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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:04:30 平均起床時刻:04:59

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12月31日(月)

起床時刻:10時30分

12月30日

起床時刻:04時30分

12月29日

起床時刻:04時30分

12月28日(金)

起床時刻:04時44分

12月27日(木)

起床時刻:04時25分

12月26日(水)

起床時刻:04時42分

「泥酔」の語源は古代中国から。
「泥」は「どろ」ではなく「でい」と読み、空想上の生き物の名前。
中国より南方の海に住む虫で、骨がなく、ぐにゃぐにゃしています。
ぐでんぐでんに酩酊しているさまを「泥(でい)のように酔っている」と。

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12月25日(火)

起床時刻:04時26分

 「人生を劇的に変えるユダヤの教え」    星野陽子(翻訳家)

若い頃の私はどちらかと言えば控えめな性格で、
大人しく、人生に対する姿勢もまるっきり丸腰だったと思います。

しかし、私は変わりました。
私を変えたもの──それは約十年におよぶユダヤ人夫との結婚生活です。


出会いはひょんなことからでした。
当時シティ・バンクに勤めていた私は、
お客様として来店した彼と知り合い、
友人たちを交えて親しくなって交際に発展、
結婚に至りました。

結果的に十年で破局しましたが、
その鮮烈で濃密な時間に身につけた「ユダヤ的思考」が、
現在、約六億円の不動産資産等を築いた
自分のベースになっていると思います。

ユダヤ人には、例えばロスチャイルドや
投資家のジョージ・ソロス、
あるいは映画監督のスティーブン・スピルバーグなど
世界的な成功者が数多くいます。

なぜユダヤ人の多くは事業等で成功し、
富を得ることができるのでしょうか。


まず、彼らはお金に対してネガティブなイメージがありません。
ユダヤ教ではお金は神からの祝福とされていますから、
素直にお金を尊び、手に入れようと努めます。

一方、日本でお金持ちの代表例といえば
時代劇の越後屋。腹黒く、悪事を働き、
最後は成敗されます。

多くは清貧の思想こそが美しく、
お金は「持ち過ぎると身を持ち崩す」
「親族との争いの種になる」など、
一種の心理的ブロックが掛かっています。

富裕層であっても日本人は
「年収は三千万円もあれば十分だ」と言いますが、
ユダヤ人に「これで十分」というリミットはありません。
稼いだお金で他者を助けるという大義があるからです。

彼らは収入を得始めた当初から年収の十%を慈善に回します。
施しは十倍になって戻ってくるという教えがあるため、
皆、喜んで寄付するのです。

また富を得た人は妬みやバッシングではなく、
尊敬の対象となります。

人びとは彼らを訪ね、どうすれば自分も後に続けるかを聞き、
成功者たちも自分の体験や知識を余すところなく教えます。
よって常日頃から「お金に関する会話」が
当たり前に繰り広げられています。


これは私が日本で家を建てた時の話です。
日本の友人たちは「素敵なお家ね」「木の香りが心地よい」
などと言うのに対し、ユダヤ人の友人たちは
「土地はいくら?」「ローンは?」「総額は?」
と聞いてきます。

日本人は失礼な質問だと感じるかもしれませんが、
彼らにとっては有意義な情報交換。
そのくらいオープンなのです。

一般的にユダヤ人の成功の根底には
「タルムード」と呼ばれる教えがあるといわれます。
しかし私はその内容よりも、それを
“自分はどう考えるか”と議論することが、
彼らの成功の下地ではないかと感じています。

彼らは幼少の頃から議論の訓練を
日常的に行ってきているので、
自分と反対の意見を言われて腹が立つということはありません。

むしろ、新しく革新的な考えを好み、
それによってより深く、
熱く議論を戦わせることを楽しみます。
もちろんそれが終われば仲良しに戻ります。

十年の結婚生活でとにかく元夫に言われたことは
「why?」であり、「think!(考えろ)」です。

「なぜ日本で贈り物をもらったら半額分を返すのか?」

「風習だから……」

「君はそれが正しいと思うのか。だいたいなぜ半額なのか?」

と、こちらがきゅうきゅうとするほど問い詰められます。

また、すべて戦略を持っています。
夫婦であっても何気ないおしゃべりではなく、
すべてに「考え」がある。

例えば彼が家事をやりたくないとすれば、
それを前提に会話を仕掛けてくるので、
考えなしで受け答えをしていると、
いつの間にか私がせざるを得ない状況になっている。
そんなことがよくありました。

そういった背景には、やはり迫害に遭い、
長い間祖国を失った歴史があるのだと思います。


ある日、テレビで「イスラエル人が二人死亡」
というニュースが流れました。

彼は「これは嘘だ。なぜなら……」
と自分なりの解釈を述べていましたが、
どんな時でも人の意見を鵜呑みにせず、
自分の頭で考え、納得しなければ信じない。

仮にそれで自分が命を失うことになっても
すべては自己責任。
逆に言えば、自分の運命を他人に委ねることはしないのです。

離婚後、私はフリーランスで翻訳の仕事をしながら、
投資によって資産をつくりました。

しかし、もともとは特許翻訳者の会社で
翻訳と雑務のアルバイト、
とてもフリーで仕事をする自信はありませんでした。

帰国子女でもなく、特許法に関する知識もなかったからです。
そんな時、私はユダヤの教えを思いました。

自分でリミットを設けない。自分の運命を他人に委ねない。
それで降りかかるリスクは自分で背負おう  。

フリーになると決心し、行動を始めたら
次第に周囲が変わっていきました。

パソコンやコピー機など
仕事に必要な器材一式を譲ってくれる方が現れたり、
家族や友人が子供の面倒をみると申し出てくれるなど、
応援の手を差し伸べてくれるようになったのです。

もしかすると、私たちは積極的にではないにせよ、
「普通に考えれば無理だよね」と
周囲の情報に流されて制限を設け、
受け身で生きているのかもしれません。

自分の運命は自分で切り開く。
その覚悟を決めて、一歩踏み出すだけで
人生は劇的に変わります。

ユダヤの教えは丸腰で平凡だった私の人生を
大きく変えてくれたのでした。

byちち

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12月24日(月)

起床時刻:04時27分

 「天何をか言うや、四時行われ百物生ず」

       安岡定子(安岡活学塾 銀座・寺子屋こども論語塾専任講師)

       
今回は、私が大好きな章句を取り上げたいと思います。

 子曰わく、予(われ)言うこと無からんと欲す。

 子貢曰わく、子如(も)し言わずんば、則ち少子何をか述べん。

 子曰わく、天何をか言うや、

 四時(しじ)行われ百物(ひゃくぶつ)生ず。

 天何をか言うや。

孔子はある時、「私はもう何も語るまいと思う」とおっしゃいました。
これに対して弟子の子貢が

「先生がもし何もおっしゃらなければ、
 私どもはどうして先生の教えを学び、
 伝えることができるでしょうか」

と質問します。

すると孔子は

「天は私たちに何を言っているか考えてみなさい。
 春夏秋冬の四季は巡っているし、
 万物は自ら成長しているではないか。
 天は私たちに何を言っているだろうか」

と応じるのです。

   (略)

頭脳明晰で雄弁家の子貢は孔子を唯一の師と仰ぎ、
教えを聴き、それを分かりやすく噛み砕きながら
若い弟子たちに伝えていたことでしょう。

それだけに「私はもう何も語るまいと思う」という一言には
大いに驚き、困惑したに違いありません。

そういう子貢の心を既にお見通しだった孔子は

「自分が何かを語らなくても、
 自然は変わることなく四季は巡ってくる。
 天は何を言おうとしているのか考えてみなさい」

と投げ掛けたのだと思います。

二宮尊徳翁の道歌に

「音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は 
 かかざる経をくりかへしつつ」

とあるように、大自然は無言のまま私たちに
多くの教えを授けてくれています。

孔子もまた,優秀で頭でっかちな子貢に、
たとえ言葉はなくても見る目さえあれば
真理はいくらでも発見、吸収できることを伝えようとされたのです。

もう一つ、別の観点から捉えれば
「私をもっとよく観察してごらん」
という孔子のメッセージと受け取ることができます。

自分がどういう思いでこの言葉を発しているか、
こういう行動をとったのか、
優秀な子貢なら察することができるはずだよ、
という弟子の成長を願う孔子ならではの
深い思いやりだったのかもしれません。

自分の考えを熱く語る一方で、
弟子との間でこのような情緒的なやりとりを
さりげなく行っているところ。

これもまた孔子の魅力の一つです。

byちち

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12月23日

起床時刻:04時27分

▲1月8560円でスタートした、日経平均は3月に10255円に急騰し、
▲12月になり、漸く3月の水準に戻りました。
▲投資家は、高くならないと買いません 安くなると、売りたくなります、
 相場は、人間心理の逆を行きます
▲強気、弱気、すべてが、気です。景気も、人間心理、気です
 良くなると思えば、お金を使い、消費拡大し、景気は、良くなるでしょうし
▲金利は上昇し、住宅ローン金利も上がります。
  上がらないのは、預金金利と、給与です
 企業は、60兆円の現金を、抱え込んでいます、そのお金を、ベースアップに使えば 景気は良くなり、株価は上がるかも。

by大坪

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12月22日

起床時刻:11時27分

12月21日(金)

起床時刻:05時27分

12月20日(木)

起床時刻:03時05分

12月17日(月)

起床時刻:03時37分

    「旗を揚げる」

        尾角光美(おかく・てるみ)

私が母を失ったのは九年前、十九歳の時でした。

長年、鬱状態が続いていた母はいつも「死にたい」と繰り返していました。

「あんたなんか生まれてこなければよかった」と
辛辣な言葉を毎日のように浴びせかけられ、大切な肉親でありながら、
一緒に暮らすのが辛くてしかたがありませんでした。

それでも母を少しでも喜ばせたいと思い、
浪人生活を送りながら内緒でアルバイトをして貯めたお金で、
母の日にバッグをプレゼントしました。

よもやそれが最後のプレゼントになるとは思いもよりませんでした。

程なく、経営する会社を倒産させた父が失踪。
経済的にも精神的にも負担が過度に重なった末、
母は私が大学に入る二週間前に自ら命を絶ったのです。

以来、私のカレンダーから母の日はなくなりました。

ところが五年前、母の日というのは、
一九〇八年五月十日に母親を亡くしたアメリカの女の子が、
教会で行われた追悼の集いで白いカーネーションを配り、
亡き母親への想いを伝えたことが始まりだと知りました。

その年は、母の日が始まってからちょうど百周年。

それまで心の奥にしまい込んでいた母への想いを伝えたいと強く思いました。

同じような想いを抱いている人がいるなら一緒に想いを伝えたいと考え、
母親を亡くされた方々から手紙を募り、
『百一年目の母の日』という本をつくりました。

マスコミで報道されて話題になり、以来毎年刊行しています。

日本ではこの十五年、毎年三万人以上もの人が自ら命を絶っています。

東日本大震災でも多くの方が突然の死別を経験されました。
それに伴い、大切な人を失った人びとを精神的、
社会的に支えるグリーフサポートの重要性が高まっています。

大切な人を失った悲しみは、一人ひとり異なります。
私の場合、母に対する感情的なわだかまりや、
拭いがたい孤独感など、様ざまな感情が
心の中で複雑に交錯し苦しめられました。

大学にはなんとか入学したものの、
身体をこわして講義への出席もままならなくなりました。

学業復帰への足がかりをいただいたのは、
親を亡くした子供に奨学金貸与を行っている
あしなが育英会でした。

同会が開催したテロ、戦争、病気などによる
遺児たちへのケアの現場で、
悲しみと悲しみが出合ったところから
希望が生まれるのを目の当たりにしました。

二〇〇六年に自殺対策基本法が制定されて以来、
国内の地方自治体が遺族支援に取り組んできました。
その流れの中で、自治体をはじめ、学校、寺院などでの講演、
研修などで全国から呼ばれるようになりました。

年間三万人以上もの方が自ら命を絶ついま、
自殺の問題は決して他人事ではなく、
自分事として考えていきたい。

そしてこの問題が私たちに問い掛けているのは、
自分たちの生き心地について。この生きづらい社会を、
どうすれば生き心地のよい社会にできるかを
ともに考えていくことが、いまを生きる
私たちの役目だということを体験を交えてお話ししました。

二〇一〇年三月、社会起業家を目指す
若者のためのビジネスプランコンペ「edge2009」での
優秀賞受賞をきっかけに、本格的に社会に
グリーフサポートを根づかせていくために、
確実に遺族にサポートが届く仕組みを考えました。

寺院や葬儀社は必ずご遺族と出会います。
そこで、研修で出会った石川県小松市の僧侶の方と
協力して地域にサポートを産み落とすことを目的とした
グリーフサポート連続講座を開催。僧侶、坊守(僧侶の妻)、
葬儀社、一般市民の方が定員を超えるほど参加されました。

自殺遺族にどんな話をすべきか。実は人を導く
僧侶の方々ですら悩んでいらっしゃるのです。

いま求められるのは、遺族が頼れる人の繋がりやサポートの場です。
講座を通じて、去年の冬にグリーフサポートの団体が
二つ発足しました。

かつてお寺は地域と深く結びついていました。
いま日本にはコンビニの二倍にも当たる
七万以上ものお寺があります。

かつてのような地域との絆を取り戻せれば、
もっと生き心地のよい社会になると考え、
「寺ルネッサンス」と銘打って
小松市以外でも働きかけをしています。

グリーフケアで大切なことは、聴く力です。
聴の字は耳+目+心で成り立っており、
自分のすべての注意力を相手に向けること。

受け身でなく能動的な行為であって、
聴くことを通じて相手の痛みや苦しみを
ジャッジせずに少しでも近づくことが重要です。

もう一つ大切なことは、相手のことを気にかけてあげること。
母を失い、自室に籠もって死を思い詰めていた
私の心に光を灯してくれたのが友人のメールでした。

友人は私をむやみに励ましたりすることなく、
ただ「きょうは食べられた?」「眠れた?」と
毎日声を掛け続けてくれました。

一通のメールでもいい。
誰かが自分のことを気にかけてくれている。

その実感が命を繋ぎ止めてくれるのです。

友人のおかげで、私はその後様ざまなご縁に恵まれ、
グリーフケアというライフワークを見出すことができました。

そしていま、いただいたたくさんのご縁は
亡き母からのギフトとして感謝の念を胸に抱いています。

旗を揚げることで繋がることのできる人がいます。
私は、大切な人の死を経験した人の目に
留まるよう高く旗を揚げ、確かに繋がっていくことで、
その喪失から希望を見いだせる社会を実現していきたいと思います。

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12月13日(木)

起床時刻:04時50分

12月12日(水)

起床時刻:04時33分

12月11日(火)

起床時刻:04時02分

12月10日(月)

起床時刻:04時36分

12月09日

起床時刻:04時35分

12月08日

起床時刻:05時00分

12月07日(金)

起床時刻:03時45分

12月06日(木)

起床時刻:04時27分

┌───――─────――──────────────────────┐

『だから、あなたも生きぬいて』の元極妻弁護士、2006年9月、40歳で赤ちゃん

└──────────────────────────────────┘

「悠(はるか)ちゃん、お腹すいたなぁ。さあ、ミルクの時間やでぇ」
 お母さんが抱っこしたまま哺乳瓶を赤ちゃんの口元に近づけると、
すぐにチュパチュパという音が聞こえてきた。

「ほう。ずいぶん頑張ってるなぁ。撮られてるからか。あんたはかしこいし、
べっぴんさんやもんな。ほう、すごいで。今日は30CCも、ぎょうさん飲めてるで」

 すると急に、赤ちゃんが口を閉じて、頭を大きく後ろに反らせた。
「出たな、はるかちゃんのイナバウアー。そうか、もういいんか。
 よし、哺乳瓶はここまでやな」

 次には寝床に戻しながら、
「元気に飲んでるようでも、この子にしたら、精いっぱいなんです。
 見てください。この額の汗」

 ほんとに、小さな額中に玉の汗がびっしり。
 ガーゼで汗をぬぐってやると、今度は、お母さんはいそいそ支度を始めた。

 自力で飲み切れなかった残りは、鼻から胃へと通したチューブで直接送り込んであげる。

「私はこれを"別腹ミルク"って呼んでます。心臓の手術を終えたらじきにゴクゴク飲める
ようになる子もいるようですが、うちの場合は、もう少し時間がかかるみたい。

初めから別腹のチューブでやると楽は楽なんですが、私は退院した日からダメモトで哺乳瓶を吸わせました。ダメでも褒めて頑張る、それが大事なんですね。
その証拠に、1CCが3CCに、次には5CC、10CCと少しずつ哺乳瓶から飲む量が増えてるんです」

「自分の過去すべてを伝えたい。この子が独りで生きていく道標となれば……」

  思わず、大きくうなずいていた。ダメでも褒めて頑張る、それが大事---。

 子育て相談「だからあなたの声を聞かせて」でも、そんな前向きな言葉に、
 どれだけ多くの悩みを抱える読者が元気と勇気をもらっただろう。

「そうですか。あれからもう6年になるんですね。私もまさか、その間に自分が結婚して、子供を産むとは夢にも思っていませんでした」

 大平光代さん(41)は、弁護士のそれではなく、ちょっとふっくらした、
 すっかりお母さんの顔でしみじみ言った。

人並みの家庭の幸せなんて望めないのだと、自らに固く言い聞かせた人生のはずだった。

 大平さんの半生は波瀾万丈の言葉でも言い尽くせぬほどに壮絶だ---。

「精一杯育てよう。この子はこの子なんやから」

 2006年2月、先輩弁護士と結婚

 中2のときのいじめを苦に武庫川の河川敷で割腹自殺未遂。
 その後、非行の道に入り、16歳で暴力団組長と結婚して極道の妻に。

 このとき、背中に観音様と蛇の刺青も入れていた。そして19歳で最初の出産。
 そんな彼女に転機が訪れたのは22歳のとき。
 のちに義父となる故・大平浩三郎氏との出会いで立ち直りのきっかけを得る。

 猛勉強の末、宅建、司法書士の資格を取り、29歳で中卒の学歴を乗り越えて
 司法試験に一発合格。31歳で弁護士となった。

以降、少年事件を中心とした弁護活動に講演にと日本中を駆け回る日々だった。

「あなたはひとりじゃない」、自らの半生を綴った「だから、あなたも生きぬいて」
 というベストセラーを世に送り、平成15年には大阪市助役に抜擢される。

一時は文科大臣に推す声もあった。2年後に辞任してからは、マスコミの表舞台に
出ることもなく、地元・大阪で弁護士活動を続けていた。

だが、大平さん本人が言うとおり、人生、何が起きるかわからない。
昨年バレンタインデーの2月14日、事務所の先輩でもある弁護士の川下清さん
(52)と結婚。 前後して、妊娠を知る。

「私は22年前に一度、出産を経験してますからね。まるで孫を産むような気持ちでしたよ。病院でも言ったんです。全部、忘れましたから初心者として扱ってください、と」

関西流の話術で笑わせるが、40歳での2度目の出産となれば、間違いなく高齢出産

  不安はなかったのか。

「それがなかったんです。羊水検査も『いりません』と言いました。
 当初は、紀子さまと同じ予定日で、実は名前も、いい字画ということで、
『悠』か『唯』と決めていたんです。女の子というのだけはわかっていましたから」

 ゆっくりと育つというから「悠」

 しかし、妊娠中、母体に大きな子宮筋腫(きんしゅ)があることが発覚した。
 追い打ちをかけるように1ヵ月の早産で、緊急帝王切開となった。

 昨年9月3日の午前1時7分。2千854g、46cmの赤ちゃん。
 翌朝、全身麻酔から覚めた妻に、夫は深刻な顔でこう告げた。

  「報告せなあかんことがある……」
  「なに?」
  「実は、僕らの子はダウン症なんや」
  「あっ、そうか」

  この間、ほんの1秒だったとふり返る。

「そのとき思ったのは、嘆いたり悲しんでるより、障害の程度はわからへんけど、
 精いっぱい育てよう。この子はこの子なんやから、と。

 それより、ダウン症なら、名前は『悠』のほうやなと。ダウン症の子はゆっくりと育つ
 と聞いていましたから、うちの子にぴったりな名前やなと考えて」

 しかし、いつもながら気丈な大平さんだったが、肉体は瀕死の状態だった。

「帝王切開と同時に摘出した筋腫は13cmもの大きさで、摘出後は3000CCもの大量出血
 しました。5日目に腎盂炎(じんうえん)と、肺に水が溜(た)まって40度の高熱で
 呼吸困難に。さらに6日目、帝王切開の抜糸で傷口が開いて、極度の貧血のためか、
 そこが壊死していることがわかり、ステロイド剤が投与され、これは今も続いています」

 大平さんは、14歳の割腹自殺未遂で、横隔膜や腸にも後遺症が残る。
 またホステス時代の過度の飲酒で肝臓も悪い。

 そのうえ、刺青の入った背中は皮膚呼吸ができず、当時、医師からもこう宣言された。
「普通に長生きはできない」

 そうした、いわば過去の傷跡が、出産に際して災いしたと考えてしまう。

「たしかに、ただの帝王切開だけやったら、あそこまで苦しめられることはないでしょう。
 ですから、私はこの子を、今までの人生をかけて、命がけで産みました」

 そして、悠ちゃんもまた、誕生の瞬間から必死に生きる闘いを続けている。
今日生きていることの喜びを

「この子ができて、時間がゆっくり流れるようになりました」

「ダウン症では、先天的に心臓病であるケースが多いそうで、それは半数にも及ぶと。
 悠もそうでした。エコー検査で7mmと思っていた穴は、してみると2cmの大きさでした」

 幸い、年明けの手術は無事に終わった。だが、もっと怖い肺高血圧の治療はこれからも
 続くし、ミルクも生後半年で、まだまだチューブに頼らないといけない。

 そして、抵抗力が弱いため、感染症の危険も。だから、私たちも、まずは大平さんの、
「リビングに入る前に手を消毒してください」のひと言から始まった。

  気がつけば、チューブに入ったミルクがすっかり空っぽ。

「よく飲んだなぁ。えらい、えらい。今は3時間おき、1日8回、100CCをあげています。
 ステロイド剤を服用していて母乳をあげられへんのが悔しいんですが」

  ピンクの産着の悠ちゃんは、パパ似というくっきり二重の瞳をくるくる。

  胸元にしがみついてくる小さな手を握り返すとき、母子の絆がまた深くなる。

「この子ができて、時間がゆっくり流れるようになりました。昨日も、ヘルパーさんに
 1時間だけ見てもらって、スーパーに買い物に行ったんです。
 すると、道端に咲く名も知らぬ花に目が留まりました。以前はなかったことでした」

 2時間睡眠で非行少年の将来を預かっていたころには、路傍の雑草に目を留める余裕が
 なかったろう。

「今までは明日のために今日を犠牲にしてましたが、この子を産んで、今日を無事に過ご
 せたこと、今日起きた出来事、今日生きていることのすべてがうれしくて。
 人生を生き直すきっかけをくれたこの子は、私の女神です」

 母親が自分のせいで犠牲になったという負い目をのちに与えないためにもと、
 仕事もできる範囲で復帰した。

 いざというときは、夫が「育休」を取ってサポートしてくれる。

「今年の花見は、まだ外に出られませんが、秋ごろには3人で淀川の河原を散歩できれば、
 と思ってます」

 同意するように、悠ちゃんがアーアーと声を発する。

 大平さんは、いつか、そのかわいい口から「お母さん」と呼ばれる日を心待ちにしている。

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12月05日(水)

起床時刻:04時30分

┌───――───――────────────────────────┐

極道の妻から弁護士へ きっかけは一人の男性との再会  大平光代(弁護士)
               
└──────────────────────────────────┘

 極道の妻から弁護士になられ、その後大阪市の助役も務めた大平光代さん。
 
 大平さんの人生を変えたのは、中学時代の凄絶ないじめ体験でした。

クラス全体の無視から始まって、 持ち物を隠される、
お弁当の中身をひっくり返される、
トイレに閉じ込められて水をかけられる……。
 
 親友と思っていた仲間たちが
 実は裏でいじめに加担していたことを知り、
 深い絶望から自ら命を断とうとしました。
 

いま思えば学校に行かんでもよかったし、他の選択肢があったなと思います。
でも、当時は「いじめられたら学校に行かなくていい」という時代ではありませんでした。

この状況が一生続くように思ったし、場合によっては殺されるかもしれない。
だったら自分で死のうと決めたんですよね。

 子供でしたからね、お腹を刺せば死ねると思ったんです。
ところが全然意識はなくならない。痛い、苦しい……。

  ああ、自分は死ぬこともできへんのかと、
  今にして思うと大変罰当たりな事を考えました。
 
 一命を取り留めた後、結局私は学校に戻りました。
 「先生がちゃんとしてくれると約束してくれたし、
  学校に行けへんかったら恥ずかしいから、お願いだ」
  と母に懇願され、 親にまで見放されたくないという思いが強かったので、
  母がそこまで言うならと、登校したんです。

 そうしたら「死にぞこない」と言われたんですね。
結局、何も変わっていませんでした。
 
しばらくは頑張ったのですが、いよいよ耐え切れなくなって、
「こういうことをする子たちが『人間』というなら、私は人間やめたろ」と思いました。

 そうして暴走族に入り、やがて暴力団の組長の妻になりました。
小娘が遊んでいると思われないよう、二度とこの世界から出ないことを示すために、
 入れ墨も入れたのです。
 
しかし、暴力団の世界にも自分の居場所はありませんでした。

 離婚して、北新地のクラブで働くようになって、
 毎日ヘネシーのボトルを一本空けていました。
 「いつ死んでもいい」と、浴びるように飲んでいました。

 そんな時に後に養父となる大平のおっちゃんとの再会がありました。
 ちょうどバブルの絶頂期で毎日お店は接待で満席。そこにやってきたのです。
 
 大平のおっちゃんは実父の友人で、小さい頃よく遊んでもらっていたので、
 一目見て互いのことが分かりました。
 
「いつでも電話しなさい」と名刺を渡され、時々喫茶店で会うようになったんです。
 
そのたびに「こんなこと、してていいんか」と諭されたのですが、ある日私が、
「おっちゃん、口先だけで説教するのはやめて。そんなに立ち直れって言うなら、
  私を中学時代に戻して」
 
 と居直ったんですね。
 すると、おっちゃんは周囲が驚くような大きな声で
 こう言ったんです……。

「たしかに、あんたが道を踏み外したのは、あんただけのせいやないと思う。
でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、あんたのせいやで。甘えるな!」

  猛勉強の末、宅建、司法書士の資格を取り、
  29歳で中卒の学歴を乗り越えて司法試験に一発合格。
  31歳で弁護士となった。

以降、少年事件を中心とした弁護活動に講演にと日本中を駆け回る日々だった。

byちち

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12月04日(火)

起床時刻:04時30分

【人生を楽しむ為の発想転換】

あなたの考えに気をつけなさい。それが言葉になるから。
あなたの言葉に気をつけなさい。それが行動になるから
あなたの行動に気をつけなさい。それが習慣になるから。
あなたの習慣に気をつけなさい。それが性格になるから。
あなたの性格に気をつけなさい。それがあなたの運命になるから。
By Unknown

今から20年後に、やりたいことをしなかったとがっかりするだろう。
迷いを断ち切って、思い切って安全な港から航海しよう。
冒険せよ。夢見て発見せよ。
Br Mark Twain

そばにいる誰かをコントロールしようとしても無駄である。
できることは彼らに対する我々の態度をコントロールすることだけである。
あなた自身を変えるためのあなたの力を過少評価してはならない。
他人を変えるためのあなたの力を過剰評価してはならない。  
By Wayne W. Dyer

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12月03日(月)

起床時刻:04時46分

寒い、唇は割れる、筋肉が泣く。

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12月02日

起床時刻:04時46分

▲選挙前、選挙期間中、各党首は、好き勝手な事
実現出来ない事を、述べても良い事になっています。
票を集めるには、大ボラが大事。
ホラを吹くのが、得意なのが、政治家の特権!

▲中学生以下の家庭に、年に31万2000円の券の配布だって。
 子育ての奥さん方、大喜びデモネ、民主党も、月26000円の子育てで
 票を集め実現したのは、財源不足で 月13000円でした。

▲お金を貰うと、スッカリ忘れ、 民主党の高校の無料化も、ケロリと忘れ

by大坪

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12月01日

起床時刻:05時00分

   「悲嘆を乗り越えるために」

     高木慶子(上智大学特任教授・上智大学グリーフケア研究所所長)

私がシスターであるから特にそう感じるのかもしれません。
しかし世の中には「時の印」というものが確かにあるように思います。

時の印とは、いま、私に、何が求められているかということ。
神戸市民、あるいは兵庫県民、あるいは日本国民として、
自分に何が求められているのか。

現在はやはり東日本大震災によって苦しんでおられる方々が、
以前の平穏な生活へと戻っていかれるのにどういうお手伝いができるのか。
それが私を動かす原動力になっているような気がします。

ご家族や友人を亡くされるといった
大きな悲嘆を乗り越えようとする人をサポートする
「グリーフケア」を神戸で始めたのは、二十五年前のことです。

友人のお父様が末期がんを患われ、その最期を看取ってほしいと
声を掛けていただいたことがそもそものきっかけでした。

しかし患者様がお亡くなりになれば、今度は遺族となられた
ご家族の心のケアもしていかなくてはなりません。

あちらでも、こちらでも、という皆様からの頼みに応じているうち、
これまで様々な原因で悲嘆に暮れている
数千人に上る方々にグリーフケアを行ってきました。

この二十五年間を振り返ってとりわけ心に残るのは、
平成七年に発生した阪神・淡路大震災です。

それまで病院や自宅で闘病生活をされている患者さんの元をお訪ねし、
愛する家族を残して逝くことをとても辛い、不幸なことだと思っていた
のですが、実はそうばかりでもなかった。

災害で突然命を奪われてしまった方が大勢おられる中、
家族や友人たちに看取られながら亡くなっていけるのは、
実はとても幸せなことだったのだと気づいたのです。

それだけの大きな災害に遭うと、地元では
「命を大事にしよう」ということが合言葉のようになっていました。

しかし二年後、そんな私たちを嘲笑うかのように起きたのが、
酒鬼薔薇聖斗を名乗る少年による神戸連続児童殺傷事件でした。

その後も関西では次々と児童殺傷事件が発生し、
遺族の元を訪ね歩く日々が続きましたが、さらに平成十七年、
決定的とも言える事件が起こります。

乗客百六人が死亡し、五百六十二人に上る負傷者を出す
大惨事となったJR福知山線脱線事故でした。

その一年後、JR西日本の本社から
私の元に一本の電話がありました。

「私たちにはどのようにご遺族の方々と
 関わっていいかが分かりません。
 どうか協力してもらえませんか」。

私は幹部の方々に、ご遺族や負傷なさった方が
いまどのようなお心でおられるのか思うところを話し、
弔問に訪れる際の細かな注意点なども含め、
お話をさせていただきました。

多くのご遺族とも接していく中で私自身、気づいたことがありました。

阪神・淡路大震災から数年間、ご遺族と接する中で、
家族や友人を亡くされた方の悲嘆の状態とはこういうものなのかと、
分かったような気になっていたところがあります。

ところが脱線事故によるご遺族や負傷者の方に接して、
私は完全に鼻っ柱を圧し折られてしまいました。
震災と脱線事故の経験を通じて学んだこと、それは
「天災と人災による悲嘆の状況はまるで違う」
ということだったのです。

天災は、それが地震であれ台風であれ津波であれ、
「加害者」の姿が見えません。

家族や友人を亡くした悲しみや喪失感はあっても、
恨みつらみの対象はない。

そして日本が災害大国であることを知っている私たちは、
どんなに辛いことがあったとしても、
これは仕方のないことだったのだと、
どこかに落としどころを見つけることができる。

ところが、その落としどころが恐ろしいくらいに
見つからないのが人災です。

福知山線の脱線事故から七年以上が経ったいまも、
ご遺族や負傷者の方の怒りは一向収まる気配がありません。
これは加害者がはっきり見えているか、
見えていないかの違いによるものでしょう。

そして図らずもこの二つの体験がそのまま当てはまるのが、
今回の東日本大震災です。

なすすべもなかった巨大地震や津波には
恨み言の一つも口にしない一方で、
原発を推進してきた政府や民間企業に対する怒りは
日に日に増していく。

天災と人災とが同居し、
復興が思うように進まない被災地を訪ねながら、
あぁ、私の体験はいまここでこそ生かされるのだ、
神様はこの日々のために私を準備してくださったのだと
強く思います。


いま被災地へ行くと、傾聴ボランティアの方から
「ご家族はどういう状態で亡くなられたんですか」
などと聞かれて非常に嫌な思いをした、
傷ついたと言われる被災者の方が少なくありません。

悲嘆の中にある人と接する上で大事なのは、
こちらが聞きたいことを聞いてはいけないということです。
相手の方の悲しみや苦しみ、お話しになりたいことを
無条件に受け入れて、時間と空間をただ共にすること。

そして何よりも大事なのは、相手の方を尊敬し、
信頼する気持ちを持つことです。

それが赤ちゃんであろうと、お年を召した方であろうと、
その人格に対する尊敬と信頼というものを持たなければいけない。
これは悲しみの中にある人だけでなく、
どんな人に対しても同じように言えることでしょう。

どんな辛い出来事や悲しみ、苦しみがあっても、
その心に寄り添い、支えてくれる存在がいてくれることを感ずる時、
人は必ずそこから立ち上がってくることができると信じています。

報道人ならずとも心得るべき道徳でしょう。

byちち

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