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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:04:30 平均起床時刻:04:11

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07月31日(水)

起床時刻:04時30分


     「努力の上に辛抱という棒を立てろ」


              桂小金治(タレント)

この頃(10歳頃)、
僕にとって忘れられない出来事があります。

ある日、友達の家に行ったらハーモニカがあって、
吹いてみたらすごく上手に演奏できたんです。
無理だと知りつつも、家に帰って
ハーモニカを買ってくれと親父にせがんでみた。

すると親父は、「いい音ならこれで出せ」と
神棚の榊(さかき)の葉を1枚取って、
それで「ふるさと」を吹いたんです。
あまりの音色のよさに僕は思わず聞き惚れてしまった。
もちろん、親父は吹き方など教えてはくれません。

「俺にできておまえにできないわけがない」。

そう言われて学校の行き帰り、葉っぱをむしっては
一人で草笛を練習しました。
だけど、どんなに頑張ってみても一向に音は出ない。
諦めて数日でやめてしまいました。

これを知った親父がある日、


「おまえ悔しくないのか。
 俺は吹けるがおまえは吹けない。
 おまえは俺に負けたんだぞ」


と僕を一喝しました。続けて


「一念発起は誰でもする。
 実行、努力までならみんなする。
 そこでやめたらドングリの背比べで終わりなんだ。

 一歩抜きん出るには
 努力の上に辛抱という棒を立てるんだよ。
 この棒に花が咲くんだ」


と。その言葉に触発されて
僕は来る日も来る日も練習を続けました。
そうやって何とかメロディーが
奏でられるようになったんです。

草笛が吹けるようになった日、
さっそく親父の前で披露しました。

得意満面の僕を見て親父は言いました。


「偉そうな顔するなよ。
 何か一つのことができるようになった時、
 自分一人の手柄と思うな。

 世間の皆様のお力添えと感謝しなさい。
 錐(きり)だってそうじゃないか。
 片手で錐は揉めぬ」


努力することに加えて、
人様への感謝の気持ちが生きていく上で
どれだけ大切かということを、
この時、親父に気づかせてもらったんです。


翌朝、目を覚ましたら枕元に新聞紙に包んだ
細長いものがある。


開けて見たらハーモニカでした。


喜び勇んで親父のところに駆けつけると、


「努力の上の辛抱を立てたんだろう。
 花が咲くのは当たりめえだよ」


子ども心にこんなに嬉しい言葉はありません。
あまりに嬉しいものだかち、お袋にも話したんです。

するとお袋は


「ハーモニカは3日も前に買ってあったんだよ。
 お父ちゃんが言っていた。
 あの子はきっと草笛が吹けるようになるからってね」

僕の目から大粒の涙が流れ落ちました。

いまでもこの時の心の震えるような感動は、
色あせることなく心に鮮明に焼きついています。

byちち

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07月30日(火)

起床時刻:04時30分

07月29日(月)

起床時刻:02時25分


     「母との葛藤」


        藤原咲子(高校教師・エッセイスト)

 
私は昭和二十年、終戦の一か月前に
満州国新京市(現在の中国長春市)で生まれました。

終戦後、父が捕虜収容所に送られたため、
母は数多くの死体が横たわる中、
一人で幼い二人の兄の手を引き、
生まれたばかりの私をリュックの中に隠して、
命からがら引き揚げ船に乗り込んだといいます。

当然私にその時の記憶があるわけではありませんが、
ほどけかけたリュックの隙間から見えた北極星と、
引き揚げの異様な空気はなぜか鮮明に覚えています。

壮絶な引き揚げで衰弱した母は、帰国後病の床に臥しました。
死病と恐れられた肺結核でしたから、
子どもたちは近寄ることを許されません。

事情のわからない私は、
ただただ母の温かい愛情が欲しくて、
窓越しに母の様子を見ていました。

幼稚園から帰った私に「咲子、おいで」と言って、
木綿の布団をそっと開けてくれる母の姿を
どれだけ夢見たでしょうか。

病との闘いに奇跡的に打ち勝った母は、
やがてその壮絶な引き揚げ体験記
『流れる星は生きている』を書き上げ、
作家藤原ていとして一歩を踏み出しました。

だがそこにいたのは私がずっと待ち続けてきた
温かくて優しい母ではありませんでした。

幼子三人の命を失うことなく
引き揚げという苦境を乗り越え、
成功者として社会から讃えられる母だったのです。


私は兄たちよりずっと厳しく育てられました。

少しでも甘えようものなら


「あんなに苦労して連れて帰ったのに、
いつまでもわがまま言うんじゃないの」


という言葉が返ってきました。


お母さん、どうしてそんなに怒るの、私が嫌いなの?
引き揚げ時の栄養失調で多少の言葉の遅れがあり、
友達とうまく話すこともできず、
学力でも兄たちに追いつけない私は、
いつの間にかすべてに自信を失っていました。

と同時に、私が生まれたことが母には
不満だったのではないかと、
様々な憶測が頭の中をよぎるようになりました。


子どもの頃の私の楽しみは何よりも読書でした。

図書室や家庭の書棚にあるいろいろな本を引っ張り出しては、
本の世界に浸りました。

しかし、母の『流れる星は生きている』だけは、
どうしても手に取る勇気がありませんでした。
幼い頃、一体何があったのか。
その疑問が解かれるのが恐かったからです。


しかし、中学受験が間近に迫った十二歳の頃、
そのストレスから逃げるように
『流れる星は生きている』を読んでいる自分に気付きました。

そしてその本の中で私のことを描写している
数行を発見したのです。


「咲子が生きていることが、必ずしも幸福とは限らない」


「咲子はまだ生きていた」


ああ、お母さんはやっぱり私を愛していなかった……。
一人の赤ん坊を犠牲にし、
二人の兄を生かそうとしていたのです。

これを読んだ時はしばらく声を失い、
呻き声をあげていました。

たった数行が母の私への不信を生み出し、
それから五十年もの間、母への反抗が続きました。


私は火がついたように母に食ってかかり、
母を責めるようになりました。

母が涙を流し、


「あんたなんか連れてこなきゃよかった」


と言うまで諍いは終わりませんでした。


三年前の平成十五年、私は整理をしていた書庫から
偶然にも『流れる……』の初版本を見つけました。

約五十年ぶりに茶色の木皮の紋様のカバーを開くと、
そこには「咲子へ」という見慣れた母の字体がありました。

「お前はほんとうに赤ちゃんでした。
 早く大きくなってこの本を読んで頂戴、
 ほんとうによく大きくなってくれました。母」

現在と変わらぬ美しい字体で書かれたこの一行は、
強く閉ざした私の心をひと突きにし、
私の中の何かが崩れ落ちるのを感じました。


十二歳の時に目に留まった
「まだ咲子は生きていた」の一文は
母の落胆ではなく、劣悪な状況下で
健気に生きていた私への感動だったのだと
この時ようやく気付いたのです。


母に対する気持ちが和らぎ始めたのはそれからです。

そんな母もいま米寿を迎え、
数年前から認知症に侵されています。
病状が進むにつれて母は穏やかになり、
反発していた私にも優しく接するようになりました。

病が進み始めた頃、伊豆の別荘に母と何度も行きました。
駿河湾と富士山が見渡せる場所に車を停め、
漁船の走る海を母と眺めました。


私は一歩後ろへ下がり、母の病状を観察するかのように


「ほら、イカ釣り漁船が行くねぇ」


と話しかけました。すると母は、


「バカだねぇ、お前は。あれは引き揚げ船だよ」


と力強い眼差しで海を見ているのです。

この時の母の横顔に思わず私は息をのみこんで、
涙を抑えることができませんでした。

たった一人で幼子三人と日本に引き揚げた時の母の孤独感、
人に言えない苦労が刻まれた横顔に強い寂寥感を感じたのです。

その寂寥感は私の中のそれと重なり合い、
気がつくと私は母をこの上なく
いとおしく思うようになっていました。

人が人を許し、人に優しくすることを知った時、
初めて人は心の静まりの中に真実が見えてくる──。

母はそれを身をもって私に伝えてくれた気がします。
認知症は私にじっくり母と向き合うきっかけを
与えてくれました。

私を一人前にするために厳しく育ててくれた母に、
いま心から感謝しています。

 byちち

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07月28日

起床時刻:04時28分

 

     「大哲学者カント誕生秘話」

ドイツの哲学者カントは、
馬の蹄鉄(ていてつ)屋の子に生まれた。
生まれつきのくる病であった。

背中に瘤があり、乳と乳の間は僅か二インチ半、
脈拍は絶えず百二十~百三十、喘息で、
いつも苦しげに喘いでいた。

ある時、町に巡回医師がやってきた。
少しでも苦しみを和らげられたら、と
父はカントを連れて診せに行った。

診てもらってもどうにもならないことは、
カント自身も分かっていた。

そんなカントの顔を見ながら、医師は言った。
その言葉がカントを大哲学者にするきっかけとなったのである。


「気の毒だな、あなたは。
しかし、気の毒だと思うのは、
 体を見ただけのことだよ。

 考えてごらん。
 体はなるほど気の毒だ。
 それは見れば分かる。

 だがあなたは、心はどうでもないだろう。
 心までもせむしで息が苦しいなら別だが、
 あなたの心はどうでもないだろう。

 苦しい辛いと言ったところで、
 この苦しい辛いが治るものじゃない。

 あなたが苦しい辛いと言えば、
 おっかさんだっておとっつぁんだって
 やはり苦しい、辛いわね。

 言っても言わなくても、何にもならない。
 言えば言うほど、みんなが余計苦しくなるだろ。

 苦しい辛いと言うその口で、
 心の丈夫なことを喜びと感謝に考えればいい。

 体はともかく、丈夫な心のお陰で
 あなたは死なずに生きているじゃないか。

 死なずに生きているのは丈夫な心のお陰なんだから、
 それを喜びと感謝に変えていったらどうだね。

 そうしてごらん。
 私の言ったことが分かったろ。
 それが分からなければ、あなたの不幸だ。

 これだけがあなたを診察した私の、
 あなたに与える診断の言葉だ。

 分かったかい。

 薬は要りません。

 お帰り」


 カントは医師に言われた言葉を考えた。


「心は患っていない、それを喜びと感謝に変えろ、
 とあの医師は言ったが、俺はいままで、
 喜んだことも感謝したことも一遍もない。

 それを言えというんだから、言ってみよう。
 そして、心と体とどっちが本当の自分なのかを
 考えてみよう。

 それが分かっただけでも、
 世の中のために少しはいいことになりはしないか」

大哲学者の誕生秘話である

健康とは、健体(すこやかな体)と
康心(やすらかな心)のことである。

体を健やかに保つこと。
それは天地から体を与えられた人間の務めである。

そしてそれ以上に大事なのが、心を康らかに保つことだ。
体が丈夫でも心が康らかでなかったら、健康とはいえない。

いや、たとえ体が病弱でも心が康らかなら、
生命は健やかである。

これは人間個々から小さな組織、国家まで、
あらゆる生命体にいえることであろう。

カントの逸話は私たちにそのことを教えている。

byちち

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07月27日

起床時刻:04時21分

 【 脚太りのしやすい方の特徴とその対処法 】

① 水太りタイプは、リンパの滞りが原因。マッサージでリンパの流れを促進したり
  脚に適度な筋肉をつけると、改善されやすい。

② 階段を登るなど脚に力を入れても筋肉の筋が出ない。これらに当てはまる方は、
  脂肪太りです。運動がよい。

③ 筋肉太りタイプは、瞬発性のある筋トレは避け、細かくてしなやかな筋肉を作る
  水泳などの有酸素運動がよい。

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07月26日(金)

起床時刻:04時14分 04時21分


     「気持ちのよい生活を作ろうと思うなら」

森信三先生、九十七歳。

平澤興先生、九十歳。

坂村真民先生、九十八歳。

安岡正篤先生、八十六歳。

それぞれの一道に徹し、その一道を楽しまれた方たちである。

古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ
──松尾芭蕉の愛した南山大師の言葉である。

私たちもまた先人の求めたるところを求めて
人生を生きたいものである。

ドイツの大文豪ゲーテもまた、人生を楽しみ、
八十二歳の寿を保った人である。

そのゲーテが「処世のおきて」と題し、
「気持ちのよい生活を作ろうと思うなら」
という前置きをつけて遺した言葉を記す。



   済んだことをくよくよせぬこと



   滅多なことに腹を立てぬこと



   いつも現在を楽しむこと



   とりわけ人を憎まぬこと



   未来を神にまかせること



洋の東西を超えて、人生の達人の言葉は
シンプルで、深い。


byちち

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07月25日(木)

起床時刻:04時43分

口唇ヘルペス 5日目 痛みを伴い悪化


     「自分の仕事に命を懸けなさい」

        加藤彰彦(沖縄大学人文学部福祉文化学科教授)
 
二十代最後の年、放浪の旅から戻ると
一枚のハガキが届いていました。

「万難を排し、ただちに来られよ」

差出人の名前は「森信三」とありました。

大学卒業後、小学校の教師になった私は
子どもたちと過ごす時間が何よりも幸せでした。
教師はまさに天職でしたが、
唯一私を苦しめたのは通信簿でした。

クラスには跳び箱を跳べる子もいれば
跳べない子もいます。

跳べない子たちは、自発的にお昼休みも返上して
一所懸命練習します。
すると、一週間もすれば跳べるようになる。
それは音楽でも鉄棒でも掛け算でも同じです。

しかし成績表をつける時はすんなりできた子が5、
一所懸命努力して、やっとできるようになった子が1か2……。

「どうしても納得できません。
少なくともうちのクラスに1や2の子はいません」

私は校長へ申し出ましたが、
「それが決まりですから」の一言でした。

結局、正規の通信簿と別に、
一切評価を書かない私からの手作り通信簿を渡し、
良心のバランスを保っていました。


        * *


そうして五年目、ハッと気づいたことがありました。

私は子どもたちに
「北海道は寒いんだよ」「沖縄は暖かいんだよ」と、
さも知っているかのように教えていましたが、
本当はその寒さも暖かさも経験したことがないのです。

自分はもっと社会を知らなければならない。
そして、「これからどう生きていったらよいか」を
探さなければならない。
その思いを抑えきれず、私は教壇を去り、
放浪の旅へと出たのでした。

北は北海道から南は沖縄まで、
八百屋、土木作業員、サンドイッチマンなど、
ありとあらゆる仕事をしながら、
気の向くままに転々としました。

旅も終盤に差し掛かり、長崎まで流れ着いた時、
お世話になった方から、

「それで、君はこれからどうするの」

と聞かれました。

「もう一度教師をやろうかなと思っています」

と答えると、

「それならこの人に会いなさい。
 教師をやるならこの人抜きでは語れない」

 
そうして紹介されたのが、森信三先生でした。

私はその場でハガキを書いてポストへ投函。
再び放浪しながら自宅へ戻ると、
森信三先生から冒頭の内容のハガキが
速達で届いていたのでした。

私は取るものも取りあえず
先生のご自宅へ駆けつけました。

当時私は二十九歳、先生は七十歳に近かったと思います。
先生は私を部屋へ招き入れると、


「さあ、こちらへ!!」


と言って、私を上座へ座らせました。
その一連の動作から、先生の「出会い」に対する気迫を感じ、
ただただ圧倒されるばかりでした

その後、何度もお会いするようになりましたが、

先生はいつも毅然としていて、孤高の人でした。
別れ際は


「未練が残りますから、きょうはここで。じゃ」


と言って、決して振り返らずに歩いていかれる。
おそらく、すべてにおいて未練を断ち切って
生きてこられたのでしょう。

厳しい生き方を貫いてこられた背中を見送っていると、
駆け寄って抱きしめたくなることもありました。

        * *

その後、私は中学時代の恩師の勧めで、
横浜の寿町にある生活相談所の職員になりました。
横浜の寿町といえば、有名なドヤ街です。
生活相談所の職員とはいっても、
結局あらゆる相談に応じました。

小学校もろくに通えなかった人もたくさんいて、
勉強がしたいという彼らの要望に応え、
私は無認可の夜間学校を作って教壇に立ちました。
本当に昼も夜もない忙しさでした。

森先生はいつも私を気にかけてくださり、


「あなたの仕事を見てみたい」


とおっしゃっていました。
ある日、関東での会合の帰りに足を伸ばしてくださって、
本当にドヤ街に会いに来られたのです。

ひとしきり相談所での仕事ぶりをご覧いただいた後は、
三畳一間の私の部屋にお泊まりになりました。
教育のこと、仕事のこと、このドヤ街の事情、
森先生は一晩中私の話に耳を傾けてくださいました。

そして、もう明け方が近づいた頃でした。
最後に私は当時一番悩んでいたことを打ち明けました。
それは恋愛のことでした。

ドヤ街での仕事ははっきり言ってきついものがあり、
自分は家庭など持てないと思っていました。
生涯独りで生きていくつもりでしたが、
熱心に言ってくださる方が現れ、悩んでいたのです。

話し終えると、先生は声高らかに笑って、

「これはご縁があるかどうかですね」

と言いました。

「あなたは自分の仕事に命を懸けなさい。
 そうすれば必ず一緒に行く人は現れます。

 相手のことを考え、振り回される人生なら、
 あなたはきっと途中で燃え尽きるでしょう」

そう言って、また笑いました。

私はスッキリして、ドヤ街に骨を埋める覚悟で
働くことを決意しました。
すると不思議なことに、いまの妻が
手伝いに来てくれるようになったのです。

私はあの日の朝焼けの空と、
先生の澄んだ笑い声を
いつまでも忘れることができません。

現在は大学で児童福祉学を教える立場になりましたが、
いつも耳の奥で、

「自分の仕事に命を懸けなさい」

という森先生の声が響いています。

昨年は先生の十三回忌でしたが、
その存在は世間でも私の中でも
ますます大きくなるばかりです。

謦咳に接した一人として
先生の教えの一端でも
受け継いでいきたいと思っています。

byちち

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07月24日(水)

起床時刻:07時15分

「限界を突破するリーダーの条件」

             三浦雄一郎(冒険家)

山は一人で登るわけではなく、
チームワーク力やコミュニケーション能力も、
リーダーシップも要求される一大事業です。

いつ誰が命を落とすかもしれないという極限の世界で、
こいつになら命を預けても大丈夫だという
信頼関係でチームが成り立っている。

ここでリーダーがぶれてしまっては、
隊員はどこへ向かっていいのか分からない。


またリーダーが暗ければ隊全体の士気が下がりますから、
リーダーはいかなる時も上機嫌で
希望の旗印を掲げていなければいけない。

そしてその根本には、こうすればできるんだ、
やればできるんだという絶対的にポジティブな
考え方を持つことが不可欠です。

ネガティブな要素は無限にあるわけですから。

天気が悪くなる、崖が途中で崩壊する、
そういったリスクをできるだけ回避しながら
その中でお互いにベストを見出していく。

これが暗い気持ちになってネガティブな方向へ進み出すと、
ここもダメ、あそこもダメとなって、
どうにもならなくなる。

だから不可能だと判断した時点で、
また突破できうる方法を、
工夫して考え出すことが大事なんですね。

byちち

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07月23日(火)

起床時刻:01時37分

    「クリントン大統領が取り上げた一首」

          武田鏡村(作家)

「たのしみは 艸(くさ)のいほりの
 筵(むしろ)敷き 
 ひとりこころを 静めをるとき」

(私の楽しみは、世間の喧噪から離れ
 粗末な草葺きの我が家に筵を敷き、
 一人静かに自分を見つめる時である)

この歌は、江戸末期の歌人・橘曙覧の短歌集
『独楽吟』の一首です。

『独楽吟』には五十二の歌が収められていますが、
いずれもこの歌同様に「たのしみは」で始まり、
日常の些細な出来事の中に見出した楽しみが
巧みに表現されています。

人はレジャーやショッピングなど、
外の世界に楽しみを求めますが、
そうした欲求はどこまでいっても満たされることはなく、
そのことによって逆に苦しみを得ます。

人生の楽と苦は一枚の葉っぱの表と裏のようであり、
むしろ苦しみのほうが多いことを
痛感する方も多いのではないでしょうか。

橘曙覧はこの真実の中で、
苦楽の波間に高ぶる心を、
自分で見つめて静めるところに本当の楽しみを求めました。

狭い家の中でも僅かなスペースを見出して、
そこに座って静かに自分を見つめる。
そのゆとりの中から誰にも邪魔されない
楽しみの空間が広がっていく。

字面こそ平易ですが、自分の心に感応させて読むと、
実に奥深いものがあります。

恥ずかしながら、私はこの秀逸な短歌集の存在を
二十年前まで認識しておらず、
アメリカ人を通じて初めて教えられたのでした。

平成六年、天皇皇后両陛下を国賓として迎えた
クリントン大統領が、ホワイトハウスの歓迎式典のスピーチで
取り上げたのが『独楽吟』の一首だったのです。


「たのしみは 朝おきいでて
 昨日まで
 無かりし花の 咲ける見る時」


(私の楽しみは、朝起きた時に昨日までは
 見ることがなかった花が咲いているのを見る時である)


クリントン大統領はこの歌を通して、
日本人の心の豊かさを賞賛しました。
恐らく専門家の意見をもとに盛り込んだのでしょうが、
その判断は見事なもので、
私たち日本人が自らの感性の素晴らしさを再認識し、
知る人ぞ知るこの名作が平成の世に
再びスポットライトを浴びる契機となったのです。


「たのしみは」で始まる『独楽吟』は、
日常のありふれた出来事を「楽しい」と受けとめること。

そうした感性を育むことで、日頃見失っている尊いものを
受けとめられることに気づかせてくれます。

どんな苦境にあっても、楽しみを求める感性があれば、
人生はまさに「楽しみ」に満ちていることを発見できるのです。

byちち

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07月22日(月)

起床時刻:02時28分


全英オープン ミケルソン優勝(20年目の) 松山6位

参院選 与党の圧勝が伝えられ
大阪市場が東京市場へと移行、上場銘柄が
増えたが、出来高は、増加せず

19日の14953円が、7月高値になるのでは

■ 売買銘柄ではありません
1株純資産株価(会社の解散価額)を、大きく上回る銘柄は

●3010価値開発33円
不動産会社、1年に1度上昇する、1株純資産株価は0.3円
創業100年の歴史を誇るが、債務超過

●6054リプセンス 5400円
21歳で創業、5年後に、マザーズに上場、そして1部市場へ
更に貸借銘柄にもなり、
恵まれた会社ですが、 1株純資産株価は135円。
しかし、この25歳の村上社長は、現金で100億円、株式保有
300億円の、リッチマンに。

●2371カカムコム3355円
あらゆる商品の価格比較会社
上場して10年。1株純資産株価は167円
株価は、1年間上昇し、上場来高値更新中

●3092スタートトウ2180円
  アパレルのネット通販専門会社
上場して5年。1株純資産株価は、110円。
弊社は、今年の出世株候補の1つとして、1月に
取り上げたが、3倍。
 
●2395新日本化学  1750円
1株純資産株価は、84円、
再生医療関連で脚光を浴びた。
上場して9年、業績は悪いがーー4月に2540円まで
買われた。
今後、1年間、この高値は抜けないか

▲新興会社は、資産が少ないのは当然です
  資産より、成長性を買うのが、株式市場です 


▲参議院選挙は、与党の圧勝が伝えられると
民意は、与党へ、与党へとなびき
当選し、議員となり、6年間仕事しなくとも
議会を休んでも、2300万円+
文書交通費、新幹線の乗り放題を含めると
約4000万円がもらえ、

▲この額、オバマ大統領より、安倍総理より
多い収入になるのですから、議員になりたい
自分の為にの 気持ちはわかります

▲選挙運動中は、「国家国民の為、全霊を投げ打ち」
と演説しても、当選すると、国会では、ヤジ将軍になり果て
居眠り、本会議でも、スマホを見、
 テレビで、写り出される光景です

▲3年前、農業所得補償5366億円を、戸別に
貰った農業の方も、
18歳未満の 子供手当一人、月13000円
貰う方々も、「アーなんと 民主党は良い政党」と感謝
していたのに

▲貰ってしまうと、ケロリと忘れ
安倍さん、黒田様、「貴方は、神様です 」と
  心、移り変わり、
でも、それでいいのです。
人の心は、常に移り気なのですから。
「惚れた はれたは当座の内」
 熱しやすく 冷めやすいのも民意です。

by大坪

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07月19日(金)

起床時刻:04時47分

07月18日(木)

起床時刻:04時56分

07月17日(水)

起床時刻:05時09分

 
    「もう駄目だ そこから本当の人生が始まる」

        梶山祐司(元競輪選手)

二年前、私は通算三十四年に及ぶ
競輪選手生活にピリオドを打ちました。

もともと運動神経がよいほうではなく、
走るのも速くはなかった私にとり、
競輪人生は試練の連続でした。

努力が結果に結びつかない現実にも幾度となく直面しました。

しかし、日々の練習や勝負の中で、
私は人生の宝物ともいえる
掛け替えのない学びを得ることができたのです。

家が貧しかったため、兄は中学を出て
すぐ働きに出ていました。

私も将来を考える時期に差し掛かった頃、
たまたま兄に連れていかれた競輪場で、
人間が自らの力で生み出すスピードの凄さに
たちまち魅了されました。

こんな素晴らしい世界で日本一になってみたい──
強い思いに突き動かされ、
私は競輪選手を目指すことにしたのです。

プロになるためには、まず競輪学校へ
入学しなければなりませんが、
定員の十倍もの志望者が殺到します。

資質に劣る私は、とにかく人の何倍も練習しようと決意し、
多い日は夜中の一時半からその日の二十一時まで二十時間近く、
限界を超える鍛錬を積んで合格を果たし、
入学後も人一倍練習を重ねてプロになったのです。

当時、競輪選手は四千人以上いました。

レースは実力別に七つのクラスに分けて行われ、
これも当時の頂点であったA級一班の百二十人に
入ることを目指してしのぎを削るのです。

もちろん私の目標もA級一班でしたが、
とても口には出せませんでした。

周りはインターハイの優勝者など、
桁外れの脚力の持ち主ばかり。

一方私は、競輪学校のコンピュータによる体力分析で、
プロでは勝てないと指摘されていたのです。

しかし私の視野には、苦労して
プロの切符を手にした競輪の世界しかありませんでした。

三年やって駄目なら死ねばいい。
その代わり命懸けで三年やろうと決意しました。

早朝に静岡市内の自宅から御前崎まで往復八十キロ、
朝八時に再びサドルにまたがり河口湖まで往復二百キロ、
戻ってくると競輪場で十九時までスピード練習を行い、
さらに二十時から大井川方面まで走って二十二時に帰宅。

少ない日でも一日二百キロ、月六千キロ、年間七万二千キロ、
死にもの狂いでペダルを漕ぎ続けました。
私以上に練習した人はおそらくいなかったと思います。

最初はなかなか勝てませんでしたが、
三年経つ頃には努力が確実に成績に結びつくようになり、
八年で念願のA級一班入りを果たすことができたのです。

コンピュータで筋力は分析できても、
人間の気力までは分析できません。
気力さえあればデータなど吹き飛ばして
やり遂げることができるのです。

しかし、そこからの道のりも決して平坦ではありませんでした。
度重なる練習やレース中の事故で
延べ五十本にも及ぶ骨折に見舞われましたが、
そこから再起しました。

一番大きな怪我は頸椎の骨折でした。

「もう駄目だ」、何回も何回も思いました。
やめるべきか、再起すべきか。
もし再度落車すれば半身不随の可能性もある。
悩みに悩みましたが、再起の道を選びました。

心の支えになったのが須永博士さんの詩でした。

「“もうだめだ”

 そこから人生が

 はじまるのです

 そこから

 本当の自分を

 だしきって

 ゆくのです

 そこから

 人間這いあがって

 ゆくのです

 “もう駄目だ”

 そこからもっともっと
 
 すごい強い自分をつくって
 
 ゆくのです」

苦しい時、本当の自分が姿を現します。
そこで駄目になるのも自分、
もっと凄い自分をつくっていくのも自分。
そこから本当の人生が始まるのです。

信念を持って生きる!

byちち

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07月16日(火)

起床時刻:05時00分

07月12日(金)

起床時刻:04時27分

07月11日(木)

起床時刻:05時15分

  江戸時代、寺子屋で使われていた教科書


 「実語教」「童子教」はともにおよそ1000年間、
 日本の子どもたちが道徳を学ぶ教材として
 寺子屋などで用いられてきました。

 では、その両者には
 どこに違いがあるのでしょうか。

 年長者への礼儀や人との付き合い方など、
 『論語』などの東洋古典をベースに、
 人間の生き方の基本がをたとえ話を用いながら
 丁寧に説いているのが「実語教」。

 それに比べると「童子教」には
 仏教思想が色濃く反映されており、
 「諸行無常の響き」を連想させるような
 死生観にまで踏み込んだ
 教えが盛り込まれています。

 「実語教」が小学生低学年向けの
 教えであるとすれば、
 「童子教」は小学校高学年以上を
 対象にして書かれたものと
 いえるでしょう。

 実際、農民の出でありながら
 小田原藩の財政再建を果たした
 日本の偉人・二宮尊徳も8歳の頃に
 「実語教」「童子教」を学んでいたことが
 記録に残されていますが、
 「童子教」のほうは14歳頃にも
 学び直しています。

 量にして単に「実語教」の3倍以上あるというだけでなく、
 その内容も深みを増しているといえるでしょう。

 文献等がほとんど残されていないことから、
 資料的にも価値のある
 『子どもと声に出して読みたい「童子教」』。
 
 日本人が連綿として受け継いできた教えを
 この夏、紐解かれてみてはいかがでしょうか。



童子教
(『実語教 童子教』文化十一年、一部)

(書き下し文)
夫(そ)れ貴人の前に居ては  顕露に立つことを得ざれ
道路に遇(あ)ふては跪(ひざまづ)いて過ぎよ 召す事有らば敬つて承れ
両手を胸に当てて向へ  慎みて左右を顧みざれ
問はずんば答へず  仰せ有らば謹しんで聞け
三宝には三礼を尽し  神明には再拝を致せ
人間には一礼を成せ  師君には頂戴すべし
墓を過ぐる時は則ち慎め  社を過ぐる時は則ち下(を)りよ
堂塔の前に向かつて  不浄を行ふべからず
聖教(しやうきやう)の上に向かつて  無礼を致すべからず
人倫礼有れば  朝廷に必ず法在り
人として礼無きは  衆中(しゆちう)又過(あやま)ち有り
衆に交はりて雑言せざれ  事畢(おは)らば速に避けよ
事に触れて朋(とも)に違へず  言語(げんぎよ)離すことを得ざれ
語(ことば)多き者は品少なし  老いたる狗(いぬ)の友を吠ゆる如し
懈怠(けだい)は食を急ぐ  痩せたる猿の菓(このみ)を貪る如し
勇む者は必ず危き有り  夏の虫の火に入るが如し
鈍(にぶ)き者は又過(あやま)ち無し  春の鳥の林に遊ぶが如し
人の耳は壁に付く 密(かく)して讒言(ざんげん)すること勿(なか)れ
人の眼(め)は天に懸(かゝ)る  隠して犯し用ゆること勿れ
車は三寸の轄(くさび)を以て  千里の路を遊行(ゆぎやう)す
人は三寸の舌を以つて  五尺の身を破損す
口は是(これ)禍(わざはひ)の門 舌は是禍の根
口をして鼻の如くならしめば  身終るまで敢へて事無し
過言を一たび出(い)だす者は  駟追(しつい)の舌を返さざれ
白圭の珠(たま)は磨くべし  悪言(あくげん)の玉は磨き難し
禍福は門に無し  唯(ただ)人の招く所に在り
天の作る災は避くべし  自ら作る災は逃れ難し





近代日本人の思考ルーツがそこにあるやも。

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07月10日(水)

起床時刻:01時30分

受験生時代のような日課。

深夜労働者の方々は皆たくましい。

不平不満が言えなくなる思い。

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07月09日(火)

起床時刻:03時50分


    「健康の三原則」

その生を楽しみその寿を保つ──
本誌にゆかりの深い新井正明氏はこの言葉を好まれ、
よく口にされた。

その生を楽しむとは自分の生業を楽しむということ。
仕事を楽しむことができれば、
自ずとその寿を保って長生きができる。

新井氏は言葉の意味をそう説明されていた。
事実、氏はこの言葉どおりの人生を生きられた。

二十六歳の時、ノモンハン事件で負傷、
右脚切断、隻脚の身となられた。

「人より遅く来て早く帰ってよろしい」
という上司の言葉を有り難く受け止めながらも、
人より早く出社し、人よりも遅くまで働き、
社長、会長としてすぐれたリーダーシップを発揮、
社を業界上位に躍進させ、数え九十二歳までその寿を保たれた。

その新井氏が生涯の心訓とされたのが安岡正篤師の
「健康の三原則」である。

曰く、

   一、心中常に喜神を含む──

     どんなことにあっても心の奥深いところに
     いつも喜ぶ心を持つ

   二、心中絶えず感謝の念を含む

   三、常に陰徳を志す

「その生を楽しみその寿を保つ」ために
忘れてはならない三原則といえよう。

byちち

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07月08日(月)

起床時刻:04時00分

    「エベレスト登頂秘話 ~命がけのお茶会~」

           三浦雄一郎(冒険家)

【三浦】 2000~3000メートルの山になれば、
     酸素濃度が平地よりも随分と薄く、
     呼吸が苦しくなります。

【大竹】 体感温度はマイナス30度から40度。
     あの程度の高さの山でも、不安感や恐怖感を
     いまだに記憶してるんですよ。

     ましてエベレストなんていうのは、
     まるで想像ができません。

【三浦】 いや、でも基本的には好きでやっていることですから。
     で、どうせやるなら面白くやろう、
     というのが我われの方針で。
     
     実は今回も8500メートルの頂上直下で、
     お茶会をやったんですよ。

【大竹】 え、お茶会?

【三浦】 福寿園の抹茶、茶筅(ちゃせん)から
     お碗から茶を点てる道具、
     虎屋の羊羹(ようかん)まで全部揃えて、
     これから頂上へ行こうという時に
     テントの中でお茶を点てたんです。

     息子の豪太に言わせると、
     なんでそんな物を持っていくんだと。
     8000メートルへ行くには100グラムでも
     軽くしたいわけですからね。

【大竹】 それは心を静める意味合いがあったのでしょうか。

【三浦】 そうです。実際、作法も何も知らないくせに
     お茶を点てていただくと、不思議に心が落ち着く。
     そして頂上に早く立ちたいとエキサイトしていた皆の心が、
     すうっと静まっていった。

     これから命懸けで臨もうとする
     出陣前の儀式のようなものですね。
     その結果、四人の心が一つになって。

【大竹】 戦国武将も戦場でお茶を点てたといいますからね。

【三浦】 はい、それと同じような心境でしょうね。
     一見無駄かと思われていたものが、
     こんなにも人の心を掴んだんですよ。

【大竹】 そういう試みが余裕を生んで
     チーム力を高めたのでしょうね。

【三浦】 また、食事も普通はアルファ米をかき込むだけですが、
     雲丹やら塩辛やら北海道の特産物、
     それに手巻き寿司なんかも用意して、
     頂上付近で食べたらこれがおいしくておいしくて(笑)。
 
     今回一緒に登った二人はエベレストを
     もう何回も登っているプロの登山家です。
     その彼らもこんなに食事がおいしく、
     優雅で楽しい登山は初めてだったと言いました。

byちち

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07月07日

起床時刻:03時00分

07月06日

起床時刻:05時00分

07月05日(金)

起床時刻:03時30分

     「江戸時代のメンタルヘルス」

           立川昭二(北里大学名誉教授)
 
貝原益軒の後輩の水野沢斎は養生には三つあると話しています。

一つが「身養生」、

二つ目が「心養生」、

そして三つ目が「家養生」です。

この三つは巡り巡っていると考えていて、

人の生き方、あり方を詳しく述べているところに
私は『養生訓』の魅力を感じると申し上げましたが、
健康論そのものも現代人が考える健康法とは大きく異なっている。
ここもまた注目に値します。

例えば私たちが健康に関して語る場合、
何を話題にするかというと二つあるんです。

一つは病名の話。

糖尿病だとか高血圧だとか。
それからもう一つが臓器の話です。
肝臓がどうだとか、心臓がどうだとか。

ところが、驚くことにこの『養生訓』には、
一か所中風、いまの脳卒中のことに触れられているだけで、
他に病名の話もなければ臓器の話もない。

では、人間の体はなんでできているのか。
これが帯津先生が詳しく説かれる「気」なんですね。

例えば「気を減らすこと」「気を滞らせること」が
健康を損なうという言い方をしています。
その意味で益軒の学問は「気の医学」といってよいかもしれません。

益軒の健康論のもう一つの特徴は、
健康の最も大切な眼目として心の健康、
メンタルヘルスを挙げている点にあります。

健康とは心身の相関であるという
ホリスティックな考え方がここに出てきます。

心身のバランスがしっかりしていたら病気にならないし
人生を楽しく生きていくことができる。
これは現代に生かせる益軒の教えではないでしょうか。

例えばこういうことを言っています。

「常に元気をへらす事をおしみて、言語をすくなくし、
 七情(喜怒哀楽愛悪慾)をよきほどにし、
 七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ、思ひを
 すくなくすべし。

 慾をおさえ、心を平にし、気を和にしてあらくせず、
 しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。
 憂ひ苦むべからず。是皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也」

怒り、悲しみ、愁い、嘆き。そういうことを
なるだけ避けて毎日を楽しく暮らしなさい、
心は常に和楽でなくてはなりません、
という考えは私などは大いに共感するのですが、
そういったことを繰り返し繰り返し説いている。

現代と同様、江戸時代の人たちにとっても
メンタルヘルスは非常に大切だったのでしょうね。

byちち

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07月04日(木)

起床時刻:04時26分

07月03日(水)

起床時刻:04時50分

     「セルフ・サポートのすすめ」

           清川妙(作家・エッセイスト)

私は毎日機嫌よく生きたいなと思います。
ぐちぐち不平を口にしながら生きてもつまらないですもの。
同じ生きるなら機嫌よくありたい。

もちろん機嫌悪くなる時もありますけど、
そこできゅきゅっとねじを巻いて、
機嫌のいい自分に直すんです。

やっぱり年を取ってからの生活は意志が要ると思う。
「愚痴を言わないぞ」とか、
そういうセルフ・マネジメントが大切だと思います。

余談ですが、英語の辞書を引くと
「セルフ」が付く単語が百以上あるんですね。

やはり海外では「自分で何々する」ということが
重んじられている証拠だと思うのですが、
「セルフ・コントロール」「セルフ・マネージ」といった中に、
「セルフ・サポート」という単語があって、
とても気に入ったんです。

それは自立や自助といった意味の他に
自営という意味もあって、
いま私もささやかに原稿を書いて
お金をいただいている自営業ですから、
「『セルフ・サポート』っていいな」と思って。

足が重だるいと思ったら、足を高くして寝るとか、
なるべく歩くようにするとか、
自分でできる限りのサポートをして、
「できる状態」を保つの。


体や頭はもちろん、心にもセルフ・サポートは
要ると思うんですよ。

例えば体と頭は体操をするとか
パズルをするとか言われていますが、
心のサポートについては言われないでしょう。

でもやはりこれも人を褒めるとか
「ありがとう」と感謝するとか、
そういう気持ちを強く持って
自分で自分をサポートすることがとても大事だと思う。

いいや、面倒くさい。
年を取ったから仕方がないや、と思ったら、
坂道を転がるばかりです。

byちち

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07月02日(火)

起床時刻:03時56分

六月は体調が崩れやすいねぇ。

ダメかと思ったら復活したり、大丈夫と言われても切れたり。

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07月01日(月)

起床時刻:04時55分

  「無限の力」

        尾崎まり子(主婦、喫茶店勤務)

  突然、それは本当に突然でした。
 四年前になります。
 
 お正月を過ぎてほどない日の午後、
 息子の功が意識を失って倒れたのです。
 
 不整脈から心肺停止状態に陥ったのでした。
 小学生から野球に熱中し、中学生になると
 浦安リトルシニアに入り、やがては甲子園出場、
 巨人入団を夢見ていました。
 
 そんな作文を小学六年の時に書いています。
 
 中学三年で身長百七十六センチ、体重六十三キロ、
 鍛えた筋肉質の身体は頑健で、
 学校は無遅刻無欠席、病気らしい病気を知らずにきた子でした。
 それだけに突然の異変は驚きでした。

  それから四か月、何度も訪れた危篤状態を
 驚くような生命力で乗り越え、
 平成十二年五月二十日、功は天国に旅立ちました。
 十五歳八か月の人生でした。

  振り返ると、一日二十四時間では
 とても足りないような毎日を過ごした子でした。
 
 中学生になると、土日は野球の練習や試合でいっぱい。
 
 学校では生徒会役員を一年生からやり、
 三年では学級委員長も務めました。
 
 それだけでも手いっぱいなのに、
 部活動ではバスケット部に入りました。
 
 苦手の英語も、英会話で進める授業の面白さに引かれ、
 その勉強もしなければなりません。
 
 野球の仲間、クラスメートとの遊びもあります。

  あれもやりたい。
 これもやりたい。
 でも、功はこだわりの強い性格なのでしょうか。
 
 中途半端が大嫌いで、どれ一つとして疎かにはできません。
 徹底してやるから、時間がいくらあっても足りないはずです。

「ああ、時間が欲しいよォ」

 いまでも功の声が聞こえるような気がします。
 あんなふうに生きたのも、自分に与えられた
 時間の短さを予感していたからなのかもしれません。

  といって、功は特に才能に恵まれた子ではありませんでした。
 いささか恵まれているといえば背の高さぐらい。
 
 まず運動神経も人並み、頭脳のほうも
 人並みというのが率直なところです。

  だから、何かを達成しようと思えば、
 努力しなければなりません。
 
 野球でレギュラーになるのも努力、
 生徒会役員の務めを果たすのも努力という具合です。
 そして、目標を立て努力すれば夢は叶うという確信を、
 小さい営みの中で功なりにつかんだのでしょう。
 
 いつごろからか、功はそのことを
 「無限の力」という言葉で表現するようになりました。

「誰にでも無限の力があるんだよ。

 無限の力を信じれば目標は必ず叶うんだ」

  お母さん、これだけはちゃんと聞いてくれよという感じで、
 夕餉(ゆうげ)の食卓で功が言ったことを、
 昨日のように思い出します。

「無限の力」で忘れられないのは、
 やはり中学三年の時の校内合唱祭でしょうか。
 
 音楽が得意というわけでもなく、楽譜も読めない功が、
 自分から立候補して指揮をすることになったと
 聞いた時は驚きました。
 
 それからは楽譜と首っ引きで指揮の練習です。
 
 腕を振りすぎて痛くなったり、
 クラスのまとまりの悪さに悩んだり、
 いろいろとあったようですが、
 功は「無限の力」を学級目標にかかげ、
 みんなを引っ張っていったのでした。

 そして、クラスは最優秀賞、自身は
 指揮者賞を受けたのです。名を呼ばれ、
 周りにピースサインを送り、
 はにかんだ笑顔で立ち上がった功。

 「無限の力」は本当だと思ったことでした。

  その二か月後に功は倒れ、帰らぬ人になりました。

 しかし、私が「無限の力」を実感するようになったのは、
 それからかもしれません。

  一緒に野球をしてきた親友は功の写真に、
 「おれがおまえを甲子園に連れてってやる」と誓い、
 甲子園出場を果たしました。
 
 「功が言っていた無限の力を信じて、看護師を目指すよ」
 
 と報告してくれた女の子もいました。

  出会い、触れ合った人たちに何かを残していった功。
 それこそが「無限の力」なのでしょう。

  私も、と思わずにはいられません。

 自分の中にある「無限の力」を信じて、
 自分の場所で、自分にできることを精いっぱい果たしていく。
 
 そういう生き方ができた時、
 功は私の中で生き続けることになるのだと思います。

  先日、用事があって久しぶりに
 功が通っていた中学校を訪れました。

  玄関を入って私は立ちすくみ、動けなくなりました。

 正面の壁に功の作文が張り出されていたのです。

 それは功が倒れる数日前に書いたものでした。

  あれから月日が経ち、先生方も異動され、
 功をご存知の方は三人ほどのはずです。
 
 それでも功の作文が張られているのは、
 何かを伝えるものがあると思われたからでしょう。
 
 これを読んで一人でも二人でも何かを感じてくれたら、
 功はここでも生きているのだと思ったことでした。

  最後に、拙いものですが、功の「友情」と
 題された作文を写させていただきます。

《私にとって「友情」とは、
 信頼でき助け合っていくのが友情だと思う。

 そして、心が通い合うことが最も大切なことだと思う。

 時には意見が食い違い、言い合う事も友情のひとつだと思う。

 なぜなら、その人のことを本気で思っているからだ。

 相手のことを思いやれば、相手も自分のことを
 必要と感じてくれるはずだ。
 
 私には友が一番だ。

  だから、友人を大切にする。

  人は一人では生きられない。

  陰で支えてくれている人を忘れてはいけない。

 お互いに必要だと感じることが、友情だと思う。

尾崎 功》

byちち

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