201608 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:04:30 平均起床時刻:02:46

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08月31日(水)

起床時刻:03時12分

08月30日(火)

起床時刻:03時47分

08月29日(月)

起床時刻:03時08分

08月28日

起床時刻:02時08分

08月27日

起床時刻:01時08分

08月26日(金)

起床時刻:02時07分

08月25日(木)

起床時刻:03時10分

08月24日(水)

起床時刻:03時48分

08月23日(火)

起床時刻:04時08分

08月22日(月)

起床時刻:00時11分

08月21日

起床時刻:02時11分

☆ リーダーに必須の3つの条件 ☆

井上 修(寒天シェア90%伊那食品工業社長)
   ×
上甲 晃(志ネットワーク「青年塾」代表)

リーダーに求められるのは「公平さ」「私欲に走らない」ってこと。


「リーダーは己のために図らない」己のために図ったらリーダーの資格はない。

リーダーが己のために図ったら、社員の士気はどんどん低下します。

もう一つ、「身を以て範を示す厳しさ」社長が範を示していなければ、
社員からすれば「また言うとるわ」と、こうなる。

「うちの社長の生きざまを見ていたら、 我われもそうせざるを得ない」
と思わせる その無言の教育力が大事だ。

会社が有名になり脚光を浴びてくると、心の中にある種の傲慢さが出てくる。
人を見下したり、部下を扱き使うとか。

人間はポジションが上がっていくと知らず知らずのうちに態度が大きくなったり
言葉尻が無神経になったりします。

逆境の時は誰でも謙虚になるんです。

byちち



☆ 恩を送る生き方 ☆

坂岡 嘉代子(はぐるまの家代表)

家庭的に恵まれなかった体験を持つ坂岡さんは、自宅に集まってくる不遇な
子供たちをどうしても放っておくことができなかった。

障碍のある子供や非行少年を集めて「和太鼓はぐるま」をつくった。


両親は再婚同士で、母には四人の連れ子、父には二人の連れ子がありました。
父は本妻さんを捨てて、母と一緒になったのです。

本妻さんは母を怨んで子供さんの前で首をくくって自殺されました。
その後に生まれたのが私です。

父は師範学校、早稲田大学を出た人ですが、母は表具屋の娘で身分も釣り
合わないというので、母方の子は皆奉公に出されました。

父方の兄は町で一番の学校に入れたのに、母方の兄はものすごく優秀だった
にもかかわらず学校には行けませんでした。

食事の時はお腹が空いていても「お代わり」すら言うことができない。

ですから、生い立ちは私にとって少しも幸せではなかったし、温もりを感じた
こともありませんでした。

母が教護院の子供たちを不憫に思って「あんた、あの子らの親になりなさい」

と言ったのは、教護院の子供たちの姿と、迷惑をかけた我が子の姿とが
重なり合ったからだと思うんです。


byちち

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08月20日

起床時刻:04時11分

08月19日(金)

起床時刻:01時48分

08月18日(木)

起床時刻:02時48分

08月17日(水)

起床時刻:00時36分

08月16日(火)

起床時刻:00時14分

08月15日(月)

起床時刻:02時14分

08月14日

起床時刻:01時14分


『子どもの心に光を灯す日本の偉人の物語』

日本人が、古くから大切にしてきたものの中に「惻隠(そくいん)の情」がある。

しばしば「思いやりの心」と訳されますが、惻隠の情と思いやりの心は全く
同じというわけではない。

思いやりの心を持つことはもちろん大事ですが、困っている人を見たら放って
おけない、つい手を差し伸べてしまった……。

そんな、やむにやまれぬ思い、行動を伴う思いやりが、「惻隠の情」なのです。

先人たちが大切に育んできた美徳を、当時は幼い子どもたちまで共有していた。


看護婦をしていた松澤フミさんという若い女性は、腸チフスにかかった子どもの
そばを、片時も離れませんでした。

当時、腸チフスは罹ったら最後十中八九死に至るといわれていました。

「この子は、もう助からない。それならせめて私の胸の中で死なせてあげたい」
と、フミさんはいっていたそうです。

彼女の献身的な看護を受け、その子は奇跡的に回復しました。
でも……。松澤フミさんはこの看病がもとで腸チフスに感染し亡くなったのです。


また、こんなポーランドの女の子の回想もあります。

「ひどい皮膚病にかかっていた私は全身に薬を塗られミイラのように白い布に
 包まれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。

 その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると布から出ている私の鼻にキスをし
 て、微笑んでくれました。

 私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らぬうちに泣き出していました」


第一次世界大戦を経てロシアから独立したポーランド。

しかし、すぐにロシアとの戦争が勃発し極寒の地シベリアには多くのポーランド
人の孤児がとり残されます。

その救済に乗り出したのが、当時の日本赤十字社でした。

日本に到着したとき、子どもたちはみな青白く痩せこけていました。

内臓の病気や皮膚病を患っていたり、栄養失調になっていたり……。

そんな彼らがひと夏を日本で過ごし、人々の愛情に包まれまるで別人のように
元気をみなぎらせていったのです。

それは大変に喜ばしいことではありましたが、しかしそれは同時に子どもたちが
故国ポーランドに帰る日が近づいていることを意味していました。

「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。
 太陽が綺麗で美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に……」

子どもたちは、そんなふうに感じてくれていたそうです。

そして、お別れの日。

送られるポーランドの子どもたちも、見送る日本人も、涙、涙、涙……。

765名に及ぶポーランドの子どもたちは、故国ポーランドに向けて順次旅立って
いきました。

子どもたちを送り届けた日本船の船長は、毎晩ベッドを見て回り一人ひとり毛布
を首まで掛けては子どもたちの頭を撫で熱が出ていないかどうかを確かめました。

「もしお父さんが生きていれば、お父さんの手は、きっとこんなに
 大きくて温かいんだろうなぁ」

と、薄眼を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。

この子たちは、帰国後孤児院に収容されそれぞれの人生をたくましく生き抜いて
いくことになります。

たったひと夏の経験でしたが日本人から受けた愛情が彼らの生きる力になった
ことでしょう。

byちち

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08月13日

起床時刻:04時14分

08月12日(金)

起床時刻:05時14分

08月11日(木)

起床時刻:03時14分

08月10日(水)

起床時刻:02時11分

08月09日(火)

起床時刻:02時34分

08月08日(月)

起床時刻:03時12分

08月07日

起床時刻:05時12分

08月06日

起床時刻:03時12分

08月05日(金)

起床時刻:02時54分

08月04日(木)

起床時刻:03時17分

08月03日(水)

起床時刻:03時19分

08月02日(火)

起床時刻:05時06分

08月01日(月)

起床時刻:00時08分


☆ 偉人たちの感動秘話 ☆

ドイツ留学で破傷風菌の純粋培養に成功し さらに破傷風の血清療法を開発する
世界的な業績を挙げた北里柴三郎は残念ながらノーベル賞受賞は逃したものの
欧米各国の大学や製薬会社などからヘッドハンティングの話が持ち掛けられた。

しかし 北里はどんな破格の待遇条件にも目もくれず日本に帰国する道を選んだ

日本の医学の発展のために 身を賭して学んだ北里の根底には留学期間延長の話
を持ち掛けた明治天皇への恩返しという思いもあったのだろう。

ところが日本に帰った北里を待っていたのは厳しい現実だった。
帰国し内務省衛生局に復帰したが 復帰とは名ばかりで 研究所はおろか研究室さ
えも与えられず もう半年近く無為な日を過ごしていた。

そんな折 内務省のかつての上司から「福澤諭吉に会ってみろ」と勧められた。
1892年(明治25年)の秋、北里は三田の福沢邸へと続く道を歩いていた。
福澤はすでに慶應義塾に大学部を設け、偉大な教育者として名を馳せていた。

北里の話を聞いた福澤は「この男に活躍の場を与えないのは国家の損失」と悟り
その場で「とにかく小さくても仕事を始めて それから方策を 考えればいい。
私が芝公園に借りている土地があるから そこに必要な建物を造ってスタートし
ようじゃないか 毎月の研究費も私が負担するから 費用を計算してくれないか」
と促した。後で分かったことだがその土地は福澤が子女の将来のために用意して
いたものだった。

福澤の大きさに圧倒され 勇躍の気構えを整えた北里は そこに六部屋の小さな
研究所を造り それを足場に研究陣を拡充した。
すると 北里の研究再開の知らせを聞いた各国の高名な学者たちがこぞって見学
に訪れるようになり 診察を望む患者も後を絶たないため研究所はあっと言う間
に手狭になってしまった。

そこで今度は北里自身が芝愛宕町に新しい研究所を建てようとしたが「伝染病」
という名称に過剰反応した近隣住民が建設反対運動を展開。さしもの柴三郎も
お手上げ状態になったが この窮地を救ったのは福沢だった。

建設予定地の隣に家を新築し 息子夫婦を住まわせたところ反対運動は嘘のよう
に沈静化。福沢の影響力の大きさを物語る話である。
北里にとって諭吉への恩は終生忘れ難いものとなった。

福澤が没して久しい1916年(大正5年)北里は慶應の鎌田塾長から 医学科を新設
したいとの相談を受けた。北里は即座に賛成し「福澤先生から受けた恩顧に報
いるのは この時である」と 設立委員会の中心となり 準備を進めた。

北里を知る前 福澤は慶應に医学所を設立したことがある。だが、経営不振のた
め短期間で閉鎖を余儀なくされていた。それ以来 医学科の設立は福澤の悲願で
あったが 生前にその夢を果たすことはなかった。

そのことをよく知っていた北里から「もし学校に経営不振が起こった場合には
北里一門を挙げて支える」と覚悟の表明があったことを塾長は述懐している。

1917年(大正6年)北里は初代医学科長に就任した。そして十年余の在職期間中
給与その他一切の報酬を固辞し 報恩の精神を貫き 無償でその任にあたった。

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