201308 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:04:30 平均起床時刻:04:50

起床時刻の記録 ▼新しい順 ▲古い順 RSS

08月31日

起床時刻:05時11分

08月30日(金)

起床時刻:05時24分

08月29日(木)

起床時刻:05時12分


     「ルバング島で30年間、孤独感がなかった理由」

       小野田寛郎(元陸軍少尉・財団法人小野田自然塾理事長)

(ルバング島にいた)30年間で発熱は2回でした。
それは仲間が負傷して、介護疲れでちょっと出しただけです。

熱が出たところで、医者も薬もないですから、
まずは健康でいることが大事です。
そして健康でいるには
頭をよく働かせなければダメです。

自分の頭で自分の体をコントロールする。
健康でないと思考さえ狂って、消極的になったりします。

島を歩いていると、
何年も前の遺体に会うこともあるんです。

それを埋めながら、
「早く死んだほうが楽ですね」と仲間に言われ、
本当にそうだなと思ったこともあります。

獣のような生活をして、
あと何年したらケリがつくか保証もないですし、
肉体的にもそういつまでも戦い続けるわけにもいかない。

いずれはこの島で死ななきゃいけないと覚悟しているので、
ついつい目の前のことに振り回され、
「それなら早く死んだほうが……」と思ってしまう。
結局頭が働かなくなると、
目標とか目的意識が希薄になるんです。

だから、仲間と喧嘩をするのも、
頭が働かずに正しい状況判断ができない時でした。

右に行くか、左に行くか。
そっちへ行ったら敵の待ち伏せに遭うから嫌だと言う。
しまいには、

「隊長は俺たちを敵がいるところへ連れて行くのか、
 そんな敵の回し者みたいな奴は生かしておけない」
 
と言って銃を持ち出します。

「馬鹿、早まるな。やめろ」

と言えばいいんですけど、
こちらもついつり出されて銃を構えてしまう。
しまったと思って、

「じゃ命があったらまた会おう」

と言って回れ右して、僕は自分が行こうと思っていた
道を行くのですが、背中を見せるわけだから、
そこで撃たれたら死んでいました。

だから僕らの場合は議論をするにも命がけでした。

いずれにしても、頭がしっかり働かなくなると
正しい状況判断ができなくなる。


         * *


よく孤独感はなかったかと聞かれましたが、
僕は孤独なんていうことはないと思っていました。
22歳で島に入りましたが、持っている知識が
そもそもいろいろな人から授かったものです。

すでに大きな恩恵があって生きているのだから、
決して一人で生きているわけではないのです。

一人になったからといって昔を懐かしんでは、
かえって気がめいるだけですから、
一人の利点、それを考えればいいんです。

一人のほうがこういう利点があるんだと、

それをフルに発揮するように考えていれば、
昔を懐かしんでいる暇もなかったです。

byちち

日別画面へコメントする

08月28日(水)

起床時刻:04時54分

未だ名前がありません

期待度120%で挑むも、大ハズレ。
モノホンとは格段の違い。

それなのに、それなのに、、もたない。。
特訓用にしばらく使う よ。

日別画面へコメントする

08月27日(火)

起床時刻:05時30分

08月26日(月)

起床時刻:04時35分



     「人間は性情の良し悪し」

          『安岡正篤 一日一言』

情緒の潤滑油が乏しいせいで、
知性も軋(きし)んで円通しない。

この頃は話のわからぬ人間がふえたようである。

しがない者はしばらく置いて、
ちゃんとした指導的立場にある知識人であって、
とんとわけのわからぬ者が少くない。

もっともマキャベリがすでに指摘しているが、
人の頭には三通りある。

その一は、自分ではっきり考の立つもの、

その二は、他人の考がよくわかるもの、

その三は、自分の考もなく、他人の考もわからぬもの。


他の所で、彼は又、どうせねばならぬかを
自ら知る者は上の人、
次は、他人の善い勧告を用いる人、
最下は、自ら人に忠告するすべも知らず、
又人の忠告にも従わぬ人間であることを挙げて説いている。

頭の良し悪しというが、
それよりも根本的に大切なことは、
やはり性情の良し悪しである。

我執の無い、よく人と打融けあえる
性情の人は自然に頭が良く、
自分自身知見が立たずとも、
賢者の意見を能く判断して用いることができるから、
なまじい私見が立つより、
もっと頭の良いことにもなるのである。

byちち

日別画面へコメントする

08月25日

起床時刻:06時35分

     「泥棒と悪口と、どちらが悪いか」

              三浦綾子(作家)

これは時折、講演で話すんですが、

「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」。

私の教会の牧師は

「悪口のほうが罪が深い」と言われました。

大事にしていたものや、高価なものを取られても、
生活を根底から覆されるような被害でない限り、
いつかは忘れます。

少しは傷つくかもしれませんが、泥棒に入られたために
自殺した話はあまり聞かない。

だけど、人に悪口を言われて死んだ老人の話や
少年少女の話は、時折、聞きます。

「うちのおばあさんたら、食いしんぼうで、あんな年をしてても
 三杯も食べるのよ」と陰で言った嫁の悪口に憤慨し、
 その後一切、食べ物を拒否して死んだ、という話があります。

 それと、精神薄弱児の三割は妊婦が三か月以内に
 強烈なショックを受けた時に
生まれる確率が高いと聞いたことがありますが、
 ある妻は小姑(こじゅうと)に夫の独身時代の素行を聞き、
さらに現在愛人のいることを知らされた。

 それは幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、
そういうことを言ったのです。

この小姑の話にちょうど妊娠したばかりの妻は
大きなショックを受け、
生まれたのは精神薄弱児だったそうです。

恐ろしい話です。
私たちの何気なく言う悪口は人を死に追いやり、
生まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。
泥棒のような単純な罪とは違うんです。
 
それなのに、私たちはいとも楽しげに人の悪口を言い、
また、聞いています。
そしてああきょうは楽しかった、と帰っていく。
人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性(さが)です。
 
もし自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、
怒ったり、くやしがったり、泣いたりする。
自分の陰口をきいた人を憎み、顔を合わせても口を
きかなくなるのではないでしょうか。 

自分がそれほど腹が立つことなら、
他の人も同様に腹が立つはずです。

そのはずなのに、それほど人を傷つける噂話を
いとも楽しげに語る。

私たちは自分を罪人だとは思っていない。
罪深いなどと考えたりしない。

「私は、人さまに指一本さされることもしていません」。

私たちはたいていそう思っています。

それは私たちは常に、
二つの尺度を持っているからです。

「人のすることは大変悪い」
「自分のすることはそう悪くない」。

自分の過失を咎(とが)める尺度と、
自分以外の人の過失を咎める尺度とはまったく違うのです。
 
一つの例を言いますとね、ある人の隣家の妻が生命保険の
セールスマンと浮気をした。彼女は、
「いやらしい。さかりのついた猫みたい」
 と眉をひそめ、その隣家の夫に同情した。

 何年か後に彼女もまた他の男と通じてしまった。
だが彼女は言った。

 「私、生まれて初めて、素晴らしい恋愛をしたの。
恋愛って美しいものねぇ」

 私たちはこの人を笑うことはできません。

 私たちは自分の罪が分からないということでは、
この人とまったく同じだと思います。

byちち

20年ぶりの結石に転げまわる(ほどではなかった)
自分ではどうにもならず #7119するも
お診立士が混んでいて20分待ちを告げられる┓(´_`)┏

痛くて動けないので、近くの救急病院を紹介してもらったのは助かった。

朝の5時やっと痛みが引いてうとうとしたら、とっとと追い出された(^o^)丿

大病院よりも迅速でベテランの医師がいてくれて本当に助かった。

日別画面へコメントする

08月24日

起床時刻:05時02分

     「人物をみる八観法」

  
          『安岡正篤 一日一言』

=============================================
一、通ずれば其(そ)の礼する所を観る
=============================================

すらすらうまく行き出した時に、
  どういうものを尊重するかを観る。


=============================================
一、貴(たか)ければ其の進むる所を観る
=============================================

地位が上がるにつれ、
其の登用する人間を見て人物が分かる。


=============================================
一、富めば其の養う所を観る
=============================================

金ができると何を養い出すか。


=============================================
一、聴けば其の行う所を観る  
=============================================

善いことを聞いたら、
それを実行するかどうかを観る。


=============================================
一、習えば其の言う所を観る
=============================================

習熟すればその人間の言うところを観る。


=============================================
一、止(いた)れば其の好む所を観る
=============================================

この「止」は板につくという意味。
一人前に仕事ができるようになると、何を好むか。


=============================================
一、窮すれば其の受けざる所を観る
=============================================

貧乏したときに何を受けないかを観る。


=============================================
一、賤なれば其の為さざる所を観る
=============================================

人間落ちぶれると何をするかわからない。
だから為さない所を観る。

byちち

日別画面へコメントする

08月23日(金)

起床時刻:04時18分


 4000本安打達成 「イチロー選手の目標設定術」

                      奥村幸治

オリックスで打撃投手を務めていた頃、不調に陥った選手に

「投げましょうか?」

と声を掛けると、ほとんどの場合、

「頼む」

と答えが返ってきた。
練習することによって、少しでも不安を取り除きたいと
思うのが人情というものだろう。

そんな中、私の申し出に一人だけ首を振った選手がいた。
当時20歳だったイチロー選手である。

試合後にその理由を尋ねてみたところ、彼は


「僕はこんな心境で試合に臨みたいんです」


と言う。


「どんなに好きな野球でも、毎日続けていると、
 もう疲れた、きょうは嫌だなと思う時ってないですか? 

 そうなっては、自分の能力って
 絶対に発揮できないですよ。
 バットが持ちたくて持ちたくてしょうがない。
 そういう心境で、僕は試合に臨みたいんです」


そして彼はこう後を続けた。


「初めてお父さんとキャッチボールした時、
 どんな気持ちになりましたか? 
 またやりたいなと思ったでしょ。

 その気持ちなんですよ。

 そういう気持ちが自分でしっかりつくれれば、
 絶対に技術って向上していくと思いますよ」


イチロー選手のプロ入り3年目の年、
彼の専属打撃投手となった私は、
寮生活で1年間寝食をともにし、多くのことを教わった。


彼と初めて出会ったのは、
私が20歳、彼が19歳の時だった。


初めてそのバッティングを見た時、
年下にこんなに凄い選手がいるのかと舌を巻いたが、
最も驚いたのは、彼が一軍に上がってきてからのことだった。

キャンプ期間中、二軍でプレーしていたイチロー選手は、
夕方に練習を終えると、早々に眠りに就いた。

そして皆が寝静まる深夜にこっそり部屋を出ると、
室内練習場で数時間の特打ちをするのを日課としていた。

ところがシーズンが始まり、一軍入りを果たした彼は、
全くと言ってよいほど練習をしなくなってしまったのである。


不思議に思って尋ねてみたところ


「体が疲れ過ぎるとバットが振れなくなるから」


とのことだった。

一軍でまだ何の実績もない選手が、
自分のいまやるべきことは
何かをちゃんと理解して行動している。

私の知り合いにもプロ入りした者が数名いたが、
彼の取る行動や言葉のすべては、他とは一線を画すものだった。


例えばこんな調子である。


「奥村さん。“目標”って高くし過ぎると
 絶対にダメなんですよね。

 必死に頑張っても、その目標に
 届かなければどうなりますか?
 諦めたり、挫折感を味わうでしょう。


 それは、目標の設定ミスなんです。


 頑張れば何とか手が届くところに
 目標を設定すればずっと諦めないでいられる。
 そういう設定の仕方が一番大事だと僕は思います」


二軍時代のイチロー選手は、
マシン相手に数時間の打撃練習をしていたが、
普通の選手に同じことをやれと言っても、
それだけの時間、集中してスイングすることはできない。

それがなぜ彼には可能なのかといえば、
私はこの「目標設定の仕方」にあるのではないかという気がする。

イチロー選手には自分にとっての明確な目標があり、
その日にクリアしなければならない課題がある。

その手応えをしっかりと自分で掴むまで、
時間には関係なくやり続けるという練習のスタイルなのだ。


私が彼の基盤として考えるもう一つの要素は、
継続する力、つまりルーティンを
いかに大切にしているかということである。


ある時、イチロー選手にこんな質問をしたことがあった。


「いままでに、これだけはやったな、
と言える練習はある?」


彼の答えはこうだった。


「僕は高校生活の3年間、1日にたった10分ですが、
寝る前に必ず素振りをしました。

 その10分の素振りを1年365日、3年間続けました。
 これが誰よりもやった練習です」


私は現在、少年野球チームの監督を務めているが、
それと比して考えてみると、
彼の資質がいかに特異なものであるかがよく分かる。

例えば野球の上手な子にアドバイスをすると
何をやってもすぐできるようになる。
下手な子はなかなか思うようにいかない。

ところが、できるようになったうまい子が、
いつの間にかその練習をやめてしまうのに対し、
下手な子は粘り強くそれを続け、いつかはできるようになる。

そして継続することの大切さを知っている彼らは、
できるようになった後もなお練習を続けるため、
結局は前者よりも力をつけることが多いのである。

その点、イチロー選手は卓越したセンスを持ちながらも、
野球の下手な子と同じようなメンタリティを持ち、
ひたすら継続を重ねる。

私はこれこそが、
彼の最大の力になっている源ではないかと思う。

2000年に結成した私の少年野球チームは、
当時9名の部員だったが、現在100名を越える数になり、
その中から多くの甲子園球児が生まれていった。

現在、プロで活躍している田中将大投手もその一人である。


彼らには自分がイチロー選手から学んだことを折に触れては話し、
野球に取り組む姿勢としてそれを生かしてほしいと伝えてきた。

自分で目標を持ち、それに向けての継続を怠らなければ、
必ず次の段階へと自分を押し上げていくことができる。

そしてそれは、人生を生き抜く力にも繋がっていることを、
野球を通して伝えていければと考えている。

byちち

日別画面へコメントする

08月22日(木)

起床時刻:03時30分


【真皮な唇】

効いてるような 効かないような。。
長引きそうだ!

真皮は感度良好。空気に触れてもヒリヒリ。

IP細胞でも 欲しいヨ

日別画面へコメントする

08月21日(水)

起床時刻:06時44分

08月20日(火)

起床時刻:04時10分

08月19日(月)

起床時刻:04時53分

ヘルペス1ケ月目
二週間のはずがとんだ事に。

ベタセレミ (抗アレルギー薬)、越婢加朮湯(湿疹痛み)、フルオシノロンア(軟膏)

日別画面へコメントする

08月18日

起床時刻:05時53分

08月17日

起床時刻:04時53分

         「闘病15年、5000日。
         病を見つめながら自らを練った」


常岡一郎、と聞いても知る人は多くないだろう。

明治三十二(一八九九)年、福岡県生まれ。

少年期から頭脳明晰、正義感が強く、
慶應義塾大学予科一年の時には
島崎藤村らを招いて講演会を開催、
自らその前座を務めるといった
才気煥発な青春時代を送った。

議論をすればたちまち相手を論破。
カミソリと渾名(あだな)されたという。

この人の人生に暗雲が立ちこめたのは大学卒業目前。
肺結核で倒れたのである。

一転して病床に伏す身となり、
近寄ってくる者はいなくなり、
孤独を嘆く日々を過ごすことになった。


そんなある日、一人の見舞客が訪れ、常岡に言った。


「比叡山も高野山ももとは誰も住まない田舎だった。
 そこに徳の高い人が住み、人々が集う所となった。

 あなたは人々が群れる東京という都会に住んでいるが、
 周りに誰も寄ってこない田舎だ。

 そんな人間でどうする。

 徳を積んで病気と縁を切りなさい」

このひと言に常岡は奮起、
大学を中退し修養生活に身を投じる決心をした。

柳行李にトイレの掃除道具を入れ、
各地を回って奉仕作業を始めたのである。

常岡は言う。

「闘病十五年、五千日。
 病を見つめながら自らを練った。

 病を治すことをやめ、病で自分の性格を直すことに
 全心全力を尽くし、九死に一生の中から心魂を練ってきた」

ついに病を克服した常岡は昭和十(一九三五)年、
修養団体・中心社を立ち上げ、月刊誌『中心』を発行、
講演に人生相談に全国を行脚、
九十歳まで人としての道を説き続けた。

すべてを人のために使い切り、出し切った人生だった。

byちち

日別画面へコメントする

08月16日(金)

起床時刻:04時53分

      「江崎グリコと松下幸之助氏の感動秘話」

         城島慶次郎(サンパウロ学生会名誉会長)


忘れ得ぬ人──なんといっても第一等は、
松下幸之助さんを措いて他はいない。

ブラジルで貿易商杜を経営、
また、在住の日本人会のことで、
政治家、外交官といった人々にも深い感銘を得たが、
松下さんから受けた印象は格別のものがあった。

「商売は必ず成功するものだ」

「経営は総合芸術である」

「一日一回しゃくに障る。
 これが肝心で、長生きする秘けつは適当に心配すること」。
 
独特のいい回しで数多くの語録を残す。
もう三十年近くも前になろうか、
京都・南禅寺にある別邸、真々庵(しんしんあん)に
私は松下幸之助さんを訪ねた。

ブラジルで松下製品を売り拡めたいから、
代理店にしてほしいというのが、私の願いだった。

実はその二年前、ブラジル4H協会の会長として、
当時、日本4H協会会長の松下さんに、東京でお目にかかっていた。
ブラジル日系青少年の人づくりのため、援助を仰いだのだ。

これで「松下幸之助賞」を設定したのだった──。

その真々庵は、庭に囲まれたしっとりした感じの住まいで、
会長室に通された。来意を告げると、松下さんの対応は早かった。

即座にデスクに設置されたホットラインを使って、

「いま城島さんがここに見えて、
ブラジル代理店にしてほしい、といっておられる。
城島さんからお話を聞いて善処してほしい」
 
と伝えた電話の相手は、松下電器貿易の社長であった。
このとき私は松下さんの温情をしみじみ感じた。

その後、訪問のたびに松下さんに挨拶にうかがった。

そんなある時、ブラジルのインフレが話題になって、

「今年は三十%を上回るでしょう」

と私がいった時、松下さんがびっくりされたことを思い出す。
次の日、日本経済新聞の社説に
この話が取り上げられていたのには、
こちらが驚かされた。

こんな松下さんを語るのに、
私の大好きなエピソードがある。

江崎グリコの創業者・江崎利一さんは、
松下さんよりちょうど一まわり上の
同じ午年(うまどし)である。

昭和十年頃、大阪に出てきてグリコを売り出すとともに、
広告を朝日新聞と毎日新聞に出した。

そうしたら朝日の広告部が、
熱海にスポンサーを招待したことがある。
そのときに、たまたま同席したのが松下さんであった。

お互いに業種は違っても、事業に対する信念、精神には
相通ずるものが多く、どちらも裸一貫から事業を興した
境遇が似ているせいか、非常に尊敬の念を覚え、
かつ意気投合したものである。

そして時折会って話を交わそうではないかということになった。
二人とも一文無しから商売をはじめたのだから
「文なし会」といつとはなしに名付けられた。

江崎さんは戦後間もなく長男をなくした。
あとを継がせるべく専務として育成中のことで、
江崎さんは失望落胆した。

すでに七十歳近くになり、孫はまだ幼い。
親類の人たちは

「もうこれ以上、事業は広めるべきではない。
 大阪だけでこぢんまり縮小した方がいい」
 
と忠告し、そうするようにすすめた。
どうしたものだろう、江崎さんは決断がしにくいので
松下さんに相談した。

このくだりは江崎さんの『商道ひとすじの記』に
感動的に書かれている。

「すると松下さんは

『江崎さん、今さら何をいうのか。
 ここまで営々と築きあげたグリコは
 もうあんた一人のものではない。

 日本のグリコだ。
 
 やりなさい。親類がどういおうとやりなさい。
 あんたがこれだけ広げたことはたいしたことだ。
 もう息子さんのことでくよくよしなさんな。

 よし私があんたのところの重役になろう。
 なんでも相談に乗ろう。
 
 あんたが死んで、あとうまくいかんようやったら、
 私がうちの若い者を引っぱってきて応援する。
 
 お孫さんのことは引き受けたから、
 あんたはいままで通り積極的にやってほしい。
 いやいっしょにやろうじゃないですか』
 
そういって力強く励まし、私の肩をゆさぶってくれた。
さすがの私も、このときばかりはなすすべもなく、
ただ男泣きに泣いた。

松下さんの友情はほんとうにうれしかった。
持つべきものはほんとうの友人だということを、
しみじみ感じた。

感動にうちふるえながら
私は松下さんのいうように長男の死を乗り越え、
事業の鬼になることを心に誓ったのである」

松下さんは、江崎さんの孫の勝久さん(現・江崎グリコ社長)が
大学を卒業したとき、

「はじめから江崎グリコに入れると甘やかされるから
 一人前になるまでうちで鍛えてやる」
 
 
と、三年間預かって鍛えた。

また江崎グリコが株を公開すると、
さっそく株をもって、死ぬまで重役として応援しつづけた。

江崎さんと松下さんの交友は深く、友情というより、
切っても切れぬ人間的なつながりになっていた。

松下さんを盟友にもったことは、私の誇りであり、
心の財産だと、話されたこともある。

たかが子供の十銭菓子からグリコ王国を、
電気ソケットから世界一の家電王国を築いて
悔いなき生涯を終えたふたりは今、
あの世で熱海の湯につかりながら、
あれこれ話がはずんでいることだろう。

おふたりに受けた有形無形の深い感銘が温かく甦ってくる。

byちち

日別画面へコメントする

08月15日(木)

起床時刻:04時53分



      「若者よ、君たちが生きる今日という日は
       死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」


         八杉康夫(戦艦大和語り部)


大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。

なおも攻撃が続けられ、
魚雷が的中した時は震度5にも
感じられるほど激しく揺れました。

次第に船は傾いていきます。

砲術学校では、戦艦は15度傾いたら
限界と習ってきましたが、
25度、30度とどんどん傾いていきます。

それでも、戦闘中は命令がない限り 
持ち場を離れることはできません。

その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
これが事実上「逃げろ」という意味です。

すでに大和は50度ほど傾いていましたが、
この時初めて、
「大和は沈没するのか」と思いました。
それまでは本当に
「不沈戦艦」だと思っていたのです。

もう海に飛び込むしかない。
そう思った時、
衝撃的な光景を目の当たりにしました。

私が仕えていた少尉が
日本刀を抜いたかと思うと、
自分の腹を掻っ捌いたのです。

噴き出す鮮血を前に、
私は凍り付いてしまいました。

船はますます傾斜が
きつくなっていきました。
90度近く傾いた時、
私はようやく海へ飛び込みました。

 
***************************************

飛び込んだのも束の間、
沈む大和が生み出す
渦の中へ巻き込まれてしまいました。

その時、私の頭に過ったのは
海軍で教わった
「生きるための数々の方策」です。

海軍に入ってからというもの、
私たちが教わったのは、
ひたすら「生きる」ことでした。

海で溺れた時、
どうしても苦しかったら水を飲め。
漂流した時は体力を消耗してしまうから

泳いではならない……。

陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では

「お国のために死ね、
 天皇陛下のために死ね」などと
 言われたことは一度もありません。

ひたすら
「生きること、生き延びること」
を教わったのです。

だから、この時も海の渦に
巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。

しかし、どんどん巻き込まれ、
あまりの水圧と酸欠で
次第に意識が薄れていきます。

その時、ドーンという轟音とともに
オレンジ色の閃光が走りました。

戦艦大和が大爆破したのです。

そこで私の記憶はなくなりました。

***************************************

気づいたら私の体は
水面に浮き上がっていました。
幸運にも、爆発の衝撃で
水面に押し出されたようです。

しかし、一所懸命泳ぐものの、
次第に力尽きてきて、
重油まみれの海水を
飲み込んでしまいました。

「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
なんともいえない恥ずかしさが
込み上げてきました。

この期に及んで情けない、
誰にも聞かれてなければいいが……。
 
すると、すぐ後ろに
川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
「軍人らしく黙って死ね」
と怒られるのではないか。

そう思って身構える私に、
彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」
と言って、自分がつかまっていた丸太を押し出しました。

そして、なおもこう言ったのです。

「もう大丈夫だ。
 おまえは若いんだから、頑張って生きろ」

4時間に及ぶ地獄の漂流後、
駆逐艦が救助を始めると、
川崎高射長はそれに背を向けて、
大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。

高射長は大和を空から守る
最高責任者でした。

大和を守れなかったという思いから、
死を以て責任を取られたのでしょう。

高射長が私にくださったのは、
浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。

***************************************
 
昭和60年のことです。
いつもピアノの発表会などで
お会いしていた女性から
喫茶店に呼び出されました。

彼女は辺見さんが書かれた
『男たちの大和』を取り出し、こう言ったのです。

「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」

驚いたなんていうものじゃありません。

戦後、何とかして
お墓参りをしたいと思い、
厚生省など方々に問い合わせても
何の手がかりもなかったのに、
前から知っていたこの人が
高射長のお嬢さんだったなんて……。

念願叶って佐賀にある高射長の墓前に
手を合わせることができましたが、

墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。

その時私は50歳を超えていましたが、
自分が31歳だった時を思い返すと
ただただ恥ずかしい思いがしました。

そして、不思議なことに、
それまでの晴天が急に曇天となったかと思うと、
突然の雷雨となり、
まるで「17歳のあの日」が
巡ってきたかのようでした。
 
天皇も国家も関係ない、

自分の愛する福山を、
そして日本を守ろうと
憧れの戦艦大和へ乗った感動。

不沈戦艦といわれた大和の沈没、
原爆投下によって被爆者になる、
 
そして、敗戦。
 
そのすべてが17歳の時に
一気に起こったのです。

人として生きたなら、
その証を残さなければなりません。
大きくなくてもいいのです。
小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。

戦友たちは若くして戦艦大和と運命を
ともにしましたが、
いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を
与え続けています。

復員後、長く私の中に渦巻いていた
「生き残ってしまった」という罪悪感。
それはいま使命感へと変わりました。

私の一生は私だけの人生ではなく、
生きたくても生きられなかった
戦友たちの人生でもあるのです。
うかうかと老年を過ごし、
死んでいくわけにはいきません。

未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
真の日本人になってくれるよう
私は大和の真実を語り続け、
いつか再び戦友たちに会った時、
「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」
と胸を張りたいと思います。


byちち

日別画面へコメントする

08月14日(水)

起床時刻:06時23分



      「息子からの弔辞」

         井坂晃(ケミコート名誉会長)


 この夏の七月二十九日、弔問のため九十九里に赴いた。
 弔問客は四十人くらいであったが、
 私にとってこの葬式は、抑えがたい悲しみと感動が相俟って、
 心に強く焼き付いた。
 ・
 ・
 ・
 ・
 全員の焼香が終わると、
 進行係の人がマイクでボソリと「弔辞」とつぶやいた。

 名前は呼ばれなかったが、
 高校三年生で、サッカー部のキャプテンを務める故人の長男
 であることがすぐに分かった。
 

 彼はマイクを手にすると故人の遺影に一歩近づいた。

 「きのう……」。

 
言いかけて声を詰まらせ、
気を取り直してポツリと語り始めた。

 
「きのうサッカーの試合があった。見ていてくれたかなぁ」。

 
少し間をおいて、

 
「もちろん勝ったよ」。

 二十八日が葬式であったら、
彼は試合には出られなかった。

 司法解剖で日程が一日ずれたので出場できたのである。
悲しみに耐えて、父に対するせめてもの供養だとの思いが、
「もちろん勝ったよ」の言葉の中に込められていたように思えた。

「もう庭を掃除している姿も見られないんだね、
犬と散歩している姿も見られないんだね」

 後ろ姿は毅然としていた。
淋しさや悲しみをそのまま父に語りかけている。

「もうおいしい料理を作ってくれることも、
俺のベッドで眠り込んでいることも、もうないんだね……」

 あたかもそこにいる人に話すように、

「今度は八月二十七日に試合があるから、上から見ていてね」

 その場にいた弔問客は胸を詰まらせ、ハンカチで涙を拭っていた。

「小さい時キャッチボールをしたね。
ノックで五本捕れたら五百円とか、
十本捕れたら千円とか言っていたね。
 
二十歳になったら『一緒に酒を飲もう』って言ってたのに、
まだ三年半もある。

 クソ親父と思ったこともあったけど、大好きだった」

 涙声になりながらも、ひと言、ひと言、
ハッキリと父に語りかけていた。

「本当におつかれさま、ありがとう。
俺がそっちに行くまで待っててね。さようなら」


 息子の弔辞は終わった。


 父との再会を胸に、息子は逞しく生き抜くだろう。

byちち

日別画面へコメントする

08月07日(水)

起床時刻:03時07分

アルギニンはヘルペスウイルスの餌になる

栄養ドリンクなどには、幼少期や発育期では成長するために必要な準必須アミノ酸とされ、成人における健康的に身体を維持するための非必須アミノ酸であるアルギニンを含むものがある。

アルギニンには免疫力の強化や疲労回復を始め滋養強壮にすぐれたアミノ酸であることから精力剤やスポーツサプリメント良く含有されているのですが、実はアルギニンがヘルペスウィルスを活性化させることも分かっている。

アルギニンを含むアーモンドなどのナッツ類を多く食べたときにヘルペスが再発してしまった経験があるかたもいるのではないでしょうか?

チョコレートやナッツ類が大好きな私も食べ過ぎてしまった翌日あたりに唇がムズ痒くなった経験があります。発症まではしませんでしたが、今思えばあのいまいましい前兆だったように思います。

そういったことからヘルペスウイルスの増殖時にアルギニンを積極的に摂取することは避けるべきでしょう、かといって不足してしまってはただでさえ免疫力が低下しているときに追い打ちをかけてしまいかねません。

また極端に不足してしまうとアルギニン欠乏症などの危険性もありますのでアルギニンを全く取らないといったことは止めましょう。


ヘルペスの予防に有効的なリシンとは?
そこで必須アミノ酸のリシンが注目されています。アルギニンの摂取を止めるのではなく、アルギニンより多くリシンを摂取することでヘルペスの発生率を抑制させることが期待できます。メリーランド大学医療センターではヘルペスウィルス保持者が1日1250mg以上のリシンを飲むことで、ヘルペス発症の確率を減らすことができたことを実証しています。

リシン 》アルギニン
このことで分かるように疲労やストレスなどで免疫力の低下した身体にはいかにバランスの良い栄養を与えてあげるかが重要なのですね。

リシンは必須アミノ酸であるため対外摂取でしか補うことができません、かつお節や鶏肉、チーズなどに多く含まれるリシンですが、コラーゲンの生成をサポートする働きから美容目的で摂取を心がけている女性も多いそうですが、私はヘルペスの予防のためにドクターズチョイスのリシンプラスを利用しています。

日別画面へコメントする

08月06日(火)

起床時刻:04時53分

アラセナA(抗ウィルス剤)


   たねやのバイブル「末廣正統苑」

       山本徳次(たねや名誉会長)


「菓子づくりの前にまずは人づくりだ。その指針となるものを」
と言われました。

「それよりも大事なものがある。親父さんと商売をしてきた中で、
 何か言われたことがいっぱいあるやろう」

「刻(とき)は常に新し商人なれば
  新しき刻を新しき商ひ新しき福となして
   新しく使ふべきなり」

   とか、

「走る勿(なか)れ されど止(とどま)るは尚愚かなり 
  ただ歩めよと訓(さと)されし 我が先人の言を守りつつ
   今日も生活(くらし)を進めむ」

   とか。まさに商道の原理原則です。

 この「末廣正統苑」は和綴じにして社員必携とし、
 終業時には「八つの心」という実践訓を全員で唱和します。
 この言葉を毎日の商いの中でいかに形に示していくかが
 一番重要な部分です。


一つ 私は素直な心でいただらうか
二つ 私は人様の無事と倖せを祈る心を忘れはしなかったか
三つ 私は正直と敬ふ心を持っていただらうか
四つ 私は装ふ心を大切にしていただらうか
五つ 私は手塩にかける心を忘れてはいなかったか
六つ 私は感謝の心を持っていただらうか
七つ 私は親切の心を大切にしていただらうか
八つ 私は活き活きする前進の心を持っていただらうか

byちち

日別画面へコメントする

08月05日(月)

起床時刻:04時51分


▲楽天イーグルスの、マー君こと、田中投手が15連勝
昨年からの連勝も20連勝と、62年前の、大投手、故稲尾
さんに並んだ、

▲思い起こすと、7年前になりますが、
早稲田実業のハンカチ王子、斉藤君と決勝を
投げ合い、2日間の熱投、

▲その後、斉藤君は、早稲田大学へと進学、何回と無く優勝に導き
日本ハムに
 そして、今、高校、大学時代の 酷使がたたったので
しょうか
肩を痛め、2軍生活を余儀なくされています。

▲マー君は、おそらく今年末には、
大リーグ挑戦となるのでしょう
二人のライバル、現在、差が付きましたが
 大丈夫です、

▲斉藤君、現在まで、野球では負けていますが
 人生に負けた訳では有りません。
 勝負は、これからですし、勝負する必要も有りません。
  人生に勝つ負けは、有りません、
自分の質力の範囲内で、与えられた場所で
花を咲かせれば 良いのです。

▲ガンバレー斉藤佑樹君、
 自分との戦いは、これからです。 ひるむな
未だ、25歳ではありませんか、

by大坪

日別画面へコメントする

08月02日(金)

起床時刻:03時45分

口唇ヘルペス 14日目 痛みを伴い出血

日別画面へコメントする

08月01日(木)

起床時刻:01時45分


     「私の人生を救った言葉たち」

          長野安恒(声楽家)


これはいまになって分かることですが、
小学校六年で入院していた病院では、
治療ではなく、ただの実験台にされていました。

毎日毎日朝昼晩、ヨウ素剤を飲まされて、
基礎代謝と甲状腺へのヨウ素の集まり具合を測るだけでした。

私は消灯時間になるとトイレで必ず本を読んでいたのですが、
寝たら次の日、目が開かないんじゃないかと思って
夜寝るのが怖かったんです。
だから十二歳で、まだおねしょをしていました。

そうして一年が経った頃、
姉が東京・原宿の伊藤病院を紹介してくれて、
伊藤國彦先生に診てもらえれば治ると。

私は逃げるようにして入院先を後にし、
伊藤病院へ転がり込んだ。

そしてこの先生に診てもらったら治ると思った途端、
夜尿症がピタッと止まったんです。


人を生かしているものは肉体です。
医師は肉体の不具合を治してくれますが、
心のありようが物凄く大きく影響する。

絶望は死に至る病と言われますが、
実際にそのとおりなんです。

全くなんの希望もなかったところに一条の光が差した。
やがて手術は成功し、病気から解放されました。

そしてふっと振り返ると、地獄だと思っていた中に、
自分は多くの人に助けられて生きていたんだと気づいたんです。

入院中は小学五年生の食べ盛りで、
しかもお腹が空く病気ですから、
病院の食べ物だけじゃ到底足りないわけです。
お腹が空いてお腹が空いてしょうがない。

そんな中、昼三時頃になると、
いつもおやつをくれるおばさんがいたんです。

ただ本当に申し訳のないことに、
その方の名前も覚えていません。
病院の人だと思っていました。

けれど後になって、掃除に来ていたおばさんだと分かりました。

私は毎日その人を探し回っておやつをねだっていた。
いつも何かを用意していてくれましたよ。
ない時には「これでなんか買っておいで」と
お小遣いをくれたりしました。

いま思えば、そんな神様の使いのような人に
出会えていたんですね。


それから、先人たちが残してくれた言葉にも救われました。

石川啄木の歌に


「はづれまで一度ゆきたしと
  思ひゐし
 かの病院の長廊下かな。」


とありますが、病院の廊下って本当に長いんです。
なぜかと言えば、廊下の突き当たりから先へは、
病人は出ていくことができないから。
だからこの歌が身に染みて分かるんですよ。

他にも

「東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる」。

私のいた病院は海辺の崖の上に建っていて、
砂浜へ下りていける道があった。
私は朝ご飯を食べると、逃げるようにそこへ行くわけです。
一日ボーッと海鳥などを見ながら、
そんな歌やこんな歌を胸に浮かべていました。

若山牧水の歌やロングフェローの詩にも救われたものでした。

byちち

日別画面へコメントを読む(2)