじゅうぶん年寄たりうる)が、若い人(自分よりずっと価値ある存在)から選ばれるということは、自分はただの哀れな年寄などではなく、実年齢よりもずっと若くて魅力的な存在なのである!めったにいないけどね!すごいでしょ!ということを世間に言いたくってしょうがないわけだ。そして棒読みでも「すごーい」と賞賛されたいのである。

恋愛によって得られる喜びというのは人それぞれだろうけれど、私は翻って考えてみると、承認欲求が満たされることがあるいは最大の喜びだったかもしれない。そう書くと、相手に失礼な話だが、私の場合、誰かに好意を持ってもらえるというのは、何よりもまず自尊心が満たされるのだ。誰かに好意をもたれ、その人がちやほやしてくれ、お世辞も言ってくれ、その言葉を文字通り信じるならば(それはなかなかできないものの、耳に心地よいことにはかわりない)、私は価値のある存在なのだ。不美人で、貧相な体型で、キャリアもなく、貯金もなく、結婚にも失敗し、頭も悪く、要領も悪く、だらしなくて、グータラで、鈍くさくて、精神的に弱く、愚痴ばかり言っている何のとりえもないダメなオバサンなどではなく、何の努力もなく、「ありのままで」素晴らしい女性になれるのだ。相手からの賞賛は魔法の杖だ。

でも魔法の杖は魔法の杖なので、魔法はすぐとける。
相手が賞賛してくれるのは、私のことをよく知らないからだ、という疑惑がむくむくと頭をもたげてくる。もしくは何らかの詐欺目的か、そのどちらかであろう。

結局のところ、自尊心の問題を自分でなんとかしないといけない。
それは家から出て、幼稚園に行き、人と交際するようになった幼児のころからの私の課題である。
できるだけ家でおとなしくして、人と交際をすることを断つのが一番いいのはわかっている。世間に出れば、また人とつきあえば「どうせ自分なんか」と思うし、私のことを好きな稀有な人がごくたまに現れると、自分のことをわかった上で好きでいてほしくて、ここに書いてあるようなことをベラベラと並べ立ててドンビキされる、という毎度おなじみのパターンに陥るからである。というか、最近、ドンビキされたのである。「つらいことは俺に全部吐き出していいよ」って言うから本当に吐き出したら(といっても当社比では40%くらいしか吐き出していない)、オーディエンスが耐えられなくなってどこかにいってしまったのである。

自分のことをよくわかった上で好きでいてほしい、なんて甘えたことを考えちゃいけない。
自分のことをもしよくわかってくれたら、親以外からは嫌われるのである。元夫にも言われたように、ひねくれた性格なんだから。
とりあえず、人に私の抱える心の問題をベラベラしゃべりたくなっても我慢して、ここで吐き出すようにしよう。

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