201710 <<先月 | 翌月>>

起床時刻推移グラフ

目標起床時刻:04:30 平均起床時刻:03:19

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10月31日(火)

起床時刻:01時39分

10月30日(月)

起床時刻:02時30分

10月29日

起床時刻:03時30分

10月28日

起床時刻:04時30分

10月27日(金)

起床時刻:04時00分

10月26日(木)

起床時刻:03時22分

10月25日(水)

起床時刻:03時20分

10月24日(火)

起床時刻:00時00分


「足なし禅師」と呼ばれた禅僧・小沢道雄師

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大正9年生まれの小沢氏は、幼年期に曹洞宗の専門道場で修行。戦争で満州へ赴きます。

昭和20年、25歳で敗戦。シベリアに抑留され強制労働。だが、肩に受けた銃創
が悪化し、役立たずは不要とばかり貨車で牡丹江の旧日本陸軍病院に後送。

氷点下4、50度の酷寒に夏服のままで、支給された食料は黒パン1個、
飲み水もままならず、3日間を費やした行程で死者が続出した。
小沢師は死こそ免れたが、両足が凍傷に侵された。

膝から切断しなければ助からない。その手術の担当軍医は内科医で外科手術は
それが初めて。麻酔薬もない。メスを執った軍医がしばらく祈るように目を
閉じた姿を見て、小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。

想像を絶する激痛。歯がギリギリ噛み合い、全身がギシッと軋んで硬直した。
すさまじい痛みは1か月余続いた。

八月に突然の帰国命令。歩けない者は担架に担がれ、牡丹江からハルビン、
奉天を経てコロ島まで、1,500kmを徒歩で行くことになった。

だが、出発して3日目の朝、目を覚ますと周りには誰もいなかった。
満州の荒野に置き去りにされたのだ。

あらん限りの大声で叫んだ。折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団
に救われたのは、僥倖(ぎょうこう)というほかはなかった。

崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小沢師は、福岡で再手術を受け、
故郷相模原の病院に送られた。

母と弟が面会に来た。

「こんな体になって帰ってきました。いっそのこと死のうと思いましたが、
 帰ってきました」

言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、小さく言った。

「よう帰ってきたなあ」

母と弟が帰ったあと、小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。

懊悩(おうのう=なやみもだえること)の日は続いた。

気持ちはどうしても死に傾く。その果てに湧き上がってきた思いがあった。

比べるから苦しむのだ。

比べる元は27年前に生まれたことにある。

27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。

両足切断の姿で今日生まれたのだ。

そうだ、本日たったいま誕生したのだ。

足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、痛いまんま、足がないまんま、
動けないまんま、生まれてきたのだから、何も言うことなし。

本日ただいま誕生!深い深い覚悟である。

 1、微笑を絶やさない
 1、人の話を素直に聞こう
 1、親切にしよう   
 1、絶対に怒らない


小沢師はこの4つを心に決め、58年の生涯を貫いた。

命の炎を燃やして生き抜いた足なし禅師の人生だった。

byちち 2007.6

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10月23日(月)

起床時刻:03時31分

日経平均 239高

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10月22日

起床時刻:03時25分

台風選挙 自民党スライド 希望の党惨敗
月例会 中止

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10月21日

起床時刻:03時25分



西端 春枝(大谷派浄信寺副住職)
  
石川 洋(托鉢者)


【西端】
石川先生ご存じだと思いますけれども、私は大谷学園という仏教の学校を出ております。
当時、左藤義詮(ぎせん)という校長先生がおられて、私が大谷にいる間、繰り返し繰り
返しおっしゃっていたのが「みてござる」という言葉でした。
その話のいわれを少しお話しさせていただいてもよろしいでしょうか。


【石川】
どうか、お話しください。


【西端】 
左藤先生は立派なお寺の住職さんで、後に大阪の知事になられた方ですけれども、
ある時大阪・船場の問屋さんにお説教に行かれるんですね。

その問屋の玄関に立った時、大きな扁額があり、平仮名で「みてござる」と書いてあった
らしいのです。上へ上がられたら応接間にも「みてござる」、
お手洗いにも「みてござる」、仏間にも「みてござる」の額が飾ってある。
 
それで左藤先生がご主人に「珍しいですね。扁額はよう読まない難しい字が書かれてある
ものなのに」とお尋ねになったら、ご主人は次のような話を始められたのだそうです。 
 
その方のお父さんは飛騨高山のご出身なのですが、小さい時に父親を亡くされて貧乏のどん底でね。
お母さんが「どうしてもおまえを養えないから」とおっしゃって、13歳で大阪に奉公に行かれるのです。

いよいよ明日は見知らぬ大阪に出発という日の晩、二人ともなかなか眠れない。
お母さんが「じゃあ、お話ししようか」と夜が白むまで子どもにお話をされました。

「貧乏でおまえに何もしてあげられなかった。何か餞別をしたいんだけど、それもできない。
物を買うお金もないので、火にも焼けないし水にも流れない言葉をあなたに贈ります」
 
そう言ってお母さんが平仮名で書いて、少年に手渡されたのが「みてござる」という言葉だったんです。

少年はその言葉を持って大阪に出るのですが、やはり辛い船場でのご奉公があって、ある時
淀川の堤防を歩きながら「辛いなあ、お母さん恋しいなぁ。この川にはまれば楽になれるのに」
と思っていたら、ふと「みてござる」という言葉が頭に浮かんで少年を引き戻すんですね。

それからも、先輩からいじめられたり、いろいろ辛い体験をされるのですが、
そういう時のお守りが常に「みてござる」だったといいます。


【石川】 
お母様の言葉を心の支えにされていたわけですね。


【西端】 
この方はやがて船場で店を張るまでに成功し、75歳でお亡くなりになられます。
臨終の場に息子たちや番頭さんを集めて「いろいろお世話になりました。私はおかげさまで
成功できたと思うけれども、それには、やはり目に見えない私を引っ張ってくれるものがあった。
それが『みてござる』という言葉なんや。どうか子々孫々に伝えて長くわが家の家宝としてほしい」
と言われたというんです。


【石川】 
ああ、それで「みてござる」という言葉が部屋に飾られていた。


【西端】 
私は左藤先生に7年ほどお世話になりましたけれども、法話の時間に「みてござる」という言葉を、
先ほどのお話以外にも聞かされたのでした。だからこそ皮膚の中から入ったのかなと思います。

左藤先生にしてみたら「言わずにおれない」というお気持ちだったのでしょう。本当の教育者でした。
 

byちち

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10月20日(金)

起床時刻:03時25分

10月19日(木)

起床時刻:04時03分

10月18日(水)

起床時刻:04時03分

Porsche golf Cup 紫カントリークラブすみれコース
45+45=90-14.4=75.6 55位

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10月17日(火)

起床時刻:03時46分

10月16日(月)

起床時刻:04時06分

10月15日

起床時刻:04時06分

慈眼寺住職・塩沼亮潤大阿闍梨


往復48キロ、高低差1,300メートルの山道を毎日、16時間かけて9年間歩き続ける大峯千日回峰行──。

驚異の荒行の満行を果たしたのは、吉野・金峯山寺1,300年の歴史の中で、
たった2人しかおられません。

……………………………………………………………………………………………………………

平成3年5月3日、目を開けた瞬間から千日回峰行者になるための自分の定めが始まりました。

目を開けると身体の重い日もあります。

調子の「いいか悪いか」ではなく、「悪いか、最悪か」のどちらか。
スレスレの中を行じていくので、起きた瞬間足が動かない日もある。

1度行に入ると医者に行くことも許されません。
ある日、突然右目が充血して腫れあがってきたことがありました。

1週間たってもどんな薬をつけても治らず、徐々に不安が募ります。
どうしてだろう、といくら原因を考えても分からない。

その時に、当時23歳という若さゆえ、命の1つや2つ落としても
なんてことはないという気持ちでいた自分のことが省みられました。

あんなに大きなことを言っていた人間が、右目一つ霞んだだけで
こんなにも不安になっている。

そう思った瞬間に、「神仏から頂いたこの命は決して粗末にしてはいけない」という
戒めだったのだと気づいたのです。

それから数時間後には目の腫れが引き、次の日には元どおりになっておりました。

私が修行させていただいた吉野の金峯山寺は特に山道が険しく、真夏の暑さは大変厳しいものです。

ある時、目の前に1匹のミミズが半分以上干からびて苦しそうにもがいておりました。

10メートルほど行った時、このまま自分が見殺しにすれば息絶えてしまうだろうと思いました。

水筒にはわずかな水しか残っておらず、炎天下でどこにも水はございません。

しかし、いくら苦しいからといって、自分のことだけを考えるようでは行者失格。

誰が見ていなくても、すべて困っているものに手を差し延ベてやるのが
行者としての役目ではなかろうか。

そう思い直し、そのミミズの所まで戻って杖で穴を掘り、自分の水筒の水を口に含み、
体にかけて土に戻してやりました。そのようなミミズが数百匹はいるでしょう。

いまでも一番苦しかったと思うのは、10日間高熱と下痢が止まらず、
体が10キロ以上痩せた時です。
495日目、とうとう一時間ほど寝坊をしてしまいました。

高熱の中ふらふらになりながら滝に入り、着替えをしてなりふり構わず山に向かいました。
しかしついに力尽きて、両の手に水を持ったまま、地面に体を打ちつけました。

「ここで終わりか」

その瞬間、耳に響いた言葉がありました。


「どんなに苦しくても、砂を噛むような思いをして立派になって帰ってこい」


高校を出て仙台から出発する前、母に言われた言葉でした。

by ちち

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10月14日

起床時刻:04時06分


行徳 哲男(日本BE研究所所長)



一昨年、私はある人から招待状をいただき、「屋根の上のヴァイオリン弾き」という芝居を見に行った。

大変感動的なドラマであった。

71歳になった森繁久弥さんが、3時間、舞台で踊り、歌い、演じ続け、場内は大歓声の中で終わった。

最後に、森繁さんが「皆さん、ありがとう」といって手を振った。彼の目には涙があった。

聞くところによると、森繁さんは、18年かかって840回、この芝居をやり尽くしたという。

芝居小屋を出る時に歩けなくて、付き人に支えられて車に乗ったこともあるそうだ。

それだけ舞台に精魂を使い果たしているのであろう。

私は見終わって、フラフラして立ち上がることができなかった。そのまま席に座りこんでしまった。

数日後、国電で神田駅を通り過ぎようとした時、ビルにかかった垂れ幕が目に入った。

先日見た「屋根の上のヴァイオリン弾き」の垂れ幕であった。

そこには「どうかこの感動を親から子供たちに」と書いてあった。

それを見たとたん、私の目から涙がどっとあふれてきた。

わけもなく流れてくる。生命の底から込み上げてくるものを、私は抑えることができなかった。


日曜日に洋画の解説をされる淀川長治さんという方がいる。

淀川さんはブラウン管から消えていく時、「さよなら、さよなら、さよなら」というのであるが、
不思議なくらいに余韻が残っている。

一体、なぜ、淀川さんの「さよなら」が余韻として残るのだろうか。

淀川さんはこんなことがあったそうである。

ある時サイン会があった。
サイン会も終わり、会場を出た時、突然小さな子供が寄ってきた。

その子は「おじさん、握手をしてください」と左手を差し出してきた。

淀川さんは、「ぼく、失礼なことだよ」といってその子の左手を払いのけ、
待機していた車に乗り込んでしまった。

淀川さんは海外によく出掛けるので、海外でいきなり左手で握手を求める
ことは大変失礼なことであるから、やってはいけないことだと知っていた。

車に乗り込んでから、ふともう一度その子を見た。

淀川さんはハッと思った。

その子には右手はなかったのである。

淀川さんは車から飛び降りてその子を抱きしめ、「おじちゃんを許しておくれ」といって、
その子と一緒に涙を流して泣いたという。

このようなエピソードの中に、私たち現代人が忘れた大事な忘れ物がある。

豊かで恵まれた中に、大事な大事な忘れ物をしているのである。

by ちち

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10月13日(金)

起床時刻:03時06分

10月12日(木)

起床時刻:03時38分

10月11日(水)

起床時刻:04時00分

10月06日(金)

起床時刻:04時31分

10月05日(木)

起床時刻:03時22分

秋田純米酒処

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10月03日(火)

起床時刻:03時00分

10月02日(月)

起床時刻:00時00分

10月01日

起床時刻:04時00分