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起床時刻推移グラフ

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10月31日(木)

起床時刻:05時30分



 ときに部下や周囲の不興を買うことがあったとしても、大義を表現するため

 に成すべきことを成す。そういう強い信念を持った人間でなければ、リーダ

 ーは務まりません。
 
 
                 (川上 哲治 元プロ野球選手・監督)


これは私の禅の師匠である梶浦逸外老師が、
私が監督になったときにはなむけの言葉としてくださったんです。

「あんたは、正力さんに信頼されて
 巨人軍の監督を命ぜられたのだから、
 一生懸命やらなければいかん。
 
 それがためには、
 後姿で率いるような監督になんなさいよ、
 面と向かって率いるというだけでは
 絶対、大きな働きはできませんよ」と。

──後姿で率いるというのは、
  何もいわなくても部下はリーダーの気持ちを
  知ってついてくるということでしょうかね。

そうですね。ただ、何もいわんというわけにはいきません。
こうやれ、こうすべきだということは教えていくし、
また辛いときに辛いことを要求しながら
やらせていくこともリーダーとしては大切です。

しかし、それだけではうまくいかないと思うんです。
やはり、お手本を示すといいますか、
監督、リーダーが自分の仕事を通じて
自分の要求していることを
自然にわからせるように持っていくことが大事です。

指導する立場にいるものは、
他人を指導できるだけの人間になるべく、
自分自身を鍛えていかないとね。

──やはり陣頭指揮といいますかね、
  自分が立派にならなければ人はついてこないですね。
  能力の点、体力の点、あらゆる点でね。

まったくです。部下の率い方には、教え、しつける面と、
自分が手本を示していく面とがあり、
これを併用して率いてこそ、
いい組織、勝ち抜くことのできる組織づくりが
できるんだと思います。

で、そのいずれの場合にも、
一番大事なのは誠意といいますか、
真心といいますか、
これを土台にしながらやっていくということでしょうね。
これは集団では大切なことですよ。

──結局、野球も力の強いやつが勝つのだと思いますが、
  ああいう野球の集団の力の強さというのは、
  どうですか。王とか長島みたいなのが
  一人か二人いるのがいいのか、
  集団が全員やる気になって一致団結するほうが強いのか……

これはもう一人二人の選手がおったってだめで、
そういう人たちの力を当てにしているようでは
決して大きな成績はでないと思いますね。

やっぱり、集団の力というのは、
みんながやろうとする目標達成のために、
本当に一心になってやるときにでます。

それで、これが一心になってやっているというと、
もう一つの力もひき出せると思います。
例えば、幸運という運を呼び込む、プラスアルファということです。
神仏の加護といってもいいと思いますけどね(笑)。

熱心に集中して、賭けていますと、
なにかしらん、そういう運というか、
幸運というか、神仏の加護というか、
そういうものがプラスアルファとして引き出せるという気がします。

byちち

数年前、お風呂場でお会いしました。
背中からも強い存在感が出ていて、ただならぬお方だと感じました。
我々と同じ風呂に入られるお人柄だったんですね。

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10月30日(水)

起床時刻:03時22分


 「人生は失敗があって当たり前。
          失敗のない人生は失敗だ」

     島根 佐藤忠吉(木次kitugi乳業創業者)


辛い時期を乗り越え
有機農業を確立できたのは、
一人ではなかったからだと思います。


親父も生粋の百姓ですけれども
折に触れ、いろいろなことを教えてくれました。


事業を始めた頃は、

「人間は1%の可能性があったらやれ。
 失敗したら出発点に戻ればいいがな。
 人生は失敗があって当たり前。
 失敗のない人生は失敗だ」

「体で覚えたことしか実現しない。
 頭で考えたことは正月の計画と一緒で駄目だ」

と励ましてくれました。

私が息子を亡くし火事で工場を失って
神頼みをしていた時には

「太陽は東から昇って西に沈む。
 深い谷があれば次に高い峰がある。
 私たちの人生はそういう循環の中にあるんだ」

ということに気づかせてくれたんです。

人生の節目節目でそういう言葉が私を支えてくれました。




片足は清流に、片足は濁流につけて歩む。
人間は不完全なものです。

この年になって思うのですが、
年を取るほど分からんことが多くなる。
若い頃は分かったつもりでいたことが、
本当は何も分かっていなかった
ということをしみじみと感じる。

生きている限り、
これでいいということはありませんが、
私はあの世に行く前、
目を閉じた時がその人の価値だと思っているんです。

死に顔にはその人の生きざますべてが表れます。
残された人生、農業の道を深めていきたいと思っています。

byちち


パスチャライズ牛乳=ワインの酸敗を防ぐ方法として考案した熱処理法を
適用した牛乳。

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10月29日(火)

起床時刻:04時26分


【二宮金次郎】

ちょうど田植えが終わった初夏でありました。

農民が、重労働が終わったと一息ついていたある日、
金次郎は大変な形相で村人全員にこう言ったのです。

「今年植えた米の苗、全部抜いてほしい」

彼はその日、ナスの漬け物を食べて驚愕したのです。
「秋ナスの味がする」と。

カレンダーではこれから夏が来るというのが常識であります。

ところが金次郎はいまが秋で、これから冬が来る、
つまり冷夏がやってくることを
ナスは伝えているのではないかと判断したのです。

そして寒さに弱い米から、稗などの
寒さに強い作物への植え替えを指導しました。

この年から、日本全国が地獄絵図になったと言われる
「天保の大飢饉」がやってきたのです。

しかし、金次郎がいた村では、
一人の餓死者も出しませんでした。
植え替えの結果、作物が実ったのです。

金次郎はこの事例を通して、
どんな環境の中でも必ず豊かさを手にして
生活できると実証してみせたわけです。

それは金次郎にしかできないのでは?
と思うかもしれません。

けれどもしそうであったなら、
六百もの村が再興することはなかったのです。

彼は村人一人ひとりが実践できるよう、
水車を使ってその方法を説明していきます。

水車と川の関係では、全然違う個性のもの同士が生かし合い、
さらにエネルギーが生み出されている。
金次郎はこれこそ理想的な現実の姿だと説きました。

皆さん、自分自身を水車、直面している現実を
川だと思ってください。

そこで重要なのは、どんな水車も思い切って
川に飛び込むところから回り始めるということです。
何が流れてこようとも、
頭から突っ込むことが始まりだというんです。

しかし、そのままでは水車は流されてしまいます。
水車にとってもう一つ大切なことは、
その場に踏みとどまり、
川とは逆向きに動くことであるわけです。

つまり彼は、私たちは現実に半分従い、
半分逆らって動けばいいと言うのです。

彼が言う「従う」とは相手を知ること、
さらには、どんな現実や相手でも、
覚悟を決めて受け入れることでありました。

そしてその上で大切なのは逆らうこと。
つまり現実に対して対策を立て、
実践することだというのです。
先ほどのナスの事例は、まさにこの通りでありました。

彼は冷夏をなくしたわけではありません。
ここは米のための土地だといったこだわりを捨て、
冷夏を生かす方法を考えたことで知恵が生まれたことが、
彼にとって最も大切なことでした。

そして彼が現実を知ることを重んじた背景には、
どんな現実も実りを生む力を持っているという
信念があったのです。

私たちは困難にぶつかった時
「自分って無力だなぁ」と思ってしまいがちです。

けれど金次郎は、一人として無力な人間はいない、
私たちが壁を越えられないのは、無力なのではなく
「無知」だからだと言い切ります。

彼は、実りを生み出すのは能力ではなく、
従い、逆らうことができるかどうかだと考えていたのです。

byちち

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10月28日(月)

起床時刻:03時35分



     「未来を載せてエコトラックが走る」

       池田治子(エコトラック社長)

「これ、ええなぁ。二十一世紀の運送会社は
こういう車を使っていかなあかん」

夫が経営する大阪の運送会社に勤めていた私が、
環境に優しい“天然ガストラック”に
初めて出会ったのは一九九八年、
地元の地域行事に参加した時のことでした。

守口市とガス会社の共同ブースで
「排ガスがクリーン」だと紹介されていたのです。

アトピーに苦しむ娘を助けたいと調べていた医学書の中で、
車の排ガスと皮膚病の関連を指摘する報告を見つけ、
ディーゼルトラックの性能に疑問を抱き始めていた頃でした。

排ガスは真っ黒で人体に有害というのが当時の認識です。
天然ガス車との出合いは、
まさに“青天の霹靂”ともいうべき衝撃的なものでした。

すぐに夫の会社で二台リース購入し、
実際に排ガスを出すなど実験を敢行。

すると確かに黒煙も臭いもないのです。
「これ使える。もっと普及させなあかん」。
そう確信した瞬間でした。


しかし、同業者に勧めてみても
「環境では飯は食えない」とつれない返事ばかり。
九〇年代には、まだエコ=コスト高との先入観が根強くありました。

しかし、娘、ひいては次代の子供たちのためにも諦め切れません。


「将来天然ガス車は絶対必要になる。
 低公害車百%の運送会社をつくり、
 業績を上げれば、皆振り向いてくれるはずや」


そう決心し、夫の援助のもと「エコトラック」という
会社を立ち上げたのは一九九九年。
トラック五台からの、まさに手探りでのスタートでした。

天然ガス車にとって最も重要なのは燃料補給の問題です。
周囲からも不安視する声が多くありました。

しかし、幸いにも営業エリア内に
いくつか充填(じゅうてん)所が設置されていることが分かり、
この地の利が起業を後押ししてくれたのです。

そして、車両メーカー、ガス会社、行政の三者と連携を図り、
綿密な運行計画を立てていきました。

「長距離を走行できないのでは?」との声が上がれば、
実際に神奈川─大阪間をデモ走行してみせる、
環境イベントに車両提供の依頼があれば手弁当でも引き受ける。

その際に徹底したのは、「天然ガス車を普及させたい」という
創業理念から絶対にぶれないことでした。

つまり「儲かるかどうか」ではなく、
「低公害車の普及にプラスかどうか」を
唯一の行動指針として貫いたのです。

そのような損得抜きの取り組みを地道に積み重ねていくことで、
本気さが伝わっていったのかもしれません。
結果的に周囲の信頼が得られ、
大きな荷主さんが付いてくれるようにもなりました。

そして、「地球環境保全」という理念を掲げることで、
私たちの情報提供をもとにメーカーが車両改善に取り組めば、
ガス会社が充填所の営業時間などを見直す、
さらに行政も補助金制度などを整えていくというように、
異業種同士が垣根を越えて協力し合う体制が
少しずつ生まれていったのです。

また私は環境への取り組みとともに、雇用をつくり
従業員の自己研鑽を応援することにも情熱を傾けていきました。

そこには少子高齢化のため将来運送業を支える人材が
いなくなってしまうという事情もあります。

しかし何よりも、私には会社を支えているのは社長ではなく、
一人ひとりの従業員だという思いがありました。
トラック運転手はしんどい仕事です。

暑い日も寒い日も重い荷物を積んでは降ろす……。
その姿に私は心からの敬愛の念を抱くのです。

そんな彼らに報いるためにも、子育てをした経験を生かし、
資格試験の補助制度、女性の役員への抜擢、
若手の幹部登用など、皆が自己実現できる
環境づくりに苦心してきました。

当社に来られた方は皆口を揃えて
「あなたの社員はいつも笑顔で楽しそうですね」
と言ってくださいます。

お互いが認め合い切磋琢磨する社風もまた、
創業期からの成長を支えてくれたのだと感じています。

しかし、会社が順調に伸びていた最中の二〇〇三年、
突然経営危機に見舞われたことがありました。
最大の取引先だった家電販売店が
なんの前触れもなく倒産したのです。


衝撃でした。

すぐに家電以外の異業種へも必死に声を掛けて回り、
荷主の多様化を図りましたが、
それだけではとても危機を乗り切ることはできません。

焦りが募っていく中、この難局を救ってくれたのも、
やはり社員たちでした。

慣れた仕事以外のことをするのは
誰しも抵抗があるものですが、多くの社員が
「自分が会社の危機を救うことができるなら」と、
それまで扱ったことのなかった荷物の配達や
取り付け業務への現場移動に応じてくれたのです。

社員一人ひとりの粘り強い努力が強い結束力で一つとなり、
エコトラックは存続することができたのです。

十四年前、五台のトラックから始まった当社ですが、
いまでは従業員八十名、保有する低公害車は七十五台を数え、
年商も六億円にまで成長しています。

「私たちの会社が潰れたら、やっぱり天然ガス車なんて
 あかんって言われてしまう。この事業は絶対成功させたる」

との強い思いでこの十四年間、無我夢中で走り続けてきました。

しかし、天然ガス車の知名度はまだまだ低いのが現状です。
これからもエコトラックの活動を通じ
子供たちが安心できる未来を残していきたい。
そう心から願っています。

byちち

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10月27日

起床時刻:04時36分

10月26日

起床時刻:08時36分

10月25日(金)

起床時刻:05時36分

10月24日(木)

起床時刻:04時00分



三越伊勢丹ホールディングス社長の大西洋氏と、公認会計士で、霞エンパワー
メント研究所代表の早川吉春氏の対談「絶対の競争を追求する」。


      「“戦争型競争”から“恋愛型競争”へ」

         早川吉春(公認会計士・霞エンパワーメント研究所代表)
 

私の考える価値創造というのは、単に商品やサービスを生み出すことではなく、
社会的価値や文化的価値を含むより深いものです。

そして価値創造企業には数値化できない企業文化や脈々とした遺伝子が存在し、
その原点に常に顧客に対する価値創造があります。

競合他社との比較における相対価値ではなく、絶対価値の創造と深化こそが
企業の持続的発展に繋がると私は考えるのです。


価値とは創造しようと思っても創造できるものではなく、絶対的なものを追求し
続けるうちに実現できたり、また、そのものや考え方は変わらないのに、
時代や環境が変わることで新たな価値が加わったりするものだと私は考えます。

ですから真に価値を創造するためには、常に絶対的なものを追求し続ける姿勢を
維持することが大切だと思います。

これからの企業と経営リーダーには、「絶対の競争」への視座が必要なのです。

法政大学の嶋口充輝先生はこうおっしゃっています。

競争概念については、ライバルをいかに叩いて相手のシェアを奪うかという
陣取り合戦的な「戦争型競争」から、最終顧客にいかに喜んでもらえるかを
ライバルと競い合う「恋愛型競争」に移りつつある。

まさに競争が、創られた価値をライバル間で奪い合うスタイルから、
いかにより高い市場価値そのものを創造するかというスタイル、
つまり相対の競争から絶対の競争に向かって動き始めています、と。

byちち

永いお付き合いお取引を希望し、お願いするのであれば至極当然の
ことだと思われます。無言の信頼、心の通った関係ということでしょう。

弊社は創業以来「お客様に満足して頂くこと」を理念に掲げて活動
いたしております。

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10月22日(火)

起床時刻:04時14分



    「苦しみの日々、哀しみの日々」

       鈴木秀子(文学博士)


詩人・茨木のり子 作


苦しみの日々

哀しみの日々

それはひとを少しは深くするだろう

わずか五ミリぐらいではあろうけれど


さなかには心臓も凍結

息をするのさえ難しいほどだが なんとか通り抜けたとき 初めて気付く

あれは自らを養うに足る時間であったと


少しずつ 少しずつ深くなってゆけば

やがては解るようになるだろう

人の痛みも 柘榴(ざくろ)のような傷口も

わかったとてどうなるものでもないけれど

(わからないよりはいいだろう)


苦しみに負けて

哀しみにひしがれて

とげとげのサボテンと化してしまうのは

ごめんである


受けとめるしかない

折々のちいさな刺(とげ)や 病でさえも

はしゃぎや 浮かれのなかには

自己省察の要素は皆無なのだから


※せいさつ【省察】自分自身をかえりみて、そのよしあしを考えること。

byちち

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10月21日(月)

起床時刻:03時52分

10月17日(木)

起床時刻:03時00分

10月15日(火)

起床時刻:04時56分

10月11日(金)

起床時刻:04時05分

10月10日(木)

起床時刻:05時05分

10月09日(水)

起床時刻:02時58分

10月08日(火)

起床時刻:03時00分



       「“足なし禅師”と呼ばれた禅僧」

「足なし禅師」と呼ばれた禅僧がいた。

小沢道雄師。大正9年生まれ。幼年期、曹洞宗の専門道場で修行。
20歳で召集を受け満州へ。
昭和20年、25歳で敗戦。シベリアに抑留され強制労働。

だが、肩に受けた銃創が悪化し、
役立たずは不要とばかり無蓋(むがい)の貨車で
牡丹江の旧日本陸軍病院に後送される。

氷点下4、50度の酷寒に夏服のままで、
支給された食料は黒パン1個、飲み水もままならず、
3日間を費やした行程で死者が続出した。

小沢師は死こそ免れたが、両足が凍傷に侵された。


膝から切断しなければ助からない。

その手術の担当軍医は内科医で外科手術はそれが初めて。
麻酔薬もない。
メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、
小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。


想像を絶する激痛。

歯がギリギリ噛み合い、全身がギシッと軋(きし)んで硬直した。

すさまじい痛みは1か月余続いた。


8月に突然の帰国命令。
歩けない者は担架に担がれ、
牡丹江からハルビン、奉天を経てコロ島まで、
1,500kmを徒歩で行くことになった。

だが、出発して3日目の朝、
目を覚ますと周りには誰もいなかった。
満州の荒野に置き去りにされたのだ。

あらん限りの大声で叫んだ。

折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団に救われたのは、
僥倖というほかはなかった。

崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小沢師は、
福岡で再手術を受け、故郷相模原の病院に送られた。

母と弟が面会に来た。


「こんな体になって帰ってきました。
 いっそのこと死のうと思いましたが、
 帰ってきました」


言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、
小さく言った。

「よう帰ってきたなあ」

母と弟が帰ったあと、
小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。

懊悩の日は続いた。

気持ちはどうしても死に傾く。
その果てに湧き上がってきた思いがあった。

比べるから苦しむのだ。

比べる元は27年前に生まれたことにある。

27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。

両足切断の姿で今日生まれたのだ。


そうだ、本日たったいま誕生したのだ。


足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、
痛いまんま、足がないまんま、動けないまんま、
生まれてきたのだから、何も言うことなし。


本日ただいま誕生!


深い深い覚悟である。


一、微笑を絶やさない
一、人の話を素直に聞こう
一、親切にしよう   
一、絶対に怒らない


小沢師はこの4つを心に決め、
58年の生涯を貫いた。

命の炎を燃やして生き抜いた足なし禅師の人生だった。

byちち

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10月07日(月)

起床時刻:06時23分


     「ミャンマーへの報恩」

       今泉清詞(今泉記念ビルマ奨学会会長)


人間の運命とは実に不思議なものだと、
九十年の人生を振り返ってつくづく感じます。

大正十二年、新潟県の農家に生まれた私は
十八歳の時、兵役を志願しました。

次男坊だった私が分家を継ぐことが決まっていたために、
中学へも進学せず、「志願すれば早く除隊できる」
という親や親戚の勧めに従って入隊を決めたのでした。

ところが同じ年に太平洋戦争が始まり、
その話も断念せざるを得なくなります。

私はビルマ(現・ミャンマー)戦線に従軍し、
インパール作戦の準備に当たりました。

中学も出ていなかったため、一兵卒のままでしたが、
高等教育を受けた将校の大半が戦死したことを思うと、
学歴がなかったために命を救われたと言えるかもしれません。

また連隊本部から事務要員を出すよう命令があった時、
私の名が挙がりましたが、中隊長が
「今泉は俺の手元に置く」と却下し、他の兵が派遣されました。

ところがその兵士が不適格として中隊へと戻されてきます。

偶然にもその時、中隊長が不在だったため、
今度は私が事務兵として送り込まれたのでした。

元いた部隊が全滅したと知ったのは、その半月後のこと。
十万以上といわれる夥しい死者を出したインパール作戦でも、
何度も死線を彷徨いながら私は九死に一生を得ました。

やがて終戦となり、復員が決まって皆は大喜びでしたが、
自分だけがのうのうと帰るわけにはいかないと、
私は後ろ髪を引かれる思いでの帰国でした。

戦後は開拓営農として埼玉に移住し、
新たな一歩を踏み出しましたが、
当時は皆が生き抜くことに精いっぱいの状態。

日々の生活に追われ、亡き戦友たちのことを
ゆっくり考えられるようになったのは、
昭和四十年代に入ってからのことでした。

激戦地となったビルマには延べ三十二万人の兵隊が従軍し、
約十九万人が戦死したといわれています。

その中で生き残った戦友たちが皆、
口を揃えて言うのは
「ビルマだったから帰ってこられた」ということでした。

戦況が不利になると、日本軍が
どんどん現地の村へと逃亡していきます。

そんな時、ビルマの人は
「日本の兵隊さん、イギリス軍が隣の町に来ているから
 捕まっちゃうよ。早く家の寝台の下に隠れなさい」
と我われをかくまってくれただけでなく
食事までご馳走してくれたのです。

こんなことが知れれば、
間違いなく彼らの身にも危険が及んでしまう。
それを覚悟の上で我われのことを庇ってくれたのですが、
これと同じ体験をした兵士の例は枚挙に遑がありません。

戦友たちを弔うため、烈師団の有志約六十人でビルマを訪れ、
六か所の激戦地で慰霊祭を行ったのは昭和四十九年のこと。

出発時、私の脳裏に浮かんだのは、
ビルマの人たちは日本人のことを
なんと思っているのだろう、ということでした。

戦地では食糧や家畜を徴発し、
畑を踏み荒すなどの迷惑を掛けてきた。

我われが行けば反日デモでも起きてしまうんじゃないか……。

そうした不安もある中でしたが、
慰霊祭は大勢集まった地元民で、
黒山のような人だかり。

皆でともに礼拝を行った後は、
テーブルを出してきてミルクを沸かしてくれたり、
焼き鳥を焼いてくれたりと大変なもてなしようでした。

不思議に思った私は、
なぜこんなにも温かい歓迎をしてくれるのかと
尋ねてみました。

すると彼らは「当然だ」と言うのです。


「我われは子供の頃から、
“幸せの神は東から来る”と親から教えられてきた。
 その幸せの神とは日本人だった。

 あなた方は知らないかもしれないが、
 我われはイギリス軍に植民地化され、
 実に酷い目に遭わされてきた。

 その支配を日本軍が終わらせてくれたおかげで、
 やっと人間的な生活が送れるようになった。
 これが感謝せずにいられるか」


あぁ、彼らはそういう気持ちでいてくれたのか……と、
ほっと胸を撫で下ろすとともに、深い喜びが込み上げてきました。

そしてそんな想いを寄せてくれているビルマの人たちに、
なんとか恩返しをしたいものだと感じました。

何かよい方法はないものかといろいろ思案した結果、
国の将来を担う若者に教育を授けることが
一番よいのではないかと考えました。

戦友会の幹事にも協力してもらい、
財団の設立に向けて外務省へ三年間通い詰めました。

私の所有地の半分以上に当たる
三千坪の土地と基金二億円を銀行から借り入れて
財団をつくる構想でしたが、どうしても許可が下りません。

そこで、最終的に自分のポケットマネーから
年間一千万円程度拠出する計画で奨学会を設立し、
奨学生は関東圏内の大学に在籍する
ミャンマー人留学生を対象として、
多くの応募者の中から毎年十名選抜して二か年間、
毎月四万円返却不要の条件で支給いたしました。

ただし毎月支給日には
必ず本人が今泉宅へ受領に参りました。

その都度、私が人生訓話や情報交換を行ったため、
結果的に奨学金以上に効果が大きかったと感謝されています。

この活動は一九八九年から二〇〇九年までの二十年間続き、
奨学生の数は二百人近くになりました。


「金や物はいくら有ってもあの世へ持って行けない。
 欲は程々にして人に施し不滅の徳を遺そう──」


数年前、知人に請われて認めた処世訓の一節ですが、
卒寿を迎えられたことへの感謝の念を持ち、
亡き戦友の分まで精いっぱい生きたいと願っています。

byちち

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10月06日

起床時刻:04時00分

3656klab 2497ユナイテットでした、
今後の高値は、利食い場です

▲株式売買、心のやすまる日は無いのでは
それが投資のサガです。
知識は無いより、ある方が良いのですが、知識、情報が
有りすぎても、消化する事が出来ず、

▲それにしても、世界最大の経済、防衛全ての
面で1番のアメリカも、衰退国に入っています。
  世界1位の借金大国です、2番目が日本ですが、
 中国には、ほとんど借金は、有りません、

▲借金大国ですから、又、借用証書(国債)に頼り
借金の上塗りで、予算を組んでいます
お金のないことは、個人も国も、寂しいものです。

▲アメリカの、国債発行限度額の引き上げ
議会で承認されないと、支払い停止、米国債を
100兆円を持つ日本は、大変です
 が、心配、杞憂した所で、我々の力の及ぶものでも無し、

▲只、悪材料に目をつぶり、この際は、3ざるに
なりましょう、見ざる、聴かざる、語らず
そして、解決できない問題は、ないと信じて
買うことでしょうか

by大坪

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10月02日(水)

起床時刻:07時15分

      「“3つの健康”が揃って幸せを掴める」」

         秋山武雄(パイオニア工業会長)
 

来し方(きしかた、こしかた=過去)を辿れば、人生の節目に人や書物、
言葉との出会いがありました。

私には二十五歳の起業時から指示を仰げる人は誰もいません。
すべて一人で判断し結論を出し、
迷いを払拭しながら遂行しなくてはいけませんでした。

孤独との闘いの中、ご縁ある方の言葉や書物に
どれほど励まされたことか、私のみぞ知る深い感慨があります。

私は子供の頃、病弱で
大学進学も断念せざるを得ませんでした。

意気消沈する私を見かねたのか、父親がある時

「下関に俺の友人がいる。
 しばらく遊びに行ってきなさい」

と勧めてくれました。

真辺さんというその方は地域のリーダー的存在で、
約三か月の滞在中、折に触れて
人の生き方を教えてくださいました。

中でも
心の健康、体の健康、経済の健康。

この三つが揃ってこそ
人間は幸せを掴めるという話は、
進学がすべてという呪縛から解かれずにいた私の心に、
強烈に響きました。

「よし、いまに見ておれ。必ず成功してみせる」

私はこの決意で実社会に一歩を踏み出し、
苦難に遭うたびに、真辺さんの教えを口ずさんできました。

小さな木工所からの始まりでしたが、
1960年頃、戦場となったベトナムに向けて
門司港から輸出されるセメントの梱包を
一手に引き受けたことで事業は大きく飛躍しました。

実家が製材業でしたから、その端材を活用すれば、
材料費をかけずに梱包用の箱が製造できたのです。

その頃読んだ本に『浅野総一郎伝』があります。
この大経営者もまた“金なし、信用なし、のれんなし”
での創業でした。

コークスなどの廃物をセメント製造の燃料として
生かした浅野の姿が、廃材を梱包材として活用する自分と重なり、
勇気づけられたことを覚えています。

「負けてたまるか」というこの頃の意地が、
後のパイオニア工業という社名の由来です。

時代の流れを受けて木工製品からプラスチック製品に
事業を切り替えたのは昭和三十八年。

それまでガラス製だった海苔容器を
塩化ビニールにしたところ大ヒットしました。

だが、やがて塩ビ樹脂の安全性が社会問題となり、
当社も大変な危機に直面します。

大手成型業者が相次いで撤退する中、
塩ビに多額の設備投資をしていた当社は
引くに引けない状態でした。

しかし、まさにピンチはチャンスです。
基準を満たせば安全であることを
粘り強く取引先に訴え続け、大手が撤退した分、
塩ビ容器三十三%のシェアを広げることができたのです。

そのマーケットはそのまま、
後にペットボトルに進出した時の基盤になりました。

平成に入ると、取っ手付きペットボトルの開発に
日本で初めて成功。現在、焼酎や洗剤に用いられる
大型ボトルは全国トップシェアを誇り、
年商六十億円目前に迫るまで
成長を遂げることができました。

奇しくも今年は創立五十周年の年。
若い頃からの座右の銘

「万物、万象一元に帰す」

という言葉を深く噛みしめています。

いま一度、創業精神の「お客様こそすべて」に立ち返り、
百年企業を目指し、不易流行の社章のもと、
全社一丸となって前進し続ける覚悟でいます。

byちち

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10月01日(火)

起床時刻:05時08分

      「清、負けたらあかん」

         川辺清(五苑マルシングループ 代表)
 
 
子供の頃、病で左足が不自由になり、
貧乏ゆえにガリガリに痩せていた自分が、
よもや全国200店舗、3000人もの従業員を抱える
外食グループを一代で築き上げようなどとは
思いも寄りませんでした。

「清、負けたらあかん!」

この強烈な一念こそが、なんの力もない私を
ここまで突き動かした原点といえます。

靴の修理を生業としていた父親は
しばしば家族を伴い各地に赴いていましたが、
私は足手まといになると言われ
ずっと親戚の家に預けられて育ちました。

よそ者で足も不自由な私は
行く先々で虐めの対象となり、
小学3年の時に姉の嫁ぎ先で酷い虐待に遭い、
とうとう母に連れ戻されたのでした。

「堪忍やで、清。堪忍な……」

足を悪くした時、
そして親戚の家から連れ戻された時、
泣きながら私を抱きしめてくれた
母の温もりが私のすべてでした。

戻った家に父はおらず、
初めてまともに対面したのは
母が病で寝込んだ時でした。

父のところから
米をもらってきてほしいと頼まれ、
胸を躍らせて訪れた父の住まいには知らない女性がいました。


「おまえのような者は知らん」


思いもかけない言葉で追い返された私は、
帰路、涙を流しながら固く誓ったのでした。



あんな男に負けてたまるか。

俺は絶対あの男の上にいってやる。

そしてお母ちゃんを楽さしたる。

中学を出ると奈良の靴職人のもとへ奉公しました。

仕事は朝6時半から夜中の12時まで。
休みは月に2回のみでしたが、
早く一人前になりたい一心で懸命に働きました。

ところが2年経った頃、私は体を壊して
実家へ追い返されてしまいました。

結核でした。

俺は本当に駄目なやつだ。絶望した私は命を絶とうとして、
機関車に身を投げました。


ところが次の瞬間、私は傍らの草むらに倒れていたのです。

恐れに飛び退いたか、風圧に飛ばされたか、
ともかく私は生きていた。


ふと線路を見ると、ポケットから転がり出た5円玉が
身代わりに機関車に潰され、平べったくなっていました。




俺は5円玉や。


5円玉の輝きを見せてやる。




新たな決意に病魔も退き、
無事年季を全うした私は25歳で会社を創業。
以来、様々な困難を乗り越え、今日を築きました。

父は中学2年の時に亡くなりましたが、
その後も私は蟠(わだかま)りを抱え続けていました。

目を覚ましてくれたのは亡くなる前、
父と同じ墓に入れてほしいと言った母でした。


「お父さんは反面教師やったんや。
 憎い目標があったから、
 あんたここまでこられたんちゃうか?」


いまは二人のおかげで自分があると心の底から思えます。
この感謝の念と不屈の闘志を失うことなく、
私はこれからも夢とロマンを持って
事業に邁進してゆきます。

byちち

【日本酒の日】蔵

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