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起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:04:30 平均起床時刻:04:21

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05月29日(木)

起床時刻:04時19分

05月26日(月)

起床時刻:03時16分


   「人生を大成させるための心得とは?」
        

 人生は順逆の連続という。


 順逆をこえるとは、
 順境にも逆境にも
 負けない自分を創るということである。
 
 本紙にもなじみの深い
 聖路加国際病院の日野原重明先生──。
 この方の百年の人生にも、
 順境逆境は繰り返されたろう。
 
 それを超え、いまなお
 使命に生きておられるお姿には
 神々しさがある。


  
 1970年、
 日航機よど号ハイジャック事件があった。
 日野原先生はその機中にいた。
 58歳だった。


 事件4日目、乗客は全員無事、
 韓国・金浦空港で解放された。
 靴底で大地を踏みしめると、
 「無事地上に生還した」の思いが膨らみ、
 
 これからの人生は
 与えられたもの、
 人のために生きよう、
 という決意に繋がっていったという。
 
 帰国した日野原先生を、
 1000人を超す人たちからの
 お見舞いやお花が待っていた。
 
 その礼状に奥さまが書き添えられた。

 
 「いつの日か、いづこの場所かで、どなたかに、
  この受けました大きなお恵みの一部でも
  お返しできればと願っております」
 

 この言葉が日野原先生第二の人生の指針となった。
 
 昨年末、NHKテレビで
 日野原先生のドキュメント番組が放映された。
 
 インフルエンザで39度の熱がありながら、
 子供達との約束だから、
 と地方講演に向かわれる姿をテレビは映し出していた。
 

 その先生が作られた俳句がある。
 
  “百歳はゴールではなく関所だよ”

 人生の順逆にほほえみを持って
 立ち向かわんとする姿が、この句に表われている。

 「順境にいても安んじ、
  逆境にいても安んじ、
  常に坦蕩々として苦しめるところなし。
  これを真楽というなり。
  萬の苦を逃れて、
  真楽を得るを学問のめあてとす」
  
 中江藤樹の言葉である。
 
 順境の時、人はつい慢心しがちになる。
 順境にあって傲慢にならず、
 謙虚に心を落ち着かせている。
 
 逆境の時もへこたれず、
 心が安定している。
 どんな状況でも心が平らかでゆったりとし、
 状況に振り回されない。
 それを真の楽しみという。

 この真の楽しみを得るために、
 そういう人物になるために学ぶのだ、
 と藤樹は学問の要訣を説いている。
 
 人生を大成させる人は一様に、
 この要訣を体得した人であろう。

byちち

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05月25日

起床時刻:04時16分


   「人の上に立つ者に求められること」

中国の古い昔、ほううんという坊さんが
師匠に弟子入りを願い出た。

禅門は簡単に入門を許さない。

玄関で待っていると師匠が現れ、
いきなり桶の水をバサッとかけた。

他の志願者は皆腹を立て帰っていったが
ほううんだけは残り続け、入門を許された。

弟子になって間もないある日、
師匠が外出した。

ほううんは蔵に入り、普段は食べられない
ご馳走をつくって皆に振る舞った。

ところが、思いがけず
予定より早く師匠が戻ってきた。

師匠は激怒し、ほううんを寺から追い出したばかりか、
ご馳走した分を町で托鉢してお金で返せ、と要求した。

ほううんは風雨の日も厭わず托鉢を続け、
ようやくお金を返した。

すると師匠は、

「おまえが托鉢している間、
 野宿をしていたのは寺の土地だから家賃を払え」

と迫った。

ほううんはその言葉に従い、
また黙々と托鉢を続けた。

その様子をじっと見ていた師匠は弟子を集め、
自分の後継者が決まった、と宣言し、
ほううんを皆に紹介した──。

弊社主催の徳望塾で、
円覚寺の横田南嶺管長が述べられた話である。

これに続いて、横田管長はご自分のことを話された。

横田管長は45歳で円覚寺の管長に選ばれたが、
なぜ自分が選ばれたのか分からない。

ただ一つ、これかなと思うものがある。

それは「ここを離れない」という一事。

どんなことがあってもここから離れない。
ここを見限らない。ここに踏みとどまる。

自分が貫き得たのはこの一つ。

それを師匠は見てくれていたのではないか、
と横田管長は話されていた。

ここを離れない──
長の一念はここに始まり
ここに尽きるのではないだろうか。

国であれ会社であれあらゆる組織はそこにいる長が
どういう一念を持っているかで決まる。

それがすべてといっていい。

すぐれた長には共通して2つの条件があることを強く感じる。

byちち

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05月24日

起床時刻:04時16分

    「それでも僕はあきらめない」
      ~絶望からの復活~

      長屋宏和(レーサー)


2002年10月11日、
私は三重県鈴鹿サーキットのピットに立ちました。


「F1ワールドチャンピオンになる」


という少年時代からの夢を叶える最高の舞台
「フォーミュラドリームスーパーチャレンジレース」に
出場することが決まったのです。


「すべての観客に“長屋宏和”という名前を覚えさせてやる」


そう闘志を燃やしていた私でしたが、
まさかその後、このレースで大事故を起こし、
突如として絶望のどん底へと叩き落とされることになろうとは
夢にも思っていませんでした。


その運命の日から遡ること10年。
13歳の私は同じ鈴鹿サーキットの観客席で
身の震えるような感動を味わっていました。


身体が弱く学校でいじめに遭っていた私を励まそうと、
幼馴染みがレースを見に行こうと誘ってくれたのです。


腹の底から響く爆音、
一瞬にして走り抜けていくスピード、
興奮と熱気溢れる歓声の渦……。


「すごい!すごすぎる!
 自分もやってみたい!」


私の人生が決定づけられた瞬間でした。


すぐさま実家の東京から通える
八王子のカートチームに所属することを決め、
平日は学校、週末はレース三昧という生活が始まりました。


1996年の地方選手権出場を皮切りに、
私は順調に実力をつけていきました。


翌年には全日本選手権出場、
99年にはフランスに留学。


日本中探しても、私以上にマシンに乗っていたドライバーは
いないだろう、と思えるほど練習に明け暮れました。


そして2001年、ついに私はF1への登竜門
「F3」への参戦を勝ち取ったのです。


しかし肝心のレースでは思うような結果が出せなくなり、
焦りを募らせ始めたのもこの頃でした。


「大舞台で結果を残し、皆に実力を見せつけなければ……」


そんな時に舞い込んできた大舞台が、
事故を起こした「チャレンジレース」だったのです。


私が意識を取り戻したのは事故から2週間後。


事故で記憶の一部が抜け落ち、
私は自分がなぜ病院にいるのかさえ理解できない状況でした。


さらにベッドに寝たきりで声も出せない、
指一本動かせないのです。


いったい自分はどうなったんだと、
しばらくは不安と恐怖で涙が止まりませんでした。


「治療すればまたレースに復帰できるから頑張ろうな」


事故を起こしたことを教えられ、
家族や友人たちに“治る”と励まされても、
「どうせ心の底では皆笑っているのだろう」と素直になれない私がいました。


2003年1月、東京の病院に転院し、
かろうじて声が出せるようになった私は、
思い切って担当医に本当の病状を尋ねてみたのです。


しかし、返ってきたのは非情な宣告でした。


「現代の医学では頸椎損傷を治すことはできません。
 レースどころか一生車イスでしょう」


なぜ自分がこんな目に遭わなければいけないんだ!
私は絶望のどん底に突き落とされました。


それと同時に、家族や友人に嘘をつかれていた
との悔しさが込み上げてきたのです。

その夜、絶望の淵に立たされた
長屋さんを救ったのは友人の一言でした。

byちち

それまで長屋がなりわいとしていたフォーミュラレースが個人プレイなら耐久はチームプレイ。たとえ、独走で一位で走っていても最終周でクラッシュしてしまえばリタイアであって、耐久レースでそれは評価にならない。自分だけが力んでも仕方がない。確実に、無事に次のドライバーにクルマを渡すこと。耐久はリレーのバトンに似ている。
「絶対に前を抜く、相手に勝つ…ということだけしか考えていなかった」これまでのレースとは全く違う世界だ。
「レースは勝負。レースは勝つこと以外は負けだと思っていましたから」

その気付きはまさに天啓のようだったのだろう。何とかして次のドライバーにつなげる。チームとして完走する。コース上にいたまさにその時、突然、長屋は気がついた。
「僕はここで無理をしてはいけない。無理してクラッシュしたら皆ががっかりするし、そういう顔を見たくない」
目標に向かって皆で何かを成し遂げること。そのために自分ができることを全うすること。勝つだけではないレースのカタチがそこにはあった。

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05月23日(金)

起床時刻:05時16分

05月22日(木)

起床時刻:05時16分

05月21日(水)

起床時刻:04時16分

05月20日(火)

起床時刻:05時11分



    「赤字経営から町工場の星へ」
        

    諏訪貴子(ダイヤ精機社長)
   
      
たくさんの町工場がひしめき合う東京都大田区で、

「町工場の星」と呼ばれ、政府からも注目されているのが

精密金属加工メーカーのダイヤ精機。


バブル崩壊後、赤字が続いていた中、32歳の若さで父親から

社長のバトンを受け継ぎ、経営再建を果たした諏訪貴子さん。


いやぁ、もう必死以外の何物でもないですよね。

亡くなったのも突然で、何も事業継承していませんでしたから。


だから、最初の一年の記憶ってほとんどないんですよ。


いつ起きていつ寝たかも覚えていないくらい。そのくらいガムシャラでした。


まず会社のことを誰よりも知っているというくらいにならなければダメだと思い、

総務室や経理室にこもって過去30年分の資料を読み込み、経営分析をしました。


また、数字で結果を残すことが大事だと考え、何度も進言したリストラを断行して

社員数を22名に減らし、さらに社内改革3年計画に着手しました。


昔大手に勤めていた時に上司から


「3という数字を効率よく仕事に取り入れなさい」


と言われたことを思い出し、間延びすると改革ではなく改善になると思い、

3年と打ち出したのです。



最初の1年は意識改革。

この厳しい経営状況の中で、いきなり社長が亡くなって娘に交代した。

自分たちは生まれ変わらなければならないという意識づけが一番重要だと思いました。

具体的には、まず教育ですよね。

朝の挨拶の指導から始まって、

「はい、“整理整頓”の意味を言ってみて」というところからのスタートです。

「整理」は要るものと要らないものを分けて、要らないものは捨てること。

「整頓」は要るものを使いやすく並べることです。

意味をしっかり理解することで行動に差が出ます。

「はい、いま意味を教えたから、 これから現場に行って要らないものに

テープを貼って、捨てていきましょう」と。


大手は「教育する・される」ということが当たり前ですが、町工場はそうじゃない。


だから製造業の物の考え方やPDCAなどの意味を教えて、

実践させて、教育効果を確かめると。


それから先代のトップダウン型からボトムアップ型の組織に変更し、基礎固めをしました。



やはりリストラを断行した時、翌日は本当に全員が敵に回ったような空気でしたよ。


社長就任は彼らに頼まれたことですが、

社長の椅子に座ってくれとは言ったけれど、

経営してくれとは言っていないわけです。


だから最初の半年は、
それこそ「てめぇ、このやろう!」の世界で大ゲンカですよ(笑)。


でも、感謝しているのは、ああだこうだと言い合っても、

一歩外に出ると私を社長として扱ってくれた。


私も、これは先代の姿から学んだことですが、

「3秒ルール」と決めて、どんなに言い合っても

3秒後には「きょうは寒いね」と声を掛けて、絶対に引きずらない。


あなたのことを嫌いなのではなく、

仕事において厳しいことを言っているのだ、

というメリハリをつけることを心掛けてきました。


逃げずに向き合ってきたからこそ、

強い絆で結ばれたし、信頼関係が生まれたと思います。


いまは互いに笑い話ですが、あの当時は必死でしたね。

 * * *

その後、2008年のリーマンショックで会社の売り上げは半減。

どん底からいかにしてV字回復を実現させたのか。


byちち

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05月19日(月)

起床時刻:03時14分 05時14分

05月18日

起床時刻:05時14分

レーサム ゴルフ

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05月17日

起床時刻:04時14分

レーサム ゴルフ
高崎ビューホテル

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05月16日(金)

起床時刻:04時14分

定期血液検査

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05月15日(木)

起床時刻:04時14分

05月14日(水)

起床時刻:04時09分

05月13日(火)

起床時刻:03時09分

05月12日(月)

起床時刻:04時00分


母の日にちなんで、母と娘の感動実話。

企業の商品の広報や、元サッカー日本代表の中田英寿選手、
陸上の為末大選手などのスポーツマネジメントを手掛ける
PR会社の「サニーサイドアップ」。

2012年には電通PRを抜き、
業界売り上げ1位にまで急成長しました。

いまから29年前、東京・中野の
ワンルームマンションの一室で会社を起こし、
今日へと発展させてきたのが創業社長の高橋恵さんです。

事業発展の要因には、ある秘訣がありました。

それは高橋さんがお母様の姿から学んだ
「おせっかいに生きる」という信条だったといいます──。

私のおせっかいの原点には、
子供時代の辛い経験がありました。

「何で戦死してしまったの。
 手がなくても足がなくても、
 生きて帰ってきてほしかった!」

そう泣き叫ぶ母のそばで、
10歳の私は、姉と妹とともに、
一緒に泣いていました。

良家に生まれた母でしたが、
幼くして両親を、大東亜戦争で夫を亡くしました。

戦後始めた事業もほどなく倒産。
手のひらを返したような世間の冷たさに晒され、
押しかける債権者に家財道具一切を持ち去られました。

母の指から父の形見の真珠の指輪を
強引にもぎ取る姿がいまも目に焼き付いています。

母はこの時、一家心中の瀬戸際にまで
追い込まれていたのでしょう。

しかし、それを子供心に感じた時、
ガタッという物音が玄関から聞こえたかと思うと、
ガラス戸に一枚の紙切れが挟まっていました。

そこにはこう書かれていたのです。

「あなたには3つの太陽(子供)があるじゃありませんか。
 今は雲の中に隠れていても、必ず光り輝く時がくるでしょう。
 それまでどうかくじけないでがんばって生きて下さい」

その手紙を読み聞かせながら、
母はハッと気がついて、
ごめんね、ごめんねと謝って抱きしめてくれたのです。

おそらく私たちの窮状を見かねた
近所の方だったのでしょう。

人間のちょっとした優しさに、
人の命を救うほどの力がある──。

この時の強烈な印象、
そして一家を養うために身を粉にして働く母の姿が、
私のおせっかいの原点となったのです。

しかし、苦しい生活は終わることなく、
このままでは学校に通わせることもできないと、
母は私を知人の家に預けることを決断。

そして送り出された私を待ち受けていたのが
壮絶な“いじめ”でした。

空腹を我慢し、冬は霜焼けで10本の指がただれていても雑巾がけ。
手をついて謝っても、これでもかと足で頭を踏みつけられる……。

あまりの仕打ちにトイレで泣き明かすこともしばしばでした。
その小窓から見えた空と、その中を自由に飛び交う鳥たちの姿、
そして母に会いたいという哀しい思いは、
いまでも忘れることができません。

「自由に大空を飛ぶ鳥のように世の中を自由に、
 自らの力で生きていこう。
 そして、人間として、わけ隔てない生き方をしよう」

と14歳の時に誓ったのでした。

いま思い返すと、その後社会に出てからの私は、
子供時代の辛い体験と、母や見知らぬ人から受けた温かい愛情に
突き動かされるように幸せを追い求め、
無我夢中でおせっかいをばら撒いてきたような気がします。

「天知る、地知る、我知る。
 どんなに貧しくなろうとも、
 心まで貧しくなってはいけません」

「あなたには、あなたのいっぱい、
 いいところがあるじゃない」

苦しい生活の中で母が繰り返し唱えていた言葉です。

母はそのとおり、本当に思いやりに溢れた人でした。

無縁社会という言葉も聞かれますが、
どんなに忙しくとも、人を想う心さえあれば、
たった一言の言葉、たった一枚の紙切れでも、
人を救うことができるのです。

by ちち

不屈の精神は、逆境の賜物か?
貧乏、いじめ、逆境も人を育てる。

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05月08日(木)

起床時刻:03時43分

05月07日(水)

起床時刻:01時56分

05月06日(火)

起床時刻:02時56分

オリムピック・スタッフ都賀GC 帰路 BM ダウン! 11年間 8万キロ

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05月05日(月)

起床時刻:04時56分

白川高原GC 荒井氏 赤沼氏と雨のラウンド。プレー後泊。
相模湾震源 東京 5弱 渡辺淳一80逝

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05月04日

起床時刻:04時56分

IGC 予想外の渋滞。プレー後 荒井邸へ。

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05月03日

起床時刻:04時30分

IGC 予想通りの帰省渋滞 

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05月02日(金)

起床時刻:05時30分

05月01日(木)

起床時刻:05時30分