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起床時刻推移グラフ

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01月29日(水)

起床時刻:05時46分




「中村天風に学んだ心の力、言葉の力」
         
     
  沢井淳弘(京都産業大学名誉教授)



長年習慣化していた観念要素の更改、体操、呼吸法は
続けていましたが、お恥ずかしながら瞑想や誦句
(自己暗示のことば)は途中で止めていました。


50歳を過ぎるまで20年以上もやっていなかったんです。


天風先生の教えで万全な健康を取り戻し、
高校教師から大学教授まで教師として
順調に階段を上がっていったので、
慢心や油断のようなものがあったのかもしれませんね。


激しい腰痛を患って6か月間
休職を余儀なくされた時のことです。


病床でたまたま家内が持ってきてくれた
天風式瞑想のテープを聴きました。


過去に何回も聴いていた内容でしたが、
「あっ、瞑想とはこれなんだ」と腑に落ちました。


以前は分からなかった本当の瞑想を掴んだ、
という感覚を得たんです。


それから毎日瞑想を続ける中で、
自然と苦しみや不安が薄らいでいきました。


私の場合は、腰痛がなくなるというよりも、
瞑想を続けるうちに


「なんだ、こんな腰痛ぐらい」
「どうしても治らなきゃ教師を辞めるだけだ」


と開き直る気持ちが起こりました。


それから、本当の痛みも薄らいだように思います。


そして50代も後半に差し掛かった頃、
私はもう一つ、深刻な悩みを抱えるようになりました。


英語部長として大学の英語教育全体に
責任を持つ立場となったものの、トップとの意見が合わず
口論を繰り返すようになっていったのです。


最初は「負けるもんか」と張り合っていたんですが、
ある日突然、急性の鬱病になりましてね。


朝、起きたら何もやる気がしない。まるで登校拒否ですよ。


冷静に考えてみたら「たったそんなことくらい」
という話でしょう。


責任ある立場になれば、
誰だってトップと議論くらいするものですよ。


「俺はなんでこんなに弱くなったのか」と思いました。


その時思い出したのが天風先生の言葉でした。


「人生の大きな問題に直面して、
 自分の心の弱さを感じた時は、
 その時の気持ちと強かった時の気持ちを
 比較、検討するんだ」と。


以前に心が強かった時と、
いまはどこが違うのだろうかと考えた時、
そうだ!この頃は自己暗示の誦句を唱えていない、
と気づいたんです。


先生は心を鼓舞する自己暗示の誦句をつくっておられ、
若い頃の私はこれを唱えるのが日課でした。


例えば次のようなものです。


「……私はいま、私の生命の中に、
 新しい力と新しい元気とを感じる。
 私はいま、心も肉体も新生しつつある。
 同時に、私はいま、限りない喜びと
 輝く希望とに小躍りする。……」


「私は今後かりそめにも、
 わが舌に悪を語らせまい。
 否、一々わがことばに注意しよう。

 同時に今後私は、もはや自分の境遇や仕事を、
 消極的の言語や、悲観的の言語で、
 批判するようなことばは使うまい。

 終始、楽観と歓喜と、輝く希望と、
 溌溂たる勇気と、平和に満ちたことばでのみ生きよう」


私は再び誦句を唱えるようになり、
元気な時の感覚を呼び覚ましていきました。


悩みはなくなり、トップとの関係も
すこぶる円滑になりました。


いろいろな問題は思い方一つ。
先生の言う「人生は心一つの置きどころ」なんです。

byちち

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01月28日(火)

起床時刻:05時37分



     術前検査2回目

 「できる方法が見つかるまで考える」
         
     
  奥田透(銀座・小十店主)

2003年7月、
僕は念願だった東京・銀座に、
大ファンだった陶芸家・西岡小十先生の
名をいただいた「小十」を開きました。


カウンター6席と小さなお座敷がある
店でしたけれども、
銀座の中心部にあるし、
景気が悪いといっても
いまよりずっとよかったから、


普通に覗いてもらえるかな、
6席くらいは埋まるだろうな、
といった単純な望みみたいなものがありました。


でも何日経っても
お客さんが全然入らない。


考えてみたら、銀座って
そういうところじゃないんですね。


銀座に来るお客さんは
馴染みの所にしか行かないし、
紹介がないと新しい店に入ろうとはしない。


4000万円の借金をして始めた店も、
気がつくと運転資金が300万円を切っていました。
家賃と人件費、食材を入れたら
2か月ももたなくなっていたんです。


持ち家は担保に取られているし、
追加融資も断られる。


この時、支払いができないという事態に
初めて直面しました。
これは恐ろしいとかいう
次元の話ではありませんでしたね。


ちょうど長女が誕生したばかりでしたが、
感じるのは喜びよりもプレッシャーばかりでした。
その頃の僕はビルの屋上から
飛び降りることを本気で考えていたんです。


でも、「もう、これで終わりだ」と思った時に
ふとこういう思いが湧いてきたんです。


「来ていたお客さんがいなくなるとしたら、
 これは自分の責任だ。
 だけど、誰も来ていないのに
 いいか悪いかを判断するのは
 まだ早すぎるんじゃないか。
 駄目なら駄目で精いっぱいのことをやってみたらいい」


家内に率直にお金のことを話したところ、
へそくりの300万円を何も言わずに出してくれました。


ひとまず窮地はしのげたので、
次に業界誌に手紙を書いて、
新店案内欄に掲載してほしいと
お願いしたんです。


手紙を書いた10社のうち
1社が和食の特集を組んで、
うちを1ページでドーンと紹介してくれた。


それを見たお客さんがポツポツ出てきて、
今度はその雑誌を見た
別の雑誌社が特集に載せてくれて……
という流れができました。


1年後くらいには銀座で人気店の1つになって、
開店4年後の2007年には
ミシュランガイドで三つ星を獲得できたんです。 


僕は一度は死んだ人間なんです。
だからきっと神様が、

「そんなにやりたかったら、
 もう一度だけやってみたら」


と可能性を残してくれたのかなと考えています。


これまでの人生の中で、
店が失敗しそうになったり、
いろいろなことがたくさんあったわけだけれども、
いまここに、こうしていられるということは、
どこかで僕を必要としてくださる人がいたんです。


お客様がそうですし、
従業員もまたそうだった。


僕の場合は、スタッフに日頃から
「決して諦めるな」と言っているんです。


いまはできなくても諦めないでやり続ければ、
何事もできるというのが僕の考えです。


同じ課題でも1年後にできる人がいれば
2年後にやっとできる人もいる。


その間に優劣や順番がつくかもしれませんが、
それでも決して諦めないことです。

僕自身、自分の人生を通して
それを証明したいと思って、
ここまで歩いてきましたからね。

できない問題はできる方法が見つかるまで
考えるほかないんですね。

なんでできないのかとずーっと考えていると、
できる方法が一つか二つ、必ず見つかります。

大切なのはそれを形にしていくことです。
反対に「これでいいや」と妥協したり
諦めたりした瞬間に、
そういう思考回路に入ってしまうと思います。

byちち

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01月22日(水)

起床時刻:05時45分


 「全力を尽くしてやっていれば
     必ず神様が味方してくれる」
         

私にとっての大きな決断は
48歳の時のアメリカ行きでした。


私は元来、限りなく日本人なんです。
大和魂を持っている。


毎朝、明治神宮のほうを向いて、
「神様、学校に行ってまいります」と。
父からそういう教育を受けてきましたから。


でも、本当に日本が嫌になっちゃったんですね。
日本の学術会と大学はなんということだと。


臨床が重視されず、論文の数と人脈が
医師の評価基準とされる。
それで私は日本での仕事に限界を感じていたんです。


で、世界へ出ようと。
ただ、アメリカへ行って通用するかどうか
一切分からないわけですよ。


私はドイツへ2年間留学している時に、
ドイツ人と1回喧嘩したことがあるんですけどね、
議論の果てに彼がなんて言ったかというと、
「俺はドイツ人だ。だから俺が正しい」と。
日本人のくせに黙れってことですよね。


そういうことを平気で言う。
やっぱり欧米の人は人種偏見があるんですね。
そういう中で負けないためには実力を示すしかない。


他の人が治せないようなものを
スッと治して帰る。
もうこれしかないんですよ。


だから、不眠不休でやっていました。
部屋に日の丸の旗を貼って、
軍艦マーチをかけてね。


そうすると心が躍るわけですよ。
きょうも絶対負けないぞと。


要するに、普通のことをやっていたら勝てないんで、
アメリカ人ができない、やらないことに
挑戦しなければ勝てない。


脳外科の手術はABCDとあるんです。
Aは単純で易しいやつ、
Bはちょっと難しい。
C、Dはコンプレックス、ディフィカルト
と言って、極めて難しい。
私はCD専門なんです。


ですから毎日が戦いでね、
絶対に合併症を起こさないぞと。
訴訟天国のアメリカで、
今日まで22年間やってきて
1回も訴えられていません。


私の信条は患者さんのために全力を尽くす。
私は全人生を、全情熱を
患者さんとその家族のために尽くしているので、
手術室に入った時から
この患者さんが安全に手術をして、
最高の結果で手術室を出ていくまで戦いなんですね。


ただ、やっぱり人間に完璧はあり得ない。
年間600やっていて、
合併症がどうしても2、3人出るんですよ。
これだけは辛いですね。

合併症を引き起こす確率では、
他の医師が10%、20%、30%のところを
私は1%以下でいっていますけど、ゼロじゃない。

夜寝る時に「明日の手術は大丈夫かな」
という不安は常にあります。

だから、最後は神様を信じるしかないんですよ。
自分が一所懸命、患者さんのために
全力を尽くしてやっていれば、
必ず神様は味方してくれる。
そういう信念を抱いて手術に向かっています。

日本人は大事な仕事場や神聖な場所に入る時、
白足袋を履くでしょう。

私にとってオペ室は歌舞伎役者の舞台と同じ。
だから日本でもアメリカでも、
手術に臨む時は白足袋を履いているんです。

     
  福島孝徳(デューク大学教授)

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01月21日(火)

起床時刻:05時22分



「グリーンファーザー・杉山龍丸の生涯」
         
     
  杉山満丸(九州産業高校教諭)



インドで「緑の父」と尊敬される日本人ですが、
その名前や功績は殆ど知られていません。


私財を投じ、不毛の地と言われたインドに植林し、
稲作や農作物ができる土壌に変え、
多くのインド人を飢餓から救いました。


その知られざる生涯。


龍丸が初めてインドを訪れたのは
昭和37年、43歳の時でした。


数か月にわたりインド国内の現状を
つぶさに見て歩きました。


同年12月、パンジャップ州の
総督と面会した際、


「インドの生活を豊かにするためには
 どうしたらいいか」


という質問に対し、龍丸は


「木を植えることです」


と答えます。


当時、インドは食糧不足で、
街には物乞いの人が溢れ、
餓死者も後を絶たない状況だったのです。


原因はインドの砂漠化でした。
インドは古代より森の木を切り倒し
文明を開いてきたため、
土地がやせ、大地の水がなくなり、
地面が乾燥し、不毛の地となってしまっていたのです。


龍丸はパンジャップ州の植林事業の指導を
引き受けることになりました。


周辺の地形を調べると、
首都デリーからアムリッツァル市までの
約470kmの国際道路は
北側のヒマラヤ山脈と並行していることに気づきます。


この道路に沿って木を植えていけば
根が地下に壁のようなものをつくり、
そこにヒマラヤに降った雨を溜めることができ、
大地に水分が蓄えられ、
穀物や野菜を育てることができると考えたのです。


植えるのはユーカリにしました。
根が深く伸び、生命力も強く、何より成長が早い。
さらに成長すればパルプや建築資材として
売れることも魅力でした。


それから間もなくのことです。
龍丸の下にインドで大飢饉が発生した
との連絡が入ります。
この飢饉は3年にもおよび、
実に500万人もの餓死者が出ました。


「この飢饉を救う方法を教えてください」


インドにいるガンジー翁の弟子たちからの懇願に、
龍丸は黙っていられませんでした。


活動資金をつくるため、
父の茂丸、祖父の久作から譲り受けた
4万坪の杉山農園の土地を切り売りすることに、
なんの躊躇もありませんでした。


再びインドへ渡った龍丸は、
何百、何千という餓死者の亡骸と、
生きるために物乞いする子供たちを目の当たりにし、


「この地獄から一刻も早く
 人々を救わなければならない」


と、改めて一刻も早く木を植え、
森をつくることを誓ったのでした。


ユーカリの植林事業はデリーからアムリッツァルまでの
470kmの国際道路沿線両側に、
2本ずつ、4m間隔で植えることにしましたが、
当然現地の人たちの協力が必要になります。


最初は突然やってきた日本人の申し出に
訝る人たちも多かったことでしょう。


しかし、龍丸の説得により
地域の農民たちを巻き込んでの
植林事業はスタートしました。


「タツマルは私たちの心と話した」


とは、一緒に木を植えた方からの言葉ですが、
私心のない龍丸の情熱が言葉の壁を超え、
彼らに伝わったのでしょう。


そうして、7年の歳月をかけて
470kmものユーカリの並木が完成し、
その周辺の土地は水分を含んだ土壌に
代わっていきました。


しかし、本当の挑戦はこれからです。


  * * *

この後、龍丸は2つの奇跡を。

byちち

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01月20日(月)

起床時刻:05時54分

感情を伝えたのは君にだけ!
返事はいらないよ

突然、勝手に、つぶやいた。
君のことを考えず。

ああ~、しあわせだ。

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01月16日(木)

起床時刻:05時02分

01月14日(火)

起床時刻:02時07分


  「すべてのものに意味がある」
 
   猪熊隆之(ヤマテン社長)

2011年10月、日本初の“山岳気象予報”を専門とした
「株式会社ヤマテン」がスタートした。

以来、80歳でエベレスト登頂を成し遂げた
三浦雄一郎氏を支援するウェック・トレック社、
プロ登山家・竹内洋岳氏をはじめ、
テレビ局、ツアー会社など、
様々な方々に山の天気予報を
提供している。

1970年、新潟県に生まれた私は、
小さい頃から気候の変化に異常な執着を見せ、
学校の勉強そっちのけで天気研究に没頭。

高校に上がる頃には「将来は気象庁に」
との明確な夢を描くようになっていた。

中央大学入学後、本格的に始めた登山にのめりこみ、

元来自然に親しむのが好きだった私は、
1年間の3分の1を山で過ごすなど、
たちまち登山にのめり込んでいった。

しかし、技術も身につき、
いよいよ登山が楽しくなってきた
3年生の冬、事故は起きた。

富士山での雪上訓練の際、
突風で飛ばされ、
250メートルもの
“氷の滑り台”を滑落したのです。

救助は難航し、助けが来たのは
滑落から25時間後。
左足は粉砕骨折、骨は飛び出し、
患部を診た医者には
即座に「これは切断だ」と告げられました。


待っていたのは、
呼吸困難を起こしたため
麻酔なしでの10時間に及ぶ大手術。


「首から下をちょん切ってくれ」と
心の中で何度も叫ぶほどの凄まじい苦痛でした。


幸い奇跡的に手術は成功し、
足を切断することなく
私は2年ほどで登山に復帰。


しかし、この時の怪我が10余年の時を経て
私の人生を大きく変えていくことになるのです。


大学卒業後は一旦旅行会社に就職しますが、
山への思いは抑えきれず1年ほどで退職。


その後の10年は、
劇症肝炎で1年の中断はあったものの、
登山ガイドなどをしながら、
お金を貯めては山に行く、というように、
登山に人生のすべてを注ぎ込んでいきました。


しかし、2005年9月、
最も恐れていた病が私を襲います。


トレーニングを終えて足を見てみると、
富士山の事故で負った傷口から
膿や血液が溢れ出ているのです。


慌てて行った病院で宣告された病名は「慢性骨髄炎」。
完治が難しい骨が腐る病気で、
滑落時の負傷で骨に細菌が入っていたことが原因でした。


当初は、

「症状が落ち着けばまた山に登ろう」

と考えていた私も、
痛みと痺れで日常生活すら
ままならなくなるにつれ、
事の深刻さを理解しました。


もう、山に登ることはできないのだ……。
私は必死に山から離れようと
登山関係の道具や写真をすべて処分していきました。


しかし、この病気と一生付き合っていく覚悟を決めた時、
ふとあることを思いついたのです。

  * * *

その後、私は山岳気象予報士としての道を確立していったのです。

byちち

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01月13日(月)

起床時刻:04時30分

01月12日

起床時刻:05時30分

01月11日

起床時刻:03時30分

01月10日(金)

起床時刻:03時30分

01月09日(木)

起床時刻:02時30分

01月08日(水)

起床時刻:02時30分

01月07日(火)

起床時刻:04時42分


「困難や逆境とハーモニーを
     奏でることで人生は花開く」
         

    川上ミネ(ピアニスト)

昨年、2013年が日本スペイン交流400年という
記念すべき節目の年だった。

両国の交流の起源は江戸時代、
時の仙台藩主・伊達政宗の命を受けた
支倉常長率いる慶長遣欧使節団が
スペインへと渡ったことに遡る。

昨年は、交流400周年を記念して
日本、スペイン各地で
音楽会やセレモニーが行われたが、

その「日本スペイン交流400年事業」の
公式ピアニストとして作曲、演奏活動に尽力されたのが
世界的なピアニスト・川上ミネさんです。

3歳でピアノを始め、18歳で渡欧。

当時の日本人留学生はお金持ちの家が多く、
私の家は貧乏ではなかったけれど、
親との約束で自分の学費と生活費は
すべてアルバイトで賄っていました。

それが気に入らなかったのか分からないですけど、
彼らから物凄くいじめられました。


ただ、もっと致命的だったのは大学卒業後、
同時通訳とピアノ演奏の仕事をしていた時に
腕が動かなくなってしまったことでした。


ピアノをやっている人はよく罹るんですよ。
要するに腱鞘炎です。


私も高校生の時から予兆はあったんですが、
指がずっと震え、ピアノの前に行くと
腕に激痛が走るようになってしまい、
全く弾けない時期が続きました。


加えて、ピアノの音が聞こえてくるんですよ、
誰も弾いていないのに。


夜中も耳鳴りのように
ピアノの音が聞こえるようになって、
もう発狂しそうで……。


どこに行っても逃げられなくなり、
何もかもが嫌になって、
いよいよ大爆発してしまった。


それでピアノと楽譜以外を処分し、
全財産を持ってマドリッドへ飛んだんです。


なぜマドリッドかというと、それは


直感です(笑)。
でも行った瞬間に確信を得ました。


ドイツのミュンヘンから飛行機に乗って、
フランスまでは分厚い雲に覆われていて
外が何も見えないんです。


で、フランスとスペインの国境にある
ピレネー山脈を越えるとそこからは雲一つない。


その快晴の空を見た瞬間、「よし、決まった」と。
目に映る景色の変化と自分の心の移ろいが
重なり合うのを感じてマドリッドの地に降りました。


もう一目惚れしまして、
広場のベンチでしばらく景色を堪能していたんです。


そうしたら、急にナイフを突きつけられて「出せ」と。
パスポートや財布、両親からもらったお守りも
全部盗られました。


希望に胸を膨らませていた矢先に……。


いや、それが腹の底から
湧き起こってくる喜びっていうんですかね、
これは楽しくなってきたぞって感じたんです。


絶望的な感情はなかった?


全く反対ですね。
まあ、その後で野宿しなきゃいけなかったから
大変でしたけどね(笑)。


でも、人間って面白いもので、
無一文になると絶対に強くなるんですよ。
覚悟ができる。


とにかく迷っている暇もないので、
まず所属していた通訳会社に電話で事情を話して、
「すみません。速攻で仕事ください」と。


当時、物価が安かったスペインでは
同時通訳の仕事は物凄く給料がよかった。


そのおかげで住まいを借り、
語学学校に通えて、
マドリッド国立音楽大学院にも
入学することができたんです。


そんなある日、
友達から面白い演奏会があるから行こうよと
誘われました。


 川上さんの人生を変えることになる
 あるピアニストとの出会い。

byちち

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131113/ent13111310040005-n1.htm

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01月06日(月)

起床時刻:02時29分

01月05日

起床時刻:04時29分

01月04日

起床時刻:03時29分

01月03日(金)

起床時刻:03時29分

01月02日(木)

起床時刻:04時29分

01月01日(水)

起床時刻:01時29分


「どんなことがあっても、名誉と約束だけは重んじるのだよ」と、
 毎日のように言って聞かせたナポレオンの母。

「貧乏は恥ではない。貧乏に負けることが恥なのだ」
 と教えた西郷隆盛の母。

 いずれも、我が子を信じて成長を願う
 深い祈りと無償の愛が伝わってくる。

 子供に備わる才能を花開かせるか否かは、
 母親の接し方にかかっている。

 森信三師は
「民族の将来は女性のあり方いかんによって決まる」
 と言われました。



 彼(リンカーン)の家はとても貧乏でした。

 リンカーンが学校に上がる頃、
 彼の服装は同年代の子どもたちのからかいの的でした。

 新しい服を着ることができず、
 いつもツギハギのあるみすぼらしい服を着ていたからです。

 からかいに耐えかねた彼が母ナンシーに訴えかけたとき、
 彼女は彼を抱き寄せてこんな言葉を返したと言います。


「息子よ、まずこの家の家計を考えねばなりません。

 わたしたちは裕福ではないのです。

 家族みなが食べてゆくことさえ
 思うままになりません。

 そんな状態なのに、
 あなたはきれいな服が欲しいと言えますか?

 自分の家の状態にふさわしくふるまいなさい。

 いずれあなたは自分にふさわしい状態になります。

 他の人の言葉にいじけてはなりません。

 自信をもって生きなさい。

 自信こそすべての成功の根源です」

 この時以来、
 リンカーンは大いなる自信を持ち続けたと言います。

 経済的に裕福でないためにくじけそうになってしまうときにも、
 彼は決して自信を失わずにたゆまぬ努力で勉学を続けました。

 自信が彼の最大の武器となったのです。

byちち

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