201211 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:04:30 平均起床時刻:04:19

起床時刻の記録 ▼新しい順 ▲古い順 RSS

11月26日(月)

起床時刻:03時10分

   「息子の名前がつく村 ~ナカタアツヒト村~」

       中田武仁(国連ボランティア終身名誉大使)

  平成5年に、国連ボランティアとして活動中に銃撃され、
  25歳で亡くなった中田さんの生き方とは
  どのようなものだったのでしょうか?

平成4年になって間もなく、大阪大学を卒業し、
外資系のコンサルティング会社に
就職が決まった息子の厚仁(あつひと)から、
1年間休職し、国連ボランティアとして
カンボジアに行きたい、という決意を打ち明けられた。

カンボジアは長い内戦をようやく抜け出し、
国連の暫定統治機構のもとで
平成5年5月の総選挙実施が決まった。

人々に選挙の意義を説き、
選挙人登録や投開票の実務を行う選挙監視員。
それが厚仁が志願したボランティアの
任務の内容だったのである。

厚仁の決意は私にとって嬉しいことであった。
商社勤めの私の赴任先であるポーランドで、
厚仁は小学校時代を過ごした。

いろいろな国の子どもたちと交わり、
アウシュビッツ収容所を見学したことも契機となって、
世界中の人間が平和に暮らすには
どうすればいいのかを考えるようになった。

世界市民。

その意識を持つことの大切さを
厚仁はつかみ取っていったようである。

1年間のアメリカの大学留学も
その確信を深めさせたようだった。
国連ボランティアは、
厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、と感じた。

だが、現地の政情は安定には程遠い。
ポル・ポト派が政府と対立し、選挙に反対していた。
息子を危険な土地に送り出す不安。

私には厚仁より長く生きてきた世間知がある。
そのことを話し、それらを考慮した上の決意かを問うた。
厚仁の首肯(うなず)きにためらいはなかった。
私は厚仁の情熱に素直に感動した。

カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、
政府に反対するポル・ポト派の拠点、コンポントム州だった。
自ら手を挙げたのだという。
私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。

厚仁の任務があと1か月ほどで終わろうとする
平成5年4月8日、私は出張先で
信じたくない知らせを受けた。

厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、
射殺されたのだ。

現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに
現地の人びとに信頼されていたかを知った。
厚仁の真っ直ぐな情熱は、
そのまま人びとの胸に届いていた。

カンボジア佛教の総本山と尊崇されている寺院で、
厚仁は荼毘(だび)に付された。
煙がのぼっていく空を見上げた時、
厚仁は崇高な存在になったのだと感じた。

私は決意した。

長年勤めた商社を辞め、
ボランティアに専心することにしたのだ。
そんな私を国連はボランティア名誉大使に任じた。

そういう私の姿は厚仁の遺志を引き継いだ、
と映るようである。

確かに厚仁の死がきっかけにはなった。

だが、それは私がいつかはやろうとしていたことなのだ。
厚仁のように、私もまた自分の思いを貫いて
生きようと思ったのだ。

私はボランティアを励まして
延べ世界50数か国を飛び回った。
それは岩のような現実を素手で
削り剥がすに似た日々だった。

ボランティア活動をする人々に接していると、
そこに厚仁を見ることができた。
それが何よりの悦びだった。

厚仁が射殺された場所は人家もない原野なのだが、
カンボジアの各地から三々五々その地に人が集まり、
人口約1000人の村ができた。

その村を人々はアツ村と呼んでいる、と噂に聞いた。
アツはカンボジアでの厚仁の呼び名だった。
人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、と思った。

ところが、もっと驚いた。

その村の行政上の正式名称が
ナカタアツヒト村ということを知ったのだ。

このアツ村が壊滅の危機に瀕したことがある。
洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。

私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、
集まった四百万円を被災した人びとの
食糧や衣服の足しにしてくれるように贈った。

ところが、アツヒト村の人々の答えは私の想像を絶した。
カンボジアの悲劇は人材がなかったことが原因で、
これからは何よりも教育が重要だ、
ついてはこの400万円を学校建設に充てたい、
というのである。

こうして学校ができた。

名前はナカタアツヒト小学校。
いまでは中学校、幼稚園も併設され、
近隣9か村から600人余の子どもたちが通学してきている。

やがては時の流れが物事を風化させ、
厚仁が忘れられる時もくるだろう。
だが、忘れられようとなんだろうと、
厚仁の信じたもの、追い求めたものは残り続けるのだ。

これは厚仁がその短い生涯をかけて
教えてくれたものである。

厚仁の死から15年が過ぎた。

ひと区切りついた思いが私にはある。
楽隠居を決め込むつもりはない。
国連は改めて私を国連ボランティア終身名誉大使に任じた。

この称号にふさわしいボランティア活動を、
これからも貫く決意だ。

15年前、あれが最後の別れになったのだが、
一時休暇で帰国しカンボジアに戻る厚仁に、
私はこう言ったのだ。

「父さんもベストを尽くす。厚仁もベストを尽くせ」

ベストを尽くす。

これは息子と私の約束なのだ。

厚仁の短い生涯が、人間は崇高で信じるに足り、
人生はベストを尽くすに足ることを教えてくれるのである。



  先週、カンボジアに訪れた野田首相が参拝した
  2人の日本人の慰霊碑。
  うち一人は、中田厚仁さんという若者の碑でした。

byちち

日別画面へコメントする

11月25日

起床時刻:04時23分

     「高畠導宏さんに学んだ本物の生き方」

        隈本豊(筑紫台高等学校副理事長・前校長)

八年前の夏、一人の高校教師が膵臓がんでこの世を去った。
高畠導宏、享年六十─。

プロ野球七球団で約三十年にわたり打撃コーチを務め、
落合博満、イチロー、小久保裕紀など、
数々の好打者を育て上げた指導者でもあった。

彼との出会いは平成十四年秋。
福岡の筑紫台高校で私が校長を務めていた時、
共通の知人を通じて知り合った。

かつてダイエーホークスで打撃コーチをしていた高畠さんは、
チームの本塁打数が激減した要因を、
本拠地がドームに変わり、球場が広くなったことに対する
精神面の変化にあるのではないかと考え、
五十代半ばにして心理学の勉強を始めるようになる。

心理学を学ぶのには教職課程が最適とよくいわれるが、
彼はコーチ業の合間を縫って
日本大学の通信課程を五年掛かりで履修。

その上で教員免許の取得に必要となる教育実習を、
私の高校で受け入れてもらえないかと
相談を持ち掛けてきたのだった。

私は実習期間中に全校集会で講演してもらうことを
条件に引き受けることにした。

実際に講演を聴いてみると、実に話が上手い。
自らの失敗談も交えながら、その失敗に挫けず、
経験として生かしていくことが大事だと語る。

本校の生徒には県立高校の受験に失敗し、
挫折感を抱えている者が少なくない。

高畠さんはそういう彼らに
「君たちは物凄いバネを持っているんだ」
「失敗を生かせ」と逆に励ましてみせる。

素晴らしいと感嘆した私は、彼にこの学校で
教員免許を生かす気はないかと持ち掛けた。

高畠さんはプロ野球の世界で、複数年契約をせず、
常にクビと隣り合わせの一年契約を自ら志願してきた人である。

監督の指導方針と合わなかったり、
自分の持つ能力を十分に活用してくれないのであれば
いつでもチームを変わる、
そういう覚悟を絶えず持っていたのだろう。

私は四十年近く県立高校の教員をし、
校長も何校かで経験してきたが、
大半の教員にはそれだけの覚悟がない。

加えて、初めて赴任する私立校は県立校とは
質の異なる様ざまな問題を抱えており、
彼ならばきっとこの学校の体質を変えてくれるに
違いないとの期待があった。

その頃、すでに某プロ野球チームからの
オファーが掛かっていたが、結果的に彼は
その誘いを断って本校へ来る決断をしてくれた。

新校長として赴任した私に対して
「教育の素人を雇うような中途半端なことをやっとって、
学校教育ができるか」
と厳しい言葉もいただいた。

私は反論こそしなかったが、
人にものを教える際に問われるのは、
教養もさることながら、一人の人間としてのあり方だ
という信念があった。

高畠さんにはここで通用しなければいつでも腹を切れる
という覚悟が備わっており、彼はまたそのための努力を人一倍し、
持てる愛情のすべてを子供たちに懸けるという姿勢を貫いていた。

高畠さんは本校へ来て
「三年以内に甲子園で全国制覇する」と宣言していた。

もっとも、プロ野球の経験者は教師になっても
二年間は高校野球の指導が禁止されているのだが、
私も彼にならそれができるはずだと信じていた。

だからこそ、病院の検査を受けた彼から
「余命六か月です」との報告を突然受けた時は
返す言葉もなかった。

膵臓がんは進行が早いのとは対照的に、
症状が乏しく早期発見が難しい。

体の丈夫さには誰よりも自信を持っていただけに、
普段のケアが疎かになっていたのかもしれない。
まだ六十歳の、あまりにも早過ぎる死だった。

高畠さんが本校にいたのはたった一年半にすぎなかったが、
その後、大学への進学率が着実に伸び始めた。
さらに彼は剣道部の生徒たちの持つ目に惚れ込み、
試合の応援にも欠かさず駆けつけた。

剣道部にはいまも高畠さんの書による
「氣力」の文字が飾られており、
女子剣道部はインターハイで二年連続日本一になるなど
全国有数の強豪校となっている。

また直接指導することはなかったが、野球部には
「伸びる人の共通点」として彼の挙げた七つの言葉が残っている。

byちち

日別画面へコメントする

11月24日

起床時刻:04時27分

【明快原理】

▲ 老人は過去を語り
  若者は、未来を語る
 政治家は、夢を語り 当選すると、
  現実を忘れ、 身の保身に奔走します

▲デフレ脱却
スーパー「我が社は、デフレ脱却に貢献の為
全商品3%の値上げ実施」
  買い物客は、逃げます。

▲物が あふれている現在
価額を上げたら、消費者にソッポをむかれ
円高で、海外に工場進出した、日本の企業
円安になると、これは、困ったゾー

▲日銀に国債、ジャブジャブ買ってもらえ。
 この買う資金は、ドンドン紙幣の印刷でしょう、
 これー財政法違反ダッテ、
昭和22年に出来た財政法
 政治家が、改正すれば いいのです。

▲50数年前の法律を
後生大事に守る事も無し、こちらは、株価が、天まで、
上がれば それで良し、
  
▲株価が上がれば、儲かったお金で、
 物買うさ、買う人が多くなると、商品価額は
上昇、デフレ脱却ダー
デフレの代表は、株価の下落
 株を上げれば、物事の大半は、解決しますぞー

そんな訳で色々買うことに!

日別画面へコメントする

11月20日(火)

起床時刻:03時42分

11月19日(月)

起床時刻:03時08分

▲解散前夜、
今まで、なに1つ解決出来なかった法案が次々と、可決成立している。
政党間の駆引き綱引きでどれほど国民に被害を与えたことか、人災だ。
日本国のために働くのであれば自民、公明、民主、・・・いづれも政策に
大差があってはならない。

▲3党連立になると、決められない政治から決断の政治に、変わります。
自民、民主から離党した議員は保身の為です、埋没します。
それでいいのです。

▲当選したい、自分の為にと、今こそ人気の党に鞍替えする議員の多いこと。
情けない。
 駒さんは、皆さんの行動を見ていますょ
鞍替えしたから、当選する 甘いものではありませんょ

▲ある官僚が、申しています
 政治家は、知識不足、経験不足、
 政治家には、国の運営、任せておけないと?

ある官僚さんへ、あなたに任せてみたいから立候補しなさい。

日別画面へコメントする

11月16日(金)

起床時刻:03時49分

11月15日(木)

起床時刻:07時42分

11月14日(水)

起床時刻:04時08分

11月13日(火)

起床時刻:04時50分

         「お母さんの宝物」

               内田美智子(助産師)

自分の目の前に子どもがいるという状況を
当たり前だと思わないでほしいんです。

自分が子どもを授かったこと、
子どもが「ママ、大好き」と言って
まとわりついてくることは、
奇跡と奇跡が重なり合ってそこに存在するのだと
知ってほしいと思うんですね。
 
そのことを知らせるために、
私は死産をした一人のお母さんの話をするんです。

そのお母さんは、出産予定日の前日に
胎動がないというので来院されました。

急いでエコーで調べたら、
すでに赤ちゃんの心臓は止まっていました。
胎内で亡くなった赤ちゃんは異物に変わります。

早く出さないとお母さんの体に異常が起こってきます。
でも、産んでもなんの喜びもない赤ちゃんを産むのは
大変なことなんです。

普段なら私たち助産師は、陣痛が5時間でも10時間でも、
ずっと付き合ってお母さんの腰をさすって
「頑張りぃ。元気な赤ちゃんに会えるから頑張りぃ」
と励ましますが、死産をするお母さんには
かける言葉がありません。

赤ちゃんが元気に生まれてきた時の分娩室は賑やかですが、
死産のときは本当に静かです。
しーんとした中に、お母さんの泣く声だけが響くんですよ。

そのお母さんは分娩室で胸に抱いた後
「一晩抱っこして寝ていいですか」と言いました。

明日にはお葬式をしないといけない。

せめて今晩一晩だけでも抱っこしていたいというのです。
私たちは「いいですよ」と言って、
赤ちゃんにきれいな服を着せて、
お母さんの部屋に連れていきました。

その日の夜、看護師が様子を見に行くと、
お母さんは月明かりに照らされてベッドの上に座り、
子どもを抱いていました。

「大丈夫ですか」と声をかけると、
「いまね、この子におっぱいあげていたんですよ」と答えました。

よく見ると、お母さんはじわっと零れてくるお乳を指で掬って、
赤ちゃんの口元まで運んでいたのです。

死産であっても、胎盤が外れた瞬間に
ホルモンの働きでお乳が出始めます。

死産したお母さんの場合、お乳が張らないような薬を
飲ませて止めますが、すぐには止まりません。

そのお母さんも、赤ちゃんを抱いていたら
じわっとお乳が滲んできたので、
それを飲ませようとしていたのです。
飲ませてあげたかったのでしょうね。

死産の子であっても、お母さんにとって
子どもは宝物なんです。
生きている子ならなおさらです。

一晩中泣きやまなかったりすると
「ああ、うるさいな」と思うかもしれませんが、
それこそ母親にとって最高に幸せなことなんですよ。

母親学級でこういう話をすると、
涙を流すお母さんがたくさんいます。

でも、その涙は浄化の涙で、
自分に授かった命を慈しもうという気持ちに変わります。

「そんな辛い思いをしながら子どもを産む人が
 いるのなら私も頑張ろう」
「お乳を飲ませるのは幸せなことなんだな」
と前向きになって、母性のスイッチが入るんですね。

byちち

日別画面へコメントする

11月12日(月)

起床時刻:03時50分

     「天命追求型の生き方、目標達成型の生き方」
      
          白駒妃登美(結婚コンサルタント・マゼンダスタッフ)

この時、発病前に読んだ話を思い出しました。
 
人間の生き方には西洋の成功哲学に代表される
「目標達成型」とは別に「天命追求型」があるというのです。

天命追求型とは将来の目標に縛られることなく、
自分の周囲の人の笑顔を何よりも優先しながら、
いま、自分の置かれた環境でベストを尽くす。

それを続けていくと、天命に運ばれ、
いつしか自分では予想もしなかった高みに
到達するという考え方です。

そこでは、自分の夢だけを叶えるfor meより、
周囲に喜びや笑顔を与えるfor youの精神、
つまり志が優先されます。

私は天命追求型、目標達成型という視点で
歴史を捉えたことはありませんでしたが、
これからお話しするように、
天命追求型はまさに日本人が歴史の中で培った
素晴らしい生き方であることに、
闘病を通してようやく気づいたのです。

      * *

天命追求型に生きた歴史上の人物といえば、
豊臣秀吉はその好例でしょう。

秀吉は徳川家康、織田信長と比べて大きく違う点があります。

家康や信長が殿様を父に持つのに対し、
秀吉は農家に生まれたことです。

農民の子の秀吉が最初から天下統一を夢見たでしょうか。
通説によると、秀吉は
「侍になるために織田家の門を叩いた」
ということになっていますから、
おそらく若き日の秀吉は、
天下を取るなど考えてもいなかったに違いありません。
しかし、秀吉の人生はその夢を遙かに超えてしまうのです。

ご存じのとおり、秀吉は最初、信長に
“小者”という雑用係の立場で仕えました。

雑用係は、もちろん侍の身分ではありません。
けれども、信長が秀吉を雇い入れた時、
きっと秀吉は、農民の自分に
目をかけてもらえたことに胸を躍らせ、
心から感謝したのではないでしょうか。

だからこそ、たとえ雑用係の仕事にも
自分でできる工夫を施したのだと思います。

寒い日の朝、信長の草履を懐に入れて
温めてから出した話は有名ですが、
草履一つ出すにも喜んでもらえるようアイデアを加えたのです。

やがて足軽となってからも信長を喜ばせたい
という思いは変わらず、一層の信頼を得て侍に、
さらに侍大将、近江国・長浜城の城持ち大名へと登り詰めるのです。

私のことを振り返ると、目標達成に突っ走っていた時は、
確かに夢は叶いました。
受験勉強、就職活動、子育て、
すべてにビジョンを描き目標を立ててやってきました。

しかし、見方を変えれば夢しか叶わなかったのです。
夢を超えた現実はやってきませんでした。

では、秀吉はなぜ夢を超えることができたのでしょうか。
想像するに、秀吉は最初から天下取りなど考えず、
いつも“いま、ここ”に全力投球する生き方を
貫いたからだと思います。

自分の身の回りの人たちに
喜んでもらえることを精一杯やっていった。
その結果、周囲の応援を得て次々と人生の扉が開き、
天下人へと運ばれていったのではないでしょうか。

まさに天命追求型の人生だったのです。

byちち

日別画面へコメントする

11月11日

起床時刻:03時51分

11月10日

起床時刻:05時30分

11月09日(金)

起床時刻:04時30分

11月08日(木)

起床時刻:04時22分

11月の日経平均の下値予想は、8693円

NYの大幅安
誰が大統領になっても、日足3尊のNYダウ、大きな波動は、下げ。

毎日下げる訳ではないから NYの大幅高には、日本株の売り 大幅安には、買い。

フィデリティ・USリートFB

日別画面へコメントする

11月07日(水)

起床時刻:04時34分

“イライラした”“怒った”“不安になった”“悲しくなった”などのマイナスの感情は、その感情を客観的に見ている自分を作ることで、コントロールしやすくなる。

そのベストアイテムの一つにノートがある。
自分の一日を出来事を感情とともにノートに書いてみる。
「今日はATMでずっと振込手続きをしているおばちゃんにイライラした」という具合。
ノートにそれらを記録する事で、自分を客観的に見る視点が生まれてくる。
その結果、徐々に人に対して感情的にならず、冷静かつ寛容に接することができるようになる。

本当か試してみるべぇ(´ω`)

日別画面へコメントする

11月06日(火)

起床時刻:05時07分

恐怖のDNA

日本人の恐怖:資源不足(オイルショック)
ドイツの恐怖:インフレ(一年で16億倍)
米国人の恐怖:大失業(7%<大統領落選)オバマ=7.9%当選

「愚者は経験からしか学ばず、識者は歴史に学ぶ」

デフレ対策予算
金融緩和策
プラグマティズム =実利主義

日別画面へコメントする

11月05日(月)

起床時刻:03時57分

五木寛之氏の幸福論

 ◆免疫学の世界的権威だった多田富雄さんと生前にお話をした時、
  医学は3年で一変する。3年前の教科書は通用しないくらいの
  勢いでどんどん進歩しているとおっしゃっていました。

  そんな時代に古い知識でくどくど言ってても仕方がない。
  もっと動的に物事を見なければダメだし、
  幸福論にしても永遠の幸福論なんてないんです。

 ◆コップに残った水を、まだ3割も残っていると考えるか、
  もう3割しか残っていないと考えるかという話があるでしょう。
  そしてまだ3割も残っていると考えるほうが
  ポジティブでいいんだと。
 
  だけど、あと3割しか残っていないという現実を
  きちっと勇気を持って見定めることも大事です。



 ◆喜び上手というのはとても大事です。
  だけど同時に悲しみ上手も大事なんです。

 ◆ちゃんと悲しむということは、
  笑うことと同じように大事なことなんです。
  ただ笑うだけじゃ無意味ですよ。涙も流さないとダメ。

 ◆フランクルは強制収容所の中で、一日に一回ジョークを言って、
お互いに笑おうと決意してそれを実践したといいます。
それはとても大事なことです。

しかし、人の見ていないところで彼がどれだけ涙を流していたか。
  そこを見逃してはダメです。
  喜ぶことも、悲しむことも、両方大事なんです。

byちち

日別画面へコメントする

11月04日

起床時刻:02時57分

11月03日

起床時刻:04時57分

11月02日(金)

起床時刻:04時57分

11月01日(木)

起床時刻:02時57分